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#39 パーマネント・ブルー

「もうすぐ秋だね。夏の残り香も、あと少しで消えちゃうのかな」

「涼しくなるのはいいけど、ちょっと寂しいよな」

「うん。榁の夏が大好きだからね、自分は」

すべての入道雲を見送った後みたいな、雲一つない空の下。おれと一海は並んで手をつないで、青浜の辺りをゆっくり歩いている。どっちがどっちを引っ張ってる・引っ張られてるとかじゃない。自分の脚でしっかり歩いて、互いのペースがピッタリ合ってるってだけ。潮風に抱かれて砂浜を歩くの、ホントに気持ちがいいな。ま、服が磯くさくなるから後でちゃんと洗わなきゃいけねえけど、今はそんなことどうだっていい。一海とふたり、同じ道を歩いてる。これだけでおれにはもう十分すぎる。

辺りに人影はない。ここにいるのは一海とおれだけ。元からおれたち以外にほとんど人が来ない場所だけど、改めて誰もいないことを確かめると、ふたりきりだってことを実感する。少し照れくさくなって、目線を海の方に泳がせる。優しく凪いだ海だ、小さな波が微かに揺れてるだけ。思うままに泳いで、自分の行きたいところへ行ける海だって思う。

あの日、あの出来事が起きたのと同じ海とはとても思えない。それくらいにただただ穏やかで。

「一海」

「透くん? 手、どうかした?」

「ごめん、痛かったかな」

「……ううん。確かめたかったんだよね。大丈夫。透くんがいるんだって分かって、うれしいよ」

一海と握った手に力がこもる。ここに一海がいることを確かめたかった、一海の存在を感じたかった。不器用なおれだけど、一海はその意味を全部汲み取ってくれた。一海の手はほのかに冷たい、けれど生きてるってことを実感できるゆるぎない熱を帯びてる。一海そのものだって思う。ふたりで手をつないでいっしょに歩いていきたい。あの日の願いが叶ったんだって、おれは感じずにはいられない

どれくらい歩いただろう。砂浜へ降りてきた階段が豆粒みたいに小さくなった頃、ふと一海が口を開いて。

「今まで、本当にたくさんのことがあったよ」

「悲しいことも、苦しいことも、数えきれないくらい」

立ち止まった一海に合わせて、おれも脚をスッと止める。

「水泳選手になるんだって夢があったけど、それも叶わなかった」

「血液検査で自分が『人間じゃない』って分かって、それで……」

「思ったんだ。海獣が人と競争するなんてできないんだ、って」

「こんなカラダで生きてる意味あるのかな。この先ずっと辛い思いをし続けるのかな」

「海に身を投げようとしたゆっちゃんも同じ気持ちだったのかも、助けたのは良くないことだったんじゃないかな」

「まだ小さかったのに、そんなことまで考えたの、よく覚えてるよ」

「悲しかったよ。すっごく悲しかった」

「自分の夢が叶わないのもあったし、それに」

「透くんから託された夢を実現できなかった。本当に辛かったよ」

風のうわさで聞いた「血液検査で失格になった子」がいるって話。あれは一海のことだった。事実を聞かされた一海がどんな気持ちだったかなんて、察するまでもない。おれの気持ちがバラバラに引き裂かれそうだ。自分の夢が叶わなかっただけじゃなくて、おれとの約束を守れなかったことを悔やんでる。もしその時おれが側にいたら、なんて声を掛けただろう。「でもおれの中ではお前が一番だ」、それくらいは言えた気がする。そう言えてたら一海は救われてたかな、傷付いた心を癒せてたのかな。過去は過ぎ去ったこと、悔やんでも悔やみきれない、だから「もしも」を考えずにはいられない。

「そんな自分を大切にしてくれたのがおじいちゃんだった。けど」

「前にも話したよね。おじいちゃん、あの豪雨で海に流されちゃったって」

「まだ雨が上がらないうちから、必死で海に潜っておじいちゃんを捜したのを今でも憶えてる」

「でも……おじいちゃんの姿はどこにもなかった」

「その時ね、初めて海を『怖い』と思ったんだ」

「今まではあって当たり前の存在、人間にとっての空気のようなものだって思ってたのに」

「初めて人として海を『怖い』ところだって思って」

「きっと、それがきっかけだったんだね」

「『おじいちゃん』って、ずっと静かだった自分の喉から声が出たのは、その時だった」

「声が出せる、人の言葉を話せる。声と言葉で自分の気持ちを伝えられるって思って」

「最初に浮かんだのは――透くんのこと」

「透くんと話がしたい、透くんにお礼を言いたい、透くんに『好き』って言いたい」

「声が出せるようになった今なら、その願いを叶えられる」

「この声は、海へ行ったおじいちゃんが遺してくれたもの。そう思うようになったよ」

一海が口をきけなかったのは知ってる。声が出せるようになってやっと人と話せるようになったことも。そうして願ったのが……おれと話をすること、おれに想いを伝えることだった。一海とおれが付き合うきっかけになったのは、おれがプールで練習してるときに一海が競争しに来てくれたから。一海は自分の言葉で「競争しよう」っておれに言ってくれた。一海がおれを好きになってくれた経緯を考えたら、どんな口説き文句よりも洒落てるよなって。

「透くんともう一度会えてからは、毎日がすごく楽しかった。世界があんなにキラキラして見えたの、初めてだった」

「ずっとこうだったらいいな、いつまでも続けば良いな。そう思ってた」

おれも思ってたよ、まったく同じように、何も違わない。

「でも、急にそれが終わっちゃって」

ああ。あれは――おれにとってもすごく急だったし、天地がひっくり返ったみたいだった。

「夏休みの少し前から熱が引かなくて、ずっと意識がもうろうとしてたんだ」

「それで……お腹が見たことないくらい膨らんでるのも分かって」

「自分のカラダに何が起きてるのか分からなくて、怖くて、死ぬんじゃないかって怯えて」

「鈴木さんのところにいたけど、あの日、誰かに呼ばれた気がして、気付いたら海にいて」

「その後のことは……何も言えない、身振り手振りもできないあんな風だったけど、全部憶えてるんだ」

「砂浜でひとりお腹を抱えて苦しんでたことも、来てくれた透くんが必死に助けてくれたことも」

「――自分が、タマゴを産んだことも」

そっとお腹をなでる一海を見ているといたたまれなくなって、おれは手をぎゅっと握りしめた。一海がどんな思いだったか――身ごもったのがタマゴだったこと、おれの前でタマゴを産んだこと、それに……そのタマゴが孵ることはなかったこと。どんな思いだったかなんて聞かなくたって分かる。どれかひとつでも耐えられないほどの痛みだ。おれが代わってやれたら、ずっとそのことばかり考えてた。気持ちが落ち込んで沈んでたとき、ずっと一海の代わりになりたいってことばかり考えてたから。

「博物館に戻ってからは、意識はあったけど身体は動かなくて」

「声も出なくて、自分が人間じゃなくなっていくのを感じてた」

「水槽の中で、海獣たちと泳ぐことしかできなかったよ」

「そうしているときだけ、自分は生きてるんだと思えて」

「カラダだけが無意識のうちに動く中で、ずっと考えてた」

「自分は水泳選手にはなれない」

「誰かのお母さんにもなれない」

「透くんの大切な人にもなれない」

「海へ還らなきゃいけないんだ、陸に自分の居場所はないんだ。その気持ちでいっぱいだったよ」

身も心も海獣そのものになりかけてたあの日、出海さんが一海を連れ出した。向かった先は青浜、眼前に広がるのは――終わりのない青い海。

「誘われるまま海へ飛び込んで、目の前全部が青くなった」

「このまま意識も青色に染まっていくのかな、そう思いかけたとき」

「透くんの声が、心の奥にまで届いたんだ」

「人であることをやめようとした自分を、透くんが助けてくれた」

「沈みかけてた自分を明るい場所まで引き上げてくれたのは、透くんなんだよ」

一海は――おれが自分を助けてくれた、そうハッキリ言ってくれた。おれはどちらかと言うと一海に助けてもらったと思ってる。海の底で落ちかけたのはおれで、引き上げてくれたのは一海だって。それだけじゃない。おれの父親が一海の両親を手に掛けたって事実を前にしても、一海は少しもおれを厭わずに「好きだ」って言ってくれた。おれにとって一海の言葉がどれだけ救いになったかなんて言うまでもない、生きる理由になったのを疑う余地なんてない。

その一海がおれの言葉で生きることを選んでくれたのなら、おれは何も言うことなんてない。成すべきことを成せたんだ、ただその気持ちをかみしめる。

「ずっとずっと、この海が好き」

「自分が生まれた場所だから」

「透くんと結ばれた場所だから」

「この海を見ながら、透くんと同じ場所で生きていきたい。あの時からずっとそう願ってた」

眼前に広がるパーマネント・ブルー。一海が水平線の向こうを見つめながら呟く。

「おれが生まれながら全身に『刺青』を入れられた、罪人の子供でも」

「自分が生まれつき体中に『青い血』が巡っている、海獣の子供でも」

「一海は、おれを照らす『光』で」

「透くんは、自分の『光』だから」

隣に立つ一海の瞳はまばゆく煌めいている。それはおれを捉えているから。だとすると、きっとおれの瞳も負けないくらい瞬いているに違いない。

「おれにも一海にも、今までたくさんの困難があった」

「これからも大変なこと、いっぱいあると思ってる」

「だけど、だからこそ」

「おれは一海といっしょにいたい。同じ道を歩いて行きたい」

ふたりで見つめるパーマネント・ブルー。そこにもう憂いや悲しみは見つからない。

ずっとずっと続く、終わりのない青い海。それは共に「青」を背負って生きていくおれと一海そのもので、雲ひとつない「青」のような晴れ晴れとした未来を予感させて。

「行こう、一海」

「行くよ、透くん」

おれと一海は、手を取り合ってふたりで歩いて行く。

 

――パーマネント・ブルー。果てしない青の、その先を目指して。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。