「……もしもし? あの、わたし。瑠璃」
「瑠璃ちゃん? 瑠璃ちゃんなのね?」
清姉が借りていた家を引き払う前日。ずっと連絡を取っていなかったお祖母ちゃんに電話を掛けた。電話口のお祖母ちゃんは驚いた声してる。無理もない、一ヶ月以上何も言わずに家を空けて、今になっていきなり連絡してきたんだから。叱られて当然、怒られたって仕方ない、それくらいのことは覚悟して電話を掛けたんだから。ちゃんと話をしないとダメだ、自分の口からハッキリ伝えないと。家出してごめん、心配かけてごめん、って。
「元気にしてる? どこか具合の悪い所はないかしら?」
「うん。いろんな人に親切にしてもらって、ご飯もちゃんと食べてるよ」
「そう……よかったわ。おばあちゃん、それだけが心配だったの」
「ごめん、お祖母ちゃん。勝手に家を出て、いっぱい心配かけて」
当たり前かもしれないけど、あの日うちはお祖母ちゃんには何も言わず、一言も言わずに、こっそり家を出た。お祖母ちゃんが寄り合いに出かけている間に荷物をまとめて、ミナと一緒に家を飛び出したんだ。帰って来た後のお祖母ちゃんの気持ちを考えたら、胸がキリキリと痛む。ほんとに自分のことしか考えてなかったんだって、何も言われてないのに強く思わされてしまう。だから、受話器の向こうから聞こえるお祖母ちゃんの優しい声が胸に沁みた。痛いけどじんわりと効いてくる、傷薬みたいに。
「いいのよ、瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんの元気な声が聞けた、おばあちゃんはそれでもうホッと一安心よ」
「お祖母ちゃん……」
「瑠璃ちゃんが構わないなら、顔も見せてくれるともっと嬉しいわ」
「……あのね! お祖母ちゃん! わたし……明日、ムロへ帰るよ! 家に……帰るから!」
勝手に家出したことを叱ることもせずに、顔を見せてくれると嬉しい、そう言ってくれたお祖母ちゃんの顔がわっと脳裏に浮かんで、うちは「明日帰るよ」と大きな声を出していた。もっと丁寧に言おうと思ってた、もっとスマートに言えると思ってた。家出したときもそうだった、現実はそう甘くない。でも、自分の口からお祖母ちゃんに伝えることはできた。家に帰るよ、お祖母ちゃんの所へ帰るよ、って。
「瑠璃ちゃん、ありがとうね。おばあちゃんね、その言葉が聞けてとっても嬉しいの」
「ごめんね、お祖母ちゃん、ごめんね。わたし、わたし……っ」
「おばあちゃんもね、瑠璃ちゃんが辛い思いをしてたのに助けてあげられなくて、もっと話を聞いてあげられてたら、そう思ってたの」
「そんな、お祖母ちゃんは……!」
「帰ってきたら、瑠璃ちゃんからうんとお話を聞かせてほしいわ。どんなことでも、今のことでも、昔のことでも」
「……うん!」
話すよ、いっぱい話すよ、お祖母ちゃん。家を出る前のことも、この夏に起きたことも、これからのことも、全部、全部。もう隠したりしない、感じたこと、思ってること、全部お祖母ちゃんに話すから。
そしてもうひとつ。うちは、話さなきゃいけないことがある。お祖母ちゃんに伝えないといけないことがある。
(どうやって紹介しよう、陽介のこと)
そう。陽介のことだ。
あのあと、陽介とよく話をした。うちは陽介と一緒にいたい、でもうちはトウキョシティから遠く離れた離島で暮らしてて、そこへ帰らなきゃいけない。陽介がトウキョシティに残りたいなら、その気持ちは大事にしたい。時々連絡を取ったりして、うちがトウキョシティまで会いに行ってもいい、ムロはトウキョシティと違ってド田舎もいいところで、サブウェイもスタバも影も形もない、トウキョシティとは雰囲気が全然違うんだ。それで、もし一緒に来てくれるなら、同じ家で暮らせるようにお祖母ちゃんにお願いする、ダメなら責任もって別の方法を考える。ここに残るか一緒に行くか、陽介に選んでほしい。そう言った。
陽介の回答は、ビックリするくらい単純明快で。
「僕、瑠璃さんと一緒に行きたい!」
戸惑いとか躊躇いとか迷いとか、そういうのが一切無くて。うちも内心「陽介が一緒に来てくれるといいな」、そう思ってたけど、ここまで明快とは思ってなかった。でも、陽介がうちと一緒に行きたいと言ってくれたからには、その気持ちに応えなきゃ。一度受話器から口を離してから、深呼吸をして気持ちを落ち着ける、集中、集中。無理なお願いをするんだから、とことん誠実にならなきゃ。
「お祖母ちゃん。ひとつ、聞いてほしいな」
「ええ。いいわ。どうしたの?」
お祖母ちゃんへの伝え方にしっかり気を付けないと。下手するとあれだ、旅先で出会った男の子を家へ連れ込みまーす、ってやばいノリに聞こえかねない。そうじゃなくて、陽介には身寄りがなくて、できれば居候させてほしい、ってところから入って行かないと。慎重に、慎重に。
「ええっと、話すと長くなるんだけど」
「陽介くんのこと、かしら?」
「……えっ?」
おい、ちょっと待て。なんでうちが名前を出す前に先にお祖母ちゃんが先に「陽介くん」とか言ってるんだ? 思わず声出たぞ「えっ」って、いやどういうことなの? 全然背景が見えないんだけど?
「そっちで知り合った男の子がいるんでしょう? 同い年の優しい子だって」
「いや、えっと、それは、そうなんだけど、ちょっと」
「親御さんを亡くして一人で暮らしてるって聞いたわ。大変ねえ。もし、陽介くんがよかったら、うちへ来てもらったらどうかしら」
「えぇぇええええぇっ!?」
「部屋は空いてるし、手続きはお祖母ちゃんがするわ。こう見えてもずっと働いてたから、事務には慣れっこなのよ」
うちが言おうとしたことをお祖母ちゃんにバンバン「さきどり」されている。「さきどり」っていうか「よこどり」かも知れない。それはどっちでもいいんだけど、なんだこれ、一体どうなってんだ。どうしてお祖母ちゃんが陽介のことを知ってて、しかもうちに来たらどう? とか言ってるんだ。一から十までちっとも分からない、ホントに意味が分からない。
っていうか、このことを話したのは誰だ。うちと陽介を知ってる人、って大分絞られるんだけど。
「佐藤さんからお話を聞かせてもらったわ。一緒に雨で困っている人たちを助ける仕事をしていたんです、って。瑠璃ちゃん、立派ねえ」
佐藤ぉぉぉぉぉっ! あいつ何勝手にお祖母ちゃんと話してんだ! うちは喋っていいなんて一言も言ってねえぞ! 今度会ったらただじゃ……いや、でも冷静に考えてみよう。お祖母ちゃんは警察に捜索願を出してて、警察は案件管理局に情報を連携して、佐藤はそこでうちが家出してるって知った。多分お祖母ちゃんにも話を聞いて、トウキョシティにいたうちを見つけて、見つけた結果をお祖母ちゃんに連絡した。一応筋は通ってる、一応筋が通ってるのがすっごいムカつく。抜け目のなさがムカつく。
けど、すっかり気が抜けてしまった。お祖母ちゃんはもう知ってたんだ、陽介のこと。おまけにうちが考えそうな浅知恵をすっかり見抜いてて、先に言いたかったことを言ってしまう。お祖母ちゃんには頭が上がらない。こんな無茶なお願い、そうそう聞いてもらえないはずだから。
「……うん。無茶なこと言ってごめんね、お祖母ちゃん」
「無茶だなんて、とんでもない。家が賑やかになって嬉しいわ。来てくれたらごちそうをうんと作るわね」
「ありがとう、お祖母ちゃん」
「うふふ。一人で都会へ出て、人様の役に立つお仕事をして、おまけに素敵な人まで見つけて。瑠璃ちゃんもすっかり大人ねえ」
うわーっ、向こうでお祖母ちゃんがニコニコしてる絵が浮かんでくるっ、恥ずかしい、恥ずかしすぎる。そういうのじゃない、そういうのじゃないんだ! いや、でもだぞ、うちと陽介の関係をちゃんと考えたら……うわーっ! やめてくれやめてくれ、顔がオーバーヒートするっ。焼き尽くされるっ。
ともかく、ともかくだ。話は綺麗にまとまった。うちは陽介と一緒に明日ムロへ帰る。思い描いていた理想の展開になったんだから、もういいじゃないか。また連絡するね、そう言ってお祖母ちゃんとの通話を終える。はぁーっ、一気に肩の荷が下りた気分だ。
「……ふぅ。うまくいったけど、疲れちゃった」
「お、話がいい感じにまとまったみたいネ。名前は『瑠璃』なのに顔紅くしちゃってぇ」
「うっせえ!」
清姉のおちょくりにも、そう返すのが精いっぱいだった。
折角だから同じ船に乗って帰ろう、ってことで、清姉が同じ船に乗ってる。うちを見つけて連れ戻すのが仕事だった佐藤もいる。
「瑠璃さんの故郷、どんなところなのかな。ワクワクするよ!」
「帰ったらうちが案内するね。陽介と一緒に行きたいところ、いくつもあるから」
もちろん、陽介だって一緒だ。足元を見ると、エレザードに進化したミナと、背丈が揃って同じ目線で話ができるようになったサニーがわいわいと遊んでいる。いい船旅になりそうだ、凪いだ海を見ながらしみじみと思う。
隣にいた清姉を見やる。嬉しかったのは、清姉も同郷、ムロ出身だったってこと。向こうでも清姉と会って話ができるってことだ。うちが知ってて、今も会って話ができる大人の中では、お祖母ちゃんの次くらいに信頼してるし信用してる。親戚でも何でもない、血の繋がりなんてまったくない赤の他人だけど、そういうのとは別でなんでも腹を割って話せる「大人」だって。
「清姉、長い間ありがとう。いっぱいお世話になっちゃって」
「お礼を言うのはこっちの方よ。賑やかで楽しかったし、素敵な仕事ができたし、それに……」
「それに?」
「兄貴のカタキ、瑠璃が取ってくれたしね」
足元には相方のティアット、そして廃ビルで繰り出したラグラージのハイドロが、清姉に寄り添う形で佇んでいた。
「この子ね、兄貴の相棒だったの。優秀なトレーナーになるって見込まれて、どっかのえらい人から預けられたわけ」
「進化前、ミズゴロウだもんな。アチャモやキモリと同じ、見込みのあるやつに預けられるっていう」
「ええ、瑠璃の言う通り。旅に出る一年前から預けられる期待されっぷりだし、それに応えてここまで大きくしちゃうんだもの」
「半端ねえな。強いトレーナーだったんだ、清姉の兄さん」
「そりゃもう。そこらのやつには負けなかったって聞いたわ。けど、これからてっぺん取りに内地へ出るぞっていうところで、ウチを残して親父が死んで、母さんも倒れて」
「ああ……」
「で、全部取りやめにして、中学まで行ってからすぐ消防士になったわけ。で、母さんを病院に入れて、ウチを食わせるために働いてくれた。内地へ出ることもせず、ムロでずっと、ね。結局母さんは退院できないまま死んじゃったけど、兄貴には感謝してたし、申し訳ないって言い続けてたっけ」
なんで清姉が兄貴を慕ってるのか。兄貴以上のイケメンはいない、そういうことを繰り返し言ってるのか。この会話で全部分かった。もしうちが清姉と同じ立場だったら、やっぱり兄貴のことを尊敬してたと思う。尊敬、尊敬って言葉で括っていいのかな。それよりももっと切実な気持ちになるんじゃないかな。言い表す言葉が見つからない。清姉の「イケメン」って言葉は、清姉なりに兄貴を敬う言葉を探した結果なのかもしれない。
「だから、いなくなって寂しかった。瑠璃だってさ、ダチとかお父さんお母さんいなくなったから、分かると思うけど」
「分かるよ、清姉の気持ち。すっげぇ分かる」
「ね。けどさ、その時兄貴はもう結婚して子持ちのパパだったの。遺された義姉さんと子供の方が大変っしょ? だからいろいろお節介を焼いて、それが大体済んだらもうすぐ夏じゃん、ってなって」
「うん」
「そろそろウチも気持ちに整理を付けなきゃって、ムロからずーっと離れたトウキョシティに傷心旅行。で、乗り込んだ船で出会ったのが瑠璃、あんただったワケ」
全部繋がった。あの時清姉が船に乗り込んでた理由も、うちを助けた時に真剣な顔してたのも、ラグラージのハイドロを連れてたのも。全部、尊敬してた兄貴が遺してったものだったんだ。
「んー。てなわけで、瑠璃。向こうでもよろしく頼むわよん」
「うちの方こそ。うち、清姉に会えてよかった」
「ええ、ウチも同じ気持ち。今の瑠璃、いい目してるわ」
だろうな。清姉に最初に会った時のうちの目、たぶんすっげえ曇ってただろうなって思うし。清姉は陽介とはまた違うやり方で、うちの心に降ってた雨を止ませてくれた。だから、この夏にできた結び付きをずっと大切にしていきたい。清姉には事あるごとに跳ね返ったり噛み付いたりしてたけど、でも、今は純粋にそう思う。
清姉がうちから離れていく。ふっ、と左手に目をやると、そこには。
「いい風だね、瑠璃さん」
陽介がいる。当然のように、当たり前のように、そうある事が自然なように。同じ目的地に向かって、同じ船に乗って、同じ場所に立っている。行き先は自分の故郷、たどり着けばそこで一つ屋根の下、同じ家で暮らす。まるで夢を見ているかのようで、けれど体に感じる風の感触も、繋いだ手のぬくもりも、紛れもなく現実だ。
隣に陽介がいてくれる。この手でつかみ取った、確かな現実。
「あれからは、雨が降ったり晴れたり、すっかり普通の空になったね」
「うん。いつもの夏の空、今までと同じ空に戻った感じ」
「そうだね。雨の日にお願いしてみても、もう晴れは呼べなくなっちゃった」
そう言う陽介の顔は、言葉とは裏腹に、とても――とても、晴れ晴れとしていて。太陽のように、さんさんと煌めいていて。
「ねえ、瑠璃さん。ひとつ、訊いてもいい?」
「いいよ。言ってみて」
はにかんだ笑顔を見せた陽介が、目の前にいるうちに向かってそっと問い掛ける。
「瑠璃さんは、晴れを呼べる僕が好き?」
ちょっと意地悪なこと考えてるって感じの、いたずらっぽい顔してる。乗ってあげるのも悪くない。うちはちょっとすました顔で、こうお返しをした。
「うん。晴れを呼べる陽介が好き」
「えーっ、それは困ったなぁ。僕はもう晴れを呼べなくなっちゃったのに」
全然困ってない。もうちょっと困った顔をしてもいいのに、ちっとも困ってない。見ててこっちも可笑しくなる。しばらく陽介の顔を眺めてから、うちは重ねてこう言った。
「でも、今の晴れを呼べない陽介は、もっと好き」
空とのつながりの消えた、空の下で自由に歩く陽介が、好きで、好きで、好きで。
「じゃあ、うちのことはどう? 『影の子』のうちが好き?」
「うん! 『影の子』の瑠璃さんが好きだよ! だけど――『影の子』じゃなくなった瑠璃さんはもっと好き!」
「うちと同じこと言ってるじゃん、陽介」
「これも僕らの『おそろい』だよ、瑠璃さん」
見つめ合う、うちと陽介。もう雨がうちに付きまとうことも無い、陽介の願いひとつで空が晴れることも無い。
「天気は天の気分次第。そうだよね、瑠璃さん」
「うん。どんな天気になっても、ずっと一緒だよ」
雨が降る日があれば、雲に覆われる日もあるだろう。時には強い風が吹く日だってあるに違いない。だけど、それと同じくらい、明るい日差しに恵まれる日だってある。
これからの自分たちは、共に手を取り合って生きていく。
――この、気まぐれな空の下で。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。