「……みちる?」
「えっ?」
「あぅ?」
俺と名雪と真琴が、ほぼ同時に後ろに振り向いた。見ると、そこには……
「あ、遠野さんのお母さん」
「あら、水瀬さんのとこの……ごめんなさいね。人違いだったみたいだわ」
「ひょっとして、みちるちゃんを探してるんですか?」
「そうなのよ。いつもならもうそろそろ帰って来る時間なんですけど……」
そこにいたのは、クラスメートの遠野……「遠野美凪」の母親だった。遠野はクラスでもトップクラスの秀才で、名雪の親友である香里といつも二人がかりで成績優秀者の座を独占している。何でも、天文部に所属しているとか。あまり話したことがないから、細かいことまでは分からないが。
「見かけたらうちに帰るように言っておきますよ」
「あら、そうしてくれるとありがたいわ。今日はあの子の好きなものを作ろうと思ってるから」
「そうなんですか~。でも、すぐに帰ってくると思いますよ~」
「そうね。お時間を取らせてごめんなさいね。それじゃ」
遠野の母親は軽く会釈をすると、その場をのほほんとした足取りで立ち去った。
……しかし、遠野の母親って、間違いなく高校生の娘がいるってのに、なんかこう秋子さん並に若々しいな……遠野と並べたら、多分姉妹にしか見えないだろう。実際、何も知らない人に名雪と秋子さんを並べて見せたら、まず間違いなく姉妹だって勘違いするだろうし。
それにしても、遠野の母親って綺麗な人だなあ。遠野もこれがまたなかなかかわいいんだが、母親はその遠野にさらに秋子さん的母性が加味されてなんとも言えな
「いててててててっ?!」
突然、俺の腕が誰かにつねられた。やったのは当然……
「祐一~、何考えてたんだよ~」
「きっとヘンなこと考えてたのよぅ。さっきの人のこと、じーっと見てたし」
「何を言うか。俺は空を見つめてたんだ」
「どうして」
「この空の向こうにいる、羽の生えた女の子を捜してだ」
「……それ、観鈴ちゃんとこに居候してる男の人のセリフだよ」
「何で知ってるんだ」
俺の巧妙な回避策はあっさりと打ち破られ、名雪は口をへの字に曲げてしまった。
「祐一、ひどいよ。わたしが隣にいるのに」
「そうよそうよっ。ゆーいちはヘンタイゆうかいまなのよぅ」
「誰がヘンタイゆうかいまだコラ」
「……でも、祐一だからね。もう気にしてないよ」
「ずいぶんと引っかかる理由だなー」
納得したのかそうじゃないのか分からない表情で、名雪が言った。これもまあ、いつものことだ。
「行くか」
「そうだね」
「うん」
俺たちは短く言葉を交わして、ゆっくりと歩き出した。
「ところでさ名雪。『みちる』ってどんなヤツなんだ? そんなヤツ、俺たちの学校にいたか?」
「えっ? あっ、さっきのことだね」
「そうそう。『みちる』って言うからには、多分女の子だとは思うんだが……背格好がお前や真琴に似てるのか?」
「えっと……」
「……どうしたんだ?」
名雪が不意に悩んだような表情を見せた。それを見た俺も真琴も同じように、不思議そうな表情を浮かべた。
「えっと……びっくりしないで聞いてほしいんだけど……」
「あ、ああ……いいぞ。言ってくれ」
「あぅ……」
「……みちるちゃんは、遠野さんの妹さんなんだけど……その……」
「……………………」
「……………………」
「……まだ、小学四年生なんだよ」
「……………………?!」
「……………………?!」
思わず顔を見合わせる俺と真琴。きっと、お互いにまったく同じ表情をしていたに違いあるまい。俺が見た真琴の表情は、まさに「信じられない」ということを顔で表したかのような表情だった。
「……マジか」
「うん。この前一緒に出かけた時に、小さい子が付いて来てて、それがみちるちゃんだって聞いたから」
「……あぅー……あの人、名雪おねーちゃんをそんなちっこいのと勘違いするなんて……」
「待て待て。どちらかというとお前の方が可能性あるぞ。この中で一番背低いの、お前だし」
「何よぅ。ゆーいちなんてすぐ追い抜いちゃうわよぅ。覚えてなさいよっ」
「三十秒ほどはな」
「あうーっ!」
隣でじたばたしている真琴の頭を人差し指で押さえながら、俺は名雪に話しかけた。
「しかし、そんなヤツとお前や真琴を勘違いするなんて……遠野の母親って、目でも悪いのか?」
「うーん……でも、そんな事はないはずだよ。遠野さん、そんなこと一言も言ってなかったから」
「……だろうなぁ。さっきだって、ちゃんと真っ直ぐ歩いて帰ってたし」
謎だ。いくらなんでも、小四の子と高二の子を見間違えるわけがない。それに、いくら真琴の背が低いといったって、実際には俺たちより一回り弱小さいか、それぐらいの差しかない。子供と一緒に並べば、間違いなく分かるほどの差がある。
「ひょっとして、そのみちるってヤツが異常に成長の早い子だとか」
「それはないよ。だって、わたしがちゃんとこの目で見たんだもん」
「……だろうなぁ。そうだったら、俺が聞く前に言ってくれるだろうし」
結局「みちる」の謎は解けないまま、俺たちは家路に付くこととなった。
(……ま、あまり気にしないでおくか。どうせ、ただの人違いだろうし……)
それだけ最後に考えて、後は考えるのを止めた。
「ただいまー」
「お帰りなさい。あら、今日は三人揃って帰って来たんですね」
家に帰ると、まぁいつものように秋子さんが出迎えてくれる。うん。これもいつもの風景だ。
「もう晩ご飯が出来てますから、みんなで一緒に食べましょうね」
「はい」
俺たちは口々にそういうと、家着に着替えるために階段を昇った。
「……うぐぅ……少しばかり食いすぎた……」
「祐一、あゆちゃんみたいだね」
「あはははっ。名付けて、『あゆーいち』よぅ」
「くっつけるなっ」
アホなことを言う真琴をとりあえず殴っておく。ちなみに、夕食は秋子さんお手製のクリームシチューだった。これをたくさん食べないわけがない。秋子さんは何を作らせてもパーフェクトだと思う。
「あうーっ……何するのよぅ」
「お前が最低なあだ名を考えるからだろうがっ」
「祐一、そんなので殴っちゃダメだよ。可哀想だよ」
「あぅーっ……おねーちゃん、ゆーいちがいぢめるよぅ……」
「先に手を出したのはそっちだろうがっ」
俺がそう言っている間にも、名雪はよしよしと真琴を撫でてやっている。そしてされるがままの真琴。こいつら、間違いなく実の姉妹より仲いいぞきっと。なんて言うか、周りに無性に薔薇を描きたくなってくる。
「祐一、そのネタはまだ出しちゃだめだよ~」
「……はっ!? また口に出していってたか?」
「完全クリアするまではお預けなんだおー」
「……仕方ない。あきらめるか」
どうもあのクセが出てしまっていけない。早く治さなきゃな。
「うにゅ……」
「その声が出たってことは、そろそろ眠たくなってきたか」
ちなみに、時計はまだ九時を指そうともしていない。眠たくなるには、ちょっとばかり早すぎる。
「明日も早いんだし、もう寝たらどうだ?」
「うん……そうするおー」
こりゃもう半分以上は寝てるな……目が完全に糸目になっちゃってるし。
「おやすみ……だおー……」
「ああ。お休み。明日もちゃんと起きろよ」
「くー」
「せめて『努力してみるよ』ぐらい言ってくれよっ」
寝ながら歩く名雪を見ながら、俺は吐き捨てるように言った。ああ、明日もまたあの壮絶な起こし方をせねばならんのか……とりあえずけろぴーで頭をぶんなぐってみよう。
「……さて、俺もそろそろ寝るかな……」
時刻は午前零時。寝るにはちょうどいい時間だ。明日も学校だし、今からすることもない。寝るとしますか。
「……………………」
俺は階段を昇り、部屋へと続くドアを開けた。
そのままベッドに潜り込み、掛け布団をかけなおす。
「……………………」
眠気はすぐに訪れてきた。
「……………………」
……完全に寝入ってしまう前に、こんなことが頭を掠めた。
(……そう言えば、今日は真琴のヤツ、来なかったな……)
いつもなら俺が寝入るまでずっと待ってたってのに、今日に限ってはその気配すら微塵も感じられない。
(……ま、安眠できるなら、それに越したことはないか)
そう考え、俺は眠ることにした。
真琴が来ないと分かっているから、いつもよりもぐっすり眠れそうで、いつもより瞼の重くなるのが早くなって……
………………
…………
……
……その時俺は、まったく気付いていなかった。
……この穏やかで平凡な日々が、これからずいぶんと長い間、否応無しに……
……お預けにされてしまうことを……
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。