夕方になって帰ってきた家の中は、かすかに湿っぽい匂いがしていて。
「あれから……もう丸々四年とちょっと経つのか。なんか、もっと最近だったような気もする……」
制服のままベッドに寝そべって、あたしはさっきまでのことを思い返していた。
ネネがニャースのお墓を作り終わって、家へ帰ろうとしたときのことだった。
「ネネさー。ああやってお墓作るのもいいけどさ、凛さんに迷惑掛けたりしてない?」
あたしが「死なないようにする方が先っしょ」って言ったら、ネネが「ポケモンもニンゲンもいつかは死ぬから」って返してきて、そこで言い返せずに詰まってしまった。なんとなくネネに言い負かされた気がして、あたしは話題を変えたくなった。生き死にの話は苦手だし辛気くさい。ネネは好きかもしれないけど、あたしはそうじゃない。
「うん。してないよ。いい子にしてる」
「凛さんもさ、若いのにいろいろ大変だと思うから、あんまり変なことしない方がいいよ、マジで」
「だいじょうぶ。ネネがお買い物行くときは、凛さんといっしょに行ってる」
「買い物?」
「それで、凛さんからずっとはなれないようにしてる。凛さんが、その方が安心だって言ってた」
「あー……もしかして、小四の時のこと……」
あたしとネネが小学四年生だった頃の夏休み、ちょっとした事件が起きた。
ネネが、万引きをしたのだ。
「ネネ……その袋、なに?」
「ポテチ。コンソメとのりしお」
図書館で本を読んだ後の帰り道、公園でネネの姿を見かけて近付いてみると、ネネが黒いエコバッグをぶら下げてベンチに座っていた。あたしがエコバッグの中に何が入ってるのかを訊ねたら、ネネは事も無げに「ポテチ」――ポテトチップスが入っている、って返してきた。
ほら、とネネが袋の口を開けてあたしに見せてきた。ネネの言う通り、コンソメ味とのりしお味の大袋ポテチが一つずつ、エコバッグの中に入っていた。袋の封は切ってなくて、お店に並んでるあの状態で無造作に放り込まれている。ネネが一人で食べるには、一袋でも多すぎるくらいだった。
「え、何これ……」
「ポテチ」
「そうじゃなくて、買ってきたの? これ……」
「ううん」
「誰かからもらったとか?」
「ううん。ちがう」
「じゃあ……なんでこんなの持ってるの?」
「もってきた」
「どこから?」
「いなげや」
「それって、向こうにある?」
「うん」
ネネ曰く、ポテチはここから少し離れたところにある食品スーパーの「いなげや」から持ってきた……とのことだった。
持ってきたも何も、完全に万引きだってことくらい、あたしにもすぐ分かって。
「ネネそれまずいよ、万引きだって、犯罪だって」
「まんびきって?」
「お金払わないでもの盗ってくることだよ。返してきなよ、やばいよそれ」
「どうして?」
「理由なんてどうでもいいよ。早く返さないと、捕まっちゃうよ」
能天気なネネに比べて、あたしは必死だった。ネネが捕まるならまだしも、万引きを見つけて返しにいかせなかったら、あたしまでややこしいことになりそうだって思ったから。ネネが捕まるのも嫌だけど、あたしが怒られるのはもっと嫌だった。だから、すぐにでも返しに行くように繰り返した。
でもネネはちっとも状況を理解できてないみたいで、脚をぷらぷらさせながら、ぼーっと遠くの空を見つめたりしていて。
「凛さん、はやくこないかな」
「凛さん……?」
「いつもこの公園で、ベンチにすわってぼーっとしてる。ネネの家にいる人」
凛さんのことを初めて聞いたのは、確かこの時だった。以前ネネの家へ遊びに行った時は、凛さんなんて人は影も形も見当たらなかったから、もちろんあたしが知ってるはずもなかった。本人が言うには、ネネは凛さんという人のことを待っていて、凛さんはよくこの公園に来るらしい。どういう関係の人なのかは、ちっとも分からなかった。
とはいえ、ネネは凛さんって人を待ってるってことは分かった。なら、その凛さんって人に事情を説明して、ネネに万引きした物を返すように言ってもらうしかない。
「あのさネネ、凛さんって人今どこにいるの?」
「うーんと、向こうのかんり局にいる」
「分かった。じゃあ、あたしがここに連れてくるよ」
「サチコ、凛さん連れてきてくれるの?」
ネネはちょっと勘違いしてるっぽかったけど、凛さんをここへ連れてくるって意味では間違ってなかったし、とにかくネネにポテチを返させるのが先だった。そのためには、ネネの言う凛さんって人を、ここへ連れてくるしかないと思った。
凛さんって人は、北の方にある管理局にいるらしい。ここからだとだいぶ離れてるけど、なんとか歩いて行けない距離じゃなかった。暑い中歩くのは面倒くさかったけど、正直それどころじゃないし。
「ネネ、あたしが凛さん連れてくるまで、ここからどっか行っちゃダメだよ」
「うん。ポテチのこと、ひみつにしててね」
別れ際のネネの言葉は、聞かないことにした。
「あのー、すいません」
受付にいた女の人に声を掛けると、すぐにこっちを向くのが見えた。
「はい。どうかしましたか?」
「えっと、ここに『凛さん』って人、いますか」
「凛さん……ですか?」
「あー、えっと、名字はたぶん『仲村渠』っていいます。その、仲村渠さんの家族の友達です。急用なんです」
「仲村渠ですね。少々お待ちください」
受付の人が受話器を取って、どこかに電話を掛け始めた。凛さんを呼んでるに違いない。
「お疲れさまです。受付窓口の片岡です。橘主任はご在席でしょうか」
「はい、片岡です。お疲れさまです」
「キカンシャイチヨンニイサンキュウナナノイチ、仲村渠凛の親族の、友人の方がお見えになりました」
「はい、同級生の。はい、女性の方です」
「承知しました。今のコウサシケンが完了した後に面会で、はい、承知しました。申し伝えます」
電話を置いてから、受付の人があたしに言う。
「申し訳ございません。あと三十分ほどお待ちいただけますでしょうか」
そう言われたら、待つしかなかった。
受付の人が言った通り、だいたい三十分くらいしてから。
(あっ、あの女の人だ)
ベージュのシャツにブルーのパンツを身に着けた、あんまり特徴の無い感じの、ちょっと背の高い……たぶん、中三くらいかな、それくらいの背丈のお姉さんが、受付近くの椅子に座っていたあたしの前に姿を表した。きょろきょろと辺りを見回しながら、誰かを探してるように見える。誰かっていうか、あたしだ。
中学生の人が、こんなとこで何してるんだろう。ちょっと首を傾げながら、あたしは凛さんに声を掛けた。
「えっと、凛さん、ですか」
「あ……はい、仲村渠凛ですけど……あの、なんでしょう」
「あたし、ネネの友達の、国府田幸子っていいます」
「幸子ちゃん……あの子の友達なの?」
「そうです。えっと、急なんですけど、えっと、ネネが、ちょっと」
「ちょっと?」
躊躇ってうまく言えないあたしに、凛さんが困惑した顔をして見せた。ここはもう、ちゃんと言うしかない。
「……えっと、ネネが、近くのスーパーからポテチを万引きしたんです。袋に入れて、持ってたんです」
「えっ、万引き……!?」
「そうです。それで今、公園にいて。返してきなよって言ったんですけど、聞かなくて、それで、凛さんに」
凛さんはビックリしたみたいだった。あたしはネネがポテチを万引きした事を洗いざらい話すと、凛さんにネネが待っている公園まで来てほしいと頼んだ。ネネにポテチを返させるには、凛さんに言ってもらうしかない。公園のベンチで座ってたのも、凛さんを待ってたからだし。
「そんな……わ、分かりました。ちょっと、外に出てもいいか、訊いてきます」
凛さんは回れ右をして、すぐさま中へ駆けて行く。
これで、ネネがポテチを返してくれればいいんだけど。
凛さんは小さなカバンを持って、再びあたしの前に姿を表した。今日はもう帰っていいってことになって、このまま公園でネネを捕まえてお店に謝りにいくつもりだって言った。なんとなくすっきりしないから、あたしも一応最後まで付き合うことにした。なんかこう、寝つきが悪くなりそうだし。
公園まで歩いていく途中で、凛さんと少しだけ話をして。
「幸子ちゃんは、あの子の友達なの?」
「あ、はい。小二の時くらいから」
「そう……あの子にも、友達……いたのね。他には?」
「あたしの他にはあんまり……二人か、三人くらい」
あの時の凛さんは口数が少なくて、どこか素っ気ない印象を受けたのを覚えている。ネネのことも一貫して「あの子」と呼んで、名前では呼ぼうとしていなかった。今になって思い返してみると、あの時の凛さんは今の凛さんとは何かが違っていたように思う。あの時が違っていたのか、今が違っているのか、そもそも何が「正しい」のか分かんないから、なんとも言えないけど。
さっきの公園まで凛さんを連れていくと、ネネの姿が目に飛び込んできた。
「あっ、凛さんっ」
あたしの言いつけを守ったのか、それとも自分のやりたいようにやっただけなのか、ともかくネネは律儀にさっきのベンチに座ったままだった。あたしと凛さんが駆け寄ると、ネネはベンチからぴょんと跳ねて飛び降りた。手には、膨らんだエコバッグを提げたままだ。
「ネネ、凛さんとあたしにバッグの中見せて」
「はい」
「これ……ポテトチップス……」
「うん。ポテチ。コンソメ味とうすしお味」
「味は訊いてないから」
バッグの中には、未開封のポテトチップスの袋が二つ、しっかり入っていた。口に手を当てて、凛さんが言葉を失っている。そりゃそうだ、ネネは万引きをしでかして、悪びれもせず平然と突っ立っているんだから。どんな気持ちになるかなんて、わざわざ言うまでもない。
凛さんは「それは持ってきちゃいけないものよ」とネネを諭して、お店へ返しに行くよう促した。ネネはきょとんとした顔をして、いかにも「どうして?」とか「なんで?」とか言いたそうな顔をしていたけれど、凛さんが返すように言ったからか、これまたけろっとした顔で「わかった」と答えて見せた。
「私も一緒にお店へ行くよ。ちゃんと、お店の人に謝らなきゃ」
「凛さんもきてくれるの?」
「仕方ないでしょ。今は、他にあなたをお守りできる人がいないんだから」
「ありがとう、凛さん」
果たして何がありがたいのか、あたしにはさっぱりだったけど、ネネは凛さんの隣について嬉しそうに歩き始めた。流れのままなんとなく、あたしも後ろからくっついていく。
「ねえ。ポテトチップス、食べたかったの?」
普通に考えれば、凛さんの質問には「はい」としか言いようがない。万引きしてでも手に入れる食べ物なんだから、食べたくないわけがない――そう考えるのが普通だ。万引きをしないと体がうずうずしておかしくなるとかそういうのだったら違うかも知れないけど、少なくともネネにそんなところは無いはずだった。
「ううん。食べたくない」
で、こんな回答が返って来るのが、ネネがネネだって思うところだ。万引きしたけど、食べたくない。はっきり言って、さっぱり意味が分からない。じゃあなんで万引きなんてしたんだって思う。あたしはそう思ったし、凛さんの雰囲気を見てたら、概ね同じ事を思ってるみたいだった。
「食べたくないの? じゃあ、どうして万引きなんてしたの?」
「私だって、いろいろあって忙しくて、大変なんだから」
「寂しくて構ってほしいなら、誰か他の子とか、先生のところに行けばいいじゃない」
「こんなことして、私とか幸子ちゃんに迷惑掛けないでよ」
あたしは、凛さんの言い分はもっともだと思った。まあ、言い方はちょっと厳しいかもしれないけど、構ってもらうために万引きとかやらかすのは、関わった人全員に迷惑がかかっちゃう。正直それは何も間違ってなかった。さすがに、ネネもこれだけ言われればしゅんとして反省するに違いない。
なんて、そんな風に考えていたわけだけど。
「ネネ、凛さんに食べてほしかった」
「えっ……?」
「こないだ凛さん、ポテチ食べたいって言ってたから」
子供っぽいいつも通りの口調で、ネネがさらっと「凛さんに食べてほしかった」と口にした。ポテチを選んだのもネネの好みとかじゃなくて、凛さんがたぶん独り言として漏らしたことを拾って、その通りに行動したに違いなかった。
「ごはん、あんまり食べてなかったし、ちゃんと食べないと、ネネみたいになるよって思った」
「ポテチなら食べるって思ったから、もってきた」
「でも、凛さんがかえしたいなら、ネネもかえしに行くよ」
凛さんが、さっきとは別の意味で言葉を失っているのが分かった。こういう場面は、漫画とかテレビのドラマとかで見たことがある。ネネはトロいけど、トロいなりに考えてたってわけだ。
元気のない凛さんに、ポテチを食べてもらおうって。
「……そういうこと、そういうことだったのね」
「ごめんね、ねねちゃん。ちょっと、そこまで考えてなかったよ。考えてなかった」
「とりあえず……お店の人に、すぐ謝りに行こうか」
まあ、それにしても、万引きはやっぱりダメだと思うわけだけど。
さて。「いなげや」の外で日陰に入ってまた三十分ほど待ってると、ネネと凛さんが戻ってきた。戻ってきたネネに早速声を掛けて、中で何があったのかを訊ねてみた。
「ネネ、どうだったの?」
「うーんと、次からはポテチを持ったままお店の外にでないで、っていわれた」
「……何それ?」
「だから、次からはポテチを持ったままお店の外にでないで、って」
「なんか……思ってたのと違うんだけど。万引きとか言われなかったの?」
「うん。いわれなかった」
万引きについてこってり絞られたかと思いきや、お店の人曰く「品物を持ったまま外に出ないでください」とのこと。あたしが首を傾げていると、凛さんが横から顔を出した。
「……本当なら警察を呼ばれて、大変なことになるところだったんだけれども」
「お店の人が……言い方はよくないかも知れませんけど、見逃してくれて」
「ねねちゃんが未成年だったのと、品物が無事だったから、ってことで」
「ポテトチップスは、私がお金を払って買ったの。家に帰って、食べようと思うわ」
そういうことだったのか。ネネの万引きを、店長さんは「支払いの済んでない品物を外へ持ち出した」って形にして、ギリギリのところで大目に見てくれた……ってわけだ。まあ、これもまた、ありそうな話だって思う。目の前で展開されると、ちょっと不思議な気持ちになるけど。
と、ここで凛さんがあたしの前まで歩いてきて、おもむろに頭を下げてきた。
「幸子ちゃん……ありがとう」
「えっ」
「ねねちゃんがポテトチップスを持ってきちゃったこと、わたしに教えてくれて」
「いや……それは、そんな」
「もし、あと一年気付くのが遅かったら、ねねちゃんの人生が壊れちゃうところだったから」
凛さんの言う「一年」っていうのは、紫苑市は十一歳以上の人を「成人」として見るから。成人した人が今日のネネみたいなことをしたら、間違いなく警察へ突き出される。そうなると、残りの人生はおしまいだ――つまりは、こういうことを言いたいんだって思った。
「ねねちゃんには、人として守らなきゃいけないルールを、ちゃんと教えていかなきゃ」
「少なくとも、欲しい物があるなら、きちんとお金を払わなきゃダメだよ、って」
「わたしが責任を持って、ねねちゃんに教えます」
そう言った凛さんの、名前通り凛とした顔には、あたしも何も言えなかった。
きっと、あの時――凛さんは、ネネを護ろうって、護っていこうって、そう決意したんだと思う。
暗い部屋のベッドの上で寝転びながら、あたしはネネの万引き事件がああいう形で決着した事まで思い出していた。
いなげやからポテトチップスを二袋万引きしようとしたネネ。それは結局あたしが凛さんに告げたことで未遂に終わって、以後ネネがスーパーの万引きとか、部活で使う部費を盗んだりとか、泥棒じみたことをしたことは一度もない。凛さんがきちんと「人の物を盗ってはいけない」「欲しい物があるならお金を払わなきゃいけない」って教えてるだろうから。
(だからかな、ネネが『お金ほしい』って言ってるのは)
万引き事件があって、欲しいものを手に入れるにはお金が必要なんだって分かったネネ。だから小学校を出て働けるようになると同時に、新聞配達のバイトを始めた。こう考えてみると、うまく繋がってるんじゃないか。凛さんにちょっとでもいいものを食べてもらいたいからバイトをして、もらったお金は全部凛さんに渡してる。普通なら、健気だって感心するところだと思う。
けど、なんかネネっぽくない。ネネっぽいのが何かっていうのは脇において、なんかネネのイメージに合わない。ネネはもっと何も考えてなくって、その場の思いつきだけで動いてる。ネネの側に長く居て、ネネの事を一番知ってるあたしには、そんな風に思えて仕方ない。凛さんのために働いてお金を家に入れてる、なんかネネっぽくない。もっと能天気で何考えてんのか分かんない、それがネネのキャラだって思う。
(まあ……万引きとかしなくなっただけ、ネネも成長したってことかな)
それ以上考えるのも面倒くさかったし、あたしはここで考えるのをやめて、一眠りすることにした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。