トップページ 本棚 メモ帳 告知板 道具箱 サイトの表示設定 リンク集 Twitter

#34 シズちゃんの戦慄

「これは、今年の三月のことだよ」

「ポケモンリーグに何度も出場するような、強豪のトレーナーがいたんだ。もちろんバトルにも滅法強くて、何度も優勝候補だって目されてた」

「実力も実績もある、だから優秀なトレーナーだ――今の基準だとそうだし、周囲からもそう言われてるんだけど、実際のところいろいろと問題もあった」

「そのトレーナーはポケモンに絶対服従を強いていてね、異論や反論は一切受け付けなかったんだ。シズがチルチルやハーベスターの意見を積極的に取り入れて、時には彼らの意見を優先するのとは、ちょうど反対だと思ってくれればいい」

「命令に従わなかったり、要求した水準に達しなかった場合は、容赦なく叱責した。それも、はっきり言って生半可な物じゃない」

「『生きてて恥ずかしくないのか』『穀潰しの無能め』『お前達の代わりなんて幾らでもいるんだぞ』『休みたいならボックスの中で永遠に休ませてやる』――僕が口に出して言えるのは、これくらいが精いっぱいだ。あとはもう、口にするのも憚られるような言葉ばかりだよ」

「こんな言葉の叱責はもちろん、暴力を用いることも多かった。ポケモンは何か罰せられるようなことをしたわけじゃないから、僕は『体罰』とは言わない。そのトレーナーは、ポケモンに対して日常的に『暴力』を振るっていたんだ」

「それだけじゃない。自分の意に沿わないポケモンに狙いを定めて、他のポケモンたちに虐めさせるように指示を出したりもしていた。残りのポケモンに、『自分たちは大丈夫だ』『自分たちは認められている』、そんな優越感を持たせると共に、『自分たちもこうなるかも知れない』『自分たちも同じ目に遭うかも知れない』、そういう恐怖感も、同時に植え付けていたんだ」

とある優れた実力を持つトレーナーは、暴力と恐怖によってポケモンたちを率いていた。もちろん、そうした内情が表沙汰にされることはない。他のトレーナーたちの目には、決断力のある「偉大なリーダー」として見えるよう、表舞台での立ち振る舞いには常に気を配っていた。

「そうしてチームを率いていたトレーナーだったけど、三月のポケモンリーグの予選で、初出場の選手に敗北したんだ。それも、相手はかなり年下の新人だった。これで酷く自尊心を傷つけられたみたいで、いつにも増してポケモンたちに厳しく当たったんだ」

「負けた時のチームでリーダーを務めていたのは、♀のバクフーンだった。よく健闘したけど、相手のトレーナーの繰り出した♂のバシャーモに『メロメロ』に使われて、魅了状態にされて負けたんだ」

「これはポケモンなら仕方ないことだと、僕は思う。異性からのアピールを無視しきれないのが、生き物としてのポケモンの性(さが)なんだ。だけど、トレーナーはそのバクフーンを『戦犯』に仕立て上げて、彼女に徹底的な叱責を加えたんだ」

「『どうして女に生まれてきたんだ』『フィールドで股広げて交尾でも始める気か』『責任取ってメンバーの前で自分で去勢してみろ』『そんなにやりたいなら体売って金でも稼いでこい』『女として使い物にならないようにしてやろうか』」

「――こんな叱責を加えているところを、別のトレーナーが目撃していてね。後日、ポケモンリーグに匿名で通報があったんだ。いくらなんでもこれは人道的に問題があるだろう、そう付け加えてたそうだよ」

予期せぬ敗北を受けたトレーナーは、最後に戦場に立ったバクフーンにすべての責任を背負わせ、文字通り言葉の限りを尽くして面罵した。シズはツクシが並べた言葉の一つ一つに大きなショックを受けるとともに、恐らくはそれ以上に苛烈な言葉が使われたのだろうと思いを馳せ、暗澹たる思いを募らせた。

「タイミングとしては、まさに通報があった直後だった」

「そのバクフーンが、近くにあった十階建てのビルから飛び降りた。即死だったそうだよ」

「遺体を調べると、下腹部に切ったばかりの大きな傷跡が見つかった。傷口の状態や形状から、これは落下した時の衝撃でできたものじゃなくて、バクフーンが自分で切りつけたものだってことが分かった」

「バクフーンはトレーナーから受けた叱責を苦にして、自殺を選んだ。僕には、そうとしか思えないんだ」

そうして痛罵されたバクフーンは、自ら死を選んだ。状況から見てまず間違いなく自殺だろう。自分の尊厳を完膚なきまでに破壊されて、なお生きる気力を保てる者は少ない。

シズの瞼の裏に、今もなお自宅で静養という名の延命を続けている幼馴染の姿が、はっきりと蘇ってきた。

「じゃあ、死んだバクフーンの親のトレーナーはどうしてるか」

「何か制裁を受けたのか、バクフーンの自殺を受けて何かが変わったのか」

「とんでもない。現役のトレーナーとして活躍しているよ。同じスタイルのままでさ」

「バクフーンの件は『不幸な事故』として処理されて、今も強豪の一員として認知されたままだ。強さを全面に押し出す姿勢が、多くのトレーナーたちから支持を集めているしね」

「確かに『不幸な事故』だと思うよ。死んだバクフーンが、そのトレーナーと巡り会ってしまった。そういう意味ではね」

「ポケモンリーグはこれをどう判断したか。倫理委員会は『明らかにトレーナーとしての倫理憲章に反する事例で、そのトレーナーの免許を即刻剥奪すべき』という意見を出した」

「だけど、リーグの運営委員会は違った。『バクフーンの自殺とトレーナーの叱責の間には因果関係が認められない』『当該トレーナーは多くの支持を集めており、免許の剥奪は他のトレーナーに対しても及ぼす影響が大きい』」

「『何より、前途あるトレーナーの未来を閉ざしてはならない』」

「前途あるトレーナーの未来を閉ざしてはならない。本当に、いい言葉だね。僕は……何も言えないよ」

「結局この意見が通って、バクフーンのトレーナーに対しては申し訳程度の訓告だけが行われた。まともに耳を傾けたのかは、本人にしか分からない」

「それと。委員の中には、こんな意見を言う人もいた」

「『死者の意見をそのまま鵜呑みにする姿勢は情が過ぎるもので、いささか危険である』『一匹のポケモンの死で、ポケモン界の繁栄や隆盛を妨げるようなことがあってよいのか』『相応な実力が無いと判ったのだから、自ら死を選んだことは本人にとっても幸福だったのではないか』『そのポケモンの死に意味づけを行う必要はないし、行うべきではない』」

「ちなみに、彼らはトレーナーが自殺した別の事例でも、ほぼ同じ意見を述べていたよ」

ツクシが淡々と、しかし痛切さを感じさせる調子で語った「不幸な事故」を、シズは呆然とした面持ちで聞いていた。

「ひどい……そんな事があったんだ……」

「率直に言って、惨たらしい話だと思う。胸のむかつく、吐き気のする話だと思う。だけど間違いないのは、そのトレーナーは今もこの社会で生きていて、表舞台で活躍してるってことだけだよ」

「じゃあ、バクフーン以外の他のポケモンたちは、今もまだ……」

「恐らくはね。蚊に刺されたようなお咎めしか受けなかったんだ。自分は間違っていない、バクフーンが弱かっただけのことだ。そう思っているはずだよ」

「また、同じことが起きるかも知れない。そうだよね……?」

「……その通りだよ。多分今頃、『自殺したら俺にこんなに迷惑が掛かるんだ、何があっても自殺するな』、そんな風に命令しているんじゃないかな。僕はそう思う」

顔を上げたツクシがシズを見据え、さらなる事例をシズに語る。

「もう一つ、別の話をしよう」

「これは去年の九月に起きて、新聞沙汰にもなったから、シズもまだ記憶に残ってるかも知れない」

「昨年にカントーのヤマブキシティから旅立った、二人の女子トレーナーがいたんだ。確か、どちらも十二歳だったはずだよ。家も近所同士で、普段から仲のいい親友同士だった。仮に、名前をAとBとしておくね」

「Aはシルフカンパニーの重役の娘で、家は一般的に言う資産家の部類だった。もちろん、子供の頃から蝶よ花よと大切に育てられていてね、きっと本人にも『恵まれた環境にいる』『自分は優れている』、そういう自覚があったと思うよ」

「対するBも、親がシルフカンパニーに勤めていた。Aとは違って平凡な中流の家庭で、B自身もごく普通の、誤解を恐れずに言うと特徴のない女の子だったみたいだ。Aとは根本的にタイプが違っていたと思ってくれればいい」

「Aの親もBの親も、確かにどちらもシルフカンパニーには在籍していた。ただ、Bの親はそれほど高い役職には就いていなかったんだ。記憶が正しいなら、営業部門の係長のポジションにいたと思う。もちろん、Aの親には頭が上がらなかった」

「AとBが知り合ったのは、単純に家が近くて、お互いに手頃な遊び相手が他にいなかったかららしい。才気煥発なAが、おっとりしたBを引っ張っていく。そういう構図だったみたいなんだ」

「二人は一緒の小学校に通うようになって、ごく普通に友達として過ごした。AがBをリードする形だったんだけど、Bはそれを特に不満に思ったりとか、我慢したりしていた様子はなくて、むしろAを頼りになる『お姉ちゃん』みたいに思っていたみたいなんだ。どちらも一人っ子で兄弟もいなかったから、擬似姉妹のようなものだったんだと思う」

「そうしてAとBは適齢期を迎えて、ポケモントレーナーとして旅をすることになった。Aの方はあくまで見聞を深めるというか、社会勉強の一環としての位置付けだったみたいでね。一年経ったら戻ってきて、ヤマブキにある私立中学へ進学するという約束になっていたそうなんだ」

「Bも同じ約束をしていたようなんだけど、これにはちょっと事情があった。Bの家庭はそれほど裕福とは言えなくて、私立中学へ行くには家計が厳しかった。そこへAの親が声を掛けて、Bは自分の娘とよく遊んでくれているから、受験料や学費のバックアップをしよう。そう言ってくれたそうなんだ。Bの親は一も二もなく、Aの親の申し出を受けたよ」

「お金持ちが庶民を助けるなんて、いい話だな。そう思うかも知れない。実際のところ、僕もそう思っていたよ。ほんの少し前まではね」

「はたしてAとBは一緒に連れ立って旅に出て、カントーの各地を巡っていった。旅自体は特段危ない目にも遭わなくて、楽しいものだったらしい。Aはチョロネコ、Bはピカチュウを相棒にしていた。カントーだとチョロネコを連れてるトレーナーは滅多に見ないから、それだけで周囲の耳目を集めてたみたいだ」

「ただ――旅に出て、二ヶ月ほどが経った頃だった。二人の関係に、一つの変化が生じたんだ」

ここまで話すと、ツクシは麦茶を一口飲んで、乾いた喉を潤した。本番はここからのようだ。

「きっかけはクチバジムへの挑戦だった。退役軍人のマチスさんがリーダーを務めているジムだよ。マチスさんはでんきポケモンの使い手で、ライチュウを相棒にしているんだ。知っての通り、Bの連れているピカチュウが進化した姿だよ」

「ジムトレーナーとの戦いには辛くも勝利したAだったけど、マチスさんの繰り出したライチュウには手も足も出なかった。観戦したトレーナーの一人によると、開幕で『10まんボルト』をもらって即ダウン、だったらしい」

「だったら、ということで出てきたのが、Bのピカチュウだった。多分、Bのピカチュウは勝てない。Aはそう考えてたと思う。対峙したマチスさんも、これはチョロネコに続けて勝てるだろうと踏んでた。そう言っていたしね」

「だけど、ここで信じられないことが起きた。Bのピカチュウが、マチスさんのライチュウを叩きのめして、ジムリーダー戦に勝利してしまったんだ」

「マチスさんが直接僕に話してくれた内容を引くと――ピカチュウはライチュウの最初の一撃を軽く躱すと、小さな体躯を生かして懐へ飛び込んだ。いわゆる『でんこうせっか』だ。ライチュウから先手を取ると、すぐにBの指示が飛んできて、ピカチュウは『かげぶんしん』を展開する。反撃に転じようとしたライチュウが肝心のターゲットを失ったところで、背後から『すてみタックル』を叩き込んで、大きなダメージを奪った」

「この時、マチスさんは直感的に感じたそうだよ。『この戦い方は、前にも経験があるぞ』。相手はピカチュウ、こちらはライチュウ、そして相手を翻弄して消耗させる戦法。試合中に冷や汗をかいたのは久しぶりだった、思わずあの時のことを思い出した。僕にそう言ってくれたんだ」

「痺れを切らしたライチュウが繰り出した切り札の『10まんボルト』を防御しながら受け止めて、蓄積したエネルギーを相手にぶつけ返した。勝敗はそこで決して、Bはマチスさんから勝利をもぎ取ったんだ」

「Bは下馬評を覆して勝って見せた。それだけじゃない。Bはピカチュウをすごく大事に扱って、決して邪険にすることがなかったんだ。ちょうどシズがチルチルに接するように、ポケモンの気持ちを全力で汲み取って、時にはポケモンに裁量を委ねる。失敗しても決して叱責せず、その失敗を糧にすることに全力を注ぐ。実際、試合中には何度か危うい場面もあったけど、Bはピカチュウを信じて疑わずに、勝敗が決するまで毅然とした態度でありつづけたんだ」

「話を聞いた僕も、実際に戦場で対峙したマチスさんも、同じことを感じていた。『Bには才能がある』。それも生半可なものじゃない、上を狙える、抜きん出て高い才能だよ。判断力も精神力もある、そしてポケモンを慈しむ心がある。これはかなりの逸材だろう。純粋にそう思ったんだ」

「その姿を、Aは間近で見ていたんだ。Bがすさまじい才能を発揮して、一瞬で自分を抜き去っていく姿を」

「実際にAが何を考えたのかは分からない。Bに対してどんな思いを抱いたのか、僕に正しく推し量る術はない」

「だけど、それに近づくための手掛かりならある。その日の夜、Aがトレーナー専用のSNSに書いた日記が、こんな内容だったんだ」

「『どうしてBちゃんにできて、わたしにはできないんだろう』」

「『Bちゃんにできることは、わたしにも全部できると思ってたのに』」

「『わたしにできなくて、Bちゃんにできるのは、なんだか、もやもやする』」

「シズなら……このAの日記に、どんな意図や思いが隠されているのか、きっと分かると思う」

シズは、ツクシの問い掛けに対するかなり明確な答えを、瞬時に用意することができた。それは非常に明解で簡潔なものだったが、しかし、口に出して言うには相当な躊躇いを伴うものだった。

つまるところ、それは――。

「こんなAの変化に、Bは最後まで気付かなかったらしい。少なくとも、日記や呟きからは、何も読み取れなかったよ」

「トレーナーたちと戦いを重ねていく中で、Aは負けが込み始めた。それも、かなりひどい負け方を繰り返してね。対するBは、全戦全勝というわけにはいかなかったけど、多くの戦いで勝利を収めて、敗北からも数多くの学びを得ていった。こうしたことは、二人の付けていた日記に委細が記されていて、ほぼ間違いないことが分かってる」

「Bの日記には着々と戦績と考察が積み重ねられていった。Bはおっとりしてたけど、その分大局的な考えをしていることが分かったんだ。しかも、冷静に自己分析ができていて、決して驕ったところがなかった。それでいて同時に、自分に十分な自信が持てているようだった」

「対するAの日記は、それはもう日に日に荒れていってね。読んでいる方まで奈落の底へ引きずり込まれそうなテンションだったよ。勝てないとか、こんなのおかしいとか、Bはどうしてこんなに強いのか、とかね。パートナーのチョロネコもかなり悲惨な目に遭ってたみたいで、さっきの事例と同じように、Aに隷属するような状態になっていたのはほぼ間違いない」

「Aはそれでも表面的にはBに対してこれまで通り振る舞い続けていて、BもあくまでAを『お姉さん』として見ていたような節があった。BはAに対して特段優越感を持ったりした様子は見当たらなくて、戦いに負けたら励ましたり慰めたりしてあげていたみたいなんだ」

「でも、多分……それが、Aの心理状態をさらに悪化させたんだと、僕は思う」

「最後にBの日記が書かれたのは、夏ももう終わりの八月の二十四日だった。それ以来、毎日きちんと書き続けられていたBの日記が、ぷっつりと途絶えたんだ」

「何が引き金になったのか、実際に何が起きたのかは分からない。少なくとも、僕達部外者には知る由もない」

「ただ一つ、言えることは」

「Bは――数日後、12番道路の水上で、首を掻き切られて事切れているのを、近くの釣り人に見つけられた」

「これだけは、間違いないことだ」

ツクシが静かに発した言葉は、Bが何らかの外的要因により死亡したことを、明瞭に物語っていた。

「死因は首を切られた際の失血死で、負傷してから死亡するまではいくらかの時間があったみたいだ。短く見積もっても十分くらいだと、報告書には書かれてあった」

「傷口の様子から、人間が道具を使って付けたものじゃなくて、もっと別の『何か』で付けられた傷のようだったらしい」

「何かに『引っ掛かれて』、Bは深手を負った。それが何なのかは、報告書では伏せられていた」

「これだけなら、不慮の事故という見方もできなくはない。腑に落ちない点はあるけれど、それ以上踏み込むことは難しい」

「結論としては、Bは何らかのポケモンに襲われて重傷を負い、そのまま水路に転落して死亡した。死亡事故として処理されることになったんだ」

「けれど、不審に感じたセキチクジムリーダーのアンズさんが、密かに周囲で聞き込みを行ってね。僕を含む何人かに、報告書には書かれていない情報を提示したんだ」

「いくつかあったけど、その中でもわかりやすい物を提示する。Bの遺体を見つけた釣り人は、アンズさんにこう語ったそうだよ」

「『服のポケットに、大きな石がいくつか詰め込まれていた』」

「先に断っておくと、Bに石を集める趣味があったわけじゃない。そうだとしても、ポケットに石を詰め込むなんて、普通じゃ考えられない」

「まるで、水路の底に深く沈ませるためみたいだと、僕は思ったよ」

シズの顔から血の気が引いた。首筋についた引っ掻き傷、服のポケットに詰め込まれた大きな石。カタカタと身を震わせながら、兄があくまで淡々とした調子で話す「事故」について、一心に耳を傾けていた。

「さて、シズ。ここで、誰かを忘れている気がするよね」

「Bと一緒にいたはずのAは、その時何をしていたのか」

「Aはセキチクのポケモンセンターにいた。一緒に旅をしていたBが急にいなくなった、そういう風に職員に言って、捜索願を出してもらっていたんだ」

「アンズさんは、Aと対話した職員からも事情を聞いてみた」

「その時Aは、相棒だったはずのチョロネコを連れていなかったんだ。代わりに連れていたのは、別のポケモンだった」

「いたのは、ピカチュウだったそうだよ」

いたのは、ピカチュウだったそうだよ。その言葉には抑揚が無く、ただありのままの事実を告げているだけ。シズにはそう思えて、そう思えたからこそ、身も凍るような思いをせざるを得なかった。

「個人情報保護法の制約で、ピカチュウの親の名前とトレーナーIDを調べることはできなかった。だから、そのピカチュウの親が正確には誰なのか、ポケモンセンターでは把握していない」

「だけど、少なくともピカチュウはその辺りには生息していない。カントー地方での生息地は、今やトキワの森くらいだからね。僕もよく行くから、たまに見掛けるよ」

思わずシズが目を覆う。Aがチョロネコではなくピカチュウを連れていた。チョロネコの姿は無く、ただピカチュウだけを供としていた。近辺でピカチュウが生息してる場所は無く、捕獲することは物理的にできない。これらの意味するところが、想像できてしまったのである。

半ば無意識のうちに――?処分?と?収奪?という二つの言葉が、シズの脳裏を掠めた。

「その後しばらくもしない内にBの遺体が見つかって、大きな騒ぎになったんだ」

「Bの変死は、マスコミでも大きく取り上げられていたよね。将来有望な若手、それも女の子のトレーナーが、誰が見ても明らかにおかしな死に方をした。一緒にいたはずの親友は、どういうわけかセキチクにいた。こんな事件に飛びつかないわけがない」

「一部の写真週刊誌は、Bがシルフカンパニー社員の娘だってことまで書いてた。被害者のことは書き放題だから、あることないこと書きまくってたよ。一:九くらいで、無いことの割合が突き抜けてたけどね。でも、みんなそれが『知りたい』んだから、書くんだろう」

「ライターも出版社も、『ニーズ』に応えているだけ。きっとそう言うと思うよ」

「12番道路でBの遺体が見つかって一月もしないうちに、遺されたBの家族はヤマブキを離れた。今はどこにいるのかも分からないし、それは僕らが知ろうとすべきことじゃない。僕はそう思う」

「じゃあ、Aは事件の後、どうしたか。そこで旅を切り上げて、ヤマブキへ戻ったそうだ。それから先のことは、僕らには判らない。多くの知りたいというニーズはあったけど、それは聞こえないみたいだった。もっともっと大きな声で、『これ以上触れてくれるな』と言っている人がいただろうからね」

「彼らだって、お金のために働いてるんだから」

「ただ、一つだけ目撃情報があった。ヤマブキのナツメさんによると、ジムトレーナーの一人が、母親と言い争ってる、制服姿のAの姿を見掛けた。今年の五月くらいのことだったかな」

「制服は、ヤマブキにある私立中学のものだったそうだよ」

Bが生きていたら、一緒に制服に袖を通して、机を並べて勉強していたかも知れないね。ツクシは口ではそう言いつつも、どこか本心からは信じていない、猜疑的な色を帯びた口調をしていた。

シズは思案する。Aの親が、Bの学費を工面するとBの親に切り出した理由は、何だったのかと。表層的には親切な行為に思えるそれには、別の意味合いがあったのではなかろうか。

投資家はリターンの見込めない商品へは投資しない。投じた額よりも大きな見返りが得られると判断して始めて、そこに資金を投入する。Bへの「投資」は、Aの親、そしてA自身にとって大きなリターンがあると判断したために計画された。そのように考えるのが自然だろう。

Aは、すべてにおいてBより優れているという自己認識を、無意識のうちに抱いていた。旅に出るまではそのイメージに齟齬が出ることもなく、AはBに対して寛大な心で接することができた。だが、Bがポケモンバトルの才能という大輪の花を突如として咲かせたために、Aの自己認識と現実の間に大きなギャップが生じた。平たく言えば、今まで下だと思っていたBに、大きく追い抜かれた形になったのだ。AにとってBは自分を追い掛ける存在で、自分が一番手であれば二番手であり続けるべき、いや、そうでなければならない存在だった。この瞬間、BはAにとって許容しがたい存在となった。

自分の背丈よりも高い?踏み台?には、乗ることができないからだ。

「トレーナーの倫理憲章には、ポケモンは人間の奴隷でも、ましてや道具でもないと、しっかり明記されている」

「初めて免許を取るときに必ず覚えさせられて、絶対に忘れることの無いようにと念を押されるはずなのにね」

「現実には、ポケモンを奴隷や道具として捉える人が、こんなにもいるってことなんだ」

「倫理憲章の条文は、今やただの文字の集まり、音の塊になってしまっているのかも知れないね」

終始穏やかな兄の口調は、聞き手たるシズにとっては恐ろしく重々しいものだった。ポケモンを奴隷と見做す人間、道具として扱う人間は確実に存在するという厳然たる事実を突きつけられて、シズは言葉に窮した。

「ポケモンとトレーナーに絡む問題は、これだけじゃ済まされない」

「警察や行政も手を焼いてるのが、トレーナーや元トレーナーたちの間で、薬物の乱用が広まってることなんだ」

「ポケモンの基礎能力向上のために薬物を投与するトレーナーは数多くいる。その時の経験で、薬物に対して甘い認識を持つトレーナーが少なくないんだ」

「手の施しようがないところまで行って、ほぼ廃人と化したケースも珍しくない。僕が時々ジムでも講義をしてるから、どんな状態になるかは、シズもよく知ってると思う」

「一向に上へ上がれずにストレスを溜めて、逃避のために薬物に走る。このパターンが本当に多いんだ」

トレーナーたちの間で広がる薬物汚染。ポケモンに対して薬物を使用することが常態化しているために、自分に対しても抵抗無く薬物を使ってしまう者が大変多いという。

「次によく槍玉に上がるのが、トレーナーの連れているポケモンの繰り出した技が人間や物に損害を与えるケースだ」

「ヒトカゲの放った『ひのこ』が目標を逸れて近くを通り掛かった通行人に直撃して、全身の二割を焼く大火傷を負わせた」

「フォレトスの『だいばくはつ』に巻き込まれて、近くにいた子供が右腕を切断するほどの大怪我を負った」

「ダグトリオの引き起こした『じしん』で周囲の家屋が倒壊して、二十人以上の死傷者を出した」

「はっきり言って、こんな程度じゃ済まない。事例はいくらでもある。毎年全国各地で、痛ましい事故が起きてるんだ」

「こういうとき誰に過失があるかだけど、法令上はもちろんポケモンのトレーナーに責任があることになってる。だけど多くのケースで、トレーナーは一定以上の負担を背負わなくていいようになってるんだ。多くのトレーナーが免許を入手すると共に加入する損害保険、これが適用されて、そこが弁済を行うことになってるんだ」

「被害者の多くは、最低限の治療費と慰謝料だけを受け取って、あとは泣き寝入りするしか無い。被害を与えたトレーナーは既に金銭による弁償をしている、一事不再理の原則で、それ以上の責任を問うことはできない。そういう論理でね」

「それが正しい形なのかどうかは、議論されてもいいと思うんだ」

ツクシが姿勢を正すと、声のトーンをより静かなものに切り替えた。

「それに……僕には、もっと気にしていることがある」

「野生のポケモンが、僕たち『人間』に攻撃を仕掛けてきたって事案が、ここ十年で急激に増えてきたことなんだ」

「もちろん、個人や小規模な集団に対する攻撃は、大昔からあったことだよ。それも問題だけど、そこは信頼できる護衛のポケモンを連れたり、危ない場所へは行かないようにしたりして、人間がうまく対処していくしかない」

「だけど、もうそういうレベルじゃない。『人間』の住む街や地域を集中攻撃して、予想もしていなかったような大きな被害を出すようになったんだ」

「僕は、去年の夏、タンバシティの海岸沿いで起きたことが忘れられない。多分、生涯忘れることはできないと思う」

「うずまき島の様子がおかしい、普段は凪いでいるはずの海が、ずっと大時化のまま収まる気配がない。シジマさんとミカンさんの両方から同時にこの情報が中央に上げられて、何事だと検討が始まったときには、もう手遅れだったんだ」

「あれは――海神の怒りとしか言いようがなかった」

「人間の脆さと、ポケモンの強さ。僕は支援のためにタンバへ行ってみて、その両方を思い知って来たよ」

「今でも、あの時聞いた言葉が、胸に焼き付いて離れない」

「『もしその気になれば、ポケモンたちは瞬時に人間を地球上から絶滅させられるだろう』」

「シジマさんは砂浜に散乱した瓦礫の山を前にして、そう呟いたんだ」

社会には、人とポケモンに纏わる問題が山積している。それは往々にして人と人との問題と絡み合い、社会の不合理さをより一層強める物となっている。トレーナーと非トレーナーの間には抜き難い隔絶があり、そしてトレーナーとトレーナーの間にも巨大な断絶がある。そしてポケモンたちも、我々はただ人間に使われるだけの存在ではないと、声なき声を上げ始めている。

「児童のポケモン所持を規制する法案。あれが出てきたのも、みんなが今の社会に不安を抱いているからだと思う」

「ポケモンが人を襲うんじゃないか、トレーナーがポケモンを使って事件を起こすんじゃないか、子供がポケモンを持つことは悪いことなんじゃないか。そんな思いが、あの法案を作らせた」

「もちろん、本質的に悪いのはポケモンじゃない。法案は欠陥だらけの完全な悪法で、僕の周りで賛成している人はいない。僕もあれを成立させないように、ジムリーダーとしてできうる限りのことはしてるつもりだよ」

「だけど――どうしてそんな化け物のような法案が出てきたのか。それを支持する人は、何を考えて賛成しているのか。彼らに僕らの意見を理解してもらうためには、僕らも彼らのロジックを考える必要があるのかも知れない」

「僕らにとって化け物に見えるそれは、彼らにとって英雄や守護神に見えている。そうじゃないとは言いきれないからね」

渦巻く不安は疑心暗鬼を喚起させ、疑心暗鬼は確証の無い確信となって人々の心に巣食っていく。世の混迷が深まるほどに、それはしっかりと根を張り、さらなる対立の種を拡散させていく。その螺旋は、終わりというものを知らない。

「社会の不安は、別の形の不安を生み出す」

「分かりやすい例を言うなら、イッシュ地方を中心に活動していた犯罪シンジケートの『プラズマ団』かな」

不安は更なる不安を生み出す。生み出された不安はひとりでに形を変えて、社会をより深い混迷の渦へと陥れていく。

「彼らは『ポケモンの解放』をスローガンとして掲げていた」

「人の手からポケモンを解放して、ポケモンたちがポケモンたちだけで生きられる世界を作ろうとした」

「ポケモンの解放。それは即ち、現代社会の大変革を意味する」

「彼らは本気で社会を変えるつもりでいた。実力行使に打って出ても、社会を変えたかった」

「すべてのポケモンが人の手を離れれば、ポケモンたちが救われる。幸せになれる」

「そして、それと同時に――」

目を閉じたツクシが、シズに告げた言葉は。

「――ポケモントレーナーたちの、血で血を洗う競争社会が終わる」

「彼らは、そう信じていたんだ」

「本当に解放されたかったのは、彼らの方なんだ」

ポケモンの解放。それをスローガンに掲げた彼らの本当の願いは、彼ら自身の解放だった。

終わりの無い競争に疲れ果てた彼らは、現実を打破するために理想へ傾倒した。自らの望む世界を作るために、その身を白い闇へ堕としていったのだ。

「罪を憎んで人を憎まず。彼らの『したこと』は、厳罰に処せられるべきだと、僕も思う」

「だけどそれは、彼ら『そのもの』の存在を否定するものであっちゃいけない」

「例え歪んでいたとしても、彼らには身命を賭して訴えたかったことがある」

「僕たちには、その声に耳を傾けて、考える義務があると思うんだ」

「彼らも僕たちも、この世界を形作っているという意味では、同じ立場にあるからね」

この世界は矛盾に満ちている。いくつもの矛盾を抱えて、時にその身を引き裂かれそうになりながら、それでも人は世界を形作ることを止められない。止めることなどできない。世界は人と共にあり、人は世界と共にあるからだ。

自分はジムリーダーとして、そうした不合理で不条理な世界の中に身を投じようとしているのだ。シズは一瞬気圧されそうになりながらも、気を確かに持ち、強くあらねばと自らに繰り返し言い聞かせた。

ツクシが次の言葉を発したのは、シズが気を引き締めようとした――

「ところで、シズ」

――まさに、その時だった。

 

「スズに殴られた場所は、もう大丈夫?」

 

その瞬間、シズは時が凍り付いたのを確かに感じた。平時と変わらぬように見える、しかし明らかに、間違いなく何かが違う兄の言葉には、シズを即時に戦慄させるだけの威力があった。

シズは、昨日スズがしでかしたことは、ツクシには言わないでおこうと考えていた。ジムトレーナーが負傷したならともかく、自分が殴られただけで済んだのだから、兄に言って事を大きくするべきではないと判断したのだ。だが今となっては、その判断が完全な誤りであったことを自覚せざるを得なかった。考えようによっては、スズの行為の隠蔽に手を貸したとも取れかねない状況になっているからだ。

顔を強張らせるシズを前にして、ツクシはいつも通り穏やかな口調で話を続ける。

「アドバイザーさんからの日報メールで連絡をもらったんだ。スズがケンジ君を殴ろうとして、咄嗟にシズが庇ってあげたんだってね。それはすごくいいことだと思うし、ケンジ君にケガが無くて何よりだったよ」

「でも。僕は、できればシズの口から、昨日の出来事について聞きたかった。こうやって僕が話す前に、シズの方から話してほしかった。そこだけ、少し残念かなって思ったよ」

思わず息を飲む。お兄ちゃんは、わたしの心を完全に見抜いている――シズはそう思わざるを得なかった。

「それで、腕はまだ痛むかな? シズ、無理してない?」

「う……うん。まだ、痛いけど……でも、でもっ、大丈夫だよ。きっと、すぐに治るから……」

「よかった。そんなに酷いケガじゃなさそうだね。それはよかったよ。シズが大丈夫なら、それでいい――」

 

「――そういうわけには、いかないだろうね」

 

シズは、今度こそ全身の血の気が引く思いがした。今までの人生で一度も感じたことのないような絶大な恐怖を、眼前にいる兄に対して感じていた。

「スズに、自分のしたことの意味を、起きていたかも知れない可能性を、一度じっくり考えてもらう必要があるかな」

兄は、ぞっとするほど冷たい目をしていた。慈悲の欠片も感じられない、只管に鋭く冷たい瞳。言うまでもなく、兄がこんな目をしているのは、初めて目にする光景だった。

「スズがケンジ君に暴力を振るおうとしたこと。それで、間に入ったシズにケガをさせたこと。もしかすると、ケンジ君がケガをしていたかも知れないこと」

「それが良かったのか、悪かったのかは、スズに答えを出させればいい」

「これからも同じことをするのかどうかも、スズに考えさせよう」

「僕はスズのしたことについて、何も判断しない。一切判断しない。できればシズも、この件ではスズには何も言わないで欲しい」

「考えるのは、スズ本人だからね」

シズは、ツクシの言葉を受けて、ただ頷くことしかできなかった。普段通りの穏やかな口調の裏に、言語化できない凄烈な意志を感じて、シズは言葉を紡ぐことができなかった。

ふう、と小さく息をついたかと思うと、ツクシは口元をふっと緩めた。ツクシの様子が変わったことを察したシズも、合わせて緊張を解く。

「シズ。ちょっと急な話なんだけどね」

「どうしたの? お兄ちゃん」

「来週、シズと一緒にキキョウへ行きたいと思ってるんだ。予定は大丈夫かな?」

「キキョウシティへ? うん、わたしはいつでもいいよ。でも、どうして?」

「キキョウジムリーダーのハヤトさんに挨拶をしに行きたいからさ。来年からシズがジムリーダーになることも知っててね、一度シズも顔合わせをした方がいいと思うんだ」

「そういうことだったんだ。お兄ちゃん、ハヤトさんとも仲良かったしね。わたしも行きたいな」

「ありがとう、シズ。そう言ってくれると思ってたよ。就任の挨拶と顔合わせをして、それからキキョウ観光もしようと思うんだ」

「ホントに!? じゃあ、マダツボミの塔とかにも行くの?」

「もちろん。前に家族みんなでキキョウに出掛けた時に、シズがすごく楽しそうにしてたのを覚えてるからね。ついでに、何かおいしいものでも食べてこよう」

シズが瞳を輝かせた。彼女はそうした名所旧跡が大好きだったのだが(同じ理由で、エンジュシティもよく好きな都市に挙げている)、その中でもキキョウシティの「マダツボミの塔」は特に好きな場所だった。小学生の折に家族で訪れた際は、塔の中央で微妙に揺れている支柱を延々と興味深げに眺めていて、隣で痺れを切らしたスズに引っ張られて塔から出てきたという笑い話もある。

スズに引っ張られて出てきたシズ曰く、

「マダツボミが大きくなって塔を支えている姿を想像したら、不思議な気持ちになった」

とのことで、スズは「そんなわけないでしょ」と呆れていたが、ツクシとスギナは「想像力があっていい」と評価していた。今でもよく覚えている、家族の風景だった。そんな思い入れのあるマダツボミの塔を見られるだけでなく、何かおいしいものも食べてこようというツクシの提案は、言うまでもなく最高のプランだった。

「よし、決まりだね。ハヤトさんにも連絡を入れておくよ」

「うん! わたし、今から楽しみ!」

「シズは頑張りっぱなしだからね。久々に骨休めと行こうか」

ありがとう、お兄ちゃん。シズが笑顔を見せて言うと、ツクシもまた、微笑んで返すのだった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。