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八.ゆびきり - the crest of plight -

夏の朝の訪れは早い。月が消えるのを待たずして、太陽は燦々と輝く陽光の衣をはためかせ、未だ半覚醒状態の空を力づくで水色に染めてゆく。こうして、また新しい一日が始まるのだ。

志郎はいつもと同じように家の中で二番目に目を覚まし、昨日と変わりなく朝飯の準備をしている義孝におはようと挨拶をした。義孝は振り返っておはようと言い、志郎に顔を洗ってくるよう促す。志郎は義孝の言葉に素直に従い、少々寝ぼけ眼を残した顔つきをして、洗面所へ向かっていった。

顔を洗い用を足して戻ってくると、志郎は義孝に言われる間でもなく、朝飯の配膳を手伝い始めた。法蓮草のお浸しを一つずつ配り、浅蜊の味噌汁を汲んで隣に置き、大根おろしを載せた出汁巻き卵を並べる。炊き上がった豆ご飯を蒸らし終える頃に、平時通り康夫が姿を表した。

朝飯を食べている最中、康夫が志郎に声を掛けた。

「志郎」

「どうしたの? お父さん」

「もう少し、おじいちゃんの家にいることになると思うが、大丈夫か」

何の事はない。義孝の家で滞在する期間が延びるが、支障は無いかということであった。 これはとどのつまり、チエと一緒に居られる時間が増えるということと同義だ。願ってもないことである。志郎は即答した。

「大丈夫だよ」

「そうか、助かるな」

チエの顔が脳裏をよぎる。今日もまた、あの快活な姿を見られるのだ。自然と、志郎の飯を食う手が早くなった。

朝飯を食べ終えて、昨日と同じように義孝に簡素な弁当をこしらえてもらった後、志郎は麦藁帽子を被って外へと飛び出した。相も変わらず合唱を続ける蝉たちの声に耳を傾けつつ、志郎はチエの待つ、あるいはチエを待つための川へと走り出した。

外には、ポケモンたちの世界が広がる。かつては白かったであろう錆付いた軽自動車を寝床にするエネコ、金融会社の色褪せたホーロー看板を画布に見立てて絵画の練習に興じるドーブル、打ち捨てられた耕作地と知ってか知らずかしきりに動き回って畑を耕すディグダ。人の置き土産を、物の怪たちはある意味存分に活用していた。

寝そべったまま石榴の実が生るのを待っているナマケロ、鬼灯をつついて遊んでいるウソハチ、片喰の葉で尻尾を磨き上げるライチュウ。志郎が横を通りがかると、ライチュウが志郎に気付き、ぱたぱたと大きな尻尾を振った。

そのような風景を眺めつつ、定刻通り川へやって来た志郎であるが、そこにチエの姿は見当たらなかった。志郎は額に滲み出た汗を手拭いで拭き取り、チエの姿を探す。昨日と同じ時間帯であるから、先にチエが居てもおかしくないのだが。

斜面になっている河原を下り、志郎が川縁の見える位置までやってきた。

「あれ? チエ、そこにいるの?」

河原を下りた先にある草の生い茂った柔らかい土の集まっている付近で、いつものように黄色い雨合羽を身につけたチエがごろりと横になっていた。志郎は、無防備に寝転がっているチエの元へと恐る恐る抜き足差し足忍び足で近寄る。

チエは、横になってすやすや眠っていた。安らかな寝息を立てて、規則正しく胸を膨らませ萎ませを繰り返している。志郎は、まずチエが具合を悪くして横臥している訳ではないことを確認し、安堵の息をついた。朝早く来たのはよかったが、志郎を待っているうちに寝入ってしまったのだろう。

目を閉じて眠るチエの隣で、志郎がぐっと屈み込む。志郎とチエの顔と顔とが近寄り合い、チエの愛らしい寝顔が志郎の瞳に映し出される。豪胆でがさつな面ばかり目立つチエであるが、寝顔はこの年頃の少女相応のものである。志郎はチエの面持ちに、目も心も奪われたようであった。

「おっ母……おら、泳げるようになったぞぉ……」

「チエ……」

「おらも、おっ母の言ってた、おっ父みたいに、あっちこっち、泳いでやるんじゃあ……」

「お母さんの夢、見てるのかな……」

夢の中で、チエは恋しい母と共に過ごしているようだった。志郎は、チエの幸せそうな表情を微笑ましく思うと共に、今この瞬間、チエの夢の中に己自身が登場していない(ように思われる)ことに、ごくごく可愛らしい、他愛ない嫉妬の念を抱いた。とはいえ、母親相手では仕方あるまい。志郎は己にチエの事情を言い聞かせ、納得させるのだった。

こうして、ずっとチエの幸せな寝顔を見ていたいという強い欲求が湧き起こってきたが、チエのことだ。早く起こしてやらないと、遊ぶ時間が減ったと拗ねてしまうかも知れない。志郎は後ろ髪を力一杯引っ張られて禿げてしまうほどの名残惜しさを噛み殺して、チエにそっと声を掛けた。

「チエ、来たよ。ぼくだよ」

「くぅー……」

「ぼくだよ、チエ。そろそろ起きて」

「おっ母……」

「うーん、これじゃ、起きないか……」

眠るチエに何度か呼びかけた志郎だが、チエが目を覚ます様子はなかった。揺さぶったりして起こすという手も考えたものの、今ひとつ気が向かない。志郎は少々困ったと言いたげな顔つきで、草むらで横になるチエを見つめた。

その時──志郎にしてはなかなか珍しく、まるでエルフーンの如くむくむくと「悪戯心」が湧き起こってくるのを感じた。どんなものかと一瞬思案したが、何、もう既に一度したことの繰り返しである。気にする事はない。チエは未だ眠ったまま。男は度胸という言葉もある。志郎は意志を固めた。

「チエ、起きないの?」

「すー……」

「起きないなら……ぼく、悪戯しちゃうよ」

そう宣言してから、志郎は──

 

「ん……」

「……?」

 

──志郎は、チエの唇に、そっと己の唇を重ねた。

柔らかく、暖かく、そして何より、鼓動を感じる。初めて手を繋いだ時に伝わってきたチエの鼓動に、思わず胸の高鳴りを感じたのと同じように、唇から微かに伝わるチエの脈動に、志郎は心を奪われていた。

暫しの間、志郎はチエと口付けていたが、やがてそっと距離を置いた。少しばかり濡れた口元をそっと拭うと、改めてチエの姿を視界に捉えた。すると。

「……ん? 志郎……かえ?」

「起きたみたいだね、チエ」

チエが、ぼんやりとその瞼を上げた。

「志郎かぁ。おらを起こしてくれたんだなぁ」

「眠り姫を起こすのは、男の子の仕事だからね」

「なんじゃあ、志郎も気障なこと言うようになったなぁ」

ぴょんと体を跳ね上げて起こすと、チエがぐーっと大きく伸びをして、志郎にいつもの澄んだ瞳を向けた。何も変わらぬ、いつも通りの風景だ。

「おら、ちとびっくりしたぞぉ」

「やっぱり、チエも気付いてた?」

「途中からじゃけどなぁ。おかげで、いい塩梅に目が覚めたぞぉ。ありがとなぁ、志郎」

「どういたしまして。寝てるチエも、可愛かったよ」

「ははっ、照れるなぁ。褒めてもなぁんも出んぞぉ。朝からええ気分じゃあ」

頬をほんのり桜色に染め、顔を綻ばせるチエに、志郎もまた笑顔を見せるのだった。

 

二人は手を取り合い、連れ立って歩き始めた。今日は昨日・一昨日とはまた違う目的地があるようだ。チエが志郎を先導する形で、森の奥へ突き進む。

目指したのは、日和田を一望できる高さにあるという「丘」であった。チエは、そこから日和田の風景を見下ろすのが大好きで、志郎を是非連れて行きたいと言う。志郎が断るはずもなく、本日の遊び場は丘にすんなり決定した。道案内は任せろと胸を張り、チエが志郎を引っ張っていく。

目指す丘までの道は、少々険しい山道となっていた。急な段差になっているところを、志郎が先によじ登ってチエを引っ張り上げてやったり、細い吊り橋のみが架かっているような場所はそのままではまともに歩けぬため、チエが「お願い」をして吊り橋の動きを固定したりと、なかなかに骨の折れる道程であった。

道をのそのそと横切るナエトルとゼニガメの列が通り過ぎるまで待ったり、湖で小さなポケモンたちを載せて楽しそうに遊覧するラプラスの姿を目撃したり、日照りの元で益々活力旺盛となり取っ組み合いに興じるエンブオーとブーバーンの戦いの様を見物したりと、しばしば脇道横道にそれて道草を食いながらも、二人は丘の上を目指した。

待ち合わせ場所の川を発ってから、およそ三時間。

「着いたぁ! ここが丘だぞぉ」

「ふぅ、やっと着いたみたいだね……」

二人はようやく、目的地である丘の上に到着した。チエに引っ張り上げられるようにして、志郎が丘の天辺まで登る。刹那、志郎の眼前に広がる光景。

日和田は小さな村だが、それでも徒歩のみですべて回ろうとすれば一日では足らぬ程度の広さはある。つまりは何だかんだでそれなりの広さはあるのだが、丘の上からはその日和田が、端から端まで─日和田は四方を山に囲まれている、と述べたことを思い出していただきたい──一望できた。

豆粒かと見紛うほどに小さいが、チエと遊ぶ川も義孝の家も、前に遊んだ神社もすべて確認できる。これを壮観と言わずして何と呼べば良いのか。志郎は思わず息を飲んだ。日和田のすべてが己の手の中に収まった、そのような誇大な錯覚を抱かせるに、眼前の光景はありすぎるほどの説得力を持っていた。

「いい眺めだね……!」

「すんげぇだろぉ。ここはおらのとっておきの場所だぁ」

「チエがとっておきにしたくなる理由、ぼくにも分かるよ。ありがとう、チエ」

おかっぱ頭を撫でられたチエが、笑窪を作ってはにかんで見せる。志郎の手に一層の力と優しさがこもった。

この辺りまで人の手が及ばぬのはここまでの道程の険しさを思えば自明のことで、多くのポケモン、いや物の怪たちが住み着いていた。彼らは、外から遊びにきた珍しい来訪者に興味を示し、ぞろぞろと志郎とチエの元に集まり始めた。

「ねえ、チエ。この子、熊?」

「姫熊じゃあ。気立ての優しい、おっとりした物の怪だぞぉ」

「へぇー。ヒメグマ、っていうんだ」

「んだ。指先から甘い蜜が滲み出とるから、ひっきりなしに嘗めとるんじゃあ」

志郎の足元に擦り寄ってきたのは、まだ子供の小さなヒメグマだった。チエの口にした「指先をいつも嘗めている」という言葉の通り、しきりに指先を舌で拭っている。いかにも子供っぽい、愛嬌を感じさせる仕草だ。志郎がそっとヒメグマに触れてやると、益々志郎に興味を持ったのか、ヒメグマが小首を傾げて見せた。

「あははっ。この子、可愛いね」

「なんじゃとぉ。おらの方が可愛えぞぉ」

ヒメグマを「可愛い」と誉めそやす志郎の姿を見たチエが、自分の方が可愛い、と突っ張って見せた。ちょっとしたことで焼き餅を焼くチエがこれまた可愛らしく、志郎は笑ってチエを宥めてやった。

初めはこのように焼き餅を焼いていたチエであったが、ヒメグマに愛嬌を感じるのは変わらなかったようで、気がつく頃には結局ヒメグマを含めた三人でがやがやと遊んでいた。チエがヒメグマを抱きしめると、ふわふわした柔毛が頬に触れる。縫いぐるみか人形かと思うほどの肌触りであった。

小一時間ほどヒメグマと共に遊び、少しばかり疲れを覚え始めた頃、見計らったように都合良く昼時と相成った。適当な草むらに腰を下ろし、志郎とチエが昼飯の準備をする。それぞれ食べるものを取り出した二人の顔を、ヒメグマがじーっと覗き込んだ。

「ヒメグマ、どうしたの?」

「お前も腹減ったのかえ?」

ヒメグマが頷く。

「そうかそうかぁ。なら、おらの木の実を一つやるぞぉ」

「それなら、ぼくのおにぎりも少し分けたげるよ」

志郎から半分に割った握り飯を、チエから焼いた木の実をそれぞれ分けてもらい、ヒメグマが腕の中にそれらを抱き込んだ。くんくんと匂いを嗅いだあと、ヒメグマはそれらをぺろりと平らげてしまった。喜びの表情を見せるヒメグマ。お気に召したようだ。

昼食を終え、志郎とチエがヒメグマを交えて遊んでいたときのことだった。不意に、志郎が何者かの視線を感じ、さっと後ろを振り向く。

「誰かいるの?」

振り返った直後は、そこに誰の姿も認めることができなかった。だが、見つめたまま暫く待ち続けていると、不意にその正体が露になった。

ちらり。樹の影から半分ほど顔を出し、こちらを覗き込む小さな物の怪。志郎はその容貌と習性から、それがチラーミィであることをすぐに把握した。志郎と視線が交錯すると、チラーミィは何某か言いたげな目で志郎を凝視し始めた。

志郎は山勘を頼りに、チラーミィに呼び掛けてみた。

「一緒に遊ぶ?」

「!」

顔だけでなく全身を現したチラーミィの様子を見た志郎は、己の勘が間違っていなかったことを悟るのだった。

このような調子で、志郎とチエを囲む山の物の怪たちの数は徐々に数を増してゆき──

「小さい体の割に、すごく重いね」

「権兵衛は大食らいじゃからなぁ。おらでも両手を使わんと持ち上げられんぞぉ」

「それって、チエなら両手で持ち上げられる、ってことだよね……」

食べ物を探していたゴンベに、

「夏の間は、背中が新緑の色になるんだ」

「んだ。だから、おらは『色鹿』って呼んどるんじゃあ」

「季節で変わるから、『四季鹿』とも言えるね」

辺りを散歩していたシキジカ、

「どこからが尻尾なのか分からないって言われてるけど、ぼくは足の下からだと思うよ」

「いんやぁ、この紋様の辺りからに決まっとる。おらはおっ母にそう聞いたぞぉ」

「難しいね。どっちが正しいんだろう?」

ひょろ長い巣穴からひょっこり顔を出したオオタチ、

「どっちも、悪くはないんだけどなぁ……」

「こぉら、おらはそんな間抜け面はしとらんぞぉ。志郎も尻尾なんざ生やしてねぇ」

「メタモンもゾロアも、あと一歩ってとこかな」

変身合戦をしていたメタモンとゾロア──などなど。

代わる代わる訪れる物の怪たちと思う存分戯れ、志郎とチエは心ゆくまで遊んだ。物の怪たちも皆、志郎やチエと遊べたことで満足しているように見受けられた。

やれ遊べ、それ遊べ、陽の元に集う童たちよ。今の時間は今しか得られぬ。悔いを残さず思い出残せ。それがお前たちの成すべきこと也。

嗚呼、仲善きことは美しきこと哉。

 

時が経つのは早いもので、皆が参加したかくれんぼで最後まで隠れていたカクレオンが見つかる頃には、既に日が傾きかけていた。

「ち、チエ……危なく、ないの……?」

「志郎、怖がらんでも大丈夫じゃあ。姫熊と遊んでやってくれてありがとう、って言っとるからなぁ」

「そ、そうなんだ……ぼく、ちょっとびっくりしたよ」

娘のヒメグマを迎えにきたリングマ母さんが、遊び相手になってくれていた志郎とチエにお礼の言葉を──遺憾ながら、志郎には唸り声にしか聞こえなかったものの──述べた。なりは結構な強面だが、気のいい性格のようだ。

足元に駆け寄ってきたヒメグマを、リングマが大きな大きな手で撫でてやる。ヒメグマは母親の足に頬擦りして、感触をしきりに確かめている。ヒメグマの安心しきった表情が、母親の存在の大きさを物語っている。

手を振って二人の元から去っていくヒメグマを見送ると、丘の上には志郎とチエの二人だけが残された。

「行っちゃったね」

「んだ。姫熊、おっ母のこと好きなんだなぁ」

「お母さんのリングマの方も、ヒメグマを大事に思ってるみたいだしね」

丘の天辺に聳え立つ一本の大樹。その大樹の下で、志郎とチエが共に座り込んだ。日は少しずつ傾き、太陽と月が交代する準備を進めている様子が窺える。

青から赤へ移り変わる夏空を見上げ、チエが、おもむろに呟く。

「志郎」

「どうしたの? チエ」

「志郎も、おらと一緒で、おっ母がいねぇんだよな」

「……うん。ぼくも、チエと同じだよ。お母さんがいないのはね」

ヒメグマとリングマの親子。その風景を見たチエも志郎も、それぞれ胸に去来する思いがあった。どちらも母がおらず、志郎は父と共に、チエは一人で暮らしている。『母』を見て複雑な心持ちになるのは、至極当然のことであった。

チエは雨合羽の佇まいを直し、少し様態を改めてから、志郎に語りかけた。

「おらの名前は、おっ母の名前をとって、おっ母がくれたものじゃあ」

「名付け親、お母さんなんだ」

「んだ。あれこれ考えて、一番いい名前をつけた、って話してくれたぞぉ」

「ぼくも、いい名前だと思う。だって、チエは『チエ』以外考えられないからね」

「ははっ、志郎も言ってくれるなぁ」

なんでもはっきり言うチエのおかげだよ、と付け加える志郎に、チエは口元を綻ばせて応じた。

「おっ母はおらを生んでくれて、チエ、っていう名前までくれた」

「だから、おっ母はおらの大切な人じゃあ」

「もしかしたら、おらと志郎を引き合わせてくれたのも──おっ母かも知れねぇ」

訥々と大切な母への思いを語るチエから、志郎は一時も目線を外すことができなかった。

「けど、そのおっ母は、今はおらの側にはおらん」

「そう思うと、おらは寂しいんじゃあ」

「誰かと一緒に居たいと思っておっても、いつかまた、おらは一人になってしまう……そんな風に考えてしまうんじゃあ」

チエは、物の怪たちが側にいるとはいえ、普段は一人で暮らしている。誰と接するわけでもなく、一人で起床し、飯を食い、体を洗い、そして眠りに着いている。チエが五つの頃に母親がいなくなったというから、チエは少なくとも三年近く、こうやって一人の生活を続けている。

母親がいなくなったのは、チエにとって突然のことだった。一人きりで辛いことも山ほどあったに違いない。一人になってしまうことを恐れるのは、当たり前のことだった。

物憂げな表情を見せたチエに、志郎は。

「チエ」

「志郎……?」

すっくと力強く立ち上がると、チエを上から見下ろす形をとる。チエの志郎を見上げる視線に、志郎は、決然とした調子で続けた。

「ぼくが、チエの側にいるよ」

「お母さんの代わりには、ぼくはなれない。でも、ぼくが『ぼく』としてチエの側にいることはできる」

「ぼくがいれば、チエは一人じゃない。そうだよね」

惚けたように自分を見つめるチエに、大きく深呼吸をしてから、志郎は己の思いのたけをぶつけた。

「チエ──」

 

「ぼくは、チエのことが好きだ」

「ずっと、チエの側に居たい。ぼくは、そう思ってる」

「もう一度言う。ぼくは……チエのことが、好きだ」

 

そっとチエの前に手を差し出す。チエは志郎の顔と掌とを交互に代わる代わる見つめ、潤んだ瞳を向けていた。喜びと戸惑いを隠しきれない様子のチエに、志郎は優しい目を向けた。

「だめかな、チエ……」

「志郎……」

チエが志郎の手を恐々取ると、志郎はそっとチエを立ち上がらせた。照れ臭そうに鼻をかく志郎に、チエが静かに告げる。

「違うぞぉ、志郎」

「違うって何が?」

「こういうときは、『いいよね、チエ』って言うもんだぁ」

「ぼくには、もうちょっと押しの強さが要りそうだね」

志郎に導かれるまま、チエが志郎の胸へと引き寄せられる。志郎が雨合羽の上からチエを抱きしめると、チエは志郎の胸の中に華奢な身を委ねた。

「おらもだぞぉ、志郎。おらも、志郎のことが好きじゃあ」

「ハッキリ言われると……やっぱり、ちょっと恥ずかしいね」

二人は、各々の思いを伝え合った。志郎はチエが好き、チエは志郎が好き。他に何を足すわけでも、ここから何かを引くわけでもない。ただ、お互いがお互いを好いている。それだけで十分ではないか。一人だったものが二人になるのだ、何も悪いことはあるまい。

「志郎、知っとるかえ? 小指に絡まる赤い糸の話じゃあ」

「知ってるよ。男の人と女の人の小指には赤い糸が絡まってて、運命の人の小指に繋がってる。そんな話だよね?」

「そうじゃあ。赤い糸を手繰り寄せれば、一生連れ合う人に会える。おっ母に聞いた話だぁ」

「チエの赤い糸は、ぼくの小指に繋がってる?」

「きっと、そうに違いねぇ。おらは、志郎と繋がってるはずじゃあ」

水柱をぶち上げ、不思議な力で服を乾かし、志郎を投げ飛ばし、ヘラクロスと力比べをし、物の怪たちと平然と言葉を交わす──チエはやること成すことすべてが常識を外れていたが、その胸中にあるものは、ごくごくありふれた夢見る少女の願いに他ならなかった。赤い糸の話など、陳腐ここに極まれりといった具合だ。

破天荒で型破りなチエにしてみるとちぐはぐもいいところだが、だからこそチエにはこの上なく合っている。志郎はそのように思った。チエの特徴は何か。それは言うまでもなく、ちぐはぐなことだ。ありきたりな乙女心を宿す、雨合羽の奇天烈な娘。いかにも、チエそのものではないか。

「おらの親指はおっ母と繋がってて、小指は志郎と繋がっとる」

「いつも指切りするのも、小指だからね」

「そっか……分かったぞぉ、志郎。おらはもう、一人じゃないんだなぁ」

「うん。いつだって、側にぼくがいるよ」

「うん、うん……おら、うれしいぞぉ、うれしいぞぉ……」

「チエ……」

「志郎、志郎……!」

自分はもう独りぼっちではない。そのことに気づいたチエが、志郎の胸の中で落涙した。悲しい涙ではなく、嬉しい涙だ。涙を湛え零す瞳は、しかし同時に太陽のごとく輝き、笑っていた。

ぽつり、ぽつり。志郎の頬に、冷たい雫が落ちてくる。空を見上げると、夕陽が空を爛々と赤く染めているにもかかわらず、雨が降り出してきていた。先ほどまで一緒に遊んでいたゾロアではないが、まさしく『狐の嫁入り』と呼ぶべき事象だった。

「髪が雨に濡れちゃだめだね。ほら、チエ。これ、あげるよ」

「麦わら帽子……これ、志郎の大切なもんじゃろ?」

「大切なものだから、チエにあげたいんだ」

志郎は被っていた麦藁帽子を、雨に濡れかかっているチエに被せてやった。チエが麦藁帽子に触れて、その感触を確かめる。志郎の言った「大切なものだから、チエにあげたい」という言葉が、チエの心にじん、と沁み渡っていく。

「今日は、麦わら帽子だけど……」

「うん……」

「ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ」

「志郎……」

顔を上げた先に、志郎の顔が見える。指輪を渡したい……子供のチエとて、何を意味する言葉かは分かっていた。それはつまり、志郎がチエと男女の契りを結びたいと言っているに等しい。

「志郎……おらと、約束、してくれるかえ?」

「いいよ。じゃあ、いつもの、しようか」

「うん……」

チエ曰く、赤い糸が結ばれ合っているという二人の小指が絡み合い、お互いに固く引っ掛けるような形を取る。離すまいと力を込め、相手の存在を確かに認識した後。

「……せーのっ」

どちらともなく声を上げ――

 

「ゆーびきーりげーんまーん……」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」

「ゆーびきった!!」

 

徐々に沈み行く陽を背に、二人が、これからも共にあることを誓い合った。

「決めたぞぉ。おらとびっきりのべっぴんさんになって、志郎のお嫁さんになるんじゃあ」

「今だって、チエは可愛いと思うよ」

「いやぁ、可愛いだけじゃ足らん。おらにも『大人の魅力』が要るんじゃあ」

「無理に大人っぽくならなくても、チエは、チエのままでいいよ。ぼくが好きなのは、チエだからね」

二人の絆を断ち切れるものなど、何もありはしない。これからもずっと、二人で一緒にいられる。志郎もチエも、そう信じていた。

そう、信じていた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。