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#09 シズちゃんの懊悩

「シズ。朝ご飯、いつも準備してくれてありがとう。助かるよ」

「大したことないよ。お母さんもお兄ちゃんもスズも、朝は忙しいから」

夏休みに入って数日が経った朝のことだった。シズとツクシの二人が向かい合って座って、朝食を囲んでいる光景があった。献立は発芽玄米にほうれん草の味噌汁、鮭の切り身と茄子の浅漬け。拵えたのは、言うまでもなくシズである。母は朝の当直で早くから出掛け、スズも部活の朝練でとっくに家を出ている。食卓についているのが二人しかいないのはそのためだ。

いただきます。二人で声を合わせて言ってから、静かな朝餉の時間が始まった。時刻は七時半になろうとしている。ツクシは八時頃からジムに入り、九時の開館に向けて、フィールドの清掃、ジムトレーナーやアドバイザーの出迎え、事前に対戦を予約している挑戦者のチェックといった準備をするのが常だった。来年からはこうした業務もシズが引き継ぐことになるため、シズも手伝いに入る予定だった。

鮭の切り身の骨を綺麗に取り去り、玄米と一緒に食べていたツクシは、前方に座っているシズが浮かない顔をしているのを目に留めた。茶椀を手に持ったまま、時折箸を動かして少しずつ玄米を口へ運ぶのを繰り返している。視線は下を向いたまま上向く気配を見せず、気落ちしているのは誰の目にも明らかだった。微かに胸を膨らませたかと思うと、ふう、と小さくため息をつく。

「ため息をつくと、幸せが逃げてくって言うよ、シズ」

「えっ?」

「少し元気が無いみたいだけど、何かあったのかい?」

不意に声を掛けられたシズが、急に顔を上げた。顔を跳ね上げた先には、優しい表情を浮かべて自分を見つめている兄の姿があった。ツクシと目が合ったシズは二度三度と瞬きしてから、やがて落ち着きを取り戻す。何かあったのか。その問いに、力なく頷いて応じる。

「もしかして、ジムリーダーのこと?」

「……うん。そのことで、ちょっと……」

今のシズが悩むとしたら、これしかあるまい。ツクシにはすべてお見通しだった。シズは言葉を詰まらせながらも、ツクシの問い掛けに肯定の意を示した。

「毎日引き継ぎをしてるけど、短い間にいろいろ教えすぎちゃったかな。もしきつかったら、少しペースを落とすよ」

「ううん……そうじゃないの」

引き継ぎが辛いのかと気遣うツクシに、シズは首を振って応じる。茶碗をテーブルの上にことんと置いて、シズがぽつぽつと話し始める。

「お兄ちゃんからいろいろ教えてもらえるのは、わたしもうれしいし、もっと頑張らなきゃって思う」

「だけど……それ以前に、わたしにジムリーダーが務まるって思えなくて」

「なんて言えばいいんだろ、自分がちゃんと『ジムリーダーしてる』って光景が、どうしても想像できなくて……」

ジムリーダーとして活躍していく自信が無いと正直な気持ちを吐き出すシズに、ツクシは黙ったまま口を出さず、時折頷きを挟んで傾聴に徹した。シズが一通り言い終えると、ワンテンポ間を置いてから口を開いた。

「なるほど。シズは、自分にはジムリーダーとしての素質が無い、そう思ってるんだね」

「うん……だけど、そんなこと言っても何も始まらないから、なんとかしてわたしもお兄ちゃんみたいにならなきゃって、ずっと考えてるの」

「シズは、僕みたいにならなきゃいけないって思ってる?」

「……うん。お兄ちゃんは八年間ずっとジムリーダーをしてたし、こうやって四天王に推薦されるくらいだから、きっと、みんなのお手本だったんだと思う。だから、わたしがお兄ちゃんの後を継ぐなら、それくらいしっかりしなきゃダメだって……そう思ってるよ」

「けれど、今のシズはそこまでの自信を持てない。そういうことだよね?」

ツクシの言葉に、シズはただ頷くばかりだった。シズに続いてツクシも箸と茶碗を置く。

「じゃあ、どうしてシズは自分に自信を持てずにいるのかな?」

「それは……」

「遠慮せずに言ってみて。それが、シズのためにもなるよ」

兄に促されたシズが、訥々と話し始める。

「わたしに、自信が無いのは……」

「多分、自分が今まで何もできてこなかったから、だと思う」

「お兄ちゃんは、わたしよりも小さい頃からずっとジムリーダーをしてて、みんなからも尊敬されてるし」

「スズは小学生の頃から剣道を続けてて、大会とかでも何回も優勝したりしてる」

「でも、わたしにはそういうのがなくて……そういう『一つのことをずっと続けてきた』とか『何か大きな事を成し遂げた』って記憶が、一つもなくて」

「だから……わたしには、ジムリーダーっていう、みんなのお手本にならなきゃいけない仕事はできないんじゃないか、ジムリーダーになる資格も器量も、わたしには無いんじゃないか、って……」

兄と妹を引き合いに出して、シズが自分の苦しい胸のうちをツクシに明かした。兄のように他者から尊敬されるような仕事ぶりを見せているわけでもない、妹のように一つの物事に打ち込んで大きな成果を得たわけでもない。ツクシやスズのように自分の経験に裏打ちされた確固たる自信が無いから、己にジムリーダーという大任を果たせるのか疑問が生じてしまう。シズの言ったことを要約すると、そうした意味合いになる。

自分に自信が無い理由を口にしたシズを前にして、ツクシがじっと彼女の姿を見つめる。肩を落とすシズは、何某か発せられるであろう、ツクシからの言葉を待っていた。

暫し沈黙が続く。シズが居づらさを感じて恐る恐る目線を上げると、相対するツクシはいつものように穏やかな笑みを浮かべているのが見えた。お兄ちゃんはいつもこんな感じだ。シズは過去の記憶を振り返りながら、兄はいつでも泰然自若としていると感想を抱いた。いつでも余裕を感じさせる素振りを見せて、慌てているところを見た記憶がほとんど無い。やはり自分に自信があるから、何事にも動じずに対応できるのだろう。シズはそう結論付けた。

「……やっぱり、シズは真面目だね」

「えっ?」

ツクシの持つ独特の風格に思いを馳せていたシズが、そのツクシから些か唐突に「真面目だ」との評を受けて、素っ頓狂な声を上げた。きょとんとした顔つきをして、言葉をうまく飲み込めていない妹の様子を見て、ツクシが体を前へ乗り出してさらに言葉を続ける。

「僕はシズが話してくれたことを聞いて、よく考えてくれてるんだな、って思ったよ」

「悩んでいるということは、それだけ深く考えているとも言える。アリアドスの巣のように思考を張り巡らせて、ああでもない、こうでもない、じゃあ、どうすればいい? そうやって考えてるってことさ」

「ジムリーダーにとって一番大切なことは、物事を深く、そしていろんな角度から捉えることなんだ。今のままでいいのか、変えなくていいのか。それを常に考えていくのが、一番大切だからね」

「トレーナーの実力をきちんと評価することも、毎日休まずに仕事をすることも、もちろん大切だよ。それは間違いない。僕がシズに教えた通りだ」

「だけど、それ以上に――今のシズみたいに、自分の中にある問題をしっかり捉えて、逃げずに真面目に考えること。僕はそれが一番大切だと思うんだ」

こくこくと頷きながら、シズがツクシの言葉を受ける。

兄の言いたいこと・言わんとしていることは、シズにもある程度理解できた。考えることが大切だというのは、自分にも同意できるところがある。けれど、それだけではダメなのでは無いか、やはり自分に自信が持てなければならないのではないか。その疑念を拭い去るまでには至らなかった。

「シズ。辛いかもしれないけど、今はとにかく考えてみてほしいんだ。シズのしてることは間違ってなんかない。むしろ正しいからこそ、今みたいに苦しい思いをするんだ」

「今は実感が湧かないかもしれないけど……いつかきっと、あの時悩んでよかった、たくさん考えてよかった、そんな風に思える日が来るからね」

曖昧な表情を浮かべるシズに対して、ツクシが言葉を投げ掛ける。

「もし、どれだけ考えても悩んでも、どうしても自分なりの答えが出せなかったら、僕に訊いてみて」

「ジムリーダーの先輩として、何よりシズのお兄ちゃんとして、僕はシズにできる限りのことをするよ」

「深く考えるのはいいけど、それが行き過ぎて、一人で抱え込んじゃうのはよくないからね」

行き詰まったら声を掛けてくれ、手助けはするから。そう請け合う兄の姿を、シズが不安気な眼差しで見つめる。

「大丈夫。シズには十分、ジムリーダーになれる素質があるよ」

「僕は、シズなら僕よりも立派なジムリーダーになれるに違いないって思ってるからね」

「だからシズ。僕は、シズに期待してるよ」

兄は、自分よりも立派なジムリーダーになれるとまで言っているが、はっきり言ってとてもそうは思えない――口には出せない心細い思いを抱えたまま、シズはごく小さく頷くのがやっとだった。

 

 

ツクシを手伝ってジムの朝の仕事を恙なく終えると、シズは家へ戻って家事の続きに取り組んだ。家全体にくまなく掃除機を掛け、お隣に回覧板を回しに行き、前日の新聞やチラシを新聞袋へ詰める。シズがようやく一息つけたのは、庭に洗濯物を干し終えた後のことだった。脇にカゴを抱えたシズが、日差しを浴びるたくさんの洗濯物を眺めつつ、額に浮かんだ汗を腕で拭う。

後でお茶を持っていってあげなきゃ。ジムで活動するトレーナーたちと、それを監督するツクシのためにだ。ジムには水分を補給できる場所がなく、この暑い中でお昼まで練習や試合に取り組めば喉はカラカラになるはずだった。シズはそれを見越して、いつも予め冷たい麦茶を用意してメンバーたちに振る舞っていた。こうした細かい気配りは、ツクシやジムトレーナーたちからも「ありがたい」とよく言われていた。誰に対しても優しく接していたので、シズを「お姉ちゃん」と慕うトレーナーも少なくない。

お茶は既に冷えているので、折を見て持っていけばいいだろう。一先ずそれまではするべきことはない。シズは休憩がてら、相棒のチルチルと遊ぼうと考えた。チルチルの入ったモンスターボールを庭に投げると、チルチルが元気よく飛び出してきた。シズが懐から古びたテニスボールを取り出すと、すぐさまそれの意味するところ――一緒にキャッチボールをしよう――を理解して、キャッキャッと嬉しそうな声を上げた。

「よし、チルチル。行くよ」

使い古されて些か薄汚れたテニスボール、それをシズがごく軽く放り投げると、チルチルが右上の腕でガシッとキャッチする。受けたチルチルが振りかぶって投げたボールを、シズは両手でポンと受け取る。他愛ないただのボールの投げ合いだったが、シズもチルチルもこのゆったりとしたボールのやり取りが好きだった。休みの日はこうして二人で遊ぶ習慣があり、雨の日でも和室でやるなど必ず続けていた。

シズとチルチルにはもう一匹の相棒として、かまきりポケモンのストライクがいた。名を「ハーベスター」という。ストライクの鋭利な両腕が、実りの時期を迎えた作物を「収穫」するための鎌を思わせたことに由来するニックネームだ。性別は♀、戦闘ではストライクらしく機敏で攻撃的な動きを見せるが、そうでない時は主に似て大人しく淑やかな性格の「乙女」だった。チルチルとの相性は抜群で、チルチルから補助を受けたハーベスターが攻撃を仕掛ける、というコンビネーションをよく使っている。ちなみに、妹のスズも似た構成を取っていて、アリアドスのミドリだけでなく、ハーベスターと同じくツクシからもらった卵を孵して生まれたくわがたポケモン・カイロスを連れていた。

ハーベスターがいるときは、シズとチルチルの間に彼女を挟み、投げ合われるボールをハーベスターが鎌で打ち落とそうと邪魔する、という遊びを楽しんでいた。ところが、今日はこの場にハーベスターの姿は見当たらない。というのも、ジムトレーナーの一人にレンタルポケモンとして貸し出し中だったからだ。時折チルチルもシズの手を離れてジムでレンタルポケモンとして使われることもある。そういうときは専らツクシが借り主で、レベルの高いトレーナーを相手にするため、という理由が多かった。

ボールの投げ合いを続けつつ、シズは朝ツクシに言われたことを思い返していた。

『シズ。辛いかもしれないけど、今はとにかく考えてみてほしいんだ』

『いつかきっと、あの時悩んでよかった、たくさん考えてよかった、そんな風に思える日が来るからね』

考えてほしい、か。もうずいぶん考えてるつもりなんだけどな。シズが心の中でぼやく。ツクシは自分にどんな風に「考えて」もらいたいのだろう。まずそこから「考える」必要があった。

ジムリーダーになるにあたって、シズにはお手本が必要だった。幸い、ツクシというとても優れたお手本がいたので、シズはそれに倣うべきだと考えた。けれど、ツクシは優秀に過ぎて、シズがそっくりそのまま倣うにはハードルの高い存在だった。その高いハードルを如何にして越えるか、シズの考えはそこに集中していた。ツクシのようになるためにはどうすればよいか。ツクシのように優れたリーダーであるためには、何が必要なのか。

考えて考えて考えて、眉間にシワを寄せる寸前まで行ったところで、シズははあ、と息を吐き出した。一旦考えるのを止めたのだ。やっぱり答えは出せそうに無い。自分はツクシのようにはなれないという思いが強くあって、どうしてもそれが前に出てきてしまう。考えてもダメなんだ、と諦めて肩を落とし、チルチルから飛んできたボールを受け止め、いつものように投げ返した。

「そうそう。上手だよ、チルチル」

チルチルが左下の手でボールをキャッチしたのを見ながら、シズは考える方向を少し変えた。考えてほしい、シズにそう言った、兄であるツクシ自身のことについて、だった。

シズから見たツクシはどのような存在だったか。いつも落ち着いていて、何事にも動じず冷静な判断ができる。好きなことにはとことんのめり込むタイプで、むしポケモンの研究を小学生の頃から今に至るまでずっと続けている。直接は関係ないが、顔立ちは母によく似ている。シズもスズも母親似だったので、兄妹は三人とも同じような顔つきをしていた。そう言えば、小さい頃はちょくちょく女の子に間違えられていたような。

むしポケモンの研究が好きで――そう、確かかつては「学者になりたい」と言っていたことを、シズは鮮明に記憶していた。実際その探求心は本物で、これまで性質の知られていなかった「れんぞくぎり」という技能の持つ特異性を発見したのはツクシだったはずだ。何度も繰り返していく事で徐々に集中力が高められ、一発ごとの威力が自然と増していくというものだ。ハーベスターとはまた別のストライクと共に試し斬りを繰り返す中で発見したと、本人が話をしていた。

シズには、ツクシのようなハッキリとした「何かになりたい」という願望が無かった。日々の勉学と家事に追われて、先々のことにまで頭が回らなかったというのが正直な所だった。そこへ降って湧いた「ジムリーダーになって欲しい」という要請。シズが戸惑うのも無理は無かった。その日その日のことだけを考えてきた人生の途中で、唐突に先の事が決められてしまったわけだからだ。ツクシから告げられてから、時間だけはそれなりに経ったが、物理的な時間の長さは彼女の戸惑いを解きほぐすのにはさして役に立たなかった。

直前まで高校に進学しようとしていたのも、端的に言えば「周りが皆そうしていたから」「それが普通だと思っていたから」という弱い理由でしか無かった。ジムリーダーになると決まったことで、高校へ進学するという道は失われることになる。ひいては、それまで共に歩んできた友人や同級生たちと違う道を選ぶという意味になる。シズが進むことになる道は、シズ自身が道を作っていかなければならない。

ツクシがジムリーダーになったときは、どのような心境だったろうか。当時シズはまだ幼稚園に通っていた頃で、ツクシがどんな顔つきをしていたかを思い出すことはできなかった。

ただ。夜遅く、母が先に自分とスズを寝かしつけて、リビングでツクシと二人で話をしていた記憶があった。あの時はずいぶん遅くまで話し込んでいたはずだ。あの時の光景が、これから何か重大なことが始まるような気がして居ても立ってもいられなかったのを、布団の中で密かに目を開けていたシズはよく覚えていた。あれは恐らく、ツクシが後継者としてジムリーダーに就任することについて話していたのだろう。

母と共にそうして心積もりをしたためだろうか、ツクシは当時のポケモンリーグ史上最年少のジムリーダーながら、各方面から非常に高い評価を得て、多くの人に慕われることとなった。年下や同年代はもちろん、年上からも尊敬される理想的な存在と言えた。少なくとも、シズから見たツクシはそのように見えていたし、今もそれが変わらず続いていると感じていた。

そうであったから、シズは尚更、自分はツクシの後継者足り得ないと感じていた。

ツクシのように厚い人望があるわけでもなく、スズのように何か一つの物事に打ち込んだ経験もない。日々を過ごすのが精一杯で、小さな殻に閉じこもっている矮小な人間、シズは自分をそう評価していた。兄や妹が立派な功績を残す度に自分に対するマイナスの感情が生じて、そうして卑屈な感情を持っていることを自覚する毎にますます自分の小ささを感じる。まさしく悪循環。このサイクルを通じて醸成された自己評価の低さは、簡単には覆せそうに無かった。

チルチルからボールが飛んでくるのが見える。いつものように難なくキャッチして、チルチルに対して投げ返す。

(どうすれば、お兄ちゃんみたいに自信が持てるんだろう)

(どうすれば、お兄ちゃんみたいになれるんだろう)

一向に答えが出せないまま、シズの懊悩は続いた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。