「……う、ううん……京、ちゃん……」
「り、りり、涼ちゃん……」
タイミングよく……悪くかも知れない。どっちだっていい。どっちにしろ、涼ちゃんが意識を取り戻す。あたしはガチガチに固まったまま、辛うじて涼ちゃんの名前を口にすることしかできなかった。
頭をゆらゆらふらつかせながら、涼ちゃんが今の自分の置かれた状況を確かめようとしてる。何か言わなきゃいけない、今しがた見ちゃった「それ」を、涼ちゃんに訊かなきゃいけない。頭ではそうだって分かってても、身体が全然追いついてくれなかった。コラッタの死体を見たときのとは根本的に違うショックが、あたしの全身をがっちり締め上げていた。
夢うつつの涼ちゃんと石化したあたしって構図がしばらく続いたけど、やがて涼ちゃんの意識がはっきりしてきて、今自分がどうなってるかが分かってきたみたいで――
「京ちゃん、ここ……京ちゃんの家、だよね……?」
「そ、そう、だけど……それより、涼ちゃん……それ……どういうこと……?」
必死の思いで言葉を絞り出して、あたしは今しがた見てしまった涼ちゃんの「それ」を、震える指先で指し示す。
「えっ……?」
ぽかんとした表情で、涼ちゃんはあたしの指先を追っ掛けた。
「……!!」
あたしの指先にあるものと、涼ちゃんの目線の先にあるものが一致した瞬間。涼ちゃんの目が、今まで見たこと無いくらい大きく見開かれたのを、あたしは見逃さなかった。
「あ……ああぁっ!!」
涼ちゃんは寝そべっていた身体を急に起こして、両手でいわゆるお腹の下辺り――もう白々しいし、この際だからぶっちゃけよう。股間の辺りを、隠すように思いっきり押さえた。あたしは涼ちゃんの反応を、口を半開きにしたままただ見つめることしかできなかった。
目をキュッと閉じて、口を真一文字に結んで、涼ちゃんは身を固くこわばらせている。これは誰がどう見たって、「触れちゃいけないもの」に触れられちゃったときの反応としか思えない。あたしだって同じだ。「見ちゃいけないもの」を見ちゃったって気持ちでいっぱいだった。
「涼ちゃん、これ……」
「お願い京ちゃんっ、見ないでっ……!!」
いや……見ちゃったから、こんな大変な状況になっちゃってるわけで。見ないでって言われても、あたしはもう見ちゃったわけで。
涼ちゃんの股間に「ある」のを、あたしは見ちゃったわけで……。
「ど……どういうことなの? これ……」
「ダメっ! いくら相手が京ちゃんでも、それは絶対言えないっ!」
「だって……日和田にいた時に一緒にお風呂入ったりしたけど、その……『なかった』し……」
あたしの知ってる限り、涼ちゃんは正真正銘「女の子」だ。今言った通り、昔は素っ裸で一緒にお風呂に入ったことだってあるし、その時のことは今もはっきり覚えてる。もし涼ちゃんが女の子じゃないなら、その時から「あって」当然のはずだ。だけど間違いなく、あの時は「なかった」。これは自信を持って言える。
昔の涼ちゃんには「なかった」。それがどうして、こんなことになっちゃってるのか。あたしにはさっぱり分からなかった。
「くぅうっ……!」
顔を真っ赤にして、涼ちゃんはしばらく葛藤を続けていた。どうしようか迷ってる、外から見る分には、そう見えてた。
「どうしよう……京ちゃんに、見られちゃうなんて……」
がっくりと肩を落とす涼ちゃんに、あたしはこんなことを訊ねてみた。
「ちょっと、あなた……本当に涼ちゃんよね? 涼ちゃんの双子の弟とか兄とかじゃないわよね?」
「違うよ……正真正銘、昔京ちゃんと一緒にいた、橋本涼子だよ……」
「そ、そうよね……」
当たり前だ。そうじゃなかったら、必ず今までにどこかでボロが出てただろうに。あたしもバカな質問しちゃって、何やってんだろ、ホントに……。
でも目の前にいるのが紛れもなく涼ちゃんだとしたら、涼ちゃん自身に何かあったってことに違いない。あたしは、どうしてもそれを聞かなきゃって思った。
「ねえ、涼ちゃん。いったい何があったの? お願いだから、あたしに教えてよ」
「でも……それ聞いたら、京ちゃんはきっと、わたしのことを嫌いになるから……」
「そんなこと……そんなこと絶対無いっ! あたしが涼ちゃん嫌いになるなんて、あり得ないし!」
「本当に……?」
「ホントよホント! 絶対に無い! なんなら命賭けたっていいわ!」
「京ちゃん……」
「だから……だから、何があったのか教えてよ、涼ちゃん……」
涼ちゃんは再び目を閉じて、あたしのお願いを拒絶しようとする。だけど、いくら親友のあたしが相手でも、これはさすがにごまかしきれない。そう思ったのだろう、諦めたように腕の力を抜いて、涼ちゃんが目を開けた。
大きな大きな、とても大きなため息を吐いてから、ようやく、重い口が開かれる。
「京ちゃんにはね、言わなきゃいけないことが、二つあるんだ」
あたしは思わず息を飲む。儚げな目を向けて、涼ちゃんが言葉を紡ぎ始める。
「わたしは――」
「お父さんが……マリルリ、だったんだ」
おおよそエベレストの頂上からマリアナ海溝の底くらいまで突き落とされたって言ってもいいレベルの衝撃が、あたしの全身を貫いた。
「これはね京ちゃん、『マリルリが大好きな男の人』とかの比喩でも何でもなくて、本当にマリルリだったんだよ。ポケモンのマリルリが、わたしのお父さんだったんだ……」
涼ちゃんのパパがマリルリだった。みずねずみポケモンのマリルが進化した姿の、みずうさぎポケモンのマリルリが、涼ちゃんのパパだった。
それはつまり――涼ちゃんは、人間のママと、マリルリのパパの間にできた、人とポケモンの子供って意味だ。
「それでね、京ちゃん。マリルリの子供、つまり……ルリリは、成長するとマリルになる。これは、知ってるよね?」
「う、うん……ずっと前に、風太から教えてもらったことがあるけど……」
「♀のルリリが、マリルに進化するときに、だいたい、三分の一くらいの確率で――」
「性別が、♂に変わる。言い換えると――性転換、しちゃうんだ」
今度こそ眩暈がした。大気圏近辺から地球のコアど真ん中あたりまで垂直落下するくらいの衝撃だった。大気圏突入時に速攻で燃え尽きてできた燃えカスがコア辺りを流れるぐらぐらどろどろぐつぐつの溶岩に瞬時に溶かされて、文字通り言葉通り字面通り跡形もなくなったくらいのレベルだ。
涼ちゃんは性転換した。あたしはそれを、まるで遠くの国のできごとのように、実感を得られないまま、ただ聞いていた。
「それで……あたしが、ちょうどそれに当てはまってて……」
「小六の夏休みのときに、性転換が起きて」
「わたし、女の子から――男の子に、なっちゃったんだ」
人とマリルリのハーフだった涼ちゃんは、ちょうど去年の今頃くらいに、ルリリからマリルへ進化するときに起きる可能性がある性転換が起きた。涼ちゃんの言葉を借りるなら……女の子から、男の子になった。そういうことらしい。
「だからなのね、涼ちゃん……男の子の体にあるものが、『ある』のは……」
「そうだよ、京ちゃん……。今のわたしは、完全に、男の子なんだよ……」
涼ちゃんから冗談みたいなマジ話を聞かされて、あたしはこれがマジで冗談だったらどんだけよかっただろうと思わずにはいられなかった。
一つ、涼ちゃんは人とポケモンの間に生まれた子供だった。
二つ、涼ちゃんは女の子から男の子に性転換した。
(涼ちゃんが、男の子……)
二重の意味でショックってのは、こういう状況なんだなあ――聞かされた話のショックが想像をはるかに越えるレベルで強すぎて、却ってまともに話を受け止められないあたしの頭が、文字通り他人事のように、そんなことを思い浮かべていた。
「ぐすっ……うぅっ……ひぐっ……」
はるか遠くのどこかを見つめていたあたしの目が再び一番近くの光景を映し出したのは、耳が涼ちゃんのすすり泣く声を拾った瞬間だった。
「どうしよう……わたし、もう、どうしたら……っ!」
「涼、ちゃん……」
「こんなこと、京ちゃんにだけは、知られたくなかったのに……!」
喉の奥から絞り出すような涼ちゃんの声を聞いて、あたしの胸は乾いた土で汚れた荒縄でもってぐいぐい締め付けられんばかりに痛んだ。
女の子から男の子になっちゃって一番苦しんでるのは、他でもない涼ちゃんだ。あたしにそんなこと知られたくなかった、女の子のままだと思ってて欲しかった。そう願う涼ちゃんの気持ちがひしひしと伝わってきて、あたしの心にすごい勢いでズバズバグサグサ突き刺さっていく。
もうダメだ――抑えきれない。あたしは、感情が爆発するに任せた。
「大丈夫! 大丈夫だから! 涼ちゃんは涼ちゃん、ポケモンだろうが男の子だろうが、涼ちゃんは涼ちゃん! そこは、絶対変わんないから!」
「京ちゃん……」
「あたしは今までと何も変わらない! ずっと同じように、涼ちゃんの友達でいる! 絶対、絶対っ、絶対にっ!!」
震える涼ちゃんの体を、強く強く抱きしめて。
「涼ちゃんが男の子だってことは、他の子には絶対言わない。あたしと涼ちゃんだけの秘密にする。それでいい?」
「……うん。お願い、京ちゃん。このこと、みんなには秘密にしてて……」
「任せなさい! あたしが骨になってお墓に入るまで、何があっても絶対に言わない! 約束するから、安心して。ね?」
絶対に他人にバラしたりしない、涼ちゃんの秘密は何があっても守り抜く。そう、約束して。
「もっかい言うわよ。涼ちゃんは涼ちゃんで、そこは、絶対変わらないから」
「涼ちゃんはあたしの一番大切な友達で、何があっても変わらないから」
「今まで通り、一緒に遊んだり、勉強したりすればいいの。今までと同じで、絶対大丈夫だから」
あたしと涼ちゃんの関係が変わることなんて無いって――はっきり宣言して。
「……ありがとう……ありがとう、京ちゃん。そう言ってもらえて……わたし、うれしい……」
「あったりまえじゃない。涼ちゃんはあたしの親友なんだから」
「うん。うれしいよ、京ちゃん……」
涼ちゃんは、やっと落ち着いてくれたみたいだった。
体調も良くないし、いろいろあって疲れが出ちゃった。そう口にした涼ちゃんを慮って、今日はもう涼ちゃんに家へ帰るように勧めた。承諾した涼ちゃんを家の近くまで送ってから、独りまた自分の家へ戻ってくる。
玄関のドアをゆっくり閉めるのも忘れて、あたしはふらふらとした足取りで自分の部屋に向かう。部屋のドアを閉めると同時に、バタン、と大きな音がして、玄関のドアも一緒に閉じられた。
ほとんど何も考えられないまま、ベッドにぼふっと倒れこむ。そのまま横になると、あたしも涼ちゃんと同じく疲れがどっと溢れ出てきた。
働かない頭を懸命に使って、涼ちゃんから聞かされた話をもう一度確かめる。
(涼ちゃんが、ポケモンで、男の子……)
涼ちゃん、ポケモン、男の子。この三つの単語が、ぐるぐるぐるぐるあたしの頭を渦巻きのように回っていく。
わけが分からなさすぎて今にも破裂しそうな心を支えてるのは、あたしが自分で言った「涼ちゃんは涼ちゃんだ」、っていう短い言葉だった。涼ちゃんは涼ちゃんで、何も変わらない。ポケモンだって分かったって、男の子になっちゃったって、涼ちゃんは、涼ちゃんなんだ。
「あたしが、涼ちゃんと一緒にいなきゃ……今まで通り、涼ちゃんと一緒に……」
それだけ呟くと――あたしはそのまま、瞼を下ろした。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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