かよ子の足取りといったらもう、マグカルゴの歩みのようにのろまで、サイホーンの足踏みみたいに重たいものでした。
「はぁーあ。また、面倒くさい係にされちゃった」
教科書とノートがたっぷり、おまけに筆箱まで入った赤いランドセルはずっしり肩に沈んで、ただでさえ重い気持ちがもっともっと重くなってしまいそう。ときどき肩ひもを直しては、大きなため息をひとつ。かよ子の様子といったら、見ているこちらがどんよりしてきそうでした。
道ばたに転がっていた小石を軽く蹴とばして、かよ子は体を引きずるようにして歩いてゆきます。かよ子の歩いている河原は夕焼けがとっても綺麗で、道行く人も思わず足を止めて見入ってしまうほどでしたけれど、今のかよ子の目にはちっとも入ってきません。
「一学期は図書係で、遅くまで残らなきゃいけなかったし」
ここでちょっとだけ、かよ子についてお話ししておきましょう。
かよ子はわかば市に住んでいる、三年生の女の子。背はちょっと低め、体はやせ気味、髪型はいつでも二つのおさげ。丸っこい顔はいかにも子供っぽくて、たまにしか会わない親戚のおじさんやおばさんからはいつも一年生や二年生に間違えられてばかり。性格もレディバみたいに怖がりでひかえめ、自分から手を上げるなんてもってのほか。簡単にまとめちゃうと、おとなしくて目立たなくてちんちくりん、そんな女の子です。
これだけだと少し物足りないので、もう少しだけ、かよ子について教えましょう。いちばん好きな食べ物はイチゴの乗ったショートケーキ、いちばん嫌いな食べ物はピーマン。四つ上のお兄ちゃんがいますが、今は家を出てひとり旅をしています。ちょっとやんちゃで時々泣かされちゃったけど、よくいっしょに遊んでくれて、ときどきおやつを分けてくれた優しいお兄ちゃんでもありました。かよ子もお兄ちゃんのことが大好きだったから、家を出て行ってしまった時はとても悲しくて、一日中声をからして泣いていたくらいです。
「生き物係なんてぜったい大変だし、疲れちゃうよ」
さてさて、そんなかよ子が呟いたのは、「生き物係」という言葉でした。今日の学級会で係決めをして、たくさんある係の中からかよ子は「生き物係」に選ばれました――もっとも、これはかよ子が自分から「やりたい」と言い出したわけではもちろんありません。係決めの時に誰も手を上げないので、先生がみんなに「生き物係になってほしい人がいる人」と聞きました。すると、誰ともなく「かよちゃんがいい」なんて言い始めて、そのままあれよあれよという間にかよ子に決まってしまったのでした。かよ子は生き物係なんてちっともやりたくありませんでしたが、先生とみんながそろって言うので言い返せませんでした。
生き物係というのは、その名前の通り生き物の係です。学校で飼育している生き物をみんなでお世話して、元気に過ごせるようにしてあげるのが仕事になります。かよ子の学校ではお世話をしてあげる生き物として、ポケモンを何匹か飼っています。これはかよ子の通っている学校だけのことではなくて、周りにある別の小学校でもみんな同じなんです。もっともっと昔は、ポケモンではなくて普通のウサギやカエルを飼っていたのですが、それはみんないつの間にかミミロルやニョロモに変わって行きました。
何はともあれ、明日からは毎朝鳥小屋へ行かなければなりません。早起きするのはちょっと苦手で、いつもお母さんに「早く起きなさい」と怒られてから起きるのに、大丈夫なのでしょうか。かよ子はとても心配です。
「早く帰って、塾にいかなきゃ」
かよ子は学習塾に通っています。家から自転車で三十分くらいかかるちょっと遠い場所にあって、帰るころには道がすっかり暗くなってしまいます。おまけに、行くたびにたくさん宿題が出ます。とってもたくさんです。学校の宿題といっしょになかよくかよ子にのしかかって、全部終わるころにはへとへとになってしまいます。かよ子は塾なんて全然行きたくないのですが、お母さんが何べんも「行きなさい」と言うので、仕方なく通っています。
学校に行けば生き物係で、家に帰れば塾と宿題。かよ子の気が休まるのは、夜におふとんに入って寝るときくらいでした。
「明日大雨が降って、学校も塾もお休みになればいいのになあ」
雨でも降っちゃえばいいのに。そう思って空を見上げてみるけれど、あいにく空は雲ひとつないすっきりぶり。きっと明日もお日様がさんさんと地面を照らす、日本晴れのようなお天気になることでしょう。この分だと、雨なんてちっとも降りそうにありません。かよ子の周りだけ、どんより曇った雰囲気でいっぱいです。
うかない顔で足をずりずり引きずって、体までカビゴンみたいに重くなってしまったような気持ちになりながら、かよ子はそのまま家に帰りました。
*
お日様はすっかり沈んで、代わりにお月様が空にのぼるような時間になってからのこと。
「ただいまぁー」
ずいぶんと間のびした声を上げながら、かよ子は社宅の重たいドアを開けました。どうやら塾から帰ってきたようです。肩からさげたカバンはランドセルに負けずおとらず重そうです。くたくたになったかよ子が靴を玄関に脱ぎちらかして、ずっしり中身の詰まったカバンをゆらしながら子ども部屋へ入っていきます。子ども部屋には学習机がふたつありますが、使われているのはひとつだけで、それがかよ子の机になります。もうひとつの方はお兄ちゃんのもので、今はお兄ちゃんが留守にしているのでがらんとしています。
はぁーあ、とため息をついて、カバンを自分の学習机の上へ置きました。そのまま椅子に座り込むと、ぼーっと天井をながめ始めます。学校から家まで帰ってくるとすぐに自転車をこいで塾まで走って、そこで二時間たっぷり勉強してきたばかりなので、かよ子はもうへとへとです。でもこの後、学校の宿題もしなきゃいけません。うんざり、といった顔つきで、かよ子がほほを風船のようにふくらませました。
「もう、かよ子ったら。のんびりしてないで、早くごはん食べちゃいなさい」
「……はぁーい」
子ども部屋でぼんやりしているとお母さんがやってきて、かよ子に晩ごはんを食べるようにせかしました。かよ子のお母さんといったら、こんな風にいつも「早くしなさい」と言ってばかりで、とにかく急いでばかりいます。かよ子は(今から食べようと思ってたのに)と再びふくれっ面をして、しぶしぶ部屋を出てお茶の間へ行くことにしました。
お腹が空いていたかよ子は晩ごはんのマーボー豆腐と春雨スープをあっという間に平らげてしまうと、今度はお母さんに言われる前に自分からお風呂に入ることにしました。もし、ごはんを食べてからのんびりテレビなんて見ていたら、早速「早くお風呂にはいりなさい」「早く宿題をやっちゃいなさい」「早く寝なさい」の三点セットが来るに決まっていたからです。
「お母さんったら。あんなにせかさなくたって、かよ子だってちゃんとできるもん」
ひとりでほかほかの湯ぶねにつかりながら、かよ子は本日三回目のふくれっ面をして見せました。けれどそれも、体が温まっていくうちにだんだんほぐれて行って、いつしかゆるゆるの顔になっていきます。
こうやってあったかいお湯の中にいると、だんだん気持ちよくなってきて、このまますぐにふかふかのおふとんで寝てしまいたいなあと、かよ子はいつも思います。でも、そんな風にうまくはいきません。お風呂から上がったら、髪の毛を乾かして、パジャマに着替えて、学校の宿題をして、明日の時間割を見て、ランドセルに必要なものを入れて、目覚まし時計をセットして……まだまだやることはたくさんあります。かよ子はまたげんなりしてしまって、お湯の中に顔を半分くらい沈めてぶくぶくと泡を立てました。
お風呂から上がると、お母さんにドライヤーで髪を乾かしてもらって、着古したパジャマに着替えて、学校の宿題をがんばって片付けて、時間割を見て教科書とノートをつめて、すみっこに筆箱を押しこんで、最後に目覚まし時計をいつもよりちょっとだけ早くセットして。はーっ、と大きく息をはき出したかよ子は、これまた大きな大きなあくびをひとつすると、そのままもぞもぞとおふとんにもぐりこみました。買ったばかりの文庫本はいいところで止まっていました――パーティの最中に悪者がやってきて、主賓である婦人を誘拐してしまうという、お話がいちばん盛り上がるところです――し、ゲームは今のステージをあと少しでクリアできそうでした――金ぴかのイワークみたいなボスがなかなか倒せなかったけれど、今日お友達から「矢で相手の頭をねらうといいよ」と教えてもらいました――けど、かよ子は疲れてしまってどちらにも手がのびません。ぼんやりしたまま、おふとんの上でごろごろします。
明日は生き物係があるので、早起きして学校へ行かなきゃいけません。かよ子のクラスがお世話をするのは、グラウンドのいちばん奥にある「鳥小屋」にいるポケモンたちです。「鳥小屋」という名前なので、いるのはもちろんとりポケモンばかりです。かよ子もそこまでは知っていました。でも、じゃあ実際にどんなポケモンがいるのかと言われると、困ったことに一匹も浮かんで来ませんでした。なにせ、一度も見に行ったことがなかったのですから。
(とりポケモンって、どんなのがいたかなあ)
眠い目をこすって、かよ子は少し考えてみます。すぐに思い浮かぶのは、よく道ばたをちょこまか跳ねているおとなしいポッポ、ご近所のお姉さんが飼っているきれいな声のヤヤコマ、テレビでよく見る気性の荒いオニスズメ、海辺をのんびり飛んでいるキャモメ、暗くなるとどこからともなく集まってきて怖いヤミカラス。あとは通りすがりのトレーナーが連れていた、ちょっとふしぎな感じのするネイティ。こんなところでしょうか。鳥小屋にいるのはこの中のどれかかも知れませんし、ぜんぜん違うかもしれません。
ここでまた皆さんに少しだけ、かよ子のことについてお話しします。今度はかよ子とポケモンについてです。
かよ子の住んでいるわかば市やその近くの町では、普通は五年生になるまでポケモンを持てません。「ポケモンジム」というところへ通っていたりすれば、特別にポケモンを持つことができますが、わかば市にポケモンジムはありません。ですので、三年生のかよ子はまだポケモンを持つことができないのです。
少し話がそれますが、かよ子のお兄ちゃんについて。まだわかば市に住んでいた頃、お兄ちゃんはどうしてもポケモンがほしかったので、家からちょっと離れた場所でポケモンの研究をしているえらい博士にお願いをしました。博士はお兄ちゃんのお願いを聞いて、ポケモンのタマゴをプレゼントしてくれました。そのタマゴからかえったのが、お兄ちゃんのいちばんの相棒のガーディです。きっと今も、お兄ちゃんといっしょに旅をしていることでしょう。
さてさて、かよ子はまだポケモンを持つには早いので、もちろん自分のポケモンはいません。ですが、学校ではときどき「生活」や「道徳」の時間を使って、ポケモンとなかよくなるための授業をします。教室で先生のお話を聞くこともありますが、外に出てポケモンたちとふれあうこともあります。これは、五年生になってそのまま学校へ通うかポケモントレーナーになるかを選ぶときに、前もってポケモンに慣れておくための準備でもあります。ポケモンに触ったこともないのに、いきなりトレーナーになるのはちょっと難しいですからね。
時々そんな催し物をしているので、かよ子も何回かポケモンに触れたり、いっしょに遊んだりしたことがあります。いちばん前にポケモンに触ったのは、幼稚園に通っていた頃にあった「移動動物園」です。幼稚園まで何匹かポケモンをつれてきてもらって、見たり触ったりできるのです。これはかよ子にとっても楽しい思い出でした。ドードーやゴマゾウがやってきて、ずいぶんとにぎやかなものでした。首を曲げたドードーの頭をそっとなでてあげると、目を細くしてうれしそうにしてくれたのを覚えています。
小学校に上がってからは、一年生の時に先生につれられて行ったポケモンセンター見学がありました。ポケモンセンターで働いている人からここがどんな施設かを説明してもらって、傷ついたポケモンをあっという間に回復させるところを見せてもらったりしました。案内してくれた人のアシスタントとしてラッキーがとなりにいて、お別れの時に握手をしてもらいました。ラッキーの手は毛布みたいにやわらかくて、とっても気持ちよかったなあ……と、かよ子はときどき思い出すのでした。
最近だと、一学期の途中にもう一度ポケモンセンターへ行ったことでしょうか。今度はいろんなポケモンとふれあおうというもので、建物の外にある広場でポケモンたちと遊ぶことになりました。時間になるとみんな一斉に好きなポケモンのところへ走っていきましたが、ひかえめなかよ子はちょっと出遅れてしまいました。あれこれ迷ってから、かよ子はようやくピンクでまるまるとしたかわいらしいポケモンのプリンと遊ぼうと思いましたが、あいにくプリンは大人気で、ボールみたいにみんなの間を楽しそうに跳ね回っていました。
あきらめて別のポケモンを探してみると、一匹でぽつんと立っている小さなポケモンを見つけました。かよ子はその姿に見覚えがあって、すぐにそれがでんきリスポケモンのパチリスだということを思い出しました。パチリスは大きな木の実をかじっていて、ほほをいっぱいにふくらませています。かよ子はパチリスの仕草をかわいいと思って、いっしょに遊ぼうと近くまでかけよります。
「パチリスちゃん、かよ子と遊んで!」
ところが、パチリスの方は急に自分の方へ走ってきたかよ子にびっくりして、大きなシッポからバチバチッ! と放電してしまいました。今度はかよ子がおどろいて、その場に急ブレーキです。恐る恐るパチリスの方を見てみると、なんと近くの地面が真っ黒にこげています。パチリスが放電して、その電気が地面を焼いたのです。もしあんな電気に当たったなら、ひとたまりもありません。かよ子は小さなパチリスがとんでもないパワーを持っているのを見て、すっかり怖気づいてしまいました。
こんなことがあったので、かよ子はポケモンに触るのが少し怖くなっていました。そんな時に生き物係に当たってしまったのですから、もう災難と言うほかありません。生き物係はポケモンをお世話してあげることを通して、子どもとポケモンがなかよくなることが目的なのですが……。
(男子は大介くんだけど、ちゃんと朝起きれるかなあ)
生き物係はかよ子だけではありません。男子からもひとり、生き物係が選ばれました。それがすぐ近くの席に座っている大介くんです。大介くんは気のいい大柄な男の子で、かよ子もやさしくしてもらっています。なので、いっしょに係をやるのは決して嫌ではないのですが、朝がとっても弱くてよく遅刻してしまうという短所があります。さて皆さん、生き物係はいつお仕事をするか、覚えていますでしょうか。そう、朝一番です。朝に弱い大介くんが明日ちゃんと来てくれるかどうか、かよ子はとっても不安でした。
明日はちゃんと来てほしいなあ。かよ子は心細さを感じながら、そろそろ寝ることにしました。その前に、いっしょに寝るぬいぐるみを選ぶことにしましょう。学習机のとなりにある棚には、カービィとワドルディのぬいぐるみがなかよく並んでいます。カービィもワドルディもかよ子の大のお気に入りで、眠るときはいつもどちらかを抱いて寝ています。少し前まではメタナイトもいっしょにいましたが、いとこの公太郎くんがほしいと言ったので、かよ子はお姉ちゃん気取りであげてしまいました。
(今日はカーくんとワドちゃん、どっちにしよう)
棚にいるのはカービィとワドルディくらいで、ポケモンのぬいぐるみは見当たりません。お友達の中にはたくさんのポケモンぬいぐるみを持っている子もいましたが、かよ子は今までひとつも買ってもらったことがありません。かよ子はぬいぐるみを買ってもらうときに、お母さんから「ポケモン以外のぬいぐるみにしなさい」と言われたのを覚えています。と言っても、かよ子はポケモンぬいぐるみがどうしても欲しかったわけでもなかったので、ぜんぜん気にしていませんでした。代わりにカービィやワドルディがほしいと言うと、お母さんは喜んで買ってくれたものです。どちらも丸っこくてかわいらしくて、かよ子はとっても満足でした。
そう言えば、少し前のお誕生日のプレゼントにニンテンドー3DSを買ってもらった時も、お母さんは「いっしょにソフトもひとつ買ってあげるけど、ポケモンXとYは絶対にだめ」と何べんも繰り返していました。これもかよ子は特にほしくなかったので、あっさり「いいよ」と言って、もっとほしかった別のソフトを買ってもらいました。どうも、かよ子のお母さんはポケモンが好きじゃないようです。時々かよ子も理由を考えてみますが、いまいちピンと来ませんでした。
今にも閉じちゃいそうな寝ぼけまなこで考え事をしつつ、カービィとワドルディのどちらといっしょに寝ようかなと、かよ子がぬいぐるみを選びます。たくさん迷ってから、今日はワドルディを抱っこすることに決めたようです。ワドちゃん、いっしょに寝ようね、と言いながらワドルディを棚から下ろすと、枕元からおふとんへ入れてあげます。電気を豆球にすると、かよ子もおふとんに入りました。
ひとり残ったカービィはやさしい笑顔をうかべて、すやすや眠るかよ子とワドルディを見守っていました。
*
夜が明けて、ふたたびお日様が空に顔をのぞかせます。ジリリリリリ…と目覚まし時計がうるさく鳴って、かよ子がもぞもぞと起き出してきます。眠い目をこすりながら部屋を出て、キッチンにいるお母さんにおはようのあいさつをします。かよ子がひとりで早起きをしてきたので、お母さんは目をまん丸くして、珍しいこともあるものね、なんて言っていました。
「いってきまぁーす」
ベーコンエッグとトーストと、それからオレンジジュース。最後にいちごジャムを入れたヨーグルトを食べてしまうと、もうすっかりお腹いっぱいです。赤いランドセルをしょって、かよ子はひとりで家を出ていきます。例によって間のびした声で、いってきますを言うのも忘れずに。
お口を大きく開けてあくびをすると、かよ子は学校につながる道を歩いて行きます。こんな風にして朝早くお出かけすると、道の近くでいろんなポケモンを見ることができます。子どものコラッタが二匹でなかよくじゃれあっていたり、木の上にホーホーが止まっていたり。たまに見かけるとちょっとうれしいのが、オタチがシッポを使って立っているところですが、あいにく今日のオタチはまだおねむの時間のようで、一匹も見当たりません。
オタチがシッポを使って立ち上がるのは、ほんの少しでも遠くの方を見て、こわい敵が近付いてきていないか確かめるためなんだよと、日和田市からわかば市までサッカーの試合をしに来たというお姉ちゃんが話してくれたのを、かよ子はしっかり覚えています。お姉ちゃんがかわいいオタチを連れていて、かよ子がうれしそうに見ていたときに教えてもらったことです。へえ、オタチってそんなことしてるんだ。そう思って、かよ子はちょっとビックリしてしまいました。
好きなようにくつろいでいるいろんなポケモンたちを、遠くからぼんやり見つめていたかよ子ですけれども、ポッポが三羽並んでちょこまか跳ねているのを見て、あっ、と何かを思い出したようです。
「昨日はヘンな夢見ちゃった。かよ子がポケモンで、知らない誰かにお世話されてる夢だったっけ」
かよ子の見た夢は、なぜだかかよ子が鳥小屋にいて、しかもお世話をする方じゃなくてされる方で、全然知らない人からごはんをもらって食べるという、とってもヘンなものでした。もちろん、夢ですから何もかもぼんやりしていますし、本当に鳥小屋でとりポケモンになってたのかは誰にも分からないのですが、かよ子がそう思うなら、きっとそうなのでしょう。夢は自分だけのものですからね。
どうしてこんな夢を見たのかは、かよ子にもなんとなく分かります。今日から生き物係になって、鳥小屋でとりポケモンのお世話をしてあげなきゃいけないからです。寝ているときもそれが気になって気になって、夢にまで出てきてしまったのでしょう。せっかくなら、お世話をする方になってくれれば今日の練習になったのに。かよ子が残念そうに口をへの字にします。
さて、生き物係のお仕事をするために早く家を出たかよ子ですけれども、歩いている道がいつもよりずっと静かなことに気がつきました。人通りが全然なくて、しん、と静まり返っています。かよ子はわいわい騒がしいよりも静かな方が好きでしたけど、ひとりぼっちでこんなに静かだとさすがにちょっと心細いです。いつもはそんなに行きたくない学校に、今日に限っては早く行きたくなりました。
昨日帰りに歩いた河原沿いの道を、今度は逆向きに、学校へ向かって歩いていきます。途中で普通の道にもどって、そこで分かれ道を左へ行くと、学校はもうすぐそこです。分かれ道を曲がらずに、河原からずーっとまっすぐ進むと、おとなりの吉野市につながっています。吉野市は小さな海ぞいの町で、かよ子は数えるほどしか行ったことがありません。お母さんに、吉野市は遠いからひとりで遊びに行っちゃいけませんと、いつもきびしく言われているからです。
「あの駄菓子屋さん、また行きたいなあ」
でも、かよ子は一度だけお兄ちゃんといっしょにこっそり遠出して、吉野市まで遊びに行ったことがあります。吉野市には、年季の入った古い駄菓子屋さんがあります。他では見つからないような、めずらしくておいしい駄菓子がたくさんあって、かよ子はお小遣いを使いすぎないようにするのが大変でした。お店にいたおばあさんも優しい人で、あまりおばあちゃんの家に遊びにいけないかよ子から見ると、本物のおばあちゃんみたいでした。お兄ちゃんもとても楽しそうでした。
駄菓子屋さんはとっても楽しかったので、かよ子はまた行ってみたいなあ、と思っています。だから、学校へ行くときも吉野市につながる方の道をちらちら見るのですが、お母さんに怒られるのでやっぱり行けません。いっそのこと、生き物係なんてさぼって、駄菓子屋さんに遊びに行っちゃおうかな、なんて思ったりしますけど、かよ子にそんな度胸があるはずもなく。
「生き物係、やだなあ」
ため息といっしょにそうぼやくのがやっとやっと、なのでした。
*
ランドセルを揺らしながら学校まで歩いて、校門をくぐります。時間が早いので、まだ先生は外に立っていません。普段ならあいさつをするところなのですけど、今は誰もいませんので、静かに中へ入ってゆきました。めざす鳥小屋は、ここからもうちょっと歩かなければいけません。かよ子はこわごわ、おそるおそる、鳥小屋を探して歩きます。
歩いているうちに、ちゅんちゅんとポッポの鳴く声が聞こえてきました。かよ子がきょろきょろ近くを見回すと、小さな小屋があるではありませんか。あれこそ鳥小屋に間違いありません。すぐにとびらの前までやってきますが、それきりかよ子は動かなくなってしまいます。中に入らないといけないのですが、ポケモンにさわることに慣れていないせいで、どうにも気おくれしてしまいます。どうしようかな、どうしようかなと、鳥小屋の前でうろうろしていたかよ子でしたけれども。
「あっ、かよ子。もう来てたんだ、早いなあ」
「大介くん。おはよう」
ちょうどいい具合に、相方の大介くんが現れました。ここまで走ってきたみたいで、汗をびっしょりかいています。いつもみたいに遅刻しそうだったけれども、どうにか間に合ったというところでしょうか。かよ子は大介くんが来てくれたおかげで、すっかり元気を取り戻しました。
「じゃあ、中に入って様子を見てみようか」
かよ子が「とびらを開けて」とお願いする前に、大介くんはあっさり開けてしまいました。迷っていたかよ子には、もう大助りです。大介くんはねぼすけさんでしたが、起きていれば結構頼りになる男の子なのです。
ふたりでいっしょに鳥小屋の中に入って、まっさきに目に飛びこんできたのが、地面をぱたぱたハネている小さなポッポたちでした。かよ子が数をかぞえてみると、ポッポは三羽いるみたいです。入ってきたかよ子と大介を見て、目をまん丸くしているのが分かります。しばらくじーっと見つめて、ふたりが「お世話をしてくれる人」だと分かると、ごはんちょうだい、お水ちょうだい、なんて言っていそうな鳴き声を、代わる代わる上げました。
「ごはんほしいみたい。どこにあったっけ?」
「ここの裏にあるってさ。一学期にやってたあっくんから聞いたんだ」
ポッポはとてもおとなしくて、こっちの言うこともちゃんと聞いてくれそうです。最初はどうなることかと思いましたけど、これならしっかりお世話ができそうです。ほっと一安心、そう思って、裏にあるというポッポのごはんを取りにいこうとしたかよ子でしたが、その時ちょうど、小屋の奥に別のポケモンがいるのを見つけました。
「あのポケモン、なんだろう?」
かよ子が見つけたのは、ちょっと大きなヒヨコみたいなポケモンでした。木の箱に細かくちぎった古新聞をしきつめた手作りのベッドに大の字で寝っ転がっていて、なんだかとっても堂々としています。朝はポッポたちよりも遅いみたいで、目を糸みたいにしてグースカ眠っています。かよ子が静かに近づいてみると、なかなか愛嬌のある姿かたちをしていました。
「俺知ってるよ。こいつ、アチャモだよ」
「へえ、アチャモっていうんだ。どんなポケモン?」
ヒヨコみたいなポケモンは「アチャモ」という名前のようです。となりで見ていた大介くんが教えてくれました。興味をもったかよ子が尋ねてみると、大介くんは得意げにかよ子に話してくれました。
「ここから離れた場所にある、ええっと、ホウエンってところにたくさん住んでるんだ」
「あっ、知ってるよ。ここからだと、飛行機とかに乗らないといけないよね」
「そうそう。で、人なつっこくて元気がいいから、初めてポケモンをもらう人はアチャモにすることが多いんだって」
「こっちで言う、ヒノアラシみたいだね」
「うん。今はまだこんな風にちまっこいけど、いっぱいバトルして進化すると、すっげーかっこよくなるんだぜ!」
「今はヒヨコだから、ニワトリになるのかな?」
「そんな感じだったな。これみんな、ホウエンに住んでるいとこの姉ちゃんから教えてもらったんだ」
「ふぅーん、そうだったんだ。教えてくれてありがとう。この子、かわいいね」
大介くんからアチャモについてくわしく教えてもらって、かよ子はすっかり感心してうなづきました。確かにかわいらしい見た目をしていて、人なつっこそうな感じもします。進化したらかっこよくなるみたいですけど、かよ子はかっこいいものよりかわいいものの方が好きだったので、このままの方がいいなあ、と思いました。
ふたりが話をしていると、一匹でのんびり眠っていたアチャモが、もぞもぞと動き始めました。体をのっそり起こして、眠たそうに目を細めながらふるふると首をふっています。やがて、アチャモはかよ子とはたと目が合いました。あっ、とかよ子が気付いて目を大きく開けると、アチャモもかよ子をじぃーっと見つめはじめ……
(ぴょんっ)
……と、思いきや、アチャモが急にベッドから飛び上がって、小さな足でちょこまか走り始めたのです。えっ、と面食らったかよ子が思わず後ろを振り向くと、入ってきたときに開けたとびらがそのままになっているではありませんか。アチャモは開けっぱなしのとびらから、外へ逃げ出そうとしていました。
「こらっ、待てっ!」
大介くんがとっさに気を利かせて、走っていたアチャモをむんずと捕まえます。アチャモは大介くんに捕まえられたのが嫌だったのか、じたばた暴れてとにかく手が付けられません。その暴れん坊ぶりといったら、やんちゃだったかよ子の従兄弟の公太郎くんがおとなしく見えてしまうほどでした。目をまん丸くしてびっくりしたかよ子は、アチャモをおとなしくさせようとがんばる大介くんの横で、おそるおそる開けっぱなしのとびらを閉めることしかできませんでした。
けれど、アチャモにはそれが効いたみたいでした。とびらが閉まったのを見るとすっかりあきらめてしまって、大介くんの腕の中で暴れるのをやめました。大介くんが地面へ置いてあげると、ふてくされながらしぶしぶ元の手作りベッドまで戻って、また大の字になってグーグー眠り始めてしまいました。誰がどう見たって、完全なふて寝でした。
「びっくりしたあ。急に逃げようとするなんて。すごい暴れん坊ね」
「きっと外に出たがってるんだ。でも、勝手に出しちゃいけないからなあ」
かわいいヒヨコだと思ったら、その正体はとんでもないやんちゃ坊主だったのでした。
(生き物係、ちゃんとできるかなあ)
両腕をいっぱいに広げて寝ているアチャモはまるで怖いものなしとでも言いそうな顔つきをしていて、かよ子は今から早速先が思いやられるのでした。
ひと騒動ありましたが、かよ子は生き物係のお仕事をすることにしました。裏手から持ってきたふたつの袋には、それぞれポッポにあげるごはんとアチャモにあげるごはんが入っています。アチャモはあんな調子ですからちょっとしり込みしてしまって、とりあえずポッポに朝ごはんをあげることにしました。かよ子が手のひらで少しポケモンフーズをすくって、ポッポに差し出します。
「ほら、ポッポちゃん。ごはん、ごはん」
ごはん、と聞いたポッポはすぐさま気がついて、ちゅんちゅん鳴きながらかよ子の側までハネていきます。手のひらに顔を近づけて、そのままごはんを食べようとしますが……
「どうしたの? 食べないの?」
「かよ子、見てみろよ。あいつがこっちをにらんでるんだ」
振り向いてみると、さっきまでふて寝をしていたはずのアチャモがいつの間にか目を覚ましていて、ごはんを食べようとしているポッポをじとーっとにらみつけています。自分よりも先にポッポがごはんを食べようとしているのが気に入らないのでしょう。アチャモににらまれたポッポはすっかりすくみ上がってしまって、ごはんを食べたいのに食べられません。ポッポがかわいそうになったかよ子は、こわごわながらアチャモとポッポの間に入って、アチャモの目がポッポに届かないようにしてあげました。ポッポはようやく安心して、かよ子の手からポケモンフーズを食べはじめました。
さて、なんとかポッポには朝ごはんをあげることができましたが、問題はあのやんちゃ坊主です。かよ子がポッポにごはんをあげながら、困ったように後ろを振り向き振り向きしていると、大介くんがどんと胸を叩いて「アチャモは俺にまかせとけ」と力強く言いました。ここは、男の子の大介くんにお願いしましょう。
大介くんはアチャモの食べるごはんをかよ子と同じようにに手ですくって、アチャモの前に持っていきます。が、アチャモはぷいとそっぽを向いてしまって、ぜんぜん食べようとしません。大介くんは何べんもアチャモに食べさせようとしますが、右へ左へ首を振られるばかりです。
しょうがないなあ、と言いながら、大介くんはアチャモのベッドの近くにあったごはん皿を持って、そこに手からごはんを移しました。手をぱたぱた払って、ごはん皿をアチャモの前へ置きました。ところが……
「ちゃも!」
「あっ、こら! こいつ、何すんだ!」
威勢よく声をあげて、アチャモはごはん皿を豪快に蹴とばしてしまいました。ごはん皿はもちろんひっくり返って、ごはんが周りに飛びちります。もうこうなってしまうと、大介くんといえどどうしようもありません。お手上げ、といった感じで困った顔をしていると、アチャモはふんぞり返るとふん、と大きく鼻を鳴らして、またまた自分のベッドでふて寝をはじめてしまうのでした。
「どうしよう、大介くん」
「これじゃ、どうしようもないよ。アチャモは火も吹くから、怒ったらもっと手が付けられないんだ」
「えっ!? アチャモって、火を吹くの?」
「そうだよ。これが結構あなどれないんだ」
大介くんがかよ子に説明します。アチャモは体の中に「ほのおぶくろ」を持っていること、そこで火を起こして口から吐き出すことができること、アチャモの炎は見かけによらずとっても強いこと……などなど。聞けば聞くほど、アチャモは見かけによらずものすごい力を持っていることが分かってしまいました。
「火が使えるなんて……ぜったい危ないよ」
わんぱくなだけじゃなくて、危なっかしい火まで吐いちゃうなんて聞いて、かよ子はますます怖気づくしかありませんでした。
アチャモがちゃんと眠っているのを見てから、ひっくり返されたごはん皿を元に戻してごはんを入れなおし、お水を新しいものに変えてから、かよ子と大介くんは顔を見合わせます。ふたりして「これでいいよね」「こうするしかないよね」と言い合って、うんうんとうなづき合って、それからそそくさと鳥小屋を出て行ったのでした。
*
廊下にある手洗い場できちんと手を洗って、かよ子は自分の教室へ入りました。いつもよりも早く学校へ来たかよ子でしたけど、鳥小屋でずいぶん手こずってしまって時間がかかったので、もう登校してきているクラスメートが何人もいます。その中には、かよ子のお友達のひとりである由香里ちゃんの姿もありました。由香里ちゃんの周りには何人か別のお友達が集まっていて、みんなで何やらおしゃべりをしています。
「ゆかちゃん、それってミクちゃんだよね?」
「そうそう! こないだね、お姉ちゃんからもらったんだよ」
かよ子がちょっと気になって由香里ちゃんの方を見てみると、由香里ちゃんのランドセルに女の子の小さな人形が吊り下げられているのが見えました。どうやら、みんなそれに興味を持っているみたいです。
「せんぼんざくらー、よるにまぎれー」
「きみのこーえもー、とどかないよー」
「ここはうーたげー、はがねのおりー」
「そのだんとうだいで、みおろしてー」
わいわい騒いでいたお友達たちでしたが、由香里ちゃんが急に歌を歌いはじめると、みんなもそれに合わせていっしょに歌いました。
『さんぜんせーかいー、とこよのやみー』
『なげくうーたもー、きこえないよー』
『せいらんのそらー、はるかかなたー』
『そのこうせんじゅうで、うちぬいてー!』
サビの部分をみんなで歌い終わると、由香里ちゃんはニコニコ笑いながら、さっきの続きを話し始めました。
「お姉ちゃんがね、部屋でノートパソコン使って動画見てたんだけど、そしたらさっきの曲が聞こえてきて、それがすごいかっこよかったの!」
「『千本桜』!」
「初音ミクの歌!」
「それそれ! それでね、気に入って鼻歌歌ってたら、お姉ちゃんが気付いて、いっしょに見ようって言われたの!」
ランドセルの中から教科書とノートを出しながら、こっそり聞き耳を立てておしゃべりを聞いていたかよ子でしたが、由香里ちゃんのお友達のひとりが初音ミクと言ったのを耳にして、それならかよ子も知ってる、と心の中で手をポンと叩きました。
前に別のお友達の家へ遊びに行ったときのことです。「おもしろい動画を見つけたよ」と言われて、お友達が使っていたパソコンでその動画を見せてもらいました。プリンと初音ミクがいっしょに歌を歌っている手作りのアニメに合わせて、ふたつの声がうまく重なり合っていたすてきな動画でした。あんまりすてきだったので、かよ子はそのことを今でもはっきりと覚えています。
ですので、かよ子は初音ミクと聞くと、自然といっしょにプリンを思い出します。そして、プリンを思い浮かべると続けて出てくるのが、いつもかよ子の棚に座っているカービィです。プリンとカービィ、ピンクでまるくてかわいらしくて、そして歌を歌うのが大好きなのがいっしょです。でも、プリンの歌はとってもきれいで、思わず眠ってしまいそうになるくらいですが、カービィの歌はまったく逆のとんでもない音痴で、その威力といったら、デデデ大王のお城をこわしてしまうほどです。ちなみに、かよ子はプリンもカービィも好きですが、どっちかひとつと言われたら、カービィの方が好きだったりします。
(プリンにカービィ、どっちもスマブラで戦ってたけ)
お兄ちゃんはWiiとスマブラXを持っていて、かよ子もいっしょに遊んでいました。かよ子が使うのはもちろんカービィでしたが、お兄ちゃんはルカリオをよく使っていたのを覚えています。お兄ちゃんは上手でとっても強かったので、かよ子ではぜんぜん勝てませんでした。なので、よくふたりでチームを組んで、コンピュータがあやつる敵をやっつけたものです。これならケンカになりませんし、たまにかよ子がうまく決めると、お兄ちゃんは「うまいぞかよ子」と褒めてくれたものです。
そんな風にして、かよ子はお兄ちゃんとスマブラXで遊んでいましたけど、実はひとつ、ずーっと気になっていることがあります。
(ゲームに出てくるカービィと、ポケモンのピカチュウとか、プリンとか、ルカリオとかがいっしょに戦ってるのって、なんかふしぎ)
カービィはゲームの中のキャラクターで、ゲームの中にある世界で活躍します。でも、テレビや本でしか見たことのないルカリオはともかく、ピカチュウやプリンはかよ子も実物を見たことがあります。カービィとそんなポケモンたちがいっしょになって戦っているのが、かよ子にはずいぶん変わったものに見えていました。言ってみれば、アニメとかマンガとかの世界で、実物の人が動いているような感じがしたものでした。
「ゆかちゃんのお姉ちゃんって、今も家にいるの?」
「うん。五年生になったらトレーナーになって、モコちゃんといっしょに旅に出ようって思ってたんだけど、お母さんとお父さんに『このまま家にいて勉強してほしい』ってお願いされて、それでやめにしたんだって」
「そうなんだあ。さくらのお姉ちゃん、五年生になったら、すぐに家から出て行っちゃったよ」
「あたしもあたしもー。パパとママが『旅に出てほしい』って言ってたの見たー」
「お姉ちゃんね、中学受験するかわりに、さっきのノートパソコン買ってもらったんだよ」
「あっ、それ、わたしのいとこのお兄ちゃんもしなさいって言われてた! 中学受験!」
「こっちもこっちも!」
かよ子の家にもリビングにパソコンがありましたが、ちょっと型が古くてのんびり屋なので、かよ子はあまり触ったことがありません。お母さんがたまに立ち上げて、エクセルとかワードをいじっているのを見るくらいです。そういえば、中学受験がどうとかって、お母さんも言っていたような……そんなことを考えながら、またいつものようにぼーっとしていると、あっという間にチャイムが鳴る時間になって、担任の先生が教室に入ってきました。
先生があいさつをしてから、朝の会を始めます。
「ここにいるみんなは、火遊びをしたりしていませんよね?」
みんなが「してないよ」「してない、してない」と口々に言っているのを見た先生は「よろしい」とうなづいてから、どうしてこんなことを訊いたのかを話しました。
「最近、ここから少し離れた別の小学校で、子どもが自分の家で火遊びをしたんです」
「さいわい、すぐに大人の人が見つけて、部屋を少し焼いただけで済みました。ケガもなかったそうです」
「けれど、もし見つかるのがちょっとでも遅れていたら、家を全部焼いてしまう、大きな火事になっていたかも知れません」
先生は「子供が火遊びをしたおかげで、家が火事になりかけた」という大事なお話をしていますが、かよ子ったら、すっかりうわの空で、ちゃんとお話を聞いていません。先生から見えていないのをいいことに、ノートのすみっこでラクガキをしています。描いているのは、ポンポンの付いた帽子をかぶって、大きな剣を持ったカービィの絵です。目つきをちょっとキリッとさせると、いつもはぽよぽよとかわいらしいカービィが、なんだかずいぶん勇ましく見えます。
お兄ちゃんとはスマブラXでもよく遊びましたが、Wiiのカービィも同じくらい遊んでいました。かよ子とお兄ちゃんが1P2Pで協力して、いろんな仕掛けのあるステージをクリアしていくのです。こういうのだと、決まって年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんが1Pを取って、弟や妹はいつも2Pにされちゃうものなのですが、ちょっと変わったことに、かよ子とお兄ちゃんの場合は逆で、かよ子が1Pで、お兄ちゃんが2Pになることがほとんどでした。というのも、お兄ちゃんはカービィよりもメタナイトが使いたかったのですが、メタナイトは2Pでないと使えなかったからです。1Pは大好きなカービィの指定席だったので、かよ子にとってもうれしいことでした。
かよ子もこれはなかなか上手で、ほとんどのステージはちゃんとクリアできましたし、手ごわいボスにだって負けませんでしたけど、最後の最後に戦うボスだけは、どうしても倒せませんでした。というのも――これでおしまいだと思って倒した敵がよみがえって、悪い夢に出てきそうなくらいおそろしい姿に変身してしまったのですが、かよ子はこれがもう怖くて怖くて、それ以上ゲームを続けられなくなってしまうくらい怖がってしまいました。しょうがないのでこの時だけカービィを代わってもらって、お兄ちゃんが最後のボスをきちんとやっつけるまで目をしっかり閉じて、おまけに両手で耳をふさいでいたくらいです。
お兄ちゃんはへっちゃらで、あの怖い怖いボスもやっつけてたなあ……なんて、かよ子が考え事をしている間も、先生のお話はしっかり続いています。
「みんなはしないと思いますけど、火遊びは絶対にしてはいけませんよ。とても危ないですし、命に関わります」
「それと、家でほのおポケモンを飼っている人は、大人の人といっしょにきちんとしつけて、むやみに火を使わせないようにしてくださいね」
先生からお願いをされて、聞いていたクラスのみんながばらばらに「はい」「はい」「はーい」と返事をします。
「はぁーい」
かよ子もみんなに合わせるように、いつもの間延びした声で答えるのでした。
*
学校の授業がおしまいになると、今日もまた塾があります。昨日は算数で、今日は国語の日です。自転車のカゴに入った塾用のカバンをカタカタゆらして、かよ子はいつも通り塾まで走ります。二時間みっちり勉強でやっぱり大変な塾ですけど、不思議なことに、かよ子は昨日に比べてうれしそうな顔をしています。何かいいことがあるのでしょうか。
自転車を止めて教室へ入ると、いつも座っている席をすばやく取りました。ふう、と一息ついてから、机の上に置いたカバンからちょっと厚めの文庫本を取り出します。表紙には「放課後の時間割」という題名があって、若い男の人の背中と、イスにすわって男の人に話をする変わったネズミの絵が描かれています。これは塾の国語で使う課題図書で、ちょうどかよ子くらいの子どもに向けて書かれた児童文学です。塾でもらった本だからきっと難しくて退屈に違いないと思って、かよ子は最初読む気がしませんでしたけど、宿題をするためにしぶしぶ読んでみるとこれがなかなかおもしろくって、あっという間に全部読んでしまいました。すっかり気に入って、もう三回も読み直しているくらいです。
塾の授業が始まるまでの暇つぶしに、かよ子が文庫本を開いて読み始めました。途中から10ページほど読んで、これから次のお話が始まる、というところで、おとなりに誰かが座るのが見えて、かよ子は顔を上げました。
「あっ、一博くん」
「かよ子ちゃん、こんばんは」
一博くんはカバンを置いてイスを引くと、そっと静かに腰かけました。一博くんを迎えたかよ子はすっかりご機嫌で、ニコニコ笑っておとなりに釘づけです。かよ子だけじゃなくて、一博くんもうれしいみたいで、同じようにほほえんでいます。ふたりとも、なんだかとっても楽しそう。
かよ子と一博くんがふたりしてちょっぴりずつイスを引いて、おたがいにもっと近寄り合います。かよ子が笑うと、一博くんもにっこり。やっぱり、いつもよりずっと楽しそうです。
「かよ子ちゃん、宿題やってきた?」
「もちろん、ちゃんとやってきたよ。国語は算数よりもかんたんだし」
「すごいよかよ子ちゃん。僕は国語の方が苦手かなあ」
さっきから、かよ子はずっとニコニコしっぱなし。一博くんとおしゃべりするのが、よっぽど楽しいみたいです。
「一博くんは、今日も電車に乗って来たの?」
「そうだよ。ほら、これが定期券」
「わあ、ホント。吉野市役所前駅から、わかば市駅って書いてある」
使い古されて少し文字の消えかかった定期券を見せてもらって、かよ子がおどろいたように声をあげました。
一博くんは吉野市に家があって、そこから電車に乗ってこの塾まで通っています。吉野市にもいくつか塾はありますけども、残念なことに、一博くんに合う塾は見つからなかったとか。もう少し探してみると、かよ子が通っている塾の評判がよかったので、家からはちょっと遠いですが、ここに通うようにしたそうです。
「今日はシャーペンと消しゴムある? また、いつでも貸したげるからね」
「ありがとう、かよ子ちゃん。大丈夫、今日はちゃんと持ってきたよ」
かよ子と一博くんがなかよしになったのは、ちょうど半年くらい前のことでした。その日急いで塾に来た一博くんは、筆記用具を持ってくるのを忘れてしまいました。どうしよう、どうしよう、と困っていた一博くんを見たかよ子が、持っていたシャープペンシルと消しゴムを貸してあげたのです。ひかえめで内気なかよ子ですけど、こんな風に困っている子は放っておけなくって、意外と優しいところもあるのです。かよ子から書くものを貸してもらって、一博くんはとっても助かりました。「ありがとう」とお礼を言って、それからふたりはすぐになかよくなりました。
「今日は電車に乗ってるときに、ハネッコやポポッコがたくさん集まって、みんなで空をとんでるのを見たんだ。ハネッコもポポッコも、かわいいね」
「うん、お花みたいでかわいいよね。かよ子も見たかったなあ」
塾にいるとは思えないくらい、かよこは本当に楽しそうにしています。一博くんはもちろん男子ですけど、乱暴だったり、がさつだったり、やんちゃだったり、うるさかったりするところがこれっぽっちもなくて、いつでもやさしいおだやかな雰囲気につつまれています。周りにいる他の男子よりもうんと大人っぽくて、かよ子はいっしょにいるととても楽しい気持ちになったのです。ですから、かよ子は一博くんのことが大好きでした。一博くんの方もかよ子とおしゃべりをするのを楽しみにしてくれていて、同じようにかよ子のことがとっても好きみたいです。
ただ、ひとつ残念なことがありました。一週間のうち、かよ子は火曜日・水曜日・金曜日に塾へ通っています。いっぽう一博くんの方はと言うと、これが月曜日・水曜日・木曜日なんです。ふたりの通う日がずれていて、いっしょになるのはこの水曜日だけなのでした。ご覧のとおり週に一度だけなので、かよ子はそれだけがとても残念でした。ふたりとも、もっといっしょにおしゃべりしたり遊んだりしたいと思っているのですが、なかなかうまくいきません。
(もっとたくさん、一博くんといっしょにいたいなあ)
一博くんの目を見ながら、かよ子はそんな風に考えるのでした。
*
さてさて。生き物係になったかよ子は、あれから毎日朝早くに家を出て、鳥小屋でポッポとアチャモのお世話をしてあげているのですが……。
「ちょっと待って、待ってったら!」
「ちゃもちゃもー!」
おとなしいポッポはともかく、アチャモはちっとも言うことを聞いてくれません。鳥小屋の中をちょこまかちょこまかすばしっこく走り回って、のろまなかよ子では触ることもできません。アチャモを追いかけて同じ場所を何べんもぐるぐる回っているうちに、かよ子はすっかりへとへとになってしまいました。
アチャモはとってもやんちゃですから、ただ走り回るだけじゃありません。休んでいるポッポを後ろからくちばしで突っついたり、水を飲もうとしているところをひょいっと横取りしたりと、ちょっかいも出し放題です。ポッポはケンカをしたがらない性格ですから、アチャモにいたずらされても仕返しするどころか、ますますちぢこまってしまいます。
「もう! いたずらするんじゃないのー!」
「ちゃもー!」
あんまりいたずらが過ぎるので、かよ子はとうとう怒ってしまって、アチャモを捕まえようとますます気合いを入れて走り回ります。ですが、やっぱりアチャモはすばしっこくて、うまくいきそうにありません。
「ちゃもっ」
「こらー! ひとの頭に乗らないでー!」
かよ子が屈み込んだときをねらって、頭の上にぴょんっと乗っかって休んでみたり。
「よーし、ここまできたら、もう逃げられないんだからね。つかまえたー!」
「ちゃもちゃもー」
「あーっ! もう、こらー!」
がんばってやっとすみっこまで追いつめたと思ったら、すまし顔でまたくぐりをしていったり。アチャモが逃げていくのを、かよ子が足の間からくやしそうに見つめています。
いっしょに生き物係をしている大介くんも、かよ子と同じようなぐあいでした。暴れん坊のアチャモにやりたい放題いたずらされて、もうくたくたになっています。
「これじゃ、どうしようもないよ」
「ちっこいくせに、好き放題しやがって」
お皿に盛られたごはんをひとりでのんびり食べているアチャモから、ポッポたちをちょっとでも安全なところへ避難させるのが、ふたりにできる精いっぱいのことなのでした。
それからしばらくして、アチャモが派手に食べちらかしたごはんをホウキとちり取りで片付けながら、はぁーっ、と、かよ子はそれはそれは大きなため息をつきます。お行儀の悪いアチャモはと言うと、たくさん遊んでたくさん食べたので、ちょっと眠くなったみたいです。いつも通り、ベッドで大の字になって、気持ちよさそうに寝ています。やんちゃ坊主が静かにしている間に、大急ぎで鳥小屋のお掃除をして、ポッポのお世話をしてあげます。
「まったく、なんでこんなに暴れん坊なんだろうな」
「ホント、毎日たいへんだよ」
「俺、もう生き物係やだよ」
「かよ子だって、もうたくさん」
こんなドタバタが毎日のように続くので、かよ子も大介くんもすっかり参ってしまいました。
*
そんなある日のことです。かよ子はお母さんとふたりでテーブルについて、いっしょにごはんを食べています。献立はかよ子の好きなカレーです。プラスチックの入れ物から福神漬けをよそって、お皿のすみっこに盛り付けるのも忘れません。
今日は塾がないので、家でゆっくりしていられます。大好きなカレーをたくさん食べて、早めにお風呂に入って、部屋でちょっとのんびりしようかな。
「ねえかよ子、最近ずいぶん早起きしてるけど、何かあったの?」
……なんて、かよ子が考えていると、急にお母さんから質問が飛んできました。かよ子は口の中でもぐもぐしていたカレーを慌てて飲み込むと、お母さんからの質問に答えました。
「だって、生き物係しなきゃいけないから」
「あら、生き物係になったの? いつから? 二学期になってから?」
あーあ、お母さんの質問攻めが始まっちゃった。そう思いながら、かよ子がスプーンをお皿の上にカランと置きました。
「じゃあ今は、どんな生き物のお世話をしてるの?」
「ポッポとアチャモ」
「えっ、ポッポとアチャモ? かよ子はポケモンの面倒を見てるってこと?」
「うん」
「どうしてそういうことを早く言わないの。ちゃんと言わなきゃダメでしょ」
だって、塾とか宿題とかで忙しかったし、お母さんだって聞いてくれなかったし――かよ子は思わずそんなことを言ってしまいそうになって、慌ててお口にチャックをしました。こんなことを言おうものなら、きっとまたお母さんからお小言を言われるに違いありません。そうなると一段とうんざりしちゃうので、かよ子は絶対に言わないことにしました。
かよ子がそのままだまっているのを見たお母さんは、構わずに言いたいことをどんどん言っていきます。
「ねえかよ子、聞いてちょうだい。大事な話だから」
「ポケモンはね、とっても危ないの。力だって強いし、凶暴なポケモンも多いのよ」
でも、ポッポはおとなしいよ、と、心の中でちょっと言い返してみます。
「軽い気持ちでポケモンに関わって、大ケガをした人だっているわ。お母さんの知ってる人にもいたもの」
「それにアチャモなんて、火を吹くじゃない。火傷なんかしたら、大変だわ」
勢いよくまくしたてるお母さんに、かよ子はちょっとげんなりしながらも、一応ちゃんと聞いているふりはしておきます。
「大体、学校でポケモンに触れさせるのがおかしいわ。学校は勉強をするところのはずよ」
「PTAでも『ポケモンに関わる行事は減らしてください』ってお願いしてるのに、どうして聞いてくれないのかしら」
そう言えば、お母さんはPTAの役員をしていたのを、かよ子はふと思い出しました。PTAがどんなものか、かよ子にはさっぱり分かりませんでしたけど、お母さんの話を聞くと、学校の先生に保護者から何かお願いをしたりする会のようでした。お母さんが先生に何かヘンなことを言ったりしていないかと、かよ子はちょっと不安になりました。
「とにかく、かよ子はポケモンに関わっちゃいけません」
「生き物係だって、すぐにやめる方がいいわ。岡本先生に言って、係を変えてもらおうかしら」
いいよ、いいよと、かよ子は首を左右に振ります。わざわざお母さんが学校へ出て行って、先生に「係を変えてください」なんて言うところを思い浮かべたら、まるでかよ子がわがままを言って係を変えてもらったみたいです。ややこしくなるので、もうお母さんには静かにしておいてほしいと、かよ子は心から思いました。
せっかくのんびりできると思ったのに、また面倒くさいことになっちゃった。お皿のカレーライスをスプーンでつっつきながら、かよ子は口をへの字に曲げるのでした。
*
かよ子が生き物係になって、三週間くらいが経ちました。今日もどうにかポッポとアチャモのお世話を済ませて、かよ子が鳥小屋から出てきました。アチャモはいつも通り大暴れのやんちゃし放題で、かよ子は朝からすっかりくたくたです。しかも、今日の一時間目は体育の授業。体を動かすのが苦手なかよ子は、ますますぐったりしてしまいます。
げんなりした顔をしてふらふら歩いているかよ子の後ろから、誰かが近づいて来ています。だいぶ側によっても気がつかないかよ子に、その子は元気な声をあげて呼び掛けました。
「おはよ! かよちゃん!」
「ひろ美ちゃん、おはよう。今日も元気でうらやましいよ」
「違うよ、かよちゃんが元気なさすぎなんだよ」
「えー」
後ろからあいさつをしてきた子は、「ひろ美」ちゃんといいます。かよ子の言う通り、元気が取り柄の明るいちゃきちゃきした子です。かよ子と性格は正反対ですけど、家が近く同士だったので幼稚園の頃からよくいっしょに遊んでいて、かよ子のいちばんのお友達です。
「かよちゃん、ずいぶん朝早いね。何かあったっけ?」
「生き物係だよー。やりたくなかったのに、なんか知らない間になっちゃってた」
「あっ、そうだったそうだった。かよちゃん生き物係だったね」
「ひろ美ちゃんは体育係だったっけ。運動場に白線ひいたりするの」
「そうそう。あたし体育好きだし」
ひろ美ちゃんは運動が得意です。町内会のキックベースクラブに入っていて、土曜日になると朝から元気に公園を走り回っています。「かよちゃんもやろうよ」とちょくちょく誘っていますが、かよ子は家で本を読んだりゲームをしたりしている方が楽しかったので、いつも遠慮してばかりでした。
「けどいいなー、生き物係。あたしもやりたかった」
「ええー。そんなの、いっぺんやったら絶対思わなくなるよ」
「ポケモン触ったりとか、ごはんあげたりできるんでしょ? 楽しそうじゃん」
「楽しくないよ、ぜんぜん。ホントに毎日大変だもん。ひろ美ちゃんと代わってもらいたいくらい」
「でも、あたしポケモン触れないし」
「あ……そっか。ひろ美ちゃんは、ポケモンアレルギーだったっけ」
かよ子の口から「ポケモンアレルギー」なる、ちょっと聞きなれない言葉が出てきました。
ひろ美ちゃんは文字通りの健康優良児で、身体を動かすことは大得意です。ですが、生まれつき「ポケモンアレルギー」という少し変わったアレルギーを持っています。これは、ポケモンを触ったりなでたりすると、アレルギー反応が出てしまうというものです。
他の食べ物や動物は平気なのですが、ポケモンだけはどうしてもダメでした。ひろ美ちゃんの場合、ポケモンは文字通りぜんぶのポケモンで、種類や大きさは関係ありません。どんなポケモンであっても、必ずアレルギー反応が出てしまうのです。さいわい、少しくらいなら触っても涙が出たり軽いじんましんが出たりするくらいで済みますが、ポケモンを抱いたりなでたりすることはとてもできません。ですので、ひろ美ちゃんはポケモンとあまりふれあえないのです。
「翔太はアレルギーないから、家でイーブイなでたりしてるんだ。いっつもいいなーって思いながら見てるよ」
「ひろ美ちゃんの家、イーブイ飼ってるの?」
「ううん。うちで飼ってるというより、翔太が連れてる感じ。トレーナーズスクールで模擬戦やったりしてるし」
翔太くんというのは、ひろ美ちゃんの二つ下の弟です。ひろ美ちゃんと違って翔太くんにはポケモンアレルギーが無くて、どんなポケモンも触ったりなでたりすることができます。学校とは別に、ポケモントレーナーになるための勉強をする「トレーナーズスクール」というところにも通っていて、相棒のイーブイといっしょに他の子と模擬戦をしたりしているそうです。
「将来はプロのトレーナーになって、ポケモンリーグで優勝する、なんて言ってるわ」
「じゃあ、五年生になったら旅に出るのかな?」
「たぶんそうだと思う。お母さんったら翔太にかかりっきりで、すごい期待してるみたいだから」
ごはんの献立はいっつも翔太の食べたいものだし、休みの日なんてあたしをほっとらかして、翔太だけ車で送り迎えしたりしてるんだから。ひろ美ちゃんはちょっと不満そうに口を尖らせて、お母さんが翔太くんにべったりなことをかよ子に教えてくれました。
翔太くんが目指している「プロのポケモントレーナーになって、ポケモンリーグで優勝する」というのは、今の時代の子どもたちがいちばんにあげる夢です。並みいるライバルをみんななぎ倒して、かがやける王位につく。とても格好良くて、憧れる夢だと思います。かよ子は、お兄ちゃんもそんなことを言っていたのを覚えています。
翔太くんとお兄ちゃん、どちらも同じ夢を持っています。でも、王位につけるのはひとりだけです。たったひとりだけなのです。じゃあ、どっちが夢をかなえるのでしょう? 夢をかなえられなかった方は、どうするのでしょう?
かよ子がぼんやり考え事をしている横で、お母さんはそんな感じだけど、お父さんがよく遊び相手になってくれて、キックベースの試合だっていつも応援しにきてくれるから。少し表情をやわらかくして、そう付け加えました。考え事をやめたかよ子は、ひろ美ちゃんの話をうんうんと頷いて素直に聞いていました。
もうすぐ教室というところで、ひろ美ちゃんがかよ子に言いました。
「ねえ、かよちゃん。せっかくだから、もっとポケモンとなかよくなってみなよ」
「あたしはポケモン触れないけど、かよちゃんは触れるでしょ」
「別にトレーナーになんかならなくてもいいけど、ポケモンとなかよくできるのはいいことだし」
「できるのにやらないのは、もったいないよ」
生き物係のかよ子に、もっとポケモンとなかよくなってみたらいいよと、ひろ美ちゃんなりにアドバイスをします。かよ子はいつもみたいに口をへの字に曲げて、アチャモはやんちゃ坊主の暴れん坊で、仲良くなるなんてできっこないよ、と言いそうになりましたけども……
(あっ、そういえば)
ここでひとつ、鳥小屋でちょっと気になることがあったのを思い出しました。
(昨日はアチャモ、なんか外ばっかり見てたっけ)
それは昨日のことでした。アチャモはいつもと同じように自分の好きなようにしていましたけど、ポッポにいたずらしたり、かよ子を乗り物にしたりするようなことはしなくて、代わりにずーっと鳥小屋の外を見つめていました。広い広い青空を飛ぶスバメや、道端をひなたぼっこしながらのんびり歩いているのらニャースを目で追いかけてばかりで、かよ子や大介くんがどんなに呼び掛けてもぜんぜん答えなかったのです。
その時は、おとなしくしてて助かるなあ、としか思っていませんでしたけど、ひろ美ちゃんに言われてちょっと振り返って見ると、かよ子はなんだか急に気になってきました。
(アチャモ、何してたんだろ)
外をじいっと見つめるアチャモの姿を思いだして、かよ子は少しふしぎな気持ちになるのでした。
*
一週間がぐるりと回って、大変けれど楽しい、水曜日がやってきました。
いつもより少し早く塾に来て、かよ子がいつも座っている席のおとなりを先に取っていた一博くん。塾に入ってくるなり一博くんの姿を見つけて、ぱあっとつぼみのひらいたチェリムのようなお顔のかよ子。ふたりともとても楽しそうで、見ているこちらまでうきうきしてきちゃいそうなくらいです。
「かよ子ちゃんは学校で生き物係をやってるんだ。すごいね」
「そんな、たいしたことじゃないよ。まだまだうまくできないし」
「でも、ちゃんと毎日早起きして学校に行ってるんだよね。見習いたいな」
かよ子は一博くんに、学校で生き物係をしていることを話しました。一博くんの通っている学校でもほとんど同じようなことをしていて、朝早く起きてポケモンのお世話をしにいくところまで同じみたいでした。一博くんのクラスでは「うさぎ小屋」にいるポケモンの面倒を見ていて、そこにはかわいらしいミミロルがいるそうです。
「みんなミミちゃんのこと大好きでさ、生き物係はすごい人気だったよ」
「そうなんだ。ミミロルだったら、かわいくていいよね」
一博くんの学校にいるミミロルのミミちゃんはとってもキュートで、みんなのアイドルです。それに比べてかよ子の学校のアチャモといったら、見てくれは結構かわいらしいですけれど、中身はもう大問題児。みんなが生き物係をやりたがらないのも納得のやんちゃくれです。
生き物係の話から飛んで、一博くんが家で飼っているポケモンの話になりました。
「母さんが子どもの時にポケモントレーナーをしてて、今も家でポケモン飼ってるんだ」
「へえー。どんなポケモンなの?」
「ええっと、スボミーとチュリネだよ。ほら、この写真に写ってる」
僕の足元にちょこんといるのがチュリネで、母さんの腕の中でちんまり収まってるのがスボミーだよと、携帯電話で撮った写真を見せてくれながら、一博くんが詳しく教えてくれました。どちらもあざやかな緑色をしていて、やっぱりかわいらしいポケモンです。スボミーもチュリネも、心なしか顔つきがやさしくやわらかく見えます。一博くんやお母さんによく懐いているみたいですね。
「元々くさポケモンを育てるのが得意だったから、いるのはくさポケモンばっかりなんだ」
「ふたりとも、なんだかすごく幸せそう。一博くんとお母さん、いっぱいやさしくしてあげてるんだね」
「うん、どっちもよく懐いてくれてるよ。僕もときどきお世話してるんだ」
チュリネの頭に付いてる葉っぱはよく抜けて、抜けた葉っぱを料理に使ったりするんだ。苦いけど、食べると元気が出てくるよ、なんて具合で家で飼っているポケモンたちの様子を楽しげに話す一博くんに、かよ子はほほが緩みっぱなしのニコニコ笑顔でずっとうなづいていました。
「母さんと父さんが共働きだから、僕はよくひとりで留守番をしてるけど、ふたりがいるから寂しくないよ」
「一博くん、ちゃんとひとりでお留守番できるんだ、すごぉい」
一博くんは吉野市にある大きな団地で暮らしていて、お父さんとお母さんは共働きでよく家を開けてしまうそうです。なので、ひとりでお留守番をすることが多いとか。かよ子もときどき家でひとりになることがありますけど、そんなに長い時間お留守番をしていたことはなくて、せいぜいお母さんのお仕事が遅くなって帰ってくるまで待っているくらいのものでした。そういうときはお母さんがいないのをいいことに、こっそりゲームをして遊ぶのがひそかな楽しみだったりします。
しばらくお母さんがお世話をしているくさポケモンについてお話していた一博くんですが、ここで少し調子を改めました。
「僕はくさポケモンも好きだよ。みんなかわいらしいし、育つのを見るのはすごく楽しい」
「だけど僕、いつかほのおポケモンともなかよくなってみたいな」
「きっと抱きしめると暖かくて、優しい気持ちになれるよ」
ほのおポケモンという言葉を聞いて、かよ子は興味深そうに一博くんの話を聞いています。
「炎って、もちろん『強い』って感じもするけど、でも、『あったかい』って感じもすると思うんだ」
「寒いときは火に当たればあったかくなれるし、暗いときも火があれば明るくできて怖くなくなるよね」
かよ子は一博くんの言葉を、ふしぎな気持ちで聞いていました。
確かに炎は強い力を持っていて、気をつけないといけません。ですが、炎はただ強いだけじゃありません。人をあったかくしてくれて、暗いところを照らしてくれる存在でもあります。人にとってかけがえのない存在でもあるのです。
クラスの男子がよく言っている「ほのおポケモンは強そうでかっこいいから好き」なんて感じの、いかにも分かりやすい、男の子っぽい考え方とは一味違う一博くんの言葉を、かよ子はかみしめるようにして聞きました。
(やっぱり、一博くんってすてき)
一博くんの別の一面を見て、かよ子は今までよりももっと一博くんのことが好きになったのでした。
*
そんなこんなで迎えた、お休みの日のことです。今日は秋雨前線に見舞われて、外はあいにくの雨模様となってしまいましたが、かよ子は普段から家にいることの方が多いので、大して気にしていませんでした。
「宿題おーわりっ。何しよっかなあ」
朝のうちにさくさくと学校と塾の宿題を片付けてしまうと、かよ子はニンテンドー3DSを持って子ども部屋を出て行きました。することがない時は、お茶の間へ行ってテレビを見たりして過ごすのがお決まりのパターンでした。おもしろいテレビが無いときのために、ゲームをいっしょに持っていくのも忘れません。
ソファのはしっこに座ると、かよ子はテレビを点けてチャンネルを送りはじめました。この時間はどのチャンネルも朝のワイドショーを流していて、チャンネルを変えても変えても同じように見えます。おじさんおばさんが小難しい顔をして、ああでもないこうでもないとおしゃべりをしている様子を見ていても、かよ子にとってはあんまりおもしろくありません。テレビはつまんないや、そう思いながらも、かよ子はぼーっと画面を見つづけています。
「……際限なく増え続ける夢眠病患者は、過熱し続ける競争社会にさらされる、子どもたちの無言の反抗とも言えるのではないでしょうか」
「では、次のテーマです。『オーバーライド・キュア』の提唱者が、先日発表された『スピリット・トランスファ』のプロジェクトリーダーである榎本博士を『非人間的』と強く批難しました。アプローチの異なるふたつのポケモンを用いた人体の治療法をめぐって、各界で波紋が広がって……」
お昼からは何しよう、ゲームに出てくるアイテムのキーホルダーを集めてみようかな、なんてふわふわ考えながらチャンネルをぽちぽち変えていると、今までとはちょっと雰囲気の違う番組が始まりました。
「ポケモンリーグ オータムカップ」
テレビ画面のすみっこに出ているロゴはちっちゃくて見づらいですが、確かにそう書いてありました。オータムは「秋」って意味だよと、お兄ちゃんから教えてもらったのを思い出します。春夏秋冬の四回ポケモンリーグの大会があって、みんなそれに出場するんだ、そんなお話も聞いた気がします。これからきっと、オータムカップで行われたポケモンバトルの様子をテレビで流すのでしょう。
かよ子はポケモンバトルが大好きだったお兄ちゃんと違って、バトルにはあんまり興味がありませんでした。お兄ちゃんが好きでテレビでよく見ていて、たまに公園でやっていた野試合なんかにも連れていかれましたけど、やっぱりおもしろさがよくわからなかったのです。別に嫌いではなかったですが、かじりついて見るほどでもない、といった具合でした。そういえば、通学路の途中にある中学校でも、ポケモンバトルをする部活動がありました。でもかよ子といったら、朝から練習してて大変そうだなあとか、夕方までトレーニングして疲れるだろうなあとか、お休みの日も試合で休めないなあとか、そんなことばかり考えていました。
「かよ子、宿題は終わったの?」
「もう終わったよー。学校も塾もー」
お皿洗いを済ませたお母さんがキッチンから出てきて、開口一番「宿題は済ませたの」と聞きますが、かよ子は得意気に「もう終わったよ」と答えます。お母さんは「あら」ときょとんとした顔つきで、かよ子のいるお茶の間までやってきました。お母さんはそのままかよ子の近くまで歩いてきたのですが、ふっとテレビに目を向けたのが見えました。
テレビではポケモントレーナーがふたり入場してきて、今にもバトルが始まろうとしています。かよ子が何の気なしにテレビを見ているのを目にしたお母さんが、さっとすばやく画面の前に立ちました。
「もう宿題を済ませたなんて、えらいわ、かよ子。じゃあ、お母さんといっしょにWiiで遊びましょう」
「いいの? やるやるー!」
お母さんからWiiで遊ぼうと言われるのは珍しかったので、かよ子は喜んで賛成しました。どのゲームがいい? と聞かれて、かよ子は迷わずカービィを選びます。ちょうどディスクが入っていたままだったので、かよ子はリモコンを持ってストラップを手首にかけると、そのままゲームをスタートさせました。
「かよ子が1Pでいい?」
「ええ、いいわよ。お母さんはデデデ大王にするから」
かよ子はもちろんお決まりのカービィですが、お母さんはちょっと意外なことに、デデデ大王を選びました。デデデ大王は攻撃力の高いハンマーが武器ですが、体がカービィより大きくて小回りがききにくいので、慣れないとちょっと操作が難しい中級者向けのキャラクターです。お母さんはちゃんと操作できるのでしょうか……
……と、思いきや。
「わ、またお母さんに決められちゃった」
「この敵は剣を振り下ろすまでに時間がかかるから、そこを狙うといいわ」
大技を相手のスキにしっかり叩き込んだり。
「ここは右を選べば、星や食べ物がたくさんもらえるのよ」
「ホントだ。すっかり忘れちゃってた」
コースの特徴を熟知していたり。
「あっ、火の玉を連射してくる技!」
「その技はガードしちゃいけないわ。空を飛んでかわすのが正解なの」
ボスの強力な攻撃を華麗にかわしたりと、これがなかなかお上手。大ぶりなハンマーをかるがると操って、どんどん敵を倒していきます。自分よりも先へ進んでいることもしばしばあって、かよ子も感心することしきりなくらいです。
「お母さん上手上手ー」
「子どもの頃は、よくファミコンで遊んでたのよ。カービィも得意だったわね」
「へぇー、カービィって、お母さんが小さい頃からあったんだ」
「ええ。お母さんも好きだったから、かよ子といっしょに遊べてうれしいわ」
その頃はデデデ大王は敵で、最後の方のボスで出てきたのよ……と、お母さんがかよ子に豆知識を披露して見せました。
かよ子の操るカービィが、大きな剣を何度もふるってボスを豪快になぎ倒したところで、ふたりともちょっと休憩することにしました。今日は心なしかお母さんの機嫌が良さそうに見えるので、かよ子は前から気になっていたことをこっそり聞いてみました。
「あのね、お母さん。この前3DSのカービィ買ってもらったときに、ポケモンXYはダメって言ってたけど、どうして?」
「あ、かよ子は別にほしくないけど、カービィが大丈夫で、ポケモンがダメなのはどうしてって思って」
聞きたかったのは、お母さんが前に言っていた「ポケモンXYはダメ」というのはどうしてか、ということでした。お母さんのご機嫌を損ねたくないので、「別にほしくない」と付け加えるのも忘れないあたりが、かよ子が意外にしっかりしている証拠です。
かよ子がこんな風にちゃんと気を配ったので、訊ねられたお母さんは別に怒ったり不機嫌になったりすることもなく、かよ子の目を見つめながら、きちんとした態度で質問に答えました。
「かよ子は、ゲームのポケモンがどんな風な内容か、知ってる?」
「ポケモンを捕まえて、戦わせて、最後はチャンピオンになるっていう、そんなゲームよ」
お友達がみんな遊んでいるので、かよ子だってそれくらいのことは知っていました。
「あれはね、かよ子。よくないゲームなの。特に、かよ子みたいな子どもには」
「現実にできることとそっくりだから、あんな風に簡単にトップになれるって、みんなそう思っちゃうの」
「だけど、現実はそんなにうまく行かない。ゲームみたいには、うまく行かないの」
「みんなを勘違いさせて、ダメな方向へ行かせちゃう」
「勘違いして家を出て行って、外の世界で大変な目にあった人は、うんとたくさんいるわ」
「お母さんが子どもの頃からずっと変わらない。本やテレビや映画だったのが、ただゲームに変わっただけなの」
「お母さんは家のことをたくさんしなくちゃいけなかった。だから旅には出られなかったけど、きっとそれでよかったのよ」
「だからね、かよ子。ポケモンのゲームはダメなの。かよ子は遊んじゃいけないの」
お母さんがとっても真剣な様子で「ポケモンのゲームを遊んじゃいけない」と言うので、かよ子は流されるままうんうんとうなづきますけど、ここでちょっと心配になってきたことがあるので、恐る恐る聞き返してみました。
「あのね、お母さん、お母さん。カービィは? カービィは大丈夫?」
このままだと勢いあまって大好きなカービィまでばっさり禁止されちゃう気がして、かよ子は不安になって訊ねずにはいられませんでした。ゲームは全部ダメで、もっとたくさん勉強しなさいとか、毎日塾に行きなさいとか、そんな風になったらたまりません。3DSの方はせっかく最後のステージまでたどり着いて、後はデデデ大王をさらった黒幕のクモみたいな敵をやっつけるだけってところまで来ていたので、ちゃんとクリアしたかったのです。
ところが、お母さんの答えは、かよ子にはちょっと意外なものでした。
「大丈夫。カービィは、やりすぎなきゃいいわよ。かよ子はちゃんと勉強もしてくれるから、それは禁止したりしないわ」
「ホントに?」
「ええ。こんな風に、見ててちゃんと『ゲームだ』ってわかるから。だから、心配しなくてもいいのよ」
お母さんはデデデ大王を動かして、すごく高いところからジャンプして飛び降りたり、ふわふわとホバリングをしたり、ハンマーをぶんぶん振り回したり、勢いをつけてハンマーを投げたりして、遊んでいる様子をかよ子に見せました。確かにお母さんの言うとおり、これはいかにも「ゲームだ」って感じがします。
「お母さんはね、かよ子には家にいてほしいと思ってるの」
「家にいて、学校に通って、きちんとした普通の子になってほしいの」
「学校や塾でしっかり勉強をして、ちゃんとした仕事をする大人になるのが一番いいことなのよ」
「かよ子には、お兄ちゃんみたいになってほしくないの」
お兄ちゃんみたいにはなってほしくない。お母さんからそんな風に言われて、かよ子はとても複雑な気持ちになりました。
かよ子には、お兄ちゃんみたいにポケモントレーナーになって、いろんなところを旅してみたいなんて気持ちはありません。お母さんが言うように、家にいて、学校に通って、勉強している方が合っている気がしています。でも、かよ子はお兄ちゃんのことが大好きです。やんちゃで男の子っぽいお兄ちゃんでしたけど、かよ子はお兄ちゃんにやさしくしてもらった思い出がいっぱいあります。お兄ちゃんはいつもかよ子を大事にしてくれていたのです。
ですから、お母さんから「お兄ちゃんみたいにはならないでほしい」なんて言われると、お兄ちゃんがお母さんに嫌われているような気がして、そしてなんだかかよ子まで悪く言われているような気がして、とても悲しい気持ちになりました。
「かよ子は家にいて、いい子にしててちょうだい」
「いい? かよ子。お母さんとの約束よ」
お母さんから「いい子にしてて」と言われて、かよ子は難しい顔をしながら、なんとなくうなづくことしかできなかったのでした。
*
ちょっとした事件が起きたのは、いつものようにごはんを食べてから、家を出ようとしたまさにその時でした。
「かよ子ー、大介くんのお母さんから電話よー」
「えっ? 電話?」
かよ子が玄関口から慌てて取って返して、お母さんから受話器を受け取ります。電話の向こうでは、大介くんのお母さんが申し訳なさそうな口調で、かよ子にこんなことを言ってきました。
「実は、大介が具合を悪くしちゃって……今日は学校へ行けなさそうなの」
「うそ!? 大介くんが!?」
「毎日がんばって早起きしてたんだけど、無理してた分、急に疲れが出ちゃったみたいで……」
まさしく晴天のへきれきというところでしょうか。無理がたたったのか、大介くんが体調を崩してしまって、学校へ行けそうにないというのです。連絡網だとずいぶん離れているかよ子に電話をしてきたのは、同じ生き物係だったからに違いありません。かよ子は頭をでっかいハンマーでぶん殴られたようなショックを受けました。
(大介くんがお休みってことは……もしかして今日、かよ子がひとりでお世話するの!?)
そう、そこが問題だったのです。
生き物係のお仕事といえば、ポッポとアチャモの面倒を見ること。大介くんが来られないということは、かよ子がひとりで全部見てあげなきゃいけないということなのです。
「……どうしよう。ひとりぼっちなんて」
というわけで、かよ子はひとりで鳥小屋の前までやってきたのでした。
「はあーあ、かよ子も休みたかったなあ」
電話を受けたときはそんな風に思いましたけど、もうお母さんにしっかり朝ごはんを食べて、ランドセルもしょって、黄色帽子まできちんとかぶって学校へ行く気まんまんなところを見せてしまった手前、今から体の具合が悪いから休む、なんて言っても信じてもらえるわけがありません。あきらめて学校まで歩いて来ましたが、その足取りったらもう、重たいなんてものじゃありませんでした。
いつまでもこうして鳥小屋の前で立っていてもしょうがないので、かよ子は思い切って中へ入りました。いつものように三羽のポッポがかよ子をお出迎えしてくれて、そしてあのやんちゃなヒヨコは……
(あっ。今日もまた外見てる)
かよ子には目もくれずに、外に見える人やポケモンの姿を、じーっと見つめつづけていました。
ポッポにごはんやお水をあげて、代わる代わる遊んであげている間も、アチャモはずっと外ばかり見つめています。今日は騒いだり走り回ったりすることもありません。ただ、外を見ているだけなのです。
静かにしてくれてほっと一安心、かよ子はそう思いつつも、普段とは別の理由でアチャモのことが気がかりでした。
(アチャモったら、なんか……さみしそう)
広い外の世界を見ているアチャモの背中は、毎朝見ているやんちゃな姿とはかけ離れたもので、どことなく寂しさが漂っていました。まるで、目の前に自分のほしいものがあるのに、それに向かって手をのばすことさえできずにいるよう。かよ子はいつの間にか、アチャモを今までとちょっと違う風に見ていることに気がつきました。
普段のやんちゃな様子を思い返してみても、今だと少し印象がちがっている気がしました。アチャモはちょこまか走っていたずらし放題ですが、それだけ大暴れしているにもかかわらず、なぜだかちっとも楽しそうに見えないのです。かよ子や大介くんをからかったり、ポッポにちょっかいを出して我がもの顔で振る舞っていても、笑っていたのを見たことがありません。
「やっぱり、外に出てみたいのかな」
アチャモといえば、忘れもしない、初対面のときの出来事があります。開きっぱなしだったとびらから、ダッシュして外に逃げ出そうとしたことがありました。単なるいたずらだと思っていましたけど、こうやって外ばかり見ている今のアチャモとあわせると、外に出てみたいんじゃないかな、とかよ子は思うのです。
外かあ。改めて鳥小屋の中を見回してみると、ちょっと狭苦しくて、息苦しい感じがします。閉じ込められているという感じがぴったり来るのです。アチャモはちょこまか走り回りますが、ぴょんぴょん飛んで障害物を乗りこえ乗りこえといった様子で、自由に思い切り駆け回れるわけではありません。外に出たがる気持ちも、分かる気がします。
結局今日はずっと静かにしたまま、アチャモはその場から動きませんでした。
そんなことがあったので、かよ子は授業中もずっとアチャモのことばかり考えています。元からぼーっと考え事をすることが多いですけど、今日は一段と深く物思いにふけっているようです。
(あんなにやんちゃするのは、ずっと狭いところにいるからかな。いつからいるんだろ?)
アチャモがいつからあの鳥小屋にいるのかは知りませんが、少なくとも一学期の頃からいることは間違いありません。それからずっとあの中にいて、外の世界に出られなかったら、気持ちがささくれ立ってしまうのも分かる気がします。いわゆる、ストレスがたまっているのかも知れません。
ホントは広い場所を好きなように走り回って、涼しい風を体いっぱいにあびたりしたいんじゃないかな。かよ子の想像でしたけど、そんなに大きく外れているような気もしませんでした。でも、勝手に外に出したりしたら、先生に叱られちゃいます。かよ子にはできそうにありません。
(お外に出たい、かあ)
かよ子が見るかぎり、アチャモはお外に出たがっていると思います。でも、外は車も走っていますし、野生のポケモンだってうろついています。鳥小屋の中にいる方が、安全なのは間違いないです。それでもアチャモは外に出てみたくて、スキを突いて逃げ出そうとしたり、外をジッと見つめたりしているのです。外に出れば広い場所があって、自分の思うように生きられて、狭い場所で閉じこもっていなくて済むことを分かっているからなのでしょう。
ふと、かよ子はあることに気がつきました。鳥小屋のあの息がつまるせまくるしい感覚は、なんとなく、本当になんとなくですけど、自分の家にいるときにも感じるような気がしました。単純に家が広くないということもありますし、他にも何か理由があるんじゃないかと、かよ子は思います。
(お外……かあ)
もし自分がアチャモだったら、「お外」はどこになるんだろう……と、かよ子がどんどん考えることを広げていると。
「では次、かよ子ちゃん。三番の答えを言ってください」
「あっ……は、はい。315、です」
「はい、正解。よくできました」
いきなり担任の岡本先生に当てられて、かよ子が慌てながらもちゃんと答えます。最初に問題を解いておいて、それから考え事をはじめたので助かりました。かよ子はふう、と息をついて、ハンカチで冷や汗を拭います。と、ちょうどその時です。
(そうだ。先生にアチャモのこと訊いてみればいいんだ)
かよ子よりもずっと学校のことに詳しい先生なら何か知ってるかもと、かよ子はひらめきました。そうと決まれば善は急げ、さっそく行動開始です。
お昼休み。かよ子は給食をいつもより早く全部食べ終わると、机でプリントを採点していた岡本先生に声を掛けて、あのアチャモについて訊いてみました。
「あのね、先生。アチャモって、いつから学校にいるんですか?」
「アチャモ? ああ、かよ子ちゃんと大介くんがお世話をしてくれてる、あのアチャモのことだね」
先生は、ちょっと待っててね、とかよ子に言付けると、職員室まで走っていきました。五分くらいしてから戻ってきて、改めてかよ子に話しはじめます。
「聞いてきたよ。あのアチャモは、二年くらい前から学校にいるみたいだね」
「えーっ! そんなに前から?」
「うん。元々この辺りで迷子になってたのを井上先生が見つけて、学校で飼うことにしたそうなんだ」
岡本先生が聞いたところによると、アチャモはかよ子がピカピカの一年生だった頃に井上先生に見つけられて、それからずっと鳥小屋で暮らしているみたいでした。二年前と聞いて、かよ子はすっかりおどろいてしまいました。大人の二年はあっという間ですけど、かよ子くらいの子どもの二年というのは、それはそれはとっても長くて長くて、気が遠くなっちゃいそうなくらいなのです。
「たまには、お外に出してあげたりするんですか?」
「どうだったかな。学校から逃げ出しちゃうといけないから、あんまり外には出してないと思うよ」
もし、岡本先生が言っていることが正しいなら、あのアチャモは二年間ほとんどずっと、鳥小屋の中で暮らしていたいたことになります。外に出たいと思いながら、ずっとずっと、ずーっと中にいたかも知れないのです。
(そんなに長い間、小屋の中にいるんだ)
一生懸命ふつうを装って、岡本先生に心配されないようにしていましたけど、本当はもう気が気じゃなくて、胸がきゅうっと詰まってしまっていました。
かよ子の頭の中が、見る見るうちにアチャモのことでいっぱいになってしまいました。
*
(アチャモ、今頃どうしてるかな。また外ばっかり見てるのかな)
それからというもの、ちょっとでも時間があればアチャモのことを考えるようになってしまって、普段からちょっとぼーっとしているのが、ますますぼんやりさんになってしまったかよ子ですが……。
ここで、またまた大変なことが起きてしまいました。
今日は水曜日。国語の塾がある日です。いつもと同じようにすみっこの席にすわって、おとなりに一博くんが来るのを今か今かと待ちわびます。すると、これまたいつもと同じように、カバンを提げた一博くんが教室に入ってきました。かよ子がこっちこっちと合図を送ると、一博くんはすぐさまかよ子の近くまでやってきます。
「こんばんは、一博くん」
「かよ子ちゃん……」
けれど、ちょっと様子が変です。いつもよりずっと元気がなくて、今にもしおれてしまいそうな顔をしています。かよ子は一博くんのことが心配になって、大丈夫かどうか訊ねてみました。
「どうしたの? なんだか、元気がないみたいだけど……」
「あのね、かよ子ちゃん。僕……」
次に一博くんの口から飛び出したのは、かよ子がこれっぽっちも想像していなかった言葉でした。
「来月に、延寿市に引っ越すことになったんだ」
「……えっ?」
「父さんの仕事の都合で、急に転勤することになって、それで……」
一博くんは来月にも、わかば市から遠く離れた延寿市へ引っ越すのだと、かよ子に言いました。
いきさつはこうでした。一博くんのお父さんは大きな銀行で働いていて、こんな風に突然転勤が決まることがしばしばあります。延寿市にある支店へ移ることが決まって、すぐにでも引っ越さないといけなくなりました。会社の都合で単身赴任もできなくて、一家総出でのお引越しになるそうです。
引っ越すと聞いたかよ子は、目の前が真っ暗になりそうでした。
「うそ……一博くん、引っ越しちゃうの……?」
「僕もね、昨日の夜に聞いて、びっくりしたんだ」
「それじゃあ、塾にも来れなくなっちゃう……?」
「うん……。今週でおしまいになって、来月の中頃には引っ越すんだって」
あまりのできごとに、かよ子は今にも泣き出しそうな顔になりました。やさしくて、おだやかで、でもちゃんときりっとしていて、側にいるだけで楽しい気持ちになれた一博くん。大好きな一博くんがいたから、かよ子はつらい塾にもがんばって通っていました。それが、急に引っ越して遠くへ行ってしまう、お別れになってしまうと聞いて、言葉が出なくなるくらいのショックを受けたのです。
半べそになっているかよ子を見て、一博くんもとてもつらそうな顔をしています。一博くんだって、かよ子といっしょにいる時はいつもとても楽しい気持ちになったのです。内気だけどやさしいかよ子をすてきだと思っていて、一博くんもかよ子のことが大好きでした。そんなかよ子と別れ別れになるのは、胸がはりさけそうになるようなことだったのです。
ふたりで寂しさを分かちあうように、かよ子と一博くんが机の下でそっと手をつなぎました。おたがいに涙をためた目で見合って、何も言わずに、ただじいっと見つめあいます。
ぼう然としたまま国語の授業を形だけ受けて、ふらふら運転の自転車で何度も転びそうになりながら、かよ子はどうにか家まで帰りました。靴を脱ぎちらかしながら玄関を抜けて中へ上がりましたが、お母さんからの「おかえりなさい」は聞こえて来ません。代わりに、誰かと電話をしているような声が聞こえてきます。
「ええ、はい……そうなんですか。本当に、あの子が……」
なんだか大変そう、かよ子は一瞬だけそう思いましたけど、中身はちっとも耳に入ってきませんでした。それよりも一博くんのことでもう頭がいっぱいで、他には何も考えられませんでした。この時ばかりは、あのアチャモのこともカヤの外です。大好きな一博くんが引っ越してしまうという悲しいできごとを、かよ子はまだちゃんと受け止められていなかったのです。
子ども部屋に入ってドアを閉めると、学習机の椅子にすわってそのままうなだれてしまいます。目を伏せたまま、少しの間ぼんやりしていましたけど、やがてまぶたの裏から涙がいっぱいあふれてきて、止められなくなってしまいました。
「一博くん、引っ越しちゃうんだ……」
かよ子はかすれた声でそう呟いて、とうとう泣き出してしまいました。
長い長い電話が終わったお母さんから、早くお風呂に入りなさいと言われるまで、何べんも何べんもしゃくり上げて、ずっとずっと、泣いていました。
*
木曜日は塾のない日で、家に帰ってからゆっくりできます。ですから、普段なら楽しみな曜日なのですが、今のかよ子にとっては少しも楽しみじゃありませんでした。
「それでさー、この前の日曜日に小金市の自然公園行ってきたんだけど、そこで日和田市のジムリーダーが来ててねー」
「うん……」
「あたしに話しかけてくれて、アレルギーでポケモンに触れないんですって言ったら、いろいろ相談に乗ってくれたんだー」
「そうなんだ……」
「なんかこう、どこにでもいそうなお姉ちゃんだったけど、やさしくていい人だったなー」
となりをいっしょに歩いているひろ美ちゃんの話もどこか上の空で、聞いているのか聞いていないのかもはっきりしません。ひろ美ちゃんは楽しそうに話していて、かよ子がすっかり落ちこんでいることにはぜんぜん気づいていません。
歩いているうちに一戸建ての家がならぶ住宅街に入って、ここでひろ美ちゃんとはお別れになります。ひとりになったかよ子は肩を落として、とぼとぼと家へ向かいます。チラシがいっぱい入った郵便受けがお出迎えして、日に当たって色あせた紙の貼られた掲示板を横目に見て、コンクリートの階段を二階三階と登ると、ようやく家までたどり着きました。
「ただいまぁー」
ため息まじりに鍵を開けてドアを引くと、かよ子はしずんだ声でただいまの挨拶をしました。
「ああ、お帰りなさい、かよ子。ちょうどよかったわ」
「お母さん……どうかしたの?」
きょとんとした表情で、かよ子が今にも出かけようとしているお母さんを目にしました。いつもならこの時間はお仕事に出ていて、帰ってくるのはいつも七時を回ってからになるのに、今日に限ってはもう家に帰ってきていて、そうかと思ったらこれからどこかへ出ようとしているのです。
「これからね、急に浅葱市まで行かなくちゃいけなくなったの」
「えっ? 浅葱市? そんな遠くまで?」
「そう。仕事で忙しいのに、手間ばっかり掛かっちゃうわ」
鏡の前で慌ただしくお化粧をしているお母さんは、どことなく不機嫌そうで、かよ子の目から見てもイライラしている感じがしました。こういう時のお母さんには、あまり下手なことは言わない方がいいのですが、どうしてこれから浅葱市なんかへ行かなきゃいけないのか、それだけはとても気になりました。
遠慮しいしい、言葉を選び選び、恐る恐るのおっかなびっくりで、かよ子はお母さんに訊ねてみました。
「あのね……お母さん。どうして、今から浅葱市に行かなきゃいけないの?」
「どうしてって? お兄ちゃんのせいよ」
「お兄ちゃん?」
お母さんはぶぜんとした表情をしながら、かよ子に浅葱市へ行く理由を簡単に説明しました。
「お兄ちゃんがね、旅をしてる途中で浅葱市の近くまで来たんだけど、そこで……少し大変なことになったの」
「旅をしている間にいろいろあって、相手の子の親とも一度話をしなきゃいけなくて……」
「……はあ。まったく、こんなところまであの人そっくり。本当にどうしようもないわ」
説明は悪い意味で簡単で、何が起きたのか詳しく分かるものではありませんでした。けれどお母さんの様子と、ぽつぽつ出てきた言葉をつなぎあわせてみると、ポケモントレーナーとして旅をしていたお兄ちゃんの身に何かよくない事が起きたみたいでした。お兄ちゃんに何かあったんだ、かよ子は急に強い胸騒ぎをおぼえて、落ち着いていられませんでした。
「お母さん、かよ子も……」
「きっとどうにかなると思うから、かよ子は心配しないで。お留守番をしててちょうだい」
かよ子もいっしょに行く、そう言おうとしたのを知っていたのかは分かりませんが、お母さんはかよ子の言葉を途中でさえぎる形で「お留守番をしてて」と言いつけました。お母さんがとても強い調子で言うので、かよ子はそれ以上言えなくなって、だまったままうつむいてしまいます。
テーブルの上にのせられてラップをかけられた大きなお皿を指さして、お母さんがこれが今日のかよ子の晩ごはんよ、と言いました。続いてキッチンへ行って冷蔵庫を開けると、明日の朝ごはんの冷凍焼きおにぎりだから、レンジでチンして食べて、とかよ子に教えます。多分明日の晩ごはんまでには帰って来られないから、塾が終わったらコンビニでお弁当を買って食べなさい、最後にそう伝えて、かよ子にお小遣いとして千円札を一枚渡しました。もやもやした気持ちのまま、かよ子は受け取った千円札を折りたたんで手の中にしまいこみます。
「きっと明後日のお昼くらいまでは家に帰って来られないと思うけど、お母さんが帰ってくるまでいい子にしてて」
「勝手に遠くへ遊びに行ったり、夜更かしをしたりしちゃダメよ。お金はごはんを買うためのものだから、無駄遣いもダメ」
「ちゃんとお留守番をして、しっかり宿題もするのよ。明日も学校だから、遅刻しないようにしなさい。いいわね?」
あれこれかよ子に言付けて、お母さんはかよ子に家でお留守番をしているように繰り返し言いつけます。かよ子はお兄ちゃんの事が心配で心配で仕方ありませんでしたが、お母さんがこんな様子では、とても教えてくれそうにありません。不安な気持ちで胸をいっぱいにしながら、かよ子は張り子のトラみたいにかくんかくんとうなづくばかりでした。
いい子にしてるのよ。最後までそう言って、ハンドバッグを持ったお母さんが家から出発しました。ランドセルを部屋に置きに行ってから、かよ子はお茶の間に置いてある晩ごはんのお皿の前に座りました。
「……なんか、おいしくない」
献立はかよ子の大好きなミートソースのスパゲッティで、まだまだ作りたてでおいしいままのはずなのに、なんだか粘土で作ったニセモノをかんでいるみたいな感じがして、これっぽっちもおいしくありませんでした。がんばって半分くらい食べましたけど、それでお腹がいっぱいになってしまって、もうこれ以上はどうやっても食べられません。しょうがないのでラップをかけなおして、冷蔵庫のスキマへ押し込みました。
それからはなんにもする気が起きなくって、とりあえずお風呂に入って、いつもよりだいぶ長引きながらなんとか学校と塾の宿題を終わらせて、それからひたすらぼーっとしていました。頭に浮かんでくるのは心配事ばかりで、楽しいことはひとつも出てきてくれません。普段聞こえるお母さんの声がないだけなのに、なぜだか居づらさがどんどんつのっていきます。
しん、と静まり返った部屋の中で、かよ子は自分が今独りきりになっているのをはっきりと感じました。ここにはお母さんもいませんし、お兄ちゃんもいません。ひろ美ちゃん家のイーブイや、一博くん家のスボミーやチュリネのように面倒を見てあげているポケモンもいないので、正真正銘独りぼっちなのです。
(どうしよう、なんだかこわい)
まるで自分ひとりだけがこの世界に取り残されてしまったように思えて、かよ子はとても怖くなりました。座っているソファが急にふっと消えて、その次は部屋の壁が消えて、最後は底なしの暗い穴へ真っ逆さまに落ちていくんじゃないか……という気がしました。いやいやそんなことありっこない、絶対ありっこない。頭ではそう分かっているつもりでも、でも……という気持ちをどうしてもぬぐえません。
不安でいっぱいになってどうしようもなくなったかよ子は、いつもよりもずっと早く部屋へ戻って、いそいそと明日の準備をはじめました。時間割を見て、教科書とノートをランドセルへ詰めこみます。もちろん筆箱も忘れません。いつもみたいに明日の準備をして、いつもみたいにおふとんに入れば、きっといつもみたいに明日が来てくれるんだ、かよ子はそう強く思いました。明日になれば何かが解決するわけじゃありませんでしたけど、でも今は、ただ明日になってくれれば、ただそれで十分でした。明日がちゃんと来るのかどうかさえ、今のかよ子には分かりませんでした。それくらい、不安でいっぱいだったのです。
赤いランドセルを机の上に置いて明日の準備をすませたかよ子の目に、棚で明るく笑っているカービィの姿が映りました。今のかよ子は、これからどうなるのか、どうすればいいのかがもうちっとも分からなくなっていて、誰か側にいてほしくて仕方ありません。そんな時に、普段と何も変わらない笑顔のカービィを見たかよ子は、いろんな気持ちがわーっとふくれ上がってきて、迷わず棚からカービィを下ろして胸の中に抱きしめました。
「おねがい、カービィ。かよ子のとなりにいて。かよ子といっしょにおやすみして」
カービィに側にいてほしい、大好きなカービィに助けてほしい。その一心で、かよ子はカービィといっしょにおふとんに入って、すぐに部屋の電気を消しました。目をぎゅうっと閉じて、一秒でも早く夢の世界へ行ってしまいたい。そう思っていますけど、心の中にいろんな不安があふれてきて、なかなか気持ちが落ち着いてくれません。
お兄ちゃんのことが心配でした。心配で心配で、もしかしたらもう会えないんじゃないかって、そんないやな考えなんかが出てきちゃうほどでした。きっとまたお兄ちゃんに会える、いっしょにゲームをして遊んだり、お菓子を食べたりできるって信じています。けど、不安な気持ちは収まってくれません。
一博くんのことだって不安です。来月には延寿市へ引っ越して、このまま会えなくなってしまうかも知れません。来週はもう塾に来ないって言ってましたから、会いたくても会えないのです。もうおしゃべりもできないし、手をつなぐこともできないかもと思うと、胸がちくちく、ずきずきとひどく痛みました。
そして、かよ子の頭には、もうひとつ浮かんでいることがありました。
(アチャモも、こんな風に不安になったりしたのかな)
いつも朝にお世話をしている、あのアチャモのことです。
今のかよ子は、お兄ちゃんのことも一博くんのこともどうにもなりません。どうにもならないのは、鳥小屋の中に閉じこめられて外に出られない、アチャモも同じでした。どんなに出たくても出られなくて、どうしようもなくって、ただずっと外ばかり見つめているのです。
自分じゃどうにもならないことに囲まれてみて、かよ子はようやく、あのアチャモの気持ちが分かった気がしました。
いろんな心配事をいっぱいに抱えて、それでも寝ようとがんばっているうちに、だんだん頭がぼんやりしてきました。かよ子は胸に抱いているカービィが自分のすぐ側にいてくれている気がしてきて、どうにかおやすみすることができました。
*
ぼんやりしていた視界が、少しずつはっきりしてゆきます。ふわふわの綿に包まれているような気持ちになりながら、かよ子は目の前に世界が描かれてゆくのを感じました。
「ここ……どこだろ?」
いつもよりぎこちないですが、体を動かせるようになった気がします。ちょっと足元がおぼつかない感じで、よろよろとよろめきながら、かよ子は立ち上がります。立ち上がって、体を目いっぱいのばして、あたりを落ち着いて見回してみました。少なくとも、今まで見たことのない風景なのは間違いありません。
ぐるりと自分のまわりを見わたしてみて、ひとつ大事なことに気がつきました。
(前も後ろも、右も左も、みーんな、カベばっかり……)
かよ子がいたのは、まわり全部を真っ白いカベに囲まれた、小さくて狭い部屋の中でした。背中を見てもカベ、右向け右してもカベ、どこを見てもカベばっかり。出口はどこにも見つからなくて、ただちっちゃな窓が付いているだけです。かよ子はこの部屋の中に、ひとりで閉じこめられていたのでした。
部屋の中にはただかよ子がいるだけで、他にはなんにも見つかりませんし、誰もいません。あっという間に退屈になって、かよ子はいちばん近くの窓から外を覗き込んでみました。
「わあ、きれい……!」
窓から見た外の世界の風景は、緑の草原と青い大空がどこまでも広がっている、とても気持ちよさそうなものでした。終わりなんてどこにもなくて、あちこち好きなように走り回ってもへっちゃらなくらい広そうです。体を動かすのが苦手で、外で遊ぶことの少ないかよ子さえ、今にもわーっと声をあげて走り出したくなる、そんなすてきな世界が広がっていました。
ひるがえって、かよ子のいる部屋の中はどうでしょうか。どこもかしこも真っ白なカベで囲まれていて、走り回ることなんてどうやってもできそうにありません。チリひとつ落ちていなくて清潔なのは分かりますが、どっちを見てもとにかくただ白いばかりで、だんだん息苦しくなってきそうです。外の世界とは、ぜんぜん違います。
(お外に出たいけど、出られないのかな)
何べんも何べんも部屋の中を見回してみますけど、ドアみたいなものはやっぱり見つからなくて、出られそうにありません。普通の方法では、ここから出ることはできないみたいでした。ドンドンとカベを叩いて、ここから出してと大きな声を上げたりしてみますが、うんともすんとも言いません。どうやっても出られそうにないことにかよ子はとてもがっかりして、部屋の真ん中でへなへなとしゃがみこみます。
そうして座っていると、不意に、このままずっとここから出られなかったらどうしよう、という考えがわいてきて、かよ子は急に悲しくなりました。ずーっとずーっといつまでも、行くことができない外の風景をただこうやって見ているだけで、好きなように走り回ったりできなかったらどうしよう、どうすればいいんだろう。どうにもできないことへの悲しい気持ちがいっぱいあふれてきて、それはやがてたくさんの涙になって、両方の目からこぼれてきましたきました。
お外に出たい――かよ子は一心に願いながら、ふっと天をあおぎました。
(あれ……? 何か、こっちに飛んでくる……)
するとかよ子はそこで、不思議なものを見つけました。今まで気づかなかったのですが、実は部屋に天井は付いていなくて、青空が広がっているのを見ることができたのです。そして、その空のはるか遠くで何かがきらりと光って、こちらに向かって飛んできていました。なぞの光はぐんぐんスピードを上げながらかよ子に近づいてきて、豆つぶみたいに小さかったのが、今や目をこらさなくてもはっきり見えるくらいになっています。
ひゅうううん、と、どこかで耳にしたことのある音が聞こえてきます。あっ、これは。かよ子が音の正体に気づいて顔を上げると、光はもうかよ子のすぐ近くまで迫ってきていて、形がはっきりと分かるほどになっていました。
(あの星……ワープスターだ!)
マンガやアニメに出てきそうな、角のまるまったかわいらしいお星様。きらきらとかがやく星の軌跡を残しながら空を飛ぶそれは、かよ子もよく知っている乗り物でした。お星様――ワープスターは一直線にかよ子の元へ向かってくると、かよ子のすぐとなりに着陸しました。
ワープスターに乗っていたのは、もちろん……。
「カービィ……!」
まるまるしたピンク色の体に、やさしいつぶらな瞳。目の前にいるのはまぎれもなく、あのカービィでした。
元気よく手を挙げて、カービィがかよ子にあいさつしました。かよ子はすっかりビックリしてしまって、目をまん丸くしています。明るい笑顔を見せるカービィは、かよ子をまっすぐ見つめています。目の前にカービィがいる、そのことにかよ子はおどろきながらも、カービィが自分を助けにきてくれたんだとすぐに納得しました。
そしてかよ子は、あることに気がつきます。
「ねえ、カービィ。それって、ファイアの帽子?」
カービィは帽子をかぶっていました。メラメラ燃える熱い炎をまとった王冠を思わせるその形は、まさしくファイアの帽子です。ファイアは口から火を吹いて攻撃する能力で、炎をまとって敵に体当たりしたり、冷たい氷を溶かしたりすることだってできます。
ですが、ひとつ気になることがありました。
(なんだか、いつもよりも炎が大きい気がする……)
かぶっている帽子の炎は、とても勢いよく燃え盛っています。ごうごうと音を立てて、底知れない強い力を感じさせる、大きな大きな炎です。かよ子は思わず目を奪われて、何べんもぱちぱちとまばたきをしました。
その時でした。カービィがきりっとした表情を見せて、両腕を天にかかげたのです。
「えっ……?」
ぶわっ、と炎がひときわ大きく広がって、カービィをぐるりと取り囲みます。炎はやがてひと繋がりになって、体の長い龍のような形に変わりました。ぐるぐると渦を巻きながら、さらに力をためています。かよ子は炎を自在にあやつるりりしいカービィの姿に、目を大きく開いて釘づけになっていました。
カービィがぐっと視線を上げます。龍の形をした大きな炎がぐおんと動いて、ぽっかり開いた天井からばあっと外へ飛び出していきました。そのまま空を飛んで、かよ子とカービィの後ろ側へ移ります。あっ、と、かよ子はふと思い出しました。このワザには、巨大な炎の龍を呼び出すこのワザには、見覚えがあったのです。
やがて、弓を引きしぼるように小さく身を引いてから、カービィが掛け声と共に、両腕を大きく前へ突き出しました。
そして――。
(グオオオォン!!)
耳をつんざくようなごう音と共に、炎の龍がかよ子を閉じこめていた部屋に思いっきり体当たりしたのです。
「わあっ!?」
ものすごい衝撃に、かよ子は思わず声を上げました。ぶわんぶわんと猛烈な風がまき起こって、かよ子は吹き飛ばされそうになりました。おどろいているかよ子と、勇ましい顔をしているカービィの間を、炎の龍が駆け抜けてゆきます。
(あっ、カベが――)
その時、かよ子は確かに目にしました。
大きな炎が勢いよくぶつかっていって、かよ子を閉じこめていた白いカベをこっぱみじんに粉砕していくのを、確かに目にしたのです。
「すごい……カベ、こわしちゃった……!」
四方を取り囲んでいたカベを、炎の龍がきれいに全部吹き飛ばしてしまいました。文字通り、あとかたもありません。今のかよ子の周りには、窓から見えたあの美しい草原と空の風景が、どこまでもどこまでも広がっています。走り出そうと思えば、いつでも走り出すことができるでしょう。かよ子はさわやかな風を体いっぱいにあびながら、瞳をきらきらと輝かせました。 閉じこめられていた自分を助けてくれたカービィに目を向けると、カービィはいつも見せてくれている明るい笑顔を浮かべて返してくれました。
と、その時です。カービィがかぶっていた大きなファイアの帽子を外して、かよ子に向かってパスしたのです。不意のことにきょとんとしながら、かよ子がカービィから放り投げられた帽子を受けとります。するとどうしたことでしょう、帽子がぱあっと白く光りかがやき、その形を変えていくではありませんか。かよ子がおどろきながら様子を見守っていると、やがて光が形をなして、あるべき姿へ戻ってゆきました。
そこにあったのは、かよ子の胸の中にあったのは……。
「アチャモ……! あなた、学校にいるアチャモだよね……!?」
生き物係でいつもお世話をしてあげている、あのアチャモの姿でした。
「そっか、分かった! カービィは、アチャモの能力をコピーしてたんだ!」
カービィは吸い込んだものを飲み込んで、自分の能力として使う「コピー能力」というワザを持っています。さっきカービィが大きな炎の龍を呼び出してカベを壊すことができたのは、アチャモの持っている炎の能力をコピーしたからなんだと、かよ子は合点がいきました。
「すごい……あんなに大きな炎を起こして、カベをこわしちゃうなんて……」
帽子から元の姿に戻ったアチャモはかよ子の腕の中にちょこんと収まっていて、抱いているかよ子の目をじっと見つめています。かよ子はアチャモの黒い瞳の奥へ、すうーっと吸い込まれていきそうな気がしました。
しばらくそうやって、アチャモはかよ子に抱かれていましたけれど、不意にぴょんとかよ子の腕の中から飛び降りると、広い広い草原をたかたかと駆けてゆきました。あっ、とかよ子が目をまん丸くしていると、アチャモはどんどん遠くへ走っていきます。放っておくと、今にも見失ってしまいそうです。
かよ子がカービィを見ると、カービィは腕をまっすぐのばして前を指しました。
先に進んでみなよ――カービィは言葉でこそ何も言いませんでしたけど、でも、かよ子には確かにそう言っているように思えました。思い切って、まだ見ぬ新しい世界へ走り出していってほしい。カービィは自分にそう伝えたいんだと、かよ子は感じていました。
カービィからのメッセージを受け取ったかよ子が、大きく頷きます。
「……わかった。ありがとう、カービィ」
「かよ子、行ってくるね!」
笑顔で手を振るカービィに見送られながら、かよ子はアチャモを追いかけて、部屋だった場所からだっと走り出しました。自らの足で大地を蹴って、青空の下で無限に広がる緑の草原を、力強く、とても力強く、まるで風のように駆けてゆきます。
どこまでも、どこまでも、どこまでも――。
*
「ふぁ……あぁ」
あたたかい朝の日差しが部屋に差しこんできて、かよ子はあくびをしながらゆっくり体を起こしました。普段ならしばらく寝ぼけ眼でぼーっとするところなのですが、今日に限ってはお目々がぱっちり開いて、意識もハッキリしているようです。不思議そうな表情をして、ついさっきまで見ていた夢を思い出します。
かよ子は見た夢の中身をしっかり覚えていて、細かいところまできっちり思い出すことができました。自分が狭くて白い部屋に閉じこめられていたこと、部屋の外にはとてもきれいな世界が広がっていたこと、炎の龍が部屋を壊して自由にしてくれたこと、炎の龍の能力の正体はあのアチャモだったこと、アチャモを追いかけて外の世界へ走っていったこと。その全部を、かよ子はまるで本当のことのように思い出せたのです。
(ふしぎな夢だったなあ。でも、気持ちよかった)
アチャモといっしょに外の世界を自由に走り回る心地よさも、かよ子はもちろん覚えていました。こんな風にとってもいい夢を見られたので、今日はいつもよりずっとすてきなお目覚めになりました。ふと後ろにある目覚まし時計を見てみると、なんと、いつもより二十分も早く起きています。目覚まし時計が鳴りだす前に起きられるなんて、滅多にありません。かよ子は思わず得意な気持ちになりました。
それにしても、昨日眠るときにあんなに不安だったのがウソのようです。すがすがしい気持ちで満たされて、怖いものなんて何もないって気さえしてきます。すてきな夢を見られたこと、そして朝の明るい日差しをたっぷり浴びられたことで、かよ子は元気いっぱいになれたみたいです。
「よーし、学校いーこうっと!」
かよ子は布団をめくって起き上がると、ひとりでてきぱきと朝の支度をはじめました。
ランドセルをしょって、いつもより軽い足取りで通学路をてくてく歩きながら、かよ子は昨日見た夢を再び思い返していました。とてもすてきな夢でしたけれど、ひとつだけ、どうしても気になることがあったのです。
(アチャモが出てきたのは、どうしてかな)
かよ子の夢の中には、学校でお世話をしてあげている、あのアチャモが出てきました。白いカベをこっぱみじんに壊した炎の龍の正体で、そしてかよ子を外の世界へ導くように走って行ったアチャモ。夢の中にどうしてアチャモが出てきたのか、かよ子はあれこれ理由を考えています。
寝る前にアチャモのこと思い浮かべたからかも、かよ子が夢に出てきたアチャモのことを考えながら歩いていると、河原の途中にある分かれ道までやってきました。
(ここで曲がると、かよ子の学校。まっすぐ行くと、吉野市へ)
普段は通りすぎてしまう分かれ道の前で、かよ子はふと足を止めます。
このまままっすぐ続いている道の向こうには、お兄ちゃんと行ったあの駄菓子屋さんも、一博くんが住んでいる団地もあります。けれど、お母さんからは行ってはいけないと言われていて、かよ子は今までちゃんとその言いつけを守ってきました。
お母さんの言葉と、お兄ちゃんや一博くんの姿を互いちがいに思い出しながら、かよ子は遠くに見える吉野市を、まん丸い瞳の中に映しだしていました。
給食のコーンポタージュスープを飲み終わったかよ子は、今度は今朝のアチャモの様子に思いをはせていました。
「アチャモ、今日も外ばっかり見てたなあ」
鳥小屋のアチャモには、大暴れのやんちゃし放題な日とずっと外を見つめている静かな日があって、今日は静かな日の方でした。本当に何もしなくて、ポッポにちょっかいを出したりすることも、中を走り回るようなこともありませんでした。
相方の大介くんは「おとなしくて助かるよ」って言っていましたけど、かよ子は心の中で「それは違うよ」と思いました。少しの間ですけど、ひとりでアチャモを見ていたかよ子には分かるのです。あれは間違いなく、外に出たいんだ、と。
そして――もうひとつ、大事なことがありました。
(アチャモみたいに、かよ子もお外に出てみたい)
外に出たがる、外にあこがれるアチャモの姿を目にしたかよ子は、それが今の自分にそっくりだということに気がつきました。安全だけれども狭い場所に閉じこめられて、自分の行きたい場所へ行くことができずにいる。「外」ばかり見て、届かないものだとあきらめている。かよ子は、自分も同じだってことに気がついたのです。
自分だけで外に出るのは、今のかよ子にとっては初めてのことです。もしお母さんにばれたりなんかしたら、きっとカンカンになって叱られるでしょう。けれど、かよ子はちっとも気にしていませんでした。自分のしたいことを自分で決めて、自分の力でやりぬいてみたいと、とても強く思っているからです。
(このまま家でじっとしてるだけじゃなくて、お外に出て、いろんなことをしてみたい)
かよ子は決めました。外に出て自分の行ってみたい場所に行ってみよう。やりたいことをやってみよう、と。これだけでも、かよ子にとっては十分大きな決断でした。とっても大きな、大きなことなのです。
ですが――かよ子の決心は、これにとどまりませんでした。
*
放課後になりました。運動場でドッジボールをして遊んでいる下級生の子や、教室に残って勉強している上級生の人を見ながら、かよ子は廊下をまっすぐ歩いて、下足室までやってきました。いつもどおりに履きなれた運動靴に履き替えて、足取りも軽くさっそうと運動場へ出ます。目指すは校門……かと思いきや、そうではなく。
かよ子がやってきたのは、普段なら朝の生き物係の時間以外に来ることなんてまずない、あの鳥小屋の前でした。そっと中をのぞきこむと、三羽のポッポが固まってぐっすり眠っているのが見えます。かよ子はポケットから小さなカギを取り出して、ガチャリと回してとびらを開きました。
「ねえ、アチャモ。起きてる?」
中に入ったかよ子が声をかけたのと、外を見ていたアチャモがおどろいたように振り向いたのは、ぴったり同じタイミングでした。(こんな時間に誰?)といった具合に、アチャモの顔には?マークがいっぱいに浮かんでいます。そして、そこにいるのが生き物係で自分をお世話しているかよ子だと気づくと、身を固くして警戒しはじめました。普段やんちゃし放題なので、かよ子が仕返しにやってきたのかもと思っているようです。
ですが、それは違いました。アチャモにある知らせを持ってきたくて、かよ子は放課後になってから鳥小屋までやってきたのです。かよ子はアチャモの目をぶれずにしっかり見つめながら、大きく息を吸い込みました。気持ちを落ち着けてから、かよ子がアチャモに語りかけます。
「あのね、アチャモ」
「今日はね、だいじなお話をしにきたの」
かよ子はまばたきもせずに、ずっとアチャモのことを見つづけています。いつもとちょっと雰囲気の違うかよ子に、アチャモは少しとまどっているようでした。
「今までずっと、アチャモの気持ち、ぜんぜん考えてなかった」
「ただやんちゃでわがままで、好き放題してるだけだって思ってた」
アチャモの目つきが目に見えて変わりました。かよ子への敵意が消えて、きょとんとした表情を見せています。かよ子はもう一度気持ちをまっすぐにして、アチャモにこう言いました。
「アチャモは――お外に出たいんだよね」
「だから、いっつも外ばっかり見てる」
「出たくても出られないから、怒って暴れたり、いたずらしたり、わがまま言ったりしてる」
「ホントはお外に出て、いっぱい走り回ったり、寝っ転がったり、飛んだり跳ねたりしたいんだよね」
かよ子の言葉を、アチャモは惚けた顔で聞いていました。本当のこととはぜんぜん思えないみたいで、まるで夢を見ているような顔でした。
「かよ子もね、アチャモと同じで、お外に出てみたいの」
「家からはなれた場所にある、ちょっと遠くの街まで行ってみたい」
「今まで、かよ子に『お外』があるなんて、ぜんぜん、ぜんぜん思ってなかった」
「でも、アチャモのおかげで、かよ子分かったの。かよ子にも『お外』があるんだって」
「だからね、アチャモ。かよ子に『お外』があるって教えてくれたアチャモに、お礼がしたいの」
そう言われたアチャモが、次に目にしたのは。
「アチャモ、いっしょに行こう?」
「いっしょに、お外へ行ってみようよ」
両腕をいっぱいにのばして、いっしょにお外へ行こう、そう言っている、かよ子の姿でした。
やさしくほほえんで、自分が飛びこんでくるのを待っているかよ子を見たアチャモは、つぶらな瞳をかがやかせて――
「……ちゃも! ちゃもちゃも!」
「わ、っと……ありがとう、アチャモ! よく来てくれたね!」
今までいっぺんだって見せたことのない、弾けるような笑顔を見せて、かよ子の胸の中へまっすぐ飛んでいきました。目を細くしてよろこぶアチャモは、本当の本当にうれしそうで、見ている方までしあわせな気持ちになってくるほどです。かよ子は飛びこんできたアチャモをしっかり抱きしめて、胸の中へ入れてあげました。
するとかよ子が、あることに気づきます。
「わ……アチャモって、あったかい」
「ホッカイロみたいにぽかぽかしてて、気持ちいいね」
胸の中にいるアチャモは、とってもあったかかったのです。じんわり伝わってくるやわらかなあたたかさに、かよ子は思わずほほをゆるめました。でも、どうしてこんなにぽかぽかしてるんだろ……と、かよ子がちょっとふしぎに思った、すぐ後のことでした。
(そうだ、大介くんが言ってた)
(アチャモには「ほのおぶくろ」があって、そこで火を起こしてるんだ、って)
大介くんから聞いた、アチャモの体のひみつ。体の中に「ほのおぶくろ」を持っていて、そこで起こした火を口から吐いて敵を攻撃する、というものでした。お話を聞いたときは、火を吐けるなんて危ない、としか思っていませんでしたけど、今はちょっと違います。
「そっか。火って、危ないだけじゃなくて、あったかいんだ」
「アチャモって、こんなにあったかかったんだね」
かよ子に抱きしめてもらったアチャモは、とってもうれしそうに目を細めて、かよ子に何べんもほおずりしました。それが気持ちよくって、かよ子はますますアチャモのことを好きになりました。
「ありがとう、アチャモ。かよ子のところに来てくれて、ホントにありがとう」
「いっしょに、お外へ行こうね」
アチャモをしっかり抱きしめながら、かよ子は鳥小屋をあとにしました。
かよ子はアチャモを抱いたまま学校を出て、そのまましばらく歩いていましたけれども、急に「あっ」と何かに気づいたみたいな顔をして、道の途中で立ち止まりました。
「そうだ、アチャモ」
「ちゃも?」
「せっかくお外に出られたのに、いつまでもかよ子がつかまえてちゃダメだよね」
そう言うと、かよ子はアチャモをそっと道路へ下ろしてあげました。アチャモは自分の足で道路に立って、ぱあっと目をかがやかせました。周りをちょこちょこ歩き回って、とってもうれしそうです。夕暮れ時のすずしい風を全身であびて、アチャモはすっかりご機嫌のようでした。
かよ子が自分の足でで歩かせてくれたことに、アチャモはますますよろこんでいました。人懐っこい笑顔を見せて、かよ子の足に顔をすりすりしはじめました。かよ子はくすぐったくって、きゃっきゃと朗らかな笑い声をあげました。
再び歩き始めたかよ子にアチャモはしっかりくっついて、並んでいっしょに歩いていきます。辺りに人の姿はなくて、いるのはかよ子とアチャモだけです。でも、かよ子はちっとも寂しくありません。日はだいぶ沈んでいて、周りも薄暗くなっています。だけども、かよ子はこれっぽっちも怖くありません。
なぜなら、かよ子のとなりには、小さいけれど熱い心を持った、たのもしいアチャモがいてくれているからです。
だいだい色に染まる空を背にして、かよ子とアチャモはのびのびと歩いていきます。夕焼けに照らされた道には、かよ子とアチャモの長い影が、大きく大きく伸びていました。
「かよ子の行きたい吉野市って街にはね、おいしい駄菓子屋さんがあるんだよ」
「夜遅くまでやっててね、やさしいおばあちゃんがお出迎えしてくれるの」
「あとね、ニャースも飼ってるんだ。いつでものんびり寝てて、撫でたげるとごろごろ言ってかわいいの」
「お菓子もめずらしくておいしいのばっかりで、どんなにいても飽きないくらい」
「ポケモンが食べられるお菓子もいっぱいあったから、アチャモにも好きなの食べさせてあげるね」
「お兄ちゃんが家に帰ってきたら、またいっしょに駄菓子屋さんでお菓子を食べるんだ」
吉野市にある駄菓子屋さんのことをかよ子が楽しそうに話すのを、アチャモはニコニコしながらしっかり聞いていました。
「それとね、かよ子といっしょの塾に通ってる、一博くんって男の子がいるの」
「やさしくてね、おしゃべりしてるとすっごく楽しいよ」
「あっ、思い出した。一博くんね、ほのおポケモンとなかよくなりたいって言ってたから、アチャモのこともきっと気に入ってくれるよ。一博くんポケモン大好きだから、アチャモにもやさしくしてくれるはずだよ」
「そうだ、いいこと思いついた! もし一博くんがよかったら、いっしょに駄菓子屋さんに行こうっと!」
「お金はちゃあんと持ってるよ。いっぱい買って、みんなで食べようね」
「もうすぐ遠くの延寿市へお引越ししちゃうって言ってたけど……でも、新しい家の住所とか、電話番号とか聞いて、また遊びに行くんだ。かよ子、ひとりでだって遊びにいくもん」
大好きな一博くんの話をして笑うかよ子に、アチャモもほほがゆるみっぱなしです。かよ子の話を聞いて、アチャモも一博くんに会ってみたくなったようでした。
「ねえ、アチャモ。お外、気持ちいい?」
かよ子がアチャモに訊ねます。
「ちゃも!」
アチャモはちっとも迷わずに、元気よく声をあげて答えました。
「うん、うん。かよ子もね、とっても気持ちいいよ」
「気持ちがはずんで、今にもスキップとかしちゃいそうなくらい」
さわやかな笑顔を見せたかよ子に、アチャモも短い羽をはばたかせて答えました。
そして……。
「ここが分かれ道。まっすぐ行けば、吉野市へ行けるよ」
かよ子とアチャモはふたりそろって、分かれ道の前までたどり着きます。いつもはまっすぐ家に帰る道を選ぶ、あの分かれ道です。
アチャモに目くばせしてから、かよ子はまっすぐ前を向いて、一度目を閉じます。小さくうなづいてから目を開くと、にっこり笑って、胸を大きく張って、かよ子は――。
「よーし! アチャモ、吉野市に向かって、しゅっぱつしんこーう!」
「ちゃもちゃもー!」
かよ子は、普段の帰り道とは反対の、吉野市につながるもうひとつの道を選んで、ゆっくりと、でも一歩ずつ着実に、前に向かって歩きはじめました。
前へ、前へ。一歩ずつ、一歩ずつ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
Written by 586