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#26 世は並べて事も無し

背中が硬い。ごつごつした感触がする。だるさの残る体をゆっくり起こして、自分が今どこにいて、どんな状態にあるのかを確かめる。

ずっと目指してたあの廃ビル、見上げた先に見えるのはそれだった。ってことは、ここはあのビル沿いの道路とかか。五感は全部働いてる、夏の日差しの暑さ、雨上りの海のような匂い、揺らめく陽炎の向こうに見える風景、木々に留まった蝉の鳴き声、どこかで口の中を切ったせいで感じる鉄っぽい血の味。全部が折り重なって、今ここに自分がいる、自分がいるのは紛れもない現実なんだってことを実感させる。

ふと隣を見た。陽介もちゃんといる。日陰に入ってすやすや寝てる、いい寝顔だ。悪い夢なんて見てないのが一目でわかる。胸を規則正しく膨らませては、萎ませて。身体の具合もよさそうだ。もちろん、消えかかってなんかいない。ちゃんとここに、陽介は確かにいる。ミナとサニーも一緒だ。こっちは日向の方が都合がいいみたいで、日の当たる場所で大の字になって寝てる。ミナはエレザードへ姿かたちを変えてる。あの時空の上で起きたことは、夢でも何でもなかったのが分かる。

ああ、良かった。みんな大丈夫。みんな無事に、地上へ帰って来たんだ。安心して視線を上げた、直後だった。

「目が覚めましたか? 春原さん」

「えっ……佐藤?」

佐藤と目が合う。一瞬だけ身構える、けどその瞳に険しさがまるでないのを見て、すぐに杞憂だって悟った。すっとうちへ近付いて来て、誰にも聞こえないよう小声で耳打ちをする。

「いろいろあったかと思いますが、私に話を合わせていただけると助かります」

「話?」

疑問に思いつつ佐藤を見る、すると佐藤は無線を取り出して、おもむろにどこかへ連絡を取り始めた。

「こちら佐藤。異常気象の影響により発生した熱波で体調を崩したと思しき市民を三人保護。いずれも症状は軽く、体調の回復を待って帰宅させる。以上」

その言葉だけで、佐藤が何を言いたかったのか、うちは理解した。

「つまりは――こういうカバーストーリー、というわけです」

佐藤の言う「話」、それがどんな意味か、今の無線連絡がすべてを物語っていた。佐藤はあの時起きたことを全部握りつぶして、うちと陽介……三人って言ってるからきっと清姉も。その全員を、雨上がりに発生した熱波でぶっ倒れたただの一般市民だってことにする――してくれる、そういうことなんだ。

「あの場にいた局員たちからは、どういうわけか記憶がすべて抜け落ちていました。ただ一人、私を除いては」

「案件に関わっていた局員たちも、ことごとくです」

「春原さんや川村さんはもちろん、『そらのはしら』も、あの空にいた怪物も、すべて忘れてしまっていたのです」

「それだけではありません。私の行った連絡や作成した資料、それらもすべて消失していました。不自然に、けれど一つの痕跡も残さず」

「今、局に春原さんと志太さんを脅威と認定できる資料は、何一つとして残っていません」

「これも近々超常現象の一つとして記録されて、案件管理の対象となることでしょう」

「ですが……恐らくそう遠くない将来、無力化済みの案件としてアーカイブ行きになり、忘れ去られる。私にはその未来が見えています」

それはそれとして、春原さんには捜索願が出ていますので、早めに親御さんの所へ戻った方がいいと思いますけどね。そう言って笑う佐藤に、うちは苦笑いをするばかりで。

「ふわ……あぁ。うーん、よく寝たぁ……」

「陽介!」

「瑠璃さん! 瑠璃さんだ! 瑠璃さんがいる!」

「当たり前じゃん! うちがこんなのでくたばるわけないっての!」

「そうだよね! 瑠璃さんは『影の子』、日向にいても全然へっちゃらだもんね!」

うちらの話を聞いてたのかそうじゃないのか、陽介も目を覚ました。元気いっぱいだ、眠気も完全に取れて、また太陽みたいなペカーッとした笑顔を見せてくれてる。これだよ、これが見たかった。ずっとずっと、これを見たかったんだ。

そして、起き上がったうちと陽介に向かって。

「瑠璃ぃぃぃぃっ! 陽介ぇぇぇぇっ!」

「うわあ! なんだなんだ……って、清姉!?」

がばあっ、って感じの擬音を伴うくらいの勢いで、清姉がうちと陽介に全力で抱き着いてきた。抱き着いてきたっていうか、ハグしてきたっていうか。擦り傷切り傷だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、おいおい泣きながらひっしと抱きしめてくる。嬉しいけど、ちょっとだけ息苦しい。

「良かった……! 二人とも、ちゃんと帰ってきてくれて……! うっ、うっ、ううっ……!」

「清姉……ありがとう。それにごめん、心配かけちゃって」

「ううん、いいの。気にしなくていいから……! 瑠璃、あんたホントにカッコ良かったよ……! 約束通り、陽介くんを連れ戻してきてくれて……!」

「した約束は何があっても守る、それがうちのポリシーだよ」

「うん……イケメンだ、あんたマジでイケメンだわ。うちの兄貴に匹敵するくらいの!」

「清音さん! また会えたね!」

「陽介くんも! 瑠璃を助けるために無茶しちゃって……イケメンじゃなきゃできないっての! ホント良かった、二人ともここにいるんだ、うっ、ううっ……!」

佐藤が苦笑い……いや、微笑みながら、うちと陽介と清姉を見ている。後のことは、佐藤に任せておけば大丈夫だろう。

「保護者の方もいらっしゃるようですし、歩けるようでしたら、早めに帰宅されることをお勧めしますよ。この暑さですしね」

空を見上げる。さっきまでいた、陽介を取り戻すために戦った、あの空を。

雲がある、日光も差してる。いつも通りの夏の空、見慣れて見飽きた、去年と同じ夏の空。

(晴れ間も雨模様も、すべては気まぐれ)

そこにはもう――雨を降らせる怪物も、空にそびえ立つ『そらのはしら』も、天を揺るがす乱気流も。

 

影も形も、見当たらなかった。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。