*七月二十四日*
「……………………」
気だるさと共に目が覚めた。昨日はここ数日続けて見ていた不思議な夢を見ることもなく、ただ浅い眠りに付いていただけのようだった。まだ重い瞼を何度か開けたり閉じたりしながら、辺りを見回してみる。ぼやけていた視界が、次第にはっきりしてきた。
周囲をぐるりと見回して、あたしは今日の朝が、今までの朝とはまったく違う朝であることに気付いた。
「……渚……」
毎朝信じられない方法であたしたちを起こしていた渚の姿が、どこにも見当たらなかった。目を凝らして茶の間を見回してみたが、やっぱり渚の姿はなかった。今ここにいるのは、あたしと国崎、それに国崎に寄り添って眠っている、黒猫のネルだけだった。
(体が重い……)
ちゃんと布団で寝ずに、壁に寄りかかって寝たせいだった。背中が重くて、立ち上がる気力が起きない。手足の先も、なんだか冷たくて気持ち悪い。血の巡りが悪くなってるんだろう。横になって寝ないと、ろくなことがない。
立ち上がる気にもなれず(というか、立ち上がれそうになかった)、しばらく壁に寄りかかったままぼけっとしてると、隣で影が動いた。
「……起きた?」
「うん……少し、体がだるいけど」
「でしょうね。あたしもだもん」
「ちゃんと横になって寝ないとダメだね」
国崎は目をこすりながら、あたしと同じような感想を口にした。身体を動かすたびに、関節のほぐれる鈍い音が聞こえてくる。この分だと、あたしもあちこち凝ってそうだ。後でほぐしておかなきゃ。
「……渚ちゃんは?」
「……見ての通りよ」
「……………………」
あたしの言葉を受けて、国崎はうなだれるように首を落とした。一晩明ければ、何か状況が良い方に変わっているかと期待していたのだろう。同じことを考えていただけに、その気持ちは嫌になるぐらいよく分かった。あれは悪い夢だって言ってくれれば、どれだけ気が晴れたか分かんない。
「……静かに起きれて、得したんじゃない?」
あたしはうなだれる国崎の肩に、そっと手を置いた。
「そう思うことにするよ」
国崎は「大丈夫だよ」とでも言いたげな、力のない笑みを返した。
(……そう言えば、渚って自分の部屋持ってるんだっけ……)
起きてから十分ぐらい経って、体も普通に動かせるようになって来た頃。あたしはふと、渚は自分の部屋を持っていることを思い出した。いつもパジャマから制服に着替える時は、自分の部屋で着替えていた。
(いるとすれば、そこしかないわね……)
渚とはあれから一度も顔を合わせていない。どうしているかも気になるし、何より、渚の声が聞きたい。きっとまだ寝てるだろうから、起こしに行こう。
あたしはそう思って、ゆっくりと立ち上がった。
「どこ行くの?」
「ん? 渚を起こしてくるのよ。すぐ戻るわ」
「分かった」
国崎と短く言葉を交わして、あたしは茶の間を出た。
「……………………」
狭い階段を昇って、渚の部屋へ。二階に行ったことはなかったけど、適当に当たりをつけて渚を探す。
(どっちかしらねぇ……)
二階に上ると、ドアが二つ。恐らく、どちらかが渚の部屋なのだろう。
「……………………」
特に考えることなく、右のドアを選んでみる。そこに渚がいればそれでいいし、いなきゃもう一個のドアの先に渚がいる。それだけの話。ドアノブに手をかけて、ゆっくりと回す。
そこに……
「なぎ……」
……渚の姿はなかった。
(ハズレだったみたいね)
その部屋は妙に殺風景な空間で、あるのは大人用のベッドと化粧台、それから小さな箪笥ぐらいのものだった。飾らない内装や状況から考えるに、多分、渚の母親が使っている部屋なのだろう。
母親は出張に出かけてるって渚は言ってたけど、出張という割には、この部屋はもうずいぶん長い間人の手が入れられていないように見えた。化粧台の上には埃が目に見えて積もっていたし、部屋の空気もどこか淀んでいるように感じる。
しばらく、そんなことを考えてたけど、
(……あんまり人様の部屋をじろじろ見るのは、やっぱり悪いわよね)
そう思い、ゆっくりとドアを閉めた。
「……………………」
右のドアを閉めた後、あたしは渚の部屋の前に立った。このドアの向こうに、渚はいるはずだ。あたしは手を握って、ドアをノックしてみた。
「渚ー、起きてるー?」
ついでに声もかけてみる。が、返事はない。まだ眠っているのだろうか。
腕時計に目をやると、そろそろ起きないと講習に間に合わないような時間になってしまっている。寝ているのだとしたら、起こしてあげた方がいいだろう。
「渚ー、入るよー」
一応そう言ってから、あたしはドアノブに手をかけた。
「あれ……どうしてかな……」
「……渚?」
渚はベッドの上でしゃがみこんで、しきりに足をさすっていた。額にはうっすらと汗も滲んでいる。あたしはベッドの近くまで歩いていって、渚の様子を見た。
「渚? どうしたの?」
「……あっ、愛子さん……ごめんなさいです。もう少ししたら、朝ごはんにしますから」
「いや、そうじゃなくて……」
「たはは……ダメですよね。こんなことしてたら、愛子さん、怒ってどっか行っちゃいます。渚っち、ちゃんと愛子さんと英二さんにご飯を作ってあげなきゃダメです」
「……………………」
「渚っちは元気です。大丈夫です」
そんなことを言いながら、渚は……明らかに無理に笑顔を作って、あたしに視線を投げかけた。その渚の表情は、誰が見ても「元気」「大丈夫」と言えるようなものではなかった。
「ちょっと……足がしびれちゃって、うまく動いてくれないだけです」
「足……?」
渚は足がしびれてしまって、うまく動かせなくなってしまったらしい。しきりに足をさすって、動かそうとしている。その姿を見ると、余計に心配になってくる。休ませた方がいいだろう。
「渚……どっか具合悪いんだったら、休んでていいよ? あたし、邪魔だったら下に行っとくからさ……」
渚は体調を崩してしまったようだ。こういうときは、あんまり邪魔をするべきじゃない。ゆっくり休んで、体力を回復させた方がいい。あたしがこの部屋にいても、渚の気が散って邪魔なだけだ。
あたしはベッドから離れて、ドアの方へと向かっていく。
「あ、大丈夫ですっ。すぐに、すぐに行きますからっ」
「すぐにって……無理しちゃだめよ。今はさ、ゆっくり休んでなきゃ」
「大丈夫です……大丈夫ですから……っ」
「あたしもう邪魔しないから、ほら、横になって休んで……」
そう言いながら、あたしが部屋を出て行こうとした……
……その時だった。
「お願いだから一人にしないで!!」
「?!」
渚の悲痛な声が、部屋に響き渡った。
「お願いですからっ……! 一人にしないでくださいっ……!」
「な、渚……?」
「大丈夫です……大丈夫ですから……だから……」
「……………………」
「……だから、わたしをひとりにしないで……っ!」
「……………………」
「ひとりに……しないで……! ひとりに……しないで……」
出て行こうとしたあたしも、思わず足を止めてしまった。
「どうして……どうしてうまくいかないの……? どうしてわたし、いつまでもひとりぼっちなの……?」
「……………………」
渚がうわごとのように、呟く。
「だめだよ……ここでしっかりしないと、せっかく、せっかく仲良くなれたのに……せっかく、ここまで来たのに……!」
「……………………」
渚の声の調子が、強くなっていく。
「みんなだめになっちゃうんだよ?! また、ひとりぼっちになっちゃうんだよ?! そんなの……そんなのっ……!」
「……………………」
渚の表情が、悲しいものになっていく。
「ねぇ、動いてよっ……! ねぇ、どうして動いてくれないのっ……?! わたし、またひとりぼっちになっちゃうんだよ?! そんなの……そんなのもういやっ! いやなの! いやなのっ!」
渚が腕を振り回して、暴れ始める。
「ここでがんばらないと、わたし、またひとりになっちゃう……っ! また……ひとりに戻っちゃうっ……! もうっ……もうひとりはいやなのっ! ひとりぼっちになんかなりたくないのっ……!」
「渚っ! 落ち着いてよ!」
「いやいやいや! またひとりぼっちになっちゃう! そんなのいや! いやなの! いかないで! 出て行かないで! ひとりぼっちはもう……もう……いやあああああっ!!」
癇癪を起こして叫ぶ渚を、あたしは……
「バカっ!」
「あっ……」
「こんな姿のあんたほっといて、どっかに行けるわけなんかないじゃないっ……!」
「ああ……」
……強く、抱きしめた。
「愛子……さん……」
渚の細くて華奢な身体を、両腕ですっかり包み込んだ。
渚のぬくもりが伝わってくる。渚の鼓動が、あたしの鼓動とシンクロする。
「何があったのかは知らないけど、あたしはここにいるから」
「はい……」
「ずっと一人でいるのは、誰だってつらいんだから」
「……は……い……」
「苦しかったら、いつでも寄っかかっていいんだから」
「うっ……」
「あたしなんかでよかったら、一緒にいてあげるから」
「愛子……さん……」
「泣きたかったら、泣きたいときに泣かないと、おかしくなっちゃうから」
「……………………!」
それが、きっかけだった。
「ひっ……くっ……愛子……さんっ……!」
渚はあたしの胸の中で、しゃくりあげるように泣いた。のどを詰まらせながら、泣き続けた。心の中に積もっていたものを吐き出すように、ただ、泣き続けた。
「ひっく……ぐすっ……」
「……………………」
でも、それは……
「だれかに優しくしてもらうのって……ひっく……こんなにも……こんなにもうれしいことなんですね……っ!」
「渚……」
……昨日見せた涙とは、何かが違っていた。渚は目を真っ赤に腫らして、涙で顔を濡らしながら、でも……
「たはは……」
「……………………」
……作り物ではない、心の底からの笑みを浮かべていた。
渚の笑顔を、久しぶりに見ることができた気がした。
「渚っち、今きっとすごい顔になっちゃってますね……」
「そんなこと無いって。いい顔してるわよ。案外」
「たはは……褒めても何も出ませんよっ」
こんな軽口も、久しぶりだった。
「大丈夫? あたしはちゃんといるから、何かあったらすぐ言ってちょうだいよ」
「はい。もう大丈夫です」
「足、まだ動かない?」
「えっと……さっきよりは、楽になりました」
渚はそう言って、恐る恐るベッドから立ち上がった。少しふらついてはいるが、立てないほどではなくなったらしい。少し安心した。
「きっと、ちょっと疲れちゃったのよ」
「はい」
「毎日学校行って、勉強して、それで家事まで全部やっちゃうんだもん。疲れない方がおかしいのよ。さ、今日はゆっくり休んで、明日からまたいつものように過ごせばいいじゃない」
「はい。そうします」
「うん。それでよし。無理はしちゃダメだからね。あたしはあんたが元気になるまで『出て行け』って言われても絶対出て行かないから」
「たはは……愛子さん、ありがとうございます」
「それじゃ……あたし、ちょっと下に行ってくるから、ゆっくり休んでて。あ、そうだ。昨日から何にも食べてないみたいだし、何か作ってくるわ」
「えと……いいんでしょうか……」
「なーに言ってんのよ。こーいう時に人を使っとかないと、一生使えないわよ?」
「それじゃ……愛子さんの好きなもの、何か作ってきてください」
「よしきた。台所、使わせてもらうわよ」
「はい」
あたしは渚の方をもう一度見てから、ドアノブに手をかけた。
その時だった。
「愛子さん」
「ん? どしたの?」
「元気になったら、また一緒に遊んだりしたいです」
「……………………」
「英二さんも一緒に、ちゃんと三人で遊びたいです」
「……大丈夫よ。きっと、すぐによくなるから」
「はい」
渚は満足げに頷いて、それ以上あたしを引き留めようとはしなかった。
あたしはドアを開けて、部屋を出た。
「……どうだった?」
「国崎?」
部屋を出ると、そこに国崎が立っていた。深刻そうな表情を浮かべて、いつものつかみ所のなさはすっかり消え失せてしまっている。あるのはただ、渚を心配している、不安げな表情だけだ。
「大丈夫よ。今は落ち着いたみたい」
「……そうか……それなら良かった……」
「あの子……癇癪みたいなのを起こしてたわ。一人になるのは嫌だって言って、それで……」
「さっき……声が聞こえてきたんだ。渚ちゃんの……泣く声が……それで、いてもたってもいられなくなって……」
「……………………」
「……でも僕は怖くて、ドアを開けられなかったんだ……ドアを開けた先にいる渚ちゃんの姿を見たら、僕はきっと……怖くて……そこから……逃げ出してしまうと思ったから……」
「……………………」
国崎は拳を握って、何かに必死に堪えているようだった。まるでそれは、自分で自分のしたことに堪えきれず、断罪を求める、純朴で悲しい罪人のように見えた。
「……国崎。あんたの気持ちは分かるわ。あたしだって、もし逆の立場だったら、ここにずっと突っ立ってたと思うもん」
「神崎さん……」
「……さ。昨日の昼から何も食べてないでしょ? 渚も待ってるから、下で何か作るわ。行きましょ」
「……そうだね。ありがとう」
「こんなことで礼を言うなんて、あんたらしくないわよ」
国崎はわずかに表情をゆるめて、あたしに続いて階段を下りた。
あたしはご飯を温め直して、おにぎりをいくつか作った。あたしと国崎にはちょっと大きめのものを、病人の渚には食べやすいように、一口サイズのものを。少し多めに作っておけば、渚が食べたいときに食べられるだろう。
「ホントはもっと凝ったものにしたかったんだけど、そもそも作れないことに気づいたのよね」
「でも、形はよく整ってるよね」
「それって褒め言葉? ……ま、そういう風に受け取っておくわ」
一方、国崎は隣で氷をガシガシ砕いている。氷枕を作っているのだ。確かにこの暑さだと、氷枕でも無いと渚もゆっくり眠れないだろう。そう言う意味では、正しい判断だ。
「渚ちゃん……どんな状態だった?」
「見た感じ、ちょっと熱っぽそうな感じがしたわ。実際、ちょっと体が熱くなってたし」
「それなら、何か冷たいものも持って行ってあげた方がいいね。他には?」
「他に? んー……そう言えば……確か……」
そう言えば、渚は……
「……………………」
「……渚、足がしびれて上手く動かせないって……」
「足が……?!」
その言葉を聞いた途端だった。
「神崎さん、それは……本当なの……?!」
「う、うん……な、なんか、朝起きたら足が動かなくなってて、それで……」
国崎の顔つきが変わった。あたしが思わず圧倒されてしまうぐらいの、鬼気迫るという言葉がふさわしいような表情だった。
「体のどこかが痛いとかは?! 痺れは足だけ?!」
「ほ、他には聞いてないわ……特に苦しそうな様子もなかったし……」
「……………………」
国崎は乱れた呼吸を無理矢理押さえつけるように、浅い深呼吸を何度か繰り返した。顔に手を当てて、首を左右に振りながら、何かを必死に否定するような仕草を見せていた。
「……神崎さん。後で、話したいことがあるんだ」
「話したい……こと?」
「……渚ちゃんに朝ごはんを持っていったら、一緒に来てほしいんだ」
「別に……それはまぁ、構わないけど……」
氷を砕くのを再開しながら、国崎は静かに言った。
(ひょっとして……前々から話そうとしてたことを……)
今までいろいろなことに邪魔されて、国崎があたしに話そうとして喉元で止めたことを、ひょっとしたら聞くことができるかもしれない。というより、そうに違いなかった。
(……一体、何を言うのかしらね……)
あたしははやる気持ちと不安な気持ちを同時に抱えたまま、国崎が氷を砕くのを見つめていた。
「はうぅ……冷たくて気持ちいいですー」
「暑いからね。少し体を冷やした方がいいよ」
「ありがとうございます」
渚は首筋に氷枕を当てて、心の底から気持ちよさそうな表情をしていた。この暑さだ。気持ちいいのは当然だろう。というかあたしも欲しい。本音として。
「おにぎり作っといたから、お腹空いたら食べたいだけ食べていいわよ。もっと欲しかったら、あたしがまたぱぱっと作るからさ」
「ありがとうございますです。何から何までみんなしてもらって、なんだか悪いです」
「気にすることなんか何もないわよ。あたしはただ、あんたが元気になってくれればそれだけでいいの」
「僕たちはやりたくもないのに無理にやってるんじゃなくて、僕たちがやりたいからやってるだけだよ。本当だよ?」
「たはは……二人とも、とっても優しいです」
横になったまま、渚が答えた。もうすっかり落ち着いたようだ。その表情に、無理をしているといったような感じは少しもない。
渚は持ってきた麦茶を半分ぐらい飲み、おにぎりを三つほど食べた。食べることができるのなら、回復は早いだろう。何も食べられないというのが、一番怖い。その点、渚は安心だった。
それから、しばらくした後のことだった。
「えと……さっきまで寝てたんですけど、またちょっと眠くなっちゃいました」
「眠くなるってことは、体が疲労を取り除こうとしていることの現れだから、無理しないで寝た方がいいよ」
「はい。そうします」
渚はそう言って、
「愛子さん、英二さん、おやすみなさい、です」
「お休み。ゆっくりしてなさいよ」
「お休み。渚ちゃん」
ゆっくりと目を閉じた。
数分もしないうちに、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
……渚が眠ったのを確認して、国崎が静かに口を開く。
「……渚ちゃんを邪魔しちゃ駄目だから、外に出て話をしようと思うんだ」
「……そうね。この調子なら、しばらくは大丈夫そうだし」
「うん。それじゃ……行こうか」
あたしと国崎が、渚を起こさぬよう、ゆっくりと立ち上がった。
「……………………」
「……………………」
あたしと国崎、二人並んで歩く。国崎は歩きながら、話を切り出すタイミングを探しているようだった。今は横槍を入れるべきじゃない。国崎のするままに任せておくことにした。
「……………………」
「……………………」
あたしたちは歩き続けた。今日も日差しは強いが、不思議と湿気が少なく、外を歩いていても不快さはほとんど感じなかった。あちこちから聞こえる蝉の声が、あたしたちの間の音楽だった。
「……………………」
「……………………」
長い長い、長い沈黙が続いた後。
「……思えば、最初から……こうなる運命だったのかも知れないんだ」
「……………………」
国崎が、おもむろに口を開いた。
「僕と……神崎さんが……こんな時に、出会うってことが……」
「あんたと……あたしが……?」
あたしの問いには答えず、前を向いていた国崎がこちらへ向き直り……
そして、
「僕とキミは、同じもの……いや……もっと正確に言うのなら……」
言った。
「同じ人を……ずっと、ずっと探している」
そう、静かに力強く。
「僕はここからずっと離れた、山奥の小さな村で生まれた」
国崎がそのままの口調で、ゆっくりと語り出した。
「物心ついたときには、僕はあちこちを旅して回っていた」
「……旅をして?」
「そう。父さんと二人で、いろんなところを回った。ひょっとしたら、神崎さんの行ったことのある場所に、僕も行ったことがあるかも知れない」
「……………………」
「僕は旅の途中、父さんからずいぶんいろいろな話を聞かされたんだ。まだ小さかったからほとんど忘れちゃったけど、忘れなかったものもある」
「……………………」
国崎は少し間をおいてから、しかし口調は変えることなく続ける。
「『空の上に、少女が囚われている』」
「……………………」
「『私たちは、その子を見つけ出さなければならない』」
「……………………」
「『見つけ出して、救い出さなければならない』」
……あたしも聞いたことのある文言を、淡々と。
「僕にはそれが何を意味しているのか、少しもわからなかった。ただ、かわいそうな女の子がいて、それを救い出すのが、僕と父さんがしなきゃいけないことなんだ、っていう認識しかなかった」
「……………………」
「……それに父さんは、こうも言っていたんだ」
国崎は改めてあたしの目を見つめて、言った。
「『人形を持った人を探し出せ』……父さんは、そうも言っていたんだ」
……人形。
一瞬の間も無く、あたしの手提げの中にあるあの人形が、明朗な形となって浮かんできた。
「……まさか……」
「……『人形を持った人を探し出せ。その人が、私たちと少女をつないでくれる』……」
「……………………」
「……『人形を持った人を探し出せ。その人が、私たちと少女をつないでくれる。私たちは人形を持った人を探し出さねばならない。私たちに残された力は、もう無いに等しい』……」
「……『力』……?!」
国崎はゆっくりと頷いて、あたしに右手を差し出した。
「神崎さん」
「……………………」
そして……
「……人形を、貸して欲しいんだ」
そう、言った。
「僕の話が本当だってことを……僕の手で証明したいから」
あたしは黙ったまま、手提げから人形を取り出した。国崎もまた無言で、それを受け取る。
「……さあ、行くよ……」
国崎は地面に人形をそっと置いて、自分もまたしゃがみ込んだ。目をぴたりと閉じて、両手を人形にかざす。
「……………っ………」
険しい表情を浮かべながら、国崎が両手に念を込め続ける。あたしはそれを、片時も目を離さずに見つめていた。
「……動いて……くれっ……」
国崎の口から、苦痛にも似た声が出た。顔中に冷たい汗が流れている。心なしか、顔色もよくない。あたしはそれでも、国崎のするに任せていた。今手を出せば、国崎の必死の努力がすべて水泡に帰してしまう。そう感じたからだ。
「……さぁっ……!」
国崎がそう声を絞り出した……
……その時だった。
(ひょこ)
「……………………!」
地面に立っていた人形が微かに震えたかと思うと、おぼつかない足取りで前に向かって歩き始めた。
「……さぁ……前へ……前へ……!」
一歩進むごとに、人形の足取りが確かなものになっていく。ふらつきがなくなり、動きに無駄がなくなり、アクションがコンパクトになる。ぎこちなかった動作が、どんどん自然なものになっていく。
人形はそのまま歩き続け、あたしの足元まで辿り着くと、
「……もう、いいかな……」
あたしの足にしがみつくように、ぱたん、と倒れた。
「……あたしや母さんの他に、あたしと同じ『力』を持った人がいたなんて……」
あたしは人形を静かに拾い上げながら、呆然としながらつぶやいた。
目の前で、あたし以外の人間が、あたしの人形を動かして見せたのだ。それも……ついこの間出会ったばかりの、国崎という青年の手によって。信じられない光景だった。夢か幻か、そんな気分だった。
「はぁ……はぁ……ぼ……僕の『力』じゃ……もう……これぐらいが……限界なんだ……」
国崎は全力疾走した後みたいに完全に息せき切って、道路に大粒の汗をたらしながら、乱れきった呼吸を必死に整えようとしている。顔面は蒼白、唇は紫色で、これ以上神経を集中させていたなら、間違いなく意識を失って倒れていただろう。そんな表情を浮かべていた。
「……分かって……くれた……?」
「もちろんよ。目の前で見せられてまだ信じないほど、あたし頭固くないもん」
「それは……良かった……」
国崎は苦痛の中に安堵の表情を浮かべて、そのままがっくりとうなだれた。あたしは国崎の体調が戻るまで、そこに陰を作ってやることにした。
(まさか……国崎が……)
そんなことを、考えながら。
「そろそろ回復した?」
「うん。どうにかね」
国崎はゆっくりと立ち上がった。少しふらついてはいたが、呼吸は乱れていない。もう大丈夫だろう。
「見ての通り、僕じゃあれぐらいが限界なんだ」
「確かに、あのまま続けてたらあんた、絶対ぶっ倒れちゃってたでしょうね」
「うん……だから、僕は探さなきゃいけなかったんだ」
「……………………」
「本当に『力』を使える人を、ね」
そう言って、国崎はあたしを見つめた。
「僕は探さなきゃいけなかったんだ。すべてを失う前に、すべてが失われてしまう前に」
「……それが……あたしってこと?」
「そう。もし僕の代で神崎さん……いや、神崎さんの一族の誰かに出会えなかったら、僕の一族は何もかもを失っていたと思うんだ」
「……………………」
「僕の一族がここまで連綿と紡いできた使命も、僕の一族の生きる理由も……みんな、波に飲み込まれて」
「……………………」
国崎の目は真剣だった。その口から語られる言葉には、彼の一族が長い間背負い続けてきたものを感じ取ることができた。
「僕は、君に出会えて本当にうれしい」
本来なら歯の浮くような言葉すら、重々しさを感じさせた。
「少し……話を整理するよ」
「ええ」
「今まではちょっと、僕の視点から話をしすぎたからね」
公園にやってきた(ネルとあたしが初めて出会った、あの平凡を極めた公園だ)あたしたちは、ベンチに腰掛けながら話を続けた。
「元々、僕と神崎さんは同じ一族だった。僕らの遠い祖先は、同じ人だったはずなんだ」
「あんたの話聞いてる限りじゃ、そうみたいね」
「うん。僕らの祖先も、神崎さんや僕と同じ力を持っていた……いや、むしろ僕らよりも、ずっと強い力を持っていた」
「……そうよね。あたしより母さんの方が、いろんなことができたし……」
「『力』は受け継がれるにしたがって、どんどん弱くなっていったみたいなんだ。それも……僕の一族は、神崎さんの一族よりもずっと早く」
「……………………」
国崎は自分の掌を見つめながら、言葉を続けた。
「どこかで……僕の一族と、神崎さんの一族に枝分かれしてしまったらしいんだ」
「……………………」
「その時に『力』も分散しちゃったみたいで、そのほとんどが神崎さんの一族に受け継がれた。言ってみれば、神崎さんの一族が『本家』で、僕らの一族が『分家』みたいなものなんだ」
「本家と……分家……」
「そこまでは良かったんだ。二手に分かれれば、僕らの祖先がずっと続けていた『使命』を達することも容易くなる。普通はそう思う」
「……………………」
「だけど……ここで厄介なことが起きた」
国崎は立ち上がり、ポケットから一冊の本を取り出した。
(……あれは……)
……『翼人伝』だ。
「本来なら二つ揃ってあるべきものまで、二手に分かれてしまった」
「二つ揃って……もしかして、あたしの……」
「そう。神崎さんの持っていた人形と、僕の持っていたこの本……このことなんだ」
あたしの人形と、国崎の本が並ぶ。国崎の話が正しければ、この二つのものは長い長い時を経て、ようやく一緒にいるべき相手を探し当てたということになる。
「それに……」
「……………………」
「この本は僕が持っていたところで、何の役にも立たない」
「……………………」
「この本は……神崎さん。キミが持つべきものなんだ」
「……え?」
国崎はそう言って、あたしの膝の上に本をそっと載せた。
「ちょっと待って。それ、どういう意味?」
「……僕が持っていても、中をちゃんと読むことはできないんだ。神崎さんなら、無理しなくても中を読めるはずだから」
「あたしなら読めて、あんたなら読めないって……」
あたしが言いかけたとき、ふと思い出した。
(……そう言えばちょっと前、この本で……)
二日ほど前だったっけ。あたしがこの本を読んでみようとしたら、中に何も書いてなくてちっとも読めなかったのを国崎に言ったら、国崎が……
「……まさか……」
……今さっき見せたみたいに息を切らしながら本に何かして、ほんとに少しだけだけど、文字を浮かび上がらせたことがあったような……
だったら、考えられる可能性は一つしかない。
「……………………」
あたしは人形を動かす時みたいに、指先に「力」を込めてみた。感覚的に「力」が集まってきたのを確認すると、そのまま本に指を滑らせた。
指が本をなぞるのにつれて……
「……!!」
あたしの目が、ゆっくりと見開かれた。あたしの目に、信じたくても信じられない光景が飛び込んできた。
「文字が……浮き出てる……?!」
何も書かれていない白紙だったはずのページに、次々に浮かんでくる小さな文字。なぞればなぞる分だけ、それはしっかりと浮き出てくる。国崎が浮かび上がらせた時とは比べ物にならないほど、それは明朗に浮かんできた。
「……ひょっとしてこの本、あたしたちの『力』に呼応して……」
「そう。理由は分からないけど、僕たちの祖先は、この本の中身を他人に読まれることを恐れたみたいなんだ」
「……だから、『力』を持ってる人だけが読めるように、こんな細工を……」
「うん。僕らの『力』を応用して、本に一種の『鍵』をかけたんだ。合鍵を持ってる人しか、本の中身を読むことができないように」
「でも……どうしてそんなことを?」
あたしは感じた疑問を素直に口にした。だって、理由が分からない。どうして本の中身を隠す必要があったのか、その理由が浮かんでこない。隠したところで、あたしや国崎……いや、あたしや国崎の一族にどんな利点があるのか、あるいはどんな災厄からあたしたちを守ってくれるのか、まったく分からなかった。
「……これは、僕の仮説だけど……」
国崎はそう前置きして、
「……僕らが探している『空の少女』という存在そのものが、誰かにとっては忌避すべき存在だったのかも知れないんだ」
「……?」
「僕らが『空の少女』を探していることを、何も知らない人に知られてはまずいと思う人がいて、僕らの一族はその人たちからの迫害を逃れるために、こんな『鍵』をかけたんじゃないか、って」
「それってつまり……あたしたちの一族は、『空の少女』ってのを探しながら、その『何も知らない人に知られてはまずいと思う人』から逃れてた、ってわけ?」
「多分、そうなる。それで……」
「……………………」
「これも、僕の想像に過ぎないけど……」
国崎は立ち上がり、
「……『空の少女』っていうのは何か強大な力を持っていて、『何も知らない人に知られてはまずいと思う人』は、その力を使われることを恐れてた」
「……………………」
「僕は今までいろいろな場所の図書館なんかに出向いて、『空の少女』に関する記述が残っていないか調べてみた」
「……………………」
「でも、そんな記述を残している書物は、ほとんど見つからなかったんだ。かなり古い蔵書を残している図書館にも出向いてみたりとか、博物館の展示品を調べてみたりしたけど、成果はなかった」
「……………………」
「その代わり、一つ分かったことがある」
国崎は振り向き、
「ある一時代の書物に、奇妙な一致点が見られたんだ」
「……一致点?」
「……ちょうど今から千年ぐらい前。その頃の書物には、『鳥』や『空』といった文言が一切出てこなかったんだ」
「……………………」
「その代わり、明らかに『魚』や『海』といった文言が増えていた」
「それって……『鳥』や『空』が、『魚』や『海』に置き換えられた、ってわけ?」
「仮説に過ぎないけどね。ただ、『鳥』や『空』を使わないと意味が通らないような書物にまで、無理矢理『魚』や『海』が使われてたのを、僕はいくつも見ている」
吐き出すように言った。
「これが何を意味しているかは……大体、予想が付くと思う」
「……こういうこと? あたし達の探している『空の少女』……翼を持った人が、時の権力者にとって何か邪魔な存在で、とにかくその存在をなかったことにしたい、だから、片っ端から記述を書き換えさせた……」
「……その通り。何か大きな力が、大きな意図が働いて、この時代を書き換えさせた……そう考えるのが自然だと思うんだ」
国崎は拳を握り締めながら、静かに言葉を続ける。
「でも」
「……でも?」
「世の中、そう簡単に動かせるものじゃないみたいでね」
「……………………」
「いくつか、権力による書き換えを逃れた書物を見つけることができたんだ。中にはハズレもあったけど、一つ、時代や周辺の記述から見ても、僕らの探している『空の少女』としか思えないような記述があったんだ」
「それは……どんな?」
「……あまり詳しいことは書いてなかったけど、分かることはあったよ」
国崎は公園を歩きながら、さらに話を進める。
「……僕らの探している『空の少女』は、その時代に『翼人』と呼ばれていたこと」
「……………………」
「翼人は僕らみたいな人間よりも、ずっと強い力を持っていたこと」
「……………………」
「翼人はここ日本だけじゃない。世界各地に存在していて、一部にはそれが変質したとしか思えない伝説や話があること」
「……………………」
「翼人はその力の強さゆえ……時の権力者によって、強い迫害を受けていたこと」
「……………………」
「そして……今からおよそ九百八十年前を最後に、翼人の存在は確認されなくなったこと」
「……………………」
「最後の翼人はこの日本にいて……伝え聞くところによると、それはまだ年端も行かない少女だったかも知れないということ」
「……少女……?」
「……その翼人を巡って、河内国から紀伊国にかけて何か大きな騒ぎがあった……僕がその書物から得られたのは、これぐらいだよ」
国崎はそう言って、またベンチに腰掛けた。
「細かいことは、僕には分からなかった」
「……………………」
「でも、神崎さんなら分かる。神崎さんは、その本を読む『力』を持っているから」
そして、国崎がゆっくりと頭を下げて、
「お願いだ、神崎さん……その本を……通して読んでほしいんだ……」
「あたしが……この本を……」
「僕らの一族の使命は……途中から、神崎さんの一族を探すことに変わっていたんだ」
「……………………」
「何かの間違いで、僕らの一族が持ってしまったこの本……『翼人伝』を、あるべき人に、あるべきところに、返し、戻すための旅に……」
「……………………」
「神崎さんに本を戻せば……僕らの一族は、本当にすべき使命に、胸を張って戻ることができるんだ」
国崎の表情は、真剣そのものだった。
(国崎……あんたは……)
あたしは、国崎の一族のことに思いを巡らせた。
何かの間違いで、自分たちの手元に残ってしまった『翼人伝』。時代を経るごとに、急速に失われていく『力』。『空の少女』を探し出すこともままならず、もはや自分たちにそれだけの『力』は残されていないことを悟る。先祖は子孫に、『空の少女』の伝承と共に、『空の少女』を探すための手がかりを無くしてもがいているであろう、もう一つの一族……あたしたちの一族の伝承も残した。あたしたちの一族に、自分たちの一族の使命を託して。
それは決して、心の安らぎを与えなかっただろう。考えようによっては、自分たちが『空の少女』を探し出すための、最大の障害となってしまっているのだから。急速に失われていく『力』も、それに拍車をかけたに違いない。過去に狂ってしまった歴史の歯車を、何とかして自分たちの手で修正しないといけない。彼らは、ある意味……
……二重の苦しみを味わいながら、それでも一族として成すべき事を成し遂げようと、あたしたち以上にもがき続けてきたのかも知れない。
「……分かったわ」
「神崎さん……」
「あたしがこの本を読めば、あんたとあんたの一族は、本当にしなきゃいけないことに戻れるんでしょ? 長い間背負ってきたものが、少しは軽くなるんでしょ? だったら、読まないわけには行かないでしょ」
「……分かって……くれたんだね」
「重いもん背負ってるあんたの顔なんか、あんまり見たくないしね」
国崎は苦笑いを浮かべながら、それでも、
「ありがとう」
心からの言葉を、あたしにくれた。
「それでさ……一つ聞きたいんだけど、いい?」
あたしは一つ思い出したことがあったので、国崎に直接聞いてみることにした。
「うん? どうしたの?」
「……さっきのことなんだけどさ、渚の足がしびれたってあたしが言ったとき、なんであんなに慌ててたの?」
「えっ?」
「ほら、さっきのことよ。あんた、ものすごい勢いで迫ってきてたじゃない」
「……………………」
そう。国崎が一瞬だけ垣間見せた、あの鬼気迫る表情についてだ。
ポーカーフェイスの化身のような国崎があんなに表情を変えることは滅多にない。滅多にないから、何かよほどの理由があったものと見ていい。
「……あの時のことは……」
「……………………」
「……実を言うと、僕にもよくわからないんだ」
「……え?」
「よく分からないんだけど……とにかくただ、『渚ちゃんの足がしびれた』っていう言葉を聞いて、何かにものすごく急かされるような、そんな気持ちになったんだ」
「それ……どういう……」
国崎は首を振り、
「分からない。ただ……さっきから、少し引っかかってることがあるんだ」
「引っかかってること?」
「僕は……何か大切なことを忘れてるんじゃないかって、そんな感覚なんだ」
「思い出さなきゃいけないこと……?」
「うん。それはとても大切なことで、本当は今すぐにでも思い出さなきゃいけないことだと思うんだけど、どうしても思い出せないんだ」
「大切な……こと……」
その言葉を聞いたときだった。
(……?!)
あたしの頭の中で、何かが起きた。
何かが起きたことしか、あたしには分からなかった。
ただ、何かが起きて、あたしの頭の中で、何かが起きて……
(空雲海空光白空鳥羽雲白赤夜月空青山空空空羽羽羽羽人形人形人形人形夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢)
「……ゆ……夢……?」
「……神崎さん?! 神崎さん!」
あたしはそのままうなだれるように、地面に倒れ込んだ。
体に力が入らない、体がちっとも動かない、砂が目に入る、砂が口に入る、日差しが照りつける、日差しが体を焼く。
「神崎さん?!」
「あ……頭が……頭がっ……」
頭が割れる、頭が割れる、中から割れる、頭が割れる、耐えられない、何かに押されてる、中から押されてる、頭が割れる、流れてくる、押してくる、流れてくる、頭が割れる、何かが来る。
何かが、来てる。
「く……国崎っ……手……手を貸して……」
「え?」
「あたしの……手を……手をっ……!」
何かが来てる。何かを取り戻そうとしてる。力がいる。『力』がいる。
力が足りない。あたしだけじゃ足りない。力、力、力がいる。
「手を……っ!」
「わ……分かった!」
国崎があたしの手を取る。手から、『力』が流れ込んでくる。
(空海雲翼羽羽舞い散る羽人形人形古びた人形母赤白光光光光の道山雲海海海母母母母人形人形翼翼呪呪呪千年の呪い翼翼翼翼持ちし人羽羽空空無限の空空青青赤血の赤赤闇赤血風風風母母人形山山海海の記憶海母母人形星星星の記憶)
理解できない光景が、頭の中でぐるぐる回る。
「……あ……ああ……」
「か……神崎さん……」
……あたしの口が、何かを紡ぎ始めた。
「……夢を……見る……女の子は……ゆ……めを見る……」
「……え?」
「……は……じめは……空の……夢……」
「……………………」
「ゆ……めは……だんだん……遡って……いく……」
「神崎さん……」
「夢は……女の子を……蝕んで……い……く……」
「……!!」
「まず……体が……動かなく……」
「……神崎さん?! 神崎さん!」
あたしの意識は、ここでぷっつりと途切れた。
あたしの名前を呼ぶ国崎の声だけが、ただ聞こえるだけだった。
「……神崎さん?」
「ん……」
次に目を覚ましたときには、あたしはベンチの上に寝かされていた。額の辺りに冷たい感触。何か濡れたものが置かれてるみたいだ。目の前はぼんやりぼやけていて、はっきりしない。
「あたし……どうしちゃったの?」
「びっくりしたよ。いきなり頭を抱えて、倒れちゃうんだから」
「んー……」
あたしはゆっくりと体を起こす。まだちょっと気分が悪い。髪の毛をなでると、倒れたときに付いたんだろう、小さな砂がさらさらとこぼれ落ちた。
「大丈夫? 無理しない方がいいと思うけど」
「なんとかね……頭も痛いし、目もちょっと回ってるし、胸焼けもするけど」
どうにか体を起こすと、あたしは国崎の隣に座った。国崎があたしの背中をさすってくれたので、少し気分がよくなった。
それからしばらくすると、だんだんと気分も落ち着いてきて、あのときあたしに何があったのか、少しずつだけど思い出せるようになってきた。
「神崎さん、いったい何があったんだい? 急に倒れ込んだかと思ったら、僕に手を貸してほしいって……」
「……あたしにもよく分からなかったんだけど……その、笑わないで聞いてよ」
「何を言われたって、笑うところじゃないよ。ここは」
「それなら言うけど……あの時あたし、『落ちそう』だったのよ」
「……落ちる?」
「うん。ものすっごく高いところから、すごい早さで落ちていくみたいな、無茶苦茶な感覚だったの」
「だから……手を貸してほしい、って言ったのかな?」
「多分、ね。誰かに支えてもらわなきゃ、落ちるところまで落ちていくような気がしたから」
あたしは自分で言いながら、そのときあたしが何を見ていたのか、次第に思い出せるようになってきた。
「高いところ……そう。空から落っことされるような、そんな感じだったわね」
「空から?」
「うん。何もない真っさらな空から、いきなり落ちてくみたいな」
「それは……ものすごく怖かっただろうね」
「んー……いや、どっちかっていうと、怖いっていうよりも……うん。悲しかった。こっちの方が正しいと思う」
「神崎さんが何を悲しんでいたのか……そこまでは覚えてない?」
「そこまでは……ちょっと覚えてない」
「そう……それなら……」
「……でも一つ、どうしても気になることがあるのよ」
「……え?」
国崎は呆けたような表情をあたしに向けた。あたしは国崎にかまわず、こう続けた。
「夢の中で……あの子の……渚の姿がオーバーラップしたのよ」
「……!」
「誰もいない空で……一人たたずんでるあの子の姿が」
「……………………」
あたしはそう言って、静かに目を閉じた。
何故あそこで渚が出てきたのだろう。渚はどうして、あたしが見た幻覚(そうとしか言いようがないだろう)に姿を見せたのだろう。渚はあの空の中で、あたしに何を伝えようとしたのだろう。
何も分からなかった。
幻覚、空、そして渚。
夏の暑さに浮かされたあたしが見た他愛もない幻覚だって言われれば、そうとしか言いようがなかった。ただ単に熱射病で倒れて、説明しようのない幻覚を見ただけかもしれなかった。
でも、何故かそう思う気にはなれなかった。
……そればかりか。
「……ねえ国崎。あたし、ホントバカなこと考えてるかもしれないんだけどさ……」
「……?」
「笑わないで、聞いてくれる?」
「……うん。何を言われても、僕は笑わない」
「……じゃあ、言うけどさ……」
「あたし達が探してたのは、渚かもしれない」
蝉の声が響き渡る公園で、あたしは静かに言った。
「確証なんて何にもない。理由なんて、吹けば飛ぶようなのしかない」
「……………………」
「その理由だって、ほとんどあたしの思い込みみたいなもの」
「……………………」
あたしは大きく息を吐いて、あの時渚が言っていたことを、頭の中にしっかりと思い浮かべた。
「……あの子、毎日空の夢を見るって言ってたのよ」
「空の……夢?」
「うん。あの子がさ、言ってたのよ。高い高い空の上にいて、自分の背中に真っ白い羽根が生えて、空から下を見てる……そんな夢を見てるって」
「……………………」
「あたしそれ聞いてから、ずっと『ひょっとしたら、あたしが探してたのは、渚のことかも知れない』とか、そんなことばっかり考えるようになっちゃったのよ……」
確か、ここに来て二日ぐらい経ったときだっただろうか。
渚がふとあたしに言った、「夢」の話。
渚があたしに話してくれた、毎日見ている悲しい夢の話。
それまでの渚からは想像もできないような、儚い渚の姿を見た。
いつもの渚は、そこにはなかった。
「……どうして……」
「……………………」
「……どうして……神崎さんは……そんなことを……」
「あたしだって、よく分からない。ただ、あたしは渚が……」
「どうして……神崎さんは……」
「……?」
「僕と……まったく同じことを考えているんだ……
「……?!」
あたしが驚いて顔を上げ、国崎の顔を見た。
あたしが見た、国崎の顔は……
「どうして……そんな……」
……驚きと、何かに対する怯えで、一片の塗り残しも無いぐらいに、綺麗に、綺麗に塗りつぶされていた。
「……父さんから聞いた話なんだ」
国崎は深刻な表情を浮かべて、重々しく言葉を吐いた。
「翼人は……空の少女は、魂だけの存在になって……」
「……輪廻転生を、繰り返す」
「翼人の魂を受け入れるための、大きな器を持った人を探して、何度も何度も、人への転生を繰り返す」
「人への転生を繰り返して、救いの訪れる時を待つんだ」
視線を空に向けて、さらに言葉を続ける。
「けれど翼人の魂は、翼を持たない人にとっては、あまりにも大きすぎる」
「翼人が背負ってきた悠久の時、膨大な知識、幾千もの思いや感情。それらをすべて受け容れる前に、体が持たなくなる」
「だから、転生体の体は、普通の人よりもずっと早く、壊れてしまう」
「大海の水を小さな椀に注ぎ込めば、椀が持ちこたえられずに壊れてしまうように」
ここで、目を伏せた。
「……救われない魂は、救いの無い魂は、苦痛だけを残して、消えていく」
「器となった転生体に、耐え難いほどの苦痛と苦難を」
「それは……」
「……………………」
「『人とのつながりを断たれること』」
「転生体は、その魂のあまりの大きさ、そして己の体の小ささゆえに」
「周囲にいる人たちを遠ざけてしまう」
「そこに、本人の意思は関係ない。例えどんなにそれを望んでいなくとも、意思はそこに介在しない」
「本人の意思や思いとは関係なく、すべての人を遠ざけてしまう」
……………………
「それでも、転生体に近づく人がいれば」
「魂は、その人にも牙を向く」
「近づいた者には、耐え難いほどの苦痛を、本人の意思とは無関係に与える」
「そこに、意思は介在しない」
……………………
「苦痛は、近づいた者にだけ与えられるわけじゃない」
「転生体自身にも、耐え難いほどの苦痛が与えられる」
「転生体は、一人でもがき、あがいて、苦しんで……」
「……大人になる前に……大人になれずに……しゃぼん玉のように、消えてゆく」
……………………
「だから、誰も近づくことができない」
「だから、誰も助けることができない」
「だから、誰も救うことができない」
「……だから少女は、いつも一人ぼっち……」
……国崎は、聞き覚えのあるフレーズを最後に持ってきて、話を締めくくった。
「……………………」
あたしは国崎の言葉を聞きながら、ふと、こんなことを考えた。
(そう言えば……あの人、こんなことを……)
『渚ちゃんがまだ小学校に上がる前の話なんですが……渚ちゃんは何か先天性の疾患を患っていて、その疾患のせいでなかなか友達が出来ずにいる、という話は、何度か耳にしたことがあります』
(……まさか、渚の『先天性の疾患』って……)
渚は、生まれつき「何か」を持っていて。
その「何か」のせいで、友達がずっとできなくて。
その「何か」のせいで、あんな癇癪を起こして。
その「何か」のせいで、ずっと苦労していて。
……その「何か」のせいで、いつまでも一人ぼっちで……
「そう言えば渚……友達がいないって……」
「……………………」
「……前に人形劇を見せた人から聞いたのよ……渚、小さい頃から何か病気みたいなのがあって、それでずっと……」
「……………………」
「……友達ができないって……」
もしかすると。
渚は、本当に。
あたし達の探している。
……「空の少女」なのかも知れない。
「……神崎さんの言うことは、僕もすごくよく分かる」
「……………………」
「……僕も、少し話を聞いたんだ。渚ちゃんの通ってる高校の友達を捕まえて、渚ちゃんが学校でどんな風にしてるのかって」
「……………………」
国崎は俯いたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……渚ちゃん、ずっと独りでいるみたいなんだ。教室でいるときも、誰とも一緒に遊んだりしようとしないって」
「一人ぼっち……」
「うん。どうやら、神崎さんの言ってたことは、正しいみたいなんだ」
「それじゃあやっぱり、渚は……」
あたしがそう言おうとした、その時だった。
「でも」
国崎が、あたしの言葉を切って言った。
「僕はそんなこととは関係なく」
「渚ちゃんが僕らの探してる『空の少女』だとか」
「そんなこととは、全然関係なく」
「ただ」
「僕は、渚ちゃんを元気にしてあげたい」
「僕は、渚ちゃんを笑わせてあげたい」
「僕は、渚ちゃんの願いを叶えてあげたい」
決然と、力強く。
「国崎……」
あたしはその国崎の表情を、しばらくの間呆然としたまま見つめていた。
国崎は何かを決意したような強い瞳で、目の前を真っ直ぐ見つめていた。
そこに、少しの迷いも読み取ることはできなかった。
あるのは、ただ。
何かを成す。必ず成すという、強い意志だけだった。
(あたしも……)
(……渚のこと……)
そうだ。
あたしだって。
渚が、あたしの探してる人だとか、そういうことじゃなくて。
ただ、あたしは。
渚という女の子と知り合って。
この小さな街で、偶然知り合って。
最初は、すぐに別れる気でいたのに。
いつの間にか。本当に、いつの間にか。
あたしは、渚のことを。
本当に……
「……あたし、気付かない間に、渚のこと、すごく色々考えるようになってた」
「……………………」
「適当で、がさつで、人当たりもあんまりよくないあたしみたいなのに、渚は本当に楽しそうに接してくれた」
「……………………」
「だから、あたしは」
あたしは立ち上がって、国崎の前に立った。
「渚を、心から笑わせてあげたい」
「……………………」
「渚と一緒に、心から笑いたい」
「……………………」
「渚と一緒に笑いあえるような、そんな友達になってあげたい」
「ねえ、国崎」
「……………………」
「あたしたちが、あの子の友達になるってのは、どうかしら?」
あたしがそういうと、国崎は穏やかな笑みを浮かべて、
「神崎さん、最近、ぼくと考えることが似てきたね」
そう言いながら、ゆっくりと、手を前に差し出した。
「あんたがあたしに似てきたんじゃないの?」
「そうかも知れないね」
「……あーでも、心なしかあたしがあんたに似てきたような気もする」
「ひょっとすると、最初から似てたのかもしれないけどね」
「あんたに言われると、なんだか本当にそんな気がしてくるから不思議なのよね……」
あたしはそう言いながら、国崎の手を取った。
あたしと国崎が、本当に分かり合えた瞬間だった。
「ねえ国崎。あたしたちが渚にしてやれることって、どんな事だと思う?」
「そうだね。それは……」
帰り道、あたしと国崎は、あたしたちが渚にしてあげられることを考えていた。
「……やっぱり、素直に本人に聞いたほうがいいんじゃないかな?」
「そうなるわよねぇ……やっぱり」
「渚ちゃんのして欲しいことをしてあげるのが、一番いい事だと思うよ」
国崎はそう言って、また空を見上げた。
「帰ったら、渚ちゃんに聞いてみよう」
「そうね。あの子、起きてればいいんだけど……」
あたしは少しため息混じりに、同じように空を見上げながらつぶやいた。
それでも。
「神崎さん、少し歩くの早くない?」
「ん? 気のせい気のせい」
あたしの足取りは、まるで嘘みたいに軽かった。
「あ、愛子さん、英二さん。どこかに行ってたんですか?」
「ん。ちょっと散歩に、ね。どう? 体の具合は……」
「はい。ずいぶん楽になったです」
家に上がって渚の部屋に入ると、渚はベッドの上で、ネルとじゃれあって遊んでいた。この様子を見ると、どうやら体調はかなり良くなっているらしい。
「ネルと遊んでてくれたのかい?」
「あ、違うんです。渚っちが寝てたら、ネルちゃんがここまで来てくれて、渚っちと遊んでくれたんです」
「うなー」
「あはは。でも、ネルも嬉しそうにしてるね。渚ちゃん、ねこ好きなの?」
「はいっ。渚っち、ねこさんが大好きなんですよっ」
渚はネルを抱きしめながら、国崎に笑顔で応じた。
あたしはそれを見ながら、ゆっくり、話を切り出してみた。
「それで渚、あたしたち、ちょっと話があるんだけど……」
「えっ……?」
あたしを見た渚の表情は、急に頭を叩かれた猫のように、驚きと微かな怯えの色を帯びていた。これから何か悪い話を切り出されるんじゃないだろうか、そんな渚の気持ちが、表情を見るだけで伝わってくる。
「うん。渚の思ってる通り、大事な話」
「大事な……お話ですか……」
「そうね。これからのあたしたちと渚のことに関わる、すっごく大切な話」
「……………………」
渚はネルを抱いたまま、ただじっとあたしの方を見つめている。心なしか、その瞳が潤んでいるようにも見える。
「渚……」
「はい……」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
あたしは意を決して、渚に言った。
「えーっと」
「……………………」
「ねえ渚、あんたの好きなものって何?」
「……ふぇ?!」
渚は思いっきり面食らったように、瞳をまん丸にして、素っ頓狂な声を上げた。その声に驚いたのか、ネルが渚の腕からばっと離れて、飼い主である国崎のひざの上に避難した。
「あ、愛子さん……きゅ、急にどうしたんですか? 渚っち、今すごく混乱していますっ」
「んー……あのね、渚。簡単に言うと、あたしと国崎、渚の友達になりたいのよ」
「……友達……?」
あたしの言葉を聞いた渚の瞳が、また潤み始めた。
「……あっ、誤解しないで。今までが友達じゃなかったとか、今までは渚のことどうとも思って無かったとか、そんなんじゃなくて……」
けれど、渚は。
「愛子さん……英二さん……渚っちの、お友達になってくれるんですか……?」
渚はかけていたふとんの裾をぎゅっと握り締めて、
「……………………」
「……………………」
「……本当……なんですか……?」
その濁りの無い瞳から、はらり、はらり、と、光る雫を零した。
「本当よ」
「……本当に……本当なんですか……?」
「本当だって。渚……」
「……本当に……本当に……本当なんですか……?」
「……ねえ渚、あたし、言わなかったっけ? あたし、嘘は付かない主義だって。嘘つきは泥棒の始まりだって」
「あっ……」
渚ははっとしたような表情を浮かべて、あたしを見つめた。
「渚ちゃん。これは、僕も同じなんだ」
「英二さん……」
「僕は……その、上手く言えないけど、渚ちゃんと、もっと……もっと、仲良くなりたいんだ」
「……………………」
渚はあたしと英二を交互に見つめながら、尚も瞳を潤ませている。
そして、少し間をおいてから、
「愛子さん……英二さん……」
「……………………」
「……………………」
「……渚っちからも、よろしくお願いしますです……!」
ぺこりと頭を下げて、満面の、本当に満面の笑みを浮かべた。
「それでさ、渚。早速で悪いんだけど、いい?」
「はい。どうしたんですか?」
「あたしたち、渚にお世話になりっぱなしじゃない。それで、何かちょっとでもさ、恩返しみたいなのができればいいかな、って思ってるんだけど」
この言葉を聞いた渚は、ものすごくびっくりしたような顔になって、慌ててこう言った。
「ち、違いますっ! 愛子さんと英二さんは、その、渚っちがわがままを言って、それで、うちにいてもらったんですっ。本当は渚っちが、愛子さんと英二さんにお礼をしなきゃいけないんですっ」
渚は首をぶんぶん振って、必死にあたしの言ったことを否定している。ポニーテールをほどいた長い髪がぶんぶん揺れて、渚の顔にぺちぺちと当たっている。うん。とりあえず、首から上は元気みたいだ。
「こらこら渚。ちょっと落ち着いて」
「で、でも……」
「渚ちゃん、首を痛めちゃいけないから」
「あ、はい」
とりあえず首を振るのは止まったけれど、それでも、渚の表情はどこか浮かない。
「本当に……そうなんです。渚っちが……無理を言って、愛子さんと……英二さんに……」
ひょっとするとあたしの言葉が、渚にいらぬ心配をさせているのだろうか。見ている限り、どうもそんな気がする。
(渚……あんた、どうしてそこまで……)
一体……この渚という子は、今まで他人とどういう風に接してきたのだろう。いつもこんな風に、相手のことを気遣ってばかりいたのだろうか。
……それとも。
(……自分以外の誰かと接する方法を、今まで知ることができなかった……)
……もしかしたら、そうなのかも知れない。
(渚は……頼られることでしか、人と人とのつながりを得られないと思っているのかしら……)
自分に頼られることで、自分が相手を気遣うことで、初めて人間関係が成り立つ。
自分が頼りない存在になったら、自分が相手を気遣わなければ、人間関係は壊れてしまう。
だから、いつまでも強い存在でいなきゃいけない。
だから、いつまでも相手を気遣わなきゃいけない。
渚は、そんなことを考えているのではないだろうか。
(……渚……それは間違ってる)
そう、それは間違っている。
(悪いことじゃないけど、間違ってるのよ……)
そう。決して悪いことじゃないけれど、間違っている。
(渚……)
だったら、渚に教えてあげよう。
「……渚。あのさ、分かりにくい話だけどさ」
「はい……」
「人間っていうのは、どんなに頑張っても、他人抜きじゃ生きてけないの」
「……………………」
「どんなに強がったって、どんなに力を持っている気になっていたって、やっぱり、自分ひとりだけじゃ生きてけないの」
「……………………」
「誰かとつながっていなきゃ、人は弱くて、頼りなくて、ちっぽけな存在なの」
「……………………」
「そりゃあ、人よりも強くて、誰からも頼られてて、でっかくて、そんな人が他の人を支えてあげる。そういう関係も、もちろんある」
「……………………」
「でもさ、誰かによっかかって、その人に頼って、そうやって支えあっていくような関係もあるの」
「……誰かに……よっかかって……」
渚の純粋な瞳が、あたしを見つめている。
「あたし、渚に安心してよっかかってもらえるような、そんな友達になりたい」
「愛子さん……」
「あたしだけじゃない。英二だって、渚によっかかってもらって、頼りにしてもらいたいと思ってる」
「……………………」
「あたし達は、渚が安心してわがままを言えるような、そんな友達になりたい」
あたしは渚の瞳を見つめ返して、優しく、けれどきっぱりと言った。
「……どうかしら?」
「……………………」
渚はしばらく黙っていたけれど、ふと、ゆっくりと顔を上げて。
「……愛子さん、英二さん」
「……………………」
「渚っちのお願い……聞いてくれますか?」
少し微笑みながら、言った。
「当然」
「もちろん」
あたしの心に渚の心がよっかかってきて、少しだけど、お互いの距離が縮まったような気がした。
渚のベッドの近くに膝を突いて、あたし達は話をした。
「とは言っても、いきなり『金のしゃちほこが欲しい』なんて言われても、先立つものは無いわよ」
まあ、渚の事だ。そう無茶なお願いをするとはとても思えない。それでも、ある程度の出費は覚悟した方がいいだろう。この街から出て行くの、また後になっちゃいそうだけど。
「たははっ。渚っちはそんなもの……」
「……………………」
「そ、そんなもの……っ」
「……渚?」
「ぐ、ぐぬぬ……そ、そんなものもらっても、置き場所が……あっ、でも、あれをどけてここに持ってくれば……」
「……………………」
「だ、ダメですよ渚っち! 金のしゃちほこなんて置いてたら、泥棒さんの格好の餌食に……で、でも、金のしゃちほこですっ。金のしゃちほこなんですっ。ぐ、ぐぬぬー……」
「あー、渚。もしかして、滅茶苦茶迷ってる?」
「えっ? 金のしゃちほこの置き場所ですか?」
「すでに入手できるのは確定事項なんかいっ」
やっぱり、渚は渚だった。とりあえず、金のしゃちほこなんてもらっても、あたしだったら取り扱いに困って埃を被ってそうだ。つーか、なんでそんなものを欲しがるんだっ。
「たははっ。さすがに冗談ですよっ」
「いや、あんたが言うと冗談に聞こえない」
「というか渚ちゃん、途中まで本気で欲しがってなかった?」
「……たははー。今日はなんだかすごくいい天気ですねー」
「図星かいっ」
あれだ。渚を完璧に理解するには、まだもうちょい時間が必要っぽい。
……とは言っても。
「でも、愛子さんや英二さんがくれるものなら、何でも嬉しいです」
「……………………」
「形のあるものだけじゃなくて、形の無いものでも、くれるのなら、とても嬉しいです」
「渚ちゃん……」
ああ、そうだ。
渚は、こんな子なのだ。
誰かから何かを与えられることを知らない、自分から誰かに何かを与えることしか知らない。
与えることで得られる関係しか、知らない。
そんな……そんな子なのだ。
(……やるっきゃないわね)
「渚っちには、やりたいことが三つあります」
「よし。聞かせてちょうだい」
「はい」
渚は胸に手を当てて、静かに目を閉じた。
「渚っちは、海へ行ってみたいです」
「渚っちは、愛子さんと英二さんと一緒に、お誕生会をしたいです」
「渚っちは、お母さんと会いたいです」
淡々と、しかし強い思いを込めて、渚は三つの願い事を口にした。
(……………………)
海へ行きたい。
誕生会がしたい。
母親に会いたい。
(……………………)
どうしてだろう?
渚はどうして、他の子なら当たり前にやっていそうなことを、どうしてもやってみたいと言うのだろう。
渚は……もしかして……
海へ行ったことも無い。
誕生会をしたことも無い。
母親にも、満足に会えない。
……当たり前の幸せすら、渚には高嶺の花だったのだろうか。
渚は高嶺に咲いたありきたりな花を、どんな思いで見つめていたのだろうか。
(……………………)
……ならば。
「よしきた。あたしたち、渚のその願い、ばっちり引き受けたわ」
「えと……本当に、いいんでしょうか……」
「嫌だったら最初から聞かないって」
あたしと英二で、その花をそっくり摘んで見せよう。
その花を、渚に手渡そう。
ありきたりな花でも、高嶺の花は高嶺の花なのだ。
「本当に……本当にいいんですか……?」
「だーいじょうぶだって。ね?」
「えっと……ありがとうございますです」
渚は憂いを帯びた微笑みを浮かべて、英二とあたしに言った。
「あっ……愛子さん、英二さん」
「どうしたんだい?」
「えっと……」
「……………………」
「もし、渚っちのお願いが、愛子さんと英二さんのしたいことやしなきゃいけないことの邪魔になったら、絶対に無理をしないでください」
「渚……」
「さっきのは、渚っちのお願いです。命令じゃないです。絶対じゃないです」
「……………………」
「命令したりされたりするのは、お友達じゃないです」
「……………………」
言葉の端々から、渚の考え方、感じ方が伝わってくる。
渚の考える「友達」とは、あくまでも、平等な存在なのだ。
互いに相手によっかかったり、よっかかれたりして、そうやってお互いを支えあう。
渚が心の奥底で考えていた「友達」とは、そんな関係なのだ。
「……分かってるさ。もし辛くなったりしたら、ちゃんと渚ちゃんに言うから」
「あたしもよ。あたしが辛い顔なんかしてたら、渚、あんただって辛いと思うから」
「はい。お願いします。……あっ」
「どうしたの?」
「……お願いごと、また追加しちゃいました……」
妙にしゅんとする渚。あたしには、その渚の表情がなんだかとてもおかしく見えた。
「あんたってさー、わりかしどうでもいいところで細かいわよね」
「たははっ。渚っち、細かい計算は得意ですよっ」
「じゃあ……三百九十六掛ける五百八十六は?」
「二十三万と二千飛んで五十六です」
「……………………」
「……………………」
英二は無言で鞄から電卓を取り出すと、渚に言った数を打ち込んだ。
「三……百九十……六、かけるのこと、五……百……八十六……は……」
「……………………」
そして、電卓の小さな画面に、結果が映し出された。
「二十三万と二千飛んで五十六……!」
「嘘ーっ?!」
「ふふふー。渚っちの頭脳を甘く見てはいけませんよっ」
「て、適当に……適当に言ったつもりだったのに……!」
英二は電卓を持ったまま口を半開きにし、がたがたがたがた震えている。こんな間抜けな英二の表情、初めて見た。
「たははっ。英二さん、顔がヘンになっちゃってますよっ」
「嘘だ……こんなの嘘だ……嘘だっ!」
「英二、顔がちょっと怖いわよ」
「すごいよ渚ちゃん……信じられないや……」
渚が笑っている。
英二も笑っている。
あたしも笑っている。
「どーして頭の回転はそんなに速いのに、補習に行かなきゃ行けないのかしらねー」
「愛子さんっ、違いますよっ。渚っちは補習じゃなくて、講習に行ってたんですっ」
「微妙な違いだね。でも、大違いだよ」
「英二さんは分かってくれますよね? ね?」
「でも渚ちゃん、補習も大切だけど、今は体を労わってね」
「たははっ。ありがとうございますでって違いますっ! 英二さんも間違えてますっ」
楽しく笑っている。
仲良く笑っている。
三人、笑っている。
「冗談よ冗談。渚って何でもすぐ信じちゃうから、詐欺とかに引っかかりやすそうね」
「うう~……愛子さん、いぢわるですっ。極悪ですっ」
「渚ちゃんってさ、いつもいじわるの『じ』にアクセントを置くよね」
「そうですよっ。渚っちの得意技です」
こんなことが、いつまでも続けばいいのに。
いつまでも、一緒に笑っていられたらいいのに。
(……いや、そうじゃないか)
いや、そうじゃない。
(あたし達が、渚の願いをかなえてあげなきゃ……)
こんなことが、いつまでも続くように。
いつまでも、一緒に笑っていられるように。
「それじゃあ、僕はお母さんを探すよ。必ず見つけて、渚ちゃんのところまで連れてくるから」
「じゃ、あたしは残りの二つね。何かの準備をするのはあたしの得意技だから、箱舟に乗ったつもりでいていいわよ」
「愛子さん、箱舟じゃなくて大船です」
「細かいことは気にしちゃ負けよ」
渚の「お願い」を聞いて、あたしと英二はこれからどうするかを考えた。
英二はこれから外へ出て、渚の母親がどこへ行ったのかを探すことにした。
「ねぇ渚、あんたのお母さんがどこに行ったか、ほんとに知らないの?」
「えっと……はい。行き先言わずに出て行っちゃいましたから……」
「まあ、僕が何とかするよ。こう見えても、人探しは得意なんだ」
「……………………」
確かに、今までの人生をずっと人探しに費やしてきたんだから、それは間違ってないかも知れない。
(……ずいぶん、辛い人探しだったと思うけど……)
英二はもう散々やらされて、心の底から嫌になってるはずの「人探し」を、自分からやるって言った。それだけ、英二は真剣だってこと。渚のためなら、どんなことだってやる覚悟が出来てる。それが、伝わってくる。
「……英二、それじゃ、お母さんのほうは……」
「うん。任せてくれていいよ」
英二の顔を見て、その決意が本物であることを確認した。
(あたしも頑張らなきゃね……)
負けちゃいられない。
あたしも、しっかりやらなきゃ。
そうこうしてるうちに、窓の外が夕焼けに染まり始めた。
「あっ……気付かない間に、もう夕方になっちゃってます」
「マジで? なんか、時間経つの早いわねー……」
「それだけ、みんな真剣だったってことじゃないかな」
渚のベッドによっかかって、あたしと英二が窓の外に視線を向ける。
小さなカラスが一羽、夕焼けの空の中に、淡く黒い筋を作った。
(……空の夢、か……)
瞬く間にどこかへと消えたカラスを目にして、ふと脳裏に浮かんだあの光景。昼間見たときよりも、それは幾分ぼやけていて、ずいぶんと曖昧にはなっていたけれども、それを見たことはしっかりと覚えていて、その時感じたことも忘れずにいて。
(……どうして渚が出てきたのかしらね……)
あの瞬間、確かに渚の姿が見えた。
どんな姿かまでは覚えていない。けれども、その姿が紛れもなく渚であることは、明確に思い出せる。
……そして、夢の中の渚の表情も。
(……あんなに悲しい表情、見たことなかった……)
「空を飛んでるわたしは、ただ悲しくて、悲しくて、涙がこぼれて……でもどうしようもなくて、ずっと同じ場所をぐるぐる回っているんです。それで、悲しくなって目が覚めて、起きたわたしも泣いてるんです」
「どこにも行けずに、ただずっと……同じ場所にいるんです」
渚の言葉が、頭の中を駆け巡った。
渚が見ているのは、間違いなく悲しい夢なのだ。翼を生やしているのに、どこにも行くことが出来ず、ただ同じところをぐるぐる回っている。どこかに行きたくとも、行く事は叶わない。
それは、あたかも空に閉じ込められているかのよう。
広い広い空に閉じ込められて、ただただ地上を見下ろしながら、ずっとずっと同じ大気を受け続けている。それは渚がこの世に生まれてから、ずっとずっと繰り返されている、途方もなく悲しい夢。
(……どうして……そんな夢を見るのかしらね……)
考えれば考えるほど、答えはどこか遠くへ遠ざかっていくようで。
最初から、答えなんてないのかも知れないけれども。
あたしが窓越しに空を見ながら、そんなことを考えていると、
「ふぁ……えっと……ごめんなさいです。渚っち、また眠くなってきちゃいました……」
渚が細い目をこすって、眠そうな表情を見せた。少し回復したとは言え、渚はまだ半病人だ。眠い時には、無理せず寝たほうがいいに決まってる。
「ん。いいわよ。それじゃ、あたし達は下に行っとくからさ」
「あっ……はい……」
「どったの? ビミョーに寂しそうな顔だけど……」
「えっと……」
渚は指をもじもじさせながら、何か言いたげにしている。
あたしと英二は、それをしばらく見つめていたのだけれど、
「もしかして、独りだと寂しい?」
「あっ……えっと……はい。ちょっと、寂しいです」
英二が、上手く渚の言いたい事を言った。まー、あたしも何となくそんな気はしてたんだけど。
「つっても、ここで寝るわけにもいかないしねぇ……」
渚の部屋はそんなに狭苦しいわけじゃないけど、あたしと英二が横になるとなるとさすがに無理がある。といっても、横にならずに眠れば今日みたいにまた最悪の寝起きになりそうだし、第一、明日からはいろいろ忙しい。きっちり寝て体力を回復しとかないと、後々になって絶対に響いてくる。
「ごめんなさいです……渚っち、今ちょっとわがままになっちゃってます」
「んー……あたし達としても、できればあんたの傍にいたいんだけどねー……何かあった時にさ、近くに誰かいたほうがいいし」
「……………………」
あたしの隣で、英二はしばらくの間何も言わずに黙っていたけれども、
「それじゃあ、こうすればいいんじゃないかな?」
「えっ?」
「神崎さん、ちょっとドアを開けておいてくれる?」
「ドア? ん。分かった」
英二に言われるがまま、渚の部屋のドアを開ける。しっかし、一体どうするつもりなんだろ?
「よし……それじゃ渚ちゃん。少しの間だけ、おとなしくしててね」
「えっ? ど、どういうことなんですか?」
「つまりは……」
英二はそう言うと、腕をするりと差し込んで、
(ひょい)
「わっ?!」
「こういうことだよ」
……あっという間に、渚を抱き上げてしまった。ちなみに、渚はベッドの背もたれに体を預けていたので、状態としては……
「わっ、わっわっ」
「大丈夫。こう見えて、結構得意なんだよ」
「得意って……お姫様抱っこが?」
……まぁ、そういうことになる。
「え、英二さんっ。だ、ダメですっ。渚っち、英二さんの腕を折っちゃいますっ」
「そんな事ないよ。渚ちゃん、びっくりするぐらい軽いから」
「え、え、えとっ、そ、そ、そ、そのっ」
「慌てないで。こういうときは、王子様に身を任せるのが基本だよ」
「どういう物言いなのよ、それは。つーか、自分で王子様とか言わない」
パジャマ姿の渚は英二に抱っこされて、顔を真っ赤っかに染め上げている。こりゃ、沸騰するほど恥ずかしいんじゃなかろうか。少なくともあたしだったら絶対に死ぬ。焼け死ぬ。
「な、渚っち、今、すごく恥ずかしいですっ」
「うん。顔を見れば良く分かるよ」
「あ、あんまり見ないでくださいっ」
渚は英二にひっしとしがみついて、真っ赤になった顔を隠そうとしている。男の子とこんなに接近したの、多分人生初なんだろう。ま、とりあえずおめでとう渚。何がどうおめでたいのかは置いといて。
「怖がらなくていいよ。ちゃんと責任持って、下まで運ぶからね」
「は、はい……」
「……とりあえず、渚の分の布団だけ、先に敷いて来るわね……」
なんかもう見ていられないので、さっさと自分に役割を割り当てて下へ行く。渚、とりあえず英二はあんたを取って食うような外道じゃない(と思う)から、安心はしていいと思う。
「それでは渚姫。下に参りましょうか」
「は……はい……」
……英二……あんた、自分がやりたかっただけだろ……
「はい、到着です」
「あ……ありがとうございますです……」
英二は思ったよりも時間をかけずに、一階の茶の間まで降りてきた。あたしがあらかじめスタンバイしておいた布団の上に、渚をやさしく下ろす。
「え、えと……その……うう……」
「……氷枕、持って来よっか?」
顔がやばいぐらい真っ赤になった渚は、英二とまともに目も会わせられない状態みたい。確かにいきなりお姫様抱っこは、渚のような……なんというか、そーいうのに慣れてないのにはインパクト強そうだ。
「えと……え、英二さんっ、あ、ありがとうございます……」
「いいよ。お茶の間なら、三人揃って寝られるしね」
英二は微笑みを浮かべて、まだ顔を赤くしている渚に目を向けている。
「えっと……渚っち、すごく恥ずかしかったです……でも……」
「……………………」
「……英二さんに抱っこされて、その……ちょっと……えっと、びっくりするぐらいうれしかったです……」
「良かった……これで嫌われちゃったら、僕も悲しいからね」
「たははっ……渚っちが英二さんのこと嫌いになるなんて、絶対にないですよっ」
渚は頬に赤みを残しながら、それでも、うれしそうな顔を見せた。
(……ま、喜んでるみたいだから、いいんじゃないかしらね……)
「……さて、下に来たのはいいんだけども……」
一階にみんな揃ったのはいいけど、これから特にすることもない。外はまだ明るいけど、だからといって、これから何かする気も起きない。
「……ねぇ渚、何か食べたい?」
「えっと……渚っちは、特におなかは空いてないです」
「英二は?」
「僕も別にいいよ。食欲がないというよりも、食べなくても十分、って感じかな」
「……おっけー。実はあたしもぶっちゃけ晩ご飯いらない」
渚を間に挟んで、あたしと英二も横になる。渚の布団を敷くときに、あたしと英二の布団もセットで敷いといた。
「神崎さん、一個提案いい?」
「ん。構わないわよ」
「寝ない?」
「……英二、あんたわざと微妙な言い方してない?」
「きっと気のせいだよ」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……やっぱり、僕にこういうのは向いてないよね」
「分かってるならやるなってーの」
さっきのお姫様抱っこのときといい、英二が妙にらしくない。なんというか、今までとはちょっと空気が違う。
「やっぱりほら、もっと気軽に冗談とか言えたほうがいいと思ってさ」
「……や、それでも微妙に飛ばしすぎじゃない?」
「ごめんね。僕、ちょっと加減が分からないんだ」
「……いや、そんなに気にするほどでもないけどさ」
あたしと英二が、渚を隔てて会話する。
(……そう言えば、渚が全然話に入ってこないような……)
そう思い、渚のほうを見てみると……
「……すー……」
……一足先に、夢の世界へ旅立っていた。
「気持ち良さそうに眠ってるわね……」
「そうだね……いい夢を見てくれるといいんだけどね」
「……そうよね。あたしもそう思う」
ふざけあうのをやめて、英二と目を見合わせる。
「明日から、忙しくなるわね」
「今が頑張り時だよ。渚ちゃんの願いを叶えてあげるのは、僕らの役目だからね」
「あたしも……本気でやらなきゃ。英二、あんたも頑張ってよ?」
「もちろんだよ。僕は……渚ちゃんを、心から笑わせてあげたいからね」
そして、互いに頷きあう。
「そいじゃ……お休み、英二」
「お休み。神崎さん」
最後に軽く言葉を交わして。
短く長い一日に、幕を下ろした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。