ふっ、と目を開くと、白い天井が目に飛び込んできた。
ぼんやりして回らない頭と、水に濡らしたようにぼやけた視界で、あたしは今の状況を把握しようとする。ベッドの上で横になっていて、上から薄い布団が掛けられていて、窓の外からはグラウンドが見える。
(ここ……保健室?)
周りに見えるものから考えてみて、ここは学校の保健室で間違いないって思った。あんまり保健室へ来た記憶は無い――怪我をしたあっきーを連れて来たときくらいだ――けど、今の状況から考えてみると、保健室としか思えなかった。学校でこんなベッドがありそうな部屋なんて、保健室くらいしか無いし。
だんだんと、保健室に来るまでの記憶が蘇ってくる。あんなことがあった、こんなこともあった。混濁していた記憶が整理されて行って、一本筋の通った流れになった。
涼ちゃんが「僕は男の子だ」って言って、あたしが「そうじゃない」って言って、でも涼ちゃんは「もう止めよう」って言って、あたしがパニックになって――それから、教室で倒れた。倒れる間際にみんなが駆け寄ってきて、あたしの周りを取り囲んでたところまで覚えてる。意識が遠くなっていく、あの気持ち悪い感触まで含めて、全部思い出せた。
全部思い出して、初めから終わりまでみんな思い出して。あれが夢や幻じゃなくて、ホントに起きたことなんだって、改めて実感せざるを得なかった。
「涼、ちゃん……」
無意識のうちに、あたしが涼ちゃんの名前を呟く。
すると。
「京ちゃん、起きた?」
不意に右から声が聞こえた。夢うつつをさまよっていた意識が、ほんの少しはっきりした。ボウリングの球を埋め込まれたみたいに重くなった頭を動かして、声のした方向へ目を向ける。
今一度目を開くと、そこに、涼ちゃんがいた。
「涼ちゃん……ここは?」
「学校の保健室。倒れた京ちゃんを、荻原くんと僕の二人で連れてきたんだよ」
「そっか、あたし、教室で倒れて……」
「うん。先生が診察して、寝不足と貧血が原因で、病気とかじゃなさそうだって言ってたよ。だから、心配はいらないかな」
朗らかな声で話す涼ちゃん。その姿を、あたしは「眩しい」と思った。夏の太陽のように眩しくて、正面から見ると目が痛くなりそうだった。どうして涼ちゃんを眩しいと思うのか、今の働かない頭でも、その理由を考えることはできた。
涼ちゃんは、自分が男の子になったことを、身体が変わったことを、全部受け入れた。
身体が男の子になった涼ちゃんは、けれど少し前までは、自分は女の子のつもりだって言ってた。あたしも涼ちゃんが男の子だってみんなにバレないように、女の子として接してた。それは、涼ちゃんの願いでもあったし……今思うと、あたしにとっての願いでもあった。あたしの方が強く思ってたかも知れないくらいだ。
涼ちゃんは女の子だ、昔から何も変わってないんだ、日和田にいた頃と同じなんだ――涼ちゃんが変わってしまったってことを受け入れるのが怖くて、そこから目を背けてた。涼ちゃんは変わってなんかないって思い込もうとした。
あたしは、変わってしまうことを恐れていた。変わったことを受け入れられずにいた。そうやって逃げ続けていたあたしの前で、涼ちゃんは「僕は男の子だ」と言った。みんなに聞こえるように、みんなに伝わるように。あたしはパニックになって、何も分からなくなって、ひとしきり暴れた後倒れて、今ここにいる。
自分だけが変われないまま、みんなが変わったことを受け入れられないまま、一人ぼっちで取り残されている。
「涼ちゃん、どうして……?」
「京ちゃん?」
「どうして……みんな変わっていくの?」
涼ちゃんから外した目線は、真っ白い天井へと向けられる。
知らず知らずのうちに目が霞む。起きたての痛みを伴う目の霞みとは違う。内側から溢れ出る熱いもので瞳が満たされて、視界が不明瞭になっていく。
「知らない間に、何もかも、どんどん変わって行っちゃう」
「あたしだけがちっとも変わらなくて、他のものは、他のみんなは、みんな変わっていく」
「気が付いたら、涼ちゃんまで、変わっていっちゃう……」
「変わりたくなんかないのに、変わったことを受け入れたくなんかないのに、どうして……?」
変わりたくなんかなかった。何も変わらない、ずっと同じ日が続いていけばいいと思ってた。
だけど、それは叶わないって分かった。例え自分が変わらなくたって、みんなが変わっていくことは止められない。そうやって気付いてみたら、あたし一人だけが取り残されていた。変わらないまま、変われないまま、一人ぼっちになった。
「ずっと、涼ちゃんと一緒にいたかったのに」
「昔のまま、変わらなければよかったのに」
「もう、どうやっても……変わることは止められないんだ……」
あたしが消え入りそうな声で呟くと――それに呼応するかのように、ぽろり、と右目から涙が零れて、ベッドの布団に小さな沁みを作った。
それが引き金になった。右目からも左目からもどんどん涙が溢れてきて、あたしはしゃくりあげながら泣き始めた。静かな保健室の中で、ひっく、ひっく、とあたしのすすり泣く声がやけに大きく響く。他に休んでる子がいるかも知れないとか、先生に聞こえるとか、そんなことを気にする余裕なんて無かった。
隣で涼ちゃんはどんな顔をしてるだろう? 変わりたくない、変わってほしくないなんてわがままを言って、挙句の果てには泣きだしちゃう。こんなあたしを見て、涼ちゃんはどう思うだろう……そう思うと、余計に胸が苦しくなってきて、息が詰まってきて、涙がぼろぼろ零れ落ちてくる。
横になったまま泣いてたあたしの目に、涼ちゃんの顔が飛び込んできたのは、そのすぐ後だった。
「京ちゃん。その気持ちは、分かるよ」
「今でも……?わたし?のままだったらよかった、どこかでそんな風に思ってる気がする」
「だけどね、京ちゃん。よく聞いて」
「変わっていくことは、怖いことじゃないんだ」
上から注がれる涼ちゃんの言葉を、あたしは全身で聞き取ろうとしていた。
「ねえ、覚えてる?」
「京ちゃんが常磐へ引っ越すことになって、二人で一緒に公園で泣いた日のこと」
「さんざん泣いて、離れたくない、ここにいたい――何回もそう言ってたよね」
「もう一度、その時のことを思い出してほしいんだ」
涼ちゃんの言葉に導かれるまま、記憶の海を泳ぎ出す――。
「京ちゃん、泣かないで」
夏休みの真っ只中。日和田から遠く離れた常磐へ引っ越すって決まって、喉が枯れても泣き続けていたあたしに、涼ちゃんはそう声を掛けてきた。あたしはその言葉に驚いて、ぐしゃぐしゃになった顔を、隣に座る涼ちゃんに向ける。
あたしがびっくりしたのは、涼ちゃんがあたしに「泣かないで」なんて言うのが、ちょっと信じられなかったからだ。あたしから涼ちゃんに向かって言うことはしょっちゅうあったけど、涼ちゃんの方からあたしに言うのは、これが初めてだった。少しだけ泣き止んで、涼ちゃんの目をじっと見つめる。
「わたしもね、すごく悲しいよ。京ちゃん引っ越しちゃって、悲しいよ。本当は、いっしょに泣きたいくらい」
「でもね……でもね、でもね」
涼ちゃんはあたしの手を取ると、こう言った。
「住んでる場所が変わっても、京ちゃんは京ちゃん」
「通う学校が変わっても、やっぱり京ちゃんは京ちゃん」
「にんじんが食べられるようになっても、それでも京ちゃんは京ちゃん」
「背丈が伸びても――京ちゃんは京ちゃん」
「京ちゃんが、京ちゃんだってことは、変わらないから」
「それでね、京ちゃんが、わたしと仲良くしたいって思ってくれてて、わたしも、京ちゃんと仲良くしたいって思ってたら」
「何が、どんな風に変わっても、京ちゃんとわたしは、仲良しだよ」
場所が変わっても。環境が変わっても。好みが変わっても。身体が変わっても。
あたしがあたしであることは、変わらない。
あたしが涼ちゃんと友達でいたいと思ってて、涼ちゃんもあたしと友達でいたいと思ってるなら。
どれだけ形が変わっても、涼ちゃんとあたしは、つながりを持ったままでいられる。
涼ちゃんは――あたしにそう言った。
「わたし、頑張るよ。京ちゃんともう一度会ったときに、京ちゃんに見違えたって思ってほしいから」
「どんなに辛くたって、泣かないで頑張るよ。安心して、京ちゃん」
「だから……京ちゃんも、頑張って」
「住んでる場所が変わっても、すぐには話せなくても、わたしは、京ちゃんと一緒にいるよ」
「大丈夫だよ、京ちゃん。わたしがね、一緒に側にいるから、だから、くじけないで、頑張って」
「わたし、ずっと京ちゃんの味方だから。それは、変わらない。ずっと変わらないよ」
涼ちゃんは、自分が頑張るから、あたしにも頑張ってほしいと言った。
形が変わっても、あたしの味方だってことは変わらないから、と。
あたしは、涼ちゃんの言葉に――
「……わかった。あたし、頑張る」
「頑張るから、心配しないで」
「涼ちゃんの側にも、あたしがいるから」
「遠くにいるけど、側にいるから」
「泣きそうになったら、あたしが近くにいるって、それを思い出して」
「あたしも、いろいろ変わっても、ずっと涼ちゃんの味方で、ずっと仲良しでいたいから」
――涙を拭いて、もうこれ以上泣かないように堪えながら、そう答えた。
(……そっか)
日和田に住んでたのが、常磐に引っ越してきて、そこに住むようになった。
日和田の小学校から常磐にある小学校へ転校して、そこから中学校へ進学した。
小さいとき大嫌いだったにんじんが、今じゃ残さず食べるくらいの大好物になった。
ママの半分くらいしか無かった背丈が、ママと同じ目線で物を見られるくらいにまで伸びた。
(あたし、変わってないわけじゃ無かったんだ)
(変わったことに――気付いてなかっただけなんだ)
あたしは、何も変わってないんじゃない。いろんなことが変わって、どんどん違う形になってきてる。
ただ、変わったことに、気付いてなかっただけなんだ。
時間を積み重ねていけば、知らず知らずのうちにすべては変わっていく。ありとあらゆるものが、常に変わり続けていると言っていい。ほんの片時も休むこと無く、すべての物は変わり続けていく。
変わることは、怖いことじゃない。変わったってことを受け入れるのに、少し勇気が要るだけなんだ。
それに。
「あの時?わたし?が言いたかったことは、今も変わらないよ」
ずっと変わらないものだって、ある。
「京ちゃんは中学生になって、?わたし?は?僕?になった」
「それでも、?わたし?が思ってたことは、?僕?になっても変わらない」
「?僕?も、涼ちゃんの味方で、ずっと側に居たいと思ってるから」
「だけど――それは、今までとは違う形になる」
「?わたし?と京ちゃんじゃなくて、?僕?と京ちゃんの、新しい形に」
「新しい形で、?僕?と京ちゃんの関係を、やり直したいんだ」
涼ちゃんが言う「新しい形」。
『?僕?は、?男の子?として、京ちゃんのことが……?好き?なんだ』
それが分からないほど、あたしだって鈍感じゃ無かった。
そして――。
「……涼ちゃん」
「あたし、今からでも変われるかな」
「涼ちゃんの側に居られるように、あたし、変われるかな」
涼ちゃんの気持ちを台無しにするほど、あたしだって馬鹿じゃなかった。
「大丈夫。京ちゃんなら変われる。変わったことを、受け入れられるよ」
「それでも初めのうちは、二人とも、すごく戸惑うと思う。形が変わって、一からやり直す」
「戸惑うと思う。でも、それは?僕?と京ちゃんだからこそ、乗り越えられる。そう思うんだ」
「?わたし?のことも、?僕?のことも知ってる、京ちゃんだからこそ、だよ」
そっか。そうとも言えるのか。
女の子の涼ちゃんも、男の子の涼ちゃんも知ってるあたしだから、側に居られる。
そんな風に考えることだって、できるんだ。
「分かった。あたし、分かったよ」
「側に居られるように、近くで居られるように」
「あたしも、?変わろう?。そう思う」
じゃあ、あたしも。
「だから……よろしくね」
まずは形から、変えてみよう。
「――?涼?」
あたしからこう呼ばれた?涼?の目が、驚きにぱっと見開かれたのを、あたしは見逃さなかった。
「……京ちゃん、ありがとう。京ちゃんと一緒なら怖い物なんて無い、そう思うよ」
「あたしもよ、涼。これからもよろしくお願いするわね、涼の側に居る?女の子?として」
「京ちゃん……」
互いに手を取り合って、互いの目を見つめ合う。
そうしていると――どちらともなく自然に、言葉が零れてきた。
「さようなら――?涼ちゃん?」
「さようなら――?わたし?」
――「さようなら」。そして。
「こんにちは――?涼?」
「こんにちは――?僕?」
――「こんにちは」、と。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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