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九.暗転するセカイ - natural born sinner -

義孝の家に戻った志郎は、日が落ちて辺りがすっかり暗くなっているにも関わらず、家から何の物音もしないことに気が付いた。義孝が飯の支度をする音も、康夫が観ているテレビの音も、そして健治の喚き散らす声も聞こえない。

あるのはただ、不気味で寒気がするほどの静寂のみだった。

(お父さんとおじいちゃん、どうしたんだろう)

家全体を包み込む異様な雰囲気に気圧されながら、志郎が家の硝子戸を開けた。

「戻ってきよったか」

「……!」

刹那、灯りも付いていない家の奥、台所の辺りから、低く唸るような声が響いてきた。志郎が身を竦め、その場に立ち止まって動けなくなる。一体誰だ、誰が声を掛けてきた。いや、この声は。この声は聞き覚えがある。聞き覚えはあるが、何故このようなことになっているのかはまったく分からない。

ぎし、ぎしと音を立てながら、闇から這い出てきた声の主。それは……。

「忌々しい餓鬼め。僕が居ないと思って、のこのこ帰ってきたか」

鬼か悪魔かと見紛うほどに目を血走らせ、明らかに正気を失ったとしか思えぬ面構えの――健治であった。歯を食いしばりおぞましい唸り声を上げながら、志郎に向かってひたひたと歩み寄ってくる。

訳が分からなかった。一体何故、健治が殺意をむき出しにして自分に向かってくるのか。そもそも、健治は何に腹を立てているのか。志郎には、一切の心当たりがなかった。だからこそ、余計に健治のことが恐ろしくてならなかった。

「お前の、お前のせいで、お前のせいで」

「何もかも何もかも、お前のせいで」

「お前の、お前の、お前のせいでッ」

がたがたと拳を震わせる健治を視界に捕らえたまま、志郎は一切の身動きが取れなくなった。恐怖の余り体が震えて、歯がかたかた鳴っている。助けを呼ぼうとしても、掠れた声が上がるばかりで、何の言葉にもならなかった。

そして――次の瞬間。

 

「僕が、僕が成敗してくれるッ。姉さんの敵討ちだッ」

「――!!」

 

志郎は、健治の持っていた工具のような鈍器で頭を強打され、無抵抗のまま玄関から二メートルも吹き飛ばされた。受身を取ることも叶わず玄関の敷石に背中を強かに打ちつけ、胃の腑から熱い液体がこみ上げてきた。頭からは血がだらだらと流れ落ち、視界を赤く染めてゆく。

朦朧とし失われてゆく意識の中で、志郎は。

「この――」

 

「この、色狂いの狸の愚息めッ。何故、お前が、のうのうと、生きているッ」

 

――志郎は、目の前の光景を呆然と眺めていた。

「お前を産んだせいで、姉さんは気が触れて家を出て行って、獣と交わっただの、物の怪の子を産んだだの、ありもしない馬鹿げた下らない誹謗を受けることになったんだッ。お前のせいでッ」

「三年前に僕が姉さんを神社で見つけたときは、どうしようもない狐憑きになっていたッ。日照りを止めるだの、娘を助けるだの、水神の処へ帰るだの、皆目意味の取れぬとち狂ったうわ言たわ言ばかり吐いて、九尾の狐の亡骸の前で倒れていたッ」

「何が『めぐみの雨』だッ。村の連中は皆腐っている。姉さんの名前を、これ以上汚すなッ」

健治が、何かを喚き散らしている。

「挙句ッ……姉さんは、雨が降れば泣くだけの、廃人になったッ。僕の呼びかけにも、もう応えないんだッ」

「剛三が、あの狸が、姉さんにお前を孕ませたせいで、姉さんは狂った、気が触れた、心が壊れてしまったッ」

「兄さんは何故お前を引き取ったんだ。僕には分からないぞ。お前のせいで姉さんがああなってしまったというのに、兄さんはッ」

風景が二重、三重になって見える。健治の言葉をうまく処理できない。何か言っているのだが……その何かが、志郎には分からない。

この人は……何を言っているのだろうか。

「あの鬼畜は、このような醜悪な出来事を全部無かった事にしようとして、ここを水溜りにしようなどとほざいているッ」

「だから、僕が、僕が――あいつを、あいつを地獄に送ってやるんだッ」

「僕の決意は絶対だッ。何にも動かされないぞ、絶対の決意だッ」

口にまで血が流れ、鉄の味が口内に広がりかけた時。

「健治っ! 何をしているんだ! 志郎に何をした!!」

どこからともなく、父が、康夫が走ってくるのが見えた。志郎は声を出そうとしたが、体が受けた衝撃は想像以上に大きく、体をわずかに起こすのが精一杯だった。

「志郎を殴って何になる! 恵は志郎を己の意思で産んだんだぞ! 生まれてくる子に罪は無いと、そう言って!!」

「今更なんだッ。僕の気も知らないで、兄さんはどうしてこいつの肩を持つんだッ」

「志郎は、俺が恵から託された子だからだ! 俺が志郎を守ることは、恵から頼まれたことなんだ!!」

「五月蝿いッ。こいつのせいで、姉さんはおかしくなって出て行ったんだッ。この餓鬼の罪を、僕が裁いてやるッ」

「恵は気が触れたわけじゃない! 身を清めたいと、そう言って静かに出て行った! それだけのことだ!!」

「兄さんに僕の気持ちが分かるかッ。同じ部屋で共に過ごした姉さんが、あのようなおぞましい目に遭わされたという現実を突きつけられた、この僕の気持ちがッ」

朦朧とした目で、志郎が、父と健治の言い争いを濁った瞳に映し出していると。

「志郎くん! しっかりしてぇっ」

「叔母さん、志郎を頼む! すぐに医者に診せてやってくれ!」

「離せッ。僕が、僕があの餓鬼をッ、あの悪魔の子を血祭りに上げるんだぁッ」

登紀子の手が背中に回った感触を最後に――志郎の五感が、その機能を停止させた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。