――年の瀬も押し迫った、ある日のことだった。
「へぇー。あの向日葵の絵、大賞を取ったんだ」
「そうそう。入魂の一作だって、市長さんもべた褒めだったわよ」
「あの変わり者の市長さんに褒められたってことは、相当だったみたいね」
僕は行き交う人々の様子を眺めながら、この町を包み込む肌寒さを感じていた。ここの冬は特段寒い。僕の前を行く人々も、皆揃って厚着をしている。かく言う僕も、警備服の上からコートを羽織っている格好だ。これでもまだ寒いくらいなのだから、今年の冬は例年に輪を掛けて冷えるのだろう。
「こんにちはっ」
「やあ、こんにちは。どこへ行くのかな?」
「えっと、近くのスーパーまでだよっ。今日が最終日だから、遅れないようにしなきゃ」
「そうかい。今日は寒いから、風邪を引かないようにね」
「うんっ! ばいばーいっ!」
小走りに掛けていく女の子を見送り、僕はほう、とため息を吐く。吐き出された真っ白な息は、外の冷気に晒されて瞬く間にその姿を消した。もう少し暖房が強くてもいいんじゃないか、とも思うけれども、これはこれで悪くない。冬は、寒いからこそ冬なのだと思う。
「しかし、今年の冬は冷えるね」
「そうだよね。日和田は毎年冬になるとびっくりするくらい寒くなるけど、今年は特に寒いと思うよ」
「確かになぁ……灯油の値段も上がってるし、暮らしにくい世の中になったよ」
「早く春が来て、暖かくなればいいのにね」
世間話をしながら、僕の前を通り過ぎていく学生二人。その姿を見送りつつ、僕は今自分の置かれている状況に思いを馳せてみる。
(日和田の警備員、か……)
静都府・日和田市。今僕が警備員として働いている地であると共に、僕の故郷でもある。静都府の最南端に位置するこの地は、隣接する桔梗市と小金市から幾分離れた場所にある。穏やかな気風と豊かな自然が持ち味で、ここに住処を構える人も多い。僕もその中の一人だ。
「警備員さん、こんにちは」
「こんにちは。これからお出かけかい?」
「はい。寒くなってきましたから、森にいるカビゴンさんに毛布を持っていってあげるんです」
「それはいいことだね。カビゴンもきっと喜んでくれるよ」
「はいっ。警備員さんもお仕事、頑張ってくださいね」
毛布を抱えた女の子を見送り、僕は少し顔をほころばせる。ポケモンのために毛布を持っていってあげるなんて、今時珍しい優しい子だ。警備員をしていると、こうして色々な人の色々な表情が見えてくるから、そういう意味では退屈することはない。
「あぁ、寒ぃ寒ぃ。守衛さん、ここはもうちいとばかり暖かくならんかね」
「すみませんね。規則で、これ以上温度を上げちゃいけないって言われてるんです」
「それならしゃぁねぇな。さっさと家へ帰るとするべ」
毎日ここで警備をしていると、段々とこの町に住んでいる人の顔や特徴を憶えてくる。今僕と言葉を交わしてここを通り過ぎていったのは、南西部に済んでいる山家さんだ。小さい頃はよく小言を言われたものだけど、その小言が大人になってみると無性に懐かしく感じるから、不思議なものだ。
「はるかさん、すみませんね。重いものばかり持たせてしまって……」
「いえいえー。これが私のお仕事ですから、へっちゃらですよ〜」
「本当に頼りになりますよ。うちへ帰ったらお茶を淹れますから、一緒にいただきましょうね」
「はい。あっ、それも私がやりますから、奥様はお気になさらないでくださいな」
のどかな風景の中に身を置いていると、身も心も本当に落ち着いてくる。あの日々、あの時間が、まるで嘘のようにさえ思えてくる。いや、実際に嘘だったのかもしれない。僕は本当はこの町にいて、これといって中身のない退屈な日々を過ごしていただけなのかもしれない。
「浩一君、もうすぐこっちに戻ってこられるみたいね。よかったじゃない」
「うん。本当によかったよ……いろいろあったけど、これでまたやり直せるよ」
「十年も待ったんだからねー。瑞雪ったら、ホントに一途なんだからっ」
「わっ、ちょっとちょっと慶子ちゃん、叩いちゃだめだよ〜」
楽しそうに話をしながら歩いていく人たち。そして、僕はその風景の中に溶け込んでいる。なんと気持ちのよいことだろう。こうしていると、僕が僕であることを実感できる。僕が日和田の住人で、この町の風景の一部を形作っていることを感じられる。ああ、なんと素晴らしいことか。
「みっちゃん、今日もずいぶん借りたね」
「うん。でも、直樹君もたくさん借りてたじゃない。鞄、いっぱいになっちゃってるよ」
「そりゃそうさ。僕はまだまだ読み始めたばかりだから、早くみっちゃんに追いつきたいんだ」
「私もそんなに大したことないよ。だから直樹君に負けないように、私もたくさん読まなきゃ」
図書館帰りの学生が二人、僕の前を通り過ぎていく。あの二人はこうして二人で図書館に出向いて、毎回たくさんの本を借りて帰っていく。今時珍しい、勉強熱心な子達だ。僕の学生時代といったら遊んでばかりで、勉強なんてろくにしたこともなかった。それを思えば、僕は彼らの勤勉さを見習うべきだろう。
「大変です。師匠が走る季節になってしまいました。奥瑠も走らないといけません」
「あらあら、くーちゃんは走らなくてもいいのよ。それに、転んで怪我をしたりしちゃいけないから、ゆっくり歩いていきましょうね」
「それは正論です。怪我はとても怖いです。奥瑠は歩いていこうと思います」
「そうそう、そうしましょう。それじゃあくーちゃん、家に帰ったら、一緒にケーキを食べましょうね」
「もちろんです。ケーキは幸せの象徴です。奥瑠の大好物です」
今年ももう終わりだ。色々なことがあった一年だけど、来年からはまた新しい気持ちで生きていきたい。切実に、僕はそう思う。訳の分からないことや理解しがたいことが起きない、のどかで穏やかな一年であってほしい。今年の出来事を振り返ると、この願いは本当に心からのものだ。
「真希ちゃん、風邪引いちゃったの?」
「そうらしいな。あいつらしくないぜ、風邪引いて寝込むなんてよ」
「う〜ん……でも、風邪は万病の元だってお母さんに言われたから、今日は休んでた方がいいと思う。司君だって、そう思うでしょ?」
「んー……みかにそう言われると、なんか反論できないな。確かにそうなんだけど……」
「えへへっ。あっ、そうだ司君。今日も特訓したいんだけど、いいかな?」
「ああ、構わないぞ。いつも通り全力で行くから、そっちも全力で来いよ」
「うんっ! 今日は絶対負けないよっ!」
新しい年に向けて、みんな活動を始めているようだ。僕も何か新しいことをはじめたいけれど、生憎それだけの時間が確保できそうに無い。今年のごたごたを早く忘れるためにも、何か新しいことをしてみたいけれど……はてさて、何から始めたらよいものやら。
「愛子さんっ。今日は寒いですから、夜はお鍋にしましょうっ」
「それがいいわね。みんなで突付けるし、あったまるし、渚はまっ平らだし」
「たははっ。そうですねって違いますっ。最後のは関係ないですっ」
「まーまー細かいことは気にしない気にしない。細かいことを気にしてたら、はげちゃうわよ?」
「むー。渚っちはなまはげじゃありませんっ。ごく普通の女の子ですっ」
普通の女の子。そんな言葉を口にしながら前を通り過ぎていく女の子に、僕は心から共感した。そう。何事も普通が一番だ。変わったことなんて何も必要ない。ただ、普通でありさえすればいい。僕も常々「普通」でいられるよう、日頃から心がけている。
「さっきの女の子、スケッチブック抱えてどこに走っていったんだろうね?」
「さぁな……鈴菜は知らないのか?」
「ううん。知らない子だよ。でも、なんだか下級生っぽかったね」
「下級生というか……なんか中学生みたいなやつだったぞ」
「そうだよね……あっ、それより淳君。初詣、一緒に行く?」
「もちろんだ。秀樹やすみれも一緒なんだろ?」
「うん。いつものメンバーは全員揃うよ。あかりと満君も来るし、燈弥君と正孝君も来られるって。もちろん、椿と大樹君も一緒だよ」
「ん? 佳奈子はどうしたんだ……って、そういえばあいつ、巫女さんやるんだっけか」
「そうそう。今からどんな風になるか、楽しみだよねっ」
「そうだな。同級生の巫女さん姿なんて、滅多に見られたものじゃないからな」
もう来年の話をしている人もいる。今年も終わりなのだ。それを実感し、僕は静かに息を吐く。そう、今年ももう終わりなのだ。いろいろあったような気もするけど、そんな一年ももうすぐ終わる。また、新しい一年を迎えられるのだ。
「敦子ちゃん。敦子ちゃんは、もう年越しの話はした?」
「ばっちりや。友達の家行く言うてあるから、誰も疑わんはずや」
「それなら安心ね。遥ちゃんは?」
「私も大丈夫だよ。お母さん、ああ見えて結構自由にさせてくれるから」
「全員準備が整った訳ね。それなら、早速必要なものを集めましょ」
「せやな。とりあえず、必要なもの書きだしてみよか」
僕もそろそろ年越しの準備をしなきゃいけない。来年を気持ちよく迎えられるように、今からきちんと準備をしておくべきだろう。今年一年のことをきれいに洗い流して、まっさらな気持ちで新年を迎えたい。帰りに、しめ縄でも買って帰ることにしよう。
「警備員さん、こんちゃっすっ」
「こんにちは。出かけるのかい?」
「そういうことっ。今からお姉ちゃんを迎えに行って、家で二十四時間耐久対戦会をおっぱじめるのよっ」
「対戦もいいけど、喧嘩だけはしないようにね」
行き交う人を見送りながら、時折言葉を交わす。その中で、短いやりとりが生じることもある。
(やっぱり、僕にはこういう仕事が向いている)
最近、つくづくそう思う。生まれ育った地で、顔見知りの人たちを見守りながら、平穏に日々を過ごす。これこそが、僕にふさわしい生き方なのだ。心の安寧を感じ、僕はほっと胸をなで下ろす。もう、何かに脅える必要などないのだ。
そう思いながら、僕は警備を続ける。こんな穏やかで素晴らしい日々が、いつまでも続くことを願いつつ。
「それにしても、嘆かわしい話じゃないか、まったく」
「そうですね。先生の仰るとおりです」
「君もわかってくれるかね。さすが私の助手だ。この私が見込んだだけのことはある」
「そうですね。先生の仰るとおりです」
「まったく、このような世知辛い世の中で、君のような優秀な人材に巡り会えたことをありがたく思うよ。それにつけても、私の目もまだまだ鈍ってはいないな。君のような人材を見つけられたわけだからな」
「そうですね。先生の仰るとおりです」
近くの診療所を経営している、ちょっと変わった先生とその助手が通りがかった。僕も一度お世話になったことがあるけど、あの先生はいつもあんな調子だ。腕は確かなのだけど、何かこう、言っていることに違和感を感じるというか……
「それにつけても、嘆かわしい話だ。アンノーンが数を減らしているとはな」
「そうですね。先生の仰るとおりです」
「何が理由かは分からないが、どうせろくでもない理由に違いない。この前の患者のような、アンノーンをレコードだの鍵だのと見間違えるような輩の仕業だろう」
「そうですね。先生の仰るとおりです」
二人の会話を聞きながら、僕はその会話の中で登場した、ある単語について思いを馳せた。
アンノーン。
文字のようなフォルムを持つポケモンの一種で、アルファベットの「A」から「Z」までの形状が確認されている。近年になり、クエスチョンマーク「?」と、エクスクラメーションマーク「!」の二種の存在が新たに確認されたらしい。
(……アンノーン、か……)
僕の前を通り過ぎていくお医者さんと助手の姿を眺めながら、心の中でぽつりとつぶやいた。
(……そういえば、そんなポケモンもいたな)
あえてそれ以上深くつっこんで考えようとはせず、僕はそこで思考を打ち切った。それとほぼ時を同じくして、二人の姿も遠くの人混みの中へ消えていった。
そうしている間にも、僕の前を通り過ぎていく人の姿はいっこうに絶えることがない。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、どうにか間に合いそうね」
「はい。ずっと隣で一緒にいましたから、早く元気になってほしいです」
「そうねー。それでも、彼方君よりかは短いと思うけどー」
「え、えと……ずっとお待たせしてしまって、ごめんなさい……」
「あはは。冗談冗談。今こうして彼方君と一緒にいられるだけで、あたしは十分幸せだから」
「し、幸せだなんて……僕、恭子ちゃんに何もしてあげられていませんし、それに……」
「そういうのじゃないのよ。ま、彼方君はまだちっこいから分からないと思うけどねー」
「うぬぬ……恭子ちゃんっ、それは言わない約束ですっ。僕だって怒りますっ」
「なはは。冗句冗句。これからあたしが時間をかけてゆっくり教えてあげるから、せいぜい覚悟しておきなさいねー」
「き、恭子ちゃん……な、なんだか、ちょっと手つきが怪しいです……」
不思議な二人組だ。女の子の方は高校生、男の子の方は小学生だろうか。姉弟というわけでもなさそうだし、どういう関係なのだろう? 日和田にはこんな不思議な取り合わせとしか言いようのない人の組み合わせがあったりするから、なかなか面白いものだ。
「まーそれは置いといて……陽介君だっけ? その、『あべこべ』な病気になってるのは」
「はい。小さい頃から『昼は起きていられなくて、夜に眠れなくなる』っていう、変わった病気にかかってるんです」
「そりゃまた災難ね……それで、彼方君が入院してるときは、ずっと眠ってたわけ?」
「はい。僕、あまり夜遅くまで起きていられませんでしたから、結局一度も話せなかったんです」
「んー……なるほどね……病院側にしても、無理矢理起こすわけにはいかないだろうし……」
……病院。その言葉を聞いて、僕は一瞬、ほんの一瞬、体がぴくりと震えたのを感じた。それはほんの一瞬のことだったけれども、間違いなく僕の体は震えた。それは覆しようのない、明確な事実だった。
何を恐れることがある。病院に誰かが入院しているというだけの話じゃないか。目の前にいる彼らは、単にその誰かをお見舞いしにいくだけなんだ。何を恐れているんだ。何を怖がっているんだ。さあ、自分を取り戻せ。冷静な自分に立ち返れ。
「でも、可哀想な病気だと思います。友達が誰もいなくて、ずっとひとりぼっちでいるんですから……」
「……そうね。彼方君なら、その気持ち、よく分かるでしょ」
「……はい。それはもう、痛いくらいに……」
「……………………」
「……だから僕、決めたんです。陽介君が目を覚ましたとき、僕が最初の友達になろう、って」
「……………………」
「恭子ちゃんが僕を救ってくれたみたいに、僕も陽介君を……助けてあげたいです」
「……よし。それなら、あたしはお友達二号さんになっちゃおうかしらね。彼方君だけに任せといたら、トリップしちゃったとき不安だしねっ」
「むー……僕、そんなにやたらめったらトリップする訳じゃありませんっ。多くて一日五回ですっ」
「や、それ十分多いから。世間一般ではやたらめったらの領域に入ってるから」
楽しげに言葉を交わしながら去っていく二人を、僕は静かに見送った。一瞬波打った心は、もう落ち着きを取り戻していた。
そう、怖がる必要などないのだ。僕は日和田にいて、こうして平穏な日々を過ごしているのだから。
「それにしても歩美ちゃん、本当にたい焼きが好きなのね……」
「うんっ。ボクの一番の大好物だよっ」
「でも、そこまで好きになれるのって、なんだか羨ましいな。僕、そこまですごく好きになれるもの、まだ見つかってないから……」
「守ったら、訳の分からないことで悩む癖止めなさいよ。守にはコラすけがいるんだから、コラすけのことを大切にしたげればいいじゃない」
「そうだよ。守君とコラすけ、すっごく仲良さそうだもんっ。ボクの方が羨ましいよっ」
「そ、そうかな……」
「うんっ。少なくとも、千尋ちゃんとけーちゃんよりは息が合ってるように見えるよっ」
「あ〜ゆ〜み〜?!」
「う、うぐっ?! ち、違うよっ! そういう意味じゃないよっ! ほ、ほら、よくけーちゃんテレポートとかに失敗しちゃってるから、それで……」
「……歩美。後で校舎の裏に来てくれない? 当然、丸腰で♪」
「ご、ごめんなさいっ! ち、千尋ちゃんとけーちゃんは一番、一番仲がいいと思うよっ! ホントにホントだよっ! う、嘘なんかじゃないよっ!」
「ね、姉ちゃん……」
「……冗談よ。けーちゃんがよく失敗するのはホントのことだし、今更否定はしないわ」
「ち、千尋ちゃん……」
「ま、見てなさいっ。そのうち目ん玉飛び出るくらいすっごいコンビネーションを編み出す予定だから、楽しみにしてることねっ!」
「う、うぐ……」
「あくまでも予定なんだね、姉ちゃん……」
平穏な光景。穏やかな風景。今僕が身を置いている場所は、間違いなく心安らぐ場所なのだ。目の前の光景をじっくりと眺めてみて、改めてそう実感する。
僕の瞳が子供たちの姿を映し出していた、まさにその時だった。
「警備のおっさんっ! 傷薬、傷薬ねーかっ?!」
不意に声をかけられた、僕はすばやく声のした方向に体を向け、その様子を確認する。
「君は……確か、曽我部さんところの……」
「準だ! それで、こいつは……」
「手島です。えと……まい、手島まいです」
目を向けた方向にいたのは、「準」君と「まい」ちゃんという、二人組の小学生だった。どちらもよく顔を見るから、大まかな素性は知っている。しかし、それにしてもそんなに慌てて、一体どうしたというのだろうか。とりあえず、二人の話を聞いてみないと。
「そんなに慌てて、一体どうしたんだい? 何かあったのかい?」
「ああ! さっき姥目の森で、まいがナゾノクサに襲われて怪我しちまったんだ! 傷薬と絆創膏、持ってないか?」
そう言われて僕は初めて、準君がまいちゃんに肩を貸してあげていて、まいちゃんの足から少し血が流れていることに気づいた。傷は深くないように見えたけれど、放っておくと悪くなるのは間違いない。とりあえず、応急処置をしてあげないと。
「そういうことだったんだね。分かった。今奥に行って持ってくるから、そこで待ってて」
短く言い残し、僕は奥にある警備室へ向かった。
「どうもすいません……いたたたっ……」
「まい、大丈夫か? よし。向こうにベンチがあるから、そこに座るぞ」
「うん……準君、ごめんね……」
「気にすんなって。悪いのは急に飛び出してきたナゾノクサの方だ。あの野郎、今度出会ったら只じゃ済まさねぇ!!」
「準君、乱暴はダメだよ。ナゾノクサだって、わざとやったんじゃないんだから……」
「でも、お前がこうして怪我して……」
「それはそうだけど、でも、やっぱり向こうだってわざとじゃないから……わたしが急に飛び出したりしたから、きっとナゾノクサも驚いちゃったんだと思うの。だから、その……」
「……分かった。お前がそう言うなら、俺はその通りにする。お前が嫌がることは、もうしないって決めたからな」
「準君……ありがとう。ホントにありがとう……」
いつの間にやら、この二人はこんなに仲がよくなっていたらしい。僕が見かけたときは、準君はまいちゃんに悪戯ばかりしていたというのに……やっぱり、あの年頃の子というのはなかなか素直になれないものなんだろう。けれども一度素直になってしまえば、あんなにも仲良くなれるのだ。ちょっとばかり、羨ましい。
「さてさて、傷薬に絆創膏は……」
警備室へと引っ込み、薬箱を収めている引き出しを引く。僕は薬箱の蓋を開け、中を――
(……?!)
――一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ気がした。見えてはいけないものが見え、見えなければいけないものが見えなくなってしまった気がした――
<三箱あったものが、二箱に減って――>
――違う。そうじゃない。僕が見えなきゃいけないものは――
<マイナートランキライザーの、「メイラックス」――>
――違う。それじゃない。間違っている。間違っている。それじゃない、それじゃない。見えなきゃいけないのは絆創膏と傷薬で、そんなものは見えちゃいけない。違う、違うんだ、僕の目に映るべきは絆創膏と傷薬で、鎮静――
………………
…………
……
「……な、なんだ……今のは……」
……ふと我に返って目の前を見てみると、僕の前にはただ、風邪薬や絆創膏が詰められた、シンプルな薬箱があるだけだった。一瞬目の前に現れたような薬剤は、影も形も見あたらない。あるのはただ、どこにでもあるような薬箱だった。
「……疲れてるんだな。今日は早く寝ないと……」
僕は頭を振って落ち着きを取り戻し、薬箱から絆創膏と傷薬を取り出した。さあ、準君とまいちゃんが待っている。急いで戻らないと。
「ごめんごめん。待たせちゃったね」
「待ってたぜ! よしまい、ちょっと痛いけど、我慢しろよ」
「うん。準君、ごめんね」
「まい、おまえの悪いくせだぞ。何も悪くないのに謝ることなんかないさ。俺はやりたくてやってるんだからな」
「二人とも、仲がいいね。羨ましいよ」
「えっ? え、えっと……」
僕が横から言うと、まいちゃんは恥ずかしそうに顔を俯かせた。その様子を、準君は不思議そうな面持ちで見つめている。どうやらこの辺りの繊細さは、まいちゃんの方が準君より一歩進んでいるようだ。なんだか微笑ましい。
「どうだ? 痛むか?」
「まだちょっと……でも、もう大丈夫。一人でも歩けそうだよ」
「よし、それなら大丈夫だな」
「うん……あっ、でも……」
「……どうした?」
まいちゃんはちらちらと準君に目線をやりながら、ほんのり顔を赤らめさせて、こんな言葉を口にした。
「……痛くないけど、でも……一緒に……一緒に歩きたいな、って……」
「……ああ。まいがそうしたいなら、俺は全然構わないぜ。よし、じゃあ、手をつないで行くか」
「……うん!」
二人は嬉しそうに手を取り合い、来たときよりも幾分ゆっくりとこの場を後にした。僕はなんだかこそばゆい気持ちになりながらも、そんな二人の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
(いいもんだ。やっぱり僕は、こういうのどかな風景の中にいるのが合ってる)
あの二人はおそらく初恋同士なのだろう。初恋は実らないとよく言われるけれど、二人はそんなジンクスを跳ね返して、立派に互いの思いを実らせてほしい。そういえば、僕にも初恋の人がいたっけ……結局、彼女は別の人と結ばれてしまったわけだけれども、今となってはいい思い出だ。
まいちゃんと準君の件も一段落つき、僕は片づけもかねて少し休んでから、また持ち場へと戻った。
「……まだ復活しないのかなぁ、あのサイト……」
「Work the Dialも立鱗も、これからってところで閉鎖しちまったからなぁ……」
「一応バックアップは取ってあるが……新作が読みたいよな」
「まったくだ。せめて、一時的にでもいいから復活してくれりゃぁな……」
再び落ち着きを取り戻し、僕は仕事である警備を再開する。とはいっても、警戒するようなことなど何もない。こうしてただ街角にたって様子を見ているだけでよいのだから、本当に楽な仕事だと思う。何かあればすぐに駆けつけなきゃいけないのは間違いないけど、何もないならこうして立っているだけで構わない。いいことだ。実にいいことだ。
こうして、僕が警備ともいえない警備をしていたときのことだった。
「ねえ七海ちゃん。この前テレビに出てたチャンピオン、見た?」
「見たよ! すごいよね〜。わたし、びっくりしちゃった。一海ちゃんは?」
「私もびっくり! だってあの子、私たちと同い年の、女の子なんでしょ?!」
「そうそう! びっくりだよね〜……わたしもあの子みたいに、すっごく強くなれたらいいのに……」
不意に、そんな会話が耳に飛び込んできた。小学校高学年くらいの女の子二人の、何てことない会話だ。
そう、なんてことのない、どこでだって聞くことのできるような、ありふれた会話だ。
ありふれた、会話、だ。
――そう、ありふれた会話なんだ。どこでだって聞くことのできるような、ごくごくありふれた会話なんだ。何を意識することがある。何を気に留めることがある。聞き流せ、聞き流せばいいんだ――
<小学校高学年くらいの――>
――何をしようとしている? 何を考えている。何を思っている。お前は何も考える必要はない。思う必要もない。思考を止めろ。思考を止めるんだ。これ以上何かを考えても、何もいいことなどないぞ――
<女の子の――>
――まだわからないのか。考えるのを止めろといっている。簡単な話だろう。思考を止めればいいんだ。止めろ。今すぐに。ぼやぼやしていると、簡単なことさえできなくなるぞ。さあ、今すぐに――
<――チャンピオン――>
――やめろ。いい加減にしろ。ここから先に何が待っているか、わからないお前じゃないはずだ。やめろ。やめろ。止めろと言っている。止めろと言っている。止めろと言っている!――
「……っ?! はぁ……はぁ……」
……まただ。また、僕は何か別のことを考えていたらしい。ここ数秒間の記憶がない。いつもよりも鼓動のリズムが速い。額には脂汗。なんて様だ。こんなに寒いというのに汗をかくなんて、僕はどうかしている。ポケットからハンカチを取り出し、やや乱暴に拭き取った。
(……どうしたっていうんだ。いったい僕は、何をしようとしていたというんだ……)
湿ったハンカチをポケットにしまいこみながら、僕は一人自問自答した。つまらないことでいちいち時間を取っていては、ここから身が持たない。交代まではまだ幾分時間がある。きちんと仕事をするためにも、くだらないことは考えないようにしなければ……
「そうだ七海ちゃん。初詣、一緒に行かない?」
「うん、いいよ。他にも一緒に行く子はいるかな?」
「藤崎さんも一緒だよ。七海ちゃんは?」
「わたしは……えっと、宮部君と、かな……」
「宮部君だね。いいよ! みんなでお参りして、その後一緒に遊ぼっ!」
「うんっ! それがいいね!」
僕の隣を、少女たちはすり抜けていく。どうにか平静を取り戻しながら、僕は通り過ぎていった二人の少女の特徴を思い出してみる。七海ちゃんは町の北東部に住んでいるおとなしい子で、普段は家にいると聞いた。対する一海ちゃんもおとなしい子だけれど、南東部に住んでいて、よく海に潜って遊んでいるらしい。なんでも、一度も呼吸せずに六分間は楽に潜っていられるそうだ。
(……それだけの能力があるんだから、チャンピオンなんかに興味を持たずに、海にもっと興味を持ってくれればいいのに……)
口に出して言うこともなく、僕は一人静かにつぶやいた。
(それにしても、不思議な女の子だ。そんなに長い間水に潜っていられるなんて……ひょっとして、人魚か何かじゃないのかな)
一海ちゃんのことだ。地元の漁師さんでも、そんなに長く潜っていられる人は一人としていない。つくづく不思議な女の子だ。こんな人がたくさんいるから日和田に住むのは面白いと、僕はしみじみと思う。
しばらく一海ちゃんのことを考えていた、ちょうどその時だった。
「うぬぬ〜。最近はさむさむさんだねぇ。真理恵ちゃんは、風邪とか引いちゃったりしてないかなぁ?」
「にゅふふー。真理恵は世に言う健康優良児というやつだからなっ! 風邪なんか引いたこともないぞよ!」
「それはすごいねぇ。まなりんはよく風邪を引いちゃうから、おねえちゃんに気をつけなさいって言われてるんだぁ」
「にょほほ。風邪を引かないようにするには、みかんを食べて食べて食べまくるがいいぞよ。おばあちゃんが言ってたことだから、じぇったい正しいぞよ!」
また変わった女の子が二人、僕の前を通り過ぎていく。そしてその二人のことも、僕はよく知っていた。
「んにー。でもでもっ、今年は特に寒いぞー! 夏が恋しくて恋しくて仕方ないぞー!」
こうして元気よく叫んでいるのは、花本さんのところの「真理恵」ちゃんだ。普段から少し変わった口調で話していて、友達がとても多い。表裏のない、やさしい子だ。
「うんうん。まなりんも同じだよぉ。早くあったかくなってほしいよねぇ」
対するもう一人の子は、霧崎さんのところの「愛美」ちゃんだ。この子は普通の子よりも幾分間延びした口調で、いつでもおっとりマイペースだ。同じくマイペースな真理恵ちゃんとは気が合うようで、よく一緒にいるのを見かける。
「うー。寒いのは苦手だーっ! 早く夏になれーっ! 海で泳がせろーっ! スイカ食わせろーっ! 花火持ってこーい!」
「花火は楽しいよねぇ。今度一緒にやろうねぇ」
花火か。そういえば今年の夏は、ここ日和田で毎年行われている「時祭り」に参加できなかったんだったな。あのお祭りは大きな花火をいくつも打ち上げるから、毎年それを見るのを楽しみにしていたのに……よし、来年こそは参加しよう。打ち上げ花火ほど、夏らしさを実感させてくれるイベントは無い。
「あーっ! まなりん、この前すっごく怖いものを見たのを思い出しちゃったよぉ」
「にょへ? 怖いもの? ずいぶんと気になることを言ってくりでぃわないかっ! よしよしまなみん、この真理恵が耳たぶダンボにして全力で聞いてやるから、遠慮なく言うがよいぞ」
「えっとねぇ、この前、神社におまいりに行ったんだけどぉ……」
「うむうむ。まなみんは神社にレッツゴー陰陽師したわけだにゃ。それでそれで?」
「それでねぇ、そこでねぇ、『見た』んだよぉ」
「ヤミカラスがねぇ、コラッタの死体に群がってたところをねぇ」
「……!!」
……何度目だ。何度目なんだ。この、違和感の塊のような感覚は――
「にょわー!! そ、そりはとても恐ろしいぞよ……真理恵、今晩一人で眠れないぞよ〜……」
「まなりんもすっごく怖かったよぉ。ぬいぐるみさん、いっぱい抱いて寝たよぉ」
「うむうむ。ヤミカラスは恐ろしいぞよ。この前もゴミ捨て場に集まってるのを見て、ケケと一緒にとっちめてやったぞよ」
――ゴミ捨て場、ゴミ捨て場――
――ゴミ捨て場、ゴミ捨て場――
<ゴミのように集められて――>
――違う。彼らはゴミなんかじゃない。ちゃんとした命を持った、一つの――
<青いポリ袋に入れられて――>
――違う。そんなはずはない。彼らがそんな風に扱われることなんて、絶対に――
<一箇所に集められて――>
――やめろ! 僕は見ていない。そんな光景、見てはいない! 記憶に無い! どこにも無い!!――
「うんうん。ゴミ捨て場にもたくさんいるよねぇ」
「んに。おばあちゃんに聞いてみたんだけど、ヤミカラスは食い物のあるところだったらどこにでも出張大サービスするらしいぞよ。本当にろくでもないやつだぞよ!」
最後に聞いたとき、愛美ちゃんと真理恵ちゃんはそんなことを話していた。僕はというと……
「はぁ……はぁ……はぁ……」
……先ほどとは比べ物にならないほどたくさんの汗をかいて、完全に息を切らしていた。ハンカチで汗をぬぐいながら、僕は未だに落ち着かない気持ちを必死に整理していた。なんだって今日に限って、こんなにも嫌な気持ちになることが多いんだ……まったく、まったく理解できやしない。
(今日は早く帰ろう。交代が来たら、すぐに帰ろう)
自分に言い聞かせ、どうにか落ち着きを取り戻す。再びハンカチをしまうと、僕は持ち場に戻った。
「……………………」
それから、少しした後のことだった。
「北川さん! 今日も勉強、がんばってきたよ!」
「おっ、さすがだな。芽美ちゃんの頑張りを見てたら、俺も負けてられないよ」
「えへへ……あたし、勉強大好きだもん! いくらでもがんばっちゃうよ!」
少し前にここを通りがかった二人組と同じくらい風変わりな組み合わせの二人組が、楽しげに話をしながら僕の前を通っていく。
「いい心がけだぞ。芽美ちゃんならきっと、宇宙飛行士にだってなれるさ」
男の人のほうは、僕と同い年かそれより一つ年下くらいの、「北川」さんだ。情報処理技術者を目指して、目下勉強中の身らしい。僕も以前パソコンのトラブルを診てもらったことがあるけど、まるで魔法のような手さばきであっという間に問題を解決してしまった。世の中にはすごい人がいるものだと、しきりに感心した記憶がある。
「うん! 絶対になるって決めたから! 私の夢だもん!」
一方の女の子の方は、中学生くらいの「羽山」さんという名前の子だ。羽山さんは日和田でも有名な超秀才で、中学生の身でありながら、すでに大学レベルの物理や数学を勉強している真っ最中らしい。なんでも、宇宙飛行士を目指していると聞いた。ずいぶんと壮大な夢だけど、羽山さんの姿を見ていると、それにも十分手が届きそうに思える。
「芽美ちゃんは、図書館の帰りだな」
「うん! 北川さんは?」
「ああ。せっかくの休みだからな」
「ちょっと、墓参りに行こうと思って」
墓。墓参り。墓地。墓所。墓碑……
「お墓参り?」
「ああ。小さいころに可愛がってくれた、婆ちゃんの墓だ」
「ふぅーん……向こうにあるの?」
「ああ。姥目の森を少し入ったところにある、小さな墓地にいるんだ」
……墓標。
「……ねえ、北川さん」
「ん? どうしたんだ? 芽美ちゃん」
「そのおばあちゃんって、北川さんのこと、大切にしてくれたんだよね?」
「ああ。ずいぶん可愛がってもらったぞ。今でも忘れられない、大切な人だ」
「……今でも忘れられない、大切な人なんだよね……」
墓標、墓標、墓標、墓標、墓標……
「お父さんもね、あたしのこと、すっごく大切にしてくれたんだよ」
「……………………」
「だからね、あたしお父さんのこと、今でも忘れられないの」
「……………………」
「だからね、あたし……いつか……」
「……………………」
「……お父さんを探しに行って、必ず見つけたいの。私を大切にしてくれたお父さんの事……絶対、絶対に見つけ出したいの!」
「芽美ちゃん……」
墓標、墓標、墓標、墓標、墓標……
「……絶対に見つかるさ。なんたって、芽美ちゃんのお父さんなんだからな」
「うん! あたしのお父さんだもん! 絶対に見つかるわ!」
「ああ。俺も信じてるぞ。芽美ちゃんの夢は、きっと叶うさ」
「もちろんよ! あたし、絶対にあきらめないもんっ!」
墓標、墓標、墓標、墓標、墓標……
「……………………」
……僕が呆然としている間に、北川さんと羽山さんはどんどん遠ざかっていく。二人の楽しげな声がやけに大きく響いて、僕の脳裏に濃厚な形を持って残留する。
「ん? おい羽丘! あいつ、羽山じゃないか?」
「えっ? どこ? どこにいるの?」
「向こうだ向こう! 追いかけるぞ!」
「えっ?! あっ、ちょっと、待ってよ翔君っ! 追いかけてどうするのさっ!?」
「決まってるだろ! お前の告白を手伝ってやるんだよ!」
「えぇっ?! ち、ちょっと、待ってよ翔君っ!」
……それが落ち着いたころにはもう、僕の周囲に人はいなくなっていた。僕は落ち着かない気持ちを落ち着かせ、どうにか仕事に復帰する。
「……………………」
そんな状態で仕事を続けていた時のことだった。
「やっほー警備員さんっ! 今日もお仕事乙でありますっ!」
「ありがとう、近藤さん。今日は高遠君は一緒じゃないのかな?」
「いますよ、ここに」
姿を見せたのは、日和田にある「新開高等学校」という高校に通う、少年と少女だった。当然、僕と顔見知りでもある。
「あのなぁ希、いくら顔見知りの警備員さんだからって、失礼だぞ」
「ん? そかな? だってほら、毎日顔合わせてるしっ。望もそうでしょ?」
「それはそうだけどな……」
「気にしなくてもいいよ。気軽に話しかけてくれたほうが、僕もうれしいしね」
「はぁ……どうもすみません」
男の子の方は「望」君という名前だ。落ち着いた性格の子で、いつでも真面目に話をしてくれる。一方……
「まーまー硬いことは言いっこなしっ! 望ももっとしゃきっとしゃきっとぉ!」
こちらは女の子の「希」ちゃん。望君とはとにかく対照的な性格で、いつでも元気でパワフルな姿を見せてくれている。望君はいつも希ちゃんに引っ張られている格好だけれども、望君の方もなんだかんだで楽しそうだ。
「お前が元気すぎるんだよ、大体……」
「えー?! 元気なほうがいーじゃんっ! 望が元気無さ過ぎるだけだよっ!」
「俺はいたって普通だぞ。お前が元気すぎるんだ」
「もー! 望ったら強情なんだから! そんなに強情だと、世の中の流れについてけなくなるぞー?」
「あのなぁ……」
一事が万事こんな調子だから、望君もいろいろと大変だ。見ている僕からすると、とても楽しそうなんだけど、ね。
「あっ! それより望っ! この前分からなかった英単語、思い出したよっ!」
「英単語? ああ、動物乱獲問題のやつだな。どれだ?」
「えっとぉ……あ、あったあった! これよこれこれ!」
「……Genocide? これか? お前が分からない分からないって言ってたのは……」
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が、僕の体を駆け巡った。
「そーそー! でもね、大体予想は付いてるんだよっ! Genから始まってるから、遺伝子関連の単語っ! 絶対にこれだよっ!」
「違う違う。全然関係ないぞ」
「えぇぇえぇーっ?! じゃあこれ、どういう意味?」
「虐……殺……」
……無意識のうち、僕はその言葉をつぶやいていた。
「ほえ? 虐殺? ねえ望、虐殺ってさ、Holocaustじゃなかったっけ?」
「それも合ってるが、Genocideも『虐殺』だぞ。後で辞書を引いてみろ」
「ひゃー……おっかないたんごだねっ。やっぱり遺伝子関連の単語ってことにしようよっ!」
「あのなぁ……俺やお前がそうしたからって、言葉の意味の定義が変わるわけじゃないから、意味なんか無いぞ」
「ちぇー。望ったらホントに頭固いんだからっ。そんなに頭固くしてたら、頭でダイアモンドが割れちゃうぞー」
「割れないから、割れないから」
二人の茶化しあうような会話も、僕の耳には一向に届かない。
「あっ! もうこんな時間っ! 望っ、スイセン屋行こっ! ほら、早く早くっ!」
「あ、ああ……それじゃ警備員さん、また……」
希ちゃんに引っ張られて人ごみへ消えていく望君の姿を見ながら、僕はただ呆然とするばかりだった。まとまらない考えが無数に押し寄せてきて、僕の心はどうにもならない混乱状態の只中に晒された。
<――虐殺。虐殺だ。あれは、虐殺というほか無い光景だ――>
やめろ。これ以上、思い出させようとするな。思い出そうとするな。思い出させるな。思い出すな。思い出すな思い出すな思い出すな!
<――無数の死骸が転がって、真っ赤な血が飛び散って――>
見ていない。そんな光景、見てなどいない! 作り物だ! 妄想だ! 妄想ごときが僕に何の用だ! やめろ! 見ていないといったら、見ていないんだ!
<――虐殺だ>
やめろ
<――虐殺だ、虐殺だ>
やめろ やめろ
<――虐殺だ、虐殺だ、虐殺だ>
やめろ やめろ やめろ
<――虐殺だ、虐殺だ、虐殺だ、虐殺だ>
やめろ やめろ やめろ やめろ
<――虐殺だ、虐殺だ、虐殺だ、虐殺だ 虐――>
やめろやめろやめろやめろやめろ!!!
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
背筋を駆け抜けるおぞましいほどの寒気と乱れきった鼓動で生じた冷たい汗とが、外界を包み込む冷気と共に、僕の体を急速に冷やしてくる。すっかり冷たくなった体を一旦机に預け、しばし呼吸が落ち着くのを待つ。
「はぁ……はぁ……あぁぁ……」
けれども、それはなかなか落ち着かなかった。僕の中に一瞬姿を見せたあの悪夢のような光景は、時間が経った今でも僕の脳裏に焼きついて離れようとしない。全身を悪寒が貫き、震えが止まらない。体を引きずるように動かすのがやっとで、まともに立つ事さえ困難だった。
(落ち着け……落ち着け……落ち着くんだ……)
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その繰り返しでもって、僕はようやく落ち着きを取り戻すことができた。今日は本当に早く帰った方がいい。早く帰って休まないと、僕はどうにかなってしまう。早く、早く時間が過ぎてくれ。僕はただ、それだけを願った。
「はぁ……ふぅ……」
どうにか呼吸を整え、僕が再び持ち場へ戻る。
「……ふぅ」
すると、ちょうどその時だった。
「なあ椿、今日のプログラミングの課題、分かったか?」
「うん。大体だけど、どうすればいいかは分かったよ。大樹はどう?」
「俺もそんな感じかな。結局、配列を確保してデータを格納、それからそれを表示させればいいんだろ?」
「そうだね。それじゃあ、一緒に整理してみよっか」
僕の目の前を、一組の男女が通り過ぎていく。話している内容に耳を傾けていると、どうやらプログラミング言語の課題についての話をしているようだ。確か……この二人は高校生で、それぞれ「椿」ちゃんと「大樹」君という名前だったはずだ。よく一緒にいるから、この二人の顔はよく憶えている。
「まず最初に、データを格納するための構造体があるんだよね」
「そうだな。構造体のサイズは48バイトで固定されてて、それが変化することは無い」
「うん。それから、配列全体の大きさは65535バイト」
「ああ。教科書の仮想言語の仕様上は、それ以上のサイズの配列は確保できない」
「そうだよね。でも、システムの制限の関係で、実際には63002バイトしか使えないんだよ」
「妙な制限だよな。まあ、教科書の問題だから仕方ないか。それで、確かまず最初にシステム用に大域変数を確保するんだが……このサイズ、25600バイトで合ってたか?」
「合ってるよっ。それで……63002-25600として、残るのは37402バイトかな」
「残りはデータ格納用に丸々使えるから……データ領域確保の要求ごとに、構造体のサイズである48バイトを毎回確保していけば……」
「(63002-25600)/48 だから……」
「……およそ、780個の配列が確保できることになるね」
通り過ぎていく二人の背中が、一瞬、ぐにゃりと歪んだ気がした。
(……!! ……!! ……!!)
視界がぐらつく。
「だな。後はこれをソースコードに落とし込むだけか」
「うん。せっかくだから、一緒にやろうよ。鈴菜や満君のクラスも同じ課題が出てたはずだから、みんなでやっちゃおっか」
「それがいいな。じゃ、後であいつらにメールしとくか」
「うんっ」
二人の声が、遠くなっていく。
(63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780 (63002-25600)/48≒780
780 780 780 780 780 780
<(63002-25600)/48≒780>
――違う 違う 違う――
<(63002-25600)/48≒780>
――違う 違う 違う――
<(63002-25600)/48≒780>
――違う 違う 違う――
<(63002-25600)/48≒780>
――ちがう ちがう ちがう――
<(63002-25600)/48≒780>
――ちがう ちがう ちがう――
<(63002-25600)/48≒780>
――チガウ チガウ チガウ――
――僕は何も見ていない メモなんて見ていない――
――僕は何も見ていない 計算式なんて見ていない――
――僕は何も見ていない 僕は何も見ていない――
――僕は何も見ていない 僕は あんな光景なんて――
「僕は見ていない! 見ていないんだ!!」
……意識を取り戻した時、僕はそんな言葉を絶叫していた。我に返り、周囲を見回す。幸い誰にも見られていなかったようだけれども、僕の心臓は早鐘を打っていた。鼓動がはっきりと聞こえ、胸がずきずきと痛む。苦しい。苦しい。苦しい。
「はぁっ……はぁっ……」
ダメだ。今日はもう帰るべきだ。これ以上ここにいたら、僕はいつか死んでしまう。今日は何か間違いの多い日なんだ。こんなことが続くなんて、有り得ない。有り得ない。僕はもうここにいたくない。一刻も早く、家に帰りたい。
「済まないね英二君。君にばかり荷物を持たせてしまって……」
「いえいえ。これが僕の仕事ですから。それに、榎本博士が怪我をするようなことがあったら、この村の一大事ですし」
「はっはっは! 私はその程度のことで怪我をするような柔な体は持っておらんよ」
ふと、そんな会話が耳に飛び込んできた。会話の内容から察するに、何か荷物を運んでいるのだろう。そう考え、僕は視線を向けてみる。
すると……
(……!!!!!)
「あ、ああ……あああ……!」
「ん? ああ、警備員さん。寒い中お疲れ様です。どうかしましたか?」
「え、榎本……博士……」
僕は目の前の光景に気を失いそうになりながら、絞り出すような声で言った。自分の声が聞こえない。自分でも何を言っているのか、まともに理解できない。
「私か? ふむ、どうしたのかね?」
「そ、それは……その……と、隣の方が……持って……いるのは……」
「これですか? ゴミ袋です。先ほど姥目の森のゴミ拾いをしてきたので」
助手の英二君が持っていたのは……青い、青いポリ袋だった。よく目を凝らして見てみると、中には確かにゴミが詰まっている。そう、詰まっているのはゴミだ。ゴミ以外の何者でもない。ゴミが詰まっているだけなのだ。
<中に――>
「ご、ゴミ拾いを……ですか……」
「うむ。この町で研究活動をさせてもらっている身だ。少しでも町に恩を返さねば、と思ってな」
「それで、僕もお手伝いさせていただいたんです。町の北西部の方は、黒松教授と助手の木之本さん、それに一樹君がやってくれています」
<中に、黒い塊が――>
「元々は一樹と椿に言われて始めたことなんだがな。まだまだ、手の届かない部分が多くてな」
「けれども博士、昨日は椿ちゃんと一緒にゴミ拾いをしてらしたじゃないですか。この町が綺麗になるのも、時間の問題ですよ」
「いや、そう見通しは甘くない。何事も継続的に続けていかなければ、本来の効果は発揮しないものだ。椿や一樹も続けたいと言ってくれているし、私もずっと続けるつもりでいる」
<中に、黒い塊が詰め込まれていて、そこから、赤い液体が染み出して――>
「さすがですね……それなら、僕もお手伝いさせてもらいます!」
「頼もしいな。君のような若い者が研究室にいると、皆のモチベーションが上がって大変ありがたい。黒松も最近暇と時間をもてあましていたようだからな。君が良い刺激となってくれるに違いない。期待しているよ」
「はい。その期待に応えられるよう、全力を尽くします!」
<中に、黒い塊が詰め込まれていて、そこから、赤い液体が染み出していて、それを、一箇所に集めて――>
「おっと、もうこんな時間か。一樹たちも帰ってくる頃だろう。我々も引き上げるとしよう」
「はい。寒いですし、帰ったら何か温かい物でも飲みましょう」
「それもいいが、今日集まったのは紙ごみの類ばかりだ。研究所の周りの落ち葉も集めて――」
「焚き火でもしようじゃないか」
<中に、黒い塊が詰め込まれていて、そこから、赤い液体が染み出していて、それを、一箇所に集めて――>
<火をつけて、焼いてしまう>
「それはいいですね! それなら、帰りにさつまいもでも買っていきましょう」
「ほほう。さすがに気が利くな。私も同じことを考えておった頃だ。そうするとしよう」
僕は真っ白になった頭をふらふらさせながら、二人の会話を右から左へ流し続けるばかりだった。
「もうすぐ椿も帰ってくる。今日は大樹君も一緒だったはずだから、少々多めに買って帰るとしよう」
「そうですね。きっと喜んでくれるはずです」
「うむ。さて、それが済んだら、真更で待っている友人にファイルシステムの仕様書を送らねばならん。悪いが、後で手伝ってくれ」
「了解です……あっ、すみません、博士」
「どうした?」
「さつまいもを買うついでに、渚ちゃんから頼まれてた大根と春菊を買っていってもいいですか?」
「はっはっは。それくらい好きにしたまえ。今日は鍋物かね?」
「ええ。この寒さですし、夜は鍋物に限ります」
「ああ、同感だ。梢に頼んで、私も鍋物にしてもらおうか」
朦朧とする意識の中で、彼らは楽しげに会話をしながら去っていく。
(やめろ、やめてくれ。もうこれ以上、僕に『あのこと』を思い出させないでくれ……!)
そう、僕は強く念じる。強く、強く強く、強く強く強く……!
……なのに。
……なのに……
「はぁっ……はぁっ……ま、待ってよ猛君……」
「なんだ弥。だらしないぞ! こんくらいで根を上げてたら、冬のマラソン大会でビリになっちまうぞ」
そんな僕の前に、二人の少年が現れる……
「そんな事言ったって、ぼくもう走れないよ……」
「体力が無い証拠だな。よし! じゃあ、これから走りこみを始めるぞ!」
僕は歯をカタカタと震わせながら、それでも二人の会話に耳を傾ける……
「えぇっ?! それって、何かおかしくない?!」
「どこがおかしいんだよ。大体、お前は……」
……そして……
……そして。
「『努力』が足りないんだ。お前は『努力』が足りないんだ」
「努力なんて言葉をっ、軽々しく口にするんじゃないっ!!」
「えっ?!」
「ん?」
僕は考えるよりも先に、そんな言葉を口走っていた。いや、本当に僕が言ったのだろうか。それさえも知覚できない。僕の声がしていた、僕の喉が震えていた。それらの客観的な事実が、先の言葉を僕が吐いたものだと認識させてくれた。
「そんな言葉は……そんな言葉はっ……!」
「け、警備員さん……? どうかしたの? ぼく達、何か悪いこと言ったりした?」
「大丈夫か? お前、顔真っ青だぞ」
「そ……そんな言葉は、君たちが言うべき言葉じゃない……君たちが、知るべき言葉じゃないんだ……」
何を言っているのかさえ判然としない。意識が遠のき始める。視界が暗くなる。視野が狭まる。どうしようもない絶望感の中で、僕はそれでも、もがき、あがき続けていた。暗い海から抜け出そうと、必死に戦い続けていた。
「よく分からねーが……そうだな。確かに根性論一本槍じゃ駄目だって、父ちゃんも言ってたな」
「うん。僕もそう思うよ」
「そうだな……よし弥、ここからは歩いていくか。結構走ったし、今日はもういいだろ」
「助かったよ……でも、ぼくも体力つけないといけないから、ちゃんとまた走るよ」
「いい心がけだぞ。じゃ、帰ったら母ちゃんにココア作ってもらって、一緒に飲もうぜ」
「うん。猛君、ありがとう」
「気にすんなって。母ちゃん、お前が来ると妙に嬉しそうにするからな。遠慮するなよ」
「うん。それじゃ警備員さん、さようなら」
「じゃあな! 仕事のし過ぎで倒れたりするんじゃねーぞ!」
ほとんど機能を失った僕の体は、二人を見送ることさえできなかった。ただ立ち尽くしたまま、遠くへ歩いていく二人の姿を見つめ続けるだけだった。そこには何の感情も無い……いや、色々なことが浮かびすぎて、僕の心の処理限界をとっくに超えてオーバーフローしている。もう、どうしようもない。
(駄目だ……駄目だ……駄目だ……)
去来する絶望の感情。ありありと浮かぶ凄惨な光景。けれどもそれを完全に思い出すことは、最後の最後で踏みとどまっている。それを完全に思い出してしまったとき、僕はどうなってしまうのだろう? 想像できない。想像したくも無い。想像してはいけない!
想像しては……いけないのだ……
「『進化』について、考えたことはおありかね?」
「……?」
……呆然と立ち尽くす僕の前に、見慣れぬ人影が姿を現した。
「あなたは……?」
「失礼。私は関東にある大学の客員教授だ。専攻は携帯獣電送学でね。この町には、榎本博士の紹介で来させていただいた」
その人物はこの寒さだと言うのに白衣だけを着て、他に上からは何も羽織っていない。それだというのに、寒そうにしている様子は一向に無い。僕は訳が分からないながらも、この人物から話を聞くことにした。
「さて……同じ質問の繰り返しになってしまうが、君は『進化』について考えたことはおありかね?」
「……進化……?」
「そう。携帯獣……いや、携帯獣に限らず、生物すべてが保持している、『次への可能性』だよ」
「次への可能性?」
気がつくと、僕は教授と名乗る人物の目を、じっと見つめる形になっていた。
「そう。次に繋がる、可能性だ」
「生物は進化し続けてきた」
「環境に適応し、敵に対抗し、そしてより優れた種へと派生する」
「そしてそれまで培ってきた能力もまた、次の種へと継承される」
「進化した種は、進化前の種の特徴<プロパティ>と振る舞い<メソッド>をそのまま取り込む」
「進化することにより、彼らは新たなプロパティとメソッドを獲得する」
「新たなプロパティとメソッドの獲得こそ、進化の真髄とも言い換えられよう」
「人間は進化の果てに生まれた動物である」
「様々なプロパティとメソッドを獲得し、生存競争を勝ち抜いてきた」
「人間は進化の果てに生まれた、勝者なのだ」
「人間には他の生物には無い、たくさんのプロパティとメソッドがある」
「こうして会話をすることも、人間だけが持つ特権的なメソッドだ」
「高度な意思交換を実現するこのメソッドは、人間だけの特権だ」
「文字を書くこと。それも人間の特権的なメソッドだ」
「紙に文章を書くことで、その内容を長期にわたって保存し続けることができる」
「人間は『知識の保存』という、他の生物には不可能な技術を持っているのだ」
「そう、文字。文字は大変貴重な存在だ」
「知識・記憶・感情・情報・疑問・理論・会話・意見」
「様々なものを、形として残しておくことができる」
「文字は人間に与えられた、最高の道具だ」
「あらゆる物事を形にし、そして保存することができる」
「他の生物には成し得ない、超生物的な行為だ」
「話が逸れてしまったが、もう一度、進化についてお話をしておきたい」
「進化とはプロパティとメソッドの獲得である……とは、先ほど述べたとおりだ」
「そして進化の果てに行きついた先にいたのが、人間という生物だ」
「しかし、人間が本当に進化の終わりにいるのか」
「人間が本当に、進化のヒエラルキーの頂点にいるのか」
「君は、疑問に思ったことは無いかね?」
「……どういう、お話ですか」
僕は掠れ震える声で、そう教授に問うた。
「申し訳ない。性分でね、どうしても話が長くなってしまう。もう少し単刀直入に、本題に入るとしよう」
教授は同じ調子のまま、再び話し始める。
「唐突だが……」
「君は、『ビリリダマ』が汎用型携帯獣捕獲装置『モンスターボール』の製造開始時期とほぼ時を同じくして発見されたことを」
「ご存知かね?」
「これが何を意味しているのか」
「ビリリダマの発見時期とモンスターボールの製造開始時期とが重なっていることから、何を読み取るのか」
「そこに、何の関連があるのか……考えたことはおありかね?」
「継承という概念がある」
「上位の要素からプロパティとメソッドを引き継ぎ、新たな要素を作成することを指す」
「オブジェクト指向においては、必須の考え方だ」
「派生という概念がある」
「複数のクラスからプロパティとメソッドを引き継ぎ、新たな要素を作成することを指す」
「オブジェクト指向においては、必須の考え方だ」
「さて、ビリリダマの話に立ち返ろう」
「ビリリダマはモンスターボールの製造開始と共に発見され、現在に至っている」
「その容貌は、モンスターボールと瓜二つだ」
「そこで」
「そこでだ」
「こう考えることはできないだろうか?」
「『ビリリダマは「モンスターボール」クラスと「携帯獣」クラスを継承した、新しい「携帯獣」の派生クラス』であると」
「より噛み砕いて言うのなら」
「より単刀直入に言うのなら」
「より分かり易く言うのなら」
「ビリリダマは、モンスターボールのプロパティとメソッドを取り込んだ……『進化』の先にいる携帯獣なのではないか、と」
「同じように考えてみるといい」
「ペルシアンは猫の先に」
「ストライクは蟷螂の先に」
「ゴルダックは家鴨の先に」
「コラッタは鼠の先に」
「ピジョンは鳩の先に」
「ダグトリオは土竜の先に」
「アズマオウは金魚の先に」
「ケンタロスは雄牛の先に」
「アーボックは毒蛇の先に」
「ビリリダマはモンスターボールの先に」
「コイルは磁石の先に」
「ベトベトンはヘドロの先に」
「あらゆる生物」
「あらゆる物体」
「それを、携帯獣が『置き換え』つつある」
「かような状況下に置かれたこの世界で」
「そのような運用がされ始めているこの実行環境(ランタイム・エンヴァイロメント)で」
「何故」
「人間だけが、例外と言えるのか」
「そこに確固たる理由は存在しない」
「人間は進化の頂点にいるが、それはまた、進化の系譜に名を連ねているということでもある」
「即ち、元を辿れば他の生物と同じ状況に置かれているのだ」
「しかし、人間には二つの武器がある」
「強力無比な、二つの武器を持っている」
「それが……」
「『言葉』と『文字』」
「人間が人間である、最大の理由」
「人間が人間として持つ、最大の武器」
「それが『言葉』と『文字』だ」
「それは他の生物では実装しがたい」
「それは他の生物には実装し得ない」
「それは他の生物に対する、人間の圧倒的な優位性を確保してきた」
「だが、もし」
「これは、仮定の話だ」
「あくまでも、過程の話だ」
「携帯獣が文字と言葉を獲得した時、人間はどうなる?」
「君は、ルージュラという携帯獣を知っているか」
「其の携帯獣は、人間の『言葉』によく似た『言葉』を話すという」
「つまりは……携帯獣としての『言葉』を獲得し始めた、ということだ」
「そして……」
「……君ももう、気づいているのだろう」
「携帯獣は『言葉』だけでなく」
「『文字』もまた……獲得し始めていることを」
「……………………」
何を言っているのか分からない。いや、分かっている。分かっているからこそ、分からない。いや、分からないんじゃない。分かりたくないんだ。
「……………………」
整理できない感情。文字に起こせない感情。呼吸するたびに傷口から血が噴き出るような、切迫した状況。その只中に、僕は立たされている。
「失礼。ずいぶんと一方的に話してしまったね。学者の与太話だ、聞き流してくれて構わない」
「……………………」
その言葉が出た、直後のことだった。
「……………………」
教授の後ろで、小さな影が動いた。
「おっと、君がいたことを忘れていたよ。怖がらなくていい、前へ出てきなさい」
「……………………」
教授に促されて姿を見せたのは、まだ年端もいかぬ少女だった。
「……………………」
真っ黒な髪に、白のアルファベットが無差別に書かれた真っ黒なワンピースが目に止まる。靴も黒、靴下も黒。上から下まで、黒一色で固められているといってもいい。そんな少女だった。
「私の知り合いだ。少々怖がりでね。こうして、他人の前に出ることを怖がるんだ」
「……………………」
少女は僕の目をじっと見つめたまま、まるで動こうとしない。その視線に敵意の色は無い。けれども見つめられている僕は、目線を外すわけにも行かず、どうすることもできずにその場で固まっていた。まるで少女の瞳に操られるが如く、僕はその場で身を固くしていた。
「しかし……この子は大変貴重な存在だ。我々の願いの、賜物ともいえる」
「……願い……?」
「そう。我々の切なる願い。その粋が、彼女そのものとも言えるのだよ」
少女の肩に、教授が静かに手を置いた。
「文字」
「それは、我々が渇望し続けたもの」
「彼女は、その象徴ともいえる存在なのだ」
そう言うと、教授は懐へと手を差し入れる。
「彼女の紹介をしよう。悪いが、そこの机を借りさせてもらうよ」
「……………………」
教授はポケットから薄いカードのようなものを何枚か取り出すと、それを順番に並べていく。それが終わってしまうと、教授はまた少女の方へと向き直って、
「さあ。これで全部だ。いつもしている通り、これを君の名前の順に並び替えてごらん」
「……………………」
少女は小さく頷き、ゆっくりと机に向かって歩いてくる。
「さあ、君も見ておくといい」
「携帯獣の『希望』を」
「携帯獣の『進化』を」
僕は静かに視線を落とし、机に並べられたカードを見つめる。
そこには――
「W」
「N」
「N」
「O」
「N」
「K」
「U」
――そう、一文字ずつ書かれていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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