この小説は案件レポート#111854「タマゴ料理専門店」と併せてお読みください。
田舎の冬はつくづく寒いと思っていたけれど、都会のそれは輪を掛けて体を冷やしていく。思わずコートに首をすぼめて、手を行儀悪くポケットへ突っ込むほどに。吹きすさぶビル風に体を震わせながら、心にも隙間風が吹いているのを感じていた。
知っての通り、ポケモンセンターは日々大勢の人が利用する。それ自体はセンターが何処にあろうと変わらないけれど、首都のそれは他所に輪を掛けて利用者が多い。使う人が増えれば増えるほどシステムへの負荷も合わせて高まっていって、必然的にシステム障害の件数も増える。システム障害! 見るのも聞くのもうんざりする言葉だ、これが好きだって人やポケモンは絶対にいない、僕はそう断言していいとさえ思っている。今日もまた南東のセンターでディスク障害が起きて、後輩と一緒に協力会社のアイダさん――ベテランのエルフーンだ。この道二十年だとか聞いた。アイダさんと現場に駆け付ける羽目になった。片付いたのはつい一時間ほど前、当然ながら時間外勤務。残業時間がかさんで、身も心もクタクタだ。
アイダさんがシステムの中に入って細かく見てくれてる間、僕と後輩は外から原因究明とフォローをしなきゃいけないわけで、当然食事になんて行けない。夕飯を完全に食べ損なって、すきっ腹を抱えたままトボトボ道を歩いている。どこかで簡単に済ませてもいいんじゃないか、頭でそう考えてても、チェーン店にはどうにも足が向かない。決まりきった味の物をずっと食べてると、なんだか自分の心まで何か決まったカタチに固定されそうな気がして。じゃあ家に帰って何か作るかっていうと、気力が底を突いててやる気になれない。何でもいいから食べたいのに、アレはダメだ、コレは良くない、そういう気持ちに流されながら、家の最寄り駅をうろついている。
ポケットに突っ込んでいたスマホが揺れる。取り出して充電が残り24%になってるのを見ながら操作してみると、いつもの広告メールが来ていた。読まずに捨てる。その後下からせり上がってきたのが、二日前に母から来たメールで。
「『今年は帰れそう?』……かぁ」
気持ちは山々だ、年末年始くらい僕も地元へ帰りたい。けれど、今年も多分リリースの立ち合いがある。初回稼働も見届けなきゃいけない。この有様じゃ、逆さにしたって帰省するのは無理そうだ。首を力なく横に振る。「今年もダメそうだ」って返事を書かなきゃいけないって気持ちはあるけれど、残念がる母の様子を思うとなかなか言い出せない。遅くなればなるほど答え辛くなるというのに、一歩前に踏み出す勇気が持てない。
またため息が出る。今の暮らしが辛いわけじゃないけれど、うまく行かないと思うことは数知れない。仕事にしても、私事にしても。ともかく今は夕飯が食べたい、どこか場所を探すことにしよう。明日もまた仕事で気は乗らないけれど、食べないことには何も始まらない。
重い体を引きずりながら、僕は寒風吹きすさぶ駅前を歩いた。
表通りを少しばかり歩いて路地裏を覗き込んでみると、煌々と明かりを灯す軒が見えた。はて、この筋に何か店はあったかな、不思議に思いながら入ってみる。すると、ずいぶん年季の入った食堂を見つけた。ショーウインドーのサンプルは少しばかり煤けていて、扉の向こうは擦りガラスでよく見えない。視線を上げてみると、古めかしい字体で
「卵料理」
と、白抜きで書かれた暖簾が見えた。
卵料理を出す鄙びた食堂、僕はこの辺りを休みになるとよく散歩しているけれど、こんな店があったのは見たことがない。今僕のいる筋へ入った記憶もないけれど、食べ物屋はそれなりに調べて概ね一度は顔を出した自信がある。こんな食堂を目にしたなら、必ず冷やかしがてら食べに行くはずだ。ただ、ずいぶん昔からありそうな店だという雰囲気は間違いなくある。今まで見つけられなかったのがどうにも不思議でならない。
なぜだろう、という気持ちはありつつも、暖簾の「卵料理」という言葉には強く惹かれた。お疲れ気味の胃に卵はもってこいだし、古くからあるお店なら味にも相応に期待が持てる。気取った風でもないから、立地はともかく親しみやすそうな感じがした。決めた、今日の夕飯はここで食べよう。僕は意を決して扉の取っ手を掴むと、おもむろに右へと引いた。
ガタピシと少し立てつけの悪い扉を開けて入ってみると、そこには。
「あらぁ、いらっしゃいませぇ」
「どうも――おや?」
中にいたのはハピナスが一人、それもかなりお歳を召した方のよう。戸を開けた僕に、少しばかり間延びした、けれど明瞭に聞き取れる声でもって挨拶をしてくれた。炊事場に立ってテキパキと皿洗いをしているのが見える。他の店員の姿は見当たらない、あのハピナスさん一人で切り盛りしているお店のようだ。店内は思った以上に年月を経ている様子が伺える、やっぱり随分昔からあったお店のようだ。少なくとも、僕が越してくる前からあったとしか思えない。
ポケモンが経営しているお店というのは、特にここトウキョシティのような都会ではごく普通にあるものだ。最初は物珍しいと思っていたものでも、幾度も見かけていればそれが日常になる。そういうものだ、僕は軽くそう考えて、一番奥のカウンター席へ腰を下ろした。すぐに水とおしぼりを出してくれる。寒風にかじかんだ手を熱いおしぼりで暖めると、それだけでひと心地ついた気分になった。
改めて中を見回してみる。僕以外のお客の姿は見当たらない、書き入れ時はとっくに過ぎているから当たり前か。年季が入っていて古びてはいるけれど清潔で、卓上調味料も丁寧に置かれている。壁には色褪せた旅行写真や、見事な水墨画の入った絵葉書、記念に残して行ったのだろう名刺やサインがいっぱいに飾られていた。見知った名前が無いか軽く眺めてみたものの、生憎それらしいものは見当たらない。
さて、何を食べようか。折れ目が残ってよれよれになったお品書きを手に取って広げてみる。
「卵焼き、出汁巻き卵、茹で卵サラダ、トマトの卵炒め、ほうれん草入りオムレツ、かに玉、卵と大根の醤油煮、卵どんぶりに卵チャーハン……」
一目して分かる通り、どの料理にも必ず卵が入っている。卵料理、と書かれた暖簾は伊達じゃないってことみたいだ。どれも字面を見ているだけでおいしそうだ、きっと何を頼んでも満足できる気がしてくる。となると、却って何を頼もうか迷う。小鉢をいくつかというのもアリだし、主菜とご飯というのもありだ(ご飯とかき玉汁を合わせて五十円で付けられるらしい!)、なんならどんぶりでもいいな。お品書きの中であれこれ目移りしていると、ひとつ強く僕の目を惹く献立を見つけた。
「オムライスのデミグラスソースがけ、かぁ」
メニューに写真は付いていないにも関わらず、どんな料理なのかがぱっとすぐイメージできた。鮮やかなケチャップライスにとろとろの卵が被せられて、その上からじっくり煮詰めたデミグラスソースが掛けられる。他でもない僕の大好物だ、何度食べても飽きることのない、僕の中でいつまでも「ごちそう」の王様として燦然と輝く存在。
他のメニューも気になるけど、今はこれが一番食べたい。決めよう、僕はお品書きを畳んで、カウンターの向こうでニコニコしながら立っているハピナスさんに声を掛けた。
「すみません。このオムライスのデミグラスソースがけください」
「はいはい、ありがとうございます。ちょいと待っててくださいねぇ」
ハピナスさんが準備を始めた。出てくるまで時間がかかるだろうから、ちょっと一服することにした。
思い浮かんだのはまず仕事のことだった。仕事そのものは僕に向いていると思うし、大した失敗もせずにここまでやって来れている。ただ、少しばかり仕事量が多くて、おちおち休みも取れないことは率直に言って辛い。辞めたいとまで思うわけではないにしろ、ゆっくり休みたいと思うことはしょっちゅうある。今日もこうして遅くまで仕事に追われていたわけで、疲弊している部分があるのは否定できない。
次に浮かんできたのは――母親の顔だった。一昨年に父を亡くして、今は独りで暮らしている。不定期に電話を掛けて無事を確かめてはいるものの、やっぱり顔を合わせて様子を見たいという気持ちは強い。機械には疎くて僕のしている仕事がどのようなものかはあまり分かっていないようだけれど、身を案じてくれているのは確かだ。年明けをともに迎えたい、その気持ちは確かにある。だけど仕事は抜けられそうにない、ジレンマは募るばかりだ。
母親のメールにどう返したものだろう、物思いに耽っていると、カウンターの前にどんと大きなお皿が置かれた。ふっと顔を上げてみると、調理を終えたばかりのハピナスさんが福々しい顔をして僕を見ていた。
「はぁい。オムライスのデミグラスソースがけ、おまちどおさま」
置かれた皿を見て――思わず僕は目をまん丸くした。
半熟のとろりとした卵、隙間から覗く橙色のケチャップライス、濃厚な色合いのデミグラスソース。何から何まで、一から十まで、母が作っていたものと瓜二つだ。そっくりそのままと言っても構わない、記憶の中にある料理そのものだった。何度も目を擦って確かめてみても、眼前にあるオムライスの様子は微塵も変わらない。僕はずいぶん久方ぶりに、自分の目を疑うということをせざるを得なかった。
誰が作っても同じような見てくれになるんじゃないか、一瞬そう考えかけて、この間入った洋食屋で頼んだ同じ品はまるっきり印象の違うものだったことを思い出す。味は悪くなかったけれど少し格式ばった味のするオムライスで、母親の作る賑やかな味付けのそれとは異なるものだった。今僕の、卵料理を出すという食堂の席に着いている僕の目の前にあるオムライスは、何度見直しても母が作ったものと同じにしか見えなかった。
スプーンを持つ手が少し震えた。中身はどうなっているだろうか、味まで同じものだろうか。大ぶりにすくって、ほんの少し躊躇う気持ちを抑え込んで、口へスプーンを滑り込ませた。
(同じだ。まったく同じ味がする)
見た目だけでは済まなかった。ケチャップライスに少し強めに効いた胡椒、ほんのり塩の味のする卵、玉葱を大きく切ってハヤシライス風にしたソース。かつて食べたオムライスのデミグラスソース掛けと少しも違わない味がして、僕は驚くやら旨いやらで、言葉がひとつも出てこなかった。
母がよく作ってくれたものと同じ味がする、これはそうそうあることじゃない。同じレシピや材料で料理を作っても、出来上がりは人によって大きく異なるのが当たり前だからだ。ましてや僕の母親とこのハピナスさんは、住んでいるところも違えば種族だって違う。こうも同じになるものなのか、僕は首をかしげながらも、口にしている料理は紛れもなく母の味で、夢中になって食べ進めた。
半分ほど食べたところで再び顔を上げてみると、ハピナスさんが相変わらず丸い顔で笑っていた。見ているとこっちも心が落ち着いてくる顔つきだ。誰かに見られていると食事に集中できない性質だけど、このハピナスさんからはそうしたものを感じない。ちらりと周りを見ると、やはり僕以外に来ている客はいない、誰かが来そうな気配も感じられない。軽く話すくらいなら迷惑にならないだろう、僕はまだほんのり温かいおしぼりで軽く口元を拭って、ハピナスさんに声を掛けた。
「おかみさん。この食堂、いつ頃からやってるんです」
「そうですねぇ、もう六十年は下らないかしらねぇ。昔は別の場所でもやっていたんですよ」
「六十年、ですか。それはまたずいぶんと長い間」
「えぇ、えぇ。おかげさまで、何とかやらせていただいております」
ハピナスさんはニコニコしながら、「これ、いかがです」とゆで卵の入ったサラダを出してくれた。「こちらのお代は要りませんから」そう言って薦めてくれるので、僕はお言葉に甘えてそれもいただくことにした。トマト、きゅうり、レタス、それからゆで卵が丸々ひとつ入ったサラダは、できたてのオムライスで熱くなった口の中をほどよく冷ましてくれて、これまたずいぶん旨いものだった。
どうしてサービスしてくれたんです、僕はハピナスさんにそう訊ねた。
「昔っからの性分で、来てくださった方にはみんなお腹いっぱいになってもらいたくって」
「はい」
「えぇ。私が店を始めた頃は皆さん食べる物に困って、いつもお腹を空かせてらしたものだから、不憫で不憫で」
「そうだったんですか」
「家で同じものを食べたいという人には、こしらえ方を教えたりもしていまして」
僕が生まれるよりも前、母が子供だった時分には、食うに困った人が多く出たと聞いたことがある。ハピナスさんがこの卵料理専門の食堂を始めたのは、まさにそんな時代の中だったんだな、僕は思いを馳せる。卵は栄養豊富で、手を加えればさまざまな料理になる。貧しかった頃にはご馳走だったに違いない。ハピナスさんはそんな卵をふんだんに使って、こうして食堂を営んでいるということみたいだ。
注文したオムライスも、サービスでもらったサラダも、空腹と寒さと疲れで弱り切っていた身体には甘露のように沁みた。どちらも綺麗に平らげて、僕は心身ともに充実したのを実感する。これで明日も働けそうだ、また面倒な障害報告や事後調査があると頭では分かっているのに大したこととは感じられず、なんだか面白いくらいにやる気が満ちてくる思いだった。ハピナスの卵は食べると幸せになれると言うけれど、どうも本当にそういう効力があるらしい。
「ごちそうさまでした」
「はぁい。ありがとうございました」
空にした食器とコップをカウンターへ上げて、代金を支払う準備をする。ハピナスさんは「四百八十円です」と教えてくれた。僕が満足できるくらいたっぷり分量があって、味もあの通り抜群なのだから、破格と言っていい値段だった。これでサラダまでおまけしてもらったわけで、僕は却って恐縮したくらいだ。それでもハピナスさんは僕の渡した千円札にきっちり五百二十円のお釣りを返して、額面通りのお金以外は決して受け取ろうとしなかった。
すっかり満足したところで店から出ようと、木造りの椅子をギイと引いて立ち上がった時のことだった。
「あのう、お若い人」
「ハピナスさん」
両手を合わせたハピナスさんが、僕に声を掛けてきて。
「私は長くこの食堂をやって来ましたけれども、寄る年波には敵いませんで」
「そうすると、ここを畳む日のことをぽつりぽつりと考えるようになりまして」
「今日ここにあると思ったものが、明日もそこに変わらずあるとは限らんのです」
「どうか、心残りが無いよう、毎日を幸せに生きてくださいねぇ」
そう言って、深々と一礼したのだった。
ハピナスさんに見送られながら店を出る。外は相変わらず冷たい風が吹き荒れていたけれど、懐かしい味のする温かいオムライスを食べたおかげだろうか、体の芯はポカポカしているように思われてならなかった。
十歩ほど歩いて表通りに出たところで、もう一度食堂の軒を見ておこうと考えた僕は、何の気なしに振り返った。
「あれ」
そこには「テナント募集」の札が貼られた空き家があるばかりで、食堂は影も形も見当たらない。踵を返して仔細を確かめてみる。中に入っていた店が撤退してからかなり時間が経っているようで、風雨に晒されて薄汚れたシャッターが固く下ろされている。辺りには打ち捨てられた空き缶や紙くずが散らかり、長い間手が入っていないことが簡単に見て取れた。
もちろん、あのハピナスさんの姿も見当たらなかった。
常識ではあり得ないことが目の前で起きたというのに、僕の心は不思議なくらい落ち着いていた。理由は分からないけれど、あのハピナスさんの食堂がこうして僕の目の前から消えてしまうことが、自然の理のように感じられてならなかった。僕があの店へ入って、オムライスを注文して、ハピナスさんと話をする。そこまですべて、俗に言う神様のような大きな存在に導かれて、僕に何かを伝えようとしたのだろう、そう僕には思えた。
(心残りが無いように、毎日を幸せに生きてほしい、か)
ハピナスさんの言葉が胸に沁みる。脳裏に浮かんだのは、地元で独り暮らす母の顔だった。今は元気でも、ちょっとしたことで倒れてもおかしくない歳だ。明日も健康でピンピンしているとは限らない、元気なうちに顔を見せておきたい。奥底で燻っていた気持ちが、はっきりと大きな火になるのを感じ取る。
母の作ってくれたオムライスの味を思い出す。きっと母もあのオムライスを食べて、おいしさに惚れ込んで作り方を聞いたのだろう。それを今も憶えていて、子供の僕にも振る舞ってくれた、そう思えてならなかった。あるいはハピナスさんも、もしかすると母の顔を憶えていて、顔立ちの似ていた僕を見て何か思う処があったのかも知れない。あの口ぶりは何か知っている風にも見えた。そうだとしたら、僕はハピナスさんに感謝しなきゃならない。忘れかけていたことを思いださせてくれたわけだから。
遠く離れた故郷に思いを馳せる。自分の帰りを独り待っている母の顔がしきりに浮かんで、懐かしさで胸がいっぱいになった。年越しは無理でも、年が明ければ少し時間ができるはず。そう伝えれば、母も喜んでくれるはずだ。もう何度会えるかも分からない、元気なうちに顔を合わせて、できる限りの親孝行をしたい。帰郷への渇望が、胸に満ちてくるのを感じるばかりだ。
「よし、帰ろう」
明日早速、会社に連続休暇の申請を出そう。僕はそう心に決めて、家路を急いだ。
今はもうここにいないハピナスさんに、迷っていた背中を押してもらった――そんな気持ちだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。