川島秀明(かわしま・ひであき)。それが、この世界において僕を識別する名前というものらしい。静都(じょうと)地方にある日和田(ひわだ)市という田舎町に、続柄の上では「父」と呼ぶべき人と二人で暮らしている。
僕があの人を「父」だとか「父さん」だとか、そういった一般的な呼称を使って呼んでいいのかは分からない。だから僕は、分からないなりに彼を識別するために「あの人」と呼んでいる。朝早く仕事に出て行って、家へ帰ってくるのはいつも日を跨いでからだから、まともに顔を合わせない日が何日も続くことだって珍しくない。顔を突き合わせることさえ稀なのだから、言葉を交わすとなると機会はもっと少ない。最後にまともに話をしたのはいつだったか、まるで思い出せそうにない。
家の中で僕とあの人が、一言で言って微妙な隔たりを互いに設けていて、いとも簡単に切れそうな希薄な間柄になっていることを、僕は別段不幸なことだと思ったことはない。世の中には、僕らなんかよりももっと惨い「親子」と呼ばれる間柄もあるとよく耳にする。少なくとも、僕はあの人に殴られたり蹴られたり、タバコの火を押し付けられるようなことはされた記憶がない。心を折るような言葉を投げつけられたこともない。そう考えると、僕はむしろ恵まれている類なんじゃないかとさえ思うことがある。
僕があの人から疎んじられるのは、僕のしでかしたことを思えば、当然のことだと思っている。だから僕は、僕の今の境遇を受容している。僕があの人と同じ立場に立たされたら、果たして同じように振舞えるか、甚だ疑問だ。
「よっす、川島」
「おはよう、正孝くん」
宅地造成で建てられた一戸建ての住宅が立ち並ぶ台地の「あゆみ台」、そのかなり奥まった場所に、僕の通っている中学校がある。それが「日和田市立東中学校」。この地域で唯一の市立中学校だ。私立の中学校へ進学する一部の人間を除いて、校区内にある四つの小学校すべてから生徒が集まってくる。それぞれ育った小学校で環境も文化も違うから、至極どうでもいいことで揉め事や喧嘩が起きたりする。よく言えば、賑やかな学校だとは思う。
僕は他のクラスメートからどう見えているか。そんなことはあまり気にしたことがなかったから、深いところまでは分からないけれど、僕は他の人から見て「物静かで真面目な生徒」だと思われている、ように感じる。先生や先輩と衝突したことはないし、同級生と喧嘩をするようなこともない。テストでも五十点を切るような気まずい点数は取ったことがないし、女子から後ろ指を指されるようなデリカシーのない行動をしたこともない。
僕は、よく言えば優等生、現実に即して言えば目立たない地味なキャラといったところだろうか。だから、いろいろ並べてきたけれど、率直に言って特筆すべきようなことは何もない。
「中原さん、おはよう」
「おはよっ、水瀬さん」
昨日、僕の窮地に颯爽と現れて助けていった中原さん。その人となりを、僕の知っている範囲内で僕なりに整理してみようと思う。
背は少し低めで、背の順で並ぶと大体一番前か、よくて二番目三番目くらいに来る。そのせいか、顔立ちも幼いといえば幼い気がする。髪形はいつも決まっていて、ヘアゴムを使って纏めた二つ結びにしている。小学校の頃からずっと同じ髪形だから、彼女のチャームポイントと言うべきなのだろう。前に中原さんが友達と話していたとき、彼女は自分の髪形について「ツインテール」じゃなくて「二つ結び」だと何回も強調していた。中原さんなりのこだわりがあるみたいだ。
記憶が正しければ、中原さんは確か保健委員を務めていたはずだった。学級委員並に細かく面倒な活動――例えば委員会への出席、例えば保健だよりの配布、例えば啓蒙活動に使うポスターの作成と貼り付け、といったところだろうか――が多くて、一方で学級委員に比べると裁量権のほとんどない保健委員は、自分からなりたがる人が極端に少ない不人気な委員会活動だった。四月の委員会決めの時、保健委員の選出の段になって誰も手を上げない完全な膠着状態になったのをよく覚えている。そこですっと手を上げたのが、最後列から二番目に座っていた中原さんだった。
あと、バドミントン部に所属しているのも知っている。そこそこ部員がいる中でも、中原さんは一年生のときからレギュラーに選ばれるくらいの実力があったみたいだ。僕が下校する頃に、他の部員たちと一緒に練習に精を出している姿を何回か見たことがある。後輩からも慕われているみたいだったから、特に問題はないように見えた。
「中原さん。学級通信、後で張り替えておいてくれる?」
「うん、いいよ。わたしに任せて」
クラス内ではどうか。僕も中原さんも、これといって目立つようなことはないという点でよく似ていた。違いがあるとするなら、中原さんは目立たないながらも誰かがする必要のある仕事、例えば黒板消しの清掃や日直の更新、学年通信の張り替えといった作業を積極的にしていた。誰かに何か頼まれごとをされると、文字通り嫌な顔一つせずに請け負って、最初から最後まできちんとやり遂げる。彼女に頼めばなんでもしてくれる、そういう立ち位置に、中原さんは立っていた。
そんな気配りの効く中原さんと僕が、どんな形でもいいからちゃんと話をしたのは片手で数えられるほどしかなかった。昨日はその貴重な一回だ。あとは、進級したての春に一回と、夏休みに入ってから学校で鉢合わせた一回。どれをとっても、正直そんなに大したことのない話しかしていない。だから僕と中原さんの間柄は、ほとんど関係性が無いに等しい「同じクラスにいる男子と女子」以上のものでもなんでもない。
そう。昨日までは、それで何の間違いも無かった。あくまで、昨日までは。
「彼女は、隠すのが上手みたいだね」
「……(こくり)」
「教室にいるときは、気配の欠片も感じられないよ」
僕が机の下にいる”カラカラ”に呼び掛ける。”カラカラ”はおずおずと頷いて、小さな躰をさらに縮こまらせた。
そろそろちゃんと説明しなきゃいけない。この”カラカラ”が、一体僕の何なのかということについてだ。
もう十年くらい前のことだろうか。僕や中原さんと同い年くらいの少女が、虚空に向かって会話をしている姿を目撃されるという事象があった。奇異に思った周囲の大人が、彼女から根気強く話を聞き出してみたところ、彼女は一人で話をしていたわけではなく、曰く”ネイティ”という名前の小鳥と話をしていることが分かった。幸い彼女には絵心があったので、その”ネイティ”と呼ばれる小鳥の姿を紙に描いて表現してもらうことができた。
彼女が描き上げた”ネイティ”は、この世のどの小鳥とも似ても似つかない、奇妙な姿かたちをしていた。丸く見開かれた目に未発達な赤い翼と鶏冠、そしてずんぐりとした黄緑色の丸い躰。小鳥としてはかなり大きくて、少なくとも手のひらに載るようなサイズじゃない。彼女の見ていた”ネイティ”を僕なりの言葉で表現すると、だいたいこういう感じになる。本人が言うには、”ネイティ”は「トゥートゥー」なる鳴き声を上げるらしい。無論、そんな小鳥がいるわけがない。
周囲にいる他人、例えば家族や友人には、ネイティの姿は見えていなかった。だから最初、彼女は誰もいない空間に向かって声を掛けているように見えていたのだ。ネイティは彼女にだけ見える存在、もっと言うと、彼女の想像上の存在ということになる。女の子が言うには、中学に入学したての頃から時折ネイティの姿が見え始めて、夏休みになってハッキリ見えるようになっただけでなく、いつも側にくっついて離れなくなったそうだ。自分から声を掛けると必ず反応するし、こちらが意識していなくともネイティの側から声を掛けてくることもあるという。彼女にはネイティの声がしっかり聞き取れたけれど、周囲にはまったく聞こえていなかった。彼女は不思議に思いつつも、この奇妙な同居人を気に入っていたらしい。
この彼女にしか見えない小鳥に「ネイティ」という名前が付いたのは、どういう経緯か。聞き取りをしたカウンセラーによると、少女は「気が付いたら”ネイティ”と呼んでいた」とのことだった。意識して名前を付けたわけではなく、ふっと「ネイティ」という名前が浮かんできた。これが真相だった。意味ありげな言葉の響きから、いろいろな由来が考えられたけれど、彼女の知識や経験、そして思考回路の成長度合いなどを勘案すると、やはり無意識のうちに名前が出てきたという結論に至らざるを得なかったとのことだった。彼女にだけ見える小鳥は、学術的にもそのまま「ネイティ」と呼ばれることになった。
イマジナリー・フレンド。”空想上の友人”と呼ばれる概念は、心理学では割と基本的な存在として知られている。幼稚園児から小学校低学年にかけては、現実と空想の境界が曖昧で、しばしば空想を現実のように話すことがある(往々にして「お人形さんの家へ遊びに行った」というような形で出てくる)。その中で、自分の空想の中にだけ存在する友人が出てくることがままある。それがイマジナリー・フレンドだ。普通は物心付く頃になって徐々に境界が明確になり、イマジナリー・フレンドは人知れずその姿を消す。
彼女のネイティは、明らかにこのイマジナリー・フレンドだ。彼女にしか認識できず、他の人は存在を認めることができない。それはそうだけど、彼女はもうすぐ中学三年生になろうかという思春期真っ盛りの時期だ。親は当然心配になる。言葉は悪いけれど、精神に何がしかの疾患があるんじゃないかとか、幼児退行を起こしたんじゃないかと気が気ではなかったらしい。方々の精神科医を尋ねて、彼女に異常がないかを診てもらった。ところが、彼女はただネイティが見えるというだけで、人並みの判断力も年相応の知性も備えていた。典型的な精神疾患は、何一つ見られなかった。
それでも心配な両親は、どうにかしてネイティを消し去れないかとまた方々に相談して回った。あれやこれやと手段が講じられたけれど、当の本人がネイティと分かれることを極度に嫌がっていて、どんな治療法も一向に効果をもたらさなかった。そもそもイマジナリー・フレンドを消す治療法なんて確立されていなかったから、こうすればいいんじゃないかという当てずっぽうの対処が繰り返されたみたいだった。無論効くわけもなく、ネイティは彼女の側に在り続けた。
少女と家族がネイティを巡って騒動を繰り広げている内に、世の中はとんでもないことになっていた。各地で、女の子のネイティとよく似た現実には存在し得ないような珍奇で不可思議な「空想上の友人」が見えるという人が、一人、また一人と確認され始めたのだ。少女のネイティと同じく、そのことごとくが一風変わった固有の名前を持っていて、”親”と呼ぶべき人としっかり話ができるということが分かった。そして、こうした「空想上の友人」が見える人のほぼ全員が、小学校高学年から高校生に掛けての多感な時期にある少年少女だということも判明した。
様々な事例が寄せられて、偉い人たちがああだこうだと検討した挙句、こうした常識を逸脱したイマジナリー・フレンドには、明らかにそれと分かる明快な区分が必要だという結論に達した。それが――
――「ポケットモンスター」。思春期に生じる心のスキマ(ポケット)に現れる不思議なイキモノ(モンスター)というのが、その名称の由来だ。
こうしてネイティのような存在は、総じて「ポケットモンスター」と呼ばれることになった。長ったらしいので、これはしばしば「ポケモン」と略される。まともに「ポケットモンスター」と呼ぶのは、律儀で堅苦しい大人たちくらいだ。
だいぶ長くなったけれど、ここまで説明すればなんとなく理解してもらえるかもしれない。そう。僕の側に居る”カラカラ”も、このポケモンの一種というわけだ。
カラカラが僕の前に現れたのは、もうかなり前のことになる。小学四年生の時だったろうか、学校の帰りに一人で歩いていると、いつの間にか隣に小さな影がくっ付いていた。恐竜の頭蓋骨のような厳つい骨を被って、手には大振りな骨の棍棒を持っている。それでいてナリは小さくて、些か迫力に欠けていた。僕が存在に気付いて目を向けると、何が怖いのかは分からなかったけれど怯えた目つきを見せて、僕の足元に隠れてしまった。睨み付けられた(僕にとってはただ「目を向けた」だけだったけど、カラカラにしてみれば「睨まれた」から身を小さくしたに違いないだろう)はずの僕に身を寄せて隠れるというのは、なんというか、反応に困った。
それからずっと、カラカラは僕の側にいる。ぶん殴れば痛そうな骨を振り回すこともなく、いつも小さく縮こまって、歩くときは決まって僕の隣にくっ付いて少しも離れない。僕が何か話しかけると、たいてい弱弱しく頷いて応じる。それ以上の反応を示すことは滅多にない。時々小さく声を上げて鳴くくらいだ。ただ互いに側に居るだけの微妙な関係が、かれこれもう四年くらいずっと続いている。
僕とあの人との関係と、形は違えど、どこか似ている気がした。
カラカラが机の下でおとなしくしているのを確認してから、僕はおもむろに椅子から立ち上がった。中原さんのことで、どうしても確認したいことがある。ポケモンを連れているのが本当かどうかだ。昨日の一件で、ほとんど間違いないと分かっている。けど、僕はそれでもきちんと確かめておきたかった。
今まで僕以外に、ポケモンを連れた人を実際にこの目で見掛けたことが無かった。だから、こう、なんて言えばいいんだろう、中原さんがポケモンを連れているとしたら、それをきっかけにして何か話ができるんじゃないかと思うわけだ。今までろくすっぽ彼女のことを意識したことの無かった僕がいきなり話しかけるのは、そりゃいろいろとリスクがあるだろう。噂話のネタにされるとかそういうのだ。でもそうと分かっていても、僕は中原さんのこと、そして中原さんの連れているポケモンのことが、気になって仕方なかった。
「ともともっ、土曜日は小金へ買い物へ行くぞよ!」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと空けてあるよ。楽しみだねっ」
「んに。予定は空っぽ、お財布は満タンで行くけれ。がっつり買い物するぞよー! んでは、また次の時間っ!」
「うん。まりちゃん、またね」
話をしていた友達がいなくなったのを確認して、僕は思い切って中原さんに近づいた。
「あの、中原さん」
「さて、一時間目は英語英語……って、川島くん?!」
「う、うん……僕だけど、そんなに驚かせちゃったかな?」
「ご、ごめんね……川島くんは何も悪くないんだけど、ちょっと心の準備ができてなくて……」
中原さんは僕と話をするに当たって、結構な心の準備が必要みたいだ。僕、そんなに怖い顔つきをしている覚えは無いんだけどなあ。と、それはともかく。
「昨日は危なかったね。けど、間に合ってよかったよ。ケガも無かったし」
「迷惑掛けちゃってごめんね。制服、汚れちゃったんじゃないかな?」
「大丈夫だよ。替えも用意してあるし、洗い方もちゃんと分かってるからね」
「それなら良かった。それで……こほん。僕、ちょっと話がしたいんだけど」
「話? わたしと?」
「うん。昨日のこととは、また別のことなんだけど。少しまとまった時間が欲しいんだ。お昼休みとか、放課後とか」
「うーん……」
我ながら強引だなあと思いつつも、僕は中原さんに時間を取ってもらえないかと頼んでみる。
「……よし。それなら、お昼休みにどうかな? 話すのは、人がいない場所のほうがいいよね」
「そうだね。その方が、都合がいいよ」
「うん、分かったよ。お昼ごはんを食べたら、屋上に行こっか。あそこなら人もいないし、話をするにはピッタリだよ」
中原さんはこれといって戸惑うことも無く、話をしたいという僕の願いにすんなり応じてくれた。こうも上手くいくものなのかと、僕は少しばかり拍子抜けしつつ、話をするにはいい機会だと純粋に考えていた。
「ありがとう、中原さん。それじゃあ、昼休みに」
「うん。必ず行くからね」
こうしてごくごくあっさり約束を取り付けると、僕は自席へ舞い戻った。
その後お昼休みに至るまでの時間は、僕にとって限りなく記憶に残らない空虚な時間であったと同時に、果たしてこれがいつまで続くのだろうかというほどの密度を持った、希薄で濃密なものとなった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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