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12-2 線香花火

夕飯の後片付けを済ませてから、三人が縁側から庭に出る。彼女らの後ろにシラセも続く。沙絵の手には、買ってきたばかりの線香花火がしっかり握られていた。後ろに立つ瑞穂が引き出しから持ち出してきたチャッカマンを得意げにかざして、火の準備も万端だと伝える。

パッケージを開けて線香花火を取り出し、沙絵がハルに一本手渡す。ハルが手にしたそれに瑞穂がそっと点火すると、パチパチと石楠花の花のような火花が散り始めた。位庭で仄かな光源となった線香花火を、ハルが片時も目線を外すことなく見つめ続ける。ハルが線香花火に見入っている様子を確かめてから、沙絵も瑞穂から火種をもらって花火の感傷を始めた。

庭に屈んだ三人の花火が微かに辺りを照らし、薄い線香の匂いが立ち込める中で、沙絵がハルに語り掛けた。

「ねえ、ハル。お母さんのことなんだけどね」

「おかんのこと?」

「うん。どんな人だったのか、教えてほしいな、って」

沙絵もハルも線香花火が作り出す火花をじっと視界に捉えながら、とてもリラックスした、穏やかな調子でもって、今は亡き母のことを語り合う。

「一言で言うたら、自由奔放な人やった、かな」

「やっぱり、そうなっちゃうよね」

「まだ赤ちゃんやった沙絵さん置いて出てってまうくらいやから、相当やわ」

「ホントにね。物心ついた頃って言えばいいのかな、その時にはもう、私のお母さんって言ったら、お姉ちゃんだったから」

「瑞穂さんの方が、よっぽど世の中の『お母さん』っぽいと思うわ。うちも」

「だよねだよね。だからさ、私お母さんがどんな人か、イメージできなかったんだ」

私のことどう思ってたのかも、最後まで分からなかったしね。誰に向けるでもなく発せられた沙絵のこの言葉は、普段のからりとした元気な様子の影に隠れて、一抹の哀愁や寂寥感を纏ったものだった。己を残して榁を出ていったとは言え、腹を痛めて産んだ娘。沙絵は母が何の感情も抱いていなかったとは思わないし、思いたくもなかった。

瑞穂が機能的な意味での母の役割を完璧に果たしていてくれたから、沙絵は特段辛い思いをすることもなく、ここまで健やかに育つことができた。けれど瑞穂はどこまで言っても姉で、心理的な実母の欠如を完全に補うものではない。それは瑞穂がどうこうと言うわけではなくて、本当に単なる気の持ちように過ぎなかったのだけれど、母の顔も知らないという事実は、時折沙絵の心をギリギリと締め付けることがあった。

「だけど、一つだけ分かったことがあるよ」

「分かったこと?」

「お母さんはハルに、『二人のお姉ちゃんがいる榁へ行きなさい』って言ったんだよね」

「あ――」

「ってことはさ、私のこと、少なくとも覚えててはくれたんだって」

母はハルに「自分が死んだら、遺骨を持って二人の姉がいる榁へ行ってほしい」と遺言を残した。二人の姉、即ち瑞穂と、沙絵のことに他ならない。沙絵を産んだ直後に姿を消したとはいえ、沙絵のことを忘れたわけではなかったのだ。

「よかった、完全にお母さんの頭から消えちゃったわけじゃなかったんだ。それが分かって、ちょっとだけ嬉しかった」

「沙絵さん」

「だから、ハルからもっと話を聞いてみたいって。そう思ってるよ」

「おかんとうちがどんな風にしとったとか、か……」

「うん。なんだかんだで、私お母さんがいないこと、ずっと気にしてたから。だから、もう気にならないように、いっぱい話を聞けたらいいなって」

見知らぬ母は、ハルにどんな顔を見せていたのだろう。ハルとどんな記憶を紡いできたのだろう。沙絵はそれを知りたいとハッキリ口にした。心の中に留めて押し隠していた母への想い、見て見ぬふりをしてきた「お母さんのことを知りたい」という自分の感情。ハルの訪れは沙絵に対して、心に幾重にも渡って掛けてきた錠前を、痛みを伴いながらも一つずつ外させていって、本当の自分と向き合うきっかけをもたらした。

沙絵の表情からは、穏やかさと共に清々しさが、ハルの目からもはっきりと見て取れた。

「なんだかしんみりして、いい空気だね。ちょっとだけ、私もいいかな」

「いいよ、お姉ちゃん」

静かに燃ゆる線香花火をしげしげと眺めつつ、瑞穂が閉じていた口を開いた。

「お父さんのことなんだけどね。ハルが今使ってる部屋、元々はお父さんが使ってたんだ」

「やっぱり、そうやったんや」

「見れば分かっちゃうか。本棚に難しい本いっぱい並んでるし、女の子の部屋って感じでもないし」

「じゃあ、この家には瑞穂さんと沙絵さんのおとんが――」

「うん。『いた』んだ。三年と、半年くらい前まで」

シラセがハルの傍へ寄りそう。隣にやってきたシラセをそっと撫でると、ハルは瑞穂の語る言葉を聞きのがすまいと耳をそばだてる。

「年の暮れに酷い雨が降って、みんなを安全な場所まで避難させてたんだ。案件管理局の人たちを連れてね」

「佐藤さんみたいな人らを、か」

「そう。その佐藤くんも一緒だった。お父さんの部下だったんだ。出来のいい部下を持つと上司の仕事が無くなって助かる、なんて言ってね」

「普通じゃない雨が降っとったのんは、うちも知ってる。せやから消防だけやなくて、管理局の人も出とったって」

瑞穂が無言で頷く。ハルは当時静都は日和田市に暮らしていたとはいえ、未曽有の大災害となったあの豊縁全土に降り注いだ豪雨のことは記憶に留めていたようだ。

「海沿いの道で、女の子が――頼子ちゃんが血を流して倒れてたんだ。避難する途中に飛来物に頭を打たれたみたいで、ぐったりしてたって」

「怪我、しとったんや」

「お父さんはすぐに助けに向かって、安全な場所まで移動させてあげたんだ。それからお父さんたちも行こうとした……その直後だったよ」

波がお父さんと局員さんたちを巻き込んで、海へ引きずり込んだのは。

微かに声を詰まらせながら、瑞穂はそう語った。

「雨が上がったあと、私はお父さんを捜して街を彷徨ってた。どこかに居るに違いない、私と沙絵を置いて遠くへ行ってしまうなんてあり得ない」

「お母さんがいなくなって、お父さんもいなくなった。そんな風には考えたくなかった。誰か拠所になれる人がいてほしくて、ありもしない希望に縋ってたんだと思う」

「でもどこにも居なくて、佐藤くんから一部始終を聞いて……お父さんのところへ往きたくて、海まで来た――その時だったよ」

ずっと花火を見つめていた瑞穂の目が、ハルのすぐ隣にいる、

「砂浜に流れ着いた、シラセの姿を見つけたのは」

シラセへと、そっと向けられた。

瑞穂の話を聞いて、ハルは何もかも理解した様子だった。悟った、という言葉がより正しいかも知れない。瑞穂が言わんとしていること、シラセが今感じているであろう思いのこと、それらすべてが、手に取るように理解できた。

理解できてしまった、と言う方が、実態に即していたかも知れない。

「せやから」

ハルが声を上げる。

「せやから、シラセは……ずっとうちの側におってくれたんか」

「シラセはきっと、ハルに似たものを感じ取ったんだよね」

「賢くて、優しくて、繊細だもんね。シラセは」

頷くシラセに、今度はハルが静かに寄り添う。言葉は口にできなくとも、ハルも瑞穂も沙絵も、シラセがどのような感情を抱いていたのか明確に分かっていた。

「ハルが榁に来てくれた時、ハルはお母さんのお骨を持っていた」

「すぐに分かったよ。見た瞬間に分かった」

「お母さんは、お父さんのいるところへ行ったんだ、って」

シラセの訪れが父の死を報せたように、ハルの訪れが母の死を報せた。

自分の来訪が、瑞穂と沙絵にとって母との別れを告げるものとなった。それはハルが榁を訪れてから、内心でずっと向き合い続けていた感情だった。

ハルが目を伏せる。どこまで行ったところで、自分が二人に母の死を報せる役目を担ったという事実は変わらない。それはさながら自分が二人から母を奪ってしまったかのような罪悪感を伴うもので、自分では癒す手立てのない棘のような気持ちだった。いつかはこうなる時が来る、頭で覚悟はしていたけれど、心がそれに付いていけていない。ハルの胸に、針で刺すような痛みが絶え間なく走り続ける。

幾許かの間目を閉じてから、苦しげな顔をするハルを瞳に捉えて。

「だけどね、ハル――」

瑞穂が、口を開いた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。