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二.少年少女の幻想遊戯 - forbidden games -

そうしてまた日が昇る頃に、志郎は目を覚ました。重い瞼に閉ざされそうになる目をこすり、顔を洗おうと洗面所に向かうと、炊事場から音が聞こえてきた。洗面所の冷たい水で顔を洗い、志郎が炊事場へ向かうと、義孝が既に起きて飯の支度をしていた。

「おじいちゃん、おはよう」

「おお、志郎か。おはようさん。早起きだね」

「うん。何か、お手伝いすることある?」

志郎は義孝に言われるまま、朝飯の支度の手伝いをした。炊き上がった米飯を混ぜて蒸らし、食卓を水に濡らした布巾で拭い、焼いた鰆の切り身を小皿に盛り付け――一通りの作業をして、志郎と義孝が朝飯の準備をした。

手際がいいのは、志郎の家の都合があった。志郎と康夫は二人暮らしで、志郎の母、あるいは康夫の妻と呼ぶべき女性は家にいない。家事の類は父である康夫が請け負っていたが、志郎にその手伝いが回ってくることも多々あった。具体的にいつからそうだったのかは判然としないが、少なくとも幼稚園に通う頃から、志郎が家事の一端を担っていたのは事実だ。

時折、康夫に対して母親のことを訊ねることもあった。その都度、康夫は少々答え難そうな顔をして、穏やかに諭すような口ぶりで「お前の母さんは、遠くへ行ってしまったんだ」とはぐらかすばかりだった。今年に入っても、志郎は一度康夫に問うてみたが、答えは一向に変わらなかった。

答え難そうな表情や、濁すような言葉から、志郎は、子供なりに自分の「母親」がどうなったのか、ある程度察するようになっていた。つまるところ、母親は既に手が届くところにはおらず、有体に言えば亡くなったのだろう、父はそれを分かっていて、あえてはっきりとは言わないのだろう。そのように解釈するようになっていた。

「志郎、おばあちゃんのところへ行って、仏飯をお供えしてやっておくれ」

「分かった。ぼくがやっておくね」

疑問に思うところが、まったく無いわけではない。義孝の家には、かつて義孝の連れ合いだった文江の遺影と仏壇が据え付けてあったし、級友の家にも同じように仏壇が置かれているところがあった。だが、志郎の母親には、そのような「生きていたことの証跡」が見当たらない。写真の一枚でもあるものだと思うが、それすら見当たらない。

亡くなったというより、初めからいなかったのではないか。そう考える方が、むしろ、自然ですらあった。

まだ眠っている康夫を尻目に、志郎と義孝は先に朝飯を食べ、一足早く朝の支度を済ませた。義孝が留守番をしてくれると言うので、志郎は待っていたとばかりにその言葉に乗った。麦藁帽子を被り、水筒に冷えた麦茶を詰めた後、志郎は義孝の家から走り去っていった。

川へ続く道の最中、志郎は時折横手に目をやる。枝に片足でしっかりしがみついているホーホー、美しい花々から悠々と蜜を集めて回るバタフリー、キマワリに混じって夏季の晴天に歓喜するチェリム。ポケモン、あるいは物の怪たちは今日もまた日和田という楽園の中で、思い思いに活動しているようだった。

こんな光景もあった。打ち捨てられた自転車に絡み付いて眠っているマダツボミ、錆び付いた鉄骨を骨で軽く叩いて遊んでいるカラカラ、光の届かぬ湿った廃屋で茸を養うパラス。かつて人がその地に残していった『文明』の残滓を、ポケモンたちは無邪気に自然の色に染めていく。

文明あるところに、物の怪は現れぬ。だが、ひとたび文明がその足を止めたとき――帰ってきた物の怪が、文明を自然へと溶かしていくのだろう。

昨日チエが魚獲りを練習していたあの小さな河川までは、志郎の足で歩いて三十分ほどのところにあった。志郎が辺りを見回してみるが、チエはまだ来ていないようだった。さらさらという清流を湛える涼やかな音が耳に届き、身の丈より大きな葱を担いだカモネギが、向こう岸へすいすい渡っていく様が見えるばかりだった。

志郎は川縁に水筒を置くと、サンダルのまま川へと踏み込んだ。冷たい水が足を包み込み、そこから生じた心地よい寒気が背筋を駆け上る。日和田の暑さは相当なもので、何かにつけ涼を得なければ、とてもではないが過ごせたものではない。志郎は束の間の涼を得て、ほう、と息を吐いた。

川から顔を出す小さな砂利場の上で、兄弟と思しきソーナノが二匹、押し競饅頭をして遊んでいる。負ければ川に落ちてずぶ濡れになってしまうから、どちらも必死の形相だ。もっとも、ソーナノがどれだけ必死の形相をしても、結局のところいつもの朗らかな笑顔を崩すことは無かったから、傍から見ると楽しげであるとしか見えなかった。

ぐいぐいと互いを押し合う。兄弟であるからにはどちらかが兄でどちらかが弟だと考えるのが自然だが、ソーナノ二匹の実力は拮抗していた。一方が押されたかと思うと力強く押し返し、あわや、というところで、なにくそとばかりに反撃に打って出る。真面目であり、真剣であり、それでもやはり朗らかさは変わらない。

やがて、押し競饅頭を続けていた二匹が共々疲れてしまったのか、小さく息を吐いて体を弛緩させた。しばらく揃ってぼうっとしていたが、やがて右側にいたソーナノが自ら川へ飛び込んだ。ささやかながら水飛沫が上がり、砂利場に残っていたソーナノに雫が飛ぶ。にこやかに笑う兄弟の姿を見た相方も、負けじと川へ身を投げた。暑い盛りに押し競饅頭などしていたから、ここらで一服涼もうという腹積もりなのだろう。

「あれ、楽しそうだなあ……」

「んだ。おらもそう思うだぁ」

「うわっ!? チエちゃん、いつからいたの?」

「ついさっきからだぁ。押し競饅頭の終いくらいだったかえ」

志郎の横からひょっこり顔を出すチエに、志郎はまたしても驚かされてしまった。チエは昨日と変わらず純朴そうな顔を志郎に向け、時折ぱちぱちと目を瞬かせている。なんとか気を取り直し、志郎がチエから一歩引く。

チエは、昨日と何ら変わらぬ装いで川に現れた。電気鼠のピカチュウを思わせる黄色の雨合羽に、つややかな黒のおかっぱ髪。下履きは無く、昨日と同じく裸足だった。志郎はチエの様子を一通り確認して、目の前にいるのが紛れも無くチエであることを確かめた。

「志郎、よく来てくれたなぁ。おら嬉しいぞぉ」

「うん。ぼく、チエちゃんと遊びたかったから」

「そうかそうかぁ。おらも同じだぁ。今日はうんと遊ぶぞぉ」

「そうだね。じゃあ、何して遊ぶ?」

「おら、さっきの押し競饅頭やってみたいだぁ」

「向こうでソーナノがやってた、あの押し競饅頭?」

押し競饅頭がしたいと要望を出すチエに、志郎は先程までソーナノがいた川の砂利場に目をやる。そこにはもうソーナノはおらず、使おうと思えば使える状態だった。二人が立つには少しばかり手狭だが、いやいやむしろそれくらいの方が押し合い圧し合いも面白かろう。志郎はこくりと頷いた。

はしゃぐチエと共に砂利場へ向かい、志郎が上に立つ。次いでチエが隣に立ち、準備は整った。二人が体をくっ付け合うと、志郎は横目でちらりとチエの様子を窺った。

「チエちゃん、これでいい?」

「おらはこれでいいぞぉ。始めるかえ?」

「うん、わかった。行くよ? せーのっ……!」

掛け声を上げて、志郎とチエが押し競饅頭を始め――

「それぇいっ!!」

「うわっ!?」

――た、直後。チエが志郎にお尻から体当たりを敢行して、隣にいた志郎を一撃で吹き飛ばした。志郎は軽く浮き上がって砂利場から投げ出され、無抵抗のまま川へと飛び込んだ。派手な水飛沫が上がり、志郎が川面に叩きつけられる。それほど深い川でもないから、志郎は川底に遠慮なく腹を打ち付けることになった。

昨日の比ではない程にずぶ濡れになった志郎が、何とか体を半分起こしてみると、チエが得意気に胸を張って志郎を見下ろしていた。呆気に取られた志郎が、ふるふると濡れた顔を震わせ、チエの目をまじまじと見つめた。

「い、今の……何?」

「はっはっはぁ! おら普通に押しただけだぁ。志郎こそどうしたんだぁ?」

「うーん……ぼくも、普通に押しただけなんだけど」

「ありゃ、ちと強かったかえ? おら加減したつもりだったんじゃけどなぁ」

「どう考えても、全力だったとしか思えないよ……」

チエ曰く、志郎を吹き飛ばした体当たりは「加減したつもり」だったらしい。全力でぶつかられたら、志郎は反対側の岸まで吹き飛んでいたかも知れない。チエは見かけによらず、結構な力持ちのようだった。

川の水で顔を洗い、志郎はざぶざぶと音を立てながら立ち上がる。下着も含めて全部が全部びしょ濡れになってしまったが、おかげで涼しくなった。チエの立っている砂利場に戻ると、再び彼女の隣に立った。

「よし、二回目だ。今度は負けないぞ」

「なんのなんのぉ。おらだって負けねぇぞぉ」

「始めるよ。せーのっ……!」

こうして、志郎は再びチエに押し競饅頭の勝負を挑んだわけだが――。

――して、かくも華々しきその結果は、と言うと。

「……チエちゃん、ものすごい力持ちだね。ぼく、全然敵わないや……」

「はっはっはぁ! おらの勝ちだぞぉ!」

最初のものも含めて五回戦ってみて、そのいずれも初めと同じ負け方を繰り返したのだった。全身ずぶ濡れになった志郎がシャツの裾を絞って水を切りながら、チエの力持ちぶりに驚くやら気圧されるやら、とにかく呆気に取られていた。人は見かけによらぬ、と言うが、ここまで如実な例は珍しい。

志郎と押し競饅頭をして大勝ちしたチエは、機嫌よく鼻歌を歌っていた。多聞に漏れず、自分の思うように歌っているために少し調子外れであったが、それがまたとても楽しそうなのだった。志郎はサンダルの中に入り込んだ砂利を川の水で洗い流してから、ご機嫌なチエに話しかけた。

「楽しそうだね、チエちゃん」

「はっはっはぁ! そりゃぁそうだぁ。志郎がおらと遊んでくれるからなぁ」

「ぼくと遊べたから、嬉しいの?」

「そうだぞぉ。おらと同じくらいの童ぇなんて、日和田には誰もいねえからなぁ」

「そっか……そういえば、子供が全然いないね」

日和田は老いた村だ。志郎やチエのような子供は、とんと見かけなくなって久しい。だとすると、チエはこれまで長い間、一人きりで遊んでいたのだろう。一つか二つ年かさであるとはいえ、志郎は誰が見ても子供――チエの言葉を借りるなら『童』――だ。チエがはしゃぐのも、分かることだろう。

前にも触れたが、日和田の過疎と高齢化は止めようが無いほどに進んでいた。一番の若者が、義孝の家にやってくる健治という時点で、その様相が窺い知れるというものである。老いた村は、人と同じ運命を辿る様にゆるやかな衰退に入り、やがては顧みる者もいなくなってしまう。日和田はゆるやかな下り坂を降りている真っ最中だった。

「あーあぁ、志郎、ずぶ濡れになっちまっただぁ。おらが乾かしてやるぞぉ」

「うん。昨日と同じように、お願いするね」

志郎のシャツの裾を掴むと、チエが昨日と同じように、言葉にできない念仏のようなものを誦する。始めは何も変わらぬ様態だったのが、チエが顔を顰めた直後、また水がチエの指先へと導かれ、手の甲を伝って砂利場へ零れ落ちていった。見る見る内に、水浸しだった服が乾いていく。

すっかり水を出し切ってしまうと、チエはほとんど止めていた呼吸を、ぷはぁ、という大きく息を吐く音と共に再開した。何度見ても不思議な業だと、志郎は目を見開かずにはおれなかった。チエは額に汗を浮かべ、志郎に笑顔を向けた後、川の水で顔をごしごしと洗った。

チエの不思議な力、つまりは水を集める力が働くのは――昨日もそうだったが、チエが顔を顰めたすぐ後のことだった。あの力を行使するためには、少しばかり表情を歪めることが欠かせないのだろうか。疑問を抱いた志郎が、すぐさま、チエに声を掛けた。

「チエちゃん、一つ訊いてもいい?」

「なんだぁ、志郎? おらに訊きたいことがあるのかえ?」

「うん。昨日もそうだったけど……ぼくの服を乾かすときに、なんだかちょっと辛そうな顔してたけど、あれ、どうかしたの?」

「それかぁ。大したことないんじゃけどなぁ、おら、お天道様にお願ぇするときに、ちと『頭』がずきずきするんじゃあ」

「頭が痛くなるの?」

「うん、うん。頭が痛くなるのが先かぁ、お天道様がおらの頼みを聞いてくれるのが先かは、おらにも分からんけどなぁ」

チエは言う。あのような力を行使する時、チエは頭がずきずきと痛むのだと。それを合図にして、不可思議な力が顔を出すという仕組みになっているのだと。頭が痛くなるから力が使えるのか、力が使えるから頭が痛むのかは、チエにも分からないらしい。

頭痛が先か力が先か、というのは、鶏が先か卵が先か、その言い合いをするのに等しい。どちらとも取れるから、どちらとも言えなかった。確実に述べられるのは、チエの「お天道様へのお願い」というのは、チエの頭痛と切っても切れない関係にあるということだけ、だった。

「そっか、頭が痛くなるんだね。ごめんね、チエちゃん。無理させちゃって」

「気にするなぁ、おらは平気だぞぉ。でも、志郎は優しいなぁ」

「頭が痛くなるのは、ぼくもなったことがあるから、分かるよ」

一回り上からチエを見下ろす形になっていた志郎が、ほとんど無意識のうちに、チエのおかっぱ頭の上に右手を乗せていた。チエは不思議そうに目をパチパチさせてから、上目遣いでもって、自分の頭の上に乗っかった志郎の手を見つめた。

「痛いの痛いの、飛んでけーっ……なんてね」

「こぉら、志郎。おら、くすぐったいぞぉ」

志郎が優しい手つきでチエのおかっぱを撫でてやると、チエはくすぐったそうにしながら、はにかんで笑顔を見せるのだった。愛嬌のある仕草で、チエが微笑む。

楽しい。久しぶりにそう思った。志郎は日和田に来てからというもの、日々が退屈でならなかった。一週間ほどしか経っていないはずなのに、その何倍も、この何も無い寂れた村に留まっているような錯覚を覚えていた。あまりにも無為で、途方も無く倦怠で、呆れるほど空疎。挙句、泊り込んでいる義孝の家では、父の康夫と叔父の健治が沈鬱な言い合いを延々続けているから、余計に気が重かった。

チエは、鬱屈した夜空の如き志郎の心に流れてきた、箒星のような存在だった。とかくキラキラと輝いて、彼女の一つ一つの仕草に、志郎は強く惹かれていく。昨日会ったばかりだというのに、まるで、昔からツナガリを持っていたような、言い知れぬ親しみを感じる。それはもちろん、チエの屈託の無い性格に起因するものだ。少なくとも、志郎にはそう思えた。

楽しい気持ちに任せて、ただチエと遊ぶ。どうせ、家に帰っても健治が居座っているのだ――このまま、日が暮れるまで遊べばいい。志郎は、そう考えた。

チエの紅葉のような手を取り、強く握り締める。それにしっかり応えてくれるチエの指先が、志郎には快く、心地よく、心強かった。

「チエちゃん、もっと遊ぼうよ」

「当ったり前だぁ。おらまだまだ遊びてぇぞぉ」

二人は手を取り合って川から上がると、川から少し歩いたところにある鎮守の森へと向かう。人の手が入らなくなって久しい神社を守るように取り囲む、ごく、小さな森だ。階段を一段一段上り、志郎とチエの姿が、鎮守の森の中へと消えていく。

 

喧しいほどに響き渡る、蝉たちの命を賭した吟詠の合間を縫って。

「行くよ。だーるまっかが、こーろんだっ!」

少年と少女が、鎮守の森を遊び場に変えていった。

「あちゃあ……おら、捕まっちまっただ」

「えへへっ。鬼ごっこなら負けないよ。それじゃチエちゃん、今度はぼくを追いかけてね」

「よぉし、おらが鬼だぞぉ。志郎、覚悟せぇよぉ」

「そんな簡単に、つかまらないよっ」

「待て待て志郎ぉ、とっととおらのお縄を頂戴するがええわぁ」

「おーにさーんこーちら、てーのなーるほーうへっ!」

太陽は爛々と輝き、地表をその絢爛たる光で揚々と焼いてゆく。己が存在を十二分に誇示した後は、控える月に光の衣を覆い被せ、自らは冷たい海に沈んでその身を休める。

時に延々とその身を晒して人に手を焼かせ、時に雲を被って人を恋焦がれさせる。太陽以上に気まぐれな者がおろうか。咄嗟には思いつかぬ。

「こぉら、志郎。お稲荷の影に隠れるのは卑怯だぞぉ」

「どうして? だって、ちょうどいい場所だし」

「おらは玖魂って狐の物の怪が大っ嫌ぇなんだぁ。夢にまで出てきて、おらを干からびさせようとするんじゃあ」

「なるほど、チエちゃんはキツネが苦手なんだね。だったら、ぼくはここからてこでも動かないよ」

「なんじゃあ、狐みたいに悪知恵働かせよってからに。もういい、おら知らね」

「ごめんごめん。冗談だよ、チエちゃん」

ああ、太陽のなんと奔放なことか。奥ゆかしい月とは対照的な、かくも壮麗たる有様よ。

 

陽の色が赤みを増すころに、志郎とチエは別れることになった。

「チエちゃん、ありがとう。すごく楽しかったよ」

「おらも楽しかったぞぉ。明日も、遊べるかえ?」

「大丈夫だよ。今日と同じように、川で待ってるね」

「分かっただぁ。志郎、また明日なぁ」

「うん。さよなら、チエちゃん」

明日もまた、遊ぼう。そのように約束を取り付け、志郎が立ち去ろうとする。

「あ、志郎、待っとくれえ」

「どうしたの? チエちゃん」

「指きり、してくれんかえ」

「えっ? 昨日もしなかったっけ?」

「昨日は昨日、今日は今日じゃぁ」

小指を差し出し指きりをねだるチエの姿を見た志郎は、仕方ないな、と、口では言わなかったけれど明らかにそれと分かる苦笑いを浮かべて、ぴんと伸びたチエの小指に、己の小指を引っ掛けた。

蛇の喧嘩のように絡み合った小指の接点から、志郎はチエの鼓動を微かではあるが、しかし確かに感じ取れた。チエの澄み切った瞳に自分の姿が映し出されていると思うと、志郎は何だか照れ臭くなって、そっと視線を外してしまった。それでも、触れ合った指から伝わる鼓動は、志郎にチエの存在をハッキリと自覚させるのだった。

志郎はわざと二、三度咳払いをしてから、さも何事も無かったかのように、指きりの呪いを口にした。

「ゆーびきーりげーんまーん……」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」

「ゆーびきった!!」

絡め合っていた指を解くと、それと同時に志郎はチエの鼓動を感じとることができなくなり、一抹の寂しさが胸に去来する感覚を覚えた。チエは志郎の胸中を知ってか知らずか、無邪気な笑顔を志郎に向けつづけていた。

「うれしいなぁ。これで、明日も志郎と遊べるぞぉ」

「明日も必ず行くよ。一緒に遊ぼうね」

「うん、うん。楽しみにしとるよぉ」

鎮守の森の前で、チエと志郎が二手に別れる。志郎は、当然であるが元来た道を帰っていく。一方のチエはと言うと、鎮守の森の横をすっと通り過ぎて、そのもっと奥に見える、鬱蒼とした大きな大きな森へと吸い込まれてゆく。志郎は足を止めて、去り行くチエの姿を見つめた。

向こうに人家らしいものは見えない。あるいは、森を抜けたもっと向こうに、チエの住処があるのだろうか。日和田は山と森に囲まれた村だ。そのような場所に家があったとて、何らおかしなことはあるまい。何ら、気に掛けることはあるまい。

さて、一刻も早く戻らねば。早く帰れば早く飯の時間になり、早く飯を食い終われば早く眠ることができる。早く眠れれば、早くチエに会うことができる。今歩みを速めることは、遠回しにチエと早く会えるということを意味する。志郎は、ずっと被っていたが故に、少しばかり汗臭くなった麦藁帽子を改めて被り直すと、一目散に義孝の家へと駆けていった。

 

チエのことばかり考えていた志郎であったが――義孝の家まで戻ってくると、また、玄関に靴が三足並んでいる様が見えた。ふっと我に返る。夕暮れ時になっても、健治はここに居座っているらしい。関わりの薄いあの叔父が何をしているかなど、目で見ずとも易々と想像がつく。

そろりそろりと忍び足で、志郎は縁側へと向かった。開け放たれた窓から、室内で繰り広げられる、胃の痛くなるようなやり取りの一部始終が響いてきた。

「父さん、父さんだって分かっているはずだ。僕がサナトリウムに通い詰めなきゃいけなくなったのは、あいつの、あいつのせいだってッ」

「分かっておる。言いたいことは分かっておる」

「あれからもう三年も経っているんだ。それなのに、何一つ変わらない。窓の外を日がな一日見つめ通しで、たまに雨が降れば涙を流す。何も変わらない。変わらないんだッ」

「変わらない、のか」

「ああなってしまったのは、あいつの、剛三のせいだ。あの、外道の、鬼畜生の、人非人が、何もかも変えてしまったんだッ」

「それと、これとは、関係の無いことだと言っている」

「違うッ。そうじゃない。兄さんも父さんも、嵌められているんだ。これは、あいつの仕掛けた罠なんだ。騙されている、謀られている。正しいのは僕だ、僕の方なんだッ」

「例え山科がいなくとも、皆も賛成している。合意の上だ」

「何の為だ。水溜りなんて、あちこちに莫迦みたいに作っているじゃないか。どうしてここに作る必要がある。さっぱり分からないぞ。理屈が通らない。無理を通そうとしても、道理は引っ込まないぞッ」

健治の剣幕は、日を追うごとに増していっていた。中身が、志郎には分からない単語ばかりであったから、健治が何に憤怒し激昂しているのか、理解しようが無かった。意味も分からぬことを喚き続ける健治は、志郎にとって途轍もなく苦手な存在だった。康夫や義孝が辛抱強く真っ当に相手をしてやっていることが、正直に言って信じられぬほどだった。

理解できないことと言えば、チエが見せる「お天道様の力」だって理解できない。だが、あれは別に不快でも苦痛でもなかったし、チエが「お天道様にお願いすると願いが叶う」と言うのであれば、それは額面通り、チエの言うままなのだろうと思えた。理解できなくとも、何とも思わない。何故なら、チエというあの少女のことは、志郎は理解できるからだ。

縁側から家へ上がり、志郎が麦藁帽子を脱ぎ去る。蒸れて少し痒くなった頭を掻きながら、襖の向こうにいる叔父の気が静まるのを、じっと待ち続けた。

半時ほど経って健治がようやく引き上げたのを確認した志郎が、襖を開いて茶の間に姿を表す。志郎のことを意識の埒外に放り出していたのか、康夫も義孝も志郎の顔へ揃って視線を傾けた。少し居心地の悪い思いをしつつ、志郎は構わず茶の間へと出た。

千切った舞茸、輪切りの蓮根、刻んだ人参に湯掻いた牛蒡、洗った蓬、ざく切りの玉葱、大ぶりの薩摩芋と馬鈴薯、薄く切った南瓜、串に刺した獅子唐やら隠元豆、変り種に蒟蒻に昆布に紅生姜。鮮やかなタネを薄手の衣でからりと揚げた天麩羅を囲み、志郎らは夕飯を取った。昼飯を食うのも忘れてチエと遊んでいた志郎は、義孝の揚げた天麩羅の山を見るや今頃になって腹の虫が疼き、手当たり次第に天麩羅を食っていった。

湯を浴びて汗を流し、程々に涼んだ志郎が、茶の間で昼の続きをしている二人に先んじて布団に入った。目を閉じると、下ろした瞼を上げるのがひどく億劫に思え、そのまま闇に身を任せているうちに、体の末端から徐々に重さを感じ始め、やがて志郎は眠りについた。

暗い池に月が浮かぶ。台座の上に据えられた宝石か、闇にとらわれた姫君か。月はただ在るがままそこに浮かんでいるだけで、月は己の浮かぶ意味を知らない。人や獣、あるいは物の怪たちが、己の生き様に応じた、月の在り方というものを決めるのだ。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。