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9-3 Singin' in the Rain

瑞穂と沙絵の父親は、佐藤さんと同じ職場――案件管理局で働いていた。かつて瑞穂が父親のことを語った際に耳にしたことだ。元々は榁に駐留する機動部隊に所属し、危険な区域や不審な存在の鎮圧にあたっていたが、沙絵が生まれた前後で一般局員の所属する部署へ異動したとのことだ。これ以上のことはあまり分かっていない。瑞穂と沙絵の前では仕事の話をほとんどしなかったからだ。無論守秘義務を守るためであったが、それ以上に娘たちの前では局員ではなく「父親」でありたかったからではないか、瑞穂はそう語っていた。

以前ペリドットを訪れた佐藤さんとは、上司と部下の関係にあったという。管理局に入ったばかりの佐藤さんに目を掛けて案件対応の手解きをし、一年も経たないうちに重要な戦力にまで育て上げた。上月さんには感謝してもしきれない、佐藤さんは折に触れて瑞穂にそう口にした。局の中では、困った時の相談役をしてくれてたよ、とも。

瑞穂と父親の歳は幾分離れていた。うろ覚えだが、三十は下らなかったらしい。歴史研究が趣味で、分厚い本をどこかから手に入れてきては読みふけっている姿をしばしば目にしていたという。今はハルが使っているあの部屋の蔵書はすべて父のものだ。父が手に取った書籍たちを瑞穂も沙絵も処分することができないまま、今も静かに部屋で眠り続けている。

「生真面目で不器用で……でも、優しいお父さんだった。間違いない」

「授業参観にはいつも来てくれたし、忙しくても必ずご飯を作ってくれたよ」

口数は少なかったけれど、愛娘である瑞穂と沙絵をいつも気に掛けていた、そんな父親像が伝わってくる。

「怒ってるところは見たことなかったね。何か言いたいことがある時は、必ず諭すように静かに言って、私と沙絵に正しいことを教えてくれたっけ」

声を荒げるような真似は一度としてせず、瑞穂と沙絵にそっと道を指し示す穏やかな父だった。

母親が榁を出てから、瑞穂と沙絵は父の男手ひとつで育てられた。新しい伴侶を得ることもなく、家族三人慎ましく暮らしていたわけだ。妻が失踪したことには何か思い当たるところがあったらしく、恨み言ひとつ漏らすことはなかった。そんな父の背中を見て育ったためか、瑞穂もまた、母はいなくなるべくしていなくなったのだ、と考えるようになっていった。

無論、自分と沙絵を残して消えてしまったことに、複雑な感情を抱かないはずはなかったのだけれども。

「お父さんを尊敬してるって言ったら、みんな笑うんだ。でも私、お父さんのこと本気で尊敬してたんだ」

母がいなくなって少ししてから、瑞穂は自発的に父を手伝って家事をするようになった。沙絵の世話をするようになったのもこの頃だ。沙絵がまだ立って歩けるようになる前に母が蒸発してしまったから、誰かが沙絵の面倒を見てやる必要があった。忙しい父に代わって、瑞穂がその役を受け持ったというわけだ。

友人たちと遊ぶことも滅多になく、部活動をするようなこともなく、学校が終わるとまっすぐ帰ってきて家事に勤しむ。傍目からすると苦労人のように見えていただろうけれど、瑞穂は一向に構わなかった。父を少しでも助けられれば、当時はその思いしかなかったと言ってよい。母親が担うはずだった役割を継いだのは、父を慕って尊敬していたゆえのこと。瑞穂には瑞穂なりの理由があったのだ。

瑞穂は高校在学中にペリドットでバイトを始め、卒業すると同時にマスターだった大槻さんから代理を託された。沙絵もジムに通い始めてやりたいことを見出し、自分の道を進むようになった。母がいなくなって一度は壊れかけた家族が、再び安定と安寧を取り戻した。

けれど。

「あの日は、すごい雨だったね。この世の終わりって思うくらいの――ひどい雨だったよ」

2014年の終わり。沙絵は十歳、瑞穂は二十歳になりたての頃。

集中豪雨が、榁を襲った。

豊縁全土を雨雲が覆い、あらゆる地域で凄まじい雨が降った。榁もまた例外ではなく、過去に前例のない程の激しい雨に曝されていた。バケツをひっくり返したようなという言葉が相応しい、いやそれ以上の勢いで降雨が続き、方々で甚大な被害が齎されていた。

この異常気象は「海原の神様」が目覚めたから起きたのだ、とまことしやかに語られている。豊縁には古来より「海原の神様」として信仰される存在が居り、それが何らかの理由で永い眠りから目覚めたのだ、というものだ。そもそも「海原の神様」なる存在が実在するか真偽のほどが定かではなく、所詮は空想・想像の域を出ない話ではある。

ただ――豊縁地方南西部で、得体の知れない「強い力」が観測されたのは事実だった。それが具体的に何だったのかは判然としない。尋常ではないいくつもの数値が記録として残されているばかりで、具体的な「何か」を特定するには至っていない。いずれにせよ、榁を含む豊縁全土で大規模な水害が発生した、これだけは誰しもが認める客観的な事実だった。

「お父さんは、雨の中を走ってたんだ。みんなを避難させるために」

瑞穂と沙絵を安全な小山中学校の体育館まで避難させてから、部下である局員たちと共に住民の避難誘導に当たっていた。不安そうな顔をする二人の娘に、父は「必ず戻る」とだけ伝えて、泣き喚くように降りしきる豪雨の中を走って行った。

それが、二人が最後に見た父の姿だった。

「案件管理局が出動したってことは、消防の人だけじゃ手に負えないことが起きてたんだと思う」

通常の災害時には、警察局と消防局が共同でその対応に当たることになっている。2014年末の集中豪雨の折もそれらの組織が主体となって住民の安全確保に努めていたが、その中に案件管理局の局員も混じっていたのだ。通常の体制ではないこと、それは瑞穂の目にも伺えた。

当時、父の元では佐藤さんが部下として働いていた。父と共に逃げ遅れた住民たちを避難場所まで移動させつつ、この異常気象についての情報収集に当たっていたという。

事件が起きたのは、その最中のことで。

「女の子がね、倒れてたんだって。海沿いの道で」

飛来物に頭を打たれて怪我をした少女が、意識を失って道端に倒れているのを見つけた。父はそれを放置しておけるような人間ではなかった。佐藤さんほか引き連れていた局員にバックアップを要請すると、倒れていた少女の救出に向かった。

「ひどいケガだったけど、命に別条はなかったんだって」

少女を助け起こして、別の局員へ安全な場所まで移動させるよう指示する。それからすぐ、その場を離れようとした。

「でも、その後だったって」

「大きな波が、お父さんたちに覆いかぶさったのは」

荒れた海から打ち寄せた波が、父とその場にいた局員たちを飲み込み、浚って行った。

「佐藤さんがね、言ってたんだ」

父は、海に消えて。

「『自分も飲み込まれそうになったけれど、お父さんに突き飛ばされた』って」

そのまま二度と、帰ることはなかった。

 

雨が上がったのち、瑞穂は戻らない父の姿を懸命に探していた。あちこちを訊ねて行方を追い、避難所を回って父がいないかを確かめた。その過程で父と共に避難誘導に当たっていた佐藤さんと出会い、父の行方について問い質した。

「佐藤さんは、洗いざらい話してくれたよ。お父さんがどうなったか」

父が波に攫われて消息を絶ったことも、その時知ることになった。

慕っていた父が死んだ。動かしようのない事実を目の当たりにして、瑞穂はその場に崩れ落ちた。

それから先のことは覚えていない。行く当てもなく歩き続けて、ただ彷徨い歩いて、辿り着いたのが、海辺だった。

「何も考えられなくなって、ただ、まだ凪いでない海の近くまで歩いていったっけ」

「ひょっとしたら、お父さんの所へ行こうとしてたのかもしれないね、私」

放心状態のまま、疲れ果てた瑞穂が辿り着いた海辺で見つけたのが。

「その時だったよ」

「シラセ、私があなたを見つけたのは」

砂浜に打ち上げられたアブソル――今はシラセと呼ばれている、アブソルだった。

榁の近隣に野生のアブソルは生息しておらず、他のトレーナーが連れていたというわけでもなかった。他の場所でも激しい雨による水害が発生していて、どうやらそれに巻き込まれてここまで流れてきたようだった。元々は祇岳市方面で暮らしていたのではないかと考えられたが、シラセが本来の故郷の場所を正確に思い出すことができない以上、今となってはどこから流れ着いたのかは定かではなかった。

駆け寄ってアブソルを介抱すると、弱弱しいながら息をしていた。瑞穂がすぐさま抱きかかえて最寄りのポケモンセンターまで担ぎ込んだおかげで、一命を取り留めることができた。シラセが今も地に足を付けて立っていられるのは、他ならぬ瑞穂のおかげだった。

アブソルが「シラセ」という名前を与えられ、榁で暮らし始めたのは、それからだった。

「シラセを見つけたときに、どうしてかは分からないけど、お父さんはもう戻ってこないんだって思った」

「諦めた、って言い方はしたくないかな。踏ん切りが付いた、私はそう言いたい」

「今だからそういう風に言えるってことも、もちろんあるけどね」

シラセという名前に、瑞穂がどのような意味を込めたのか。シラセはまだその由来を聞かされたことが無かった。けれど心のどこかで、ぼんやりとした由来は想像が付いていて。

アブソル。よその地域では、不幸だとか不吉だとかをもたらすポケモンだと言われているらしい。シラセは人づてにそんなことを耳にしたことがあった。不幸を招くもの、不幸を呼び寄せるもの、或いは――不幸を「報せる」もの。最近は、アブソルが持つ感応能力や予知能力が災害を事前に察知させ、それを人間たちに伝えようとしているのではないか、そのような見方もされているらしいが、いずれにせよアブソルを忌避する人々が未だ数多いのは事実だった。

「ごめんね、こんな話して。シラセとお父さんは、何の関係もないのにね」

「シラセだって、男の人と自分を結びつけられるの、楽しくないよね」

「よし。この話は、もう止めにしよう」

瑞穂が笑みを浮かべて、シラセのルビーのような目を見つめる。シラセもまた、瑞穂の瑞々しい瞳を視界に捉える。

(瑞穂が父を亡くした日、私が榁へ来た)

ハルが瑞穂の妹であることと同じように、シラセが榁を訪れた日に瑞穂が父を喪ったこと、この事実は揺らがない。決して変えることはできない。

シラセはずっと葛藤していた。

本当に、自分が「不幸を運んできたわけではない」と言い切れるのか――と。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。