「……やっぱりそうだったのね」
「ああ。そうだよ」
俺は少し投げやり気味に答えた。ぐおお……さっきまでのあの緊張感はどこへっ。俺はてっきり香里が俺に愛の告白の一つでもしてくれるものだとばかり思っていたというのに、当の香里の口から出てきたのは名雪(秋子さん)のことだった。期待した俺がある意味バカだったのかも知れない。
「……で、いつ気付いた?」
「そうね……北川君に言われてから」
「……ああ、そう言えば、朝北川と話してたよな」
「ええ。ひょっとしたら今日の名雪、名雪じゃないかも、って言われて、それでピンと来たのよ」
「なるほどなぁ……最近のあいつ、ホントに勘が鋭いからな……」
北川の事だ。恐らく完全に気付いていたのだろう。昼休みにはちょっかいを出してきたが、それ以降は特に何かするわけでもなかった。他のヤツにばれるとまずいから、その辺は気を使ってくれたのだろう。それはいい。
「……でも、どうして黙ってたの?」
「……………………」
「知ってたでしょ? あたしと北川君が入れ替わってたこと」
「……はっ! 今更になって思い出した!」
「……しっかりしてよ。あたしたちなら、すぐに事情が飲み込めるだろうって、そこまで気が回らなかったの?」
「ああ、回らなかった」
「そこはきっぱり言うところじゃないわよ」
香里は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと視線を外した。
(そうだよな……香里と北川は『経験済み』なんだから、別に隠す必要はなかったよな……)
今更ながら、そう思った。名雪と秋子さんという近しい人間同士が入れ替わってしまったから、きっと冷静な判断が下せなくなっていたのだろう。あの秋子さんが本当にちょっとしたことで慌ててしまうぐらいだから、人格が入れ替わってしまうというのはやはり相当大変なことらしい。
(……俺の身に起きなきゃいいんだがな……)
もし俺が、朝起きると見ず知らずの他人になってしまっていたとしたら……考えるのも、ぞっとする。
「しかし、なんでこんな妙なことがこんなに立て続けに起きてるんだろうな……」
「そうね……それはあたしも気になってるところよ。きっと、何かきっかけがあるはずだから」
「それは俺も思う。が、その『きっかけ』が分からないんだよな……」
何か理由が無いと、入れ替わりが起きることはない。では、その理由は何か。今までに合計して五回、この街の中で入れ替え現象が起きている。真琴とみちる、北川と香里、聖先生と一弥、名雪と秋子さん、それに観鈴と晴子さん。お互いの関係も住んでいる場所も、性別や血液型もバラバラ。共通点は一切無い。
「うーむ……分からん……」
俺が首を捻って考えを巡らせていると、
「うぐぅ~っ! そこの人、どいて~~~~っ!!!」
……何故か聞こえてくるあの声。
「相沢君、誰か走ってくるわよ」
「ああ。香里、悪いけど、その場で立っててくれないか?」
「でも、『どいて』って……」
「いいんだ。天誅を食らわしてやらなきゃいけないからな」
「天誅……?」
訝しがる香里をよそに、俺はその場から直立不動のまま一切動かない。そして、心の中でゆっくりとカウントダウンをする。
(五、四、三、二、一……)
……そして。
(どすんっ)
背中に強い手ごたえあり。どうやら、標的が自分から網にかかりに来たようだ。俺はそのままゆっくりと振り向いて、恐らく鼻を赤くしながら涙目で顔をさすっているであろうそれの姿を見る。
「うぐぅ、ひどいよっ。どいてって言ったのにっ」
「……あゆ。お前、何やってんだ」
「あゆちゃん、どうしたの? そんなに急いで走って……」
「あれ? 香里お前、あゆのこと知ってたのか?」
「知ってるも何も、隣のクラスじゃない。知っててもおかしく無いでしょ」
「ああ、そう言えばそういう設定だったな」
「うぐぅっ! 祐一君っ、『設定』ってどういう意味だよっ」
「いやぁ、そこは気にしちゃいけないとこだぞあゆあゆ」
「ボクはあゆあゆじゃないよっ」
俺や香里より明らかに二回りほど低い背を、背伸びしたりジャンプしたりして懸命に高く見せようとしているあゆの姿に苦笑いを浮かべながらも、とりあえずそろそろマジメに話をすることにした。
「ところでお前、今日は紙袋持ってないんだな」
「そうね。いつも茶色い紙袋を抱えて走ってるのを見るから」
「えっと……そうだよっ! 今日はそうじゃなくて、本当に危ないんだよっ!」
「どういうことだ?」
「えっと……」
あゆがそう言いながら、後ろを振り返る。すると……
「……………………!」
あゆの表情がみるみるうちにこわばったものへと変わり、またそうかと思うと強い怯えの表情へと変わった。そして、体に小さな震えが起きはじめる。
……その視線の先には、一人の男の姿。
(……誰だ? あいつは……)
誰かは分からなかったが、あゆはそいつから逃げているのに間違いなかった。そう思っただけで、自然とその視線の先にいる男に不信感が募る。あゆを不安な気持ちにさせるぐらいだ。およそ好印象を持てるとは思えない。
「は、話は後からするから、い、今は一緒に逃げてよっ!」
服の袖を掴んで、俺を引っ張るあゆ。俺は香里に素早く目配せをして、こう言った。
「……香里、いいか?」
「……当然よ」
こんなに怯えているあゆを一人にしておくわけにはいかない。香里もその事をすぐに理解してくれたのか、短い言葉で返してくれた。物分りがいいというのは、こういうことを指すのだろう。
「行くぞ、あゆ! とりあえず前に向かって走れ!」
「う、うんっ!」
俺と香里とあゆは、追いかけてくる男から走って逃げ出した。
……それから俺たちは、商店街をひた走り続けた。
「……はぁっ、はぁっ……あゆ! まだ追ってきてるか?!」
「ま、まだ走ってきてるよっ! しかも、だんだん距離が詰まってるよっ!」
そう言うあゆの声は切迫している。事実、相手が近づきつつあるのだろう。状況は良いとは言えなかった。
「相沢君、このままじゃ埒が明かないわ。ここは分かれて……」
「それはダメだ。あいつの狙いはあゆ一人だからな。二手や三手に分かれた所で、あいつはあゆを追うだけだぞ」
「……そうね。それはよくないわ……」
香里が悔しげな表情を浮かべる。本来、香里はこんな騒動とは無関係のはずだった。それに巻き込んでしまったことに、俺も少なからず罪悪感を覚えていた。
「……美坂さん、ボクのせいで……」
それは、あゆも同じだった。一体どのようなやり取りがあったのかは定かではないにしろ、元々今走っている理由を作ってしまったのはあゆだった。俺はそんなことなどまったくどうでもいいが、あゆにとってそれはどうでもいいことなどでは無いのだろう。
「気にしなくていいのよ。あたしは自分の判断で走ってるから」
「うん。ありがとう美坂さ……あっ!」
「……あゆっ!」
香里に言葉をかけようとしたあゆが段差につまづき、
「わああああっ!」
そのまま地面へ転んでしまった。俺も香里も走るのをやめ、あゆの方へ駆け寄る。
「あゆっ! 大丈夫か?!」
「ボ、ボクは平気だから、二人は早く逃げてっ!」
「何言ってるのよ! 相手の狙いはあなたなのよ! あたしたちだけ逃げたって、何の意味も無いじゃないっ! あなたも行かなきゃっ!」
「う、うん……そ、そうだよね……ボクも行かなきゃ……」
あゆはそう言って、なんとか立ち上がろうとするが、
「あっ、いたたっ!」
立ち上がれず、そのまままた倒れこんでしまった。
「あゆ……お前、足をくじいたのか?!」
「そ、そうみたい……だよ……」
「くっ……!」
俺はすばやく視線を後ろに移す。するともうそこには、
(……あの野郎、もう来てやがる……!)
さっきから俺たちを付けまわしていたあの男が、もうはっきりと目で見えるところまで迫ってきていた。服装や背格好もよく見える。若い男のようだ。スーツを着ている。手に何かを持っている。いろいろな情報が、頭の中に伝わってきた。
「……相沢君、もう、あゆちゃんは走れるような状態じゃないわ」
「……分かってる。だったら、あいつがあゆを走って追いかけられないような状態にしてやりゃすむ話だ……!」
「祐一君……」
どんな理由があるかは知らないが、どうせろくな理由があるわけじゃないだろう。とにかく、今は何があってもあゆを守ってやらなきゃいけない。そう思った。
「……来るわよ」
「……覚悟はできてる」
俺はその姿を、しっかりと目に焼き付けた。
「……はぁ、はぁ……やっと追いついたよ……」
その男は、まず最初にそう言った。
「あんた、一体誰だ?」
「とりあえず、話してもらえないかしら?」
俺と香里はわざと敵意を込めた口調で、相手の男へ言い放った。これで少しでもあゆから気をそらしてくれれば、それで十分だった。
「……………………」
隣ではあゆが震えながら、俺たちと男のやり取りを見つめている。
「あゆ、大丈夫だ。すぐにカタを付ける」
「うぐぅ……ごめんなさい……」
あゆはすっかり涙目になってしまっている。ここまでに来る間にも、恐らく相当恐ろしい思いをしたのだろう。そう思うと、さらに怒りが増してくる。
「なああんた、どこの誰かは知らないが、こんなに小さな女の子を付回して、どういうつもりだ?」
「事と次第によっては、あなたを然るべき場所に突き出すこともできるのよ。それ、分かってる?」
「……………………」
男は黙ったまま、何も言おうとしない。いや、きっと言えないのだ。言えないような理由で、あゆを付回していたのだ。
「……一体どういうつもりなんだよ! あんた一体、どんな理由があってこんなことやってんだ!」
「何も言えないの? 言えないような理由でもあるわけ?」
俺も香里もとにかく攻撃的な言葉を選んで相手に投げつける。あゆから俺たちに対象が変われば、少なくともあゆの安全は確保される。その後のことは、じっくり考えればいい。
「……………………」
俺は再び、あゆの方を見やる。
「……祐一君……」
「……あゆ。すぐに終わる。お前が持ってて一番安心できるって言ってたあの人形を持って、そこでおとなしくしてるんだ」
「うん……ボクは大丈夫だよ……」
あゆはそう言って、ポケットの中を探り始めた……
……が。
「……あれ?」
「……どうした?」
「あれ? あれ……? どうして……? どうして……?!」
ポケットの中を無茶苦茶にかき回すあゆ。しかし、目的のものが出てくる気配は無い。
「どうして?! いつもポケットに入れてたのに……!」
「……お前ひょっとして、あの人形を……?!」
「どうして?! どうしてなくなっちゃったの?! ボクの大切なあの天使の――」
完全に取り乱したあゆが「天使の人形」と言いかけた……
まさに、その時だった。
「……その天使の人形っていうのは、これのことかな?」
目の前の男が、白い二対の翼を生やした、笑顔の天使の小さな人形を、ひょいと取り出した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。