盛夏。
ミンミンミンと蝉が鳴く。風にあおられ木が揺れる。ガサガサと葉が擦れ合う音が聞こえる度に、児童公園のベンチに腰掛けたシズの心は小さくざわめいた。夏用の制服を身に着けた彼女の傍らには、少しくたびれた学校指定の紺色の鞄と、ハンドタオルをぐるりと巻きつけた麦茶入りのペットボトルが並んで座っていた。シズがおもむろにペットボトルを取って蓋を緩めると、飲み口を口につけて麦茶を喉に流し込む。こくん、と小さな音がして、シズは喉が潤されたのを感じた。
ボトルを元々あった位置へ置き直す。少しばかり前のめりになっていた姿勢をきちんと正して、シズは今一度ベンチに深く腰掛けた。木陰の下のベンチは、心持ち程度とは云え暑気を和らげてくれる。昔からヒワダの夏は暑かったと聞く。四方を山々に取り囲まれた地形のためだろうか。取り留めもない考えが時折泡沫のように浮かんでは、ふっと音もなく消えてゆく。シズは深くため息をついた。
身体を預けているベンチの左隣に目をやると、口を開けて間の抜けた表情を見せているヤドンがいた。シズがヤドンの顔を覗き込むと、ヤドンはのそのそと顔を彼女に向けて、相も変わらず締まりの無い顔をするばかりだった。たっぷり時間を掛けて首を傾げてから、ヤドンはシズが自分に何か用件があって顔を覗き込んできたわけではないと理解し、再び前へ向き直った。
日陰と日向の織りなす濃いコントラストが、無遠慮に目に飛び込んでくる。木々が揺れ動く度に影の形が細々としかし目紛るしく変わり、同じ形に止まることは決して無かった。夏特有の湿り気を帯びた風がぴゅうと吹いて、シズの丸みを帯びた頬を撫でてどこかへ飛び去っていく。
シズは、三日前の夜に起きた出来事を回顧していた。
*
母を手伝って作った赤魚の煮付け。それに箸を付けるのを今か今かと心待ちにしていたシズの気持ちを一遍に吹き飛ばしたのは、食事前に兄から聞かされた言葉だった。
「シズ。来年の三月に中学を卒業したら、僕の後を継いで、ヒワダタウンのジムリーダーになってほしいんだ」
持っていた箸を思わず取り落としそうになりながら、シズが兄のツクシの顔をまじまじと見つめる。ツクシが突如としてシズに切り出した話は、シズから冷静さを奪うには十分に過ぎた。ツクシは自分に驚きの目を向けるシズに、あくまで穏やかに優しい視線を返していた。
ツクシの唐突な話に困惑したのは、シズ本人だけに留まらなかった。
「ちょっと待って。お兄ちゃん、それどういうこと? お姉ちゃんがジムリーダーって、どういうことよ」
スズ。シズの双子の妹だ。殊更言い立てるまでもなく同い年で、顔立ちも瓜二つという言葉が相応しかった。ただ、姉のシズは「静」の字面通り穏やかで大人しい気質なのに対し、スズはあたかも打ち鳴らされる「鈴」のように活発で負けん気の強い気質の持ち主という、正反対の性格をしていた。シズとスズは双子の姉妹で、共にツクシの妹でもあった。
今年成人を迎えたツクシは、ここヒワダタウンで八年に渡ってジムリーダーを務め続けていた。もうすぐ就任から十年目を迎えるし、これからはジムリーダーとしてさらに研鑽を重ねると、今年の初めに家族の前で宣言したばかりだった。それがどうして突然、来年からはシズに後任を託すなどと言い出したのか。
「お兄ちゃん、何かあったの? 急に、わたしにジムリーダーを継いでほしいなんて……」
「ビックリしたよね。ちゃんと事情を話すよ」
シズを後任のジムリーダーにしたいと言い出した理由を、ツクシが順を追って説明した。
そもそもの発端は、カントー・ジョウト地方のポケモンリーグ四天王の一角を占めていたどくポケモン使いのキョウが、一身上の都合で現職を退任し、四天王の座に空席ができたことがきっかけだった。運営委員会はキョウの後任となる者の選出を行い、審議の結果、アサギジムリーダーのミカンとヒワダジムリーダーのツクシが後継の候補として挙げられた。その後、ミカンからは要請に対する謝絶の連絡が届き、先立って承諾の返答をしていたツクシが晴れて四天王の座に就くことになった。
「じゃあ、お兄ちゃんはポケモンリーグで四天王になるってわけ?」
「そうだよ。だから、僕の代わりのジムリーダーが必要なんだ」
「お兄ちゃんの代わりが……わたしってこと?」
ツクシがヒワダタウンを離れることに伴い、彼の後任となるジムリーダーが必要になった。そこに至って、彼の妹であるシズが後を継ぐという方針が出された。今の状況を整理すると、以上のような形になる。
戸惑いを隠し切れないシズが、兄に質問を投げかけた。
「で、でも……四天王って、もっと年季の入った人が就くと思ってたし、お兄ちゃんは若すぎるんじゃ……」
「僕もそう思ったよ。でも、選出に関わった人たちが言うには、僕が小学校を出てすぐにジムリーダーに就任して、それからずっと継続してるってところがポイントだったらしいんだ」
「確かに、お父さんから継いだ後、ずっとお兄ちゃんがジムリーダーだったしね」
「そうだね。それと、実際に運営委員会の人や現職の四天王の人たちに会う機会があって、その時に訊ねてみたんだ。そうしたら、『世代交代のためにも、新しい人、それも若い人が加わってくれた方がいい』って聞かされたんだよ」
世代交代、という兄の言葉が、シズにも大きな重みを伴って覆い被さってきた。四天王が世代交代すれば、自ずとここヒワダタウンのジムリーダーも世代交代となる。自分が新たなジムリーダーになるということを、シズは否が応にも認識せざるを得なかった。
「お兄ちゃんは……どうしても、四天王になるつもりなの?」
「そのつもりだよ。今までとは違う仕事ができるし、もっと新しいことに挑戦してみたいんだ」
既に決心を固めていたツクシは、重ねて言い聞かせるように、こうシズに言葉を投げ掛けた。
「だから、シズ」
「僕の後を継いでほしいんだ」
*
ほとんど飲み干したペットボトルをぶら下げながら、シズはぼうっと遠くの空を見つめる。兄のツクシから告げられた「ジムリーダーになってほしい」という言葉をうまく受け止められないまま、気が付くと既に三日が過ぎていた。いつもならもうすぐ迎える夏休みに心躍らせている時期だったが、そんな浮かれた気持ちには到底なれなかった。
(いきなり、言われちゃった)
前触れなどは一切なかった。強いて言うなら、ツクシが遠出する頻度が多少増えていたような気はするが、以前から毎月のジムリーダー定例に出ていたから、それと同じだと考えていた。青天の霹靂と言うと仰々しい響きがあるが、渦中のシズにしてみればそれくらいのインパクトがあった。
あれから毎日のように、ツクシからジムリーダーとしての仕事のやり方をレクチャーされている。ツクシは穏やかに優しく教えてくれてはいたが、シズはそれをただ真似るのが精一杯で、各々の仕事が持つ真意をきちんと掴めずにいた。物心ついてから今までずっとツクシの側で手伝いをしてきて、ジムの運営についてはそこそこ知っていたつもりだったが、その認識がいかに甘かったかを思い知らされた。
「わたしがジムリーダーなんて、どうすればいいのかな」
何よりシズがもっとも困っていたのは、自分がジムリーダーとして活躍する姿をイメージできずにいたことだった。兄のツクシは何事も決断が早かったし、強いリーダーシップを持っていた。一方自分はどうか。いつも悩んでからでないと結論が出せないし、率先して皆をグイグイ引っ張っていく自信はなかった。自分に兄のようなリーダーシップはないというのが、シズの偽らざる本音だった。
抱えた気持ちを上手く解きほぐせないまま、シズは立て掛けていたカバンを手に提げて立ち上がる。家に帰って夕飯の準備を始めなければならないので、あまり外で油を売っている時間は無かった。ツクシはジムに七時ごろまで詰めているし、少なくともそれを過ぎてからでないとスズも戻らない。そして、母が戻るのは決まって一番最後だ。全員が戻ってくるまでに食事を支度しておくのが、シズに任せられた仕事だった。
「そろそろ行かなきゃ」
カバンの中にペットボトルをしまうと、シズは公園を後にした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。