「とりあえず、何事もなく終わったけど……」
交差点で涼ちゃんと別れて一人になってから、あたしは誰にも聞こえないようなごくごく小さな声でぽつりと呟いた。あたしが一人で暴れたり叫んだりぶっ倒れたり、ってなことはあったけど、結局涼ちゃんの秘密がバレたりするようなことは無く、ごく普通に一日が過ぎていこうとしていた。
そりゃそうか。涼ちゃんはあくまで「女子」として振る舞ってる訳だし、事情を知らなきゃどこからどう見ても混じりっけなしの「女子」だ。傍から見れば――そう、朝にかっちゃんやなおちゃんが言ってたみたいに、あたしの方がよっぽど「男子」っぽく見えて、お前性別どっちだよ? って突っ込まれかねないくらいだ。だから、涼ちゃんが「男子」だってバレちゃうなんてことは、よっぽどのことが無い限り、ない。
「あたしが上手いことフォローしてあげて、このままみんなを騙し通せれば……」
今「女子のふりをしてる男子」なんていうめちゃんこ危うい橋を渡ってるのは、涼ちゃん自身が一番よく知ってると思う。あたしは涼ちゃんを支えてあげて、今のままこのまま女子のまま、学校で過ごせるようにしてあげたい。それは涼ちゃんのためでもあるし、同時にあたしのためでもあった。涼ちゃんとは前と変わらない、親友同士の関係でいたい、そう思ってたから。
涼ちゃんは女の子だ、涼ちゃんは女の子だ――呪文のように胸の中でその言葉を繰り返し呟いていたあたしに、こんな光景が目に飛び込んできた。
「よしよーし。ワカバちゃん、いっしょにお散歩いくよー」
「きゅぅう!」
この辺の家に住んでた記憶のある、小学生くらいの女の子。前に何度か顔は見たことはあるけど、そんなご近所とかでもないから、話したりしたことなんて一度もない。いつもなら気にも留めなくて、下手すれば視界にも入ってこないような存在。なのにあたしの目は今日に限って、その女の子に……もっとちゃんと言うと、その女の子の連れた「ワカバ」という名前のイーブイに釘付けにされている。イーブイのトレードマークとも言える、首元の白いふわふわの毛。その柔毛に半分隠されながらも、それはしっかりとあたしに見えていた。
イーブイのワカバには、赤い首輪が付けられていた。
「今日は公園までいくよ。帰ってきたらおやつあげるからね」
「きゅいきゅいっ」
ポケモンに首輪を付ける人は少なくない、というか結構いる。そしてそれは、別段悪いことでも何でもない。ポケモンが嫌がってる素振りも見たことないし(そもそも何か付けるのが嫌ってポケモンはいるだろうけど)、普通のことだって考えられてるんだと思う。あたしもそれを咎めたり責めたりする気はさらさら無いし、そんな権利も持ってない。
女の子はワカバを隣に置いて、元気に腕を振って歩いていく。ワカバはそれに遅れまいとしっかり足を動かして、女の子と一緒に歩調を合わせて進んでいく。ワカバは女の子に懐いてるみたいで、側にぴったりくっついて離れない。だからきっと、普段から優しくしてもらって、仲良くしてもらって、可愛がってもらってるに違いない。女の子もワカバと一緒にいて楽しそうだ。だから女の子は何も悪くなくて、むしろポケモンを大切にする、いい子なんだと思う。それは間違いないと思う。
それを前提にして、女の子は何も悪くなんかない、全然普通のことをしてるだけだって、十分理解した上で――それでも、イーブイが首輪をしてるのを見たあたしは、しばらく足が動かなくなるくらいのショックを受けた。
首輪を付けられたポケモン。それは言い方を変えると、そのポケモンが人に従ってるとか、あるいはそのポケモンが人に飼われてるとか、そういう意味になる。もっとキツい言い方をするなら、人とポケモンの間にハッキリ目に見える「上下」の関係がある……そんな風に捉えることだってできると思う。
(紐は……リードは、付いてないみたいだけど……)
遠くへ走っていかないようにするためのリードは、ワカバには付いていなかった。だけど、ポケモンにリードを付ける人も全然珍しいことじゃない。ポケモンの種類によっては、付けた方がいいって言われているようなものもいる。これも首輪と同じで、悪いことでもなんでもない。常識として普通に受け入れられてる、当たり前のことだ。
頭では分かってる、こんなこといちいち気にする方がおかしいって思ってる。そう理解しているつもりなのに、心がそれに付いていけてない。どろどろした固まりかけのマグマのような感触が、胃から胸に掛けてぐらぐらと燻ってる。
立ち止まったままぼんやり考えていたあたしの脳裏に、さっきまで一緒にいた、あの親友の姿が思い浮かんできて。
曖昧で不明瞭だったビジョンが、だんだん形になってきて。
(涼ちゃん……)
涼ちゃんが――人に、ポケモンとして、首輪と紐を付けられて、「飼われてる」光景を、無遠慮に、想像しそうになって。
(……やめっ、やめやめやめやめやめっ!! あたしのバカっ、何考えてんのよ!!)
血が凍るような思いがして、あたしはすぐに我に返った。一体何血迷ったこと考えてんだ、あたしは。こんなこと考えてたなんて涼ちゃんに知られたら、それこそ絶交モノだ。生々しい、ぞっとするような考えを無理やり振り払って、あたしは再び歩き出した。
自分の考えに自分が動揺して、頭がこんがらがってる。涼ちゃんの前じゃ絶対見せられないくらいキョドってる。一番落ち着かなきゃいけないのはあたしなのに、どうしようもない。
こんなバカなこと、もう絶対、絶対考えないようにしなきゃ。
家に帰ってから何にもする気が起きなくて、制服も着替えずにしばらくソファでぐでーっとしてたら、ママが仕事から帰ってきた。いつもよりちょっぴり今日は早上がりだったらしい。
「もう、京香ったら、まーた着替えずに寝転んで。制服にシワが付いちゃうわ。ちゃんと着替えなさい」
「んー……分かったぁ」
ママがもちろん見逃すはずもなく。これ以上チクチク言われるのも面倒くさかったし、あたしは素直に着替えることにした。適当に室内用のシャツとパンツを抽出しから引きずり出してきて、のそのそと着替え終わる。制服をハンガーに掛けて戻ってくると、ママはテレビを付けて夕飯の支度を始めていた。この時間に帰ってきたら、夕方のニュースを観るのがママのいつものパターンだ。
ニュースは興味ないし、観ててもおもしろくない。そういう感じだから、テレビでニュースをやってるときは大体DSで時間を潰してる。半分物置状態の部屋をがさごそやって黒いDSを掘り起こすと、リビングに戻ってソファにどっかと腰掛ける。ええっと、この間まで何やってたっけ。あ、そうだそうだ。カービィやってる途中だったっけ。ザコキャラを使ってボスを倒してく新しいゲームが出てきて、名前忘れたけど目からビーム撃てるキャラでボスと戦ってる途中だった。
ジャンプしてから溜め撃ちするのムズいぞこれ、なんてことを考えながら、ソファに片膝立ててポチポチポチポチ。このボス結構強い、なかなか攻撃当てらんないし。
「こら京香。姿勢が悪いわよ。ソファの上で膝は立てないって、前も言ったでしょ」
「だってさー、こうした方が楽だし」
「ダメよ。体がヘンに曲がっちゃうから、もうやめなさい」
「むー……」
もう、ママったらホントに細かいんだから。箸の上げ下ろしまでってのは、きっとこういうのに違いないって思う。
だけどほっとくと延々同じ事言われちゃうし、しょうがないから言われるまましぶしぶ足をソファから投げ出すと、その拍子にあたしの目線がテレビの方を向く。テレビは相変わらずニュースを流してて、その時ちょうど、こんな話題を取り上げていた。
「……ちょっと、何これ。ポケモン二十四匹を虐待で殺した、って……」
「あらぁ、ずいぶん酷い話ね。縹(はなだ)市の事件って言ってるわ」
ニュースキャスターが伝えているのは、縹市にある民家で拾ったり捕まえたりしたポケモンを次々に虐待して殺した男が、携帯獣(法律なんかの堅苦しい文書だと、ポケモンはこーいう呼び方をされる)愛護管理法違反で逮捕されたっていう事件だった。映像は、その男が住んでた家の様子を映し出している。
殺されたのはコラッタやポッポ、マダツボミにナゾノクサといった、その辺りに棲んでいるポケモンばかりだったらしい。数年前から独りで家にこもって、ポケモンを捕まえてはいろんな方法で殺す――なんてことを延々繰り返してたそうだ。ニュースキャスターは淀みのない口調で、そんなことを読み上げている。
こういうこと、ポケモンを虐待したり殺したりなんてことは、別段珍しいことじゃない。どこかの調査で、分かってるだけで一年に一万件くらいはこういう事件が起きてるらしい。大体一日に三十件くらいになるのかな。少ないとも言えるし、多いとも言える気がする。
(でも……数の問題じゃない)
一日に何件とか、一年で何件とか、そういう問題じゃない気がした。死んでいったポケモンにしてみれば、不幸以外の何でもない。よく悪いことをしたら神様の罰が当たるなんて言うけど、神様ももう少し気を利かせて、悪いことをしようとしたら罰が当たる、くらいにしとけばいいのにってつくづく思う。
「こういうのって、懲役何年になったりするのかな」
「そうね。確か、お母さんが法学部にいた頃は……思い出したわ。一年以下の禁錮又は百万円以下の罰金、だったわね」
「……えぇっ!? そんなんなの!?」
「ええ、そうよ。法律が改正されたなんて話も聞かないし、多分合ってるはずよ」
一年以下の禁錮、または百万円以下の罰金。ポケモンを殺した人に課せられる可能性がある一番重い罰がそんなものだって聞いて、あたしはまたショックを受けた。
いくらなんでも……そりゃちょっと軽すぎる気がするんだけど。
「おかしいじゃん。そんなの、なんか間違ってるって」
「あら、なんだか珍しいわ。京香がこんな真面目な話をするなんて」
「ちょっとママったら、真面目に聞いてよ」
「まあまあ、そう怒らないで」
「んもう……それより続き。だってほら、ポケモンだって生き物だし、やっぱりおかしい、あたしそう思う」
「そういう意見も、結構聞くわね。もっと極端だと、ポケモンにも人と同じ権利を与えるべきって人もいるみたいだし」
「でしょ? だからさ、虐待とかしたら、もっと重たい罰があってもいいと思うんだけど」
「難しい話ねえ。どこからが虐待になるか分からないし、下手をしたら、トレーナーがポケモンに指示を出したりするのも虐待だって言う人も出てくるかも知れないわ。そうなったら、いろいろ不都合でしょ。今くらいで丁度いいんじゃないかしら」
あたしとママの意見は、上手くかみ合わない。もっと罰を重くした方がいいって思ってるあたしと、今のままでも十分だと思ってるママ。
なんかもうすごくもどかしくて、うずうずしてくる。これもきっとママが主流の考え方で、常識で、普通なんだと思う。だから上手く言い返せない。ママの方が普通に見えるから、あたしもそんなに強く出られない。いつもだったらもっと強気で押して行けるはずなのに、うまく前に出られない。
「難しい話はこれくらいにして、ご飯の用意を手伝ってちょうだい。キャベツを刻むから、プレートに盛るのを頼むわ」
「……はぁーい」
結局ママの一存で話は打ち切られて、これっきりになった。
夜。電気を消して、布団へ潜り込む。
「……はぁ」
朝から色々あって疲れてるはずなのに、横になっても眠気が沸いてこない。おかげで、いつまで経っても考え事が終わらなくて、まとまる気配もない。
瞼を閉じても涼ちゃんの姿がくっきり浮かんできて、どうしようもなかった。
(涼ちゃんは、人とポケモン、どっちなんだろう……?)
人とポケモンははっきり区別できて、必ずどっちかに分類できるって、頭から思い込んでた。きっと昔のあたしだけじゃなくて、そんな風に思ってる人はたくさんいると思う。むしろ、ほとんどの人がそう考えてるんじゃないだろうか。
だけど……涼ちゃんがハーフだって知ってから、二つの分かれ目は一気に曖昧になった。
人とポケモンのボーダーライン。涼ちゃんはその真ん中に立ってて、どっちとも言えるし、どっちとも言えない。見た目は間違いなく人だけど、ポケモンの性質だってしっかり持ってる。後で聞いた話だけど、やたらと低い平熱も、気分を悪くしたときにたくさん水を吐いたのも、泳ぐのが上手なのも、みんなひっくるめて、マリルとしての特徴が表に出た結果らしい。
涼ちゃんは人? それとも、ポケモン?
(……違うわ。涼ちゃんは……)
ぐらんぐらんに揺れて定まらない考えを、あたしはどうにか一本に絞ろうと、繰り返し自分に言い聞かせる。
(涼ちゃんは……人よ。普通の人間で、普通の女の子なのよ)
あたしがぐらついちゃダメだ。涼ちゃんは普通の人間で、男の子じゃなくて女の子でいることを望んでる。それはあたしだって変わらない、あたしの知ってる涼ちゃんは、普通の、人間の、女の子だ。あたしも涼ちゃんもそう思ってるなら、それがきっと正しい答えなんだ。
涼ちゃんは曖昧なんかじゃない。涼ちゃんは人間の女の子だって、そう思わなきゃ。
何が何でも……そう思わなきゃ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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