僕の自宅となっている、小さな一軒家。
敷居を跨いで、中へ一歩足を踏み入れると、ほんの微かに胸が締め付けられるように感じる。きりきりとした痛みが、断続的にじわじわと生じてくる。耐え難いと言うほどのものじゃない、ごく穏やかな、けれど意識の埒外に置けない確かな痛み。胸に手を当てて二度三度と息を吸い、空気の入れ替えもままならぬまま吐き出す。不規則に上がり下がりを繰り返す気分を強引に抑え付けて、僕はドアの鍵を開けて室内へ入った。
室内は静まり返っていた。整然としているというより、沈黙していると言った方が正しいだろうか。散らかったところは一つも無く、すべてがきちんと整頓されている。僕もあの人も男ながら、雑然とした空間は好かない。こういうところは、僕があの人の――例え、あの人が心情的に許せなかったとしても――血を引いた息子だということを示しているのだろう。僕はそれで構わないけれど、あの人はどう思うだろうか。
嫌悪するに違いない。
明かりも点けずに台所まで向かって、戸棚からガラスのコップを取り出すと、水道水を八分くらい汲んで一息に飲み干した。言葉通り一息ついてから、コップを洗って流しへ置く。肩に掛かる学校指定のカバンがやけに重く感じる。物理的な重みに加えて、それとは別のベクトルを向いた重みが加わっているような心地だった。ここにいると、それはいつ何時も纏わりついてくる。鉄鎖を結わえられた虜囚の正確な心境を僕は知らないけれど、僕がこの家にいる時に受ける感触とよく似ているのではないだろうか。
右下へ目を向けると、僕の顔を見つめていたカラカラと目が合った。武骨な形状をした頭蓋骨の下から覗く瞳は、思いのほか綺麗で澄んでいる。そんな目で僕を凝視して、こいつは一体何がしたいんだろうと疑問を抱いた。今日に始まったことじゃない。こうして視線が交錯するたびに同じ思いを抱いてきた。カラカラは何故僕のそばに現れて、何故僕のそばから離れないんだろうか。ストレートに訊ねたところでこいつがまともに返答できるわけがなかったから、僕の疑問はいつも心の奥底に仕舞われた。
水を飲んでから踵を返すと、テーブルの上に小さなバスケットが置かれているのが見えた。中には袋入りのビスケットや四角いキャラメル、イチゴ味の飴玉や小さなチョコレートといったお菓子が、丁寧に詰められている。一週間に一度くらいテーブルの上に置かれて、誰かが手を付けるのを待っている。次の週になると中身が入れ替えられて、また同じようにして置かれる。
これは、僕が拵えたものではない。
無意識のうちにバスケットへ手を伸ばしそうになって、僕は途中で止めた。バスケットに入れられたお菓子は、誰かに――僕に食べられるのを心待ちにしているようにしか見えなかった。僕が手を伸ばして取れば、簡単に目的は達せられるだろう。ただ一掴み、ほんの一掴み手にして口へ放り込めば、何かが変わるかも知れないと思ったこともある。何度も、何度もだ。
そしてその都度、僕は頭を振って手を引いてしまう。夢を見るのはやめよう、願望にすがるのは避けよう、現実と実際だけを見て生きようと結論付けて、バスケットのお菓子はいつも取り残されて手付かずのままになる。僕は今日も同じ選択をした。さっと手を引くと、僕はカバンを持ち直して台所から出た。廊下を抜けて、階段を上って、ドアを開けて自分の部屋へ入る。カラカラも後ろからついてきた。
自分の部屋にいるときだけは、肩の重荷が少しだけ軽くなる思いがした。制服を脱いで室内用の服に着替えてしまうと、僕は何をする気力も起きなかった。起きていたって楽しいことは何も無い。無論夢も楽しいものではないけれど、体を横たえている方が楽になれるのは確かだ。さっさと眠ってしまおう。
僕は朝起きた時のままよれよれになっている掛け布団を直して、身を中へ滑り込ませた。いくらか宿題が出されていた気がするけれど、大した量じゃない。起きてからやればいいだろう。ああ、そういえばもうすぐ定期テストがあるんだっけ。それの対策もしなきゃいけないな。考えとは裏腹に、僕の意識は布団の中で順調に溶かされていく。そうして完全に眠りに落ちそうになった頃、無意識のうちに薄目が開いた。
部屋の隅でカラカラが身を小さくして、じっと僕に視線を向けている姿が見えた。
僕は曖昧な感情を残したまま意識的に目を閉じて、カラカラに背を向けると、そのまま夜まで眠った。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
Written by 586