窓から差し込む朝の日差しが眩しくて、目をしきりに瞬かせる。
「もう、京香ったら。いつまで寝てるの。早く顔を洗って、学校へ行く準備をしなさい」
結局一睡もできないまま、あたしは月曜日の朝を迎えた。ママに叩き起こされて(ずっと起きてたから「叩き起こされる」ってのはホントはおかしな話なんだけど)、顔を洗ってパジャマを脱ぐ。ぼーっとしたままのろのろ制服に着替えると、時計の針はもう七時半を回っていて、いつもならとっくに通学路を半分過ぎてるくらいの時刻になってることに気が付いた。
朝ご飯も食べずに家を出ると、ふらつく足取りで学校へ向かう。昨日は夜も食べずに部屋に引き篭もっててママに怒られたくらいだから、お腹の中は空っぽのはずだった。だけど、何か食べたいって気は微塵も起きなかった。今何か口に入れてもそのまま吐き出してしまいそうなくらい、食欲が無かった。食欲は無かったけど、身体はエネルギーを欲しがってるから、当然まっすぐ歩くのもままならないわけで。
ただでさえ全身がエネルギー欠乏状態なのに、今なおそれを大量に浪費する器官を止められずにいる。
(涼ちゃん……)
昨日の夜からずっと止まらない思考。涼ちゃんのことを考えてる、あたしの頭だ。
あたしと涼ちゃんは同じクラスだから、言うまでもなく必ず顔を合わせることになる。その時、あたしはどんな顔をすればいいんだろうか。なんて言えばいいんだろうか。涼ちゃんはあたしにどう接してくるだろうか。どういう言葉を掛けてくるだろうか。少し思考を巡らせただけで、カタチを成さない無数の考えがわーっと湧いてくる。
いつもより家を出るのが大きく遅れたから、涼ちゃんは先に教室に入ってるはず。そこへあたしが入って、涼ちゃんと顔を合わせる。そこでどうするべきなんだろう。うまくその場を切り抜けられる案がないか探してみても、当然の如くそんなものは見つかるはずもなく。結局はその場勝負、ぶっつけ本番ってことになる。
「はぁ……」
気の重さに耐えかねて、あたしは大きなため息をついた。
身体を引きずるようにして歩き、いつもより二十分近くも遅れて学校に到着する。下足室で靴を履き替えようとして上履きを取り落とし、階段を登ろうとして一段目で蹴躓く。ぼーっと歩いてたら同級生の子にぶつかりそうになって、全然別の教室に入ろうとするのを寸前で留まって。七転八倒しながら、あたしはどうにか自分の教室の近くまで来た。
(……何? なんか、中で騒いでる……?)
教室の側まで来たあたしに、みんなが何か騒いでるような声が聞こえてきた。何かあったんだろうか。あたしは軽い胸騒ぎを覚えて、教室へ駆け足で飛び込んだ。
「あっ! 勝美ちゃん、直恵ちゃんっ! 京香ちゃん来たよ!」
「あっきー……?」
「ちちち、ちょっと京香っ、今まで何やってたのよっ!」
「もう、なんでこんな日に限って遅いのよう! 今えらいことになってるんだけど、どういうことよ?」
「かっちゃんに……なおちゃん? 何? 何かあったの?」
あっきーに呼び止められたかと思うと、かっちゃん・なおちゃんから立て続けに声を掛けられた。あたしは何がなんだかさっぱり訳が分からなくて、三人の顔を代わる代わる見つめる。たぶん、きょとんとした顔になってたに違いない。
「何かあったの? じゃないわよっ、あれ見てよあれっ!」
「あれ……?」
かっちゃんが指差した先。あたしの座席のすぐ近く。
そこに、いたのは。
「……!!」
そこに、あったのは。
「涼ちゃん……なんで」
「なんで……男子の制服着てるわけ……!?」
男子の制服に身を包んで、堂々と自席に座っている、涼ちゃんの姿だった。
「な、なあ……あれ、どういうことなんだ……?」
「橋本さん、だよな……? シャツ着てズボン穿いてるけど……」
「なんなんだ、一体……何かこう、コスプレか何かか……?」
それまで聞こえてこなかった教室内のざわめきが、一気に音量を増して、あたしの耳に押し寄せてくる。あれは何だ、どうして橋本さんが、男子の服着てるんだ、制服汚しちゃったのかな、どういうことだよアレ――止まるってことを知らずに、絶え間なく聞こえてくる。
騒然とするクラスメートの中には、当たり前だけど、涼ちゃんと深く関わったことのある人たちもいた。
「橋本さん、どうして……?」
涼ちゃんのすぐ近くで、風太が茫然自失の面持ちをして立っていた。風太の声が届いたのだろう、涼ちゃんが穏やかな顔つきをして、風太に視線を投げ掛けた。
「おはよう、今宮くん。今日はいつもより少し早いね」
「そんなことより……これ、どういうことなのさ……」
「これ、って?」
「だ……男子の制服、それ着てるの、どうして……?」
当たり前とも言える風太の問い掛けに、涼ちゃんはごく自然に、答えを返そうとする。
「だって――それは、?僕?が……」
「ダメっ!! 言っちゃダメっ!!」
反射的に、あたしは駆け出していた。カバンを床に投げ捨てて、ほとんど倒れ込むような勢いで、涼ちゃんのすぐ側まで近付く。突っ立っていた風太を押しのけて、椅子に座ったままの涼ちゃんの肩を抱いた。
「京ちゃん……」
「ダメ……ダメ……絶対ダメっ!!」
涼ちゃんは――涼ちゃんは、いつもあたしに見せるような笑顔を浮かべてて、どうしてこんなにも落ち着いてられるんだろうってくらい落ち着いてて、あたしは却って前も後ろも分からなくなって、ただただ、首を横に振り続けた。
「違う……違うよ涼ちゃん……それは、違うじゃない……!」
「涼ちゃんは、女の子でしょ……? お淑やかで、優しくて、そんな、普通の女の子でしょ……?」
「今日は、何かの間違いなのよ……例えば……そ、そう! 着てくる制服を間違えた、間違えただけ! そうよね……?」
「そう、そういうことよ……間違えただけ、間違えただけなのよ……!」
声が震える。カタカタと歯の鳴る音が止まない。手も足もガクガクと震えて、立っているのがやっとだった。
そうじゃないでしょ……? 涼ちゃん。涼ちゃんは女の子で、それはずっと変わらない。変わらないはずよ……? ずっと変わらずに、何一つ変わらずに、いつまでも女の子のままでいたい、そうだったんじゃないの……?
ずっと、女の子のまま、あたしの側にいてくれる――
――そうよね、涼ちゃん?
「…………」
涼ちゃんがあたしの瞳を覗き込む。あたしはただ、涼ちゃんの目を見つめることしかできない。
(そうだよ、その通りだよ、京ちゃんの言う通りだよ。そう言ってくれる、必ずそう言ってくれる、間違いない)
だって、だって涼ちゃんは、あたしの……!
「京ちゃん」
花の蕾のような小さな口が開いて、涼ちゃんは。
「違うよ、京ちゃん。そうじゃない」
「僕は――男の子なんだ」
――涼ちゃんは、確かにそう言った。
「……嘘よ」
「本当だよ、京ちゃん」
「そんなの嘘よ! 嘘に決まってる! 絶対違うっ!」
周囲がざわめく。涼ちゃんが「僕は男だ」と言ったのが、あっという間に教室中へ広がっていく。
「橋本さん……男の子だったの……?」
「違うっ、違うわ! これは嘘、嘘なのよ!」
「まさか、涼子ちゃんが男子なんて……」
「違う違うっ、違うったら! あたしの話を聞いて!」
止めなきゃ。
話が広がるのを、あたしが止めなきゃ。
「橋本さんが男子? 全然そうは見えなかったのに……」
「違うって! 違うの! 間違ってるのよ!!」
「でも橋本、どうして女子のふりなんかしてたんだ……?」
「そうじゃないっ、そうじゃないの! お願いだからやめて!」
涼ちゃんが男の子だって、そんなこと、違う。そんなの、嘘だ。
絶対、嘘なんだから。
「ちょ、ちょっと京香、落ち着いて! 落ち着いてったら!」
「やめてっ、離してよ! みんなの誤解を解かなきゃ! 涼ちゃんは変わってない、女の子のままだって、あたしがみんなに伝えなきゃ!」
「な……なんかこれ、ちょっとヤバい感じよ。あっちゃん、悪いけどちょっと先生呼んできて。このままじゃまずいわ」
「う、うん……! 分かった、すぐ呼んでくるね」
どうして。どうしてみんな、あたしの話を聞いてくれないの。
涼ちゃんは女の子で、何も変わってなくて、少し前までと同じなのに。
「おい京香、落ち着け! お前何やってんだよ!!」
「うるさいわね! あたしは涼ちゃんを守るって、絶対守るって、約束したんだから!」
智也があたしの前に立ちふさがる。暴れるあたしの肩を持って、その場へ抑え込もうとする。
なんでだ、なんで智也が、あたしの前に出てくるんだ。
「このっ……! バカっ、離しなさいよ! さっさと離さなきゃ、本気でぶん殴ってやるんだから!!」
「お前がどう言ったって、どう思ったって、橋本本人が自分は男だって言ってるんなら、それが現実なんだ!」
「うるさいうるさいうるさいっ! うるさいって言ってるじゃない! 智也はあたしと一緒にいたくないんでしょ! 一緒に遊ぶのはもう卒業したんでしょ! だったらもうあたしのことなんか放っといて! 放っといてよ!!」
「そうじゃない、そういう意味じゃない! 俺は、お前を――」
そう、智也が言い掛けた時だった。
「京ちゃん、もう止めよう?」
涼ちゃんが、あたしの背中から声を掛けてきた。
「京ちゃんには、辛いことだと思う。すごく辛くて、苦しいと思う」
「だけど……もう、終わったことなんだ」
涼ちゃんは言う。もう終わったことなんだ、と。
「僕が?女の子?だった時間は、終わっちゃったんだ」
「だから、もう止めようよ。京ちゃん」
それが、最後の一押しになって。
「……! お、おい京香! しっかりしろっ!」
あたしの意識が、すーっと、空気のように、空へと抜けていった。
身体の自由が一瞬で利かなくなって、目の前にいた智也に、そのまま全身を預ける形になる。
「きょ、京香っ! 京香ったら!!」
「なおちゃーんっ! 今先生連れて……き、京香ちゃん!? 京香ちゃんどうしたの!? 大丈夫!?」
「天見さん、天見さんどうしたの!? 返事をして! 天見さん!」
みんながいろいろなことを口々に叫んでるはずなのに、その声はどんどん小さくなって、どんどん遠のいていって。
やがてあたしは何も見えなくなって、何も聞こえなくなって。
そして、何も感じられなくなった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
Written by 586