「さっきは済まなかった。どうも気が立ってしまってな。ひょっとすると、これも佳乃の料理のせいかも知れない」
「一体どういう方法で作ったら、そんなえげつないことになってしまうんでしょうか……」
聖先生にお茶を出してもらい、ほっと一息つく。先生は完全に落ち着きを取り戻したようで、もうメスは持っていない。最初に投げたメスが壁に深々と突き刺さっているのだが、気にしてはいけない。というか壁にメスが刺さるのかとか、一体どんだけ強い力で投げてるのかとか、考えただけでも恐ろしい。
(……咄嗟に避けたからよかったものの、もし当たってたら……)
……もし、当たっていたとしたら……
………………
…………
……
どこまでも広がる赤い血だまり……終わりを知らない俺の出血……
「ゴールっ……!」
最後にはどうか……
……幸せな記憶を……
「あの床ー どこまでもー 赤かったー……」
「……急にどうしたのかね? 何か悪いものでも見えたのか?」
「いや、『もし』のことを考えてたんですよ」
やべぇ! もし当たってたらリアルで「ゴール」してたところだったんだよっ! ていうか「どこまでも広がる赤い血だまり」とか洒落になってないしっ! マジでやばいしっ!
「おお怖い怖い」
「さっきからどうしたんだ。何なら私が診察してやろうか?」
「い、いえ……結構です」
さっきはどうにか潜り抜けたものの(ある意味あゆに感謝だ)もし今度怒りを買おうものなら、今度は俺自身が十七分割されそうだったので、ここは余計な行動は慎むことにした。
それからしばらくして、不意に聖が話を切り出した。
「ところで相沢君、最近佳乃が何か外へ出掛けることが多くなったのだが、理由は知らないか?」
「……どういうことですか?」
「ふむ。いつもは学校が終わるとすぐに家に帰ってくるのだが、ここ最近帰りが遅くてな。佳乃と親しい君なら何か知っていると思ったのだが」
「いや……どうなんでしょう……」
確かに佳乃と親しいか親しくないかと聞かれれば、どちらかというと親しいとは思う。が、佳乃が何をしているかまでは、俺の知るところではない。
「そうか……あまり危なっかしいことに手を出していなければよいが……」
「……………………」
危なっかしいことをする佳乃……少し考えてみた。
………………
…………
……
「……あ、ありえん……」
ちっとも想像できなかった!
「多分、友達と遊んでるだけだと思いますよ。観鈴とか最近ずっと一緒ですし」
「ふむ……それならよいのだが……」
と、ちょうどその時だった。
(ガチャリ)
ドアの開く音が聞こえてきた。誰か患者が来たのだろう。
そして、第一声。
「聖先生ー、いらっしゃいますやでー?」
……何か間違った関西弁が俺の耳に飛び込んできた。俺の耳に飛び込んできたということは、とーぜん聖先生の耳にも否応無しに飛び込んでくるというわけでありまして。
「……先生、聖先生がいるそうです」
「ふむ。ヘンだな。私は今ここにいるのだが」
「とりあえず、玄関に行ってみてはどうでしょうか」
「そうしよう」
先生はすっと立ち上がり、そのまま玄関の方へ歩いていく。ちなみに、俺はまだ熱いお茶をずずずとすすらせてもらっている。あー、このお茶美味しい。秋子さんが淹れたみたいに本格的だ。
それから、ほんの少しの間を置いて、
「どうぞ、こちらへ」
「は、はいやでー」
「……………………」
妙なイントネーションの関西弁を使う、桃色の髪の長身の女性……ぶっちゃけ観鈴のお母さんの晴子さんなんだけど、とりあえず晴子さんが入ってきた。が、十中十十中身は晴子さん以外だろう。なぜなら、晴子さんの中身は現在大絶賛出張中だからだ。ちなみに、出張先は自分の娘さんである。
「あ、ゆう……じゃなかったやで。水瀬さんのお子さん、こんにちはやでー」
「よう観鈴。今日はいつもに比べて背が高いな」
「が、がお……すごくあっさりバレた……」
当たり前だ。あんなヘンなイントネーションの関西弁があるはずがない。大体語尾に「やでー」をつければ関西弁になるとかその時点で発想が何か間違っている。
「お前、何で晴子さんと入れ替わってんだ?」
「えっとね、朝起きたら、わたしお母さんになっちゃってたの。すごくびっくり」
「ほほう。神尾さん親子の間でも起きたのか」
「えっ?」
「実はな、昨日は私も入れ替わっていたのだよ。誰かは説明すると長くなるが、とにかく君の気持ちはすごくよく分かるぞ」
「が、がお……」
観鈴の仕草をする晴子さん。正直かなりミスマッチだ。とりあえず思うんだけど、この親子って顔がかなり違うよな。名雪と秋子さんとは大違いだ。もっとも、どっちも綺麗な顔してるから俺は別に困らないけどな。あはは。
「それで、今日はどうしてここへ?」
「えっと、聖先生なら、わたしとお母さんを元に戻してくれると思って」
「ふむ。誰かに紹介されたのか?」
「佳乃ちゃんがいつも『お姉ちゃんはどんなものだって治せるんだよぉ。前は車も直してたからねぇ』みたいなことを言ってたから、それで、聖先生ならきっとなんとかしてくれる、と思って」
なるほど。佳乃が観鈴に聖先生のことを自慢してたわけか……妹か。俺も妹が欲しかったなぁ。ある意味では名雪は妹に近いんだけど、何せ歳が近すぎるって言うか同い年だし、俺としては何かこう「十二歳」「童顔」「幼児体型」といったアイテムを完全装備した妹が欲しいわけで、そんでもって俺への呼び方が「おにいちゃん」とかだったらもう何も言うことはないぞ。「おにいちゃん」……「おにいちゃん」か……ははははは、いいなあ。「おにいちゃん」か……
「……『おにいちゃん』……アハハハハハ……」
「が、がお……祐一さん、なんかヘンなこと言ってる……」
「よーし祐菜(仮名)、今からおにいちゃんが色んな事を教えてやるぞー」
「……………………」
「手取り足取り体取り(?)教えてやるからなー。ほら、まずは両腕を上げてー。怖がらなくていいぞー」
「……神尾さん。少し下がっていてくれ」
「あ、はい……」
「……弔毘八仙、無情に服す!!」
次に目が覚めたときは、診療所の外へうつ伏せで放り出されていました。
「うぐぅ……俺の身に一体何があったんだ……」
妙に重たく感じる鞄と体を引きずりながら、とぼとぼと家路を行く俺。確か診療所で観鈴の心が入った晴子さんと出会って、それから話が佳乃のことになって、それから……
「……それから……」
………………
「ダメだ、思い出せねぇ……」
記憶はそこで、ぷっつりと途絶えてしまっていた。とにかく、診療所で何かよからぬことがあったのは間違いない。きっと聖先生が絡んでいるのだろう。
「そうね……何か、聖先生の怒るようなことを言っちゃったんじゃないかしら?」
「やっぱそうだよなぁ……先生が怒りそうなことって言ったら、やっぱり佳乃がらみのことだよなぁ」
「霧島さんの姉妹がうらやましいわ。私も栞ともっと仲良くなって対抗しなきゃ」
「ああ、そうだな。できれば栞に俺をおにいって香里!? お前、いつからここにいたんだ?!」
気がつくと、俺の隣を香里が歩いていた。まったく気付かなかったが、それは単に俺の注意力不足としか言いようが無いような気もする。
「ついさっきからよ。まったく、どうせ同じ事を聖先生に言ったんじゃないの?」
「なんか、俺もそんな気がする……」
「はぁ……まぁいいわ。それに、あたしと一緒になれば、その夢も叶えられるわよ?」
「………………………………いや、俺には名雪がいるし……」
「……後で名雪に『十五秒』って伝えとくわね」
「十分の一に縮めてくれよ」
名雪とは一味違う言葉遊びに興じながら、俺と香里が歩いてゆく。そう言えば、学校から香里と二人きりで帰るなんて、何気に初めてのことのような気もする。
(……意外かもな……)
普通にそう思った。
香里と二人、商店街を歩く。
不思議なものだ。名雪と一緒に歩いている時は、商店街はまるでにぎやかさを体現したかのような装いをしていると感じられるのに、香里と一緒に歩く商店街は、言葉にしづらいがどこか大人びた雰囲気を与えてくる。隣にいる人間が変わるだけで、こうまで変わってしまうものなのだろうか……
「……………………」
「……………………」
隣にいる香里は、何も言わずにただ前を見据えている。俺も自然と、口数が減る。
「……………………」
「……………………」
そうした沈黙が、しばらく続いた後だった。
それは、あまりに不意だった。
「……分かってたのよ。最初から」
「……?」
不意に香里が、真剣さを帯びた口調で切り出した。
「言おうか言うまいか、ずいぶん考えたわ。あたしらしくも無い事だから」
「香里……?」
香里は切々と、しかししっかりとした口調で続ける。
「相沢君なら、きっと分かってくれる……そう考えたの」
「……………………」
……さっきから思ってるんですが、これってもしかして……
「突然だから、最初は驚くと思うわ。でも、きっとすぐに受け入れてくれる。あたしはそう信じてるわ」
「香里、お前……」
もしかして……
「この際だから、はっきりと言うわ。はっきりしないのは、あたしの性分じゃないから」
「ああ……」
……いわゆる……
「しっかり聞いてよね。あんまり、繰り返し言いたいことでもないから」
「……ああ」
……告白ってやつですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?(YES! YES! YES!)
「……………………」
「……………………」
香里と俺の目が合う。お互いに緊張しているのが、手に取るように感じられる。体のどこもつながっていないのに、まるで感覚を共有したかのような感触。
そして……香里の口から発せられた言葉……
……それは。
「今日の名雪、秋子さんだったでしょ?」
予想通りのオチだった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。