#17 ケダモノとニンゲンのボーダーライン

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放課後は速攻で家に帰る。それがあたしの過ごし方。今日もそれは変わらずに、あたしはまっすぐ家に帰ってきた。

それは、いつもと変わらなかったけど。

「京ちゃんの家、前も一度来たけど、結構高いところにあるね」

「うん。この辺り、『あかね台』って言うんだけど、ほとんど山の上みたいなものだしね」

今日はいつもと少し違っていた。涼ちゃんが「京ちゃんに話したいことがある」って言って、あたしの家まで一緒に来ることになったからだ。あたしも朝の事で一日気が沈んでたから、涼ちゃんと一緒にお喋りでもして気を紛らわせたらいいな、そう思って、涼ちゃんの提案に乗ることにした。

「まあ、涼子ちゃん。久しぶりね。おばさんのこと、覚えてる?」

「はい! いつも優しくしてもらってましたから」

「京香から話は聞いてるわ。常磐へ引っ越してきたなんて、こんな偶然もあるものなのね」

「わたしも京ちゃんにもう一度会えて、とても嬉しいです」

「ええ、本当によかったわ。さあ、遠慮せずに家へ上がって。お茶とお菓子を持ってくるから、少し待っててちょうだい」

「はい。ありがとうございます!」

たまたま仕事が休みで家にいたママに出迎えられて、涼ちゃんが挨拶をする。日和田にいた頃もよくあたしの家で遊んでたから、ママも涼ちゃんのことをよく覚えてたみたいだった。

休みの間に家を掃除したっぽくて、あたしの部屋は気持ち程度片付いてた。物置きみたいになってるから、いずれちゃんと生理はしなきゃいけないけど、今はなんか気乗りしない。何をするにも億劫で、ただ、涼ちゃんと一緒にいることくらいしか、楽しいと思える時間が無さそうだった。

「ごめんね涼ちゃん。あたしの部屋、なんか散らかってて……」

「ううん。わたしが急に京ちゃん家に行きたいなんて言ったから。それに、そんなに散らかってなんかないよ」

こうやっていつもフォローしてくれるのが、涼ちゃんの優しいところだった。涼ちゃんのこの優しさが心地よくて、あたしはついつい涼ちゃんの側に居ちゃう。

ママが冷たい麦茶の入ったグラスととバタークッキーを盛ったお皿を持ってきて、ゆっくりしていってちょうだい、と言い残してリビングへ去っていく。音を立てずに部屋のドアを閉めて、外に声や物音が漏れないようにする。これで、今の部屋はあたしと涼ちゃんの二人きりだ。

「…………」

「…………」

あたしと涼ちゃんで、二人きり。こんなこと、珍しくも何ともないはずなのに。よくあることだったはずなのに。

(……なんで、ドキドキしてるんだろ……?)

今のあたしがどうしてドキドキしてるのか、さっぱり分かんない。分かんないけど、涼ちゃんが関わってるって事だけは、肌で感じ取れる。

この胸の高鳴りは、気のせい? ただの思い込み? 

それとも――また別の何かだろうか。

ちらり、と涼ちゃんの様子を見てみる。ひょっとするとあたしの気のせいで、本当はいつも通りだったのかも知れないけど……でも、心なしか、涼ちゃんもそわそわしてるように見えた。

ドキドキするあたし、そわそわする涼ちゃん。妙に張り詰めた空気が、あたしの部屋に満ちていた。

「えっと……それで、京ちゃん、今日は朝から元気無かったけど、何かあったの?」

先にこの空気を破ったのは、涼ちゃんだった。最初に涼ちゃんが切り出したのは、やっぱりというか、今日一日ずっと塞ぎ込んでたあたしのことだった。

「……ちょっとね。智也……上の名前、荻原って言うんだけど、その子と話してね」

「荻原くん、だね。それで、どうしたの?」

「今度一緒に外で遊ぼうって誘ったんだけどさ、あたしと一緒に遊ぶのは嫌だ、って言われてさ」

「そんなことが……」

「前までよく一緒に遊んでたんだけど、なんか、夏休み終わった辺りから、あたしと一緒にいたくないって思うようになったって……そう言われたの」

智也から「一緒に遊ぶのは卒業だ」って言われたこと。あたしの中で、これがぐるぐると渦を巻いて、いつまでも消えないしこりとして残っていた。智也からそんなこと言われるだなんて思ってなかったし、智也まで変わっちゃうなんて考えてもみなかった――いや、そうじゃない。考えてたけど、そうじゃないって信じようとしただけだ。

あたしが一方的に思い込んでた、それだけなんだ。

「でもね、智也の言いたいことも、分からないわけじゃないの」

「中学生になったんだし、男子は男子、女子は女子ってはっきり分かれるのが普通なんじゃないか、って」

「あたしは今まで男子とか女子とか気にしなくて、ただ仲良く遊べればいいやって思ってたから」

「そういうこと、気にしなきゃいけないのかな……って」

今まであたしが能天気過ぎただけで、みんなはもっと早くからそんな風に考えてたのかも知れない。今更になって初めて、自分がそういうことを考えなきゃいけない歳になったんだって思う。

あたしの独り言みたいな言葉を、涼ちゃんは隣でしっかり聴いてくれていた。

「そうだったんだね、京ちゃん。京ちゃんも、男子とか女子とか、大人とか子供とか、そういうことで悩んでたんだ」

「じゃあ、涼ちゃんも……?」

「うん……ほら、身体もこんなことになっちゃったし。いろいろあったんだよ」

そう前置いてから、涼ちゃんがあたしの顔を覗き込んだ。

「あのね京ちゃん。わたし、実は一つだけウソついてるんだ」

「ウソ? ウソって、どういうこと?」

涼ちゃんがあたしにウソをついている。突然そんなことを言われたあたしはもちろん戸惑って、涼ちゃんにそれはどういう意味なのかを訊ねる。涼ちゃんはこくんと頷くと、静かに話を始める。

「最初に京ちゃんの家に来たとき、ここに引っ越して来たのを『お母さんの仕事の都合』って言ったよね」

「それで、行き先が偶然常磐だった。わたしは確か、そんな風に言ったと思う」

「でもね、あれ、本当は違っててね。常盤に来ることになったのは、別の理由があったんだよ」

涼ちゃんの言葉を一言も聞き漏らすまいと、あたしが耳に全神経を集中させる。

「小学校の三年のときに京ちゃんが引っ越してから、わたし、一人で過ごしてたんだ」

「うまく友達が作れなくて、誰かに話し掛けようと思っても、どうしても勇気が出せなくて」

「京ちゃんがいてくれたら――何回もそう考えたよ。でも、もしわたしが日和田で寂しい思いをしてるって京ちゃんが知ったら、京ちゃんはきっと悲しむって思って。だから、言わなかった」

「大人しくしてたから、いじめられたりはしなかったよ。なんかこう、ほとんど居ないみたいな扱いだったかな」

涼ちゃんが話してくれたのは、あたしが引っ越してからのことだった。友達ができなくて寂しい思いをしてたこと、あたしに会いたいって思ってたこと、だけどそんなことをあたしに言ったら、遠くに居るあたしが悲しむと思って言わなかったこと。涼ちゃんは落ち着いた言葉で、昔の事をあたしに教えてくれた。

あたしが智也たちと仲良くなれるまでには、それはそれで結構大変だった。木登りすれば仲間に入れてやるって言ってもらったのも、それまでに五回くらい話し掛けてやっと、ってところだったからだ。だけど、あたしはまだ運が良かったのかも知れない。涼ちゃんは誰とも遊べなくて、一人で過ごすしか無かったんだから。

「それで、どうにかなってたんだけど……六年に上がって、すぐぐらいだったかな」

「今までは、泳ぐのがうまいとか、水の中で長く息を止めてられるとか、そういうところでしか出てなかった、わたしの『ポケモンとしての特徴』が、いろいろ出てきたんだ」

「今もその真っ只中だけど、『思春期』と言うか……難しい言葉だけど、『第二次性徴』の辺りで、身体が子供から大人に近付いていく時期だからだと思う」

「平熱がすごく下がって身体が冷たくなったり、水を今までよりもたくさん飲むようになったり。どっちも京ちゃんも触ったり見たりしたはずだから、どんな感じかは分かるよね」

「それだけなら、まだ、よかったんだけどね……でも、それだけじゃ済まなかった」

「すっごく辛くて、思い出すのも苦しいんだけど……京ちゃんには、言わなきゃいけないと思うから」

すごく辛い、思い出すのも苦しい――涼ちゃんの発した言葉に、あたしは思わず身震いした。

これから涼ちゃんからどんな話を聴かされるのかと思うと、背筋がピンと伸びた。

「もしかしたら、京ちゃんも知ってるかもしれないけど」

「マリルって――身体から、使い古した『雑巾』みたいな匂いがするんだ」

「教室に掛けてある、ガサガサのゴワゴワになった雑巾。あれを思い浮かべてもらうのが、一番しっくり来ると思う」

額から、たらりと冷たい汗が流れる。これから涼ちゃんの口から出てくる話の流れが、想像したくもないのに想像できて、できることなら全力で耳を塞ぎたいくらいだった。

だけど既のところで、あたしは踏みとどまる。あたしに言うってことは、涼ちゃんだってすごく勇気の要ることのはず。涼ちゃんが勇気を出して話をしようとしてるのに、あたしが聴く耳を持たないなんて、逃げようとするだなんて、友達のすることじゃない。あたしは涼ちゃんの友達、一番の親友として、絶対に涼ちゃんの話を聴かなきゃいけなかった。

「それがね、わたしの身体でも起きちゃって」

「クラスのみんなから『変な匂いがする』とか、もっとストレートに『臭い』とか言われて、すごくいじめられたんだ」

「何かにつけて一人だけ仲間外れにされたり、頭から水を掛けられたりして」

「マンションにあるフェンス付きのゴミ捨て場に連れてかれて、そこへ閉じ込められたりもしたよ」

「先生も見て見ぬふりで助けてくれなくて、一人ぼっちだったんだ」

想像していた通りの――違う。想像していたよりももっと辛い現実が、あたしの耳から飛び込んできた。

涼ちゃんがみんなにいじめられて、仲間外れにされて、変な匂いがするって言われて、水を掛けられて……一つ一つの光景を思い浮かべる度に、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて、そのまま絞め殺されそうなくらいの息苦しさを感じた。

「身体の匂いって自分でも分かるから、なんとかしなきゃ、綺麗にしなきゃ、って思ったんだ」

「酷いときは――毎日、身体を洗うときに、石鹸をまるまる一個使い切って、何回も何回も洗って、それでもどうしても、匂いは取れなくて」

「タオルできつくごしごし擦って、身体が真っ赤になって皮が剥けたり、やりすぎて血が出たりすることもあったよ」

「気にすれば気にするほど匂いが強くなってくる気がして、自分で自分の匂いが気持ち悪くなって、それで、吐いたことも一回や二回じゃなかった」

「そうやって気持ち悪くなって吐いたら、京ちゃんも見たみたいに、さらさらした水がうわーっと口から溢れてきて」

「わたし、どうなっちゃったんだろう、病気になっちゃったのかな――そんな風に考えて、もう、すごく辛かった」

たかだか一年前に起きた、とてつもなく生々しい出来事。それを静かに語る涼ちゃんは落ち着いているように見えて、けれどどこか、辛そうな様子を見せていて。

隣でただ聞いてるだけのあたしが、その話に耳をふさぐ権利なんてなくて。

「それで、夏休みに入って――すごい熱が出た」

「三日くらいほとんどベッドから起きられなくて、トイレにも行けないくらい酷くて……ただ、死にそうだったってことしか覚えてない」

「やっと熱が引いたと思ったら、身体の様子がおかしくなってて」

「わたし、『男の子』になってたんだ」

涼ちゃんを立て続けに襲った身体の異変。最後に起きたのが、涼ちゃんの性転換だった。あるはずの無いものができて、あったはずのものが消えた。

その時涼ちゃんは、「男の子」になった。

「こんなことになっちゃって、お母さんももう隠しきれなくなったんだと思う」

「『涼子のお父さんはマリルリで、涼子が生まれてくる前に、事故で死んじゃった』」

「お父さんは人間じゃなくて、ポケモンだって――わたしに教えてくれたんだ」

涼ちゃんの身体に起きたことは、みんな、お父さんがポケモンだったことが原因だった。

ポケモンの、マリルリだったことが。

「それを聞いて、わたしもう滅茶苦茶ショックで、何も信じられなくなって」

「夏休みの間はもうすごかった。毎日お母さんとケンカして」

「……ううん。ケンカっていうより、わたしがずっとぶち切れてるって感じだった。お母さん、ただ謝るだけだったし」

「『どうして自分を産んだんだ』」

「『どうしてポケモンなんかと子供を作ったんだ』」

「そんなことを、何回も何回も言ったよ」

「身体が男の子になったから、きっと性格も攻撃的になったんだと思う」

涼ちゃんはトレイに手を伸ばすと、大きなグラスに注がれた麦茶の三分の一くらいを一気に口から流し込んで、渇いていた喉を潤した。

「夏休みが明けても、学校には行けなくて、ずっと家で引きこもってた」

「九月の中頃だったかな。お母さんに病院へ連れてかれて、診察を受けてね。特別に、薬を出してもらうことになったんだ」

「わたしみたいに、人とポケモンの間に生まれた子って、結構たくさんいたみたいでね。そういう人のために、『ポケモンとしての特徴を抑える』薬があったんだって。それを処方してもらって、今もずっと飲んでるよ」

「最初に京ちゃんの家へ遊びに来たときに、サプリメントだって言ってた錠剤あるよね。あれ、実はそんな薬だったんだ」

「効き目はまあまあで、平熱は下がったままだったけど、一番気にしてた身体の匂いは、綺麗に治まったんだ。京ちゃんも、そんなこと全然気付かなかったと思うし」

「これ、一度飲み始めたら、一生飲まなきゃいけないんだって。だから結構大変だよ」

言われてみて初めて、あたしは涼ちゃんと再会したその日に、白い薬のようなものを飲んでいたことを思い出す。あれには、本来人には無いポケモンとしての特徴を抑える効果があるみたいだった。確かに今の涼ちゃんと一緒にいても、涼ちゃんの言ってた匂いとかはちっともしない。薬が効いている証拠だろう。

「でも、自分の身体がどうにもならなくて、半分ポケモンだってことは変えられなくて、一日中泣いたりして」

「お母さんともいろいろ話し合って、なんとか落ち着いて考えられるくらいにはなったよ」

「でも……まだ、全部は受け入れられてないかな。お母さんとも、ちょっとぎくしゃくしてるし」

「やっぱり、身勝手だと思うから。わたしが辛い思いをするって知ってて、それでも産んだわけだし」

「?あの人?との間にできた子だったから、どうしても産みたかった――最初にそう言われたときは、さすがにぶん殴りそうになったよ。?人?じゃないだろ、って」

「愛は免罪符じゃない。そう言ったら、お母さん泣き出しちゃったっけ。今思うと、ちょっと言い過ぎたかもって思う。でもその時は、本気でそう思ったよ」

涼ちゃんの口ぶりからは、相当丁寧に言葉を選んでいる様子が伝わってきた。ホントは、もっと激しいやり取りがあったに違いない。もしあたしが同じ立場だったら、下手したらママを病院送りにするくらいに怒ったかも知れない。

日和田にいた頃の涼ちゃんのことを思うと――まるで、全身に槍が突き刺されたかのような、鋭い痛みが走った。

「お母さんと相談して、通ってた学校には、もう行かないことにしたんだ」

「それで、ずっと優しくしてくれてた京ちゃんのいる、常磐へ引っ越そうってなってね」

「常磐の中学校に入って、一からやり直そう。自分を変えてみよう。そう思って、なるべく積極的に話そうとか、そういうことを意識するようにしたんだよ」

「わたしが常磐に来たのは、京ちゃんに会いたかったからなんだ」

「京ちゃんなら――きっと、わたしを受け入れてくれるって思って」

優しい口調でそう呟いた涼ちゃんを、あたしはそっと抱き締めていた。

「京ちゃん……」

何も言えなくて、何を言ったらいいのか分からなくて。でも、あたしはここにいる、ずっと涼ちゃんの側にいる、その気持ちだけは、どうしても伝えたくて。

だから、あたしは涼ちゃんを抱き締めた。

力いっぱい、優しく、丁寧に、涼ちゃんを抱き締めた。

「……ありがとう。京ちゃん」

「京ちゃんの気持ち、伝わってきたよ。すっごく嬉しい」

「やっぱり、京ちゃんは京ちゃんなんだね」

涼ちゃんの思いを受け止めながら、あたしはいっそう、腕に力を込めた。

しばらくそうして穏やかな時間を過ごしたあと、涼ちゃんはそろそろ家へ帰るとあたしに言った。時間ももう遅いし、これ以上引き留めるのもよくない。玄関まで並んで一緒に歩いていって、涼ちゃんを見送る。

「京ちゃん、ありがとう。わたしの話、みんな聞いてくれて」

「ううん。こっちこそ、話聞かせてくれて、ありがと」

靴を履いてカバンを持ち、すっかり準備を整えた涼ちゃんが、ぐっとあたしの目を覗き込む。

「京ちゃん」

吸い込まれそうな。そんな表現を持ち出したくなるような瞳をして、涼ちゃんはあたしにこう言った。

「実はね……わたし、京ちゃんに、もう一つ伝えなきゃいけないって思ってることがあるんだ」

涼ちゃんがそう言うと、あたしは自然と身を乗り出していた。

「だけど、今日はもう時間が無いし、ここだとちょっと言いにくいかな」

「それともう少しだけ、考える時間が欲しくて。どんな風に伝えればいいか、とか」

「決心がついたら、メールを送るよ。土曜日中に来なかったら、全部忘れてくれていいから」

あたしは涼ちゃんの言葉に、ただ頷くしかなかった。

涼ちゃんは、一体何を伝えたい……いや、伝えなきゃいけないって思ってるんだろう。どんなことかを想像することもできなくて、ただ、とても大事なことを伝えられそうだって予感だけは、はっきりと感じ取っていて。

間違いなく、あたしにも関わることだって感じて。

「今日は、本当にありがとう」

「わたしも――よく考えてみるからね」

じゃあまたね、京ちゃん。そう言い残して、涼ちゃんはあたしの家を出て行く。

バタン、とドアが閉まる音が、普段よりもとても大きく聞こえた。

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586