ほんの数刻意識を飛ばしていた僕が次に見た光景は、力なく地面に崩れ落ちていく中原さんの姿だった。
中原さんは手にしていたカッターナイフの刃を左手首に当てて、躊躇うことなく一気に切り裂いていた。
刹那。どさり、と音がして、中原さんが地面に横たわった。
「な……中原先輩っ!!」
呆けていた状態から我に返ったのは僕だけではなく唯奈ちゃんも同じだった。倒れこんだ中原さんの下へ駆け寄って、すぐ側に屈みこんだ。
「唯奈ちゃん……」
「中原先輩、中原先輩……!」
「こうだよ……こうするんだよ、唯奈ちゃん……手首を切って、死ぬのって、こんな、感じなんだよ……」
右手から血まみれのカッターナイフを取り落としながら、中原さんが震える手を唯奈ちゃんの頬に添える。
「もし……これを見て、死ぬのが、怖くなったら……」
「わたしを、使ってくれれば、それでいいよ……」
「さすがに……人が、一人死んだら、悪戯のつもり、だったとか、そんな、言い訳は、できなくなるから……」
「今、ニュースとかでも、よく、取り上げられてるしね……これを、無視したりなんか、したら、もっと、痛い目に遭うよ……」
気が動転して涙を流す唯奈ちゃんの目元を力なく拭うことを繰り返しながら、息も絶え絶えの中原さんが言葉を掛け続ける。
「わたし、やっぱり、唯奈ちゃんは、死ななくても、いいと思うよ……」
「真面目で、練習も熱心で、努力家で、優しくて……わたしとは、大違い……」
「部活なんて、嫌なら、辞めちゃえばいいから……唯奈ちゃんは、他の部活でも、きっと、活躍できるよ……」
「唯奈ちゃんが、死ななくても、大丈夫……代わりは、わたしが、いるから……」
唯奈ちゃんから片時も眼を離さず、中原さんは語り続けた。
「大したこと、ないよ……いじめを、止められなかった、ダメな、先輩が、勝手に死んだだけ、だよ……」
「もし、わたしが死んで、唯奈ちゃんの、いじめが、収まれば……」
「こんな、わたしでも、誰かの役に、立てたってことだからね……」
自分が死ねば、いじめは収まるだろう。そうすれば、自分は誰かの役に立てたと言えるだろう。中原さんは時折言葉を途絶えさせながら、そう呟いた。
こんな形で、自分の手で死ななければいけないと考えるほど、中原さんは追い詰められてたっていうのか。自分が死ねば後輩のいじめを止められる、だったら死んでしまえばいい。そんな風に考えるくらい、中原さんは自分が生きているということに価値を見出せなくなっていたって言うのか。
――こんなところでいつまでも傍観している場合じゃないだろう!
「中原さんっ! 中原さんっ!!」
前に出ようと脳が意識するよりも先に、体が前へ飛び出していた。唯奈ちゃんに抱かれながら横たわる中原さんの下へ、僕は一目散に駆けていく。
「あ……あっ……あの、あの、中原先輩が、中原先輩が……!」
「分かってる! 落ち着いて! 誰か人を……いや、保健室に人を呼びに行って欲しいんだ!」
「けれど、けれどけれど、中原先輩が……! 手首を、切って……!」
落ち着きようが無いのは分かっていた。僕自身も焦燥感でいっぱいだったし、こんな事態を引き起こすきっかけになってしまったことを誰よりも自覚しているであろう唯奈ちゃんにとにかく落ち着けというのは、もっと無理な相談だったろう。だけどそうは言っていられなかった。人を呼んでこなきゃいけないし、中原さんに応急処置をしなきゃいけない。早くしないと中原さんが本当に死んでしまいかねないのが、今の状況なんだ。
狼狽の極致に至って右往左往している唯奈ちゃん、そして――。
「……! ……! ……!!」
その傍らで、カラカラが声を殺して泣いていた。癇癪を起こしたように体を引きつらせて、声を出さずに泣き続けている。聞こえてくるのは、被った骨の合間から漏れて来るひゅうひゅうという呼吸音と、時折しゃくり上げる小さな声だけだった。それらはほとんど音としての体を成していない、体を成していないにもかかわらず、僕にとっては信じ難いほど耳障りで気に障る、感情をかき乱す音だった。
耳鳴りがする、視界が歪む。瞳が映し出しているのとは違う光景が、僕の視覚を支配していく。
――ひゅう、ひゅう、ひっく、ひっく。泣き止め。今すぐに泣き止め。
部屋の片隅、自分以外誰の姿も無い部屋の片隅。小さく小さく蹲って、子供が一人泣いている。
どれだけ時間が経っても泣き止まない。泣き止む気配さえ見えてこない。
ごめんなさい、ごめんなさい。謝る相手も見当たらないのに、止むことなく謝り続けている。
掠れて震えて上擦った声は、既に言葉の体を成していない。
――ひゅう、ひゅう、ひいっく、ひいっく。泣き止めと言っているだろう。どうして泣き止まないんだ。
僕がいなければよかった。そう。僕がいなければよかったんだ。
僕がいなければ、二人を不幸にすることもなかった。そう。僕がいなければ、二人を不幸にすることもなかったんだ。
僕が、生まれてこなければよかった。
そう。僕が、生まれてこなければよかったんだ。
――ひゅうぅ、ひゅうぅ、ひいっく、ひいっく。
「……!!」
「泣いてたってどうにもならないだろ! もう泣くのを止めるんだ!!」
幾重にも渡って共鳴していた悲しい泣き声が、静かになった。
僕が再び明瞭な視界を取り戻すと、眼前には呆然とした表情のままの唯奈ちゃんの姿があった。僕が声を荒げたのと同時に、混乱しきっていた感情が、ある程度収まりを見せたようだった。
「……あ、あの……」
「……お願いだ、人を呼んできて欲しい。中原さんは僕が見るから、すぐに人を呼んできて欲しい」
「で、でも……」
「行ってくれ! 中原さんを助けられるのは、僕と君しかいないんだ!」
「わ……分かり、ました……!」
唯奈ちゃんはすぐにそこから立ち上がると、校舎へ向かって一気に走っていった。あとは、僕が中原さんを何とかしないといけない。
「中原さん、中原さん!」
「……秀明、くん……?」
朦朧としているであろう意識の中で、中原さんが僕がここにいることを認識した。だけど彼女の視線はどこか定まらなくて、この場にいる僕を見つめていると言うよりも、混濁しつつある記憶の中にいる僕の断片を見ているといったほうが、今の状況に於いては正しそうだった。
僕はポケットからハンカチを取り出して、小さく噛み切って切れ目を作り、中央から二つに裂いた。血を流している左手首に布を押し当てて傷口をしっかり覆うと、少しでも血を止められるようにと強く結んだ。滲み出てくる血を抑えるように、もう一枚も同じようにして巻きつけ、固く結び目を作る。
「中原さん、しっかりするんだ! すぐに人が来るから、死んじゃだめだ!」
「秀明くん……ごめん、ね……」
「中原さんが、一体僕に何を謝ることがあるんだ!」
「だって……」
光を失いつつある虚ろな目から、中原さんが珠のような涙を零す。
「わたし、ずっと前に、秀明くんに言われたこと、守れなかったよ……」
「僕が、中原さんに言ったこと?」
「そう、だよ……秀明くん、わたしに、こう、言ってくれたよ……」
朝、僕が思い出した光景。
ぼやけて滲んで色を失っていた曖昧な記憶が、急速に元の形を、明瞭な色を、くっきりとした輪郭を取り戻していく。
僕と中原さんの記憶が、同じ瞬間の同じ場所に、同時に到達した。
「『きみが死んだら、ぼくが悲しいよ』」
ああ、やっぱり、そうだったのか。
あの時、道路に飛び出して死のうとしていた女の子は――中原さんだったのか。
「だから、ね……わたし、ここで、死んでも、仕方ないんだよ……」
「死なないで、って言われたのに、言ってもらえたのに……自分から、死のうとした……」
「そんな、悪い子だから……もう、死んじゃうしか、ないんだよ……」
僕は二の句を継げないまま、中原さんの言葉を、ただ無防備に受け止めることしかできなかった。どうか死なないで欲しい、そう言われたのに死のうとした、だから死んでしまうしかない。それは、正しいことなのか。死を留まって欲しいと言われたことを破った報いが死とは、矛盾していないか。僕は混乱しそうになる思考をどうにか纏めようと四苦八苦を繰り返し、中原さんの目を見詰め続けた。
「中原さん、どうしてなんだ。どうして中原さんは、そんなに死のうとするんだ」
「それはね、秀明くん……」
もはや諦めたように穏やかな表情をして、中原さんがぽつりぽつりと呟く。
「わたしが――お姉ちゃんを、殺したから、だよ……」
遠くから人の駆けて来る音と、僕と中原さんの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。残り少ない正常な思考回路が、唯奈ちゃんが人を呼んでこちらへ戻って来たのだろうと判断していた。
だけどその声は、僕らに近づこうとすればするほど遠ざかって、遠い遠い別の世界の出来事のようだという思いが強くなっていくばかりだった。
(中原さんが、中原さんの姉を殺した……)
意識が途切れる間際、彼女が発したその言葉を、何らかの形で処理できるだけの余地は、僕にはもう残されていなかった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
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