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#03 こごえるかぜ

「ただいまー」

誰もいないと分かっていても、とりあえず帰ってきたら「ただいま」って言う。そういうくせを付けておけば、いざ誰かがいる時に帰ってきても、挨拶もなしに入るんじゃないの、とかそういう系のお小言を言われなくて済む。小さな心掛けの積み重ねが、お小言の回数を減らすのだ。

部屋に入ってスイッチをパチン。微妙な間を置いてから、パッと部屋が明るくなる。カバンを机の上へ置くと、お弁当箱を出して台所まで持ってってから、部屋に戻ってベッドにぐったり。六時間授業のある日は、帰ってくるともう何もしたくなくなる。明日は五時間授業の日だから、ちょっとだけマシだろう。けど、帰ってきてから何もしたくないっていうのは、多分変わらない。

学校から三十分くらい歩いたところにある十五階建てのマンションの四階。それがあたしの家だ。二つある部屋のうちの一つがあたしの部屋で、もう一つの部屋は、今のところほぼ物置と化している。お父さんもお母さんも、今はそんなに必要としていないモノが結構あるのだ。そういうのは目について何となく気になるから、目につかない場所へ置いてしまおう。ということで、向かいの部屋は気がつくとモノが増えている。

「はー、しんど」

何にもすることがなくて、ついでにやる気も起きなくて、うつ伏せになったまま枕に顔を埋める。枕に巻いたタオルから微妙に汗が乾いたあとの匂いがする。制服から着替える気にもならなくて、とにかく帰ってきた時のカッコのまんま、ただただぐでーっとしている。

部屋は自分でも散らかってるなーって思うレベルで、本とか服とかがあちこちに散らばっている。どっかで掃除したいなーって思いながら、あれこれ理由をつけてまだできずにいる。部屋が汚くても度が過ぎてなきゃ死なないし、誰かが来ることもほとんどない。来るのはせいぜい、ネネくらいだし。

「スマホあったらなあ。あたしも『ポケとる』できるのに」

手持ち無沙汰。思い浮かぶのは、みんなが学校の休み時間にいじくり回しているスマホ。あたしも欲しい欲しいって言ってるけど、サチコにはまだ早いわとか、持たない方が気が楽よとか、そういう理由で却下されてる。みんなはポケモンの絵を使ったパズルのゲームで遊んでて、なんかすごい楽しそうにしてる。あたしも楽しそうにしたい。というか、周りで持ってるの見たことないの、ネネぐらいしかいない。あたしとネネくらいしか、スマホ持ってない子はいないってことだ。

とりあえず動かすのにあんまり苦にならない首を動かしてそこら辺を見ると、ややくたびれ気味のピンク色のニンテンドーDSが転がっていた。最後に差してたソフトなんだったっけ、あっ思い出した、トモコレだ。友達に教えてもらってお母さんに買ってもらって、周りの友達とか、その時流行ってた芸能人とか、マンガのキャラとかを適当に登録して、恋人になったり別れたりするのを見てわいわい騒いでた。

最後に電源入れたのいつだっけ。もう一年くらい前のような気がする。あの中の住人は今どんな風になってるだろう。電源を入れるのがちょっと怖い。だから触らないでおきたい。

そういえば、あの頃の友達はどうしたっけ。思い返してみると、みんなほとんど付き合いが無くなっている。まだたまに遊んだりする子もいると言えばいるけど、ほとんどは顔を合わせる機会もない。人間関係なんて、きっとそんなもんなんだろう、って思う。

ぐだってると勝手に時間が過ぎて、気が付いたら7時を回ったくらいになって。

「ただいまー」

「あ……おかえりー」

お母さんが仕事から帰ってきた。一昨年からホームヘルパーの仕事を始めて、だいたいこれくらいの時間に帰ってくる。帰って来るときは買い物をして帰ってくることがほとんどだ。例に漏れず今日もまた買い物をしてきたみたいで、ビニール袋が揺れる音が聞こえる。玄関でお母さんを出迎えると、お母さんからビニール袋を受け取って台所まで持っていく。

「ありがとう、サッちゃん。宿題もう済ませた?」

「あ、忘れてた」

「じゃあ、ご飯まで少しかかるから、その間に片付けちゃうといいわ」

「んー。面倒くさいなー」

受け取ったビニール袋を台所まで持っていきながら、お母さんと言葉を交わす。ビニール袋は近所の食品スーパーのもので、お母さんもあたしもしょっちゅう行ってるところだった。自転車で五分くらいの場所にあるから、まあ、便利といえば便利だと思う。冷たくしすぎで中寒いし、本屋とかセットじゃないから退屈だけど。

お母さんに言われてリビングで宿題に取りかかったけど、それから割とすぐ、台所の方から声が聞こえてきて。

「あらやだ、豆乳買いそびれちゃってるわ」

「えぇー、それホントに? 今日で全部飲んじゃったし」

買い物をしてきたのはいいけど、いつも買ってきてる豆乳を買い忘れたみたいだった。あたしは朝ごはん食べない代わりに、毎朝豆乳だけは飲んでたりする。つまり豆乳が無くて一番困るのは、他ならぬあたしなのだ。お母さんも飲んでるから、意外と減るのが早い。だからこまめに買い直してるんだけど、それを忘れたってわけだ。

「悪いけどサッちゃん、ちょっと買ってきてくれないかしら?」

「しょうがないなー。じゃあ、お金ちょうだい」

お母さんから五百円玉を一枚もらうと、部屋から財布を引っ張り出してきて中に入れた。気は進まないけど、豆乳が無いのはつらいし、さっさと買いにいかなきゃ。

自転車に乗ってちょっと走ると、さっきお母さんが来ただろういつもの食品スーパーまで辿り着いた。駐輪場の空いてるところへ適当に停めて、一応鍵も掛けておくことにした。どうせすぐ戻ってくるけど、その間に盗られたりしたら面倒くさい。たまに友達も自転車盗まれたとか言ってるから、用心しとくに越したことはない。

「……寒いって、だから」

のそのそと自動ドアをくぐって中に入ると、悪い意味で身が引き締まるような猛烈な冷たさが襲いかかってきた。食品の鮮度を保つためなんだろうけど、外に比べて中が文字通り桁違いに寒い。暑がりな人にはいいだろうけど、寒がりなあたしには厳しいことこの上ない。お腹にじんわりと不快な感触が走った。急に寒くなった時に起きるアレだ。もうちょっと加減してほしい、心の中でそうぼやいて、機嫌を損ねたお腹を軽くさする。

こういう時は、とっとと必要なものを買って帰るに限る。豆乳は乳製品コーナーにあるから、まずはそれを押さえに行く。いつも買っている一リットルの調整豆乳をカゴの中へ入れると、二つ隣の売り場へ入って、中段の棚に並べられた「小枝」を手に取った。お使いをしたときのお釣りはあたしがもらっていいっていう、お母さんとの暗黙の約束があった。これを買ってもまだ文字通りお釣りが来るくらいだろう。お菓子の一つでも買わなきゃ、割に合わない。

(ポケモン連れてる人、結構いる)

カートの子供用座席にピカチュウを乗せている高校生っぽい女の人とか、サーナイトにカゴを持ってもらってるおじいさんとか。ポケモンと一緒に買い物してる人が、結構たくさんいる。この食品スーパーはポケモンの同伴自由で、別に介助ポケモンじゃなくても外に出してていいらしい。

あたしも一応ポケモンを扱う資格、つまりトレーナーの免許は持ってて、その気になればポケモンを連れ歩ける立場だ。ただ今までは、そんなに一緒にいたいポケモンもいなかったし、別にいいやって思ってた。

今までは。

「うわー……どこも混んでる。だるい……」

調整豆乳と小枝をカゴに入れて、後はレジでお金を払うだけ。払うだけだったんだけど、払うまでが果てしなく遠い。平たく言うと、どこのレジも行列ができていた。最低でも五人くらい並んでる感じで、自分の番が来るまで六分だか七分だか、とにかく結構な時間が掛かりそうだった。これは、だるい。しょうがないから一番近くの列に並んで、自分の番が来るまで大人しく待つことにした。こういうときもスマホがあれば、暇を持て余さずに済むんだろうに。ホントに、欲しくて仕方がない。

のろのろ進む行列にうんざりしながら周囲を見回すと、品物を袋に入れるコーナーにある掲示板に、一枚のポスターが貼ってあるのが見えた。

(こっちから見て右だから……左か)

左足が普通の足じゃなくて義足になってる女の子と、逆に右足が義足になってるドードーが並んでる。ポスターの趣旨は、多分防犯とか防災とか、そんな感じのやつだと思う。ポスターがみんなに知らせたいことより、並んで立ってる女の子とドードーの方に目が行く。

確か、一週間くらい前から掲示されてたはずだ。女の子の方は陸上やってたけど事故で片足失くして、それからまた復帰したとか聞いたような気がする。ドードーは彼女の相方だそうだ。最近聞いた話だし、そんなに間違ってなくもないはず。

ああ……なんかダメだ。ちらっと見ただけで頭の中に大まかなストーリーが浮かんできて、そして多分それは六十パーセントくらいは合ってるんだろうなっていう、まったく意味の無い確信を抱いてしまう。だからなんなんだって言われたら、どうもしませんとしか答えようがない。

(……居辛い)

そう。居辛い。この感情は如何ともし難いものだ。ポスターに言っても詮なきことだけど、できればこっちを見ないで欲しいと思う。なんかこう、こうやって普通に二本足で地面に立ってること自体を申し訳なく感じる。別に何も意図は無いって分かってても、頭の中で理解しててもだ。あたしは何もして無いのに、オートで罪悪感を抱いてしまう。

いや――そうじゃない、逆だ。何もしてないからこそ、申し訳ないなんて感情を持ってしまうんだと思う。

ハッキリ言って、あたしには何かを成し遂げた記憶なんて無い。いつも無難に物事をやり過ごすことを最優先に考えていて、その場をうまく乗り切れればそれでいいと思っている。自分のことは自分が一番よく知ってる。あたしがそういう生き方をしてるのは、間違いない事実だ。立派な人がいると、それだけで息苦しくなる

でも、仕方ないじゃないか。だって、あたしには特別な才能とか能力とか、そういうのが一つもないんだから。平凡に生まれたからには平凡に生きる、それで何も間違ってないじゃないか。あたしだって、運動神経があるとか頭がいいとか男の子にモテるとかそういうのがあったら、こんな気持ちをせずに済んだはずだって思う。どれか一個でも欲しいって思う。

どれか一個でも欲しいって、心の底から思う。

「最近大きい袋しかくれなくなったけど、二つ入れるだけなのに大げさすぎじゃない? これ」

レジで会計を済ませて、やたらでかいビニール袋へ豆乳と小枝を順番に詰め込むと、カゴをカゴ置き場へ戻して店を出た。早く帰って宿題の続きだ。自転車に乗ろうとしたら、自転車のカゴに空になったペットボトルが捨てられていた。誰だよこんなん入れたの。舌打ちをしながらペットボトルをひっつかんで、ちょうどすぐ近くにあったゴミ箱へ叩き込んだ。ゴミくらいちゃんと捨てろよ、バカ。

買ったものを載せた自転車を漕いでマンションまで戻ってくると、家の鍵で共同玄関の扉を開ける。そうだ。郵便受け見てなかった。タイミングよくそのことを思い出して、まっすぐポストまで向かう。暗証番号を指定して開けてみると、不動産屋のチラシが二枚、近所のスポーツクラブのチラシが一枚、電気料金の領収書に、それから最後に。

「あ、マッハピザ」

近くにあるピザ屋さんのチラシが入っていた。クーポン券付き、今なら二枚目半額。六分の一に切って、チーズがのびーって伸びた写真がでかでかと入っている。

「いいなー……ピザ食べたい、ピザ」

「食べたいなー、チーズとツナとコーン載ったやつ」

おいしそうだ。思わず「食べたい」って口走ってしまうくらいに。

買ったものとチラシを持って帰ると、お母さんがもう晩ご飯の支度を始めていた。

「ただいまー」

「おかえり。何か来てたかしら?」

「チラシが四枚と、あと電気の領収書」

「ありがとう。テーブルの上に置いといて」

言われたとおりテーブルの上に郵便物を全部置いてから、テーブルの周りをうろうろする。

「お母さんお母さん」

「どうしたの、サッちゃん」

「いきなりだけどさ、あたしピザ食べたい」

「ピザ?」

ちらちらと視界に入るマッハピザのチラシが気になって気になって、つい口を付いてこんな言葉が出てきてしまった。そう、あたしはピザが食べたい。丸くて大きい、チーズとツナとコーンの載ったピザが食べたい。

「明日の朝ごはん、チーズ載せる?」

「そういうんじゃなくて、電話で頼むやつ。丸いやつ」

「マッハピザとかそういうの?」

「そうそうそれそれ」

「うーん。また今度にしましょ。サッちゃんの誕生日とか」

今日もまたダメだった。お母さんの必殺技「また今度」で終わってしまった。

お母さんの言う「今度」が来た記憶はほとんどない。あってもせいぜい、カレー食べたいって言ったら次の日にカレーが出てきたぐらいだ。それだって、晩ご飯の献立に詰まったからちょうど良かっただけだったし。

いつもこんな風に、来ることのない「今度」を待つことになる。スマホも、ピザも、他にもたくさん。いつも何かが欲しくって、けれどそれは「今度」という来ることのない未来に予約されてしまう。

台所を見て、並んでいる食べ物をチェックする。キャベツともやしとにんじん、パック詰めの鮭の切り身、それからお麩。たぶん、野菜炒めと鮭を焼いたやつと、それからお味噌汁ってところだろう。別に悪くはないけど、でも、楽しみってわけでもない献立。

「サッちゃん、お皿並べてちょうだい」

「はーい」

お母さんから食器を受け取りながら、あたしはもう一度だけチラシに目を向ける。

(ピザ、食べたいな)

あたしの気持ちとは裏腹に、お母さんはまな板の上でキャベツをトントンとざく切りにしていたのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。