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#08 シズちゃんの三角関係

終業式を済ませた、事実上夏休みの最初の夜。

「チルチル、ありがとう。おかげで何回も取りに行かなくて済んだよ」

四本の手にそれぞれ南瓜・人参・茄子・玉葱が各々入ったビニール袋をぶら下げたチルチルが、得意気な顔をして台所の前に立っていた。シズに頼まれて、ベランダの隅にある野菜を入れておくダンボールから持ってきたものだ。シズはチルチルから野菜を受け取ると、しっかりお使いをした賢いチルチルをたっぷり褒めてやった。

終業式の後、友達とポケモンセンターでしばし寛いでから、シズはやはり一番に家へ戻ってきた。掃除機をかけて洗濯機を回し、さあ今晩の献立はどうしようかと考えたとき、一昨日お隣からお裾分けしてもらったたくさんの夏野菜を思い出す。瞬時にいくつかの献立を思いついたが、シズはツクシやスズが食べやすいように(この二人は共通して、味覚が子供っぽいところがあった)と、カレーを作ろうと考えるに至った。

小学生の頃から、シズはごく普通に家族全員分の食事を用意していた。最初は失敗もあったものの、徐々に効率的で安定した段取りを習得し、今では何もかも手慣れたものだった。台所を預かるシズにとって、既存の料理にアレンジを加えたり新しいレパートリーを増やしたりするのは、日々の暮らしの中の小さな楽しみの一つだった。今彼女が作ろうとしている、夏が旬の野菜に挽き肉を加えた夏野菜カレーも、編み出したバリエーションの一つだ。

すりすりと擦り寄って懐いてくるチルチルの相手をしながら、シズが慣れた手つきで野菜を切る。チルチルはシズよりほんの僅かに背が低いくらいで、少し背伸びすればシズに追い付くことができた。シズを手伝って家事をすることも多く、特に四本の腕を使って「何かを持っておいてもらう」ことが多かった。

シズがまだ小学校に上がる前のことだった。一匹のレディバがウバメの森で群れから逸れてしまい、一人木の陰で怯えているところをシズに見つけられた。レディバは群れを作らないと動けなくなるほど怯える、ということを知っていた――実際には兄のツクシから講釈を受けただけだったのだが、ともかく知識としてそれを知っていたシズは、レディバを不憫に思って保護することにした。それが、今のチルチルである。

その後チルチルはすくすくと成長してレディアンに進化し、体格もずいぶん立派になったが、シズを心から頼りにしているのは変わらなかった。シズにくっついて一緒に家事を手伝い、時には一緒に散歩に出たりして、ずっと良好な関係を保ち続けている。シズにしてみても、チルチルは気を許せる数少ない存在であり、掛け替えの無いパートナーと言えた。普段からあまりモンスターボールへは入れずに外へ出してやっているのもその考えによるものだ。もっとも、チルチルは暗く狭いところを好むので、モンスターボールに入るのは嫌ではないどころかむしろ好きだったのだが。

切った野菜と挽き肉を炒め、カレールウと共に煮込み始める。ローリエの葉を入れるのも忘れない。あとは完成するのを待つばかりとなる。換気扇のスイッチをバチンと入れた後、額にうっすら浮かんだ汗をタオルで拭う。ふう、と少し大きく息をつくと、シズが体の力を抜く。

コトコトと音を立てる鍋を見つめながら、シズは朝の光景をプレイバックした。

(リョウタ君と……スズ、か……)

就業式前の教室で繰り広げられた二人のやりとり。スズがいきなり突っ掛かってきて、それにリョウタが強く言い返す、けれど負けじとスズも張り合う。妹と幼馴染の言い合いを、シズは遠巻きに眺めていた。その気になればすぐに止めることもできただろう。仲裁に入ることもできただろう。けれどシズは、二人の間に割って入ることはしなかった。スズがどうしてあんな行動を取ったのか、シズには理由が想像できたからだ。

率直に言って、スズは。

(スズは……やっぱり、リョウタ君のことが好きなんだ)

スズはリョウタのことが好きだから、あんな態度を取ってしまうのだと――シズは解釈していた。

冷蔵庫からレタスとトマト、そして胡瓜を取り出し、シズが付け合わせのサラダの準備を始める。手は休まず動かしながらも、思考もまた止めることはない。プラスチックのざるにレタスを手で千切って放り込みつつ、シズが双子の妹であるスズの過去の行動を一つ一つ思い返していく。

普段のスズが見せる男子に対する態度と言うのは、それはそれはクールなものだ。言いたいことを手短且つ冷静にきっぱり言って、相手の反論を許さないところがある。シズも過去何度となく、口調こそ落ち着いていたものの、傍から見るとかなりきつい物言いをしているスズの姿を見たことがある。さすがに姉であるシズに対してはそこまで刺々しい言い方はしていなかったが、先日帰り道で鉢合わせした時のように、言いたいことはストレートに言ってくることに変わりはなかった。

だから、リョウタと相対した時に見せたあの感情的な態度は、普段のスズの姿からはかなりかけ離れていると言ってよかった。普段なら相手を理詰めの言葉でねじ伏せるような言い方をするところを、リョウタに対しては不器用にも真正面から挑み掛かっている。スズがあんな感情的な言い合いをするのは、リョウタが相手の時だけと言ってよかった。同性の友人はおろかツクシやシズに対しても、スズが朝のような態度を見せることは無かったのだ。

もしかするともっと単純に、スズにとってリョウタは幼馴染だから、あんな態度を取っているとも考えられる。仮にシズが、スズの思いが如何ほどのものか知っていなければ、そう考えることもできただろう。けれど、シズにしてみればその意見は首肯できるものではなかった。かつてシズが目にした光景が鮮明に思い起こされる。今から半年と少し前、去年の暮れの大掃除の時だった。

久しぶりに休みが取れた母と共に、シズは年末の大掃除に精を出していた。自分の部屋は既に整頓されていたので窓拭きと掃除機掛けだけで済んだし、ツクシの部屋は母が受け持ってくれていた。問題はスズの部屋だ。シズとは対照的に整理整頓が苦手なスズの自室は、字面通り足の踏み場もないほど散らかっているのが常だった。時間がある時に度々母が手を入れてやってはいるが、気がつくとまた雑然とした部屋に巻戻ってしまう。母もツクシも、そしてシズも、スズが片付けられないことは半ば諦めていた。

また一週間も保たずに散らかってしまうのだろうと思いつつも、それでも掃除機の一つも掛けないと不衛生だと思い、シズがスズの部屋の前へ立つ。普段二人が話をするときは決まって、無駄なものがなくスペースを広く使えるシズの部屋へスズが遊びに来る形になっていたから、シズがスズの部屋へ入るのは珍しいことだった。敷居を跨いで中へ踏み込むと、シズは思わず顔をしかめた。前もって覚悟はしていたが、実際に散らかっている様を見ると、ハッキリ言って覚悟がどうこうという問題ではなかった。

床には雑誌や漫画の単行本が折り重なって倒れ、無残に折り目が付いているものも少なくなかった。足に何かが絡まったので見てみると、携帯音楽プレイヤーの接続コードだったりする。水筒代わりに使っているペットボトルが日に日に減っていくと首を傾げていたが、スズの部屋には空になったそれが四つも転がっていた。ベッドに横たわっている靴下に見覚えがあると思ったら、スズのものではなく自分のものだった。どうやら勝手に履いていたらしい。机の上には、なぜか三本ほど中身が残った棒状のスナック菓子の袋がある。これくらい食べきればいいのに、どうして残すのか。寝汗を吸うために枕に巻いているタオルは折曲がってペシャンコになっていて、すぐにでも洗濯機へ放り込みたい衝動に駆られる。他にも部屋の惨状を挙げればキリがなく、シズは大きな大きなため息をついた。

とにかく片付けなければならない。シズが気合いを入れるために三角巾を巻き直すと、まず足場を確保するために、床に転がっているものを手当たり次第ベッドへ上げた。なんとか足元の安定を確保すると、雑誌や漫画をそれらしい棚へぽんぽん放り込んでいく。自分の部屋なら号数や巻数を揃えて並べる所だが、そんなことをしていると日が暮れてしまうのでここは適当に済ませた。ある程度見通しが立ったところでシズが振り返り、教科書やノートが山積みにされている学習机を見やる。机としての機能をまったく果たしていないのは明らかで、来年から始まる受験勉強のためにもここはきちんと整理してやらねばとシズが腕まくりをする。

教科書の塊を底部から掴み、まとめて床へ下ろす。次は端に陣取っているラジオだ――そんな考えを持っていたシズだったが、ラジオを手に取るよりも先に、目に真っ直ぐ飛び込んできたものがあった。

「これ……リョウタ君の写真?」

スズの机の片隅。四角い小さな写真立てに入れられていたのは、中学に上がったばかりの頃にシズが撮影した、スズとリョウタの写った写真だった。

四角い枠の中で、スズとリョウタが笑っているのが見えた。

遠くへ遡っていたシズの意識が、今の時間へ還ってくる。スズの部屋で目にしたものは、確かに間違いなく、スズとリョウタの二人が収まった写真だった。見間違えなどではなく、この目でハッキリと見た。疑いの余地などなかった。

千切ったレタスを水で洗う。水の冷たささえ忘れるほどに、シズの思考は複雑化していく。スズがリョウタに想いを寄せているのはほぼ間違いなかった。リョウタに対してだけいちいち感情的に突っ掛かるのも、好意の裏返しと捉えれば合点がいく。写真を飾るほどなのだから、その想いは本物なのだろう。

では、スズとリョウタが結ばれればよいのか。残念ながら、事はそう分かりやすい状況ではなかった。

自惚れを差し引いたとしても、リョウタが自分に対して気があるのは分かっていたし、シズ自身もまたリョウタに恋愛感情を抱いていた。それを自覚したのはつい最近のことだ。リョウタと互いに目を合わせ辛く感じる理由を自分なりに考えたとき、シズは、自分がリョウタをいつの間にか「男」として見ていることに思い至った。これまでの気楽な「幼馴染」とは一線を画す微妙な距離感。それを自分もリョウタも感じていたから、ぎこちないやり取りが増えていたのだとようやく気がついた。自分とリョウタは、互いに相手を想いあっている。それが今の二人の間柄だった。

スズはリョウタを想っている。リョウタは自分を想っている。自分はリョウタを想っている。

多分、スズはそれを知っているに違いない。シズはそう考えた。今日の会話への入り方を思い返せば、答えは余りにも明白だった。

『お姉ちゃんたち、何話してるの? 夏休みのデートの相談?』

自分とリョウタの間柄を分かっていたから、スズは敢えてこんな冷やかしをしてきたのだろう。冷やかすことで、自分の抱いている想いを押し隠そうとしていたのだろう。無論、スズ本人が喋るわけもないのですべてシズの想像に止まっていたが、これがあながち大外れとも思えなかった。

自分はリョウタが好きだ、しかしリョウタは姉のことが好きで、姉もリョウタを好いている。だから自分の入り込む余地はない。けれどリョウタが好きな事は変わらないし、変えようがない。かと言って、リョウタの意向を無視して自分のものにすることもできずにいる。リョウタへの好意とリョウタへの配慮の板挟みになっているのが、今のスズが置かれた状況だった。

もし、リョウタが好きな相手が、何の関係もない別の人間だったら、玉砕覚悟で想いを伝えたりすることもできたかも知れない。スズはそれくらいの度胸は持っていた。だが、リョウタが好意を抱いているのは自分の姉、シズだ。シズは曲がりなりにも姉である。その手前、リョウタにも自分にも何も言い出せずにいるのではないだろうか。シズは、自分がスズの立場に立たされれば、そう簡単には言い出せないだろうと考えざるを得なかった。

スズの気持ちを考えると、シズは自分の胸が苦しくなってくる思いがした。意図せずスズを苦しめている、或いは傷つけているわけで、決して自分の本意ではなかった。それと同時に、自分が「罪の意識を感じている」ということ、それ自体がスズに対する偽善としか思えず、より一層苦しみが増した。スズにしてみれば、自分がいるからリョウタと両想いになれないわけで、そんな「お邪魔虫」に憐憫の情を持たれても腹立たしいだけだろう。それでいて、自分がリョウタに好意を抱いていることに変わりはないのだから、最早偽善とも呼びがたいものであった。

スズから見て、自分はどんな存在に見えているだろうか? 食べやすい大きさにした野菜を各々の器に盛り付けながら、シズは思う。スズはジムリーダーになりたい、しかし、実際にジムリーダーになるのはシズだった。スズはリョウタのことが好きだ、けれどリョウタが好きなのはシズだった。

スズからすれば、姉は欲しいものをすべて持っていってしまう――そう見えても、致し方ないだろう。

皮肉なものだ、とシズは自嘲せざるを得なかった。シズ自身が欲しいもの、家事や将来に縛られない自由な生き方や、一心に打ち込めるものは、すべてスズが持っているというのに。各々の欲しいものを相手が持っていて、それを交換することができない。人生とはそんなものとは言え、ここまであからさまだとさすがに嘆息せざるを得なかった。

作り終えたサラダにラップを掛けて冷蔵庫へ仕舞い、時間つぶしに台所の整理をしていると、鍋を火に掛けてから結構な時間が経っていることに気が付く。シズが鍋の蓋を取って開けてみると、程よく煮詰められた美味しそうなカレーが出来上がっていた。生煮えにしてしまうことも焦がしてしまうこともなく、きちんと完成している。

火を弱めて軽くかき混ぜながら、シズがか細い声でつぶやく。

「……これくらい、うまくいったらいいのに」

カレーは生まれも育ちも違う多種の野菜や肉が交じり合っているというのに、一つの料理として綺麗に完成する。それぞれに何の関係もないはずなのに、カレーという一つの完成形、言わばゴールを目指すために、全員が一丸となれる。

人生とはままならぬものだと、シズは肩を竦めるしかなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。