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10-1 石の洞窟のマーガレット

客足の途絶えることのないペリドット。シラセはいつものように隅で様子を見ていたけれど、ふと何かを思い立ったようで、すっくと静かに立ち上がった。

「シラセ、おでかけ? 気を付けてね」

ドアを押して手で行こうとする間際、食器を洗っていた瑞穂に声を掛けられた。シラセが頷くと、瑞穂も頷き返す。シラセは好きな時に来て好きな時に出て行っていい、それがペリドットにおける二人のルールだった。瑞穂に見送られて、シラセが外へ出る。

強い日光が照りつけている。日陰を選んで歩きながら、シラセは北を目指した。榁の北部には「石の洞窟」と呼ばれる洞窟がある。目的地はそこだった。何も探検に行こうというわけではない。石の洞窟に棲家を構えている知己に会いに行こうと考えていたのだ。シラセにとっては思いのほか数少ない、ポケモンの知り合いである。彼女とはかれこれ二年ほどの付き合いになる。アブソルのシラセにとっては十分に永く感じられる時間だった。

長い道のりを難なく歩ききって、シラセは石の洞窟のすぐ側までたどり着く。一声鳴いて合図をすると、不意に右手の草むらが歪んでゆらゆらとゆらめいた。空気と光の隙間から、風変わりなフォルムのポケモンが姿を現す。大きな頭に緑色の目、そしてワンピースを身に着けた可憐な少女を思わせるフォルム。シラセの前に出てきたのは、一体のオーベムだった。

「まあ、シラセさん。こんにちは」

彼女の名前はマーガレット。誰かに名付けられたわけではないが、仕事柄名前が必要なのでそう名乗っていると聞いた。マーガレットはシラセを丁重に出迎えると、ふさふさの体毛にそっと手を触れた。シラセを見ると触りたくなるのは人間だけではないらしい。しばらくシラセを撫でて満足した様子のマーガレットが、目を細めてシラセを見やる。

「お話をしに来てくれたのね。それなら、いつもの場所へ行きましょう」

シラセは特に口を開いていないけれど、マーガレットはシラセの心をうまく読み取って話を進めてくれる。オーベムには超能力が備わっていて、それを駆使すれば心を読むことなど朝飯前だと言っていた記憶がある。それでいて、相手が「読み取られたくない」と思っていることはうまく避けてくれるらしい。マーガレットの力が及ばないというよりも、彼女が自発的に制約を掛けているようだった。

マーガレットに先導される形で、石の洞窟の奥まで踏み込んだ。二人がやってきたのは洞窟の最奥部、以前ハルとシラセが父親の部屋で見つけた書籍に描かれていたあの壁画のある部屋だった。マーガレットは先客がいないことを確かめてから、おもむろに「ワンダールーム」を展開する。光の屈折を捻じ曲げて、一定の範囲内に居る人やポケモンを視認できなくする効果があった。壁画の間の一角に自分たちだけの空間を作って、そこで話をしようということだ。

乾いた色ばかりの石の洞窟にあって、瑠璃色が贅沢に使われた海原の神様――カイオーガの絵画は、不自然なほどに生き生きとしていて、ある種の艶めかしささえ感じさせるものだった。

「今日は……お母さんの話がしたい、それでいいですか?」

無言のままこくりと頷く。マーガレットは自分の心を的確に読み取って話をしてくれるので、シラセにしてみれば気が楽だった。マーガレットが承諾すると、シラセは薄れつつある記憶をたどって、母の姿を脳裏に思い浮かべた。言うまでもなく、そのビジョンはマーガレットにも伝わっていて。

シラセの母親は、言うまでもないかも知れないが同じアブソルで、シラセが生まれた頃からずっと面倒を見てくれていた。気立ての優しさと芯の強さを兼ね備えた母は、幼かったシラセにとってとてもとても大きな存在と言えた。普段は方々に生っている木の実を採ってきて、それを食べて暮らしていた。木の実は辺りにいくらでもあったし、栄養と滋養にも優れていた。生きるために争う必要がなく、ゆえに母は争いごとを好まない穏やかな性格だった。

母のくれたぬくもりを、あたたかさを――シラセは、今も覚えている。

「お母さんは、シラセさんにいろいろなことを教えてくれたのですね。生きるための術や、人とのかかわり方……他にもたくさんのことを」

人とはいがみ合うことなく、共に生きていくことを考えてほしい。母はかねがね、シラセにそう語っていた。当時のシラセはその言葉の意味するところをきちんと理解できていたわけではなかったが、今こうして瑞穂たちと共に暮らしていることを思うと、母の言葉は正しかったのだと思わずにはいられない。

「人とポケモンはどちらが欠けても生きていけない。私もそう思います」

マーガレットがふっと目を閉じて、感慨深げに呟いた。

母の姿を心に思い浮かべながら、シラセが顔を上げて、大きな大きな壁画をまじまじと見つめる。

「あの日、雨が降った日。荒れ狂う濁流に巻き込まれて、シラセさんはなすすべなく飲み込まれてしまった――」

激しい雨で増水した川。人もポケモンも平等に押し流すそれに、シラセは足を取られて溺れてしまった。あとは流されるまま、弄ばれるまま。川から海へ押し流されて、数日間漂流した末に辿り着いたのが榁だった。

嘆き悲しみ泣き叫ぶ母の声が――今も、シラセの脳裏に焼き付いて離れない。

「シラセさんが上月さんに助けてもらったのは、その後だった」

後は知っての通り、瑞穂に拾われて九死に一生を得たわけだ。母とは今生の別れとなってしまったが、今も自分は生きている。それは海原の神様の慈悲なのか、それともただの気まぐれなのか。神とは程遠いちっぽけな命しか持たないシラセには、どちらなのかを推し量るすべなど持っているはずもなかった。

瑞穂に命を救われたこと、今も家に住まわせてもらっていること。それには感謝の気持ちを除いて他には何もないし、幸せを感じることもしばしばある。瑞穂と沙絵が自分を話し相手にして様々なことを語ってくれることも、シラセには自分が必要とされているように思えた。瑞穂と沙絵には、ただ感謝と言うほかなかった。

「でも、シラセさんは時々悩んでしまう」

どうしても抜きがたい、後ろ暗い思い。懊悩、または苦悶。

自分が榁を訪れた日は、瑞穂と沙絵が父を亡くした日。それは、自分が二人の父の死を報せた――そうは言えないだろうか。瑞穂に助けられたその日から今この瞬間に至るまで、シラセの心にはそんな呪いめいた思いがずっとこびり付いていた。

瑞穂と沙絵に何か悪意があるとは思えない。二人がシラセを家に済ませているのは、純粋なる善意から。マーガレットほどではないにしろ人の心が分かるシラセには、二人の清廉な心が眩しすぎるほど伝わってきた。シラセには行く当てがない、だから一緒に暮らそう。それ以上の理由は読み取れなかったし、恐らくどれだけ探したところでありはしないだろう。始めから存在しないのだから。

「誰もあなたを責めたりしていない。アブソルが不幸をもたらすという言い伝えなんて『迷信』だと言ってくれる……」

「けれど、シラセさん。あなた自身がそう思うことができていない。そうですよね」

マーガレットは何もかも理解している。だから、シラセは時折彼女の元を訪れては、自分がひた隠しにしている思いを言葉にしてもらっている。マーガレットから言葉として発してもらうことで、シラセは自分が何を考えているか、どんな心境にあるかを、幾分かは落ち着いて受け入れることができていた。

彼女のお世話になるのは、少しばかり久しぶりのことだった。シラセが自身の生い立ちやこれまでの経緯について深く考えを巡らせるようになったのは――ひとえに、ハルの来訪が大きかった。彼女は瑞穂と沙絵に、二人の母親の死を報せるために榁へ来た。それは自身の訪れが父の死を報せた自分の境遇によく似ている。シラセはハルのことを赤の他人とは思えなかったのだ。

「……シラセさん。あなたの気持ちが少しでも整理できたなら、私はうれしいです」

シラセが無言のまま話し終えたことを確かめてから、マーガレットがそっと声を掛ける。

「あなたは自分が他の誰かを不幸にしてしまう、そう思っている」

「けれどシラセさん、これだけは言わせて。あなたが私を不幸にしたことはありません」

「ここへあなたが来てくれるとき、私は嬉しくなりますから」

マーガレットの柔らかな笑みに包まれた表情を、シラセがまじまじと見やる。シラセの心にそっと寄り添うマーガレットの言葉と姿勢が、ともすると卑屈になってしまいそうなシラセを力強く支えてくれる。飾らない言葉で励ましをくれるマーガレットが、ただただ好きだった。

「それに――他のみなさんも、あなたが来ると喜ぶでしょう」

「愛らしい仕草に、真っ白な躰。それこそ私のように、あなたへ触れたいと考える方が多くいらっしゃるはずです」

「あなたが不幸ではなく喜びを運んでいる、何よりの証左ですよ」

にっこり微笑んで前脚に手を添えるマーガレットに、シラセは軽く赤面しつつ、その手を取り返した。

ずいぶんと話し込んでしまったようだ。マーガレットが空間に穴を空けて外の様子を見ると、陽が傾きつつあった。シラセもペリドットへ戻らなければならない。

「お仕事へ行かないと……そろそろお開きですね。シラセさん。今日は来てくださって、ありがとうございました」

シラセがふるふると首を振る。お礼を言うのはこちらの方だ、そう言いたげな顔をしていた。

マーガレットと共に洞窟の外へ出て、別れの挨拶を済ませる。マーガレットは一礼して身を翻すと、テレポートでどこかへ消えてしまった。一人になったシラセが、マーガレットに思いをはせる。

石の洞窟で暮らしている雌のオーベムで、他に同族や家族はいない。シラセのように他所から榁へやってきたようだが、その経緯を聞いたことはない。今は商店街で「仕事」をしているという。シラセと同じく、人々の間に溶け込んで暮らしているポケモンと言えた。ただ少し思う処があるようで、普段はこうして人里離れた石の洞窟近隣に身を潜めている。繊細で感受性豊かなところも、どこかシラセと似ていた。

今日は自分の話ばかりしたけれど、次はマーガレットの話も聞いてあげたい。そう考えながら、シラセはペリドットへつながる道を歩き出すのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。