――明けて火曜日。
「お母さん、行ってきます!」
「気をつけてね。お留守番、一人で大丈夫?」
「平気平気っ。わたしのことは気にしないで、お仕事頑張ってね」
「うふふっ。ともえちゃん、頼もしいわね」
運動靴に履き替え、ともえが自宅を出る。あさみと隆史は今日も仕事で家を空けてしまうようだ。ともえは努めて明るく振舞い、隆史とあさみが仕事に集中できるよう心がけた。
「お留守番、かぁ……今日は何を作ろうかな……」
留守番ということで、必然的に夕飯は自分で支度することになる。留守番自体はこれまでにも何度も経験しているから苦にならなかったが、夕飯の献立を考えるのがなかなか骨が折れた。全国のお母さんの悩みを、ともえもまた抱えていたわけである。
「いいや。残ってるものをうまく使って、何か作ろうっと」
冷蔵庫の残り物を活用することを思いついたともえの後ろから、なにやら声が聞こえてきた。
「つたえたい~♪ このおもい~♪ とまらない~♪ う~♪ も~ど~れ~ない~♪」
「だきしめて~♪ つかまえて~♪ も~う~はな~さな~い~で~♪」
もうお分かりだろう。
「まりちゃん、今日も絶好調だね!」
「およ! ともともではぬぁいかっ! おはようぞよ!」
「おはよっ、まりちゃん!」
ともえの後方からあの名曲を歌いながら登場したのは、ご存知まりえだった。今日も今日とて楽しそうな様子である。
「ふむー。朝からもえもえに出くわすとは、今日はきっといいことがあるぞよ!」
「わたしは四葉のクローバーじゃないから、別に幸せにはならないよ~」
「にゃはは。気分的なものぞよ!」
二人は肩を並べると、足並みを揃えて一緒に歩き始めた。
「まりちゃんのクラス、来週の将棋大会って誰が出るのかな?」
「ゆりっぺが出るぞよ。まりえも出たかったんだけどにゃー。クラス内の選抜戦で華麗に二歩を決めて一発ダウト、ぞよ」
普通にルール違反である。
「わたしのクラスは、委員長のみんとちゃんが出るよ」
「おおっ! そいつはびっくりぎっくり松ぼっくり! いかにも将棋が似合いそうけれ、新ジャンル『将棋少女』を作ってもおかしくないぞよ。んむ!」
腕組みをしながら新ジャンル「将棋少女」の設立を要求するまりえ。リアンと顔をあわせたら仲良くやれそうだ。いろいろな意味で。
「そういえば、まりちゃん。まりちゃんって、土曜日にゆりちゃんと一緒に歩いてなかった?」
「んに。一緒に遊んだ帰りだったぞよ。でもでもっ、ともともがなんでそれを知ってるんだー?」
「わたし、隣を通りがかったんだよ。気付かなかった?」
土曜日の話だ。まりえがヘンな声を録音した動画を上げたら、何を間違ったかランクインしてしまったとかいう、あの珍妙な笑い話である。
「ちーとも気付かなかったぞよ! もえもえが通りがかったのは、どの辺りかえ?」
「えっと……あっ、そうそう。ここから少し行ったところにある、タバコ屋さんの前辺り」
「んー。おかしいにゃー、まりえが見逃すはずにゃいんだけどなー」
しきりに首を傾げるが、まりえの記憶の中にともえの姿は見当たらなかったようだ。色よい返事は出てこない。
「うーん……まりちゃん、夢中で話してたから、きっと気付かなかったんだよ」
「んに。多分そうぞよ! まりえももっと幅広い視野を身につけねばならぬのー。物理的な意味で」
身につけられるものでもないと思う。物理的な意味では。
「それで、どういう風にしたのか、教えてもらえないかな?」
「にょほほ! 任せてたもれ! まずまずっ、この前まりえのクラスのたけたけが――」
身振り手振りをふんだんに織り交ぜながら、まりえがともえに「クラスメートのヘンな声マネをさらにふざけて真似して、後から音声加工ソフトで編集しまくった挙句、人を食ったような一枚絵を一緒につけてコメントつき動画サイトへアップロードした」というエピソードを語った。
……朝からどんな話をしているんだという突っ込みは随時受付中である。
「んじゃ、まりえはここでっ」
「うん。まりちゃん、帰ったら必ず見てみるね」
「にゅふふ。乾いた笑いは保証するぞよ!」
C組の前でまりえと別れ、ともえは自分の教室へと向かう。まだ時間が早いのか、同級生の姿はまばらだ。人気の少ない廊下を静かに歩き、教室の扉を開く。
「あっ、川口くん。おはよっ」
「おっ……おはよう、中原さん……」
扉を開けた直後に、クラスメートの川口――本名・川口秀明――と出くわす。ともえから挨拶された川口は一瞬たじろいだ表情を見せ、直後、些か浮かない声で挨拶を返した。全体的に、彼を取り巻く雰囲気が暗い。
「……………………」
「川口くん、いつもなんだか元気ないなぁ……」
挨拶をしたきり、川口は教室から出て行ってしまう。川口はいつもこんな調子で、悪い意味でつかみ所の無いタイプだと思われていた。勉強はできるが人付き合いが苦手で、誰かと一緒に遊んでいるところを見た記憶が無い。麻衣にも近いタイプと言えたが、少なくとも麻衣にはともえや千尋がいる。川口には、授業中以外の空いた時間を一緒に過ごす相手が見当たらなかった。
「……おはよう、姉上」
「おはよっ、みんとちゃん」
黒板消しを持ったみんとが、ともえの隣に立った。黒板消しは既に手入れされていて、チョークの粉が綺麗に落とされていた。先生も気持ちよく授業を行うことができそうだ。
「みんとちゃん、いつもこうやって黒板消しを綺麗にしてくれてるのかな?」
「……それが、私の仕事だから……」
「ありがとう、みんとちゃん。時間があったら、また、わたしも手伝うよ」
目立たずともしっかり仕事をしているみんとを賞賛し、ともえがにっこり笑う。みんとは心持気恥ずかしそうにしつつも、悪い気はしなかったように窺えた。
「……姉上」
「どうしたの?」
「一つ、聞きたいことがある……」
「聞きたいこと? いいよ。何かな?」
少し唐突に話を切り出したみんとに、ともえが落ち着いて対応する。みんとは手に持っていた黒板消しを、教壇の上にそっと置いた。
「……昨日、私はアトリエに行かなかったけれど……誰か、新しい人は来なかった?」
「新しい人? ううん。昨日は来てないよ。わたしとあさひちゃんと、リアンさんとルルティさんで、魔法の練習とかをしてただけかな」
「……そう……実は、昨日の夜に――」
薙刀の稽古を終え、みんとが帰宅の途に付いていたときのことだった。
「……鳥や、虫の類じゃない。明らかに人間としか思えない人影が、遠くの空を飛んでるのが見えた……」
「空を飛んでる……? もしかして、それって……」
「……そう。魔女か、魔女見習いじゃないか、って思って……」
道すがら空を見上げた時、みんとは人が空を飛んでいるのを見たという。
「……黒か、群青か……色は分からなかったけれど、暗い色のローブを身につけて、空を……」
「暗い色のローブ……確かに、アトリエにいる人で、そういうのを身につけてる人はいないね」
「だから、新しい人が入ったんじゃないか、そう、思ったけれども……」
「そういうことじゃなかった、ってことだね」
みんとは空を飛んでいる影が身内で知っている魔女や魔女見習い、あるいは使い魔の誰とも一致しないと考え、新しいメンバーが加入していないかともえに訊ねた――一連のやり取りの概要は、この辺りに収束する。
「そうだとすると、一体、誰なんだろうね? 気になるよ」
「……私も同じ。だから、また見かけたら、必ず伝える……」
「うん。お願いするよ。夜に外に出る機会があったら、わたしも空のほうを注目してみるね」
自分たち以外に、魔女や魔女見習いがいるかもしれない――そう思うと、ともえは胸が躍るのを感じた。この日和田の町に、リアン以外の魔女もいる可能性が出てきた。どういう人物かは定かではないが、ともえが興味を引かれたのは事実だった。何がしかの形で接触できれば、また、新しい世界が見えてくることも考えられる。
(リアンさんにもこの話、聞いてみようっと)
朝から一つ楽しみを得て、ともえは自席へ戻った。
――お昼休み。
「……………………」
「……………………」
ともえは図書室に赴き、静かに読書に興じていた。彼女の傍らには、もう一人の同級生の姿が見える。りりこだ。
「……………………」
「……………………」
心地よい沈黙が続く。気の張らない、単純に静かな空間が作り出され、読書に没頭できる環境が整っていた。実際、ともえは完全に本の虫になっている。古びた文庫本――ページの左上には「船乗りクプクプの冒険」と印字されている――を柔らかく開き、本がつむぎだす世界に没入していた。
……しかし。
「……(ちらり)」
「……………………」
「……(ささっ)」
隣にいるりりこは時折ともえの横顔を見やると、また慌てて本に視線を戻す、という動きを断続的に繰り返していた。どうも本に集中できていない様子が窺える。ともえはそれに気付いているのかいないのか、これといった反応は起こさず、手にした「船乗りクプクプの冒険」から目を離すことはない。りりこの表情には困惑や嫌悪の類の色は一切見られず、純粋に隣にいるともえが気になって仕方ないという様子だった。
ともえが読んでいる「船乗りクプクプの冒険」の粗筋はこうだ。著者をモチーフにした小説家の本を読んでしまったために、本に描写されていた不可思議な世界に迷い込んだ東京在住の少年・タロー。彼は入り込んだ先の世界で「クプクプ」の名を与えられ、船乗りとして生きていくことを余儀なくされる。タローもといクプクプは東京の自宅へ戻るべく、小説家を探してあちこちを駆けずり回る――大方、そんなところだ。
前提条件や展開は異なるが、ひょんなことから不思議な世界へ迷い込む――それ自体は、今の自分たちが置かれている境遇と変わらない。ともえは、ページを繰りながら、そのような感想を抱いていた。行き倒れていたお姉さんを助けたことで、変身し、望みのものを出現させ、空を自由に飛ぶ、常識外れの不思議な存在「魔女見習い」になることができた。今の自分たちは、小説のような突拍子も無い世界にいる。ともえの感想は、そこに集約された。
「ふぃ~。今日も返却済みの本が多いよぉ~」
読書中のともえの耳に、聞き覚えのある声が入り込んできた。今日もまた図書室で仕事をするようだ。
「大塚さん、一度にそんなにたくさん運ぶと危ないよ」
「大丈夫だいじょぉ~ぶ! 一度でぇ~、ぱぱっと済ませちゃった方がいいからねぇ~」
珊瑚は前回同様、山積みの本を一度に片付けてしまおうという腹積もりのようだ。自分の背丈以上に本を積み上げ、よろよろと歩いている姿が見える。嫌な予感がせずにはいられない状況である。
「お~っとっとっとっとっとぉ……」
「あわわわわ……」
「お~っとぉっ!」
大方の予想通り、とても危なっかしい光景であった。たびたび大きな声をあげながら、危なっかしげによろめき続けている。見ているほうがはらはらする、否、声を聞くだけでも嫌というほどはらはらする。
「……………………」
それが幾許が続いた後、不意にぱたん、と本を閉じる音が響く。静かに椅子を引き、そっと立ち上がる。
「わ、わ、わ……ふぅ。危ない危なぁ~い、っとぉ!」
「……………………」
「……あれれぇ~? いつの間にか本が減ってるぅ~?」
珊瑚の前から、一気に半分ほど本がなくなっていた。珊瑚が「?」を浮かべながら、右手に目を向けると。
「もー、珊瑚ちゃんっ。これじゃ、前と同じことになっちゃうよ」
「ともえちゃ~ん! 手伝って――」
声をあげてともえにお礼を言おうとした珊瑚を、ともえがさっと制止する。
「……しーっ。珊瑚ちゃん、声が大きいよ。図書室じゃ、静かにしなきゃ」
「……うぐ。ごめんなさぁ~い……」
図書室は大声厳禁――基本中の基本のルールである。ともえに小声で、けれどもきっぱりと注意され、珊瑚はようやく声のボリュームを落とした。仕事はきちんとするし悪気は無いのだが、少々周囲が見えていない傾向がある。それが珊瑚のキャラクターだった。
「中原さん、ごめんね。僕が持っていくよ」
「うん、お願いするね」
傍で見ていたもう一人の図書委員が駆け寄り、ともえから本の山を受け取った。珊瑚とほぼ半々に分け合い、一緒に本を片付ける。二人で手分けして持ってみれば、どうということの無い分量に過ぎなかった。珊瑚も無理をせず、最初から二人で仕事をしていればよかったのである。
「……ふぅ。よかったよかった」
「……………………」
ともえは座席に戻ると、閉じる直前に挟んでおいた栞を頼りに、先程まで読んでいたページを再度開いた。彼女の隣では、りりこが例によってきょとんとした表情を浮かべている。
「本庄さん、ごめんね。珊瑚ちゃん、悪気は無いんだけど、いつも声が大きくなっちゃうんだよ」
「あ……うん。分かったの……」
ともえが珊瑚のことを詫びると、りりこは一瞬呆気に取られた表情を浮かべた後、曖昧に頷いて返事をした。そのまま、流すようにして本とノートへ視線を戻し、勉強を再開する。
「……………………」
「……(そろり)」
「……………………」
「……(さっ)」
……本当に視線が戻っていたのかは、甚だ疑問であったが。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。