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七月二十三日

*七月二十三日*

 

 

……夢を見ている。

……白に包まれた世界。

……暖かな世界。

……穏やかな世界。

 

…………………………悲しい世界。

 

……前に歩いている。

……何かを探して。

……何かを掴もうとして。

……何かを求めて。

 

…………………………それがもう、手に入らないと分かっていて。

 

……熱い。

……手の平が熱い。

……体が熱い。

……心が熱い。

 

…………………………目頭が、熱……

 

 

(ジリリリリリリリリ!)

 

「…………うぐ……」

今日の朝の始まりは、目覚まし時計の音だった。音が耳に伝わってきて、起きろ起きろとあたしの頭に駆け込んでくる。うっすらと目を開けると、辺りはもう明るかった。

(ジリリリリリリリリ!)

「……今……何時……」

(ガチャン)

あたしの耳元でけたたましい音を上げ続けている時計の頭に軽くチョップを叩き込んで(もちろん九十度でだ)、目覚ましを止める。時計を見ると、時刻は六時半を指していた。そろそろ起きなきゃいけない時間だ。

「……今日は割とまともな起こし方だったわね」

そんなことをつぶやきながら、あたしはゆっくりと起き上がる。四日前フライパンとフライ返し、一昨昨日はボールとおたま、一昨日はクラッカー、昨日はホイッスル。それに比べて、今日は「目覚まし」(ここがポイント)時計だ。おおっ。今までとは比べ物にならないぐらいまともな起こし方

(ジリリリリリリリリ!)

……目覚まし時計の音が、また聞こえてきた。

「……って、さっき止めたのにどーして?!」

……前言撤回。なんかものすごくヤな予感がする。そうだ。渚にまともな起こし方なんて期待する方が間違ってるんだ。この後、きっとなんかものすごーくヤなことが起きそうな気がバンバンしてる。そう、例えば……

(ジリリリリリリリリ!)

……目覚まし時計が……

(ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!)

……なんていうか……

(ゴゴゴゴゴゴ)

……こう……

(ジジジジジジジジジジ!)

……………………

「あっ、愛子さんっ。おはようございますっ」

「……渚」

「ふぇ? どうしたんですか?」

「……これ、どこから盗って来たのよっ」

あたしの布団の周りには、これでもかこれでもかこれでもかこれでもかと言わんばかりの、大量も大量、目を疑った後覆いたくなるような、想像を絶する数の目覚まし時計が置かれていた。しかもご丁寧にも、同じものは一つも無いと来てる。なんか明らかに時計じゃないデザインのもあるし。

「たははっ。違いますよ~。これは、渚っちのコレクションですよっ」

「……コレクション?」

「たはは~。実は渚っち、大の目覚まし時計コレクターさんなんですよ~。普通のも珍しいのも、たくさん持ってるんですっ」

「ちょい待ち。普通目覚まし時計はコレクションなんて」

(ドガガガガガガガガガガ!)

「どはああああああああっ?! いきなり銃声がぁぁぁぁ!」

「わ、愛子さん、すごくビックリしてる」

「するわっ。大体なんであたしの布団の周りにこんな」

(ピコーンピコーンピコーンピコーンピコーン)

「はっ! もう後少しで三分になっちゃう……って、違うわよっ」

「わ、愛子さん、一人ボケ一人突っ込み」

「やかましいっ。一体どこにこんなたくさんの目覚まし時計を」

(……俺は、お前のことが、本当に好きみたいだから……)

「……ねぇ渚……なんで……なんでこんなのもあるわけ?」

「ふふふー。結構高かったんですよー」

「へぇー、そうだったんだ……って、こんなもん買うなっ。買っていいものと悪いものがあるでしょうがっ」

「わ、愛子さん、初めてセリフを最後まで言えましたねっ。おめでとうございますですっ」

「やかましいっ。……ったく、さっさと止めるわよ」

あたしは毛布を跳ね除けて、布団を包囲するかのように無駄に丁寧に配置された目覚まし時計を一つ一つ止めていった。

(カチッ)

(カチッ)

(バシッ)

しっかし、それにしても本当にすごい量の目覚まし時計だ。目覚まし時計のコレクターというだけでもはっきり言ってド級のマイナー分野だとは思うけど、渚はその中でも間違いなくトップクラスにいるだろう。うーむ。やはり渚は(いろいろな意味で)侮れない。

(ジリリリリリリ!)

(ピピピピピピピ!)

(ジジジジジジジ!)

……どーでもいいけど、このものすごい目覚ましの大合唱、どーにかならないのかしら。朝っぱらからすげぇきついんですけど。いやもうマジで。

 

大体の時計を止め終わり(それにしてもすごい音だった)、あたしが最後まで鳴り続けていた時計に手を掛けた。

最後まで生き残っていた栄えあるその目覚まし時計は……なんていうか、あれだ。懐中時計にふたがついてて、そのフタと時計の上がパチンと接合できるタイプの、まあよくある型の目覚まし時計だった。なりも小さいし、音もこの中じゃ間違いなく一番小さい。多分、渚のコレクションの中で一番下の地位にありそうな時計だね。これは。

「で、これが最後の目覚まし時計ね」

「あっ、それは渚っちが止めます」

「へ?」

渚が、いつもでは考えられないぐらいのスピードで手を伸ばして、さっとその時計を自分のところまで引き寄せた。あたしがちょっと呆然としてる間に、渚は目覚まし時計を止めてしまった。

「これでよし、っと。たははっ。静かになりましたねっ」

「……………………」

「あれれ~? 愛子さん、どうしたんですか~?」

「……や、なんでその時計だけ、渚が止めたのかなー、って思って」

「ふぇ? これですか?」

渚は(もうまさに言葉どおりの)きょとんとした表情で、首をちょっと横にかしげた。……あれだ。もしあたしが年頃の男の子だったら、ここが布団なのをいいことに、そのまま押し倒違うっ。んなことするかっ。あたしにも理性ってもんがあるんだっ。

「たははっ。これは、渚っちの一番にお気に入りの目覚まし時計なんですよっ」

「これが……?」

渚が手に持っている目覚ましは、どー見たって他のより二段階ぐらいは位が落ちる、それこそどこにでも売ってそうな平凡を通り越して貧相な目覚ましだ。これがお気に入りだなんて、一体どういう意味なんだろ。あたしの周りを取り囲んでる無数の時計の方が、よっぽど特徴的で味があると思うんだけど。

「なんでそれがお気に入りなのよ」

「ふふふー。秘密ですっ」

「や、秘密って」

渚はそう言って立ち上がり、とてとてと台所の方へ走っていった。もちろん、「お気に入り」と言った小さな目覚まし時計を抱いたままだ。何だったんだ、一体。

「ふわ……おはよう、神崎さん」

「いよっす、国崎……って、あんた、よくあんな猛烈な騒音の中で眠れたわね……」

国崎があくびをかみ殺しながら、ゆっくりと起床した。つまり、今の今まで、何の問題もなくぐーすか寝ていたということになる。あの殺人急の騒音の中をだ。ひょっとして、難聴にでもなっちゃったんだろうか。

「えっ? 今何か言った?」

「……………………?」

「あ、ごめんごめん。僕ね、昨日からこれをつけて寝るようにしたんだったよ」

国崎はそう言って、両耳をそれぞれの手でごそごそやった。すると、何かが耳からぽろりとこぼれ落ちた。あたしはそれが気になって、すぐに近づいてそれの正体を見てみる。

「……って、耳栓?!」

「そう。昨日の朝は大変な目に遭ったからね。昨日、買いに行ってきたんだ」

「昨日買いに行って来たって……あ、そー言えば、あたしが本読んでるときに……」

「そういうこと。もう一セットあるよ。いる?」

「……そーいうことは帰ってきてすぐに言う」

あたしはぶちぶち言いながらも、なんだかんだで耳栓をワンセットもらってしまった。朝置きぬけに目覚ましの総攻撃を食らった後なので、はっきり言ってありがたみはゼロだ。昨日にもらってれば、ありがたみは確実に百だったんだろうけど。

「それで、渚ちゃんは?」

「朝ごはんの支度しに言ったわ。あたしたちもそろそろ行きましょ」

「そうだね」

あたしと国崎は立ち上がって、そのままの格好(寝るときも私服だからね)で、渚の待つ台所へと歩いていった。

 

「ねー渚、確かあんた、今日は休みなんだよね」

「そうですよー。今日は愛子さんと英二さんと、ずっと一緒にいられますねっ」

朝食(今日は和食だった。いつも通りの真っ白ぴかぴかのご飯に、掻き玉の入ったお味噌汁、完璧な焼き具合のししゃも五匹に、いつ作ったんだろう、いい色をしたきんぴらごぼうが少々。そして海苔・梅干・しば漬けという、ごくごく定番の箸休めたち。どこからどう見ても完璧だった)の席で、渚はうれしそうに言った。

「ちょっと久しぶりのお休みですから、渚っちもうれしいです」

「そう言えば、夏休みに入ってからもずっと学校に行ってたんだよね」

「はい。講習がありましたからねっ」

そう言う渚の表情は、いつにも増して明るく、輝いて見えた。それはきっと、渚が笑顔を浮かべているからだろう。いつも笑顔を浮かべていることの多い渚だったけど、今日はいつもにも増して笑顔だ。うーむ。あたしが男の子だったら、こんな子絶対にほっとかないんだけども。

「それで、今日は何かするつもりなのかな? どこかに行くとか、そんな感じで」

「えーっと……今は、特に無いです。でも、どこかに行くんなら、渚っちも行きたいですっ」

「んー。とは言っても、この辺りに行って面白そうなとこも無いしねー」

あたしはししゃもを頭からかじりながら、渚マップに目を通してみた。この街のことは大体載っているこのマップ、地図の中にあるのは、渚の家(ここだ)、仲西商店(殺人ジュース)、渚の学校(中学校じゃなくて高校)、図書館(クーラー涼しそう)、公園(特徴無い)、商店街(収入源)、それに、昨日行った神社ぐらいのものだ。

(……さて……)

どこもかしこも一度は足を運んだとこばっかだし、この街に住んでたって言う渚や国崎なら、尚更行ったことのある場所ばっかりだろう。改めて行ったところで、面白そうなところは見当たらない。うーむ。どーしたもんかね、これは。

こういう時は、聞いてしまうのが早いだろう。

「そんじゃさ、渚はどっか行きたいとことかある?」

「えっ?! 渚っちが決めちゃって、いいんですか?」

「あー、全然おっけー。あたしはどこでもいいからさ。でも、あんまり遠いところはダメね」

「そうだね。僕もどこだっていいよ。渚ちゃんの行きたいところに、一緒に行ってあげるから」

「わわわっ、ほ、本当にいいんですねっ! えっと……それじゃあ……」

丸くて大きな瞳をキラキラ輝かせた渚が、「行きたい」と言った場所は……

 

「……で、今日もお参り、ってわけね……」

「渚ちゃん、本当に神社でいいの?」

「はいっ。渚っち、あの神社が大好きですからっ」

「それなら、僕は別に構わないけどね」

「そういう問題なのかねぇ……」

「たははっ。それでは、愛子さん、英二さん、でっぱつしんこう~!」

あたしは昨日と同じ日傘を差し、渚と国崎と共に炎天下の中をだらだら歩いていた。行きたい場所なんて特に無かったあたしと国崎が渚に話を振ったら、渚は何の迷いも成しに「神社に行きたいですっ」と言い切った。つーわけで、あたしたちは今、昨日も行ったはずの神社に向かって絶賛でっぱつ進行中(なぎなぎ語)というわけだ。

「でもさ……昨日も行かなかったっけ? 神社」

「ふぇ……? はい。行きましたよ。神社。もしかして愛子さん、忘れちゃったりとかしちゃったんですか?」

「や、そういう意味じゃなくて……あれよ。二日も続けて同じとこ行って、飽きたりしないのかなーって思ってさ」

そんなことを言うと、渚はこう返す。

「そんなことないですよっ。楽しい場所は、毎日行っても楽しい場所ですからっ」

「んー。そんなもんなのかねぇ」

「それに、今日は……」

渚がそこまで言って言葉を切ると、あたしの右手を強く力をかけて握る。

「愛子さんも、渚っちとずっと手をつないでてくれますしねっ」

渚はあたしと国崎の真ん中に立って、あたしの右手を自分の左手と、国崎の左手を自分の右手としっかりとつないでいる。

「今度はこうやって三人で、神社じゃなくて海に行けるといいね」

「んー。そうね。暑いし、海はいいと思うわ」

「わ、そうですよねっ! 渚っちと愛子さんと英二さんの三人で、海、絶対に行きましょうねっ!」

「その前に、どの辺りに海があって、そこに行くにはどーすりゃいいのかとかをちゃんと調べなきゃいけないんだけどね……」

あたしは言葉ではそう言っていたけど、本当は今日にでも海に行きたい気分だった。いや、暑いってのもあるんだけど、「海」という単語が出てくるといつもの五割増しぐらいに嬉しそうな表情をする渚の姿を見てたら、無性にこの子を海に連れて行きたくなった、っていうのが本音だったりする。

どうしてだろう? あたしは確かに、渚にいろいろお世話になってる。あたしは渚のことを(なんだかんだ言っても)いい子だって思ってるし、こんだけ世話になったんだから、何かお返しをしてあげた方がいいっていうのも間違いないと思う。

(……でも、何かが違う……)

……そう。何かが違う。あたしは……海に「行きたい」んじゃなくて、海に「行かなきゃいけない」気がする。どうしてかは分からない。ただ、あたしはものすごく強く、渚と一緒に海に「行かなきゃいけない」っていう気持ちを感じていた。

渚を連れて海に行って、それでどうするのかまでは、あたしの感覚は教えてはくれなかった。ただきっと、海に行くことさえできればいいのだろうと思った。海に行ったら、後はぶっ倒れるまで遊べばいい。海に行くことさえ、できればいい。あたしの中の「何か」が、あたしにそう言っている気がした。

(……ま、きっとまだしばらく世話になっちゃうと思うし、その間に連れて行ってあげればいいわよね)

あたしはそんな風に考えて、渚とつないだ右手に少し力を込めなおした。

「……?」

「海、連れてってあげるからね。お世話になったお礼、まだしてないからね」

「わ、愛子さん、いつになく真剣な顔してますっ」

「こらこら。こっちは結構真剣に言ってるのに、そっちが茶化しちゃ意味ないじゃない」

「たははっ。でも、渚っち、そう言ってもらえて、本当にうれしいです。愛子さんと出会えて、渚っちは本当に幸せです」

「あんたを幸せにしてくれる人なら、きっともっとちゃんとした人がいるわよ」

「そうだよ。例えば、僕みたいな」

「いや、それはない」

あたしは苦笑いしながら、渚と国崎と一緒に歩き続けた。神社への道のりは、そんなに遠くない。もう、半分は過ぎた頃だろう。

(……でも、案外国崎みたいなのの方が、この子には合ってるかも知れないわね)

そんなことも、考えながら。

 

「とうつき~」

「『到着』だね」

「そーそー」

神社には家を出て二十分ぐらいで着いた。昨日来たばかりだから、外観とかの特徴はほとんど覚えてる。一日しか経ってないから、変わったとこなんて一つもない。あえて言うなら、昨日とは来た時間が違う。そんぐらいかな。

「う~……やっぱり、この神社は大好きですっ。渚っち、どきがむねむねしちゃいますっ」

「このごくごく一般的な神社のどこにどきがむねむねする要素があるのか、めちゃんこ知りたい私がいる」

「確かに、あんまり特徴はないかな。普通の神社より、ちょっと大きいのはいい事だと思うけどね」

国崎はそう言って、周囲を眺め回した。それにつられてあたしも回りを見てみるが、特に面白いものは見当たらず。本当に、どーしてこんな普通の場所が好きなんだろう。よく分からない。

「とりあえず、お参りをしましょう。今日も渚っちのおごりですからねっ」

「でも、あたしと国崎、昨日も出してもらったのよ? 今日はあたしが……」

あたしがそう言いかけると、渚はぶんぶんと首を横に振って、

「ダメですっ。渚っちがお賽銭を出さないと、失礼になっちゃいますっ」

「や、別に失礼だ何て思わないけど……」

「でも、渚っちが愛子さんと英二さんをここに連れてきたんです。それだったら、お金もちゃんと渚っちが出さないとだめです」

「渚ちゃんって、なんだかすごくしっかりしてるんだね」

「たははっ。褒めないでくださいよっ。渚っち、照れちゃいます」

「うんうん。顔が真っ青だわ」

このあたしの意味不明な嘘に、渚はマジ反応を返す。

「ええっ?! 渚っちの顔、真っ青になっちゃってますか?!」

「うん。もうね、今にも倒れちゃいそうなぐらい青い」

「わわわ~っ! た、大変ですっ。渚っちがここで倒れちゃったら、愛子さんと英二さんが路頭に迷っちゃいますっ。大ピンチですっ」

「……それ、あながち間違ってないところが悲しいわね……あ、ちなみに今の嘘だから」

「ふぇ?」

「どっちかっつーと青いって言うより、肌色よね。健康的な肌色」

「う~……愛子さん、嘘付きましたねっ」

「嘘は付いてないわよ。だって、空は青いし」

「うう~……空は関係ないですっ」

「だって、信号は青だし」

「ううう~……信号も関係ないですっ。ちっとも関係ないですっ」

「だって、あたしの好きな色、青だし」

「うううう~……愛子さん、いぢわるですっ」

「や、今回はいぢわるは言ってないわよ」

「しっかり言ってますっ。愛子さん、ひどいですっ」

渚はいつものように怒ったよな素振りを見せて、ぷいと顔を横に向ける。向ける方向はもちろん、あたしとは間逆の方向だ。ってことはつまり……

「やぁ」

「わ! え、英二さんっ?!」

国崎とまともにお見合いしちゃうわけで……

「僕のこと、そんなにしっかり見つめてくれるんだね。じゃあ、僕もしっかり見なきゃ」

「わ、わ、わ、そ、そ、そ、そうじゃないんですおっ!」

「ほら。怖がらなくても大丈夫。何も怖いことなんかないから……ね?」

「え、英二さん……」

元々ちょっと赤みのある顔が、もう信号機の「止まらんかい貴様ら」の色になるまでは、まあちっとも時間はかからなかった。

「ちなみに、今度こそマジで真っ赤になってるからね」

「……って、すごく恥ずかしいことを言わないでくださいっ。渚っち、顔から火が出ちゃいますっ」

「むしろ口から出して欲しいわね」

こんなとりとめもない、でも心安らぐ会話が、その後もしばらく続いた。

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

十円玉を賽銭箱に放り込んでから、黙って手を合わせる三人。今お参りしているのは真ん中のお堂、つまり、これで最後というわけだ。

(でも、右・左・中っていう順番に、何か意味があるのかねぇ……)

あたしはそんなことを考えながらも、「ま、そういうもんなんだろう」といつものように気楽に流してしまうことにした。こーいうことは、深く考えても仕方ない。そういう風になってるなら、それに従ったらいいだけの話だし。

「……っと。これで全部ですねっ」

「そうだね。渚ちゃんは、何をお願いしたの?」

「えっとですねー」

渚はあたしと国崎の顔を交互に見比べながら、やがてこう言った。

「愛子さんと英二さんと一緒に、ずっと一緒にいられるようにしてください、ってお願いしましたっ」

「あんた、それ昨日もお願いしてたわね」

「はいっ。本当にそうなってくれると、渚っちはとてもうれしいですからっ」

昨日に引き続き、あたしたちと一緒にいられることを願う渚。あたしは渚の無邪気さにちょっと苦笑いを浮かべながら……しかし、同時に、

(……でも、なんであたしたちなのかしらね……)

ほんの小さな、本当に小さな、不安のような感情を覚えた。それは渚に対してではない。渚が今置かれている、その状況に対する不安だった。

(ごくごく普通に考えたら、あたしたちと渚って、そんなにいつまでも一緒にいられるような関係じゃないわよね……)

そう。あたしはいずれここを出て行く身で、今は渚の家に厄介になっているのにすぎない。国崎だって、そういつまでも渚の家に身を置いておくことはできないだろう。

(でも……どうして? ここ最近、渚と一緒にいることが、なんかものすごく自然なことに感じるんだけど……)

なのに、あたしはそんな感情を抱いていた。渚と一緒にいると、まるで昔からずっとあの子と一緒にいたみたいに、自分自身の立場がわからなくなっちゃう。いつまでも一緒にいることが、いつか出て行くことよりも、よっぽど現実的で自然なような気がしてくる。

おかしな感情だった。今の今まで、こんな思いを抱いたことはなかった。前の家では今よりもさらに長くお世話になったけど、それでもあたしは「ああ、いつかはここを出て行くんだなぁ」という気持ちで、毎日を過ごしていたはずだった。

それが今は違う。「いつかここを出て行く」という感覚がまったくない。それどころか、「ここを出て行くなんてあり得ない」という感情が、時々あたしの中に現れることすらある。どっちがあり得ないなんて一目瞭然のはずなのに、なぜかそんなことを考えてしまう。

(……ま、きっと渚がものすごく変わった子で、一緒にいるうちにそれに慣れてきちゃったから、あたしの感覚自体がちょっとおかしくなっちゃっただけだと思うんだけどさ……)

とりあえずこの感覚は渚と一緒にいたせいだ、という理由付けをして、これ以上もやもやと考えるのは止めることにした。

「それじゃ、そろそろ帰ろっか」

「そうだね。でも、普通に帰るだけじゃ、面白みに欠けると思うよ」

「帰るのに面白みがいるのか、あんたは」

「うーん……でも、英二さんの言うとおりだと思います。何か、面白いことをしながら帰りましょうよっ」

「……とりあえず、走って競争するのは無しね」

こういうときは先手を打っておくに限る。前は渚のペースに飲まれて、炎天下の中を二キロ近く(推定)も疾走させられたもん。もう走るのだけは勘弁。

「それじゃあ、歩いて競争しましょうよっ。それなら、疲れなくていいです」

「歩いて競争?」

「そうですっ。絶対に走っちゃだめなんです。それで、歩いて一番を目指すんです。きっと、すごく面白いですよっ」

「いいねそれ。やってみようよ」

「面白いのかねぇ……」

渚が意味不明な提案をしてきたけど、あたしも特に案を思いつかなかったから、しょうがなくそれに賛成することにした。

「あ、でも、家までずっと競争してると、手をつなげなくなっちゃいます」

「そりゃあ、競争してる間は手ぇつなぐわけにはいかないからね」

「う~ん……困ってしまいました……でも、普通に帰るのはちょっと寂しいです……」

「あんたって、本当に妙なところで欲張りね……や、別に悪くはないけど」

「……あっ! 渚っち、ナイスアイデアひらめきましたっ!」

ぽんと手をたたき、ぱっとうれしそうな表情を浮かべる渚。はてさて。どんな奇策を思いついたのやら。

「それじゃあ、仲西商店さんの前まで競争しましょう。それなら、一緒に手をつないで帰れます」

「んー。別にいいわよ。了承」

「僕もいいよ。そこから、また三人で手をつないで帰ろう。僕も了承だよ」

「わ、愛子さんにも英二さんにも了承されちゃいました! それじゃあ、早速始めましょうねっ」

「うし。あたし、やるからには負けないわよ」

「僕だって。競争するのは、好きなんだ」

三人神社の境内に立ち、そろってスタンディングスタートの構え。準備は万端だ。

「それじゃあ、渚っちが合図しますね」

「いいわよ。さ、さっさと始めてちょうだい」

「それじゃあ行きますよー」

渚はそう言うと、右腕を大きく掲げて、

「おんゆあまーく!」

「……………………」

「……………………」

「げっとせっと!」

「……………………」

「……………………」

「ごーっ!」

……のかけ声とともに、大きくそれを振り下ろした。

「さぁ、長い旅路で鍛えたこのあたしの脚を見せつけてやるわよ!」

「男として、この勝負には負けられないね!」

「ふふふー。渚っちの意外な実力、お二人さんに見せてあげますっ!」

互いに余裕たっぷりに相手を挑発し、一同やる気は十分。場に並々ならぬ対抗心が満ち始める。そして、

「行くわよっ!」

「行くよ!」

「行きますよっ!」

全員高らかに宣戦布告をしてから、

「……………………」

「……………………」

「……………………」

……いつもよりちょっとだけ早いぐらいのペースで、神社を歩いて後にした。

(……なんかこれ、ものすごく空しくない……?!)

あたしはなんだか妙な気分になりながら、とりあえず早歩きで歩き続けた。

 

「……………………」

「……………………」

「……………………」

一同無言のまま、早歩きで歩き続ける。端から見ると、めっちゃ険悪な三人(見た目が兄弟っぽくないし、友人同士にしては身長差がありすぎるし、じゃあ三角関係のもつれかと言われたらお前蹴り飛ばすぞ(あたしが)とかそんな感じだし)にしか見えなかったはずだ。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

おまけに、渚と国崎がすごく真剣な表情してるもんだから、余計に場が険悪な風に見える。実際、二人は勝負のために必死になってるだけなんだけど……っつーか、外聞を気にしてるのがあたしだけ、ってのが哀愁を誘う。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

妙に痛々しい沈黙が結構続いた後、

「……ゴールっ!」

「あっ……一歩、遅れちゃったね」

「……って、もうこんなとこまで?!」

気がつくとあたしたちは、仲西商店の前まで来ていた。知らない間に、かなりの距離を歩いていたらしい。

「たははっ。見てくださいっ。渚っちが一番ですっ」

おまけによく見ると、渚はあたしと国崎より二歩ほど前を歩いていた。つまり、国崎とあたしは、徒歩であの子に抜かれてしまった、ってわけだ。超意外。

「うぬぬ……あんた、意外に足が速いのね」

「そうですよー。ふふふー。愛子さん、恐れ入りましたかっ」

「あっ、あんたさ、途中で走ってなかった?」

「走ってませんよっ。嘘付きは泥棒の始まりですっ」

「ちっ。引っかかると思ったのに」

「何にですかっ」

「罠」

「言われなくても分かってますっ」

「や、ひょっとしたら分かってないかなー、って思って」

「うううう~……愛子さん、とってもいぢわるですっ」

渚はいつものようにぷいと顔を横に向けて、「渚っちは不機嫌ですっ」とでも言いたいような表情を浮かべて見せた。最初はよく分からなかったこのやりとりも、今じゃ当たり前の光景になってる。不思議なもんだ。

「でも、歩いてだったとはいえ、競争したことには変わりないから、ちょっとのどが渇いちゃったね」

「あっ、そうですねっ。渚っちも、ちょっと喉が渇いてしまいしまいました」

「……喉が渇いた?」

あたしは何となく背筋に寒気を感じて、とりあえず今自分がいる場所を再確認してみた。

「あっ! そういえば渚っちたちは今、ちょうどいい場所の前にいますねっ」

「ちょうどいい場所……?」

この言葉に引っかかりを覚えたのか、国崎もゆっくりと後ろを振り向く。

「たははっ。昨日は渚っち、愛子さんにも英二さんにもジュースをもらっちゃいましたから、今日も渚っちがおごっちゃいますねっ」

「……って、ストーップ! 止まれぇーっ!」

「渚ちゃん! 僕に少しだけ時間をちょうだい!」

あたしと国崎はそれぞれ左右から財布片手に走り出した渚の服の裾をつかみ、強引にその足を止めた。左右から引っ張られた渚がよろめいて倒れそうになったところを、あたしがキャッチする。

「わ、わ、わ! あ、愛子さん……ど、どうしたんですか?」

「待て。少し待つんだ。話せば分かる」

「渚ちゃん、一つだけ言いたいことがあるんだ。僕も神崎さんも、共通して言いたいことが」

「ふぇ……言いたいこと……ですか?」

「そうそう。ある意味、命に関わるぐらい大切なこと」

「……も、もしかして……」

渚はそう言って、あたしと国崎を交互に指さす。おいおい。なんか変な勘違いしてないか……?

「二人で、渚っちの取り合いをするんですか……?」

「するかっ!」

……うわー、ここまで理解不能な回答ができる高校生(自称)は初めて見たぞおい。あたしと国崎であんたの取り合いとか、いったいどういう状況なんだよっ。渚っ。

「愛子さん、もしかして……その……」

「何よぅ」

「……渚っちに、ほれちゃいました……?」

「ぐはぁ」

あー、あんたはそう言う状況だって解釈してたわけね。うん。すっごくよく分かった。渚、あんたは説明上手だわ。将来いい説明担当になれるわよきっと。その前に、あたしはれっきとした女だっ。今までに何回か危なげな考えを持ちそうにはなったけど、あたしは女よっ。花も恥らう乙女なのよっ。

「あのねぇ、そうじゃなくて……」

「……でも、渚っち、そういう形の恋愛もありだって思ってますから……」

「思わなくていい思わなくていい。むしろ思うな」

「実を言うと、渚っちも愛子さんのことが……」

「言うな言うな言うなっ。それ以上言うなっ」

背筋に壮絶な寒気を感じたので、とりあえずいったん渚を手放す。

「あたしたちが言いたいのは、そんな無茶な話じゃないの」

「えーっ? 違うんですかー? 渚っち、ちょっとだけがっかりです」

「ちょっとだけでもがっかりなんてするなっ。そうじゃなくて……ごめん国崎、あんたから話してちょうだい……」

「いいよ」

国崎は一歩前に出て、渚と向き合う形になった。

「渚ちゃん、僕たちが言いたいことっていうのはね……」

「……あっ! 分かりましたっ」

「へ?」

「渚っちと英二さんが結婚して、それで愛子さんが養子になるんですよねっ。幸せな家庭ですっ」

「なるかっ」

一体どうすればそんな妄想ができるのか、渚の頭をリアル切開してじっくりあたしの目で見てみたくなった。あれだ。切開したら中に脳みそじゃなくて八町みそとかが詰まってるんじゃないだろうか。なんかマジでそんな気がする。

「あーもうっ! きっぱり言うわよ! 渚っ! ジュース買ってくれるのはありがたいんだけど、昨日のジュースは禁止っ! あたしたちが言いたいことはそれよっ!」

「えーっ? あのジュース、ダメなんですかー?」

「や、渚は飲みたかったら別に買ってもいいけど、あたしたちは……その、アレ以外のジュースじゃないと飲めないのよ」

「うー……でも、渚っちだけ別のジュースを飲んで、愛子さんと英二さんが同じジュースを飲んでたら、なんだかちょっと仲が悪い人同士に見えちゃいます」

「や、そんなので仲悪い関係には見られないと思うけど……」

渚の言いたいことは分からないでもないが、いくらなんでも、違う銘柄のジュースを飲んでたぐらいで「あ、この人たち仲悪いんだなー」って思われるようなことは無いと思う。っつーか、むしろ別々が基本だと思うんだけど。

「あっ! それなら、渚っちのもう一つのお気に入りの方、買ってきましょうか?」

「もう一つのお気に入り?」

「はいっ。すっごく甘くて、飲んでて幸せな気分になってくるんですよー」

「んー。どうする、国崎? あたしは別にいいんだけど」

「僕もアレ以外ならなんでもいいよ。それじゃ渚ちゃん、悪いけど、ちょっと買ってきてくれないかな?」

「あ、はいっ。それじゃ、ちょっと待っててくださいねっ」

渚はようやく話が飲み込めたみたいで、財布を持ってぱたぱたと走っていった。それを見たあたしと国崎が、ほとんど同時にほっと息を吐く。

「とりあえず、今回は大丈夫っぽいわね」

「多分ね。後は、渚ちゃんの味覚を信じるだけだよ」

「そうねぇ……」

国崎の言った「渚の味覚」という言葉に軽いひっかかりを覚えながらも、あたしは今は渚を信じることにした。

何気なく見上げた空は、今日もたくさんの雲をはべらせ、どこまでも広がる雄大で青い海のようだった。

 

「お待たせしましたっ」

「早かったわね。ありがと」

「ありがとう、渚ちゃん」

「たははっ。これぐらい、朝飯前ですよっ」

渚はいつものように笑って、あたしと国崎に紙パックのジュースを手渡す。それにしても、前の殺人ジュースも紙パックだった。渚は紙パックのジュースが好きなのかな。ま、何が好きでもいいけどね。あたしや国崎が飲んでもこの世に留まれるもの限定だけど。

「……………………」

「これ、すごくおいしいんですよっ。渚っちの二番目のおすすめです」

「見た感じは……なんか、バナナセーキとかそんな感じね……」

あたしは紙パックを撫でるように見回してみる。パックの色は黄色ベースで、何となく甘そうな感じだ。名前とかが書いてないのがちょっと引っかかったけど、前のに比べればまだ何となくジュースっぽい感じはする。多分、大丈夫だろう。

「おいしいですから、きっと愛子さんと英二さんも気に入ってくれると思います」

「んー、分かった。それじゃ渚、これ、もらっちゃうわね」

「はいっ」

あたしは紙パックからストローを外し、ビニールを破って、出てきたストローをピンと伸ばしてから、紙パックの銀色の封印口にストローの尖った方を差し込む。真ん中ぐらいまで差し込んでから、それを口につけて中身を吸い上

「……うぐっ?!」

……その瞬間、あたしの意識が吹っ飛んだ。「意識が吹っ飛んだ」というはっきりとした意識が、怖いぐらい冷静に、あたしの中に伝わってきた。

「わ、愛子さん?!」

「か、神崎さん?!」

何か声が聞こえてくるけど、もうそれが、誰の、何の声なのかも分からない。そして、今意識が吹っ飛びつつあるあたしが、一体誰なのかもだんだんと分からなくなってきて……

あたしは……

 

「……?」

気が付くと、あたしはどこまでーも広がるでっかい大草原で、ぺたっとお尻を付いてへたりこんでいた。

「……………………」

空を見上げてみる。するとどうだろう。まるで永遠に続くような、途方も無く広い青空が広がっていた。さっきまで見ていた青空とは、何かこう根本的にスケールが違う。これが本場っていうやつなのかなぁ。何がどう本場なのかはちっとも分かんないけど。

と、あたしがそんなどーでもいいことを考えていると、

「……えいえんは、あるよ」

「……?」

あたしの目の前に、茜色の髪をして黄色のリボンがチャームポイントのワンピースを着た六歳ぐらい(推定)の女の子が立っているではないか。なんだかよく分からないが、妙に威厳がある。

「このせかいはおわらないよ」

「……………………」

「だってもう、おわっているんだから……」

なんだかちっとも分からないが、逆らうとまずいような気がする。とりあえずここは、黙っておいた方がいいよね。うん。君子危うきに近寄らず、って言うし。

「もう、かえれないんだよ……」

「……って、帰れないって、それはちょっとまずいんだけど」

女の子がとんでもないことを言い出したので、思わず口を開けてしまうあたし。すると、

「……………………」

女の子がちょっと不機嫌そうな顔をして、何もない懐から突然、ひまわりの種のようなものを取り出した。そして、それをあたしに向かって放り投げてきた。

「おっと……」

あたしは難なくそれを受け止める。見るとそれは、ちょっとでっかいひまわりの種だった。いや、それは別にいいんだけど、どーしてひまわりの種なんか投げつけて来るんだろうか……

……と、あたしが何気なく横を向いてみると、

「……………………」

「……………………」

……隣に、妙にでっかい影が。落ち着いて、ゆっくりとその姿を見てみる。

それは……オレンジ色をしてて、大きくくりくりしたつぶらな瞳と短い手足があって、身長約170cmの巨体がチャームポイントのいなせなハムスターだった。とりあえず、「身長170cmのハムスター」という時点でありえない。

「……ごめん。これなに?」

「いたるさん」

「いたるさん……?」

あたしが聞き返すと、女の子曰く「いたるさん」なる名前の巨大ハムスターが「ぱかっ」と大きな口を開き、あたしをつぶらな瞳で見つめてきた。

「……ごめん。この口、何?」

「もう、かえれないんだよ……」

「や、答えになってないから」

あたしが冷や汗たらたらで女の子とやり取りをしている間にも、「いたるさん」はでっかい口をあんぐり開けたまま、あたしのほうにじりじり近づいてきて、着々とあたしを食べようとしている。

「ちょ、待って待って。あたし、世間の風に当たりまくってるから、きっと食べてもおいしくなんかないわよっ」

「さようなら……」

「いや、ちょっと……って、きゃあああぁぁぁぁぁ……っ!」

 

ぱくっ

 

「……うぐぅ……」

「あ、愛子さんっ。目が覚めたんですねっ」

「……渚? あれ? あたし……」

あたしは気が付くと、木にもたれかかって倒れていた。ゆっくり目を開けてみると、前には渚と国崎の姿が。どーいうことだ?

「あたし、なんでこんなとこにいるわけ?」

「愛子さん、ジュースを飲んだとたんに、垂直に倒れちゃったんですよ」

「びっくりしたよ。とりあえず炎天下で放っておくのはまずいと思ったから、ここまで連れてきたんだけど」

「……うーむ……なんだかそのあたりの記憶が曖昧なんだけど……」

言われてみれば、確かあたしは何かを飲んで、その途端に意識が天高く吹っ飛んで、んでもってなんだか怪しげな夢みたいなのを見てたような気がする。

「とりあえず……渚。あんた、あたしに何飲ませたの?」

「ふぇ? これですけど……」

そー言って渚が取り出したのは、ストローが突き刺さったままの紙パックのジュース。一見すると何の変哲もないただのジュースだが、今のあたしからするとこれほど恐ろしいものもない。

「これ……何のジュースなわけ?」

「これですか? これはですねー、その名もずばり『ワッフルジュース』っていうんですよっ」

「ワッフルジュース?」

「はいっ。ワッフルの味を完全にジュースにした、他では絶対に飲めないとっても珍しい逸品なんですよっ」

渚はウィンクをしながら、そのワッフルジュースとやらの魅力を切々と語りかけてくる。

「すっごく甘くて、飲んでると幸せな気分になれるんですよっ」

「ごめん。あたし、それ飲んで死にかけたんだけど」

「えーっ? それはきっと、愛子さんの舌がどっかおかしいんですよー」

「や、あたしの舌は正常だと思う。で、あんたの舌がおかしい。これが事実」

「う~……そんなことないですっ」

ちょっと怒ったように反論して見せてから、渚は自分の分のジュースを取り出し、ストローを突き刺して飲み始めた。

「たはは~」

「……………………」

「……………………」

それを固唾をのんで見守るあたしと国崎。

「たはははは~」

「……………………」

「……………………」

しばらくもしないうちに、紙パックの中央がへこみはじめて、しまいには紙パックの全体がべっこりへこんでしまって、

「たはーっ。やっぱり、おいしいですよっ」

「す……すげぇ……ぜ、全部飲んじゃった……」

「し、信じられないよ……僕……」

渚は、あたしを一撃で倒した殺人ジュースを、一息で飲み干してしまった。その表情は渚の言うとおり、幸せそのもの。おかしい。何かがおかしい。間違いなくおかしい。

「渚……あんた、きっと人間を超越した何かをもってるわ……」

「たははっ。褒められると照れちゃいます」

「いや、それって褒めてるのかどうかすごい怪しいと思うんだけどな……」

国崎とあたしは、ただ顔を見合わせあうことしかできなかった。

 

「本当にもらっちゃっていいんですか?」

「うん。遠慮なく飲んじゃって。飲みかけだけど」

「僕のももらってくれていいからね。遠慮は全然しなくていいから」

「二日続けて、渚っちは得しちゃったです。愛子さんと英二さんは、本当に優しいです」

「や、それ、元々渚のお金で買ったものだし」

帰りの道すがら、あたしと国崎は(うまく言いくるめて)渚に殺人ジュースを押しつけることに成功した。というか、あんなもん飲めるのはマジで渚ぐらいしかいないと思う。もし他にいたら怖い。すげぇ怖い。

(ほんと、この子って底が知れないわ……)

何度抱いたかわからないこの感情を、あたしは再び抱いた。

 

「……………………」

ジュース騒動も一息ついて、家までの道のりももう半分を切った頃。

「ところで渚ちゃん。一つ、いいかな?」

不意に国崎が、渚に話を切り出した。

「はいっ。どうしたんですか?」

渚のいつもの返答に、国崎はほんの少しだけ間をおいた後……

……こう、言った。

「……渚ちゃん、昨日はどんな夢を見たの?」

「……!」

その瞬間、あたしの中で、言いようのない緊張が走るのを感じた。それはあたしだけじゃない。国崎の表情からも、緊張が国崎を支配しているのが容易に読み取れる。

「確か……一昨日は、誰かに追いかけられる夢を見たんだよね」

「……………………」

「それで……昨日は、どんな夢を見たの?」

渚はうつむいたまま、答えようとしない。答えたくないのか? いや、顔を見ていると、どうもそうではないような気がしてくる。何か、言い辛い夢なのだろうか。

この空気が長引くのを避けたかったのか、国崎が続けて口を開き、

「……あれだよ。もし言いたくなかったら、無理に……」

こう言って話を打ち切ろうとしたときだった。

「……誰かと、向き合っていました」

「……え?」

「わたしの大切な人と、わたしが、お互いに向き合っていました」

「……………………」

「わたしはその人を、『好き』って思いました」

渚が、ゆっくりと話を始めた。あたしと国崎はただ、その話に耳を傾けることしかできなかった。

「夢の中のわたしと、わたしの大切な人と、わたしのもう一人の大切な人の三人で、どこかを目指して歩いていました」

「……どこかを……?」

「はい。どこかは分かりませんでした。でも、どこかを目指していました」

「……………………」

「夢の中でわたしは、その『どこか』は、わたしにとっても『目指したいもの』だ、って思いました」

「……………………」

「もしかしたら、誰かに会いに行くために、三人で歩いていたのかも知れないです。誰かに『会いたい』から、歩いていたのかも知れないです」

ゆっくりと言葉を紡ぐ渚の表情は、いつもとはまったく比べものにならないほど大人びて見えて、目の前にいるのは間違いなく渚であるはずなのに、それは渚とはまったく違う人間のように見えた。

「その夢の中のわたしにとって『会いたい』人に、わたしも会いたいです」

「それは……どうして?」

「それは……きっと、わたしにとっても、『会いたい』人だからです」

「……………………」

「きっとそれは……わたしがずっと、『会いたい』と思っている人だと思うんです」

渚はそう言って、ゆっくりと瞳を閉じた。

「夢の中に出てくるもう一人のわたしは、きっとすごく寂しがり屋なんだと思います」

「……………………」

「わたしも、一人でいるのは寂しいです。他に誰もいなくて、ずっと一人でいるのは、わたしには絶対にできません」

「……………………」

「でも、誰かがわたしを思い出してくれるのなら、わたしは一人でも大丈夫です。その人のことを思って、わたしも一人でいられます」

「……………………」

「だからわたしは、夢の中の『わたし』を思い出してあげよう、って思うんです」

うつむいていた顔を上げ、閉じていた瞳を開き、渚は空を見上げた。

「誰かが思い出してあげないと、その子はずっとひとりぼっちなんです」

「……………………」

「一人ぼっちは、すごく寂しいです」

「……………………」

「大切な人に、そばにいてもらいたいです」

渚は最後にそう言って、固くしていた表情を、ふっ、と解いた。

「ごめんなさいです。渚っち、珍しくシリアスな話をしてしまいました」

「いや……それは別にいいよ。それが、渚ちゃんの見た夢なんだからね」

「本当はもっと、楽しい夢を見てみたいです。最近、こんな夢をずっと見てますから」

そこにはもう、さっきまでの渚であって渚でない表情は、どこにもなかった。

「それより、そろそろ帰ってお昼にしましょうよっ。もう、こんな時間です」

「そうだね。ほら、神崎さん。行こうよ」

「あ、うん……」

あたしは国崎に促されて、渚と手をつないで、家への道のりを歩いた。

 

「……渚」

「ふぇ? どうしたんですかー?」

「明日からここ、うどん屋にしなさい」

「わ、愛子さんすごく唐突」

あたしは口ん中でうどん(冷やし)をもぐもぐやりながら、渚は真剣にうどん屋をやるべきだと何度も何度も思っていた。とりあえず、このうどん神。マジ神。神降臨。そんな気分。

「これ……本当に手作りなのよね?」

「そうですよー。生地を踏むのが楽しいんですっ」

「ねえ神崎さん、僕、会計やりたいんだけど」

「うし。あたしは仕入れと店子やるわ。で、渚が厨房。これで決まりね」

「わ、もう出店計画まで立ってる」

国崎にまであんなことを言わせてしまうほどだ。その妙味は推して知るべし、である。それにしても、これを粉から作り上げてしまう渚は本当にすごい。すごいっていう言葉しか出ないぐらいすごい。すごい中のすごい。

「で、またこのだしがいい味を出してるのよねー」

「たははっ。褒められると照れちゃいますよー」

「……って、もしかしてこれも手作りなのか渚ーっ!?」

「ふぇ? そうですけど?」

「神崎さん、僕、チラシ作るよ」

「うし。じゃああたしは自力でこの家を店に改装する」

「わ、なんだか大変なことになってる」

なんてこったい。渚はうどんだしも自作していた。この調子だと、本当に何でも作ってしまいそうだ。自作じゃないのはせいぜい器ぐらいものだろう。

「うーむ……あんた、絶対いいお嫁さんになるよ」

「たははー。でもその前に、お相手さんを見つけないといけないです」

「や、それはそうだけど、きっとすぐ見つかるわよ」

「ふふふー。愛子さん、結婚式には呼んであげますよっ」

「言ったわねー。それじゃ、どっちが先に籍入れるか競争しようじゃない」

「ふふふー。いいですよー。渚っちの恐ろしさを見せてあげるですー」

こんな感じで、昼食は和やかに進んでいった。

まるで先程の緊張が、夢物語か何かであったかのように。

 

「あー……結構涼しくなったわねー……」

「そうだね。渚ちゃん、やっぱり料理うまいよ」

「ん。あたしもそれは思うわ」

渚が洗い物をしてくれるというので、あたしはお言葉に甘えて、国崎と一緒に和室でくつろいでいた。

しばらくはそうやって何気ない会話をしてたんだけど、あたしと国崎の二人だけだと、どーしても話が続かない。

「……………………」

「……………………」

こんな感じで、すぐに会話が止まっちゃう。や、あたしだって何か話したいんだけど、国崎と話してるとどーも疲れるっていうか、なんていうか……

「……………………」

「……………………」

……本当は、あいつと話さなきゃいけないこと、山ほどあるんだけどね。山ほどあるんだけど、話さなきゃいけないことがありすぎて、何から話したらいいのかあたしにもよく分かんない。

「……………………」

「……………………」

話さなきゃいけないことは本当にたくさんある。あたしの母さんが言ってたことをどうして知ってたのかとか、何であんな変な本を持ってるんだとか、それに……

「……………………」

「……………………」

……どうして、渚の見た夢を聞きたがったのか、ってこととか。ここまでされて、何もないと思う方が無理だ。国崎は絶対、あたしや渚に何か隠してることがある。

「……………………」

「……………………」

それはきっと、あたしや渚にとっても大切なことだと思う。何かは分からないけど、大切なことだと思う。それこそ、あたしや渚の人生に大きく関わってくるみたいな、大切なこと。

「……………………」

「……………………」

国崎が何を知ってるのかは分からないけど、何か知ってるのは間違いない。そうじゃなかったら、こんな思わせぶりな態度、ずっと取ってられるはずなんかないもん。

そこまで考えて、あたしは国崎の方をじーっと見つめてみる。

「……………………」

「……………………」

国崎もあたしのことをじーっと見つめてる。じーっと見つめるだけで、それ以上は何もない。おかげで、あたしもあいつから目が離せなくなる。

「……………………」

「……………………」

じーっと見詰め合う、あたしと国崎。そのまま流れていく時間。

(……………………)

……いや、ちょっと待って。あたし、なんかおかしくない? いや、ちょっと待とうよあたし。今あたしの目の前にいるの、国崎だよ? 国崎。あの妙に思わせぶりなとこがあって、どんな質問ものらりくらりとかわして、つかみどころのない、あの国崎なのよ? ほら、落ち着いて考えてみなさいって。

 

……なんであたし、ドキドキしてるわけ……?

 

ちょ、ちょっと待とうよあたし。じゅ、順序立てて考えてみようよ。だって、国崎だよ? あの何考えてるかわからない、線の細くて妙に女っぽい、国崎英二だよ? 国崎英二。あたし、絶対どっかおかしいよ。あ、あれだ。さっきジュース飲んだ時に、どっかおかしくなったんだ。そうだよ。そうに違いない。そうとしか考えられない。

「神崎さん」

「……わっ?!」

「どうしたの? 何かびっくりするようなことでもあったの?」

「な……何よ……べ、別に、何にもないわよ……」

「そう。それならよかった」

 

「顔、いつもよりずいぶん赤くなってたからね」

「!!!!!」

 

……!!…!………!…………!!!……!……!………!!!………!………………!!!…………!

「――――!!」

「本当に大丈夫? 風邪は引き始めが肝心だからね」

「だだだ大丈夫だって、いいい言ってるじゃないっ!」

「風邪には気を付けたほうがいいよ。僕も小さい時、よく風邪を引いたからね」

こここ……こいつはいきなり何てことを言い出すんだ……! という事はあたし、傍から見て分かるぐらい顔を赤くしてたってわけ……? で、それを国崎にばっちり目撃されて、それとなーく言われちゃったってわけ……?

………………………………………………………………

「うぼああああああああああああっ」

「神崎さん?」

「だおおおおおおおおおおおおおっ」

「ねぇ、神崎さん?」

「にょわあああああああああああっ」

「大丈夫? 何か悪いものでも食べたの?」

「うぐううううううううううううっ」

「ねぇ、神崎さん? 神崎さん?」

あたしは部屋をごろごろ転がりながら、猛烈を通り越して殺人クラスの恥ずかしさに、ただただ悶え苦しんでいた。これもう恥ずかしいとかそういうレベルじゃないよ。死んじゃうぐらい。だってさ、よりにもよって国崎に、あたしが国崎のこと見つめて赤くなってたこと、見られちゃったのよ?

転がらずにはおれるかっ。

「だんごおおおおおおおおおおおっ」

「だんご? 愛子さん、もしかして、だんご大家族が好きなんですかっ。渚っちも、それ大好きですっ」

「ざっはとるてええええええええっ」

「ザッハトルテ、渚っちも大好きですっ。時々作って食べるんですよっ」

「あきはあああああああああああっ」

「そうですねっ。秋になったら、いっしょに紅葉狩りに行きましょうよっ」

「ねたかぶりいいいいいいいいいっ」

「気をしっかり持ってください。きっと、運が悪かっただけですから」

「ごめんなさいいいいいいいいいっ」

「大丈夫です。きっと、話せば分かってくれますからっ」

「……で、あんたはなんでそこにいるわけ?」

「たははっ。洗い物、今終わったんですよ」

あたしがごろごろ転がるのをやめて(おかげで体中に畳の藁だらけだ)顔を上げると、そこには渚の姿があった。そして、その手には。

「……それ、何?」

「ふぇ? 折り紙ですよっ。これはですねー、手でこうやって折ったりして」

「や、それは知ってるから。そういう意味じゃなくて、なんで折り紙なんか持ってるわけ?」

あたしがこう聞くと、渚はぱっと明るい表情を浮かべて、

「たははっ。これから愛子さんと英二さんと渚っちの三人で、紙飛行機の競争をするんですよっ」

「紙飛行機?」

「そうです。折り紙で紙飛行機を作って、みんなで飛ばして、一緒に遊ぶんです」

「……マジで?」

「本気ですっ。すごく楽しいんですよっ」

「……マジで?」

折り紙をずいいと前に突き出し、紙飛行機競走の面白さを強調してみせる渚。目はキラキラ輝いている。

「面白そうだね。僕はやるよ」

「……マジで?」

「たははっ。愛子さん、やりましょうよっ」

「……マジで?」

「わ、愛子さん、四回も同じ事言ってます」

「……マジで?」

「ちゃんと全部、意味が通ってるのがすごいね」

そう言いながら、あたしと国崎に折り紙(あたしのは真っ赤、国崎のは黄緑色だ。どーやら普通の折り紙っぽい)を手渡す渚。反射的に受け取ってしまうあたし。

「今日はお休みですから、愛子さんと英二さんと渚っちの三人で、一緒に遊びたかったんです」

「や、遊びたかったって……」

「ダメですか……」

……そー言って、上目遣いアーンドうるうる瞳であたしに訴えかけてくる渚。これに対抗できる男がいるとしたら、そいつはマジで盲目の闘将だと思う。無理。女のあたしですら無理なんだから。絶対無理。

「……しょーがないわね。あたしも付き合うわ」

「わ、いいんですか?!」

「今日は休みだしね。何にもしないよりかは、何かしてたほうがいいでしょ」

「う~……うれしいですっ。ありがとうございますっ」

「お礼を言われるようなことでも無いと思うんだけどねぇ……」

あたしは苦笑しながら、とりあえず膝を折って正座にしてから、折り紙をふとももの上に置いた。

 

「んー。なんだか懐かしいわねー」

あたしは紙飛行機の折り方を思い出しながら、手の中で赤い折り紙をいじくりまわしていた。記憶がずいぶん曖昧になってるせいかどうかは分かんないけど、なかなか紙飛行機らしい形になってくれない。

(案外、難しいもんね)

そんなことを考えながら、折り紙に折り目をつけていく。最初はどうかと思ったんだけど、やってみると意外に楽しかったり。これが後から曇り空を割って……って、今日は晴れか。とにかく、あたしが折った紙飛行機が空を滑るようにすいーっと飛んでいく光景を想像すると、あながち悪くない。

(紙飛行機なんて折ったの、何年ぶりかしらね……)

あたし最後に折り紙を折った、その記憶を辿っていくと……

(……ああ。寝込んでた母さんのために、鶴を折ったんだったわね……)

病気で臥せっていた母さんを元気付けるために、あたしは折り紙で鶴を折った。もっとちゃんと言うなら、それは折り紙じゃない。あたしが持っていたノートを正方形に切って、それを使って折ったんだった。

(ろくに折り方も分かんなくて、出来上がったのは鶴じゃなくて鴨だったのよね。確か)

それでも、母さんはとても喜んでくれた。折鶴ならぬ折鴨を、母さんはまるであたしの分身みたいに大切にしてくれた。それがうれしくて、あたしはいくつも折り紙を折った。

(……あんなにうれしそうにしてた母さん、初めて見たっけ……)

そんなことを考えながら、あたしはふと、後ろで紙飛行機を折っているはずであろう、渚の姿を見た。

 

……あたしはこのとき、渚はもう紙飛行機を折り上げているものだとばかり思っていた。

 

「……渚?」

「……………………」

だからあたしが、まっさらな青色の折り紙を持ったままの渚の姿を見た時は、あまりの意外さに思わず目を見張ってしまった。

「……渚……」

渚は折り紙を持ったまま、それを折ろうとしない。ただ、両手で折り紙を押さえて、両足を崩した正座をしたまま、ただじっと、折り紙のことを見つめたままだ。その光景は、あまりに異様過ぎた。

「……渚ちゃん?」

その近くで折り紙をしていた国崎も、その事態の異様さに気付いたようだ。折り紙を折る手を止め、渚の方に視線を向けている。あたしは渚から目が離せず、そのままじっと渚の姿を見つめていた。

……そして。

 

「……どうして……?」

 

不意に、渚が声を上げた。今にも消え入りそうで、それでいて痛々しい、悲痛な声だった。

「渚?」

「渚ちゃん……?」

「どうしてなの……っ」

「……………………」

「どうして……いつも……こんな風に……っ……」

「……………………」

渚が俯いたまま体を震わせ、青色の折り紙を持った手に力を込め始める。

「もう……一人になんか……なりたく……ないのにっ……!」

「な、渚……」

「どうして……上手く……行かないのっ……?!」

「……………………」

渚の瞳が赤みを帯び、間もないうちに、それがじわりと潤み始めた。

「渚……あんた、どうして……」

「ダメだよ……このままだったら、また一人ぼっちになっちゃうよっ……」

「……一人ぼっち……?」

「頑張らなきゃ……せっかくここまで来れたのに……あと、もう少しなのにっ……」

そしてそこから、渚の今の気持ちを象徴するような光の雫が零れ落ちるまでは、そう、時間はかからなかった。

「頑張りたいのにっ……頑張らなきゃいけないのにっ……」

「渚……」

渚が渚でいられたのは、ここまでだった。渚が頑張ることができたのは、ここまでだった。

「うっ……くっ……はぁぁっ……」

「ど、どうしたの渚? ねぇ、どうしたのって……」

あたしが渚に近づこうとすると、不意にあたしの肩をつかむ手。

「……国崎?」

「神崎さん、少し、外に出よう」

「外に出ようって……だって、あんた、渚が……」

「いいから」

国崎はいつもからは考えられないほど強い調子で、あたしに言い放った。あたしはその国崎の様子にたじろいでしまって、ただ頷き、一緒に外に出ることしかできなかった。

「渚……」

出際、あたしが見た渚は……

「……ひくっ……ううっ……ぐすっ……」

……顔を伏せ、ただ泣き続ける、小さな雛鳥のようだった。

 

「……………………」

「……………………」

渚の家の前に出たあたしと国崎は、互いに何も言うことができず、ただ隣り合って立っていた。そこには普段の妙な空気の変わりに、異様なほど緊張した空気が流れ始めていた。

「……………………」

国崎はうつむいたまま、しきりに歯噛みをしている。時折鋭いため息を吐き、必死に何かを考えているように見えた。その表情をあえて別の言葉で表現するのならば、犯人が分からずいらついている、探偵や検事のそれに似ていた。

そうやってしばらく、国崎は自問自答の試行錯誤を繰り返していたようだったが、やがて、

「……ごめんね。ああするしか、無かったんだ」

「……?」

「……あの時、あそこに僕らがいたら……」

「……………………」

「渚ちゃんはもっと、もっと苦しんでいたはずだから……」

「……………………」

沈痛な面持ちで、胃の中から錘を引きずり出すかのように、ゆっくりと言葉を吐き出した。そしてゆっくりと頭を振って、一際大きなため息を吐き出した。

「……国崎……」

「……?」

「……渚は……一体……どうしちゃったって……いうの……?」

「……………………」

「渚は……どうして、あんな風になっちゃったの……?」

あたしには何も分からなかった。渚が突然、発作でも起こしたように泣き出したこと。俯いたまま、顔もろくに上げられなくなったこと。渚の言った言葉。その言葉の意味。何一つ、分からなかった。平和な日常に突然、見知らぬ人間が入り込んできたのと同じような感覚を抱いた。

「……………………」

国崎から返事は返ってこなかった。

それから、しばらくした後のことだった。

「僕は……」

「え……?」

「……僕は、このまま立っていられるのか……?」

「国崎……?」

「……僕は……最後まで、これを見届けるだけの資格があるのか……?」

「……………………」

「……僕は……ここにいるべき存在なのか……?」

今度は国崎が自問自答を始めてしまった。あたしは国崎の「このまま」「これ」「ここ」と言う言葉に尋常ならざる引っ掛かりを感じながら、ただ、国崎が言葉を言い終えるのを待つことしかできなかった。

「僕は……」

「……………………」

……最後に、こう呟いた。

「……断ち切ることが……できるんだろうか……」

そう、消え入りそうな声で。

 

「……ごめん。ちょっと、出かけてくる」

「あっ、ちょっと……」

国崎はそう言うや否や、一人ですたすたとどこかへ歩いていってしまった。あたしが追いかけるかどうかを決めるヒマも無く、あっという間に小さくなって、しばらくもしない間に見えなくなった。

「……出かけてくるって……」

あたしはただ、国崎が歩いていった方を呆然と見ることしかできなかった。走れば間に合うかも知れなかったけど、何故か追いかける気にはなれなかった。国崎の背中が、まるで「追いかけないでくれ」って言ってるみたいだったから。

「……渚……国崎……」

今まで見たことの無いような、悲痛な姿で泣く渚。沈痛な面持ちを浮かべたまま、ただ自問自答を繰り返す国崎。見知らぬ者同士の共同生活という日常的な非日常から、本当の意味での非日常に放り出されてしまったあたし。

さっきまであったものが、ことごとく変わり始めた。

 

(……渚……もう、治まったかしら……)

国崎に言われて外に出たけど、あんな状態の渚を家の中に残したままいつまでも外にいられるほど、あたしの心は頑丈にはできてない。渚のことが、急に心配になった。

渚の泣き方は、あたしが今まで生きてきた中でも見たことがないぐらい痛々しくて、とてもじゃないけど見ていられなかった。いつもの渚の姿とのギャップがありすぎて、今でもまだちょっと信じられずにいる。

……だからかも知れないけど、あれは何かの間違いだと思いたかった。次にまた渚に会った時は、さっきまでの渚でいてほしかった。あたしの心の中に、あの渚の姿を否定したい気持ちが一杯に広がった。

入るか入るまいかしばらく迷った後、

(……入ってみますか)

国崎の言葉は気になったけど、「とりあえず様子だけでも」と思って、あたしは開けっ放しだった戸を閉めながら、家の中に戻った。

 

「……………………」

家の中は静まり返っていた。渚のすすり泣くような声は聞こえてこないが、かと言って、いつものような楽しげな声が聞こえてくるというわけでもない。

「……………………」

あたしは玄関を上がって、さっきまであたしたちと渚がいた茶の間まで歩いていった。

渚はまだ、茶の間にいるのだろうか。もしいるとすれば、どんな表情をしているのだろう。あたしは鼓動が高鳴るのをいやにしっかり感じながら、茶の間に入った。

……………………

「……………………」

そこに、渚の姿は無かった。あるのは、ただ……

「……折り紙……」

……渚が持ってきた、色とりどりの折り紙だけだった。

それは滅茶苦茶になって、部屋中に散らばっていた。原形をとどめないほどに破れてしまっているものもある。赤、青、黄、緑、灰、黒、紫……原色の折り紙の小さな欠片が、部屋を埋めている。教会のステンドグラスを持ってきて、高いところから落としたような光景だった。

「……………………」

あたしは言葉を失った。あの時、あたしも国崎もすぐに家を出て行ったから、家にいたのは渚だけだ。となると、つまり……

……この異様な光景は、渚が一人で作り出した……そういうことになる。

(……癇癪……)

あたしは思い浮かべた。癇癪を起こした幼子のように、手当たり次第に折り紙を引っつかんで、滅茶苦茶に引き裂いて、切り裂いて、破って、引き千切って、また引っつかんで、引き裂いて、切り裂いて、破って、引き千切って……

……折り紙の死屍累々の中で、ただ一人佇む渚の姿を。

(……どうして……こんな……)

訳が分からなかった。渚はどうして、そんなことをしたのだろう。何が原因で、あんな悲痛な泣き方をしたのだろう。理由が分からないから、訳が分からないから……

……だから、不安になった。

こうなってしまうまでの渚と、この光景を、どうやっても結び付けられなかった。互いを結びつけるための糸を紡ぐことが、どうしてもできなかった。

「……とりあえず、片付けといた方がいいわね」

無理矢理考えるのをやめて、あたしは声に出して言った。何か自分にすることを与えなければ、このままずっと考え続けていただろう。何の手がかりの与えられていない問題の、見つかるはずの無い答えを探して。

「……………………」

あたしは黙ったまま折り紙を集めて、ごみ箱に放り込んだ。

一緒に、このもやもやとした気持ちも綺麗さっぱり放り込めたら、どれだけ楽だろうなどと考えながら。

 

「……渚……どうして……」

あたしは外を歩いていた。あれからしばらく家にいたけど、いつもの渚のいない家は嫌に広く感じられて、その内なんだかいたたまれなくなってきて、こんな感じで外に出てきてしまったというわけだ。結局、国崎と同じことをしている。

家から持ってきた手提げを引きずるようにして持ちながら、あたしはふらふらと街の中を歩いている。夏の日差しが照りつけているはずなのに、何故か暑さはそれほど感じない。暑さを感じるための感覚も皆、さっきの出来事のできもしない解釈に総動員されているのだと、あたしは思った。

無駄だと思ったけど、あたしはまとめてみた。

渚が折り紙を持ってきて、あたしと国崎も一緒に紙飛行機を折り始めて、あたしが折り終わって渚の姿を見てみたら、渚はまだ折り終わってなくて、あたしが渚に声をかけたら、渚がいきなり泣きはじめて、何も出来ずにたじろいでたら、国崎に家から出るように言われて、家を出て、国崎が何か言ってどこかに出かけて、しばらくしてから家に入って……

……折り紙の墓場を、この目で見て。

「……はぁ」

重い気分を吐き出すように、ため息を吐いた。少しは胸のつかえが取れるかと思ったが、大して変わらなかった。脳裏に浮かぶのは、親がいなくなった雛鳥のように泣く渚の姿と、その渚が作り出した、折り紙の墓場の光景だけだった。

あたしがそんなことを考えながら、街の中心地をふらふらと歩いていた……

……ちょうど、その時だった。

「あら? もしかして、この間の……」

「……?」

声を掛けられた方を振り向く。見るとそこには、三十台半ばぐらいの女性の姿があった。はて、どこかで見かけたような……

「えーっと……どこかでお会いしましたっけ?」

「そうですね……四日ほど前だったでしょうか。人形劇を見せていただいた……」

「……ああ! あの時のお母さん!」

「思い出していただけましたか」

そうだそうだ。確か、四日ほど前にあたしは二人組の男の子と女の子に人形劇を見せて、その後成り行きで、女の子の方のお母さんにも人形劇を見せたんだった。結構前の出来事だったから、すっかり忘れてた。

「あれからどうですか? 順調に進んでいますか?」

「えー……まぁ、ぼちぼちってとこです」

「そうですか……ごめんなさいね。急に見かけたものですから、つい声をかけてしまって……」

女性は丁寧に頭を下げた。一人で鬱々としていたあたしにとって、ほとんど初対面に近いこの女の人に声を掛けられただけでも、ずいぶん気が楽になった。渚と国崎以外知ってる人がいないこの街で、あたしに声をかけてくれるような人はまずいないからだ。

「ところで……少し元気が無いようですね」

「えっ……?」

「失礼な話かも知れませんが……分かるんです。顔つきを見ると、その人が今どんな気持ちでいるか、大体ですけど」

「……………………」

目の前の女の人は、まるですべてを見透かしたように、しかしそこに何も嫌味なものはなく、ただあたしの心を見つめているように見えた。その目を見ていると、どうしてだか分かんないけど、あたしの口が自然と動いてしまう。

「……あの。一つ、聞きたいことがあるんですが、いいでしょうか」

「はい。答えられないかも知れませんが、答えられることなら、なんでも」

「……この街に住んでる、なぎ……いえ、『美崎』って人、知ってるでしょうか?」

「美崎さん? もしかして、美崎さんの所の渚ちゃんのことかしら?」

「……知ってるんですか?」

「ええ。美崎さんのお母さんとは何度かお会いしたことがありますし、紅葉が渚ちゃんにお世話になったこともありますから」

女性は静かにそう言った。たまたま人形劇を見せた人が、あたしを今一番悩ませている、あの子のことについて知っている。かなりの偶然だと思ったが、偶然は二度とないから偶然。この偶然を、手放すわけには行かなかった。

「あたしは……その、今渚のところで厄介になってるんです」

「美崎さんの所で……?」

「はい。それで……」

「……………………」

「……あたし、細かいこと苦手なんで、単刀直入に聞きます」

「……………………」

「渚は……渚は、どんな子なんですか?」

「……………………」

「あたしはここに来てまだ一週間ぐらいしか経ってなくて、渚のことをほとんど知らないんです。あの子が一体どんな子なのか、あたしにはちっとも分からないんです」

「そうですか……すみません。あまり、たくさんのことはお話できそうにありません。私自身、美崎さんとはあまり会う機会がありませんでしたから。ただ……」

「……ただ?」

女性は少し表情を曇らせて、やや重い調子でこう続けた。

「渚ちゃんがまだ小学校に上がる前の話なんですが……渚ちゃんは何か先天性の疾患を患っていて、その疾患のせいでなかなか友達が出来ずにいる、という話は、何度か耳にしたことがあります」

「渚が……病気に……?」

「ええ。私も人づてに聞いただけなので、細かいことは分かりません。お役に立てなくて、申し訳ありません」

「あ、いや……全然構わないです。元々、知らないのが当然だと思いますし……」

深々と頭を下げる女性に、あたしも慌てて頭を下げる。物腰の丁寧な人だな、と思った。

「お時間を取らせてしまいましたね。どうもすみませんでした」

「いえ、こちらこそ……」

最後にそう言って、女性は立ち去ろうとした……

……と、少し歩いてから振り返り、

「……旅人さん」

「はい?」

「人形劇、とても楽しかったですよ」

「え? あたしの人形劇ですか?」

「ええ。あなたの人形劇で、渚ちゃんを心の底から、明るく笑わせてあげてください」

「……………………」

「それでは」

そう言い残して、今度こそその場を立ち去った。

「……………………」

あたしは狐につままれたような気分で、静かに立ち去っていく女性のことを、しばしの間呆然と見詰めていた。

 

「……………………」

あたしは街の外側をぐるりと周りながら、渚のことに考えを巡らせていた。

(先天性の疾患……そのせいで、友達が出来ない……)

女性から聞いた言葉が、何度となく頭の中で繰り返された。その言葉の意味するところは、つまり。

(……渚には生まれつきの病気のせいで、友達がいない……?)

こういうことになる。

渚。生まれつきの病気。友達が出来ない。「生まれつきの病気」で、「友達が出来ない」のは理解できる。対人恐怖症といったその手の病気は、あたしだって知ってる。そのせいでなかなか人とコミュニケーションが取れないって人は、あたしも見たことがある。この二つのキーワードは、簡単に結び付けられる。

……でも。

(渚は……ちっともそんな風には……)

その二つのキーワードと、「渚」は、どうやっても結び付けられそうになかった。

明るくて、誰にも優しくできて、意外と冗談も言えて、場の雰囲気を良くしてくれて、手先が器用で、手際もびっくりするぐらい良くて……ちょっとどころかかなりヘンなところはあるけども、あたしから見た渚は、何も後ろ暗い所のない、明るい女の子だった。

それがどうして、「病気で友達がいない」といった要素と、簡単につなげられるだろう。事実、これまで渚と過ごしてきた一週間ぐらいの間、渚はずっと元気だった。生まれつき病気持ちだなんて言われても、おいそれとは信じられない。

(……でも、あの時の渚は……)

……でも、それは「今まで」の渚だ。「今」の渚は、「今まで」の渚とは、何かが根本的に違う。悲痛な声を上げながらすすり泣いて、癇癪を起こして折り紙を引き裂いた「渚」と、「生まれつきの病気」「友達が出来ない」は、いとも簡単に結び付けられてしまうように思えた。

(ひょっとして……あれが病気なのかしら……)

今は、そう考えるのが自然だった。理由も原因も、細かいことも何も分からないが、渚にはとにかく何か「病気」があって、それが何かのきっかけで表に出てきて、「普段」の渚をどこかに追い払ってしまう。「普段」の渚と「病気」の渚のギャップは信じられないぐらい大きいから、何も知らない人はそれに驚いてしまって、渚に近づくのを躊躇うようになる……

(……渚……)

あたしは渚のことを考えながら、ただ街を歩き続けた。

 

「……………………」

夕方になってから、あたしは渚の家に戻ってきた。家の戸はあたしが出て行ったときのまま、しっかりと閉められている。

(がらら)

戸を開けて中に入る。渚が出てこないかと少しだけ期待してみたけど、あっさり期待はずれに終わった。誰かが駆けてくるような音も、渚の通りのいい声も、まったく聞こえてこない。さっきとまったく同じだった。

(……どうしちゃったのかしら……)

あたしは重たい気分のまま、とりあえず茶の間に足を運んだ。

……すると。

「……帰ってたの?」

「うん……しばらく、散歩してたんだ」

「……あたしもよ。いい運動になったわ」

「それは良かった」

国崎が壁にもたれかかって、なんとも言えない顔をしていた。どうしてそんな顔をしてるのかぐらいは分かったから、あたしもあえてそれをどうこうしようとは思わなかった。

それに……

「……このまま帰ってこないんじゃないかって、ちょっと思ってた」

「大丈夫だよ。僕はただ、散歩に出かけてただけだから」

「……………………」

「……同じこと、僕も考えてたんだけどね」

「……あたしが帰ってこないってこと?」

「うん……少し、不安だった」

「……………………」

……正直、国崎がいてくれるだけでも、一人でいるよりかずっと楽に思えた。国崎の言葉を聞く限り、国崎も同じことを考えていたらしい。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

互いに何も言わないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 

青かった空が徐々に赤みを帯び始めたかと思うと、まるで急くようにして暗い空が広がった。そしてそのまま、夜になった。

「……………………」

「……………………」

あたしと国崎は何も言わないまま、でもお互い肩が触れ合うほどに寄り添って。壁にもたれかかっている。

「……………………」

国崎は今、何を考えているのだろう。あたしの横から見える国崎の顔は、まるで遠くのどこかを見つめているようで、何を考えているかなんて、さっぱり分からなかった。

でも、これだけは言える。

あたしと国崎と、それから渚。あたしたち三人の間で、何かが変わり始めてしまったこと。昨日までのあたしたちには、簡単に戻れそうにはないこと。そして、何より。

……渚は、どこか普通じゃないってこと。

(渚……)

あたしは……今日一日の渚の姿を思い出しながら、それでもまだどこか、あの渚の姿を否定したい気持ちがあって、でもそれは、単にあたしの願望に過ぎなくて、渚にはあたしの知らない一面があって、渚はそれで苦しんでて、渚はそのせいで……

……そのせいで、あんなに泣いて……

……雛鳥のように泣いて、癇癪を起こして、それから……それから……

……あたしが意識を保てたのは、ここまでだった。

………………

…………

……

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。