「中原さんって、随分早い時間に家を出てるんだね」
「そうだよ。川島くんもいつもこれくらいなのかな?」
「いや、普段はもっと遅いよ。今日はたまたま、ちょっと早く出ようと思ったんだ」
月曜日。ただでさえ家にいると憂鬱になるのに、月曜日とあっては朝の憂鬱度合いが只事ではない。そういうわけで普段の僕は時間の許す限り自室の布団の守備についている(断じてぐうたらしているわけではないぞ、と僕は誰も聞いていないと知りつつ声高く主張する)のだけど、今日の朝に限っては珍しく早く出てみようという気になった。思いつきで早めに家を出てみたら、偶然にも中原さんと出くわした。
中原さんはいつも七時半には家を出て、八時になる前に必ず教室入りしている。東中には生徒の不在時は教室のドアをロックするという運用があって、各クラスで一番最初に登校してきた生徒が職員室に鍵を取りにいく仕組みになっている。この鍵を取りにいく仕事は、中原さんがほとんど毎日担当していた。たまに桐嶋くんや嬉野さんが開けることもあるらしいけど、中原さんがダントツで回数が多いことは揺るがない。
「それでさ、中原さん。昨日なんだけど」
「もしかして、わたしのお母さんと会った話かな?」
朝美さんは昨日のことをしっかり中原さんに話していたようだ。まあ、それは間違いないだろうと思ってたけどさ。
「そうそう。二丁目のあたりでたまたま会ったんだけど……中原さんのお母さん、若々しいというか、中原さんみたいな中学生の娘がいるようには見えなかったんだけど」
「あははっ。やっぱり川島くんもそう思ったみたいだね。よく言われるよ、お母さんには見えないって。でも正真正銘、わたしのお母さんだよ」
「現実はそうなんだよね。それで、突然なんだけど、中原さんのお母さんのことでいくつか質問してもいい?」
「うん、いいよ。どんな質問?」
僕は昨日の夜たっぷり時間を使って考えた、朝美さんの若さの理由の仮説をぶつけてみることにした。
「中原さんのお母さんって、昔演劇をやってたりしてない? もしくは今パン屋さんをしてる、けど独創的なパンばっかり作ってるとかって無い?」
仮説その一。街にあふれる奇跡のパワーで若さを保っている説。
「演劇はやってないけど、昔結構長いこと合気道をやってたって聞いたよ。あと、パンは焼かないけど、ピアノは好きでたまに弾いてるのを見るかな」
ぬ、そちら側だったか。多分英語も得意に違いない。
「じゃあさ、趣味がUFO観察だったりとか」
仮説その二。中原家の超科学力で若さを保っている説。
「UFOは見たことないけど、グレープフルーツゼリーは好きだよ。あと、一度スキューバダイビングをしてみたいってよく言ってるね」
む、側近の方だったか。もしかするとライオンを飼ってたりするのかも知れない。
「それなら、実は脈が止まってるゾンビ状態とか?」
仮説その三。四年くらい前の事件から時間が止まっている説。
「さすがに脈は止まってないよ〜。でも、お母さんの実家は離島にあってね、おじいちゃんとおばあちゃんが個人商店をしてるんだよ。小さいお店だけどいろんな商品が置いてあって、お客さんもよく来てくれるかな。お父さんとわたしの三人でたまに帰って、お母さんと一緒にわたしもお手伝いをさせてもらったりすることがあるよ」
うむ、これは当たらずとも遠からずのようだ。もしもこの仮説が合っていたら、中原さんの本体は病院にあることになってしまって、その上やっぱり中原さんと朝美さんは姉妹だった! と清々しいまでに存在意義の無いどんでん返しになるところだった。
果てしなく本筋から離れた誰得話はともかく、とりあえずあの若々しい見た目に特に秘密はないみたいだ。絶対何かあると思ったんだけどなあ。
「あ、聞いたよ。お母さんが落っことしちゃったお財布、川島くんが拾ってくれたんだよね」
「うん。散歩してたらカラカラが急に歩き出して、何だろうと思って追い掛けてみたら、財布が落ちてたんだ」
「へぇー、カラカラくんが見つけたんだね。ありがとう、川島くん。お母さんも助かったって言ってたよ」
そういえば、最初に財布に向かっていったのは僕じゃなくて、カラカラの方だった。その後の朝美さんのインパクトが(いろいろな意味で)強すぎてすっかり忘れてたけど、あれはカラカラが一人で歩いていくなんていう滅多にないことが起きたのがきっかけだったっけ。
今にして思うと腑に落ちないところが多い。最初にカラカラが歩き始めた地点から財布を見つけた場所までは、僕の足でも二分くらいは掛かる。結構な距離があるわけだ。だからそこに財布が落ちてるだなんて分かるわけが無い。だけどカラカラは少しも迷わず、真っ直ぐにあの場所まで僕を連れていった。あれは明らかに、僕を財布の場所まで導こうとしているようにしか見えなかった。
(まさか、僕と朝美さんを引き合わせるため?)
我ながら荒唐無稽だと思う。だけど、カラカラ、いやポケモンには謎が多い。存在自体が謎みたいなものだからだ。完全に否定しきれるものでも、またない。
ポケモンが急に意図しない行動をとって、その結果命拾いしたり大事なものを見つけたりした、という話はいくつか聞いた記憶がある。ポケモンの多くは自分の意志、あるいはそれらしいものを持っていて、親であってもポケモンを完全にコントロールすることはできない。
心理学的な見地からは、これはポケモンの親が持っている「無意識」の発露ではないかと見られている。所謂「虫の知らせ」と同じことではないかというのだ。僕もある程度それに近いと思っている。ただ、昨日のカラカラの行動を見ると、僕の無意識によるものとはあまり思えない。僕には、ポケモンの自律行動すべてが主の無意識によるものではないような気がする。じゃあ、あの一件はなんだったんだろうか? 今のところはどうやっても説明がつかない。
これ以上考えたところで答えは出まいと、僕はそこで思考を打ち切った。少し話題を変えよう。
「中原さんのお母さん、朝美さんだっけ。中原さんと仲良さそうだったね」
「……川島くんにも、そう見えるかな?」
「外から見てる分にはね。本当のところは、もちろん中原さんにしか分からないけどさ」
朝美さんは中原さんを大切にしている。僕が昨日話した限りでは、その印象は間違っていないと思った。中原さんと雰囲気はまた違うけれど、年頃の娘をうまく包み込んでやれそうな暖かさを感じた。朗らかな笑顔を思い返す度に、僕は確信を強める。
率直に言って――羨ましかった。
「うん……そうだよ、それで合ってる。お母さん、わたしのことずっと大切にしてくれてるよ」
「……こんな、わたしなんかのことを」
朝美さんについて話した中原さんの表情は、かつて門扉の前で話をしたときのように、物憂げな色彩を纏っていた。何か思うところがあるのだろうかと、僕は彼女の面持ちから思いを読み取ろうとする。決して何もないわけではないだろう、ただ、それ以外のことは分からなかった。思いのほか、心の守りは固いようだった。
「すっごく優しいんだよ、わたしのお母さん。風邪引いて熱出しちゃったときは、つきっきりで看病してくれたし」
「勉強してるときに机で寝ちゃったら、上から毛布掛けてくれたりもするよ」
「わたしのことをずっと見てくれてる……お母さんは、わたしのことをホントに大事にしてくれてるよ」
中原さんは、努めて明るく振る舞おうとしているように見えた。少し距離を置いてみれば、本当に明るく見えたかも知れない。でも僕にとっては違った。見せかけの明るさで押し隠した奥底に、何かを隠している。それを明らかにしないことを僕は責められない。僕も同じことをしているからだ。
なら――先に僕の方から、言うべきことを言うべきだろう。
「中原さん。いきなり、こんな話していいのか分かんないけどさ」
「川島くん……? どうしたの?」
「僕、”お母さん”って呼べる人が、家にいないんだ」
朝美さんと話をして、彼女が中原さんの母親だと知ってから、ずっと考え続けていたこと。いつかは明らかにしないといけなくて、その時はそう遠くないと思っていた。だから、昨日あそこで朝美さんに出会えたのは、一つのいいきっかけだと僕は考えた。
僕には、母親がいない。
家にいるのは僕とあの人だけで、僕にとって母親と呼べる人はいない。家に帰っても、朝目覚めても、いるのは僕と、あの人だけだ。僕が物心ついてからずっとそうで、僕が何かをきちんと考えるようになるまでも、同じくそうだったのだろう。
僕のいるだだっ広い家は、僕とあの人が二人だけで住むために作られたわけじゃない。そんなことくらい、僕にも分かった。あそこにはもう一人居住者がいるはずだった。
そこにはもう一人、家族がいるべきだった。
「あっ……」
僕の言葉を受けた中原さんは、ある意味当然かもしれなかったけれど、愕然とした表情を浮かべていた、
「ご……ごめんなさい、川島くん……わたし、無神経なこと言っちゃって……」
「違うんだ、中原さん。中原さんは何も間違ってない」
「で、でも……」
「本当のことだよ。今の中原さんの話だって、僕は少しも嫌じゃなかった。朝美さんっていいお母さんなんだって、純粋にそう思ったよ」
本心からの言葉だった。僕は中原さんのお母さんの話を聞いて、優しいいい人なんだと純粋に感じていた。母親の話をされて気を悪くしたとか、そういうのとは断じて違う。中原さんと朝美さんが仲良くできているなら、それは喜ぶべきことだと間違いなく言い切れる。
確かに僕には母親がいない。だけどそれをもって他人に当たったり、嫉妬したりすることは筋が通らない。どこまで行っても僕は僕で、他人は他人だ。環境や思考が違うのは、至極当たり前のことだ。
「中原さんからお母さんの話を聞かせてもらった。だから、僕は僕の母親のことも言わなきゃいけないって思ったんだ。急にこんなこと話してびっくりさせちゃって、ごめんね」
「川島くん……そこまで考えててくれたんだね。わたし、すごく感じ悪いこと言っちゃったと思って、もうどうしようって、頭が真っ白になっちゃったよ」
「言い方がいきなり過ぎたね。本当に、僕は少しも悪い気はしてないから。そこは重ねて言っておくよ」
「うん……ありがとう、川島くん」
心の落ち着きを取り戻せた様子の中原さんが、いつもと同じように小さく頷いて応じて見せた。僕の言いたいことが、ちゃんと伝わったみたいだった。
「これでまた一つ、お互いのことを理解できたね」
「そうだね。僕等はこうやってちょっとずつ、分かり合えていけたらいいね」
「大丈夫だよ。わたし達はどっちも、この目でポケモンを見られる変わり者だもん」
「うん、それもそうだ」
「こうやって、ずっと同じものを見ていけたらいいね」
中原さんの言葉に、僕も同意した。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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