「みずたまホットライン」

586

あの小包を開けたときから、何かが変わった。

正確に言うと、「変わった」というよりも「変わらされた」というのが正しいかも知れない。というか、多分そっちが正解だ。

あの小包に、俺は変わらされたのだ。

「ポケットモンスター?」

授業と授業の合間の休み時間。あかりから投げられた言葉に、俺はやる気なさ気に答えた。

「そうやで。あ、もしかして、知らんのか?」

「今ね、すっごく流行ってるんだよ! ほら!」

鈴菜はそう言ってかばんの中から、上が赤、下が白……逆にすれば分からないからどっちでもいいか。とにかく、赤と白のボールを取り出した。

「見てみて!」

「……………………」

ボールの白いほうの面から、目を細めて覗き込む。

「……これは……?」

「『チコリータ』っていうのよ。かわいいでしょ?」

ボールの透明な部分から見えるそれは、頭に大きな葉っぱを携え、首の周りに途切れたネックレスみたいな飾り物を付け、目を閉じてすやすやと眠っていた。かわいいと言われれば、まあかわいい。

「あと、このボールは『モンスターボール』って言って、ポケモンを中にしまっておくためのものよ」

「ポケモン……ああ、ポケットモンスターの略か。んでそれ、どこで買ったりするんだ?」

「おもちゃ屋さんとかかな。最近だと、本屋さんとかでも売られてるのを見るわ」

「なるほど。この他にも種類があったりするわけ?」

「せやで。今んとこは……せやな。300種類ぐらいあったんちゃうかな?」

うへぇ、やりやがるなこの会社、と俺は思った。俺の友達の一人に真吾ってヤツがいて、そいつの趣味がチョコの食玩集め。あいつの家に行ったときにコレクションの「一部」を見せてもらったけど……なんていうか、あいつの説明はまるで頭に入らずに、「こいつチョコレート会社にどんだけ貢いでんだ」とか、そんなことばっかり考えてた。

「それ、外に出したりできんの?」

「もちろんよ! 本物の動物みたいに散歩させたりできるし、本当に生きてるみたいなんだよ! 見せてあげよっか?」

鈴菜はそう言うと、赤と白のボールの上下を握って、ぐるりと回した。お菓子が入ってる缶でも開けるみたいに。

「チコ!」

「わっ!?」

ボールの中から、さっき見たのと全然変わらない姿の「チコリータ」が、俺の目の前に飛び出してみた。

「寝てたんじゃなかったのか?」

「ああ、あれはスリープ状態になってただけ。外に出してあげると、勝手に起きるのよ」

鈴菜の説明を聞きながら、俺は目の前の「チコリータ」を見た。なるほど、確かに生きているみたいだ……というかなんと言うか、俺の目から見るとこれ、生きているとしか思えないんだが。

「でも、動物じゃないんだよな?」

「せや。これは『デジタルペット』……分かりやすうに言うと、『プログラム』や」

「プログラム、ねぇ……」

あかりの発した「プログラム」という言葉が、違和感と共に俺の頭の中を駆け巡った。俺の目から見れば、「チコリータ」は生き物にしか見えない。だけどこれは、0と1だけで作られたプログラムだという。違和感を感じるのも、当然か。

この「ポケットモンスター」は、去年の春頃に「NTD」(「New Technologys and Designs」とかいう正式名称がある)という会社が開発して発売した、「デジタルペット」だ。本物の動物のような仕草と、見た目の愛らしさ(愛らしさとは程遠いものも、ちゃんと用意してある)から、主に女の子を中心に爆発的な人気を見せた。鈴菜もその購買者の一人だ。

プログラムで出来ているから、いちいち世話を焼いてやる必要もない。構って欲しくないときはボールに入れときゃ済むし、構って欲しいときは出してやればいい。メシよこせー、って言ってくることも無いし、フロ入れろー、って要求してくることもない。笑っちゃうぐらい手軽だ。

あと、「死ぬことがない」ってのも大きな理由だそうだ。何せプログラムで出来ているから、何か問題が起きても「修復」すればすぐに元に戻る。

手軽といえば手軽だが、なんだか俺は好きになれそうにない。生き物はモノ食うから「生き」物なんだろ、生き物は死ぬから「生き」物なんだろ、とか、そんな理由で。

まあでも、そんなに嫌いでもなかった。好きでも嫌いでもない。うん。これが一番正確だ。俺の「ポケモン」に対する見方は、「好きでも嫌いでもない」に決定。

「ただいまー……」

訳あって、俺は独り暮らしをしている。意見の合わない親に反発して飛び出し、夢の実現に向けて独りでたくましく生きている……なんて言えりゃあカッコいいかも知んないけど、現実はそんなにエレガントじゃない。親が仕事の都合で、海外に赴任してるだけのことだ。俺はどうしてもここにいたかったから、親に頼み込んで日本に残してもらった。

「……小包?」

ふと足元を見ると、茶色い少し大きな箱がある。俺が学校に行っている間に来ていたらしい。持ち上げてみると、見た目よりもかなり軽く感じた。少し揺すってみると、中で何かが転がっているような音がする。みかんか何かか?いや、こんな箱にわざわざみかんを一個だけ詰めて送ってくるとか普通にありえないから。むしろ怖いから。

俺は箱をがさがさ揺らしながら、家のドアを開けた。この暮らしを始めてそろそろ一年が経つ。誰もいない部屋にも、もう慣れっこになった。

「……さて、カッターナイフは……」

箱をテーブルの上に置くと、多分勉強机に置いてあったと思うカッターナイフを取りに行く。あった。

ガムテープの部分にカッターナイフのちょっと錆び気味の刃をあわせ、ゆっくりと切っていく。

そんなに時間をかけることもなく、それは開いた。中に入っていた衝撃緩衝材……プチプチでいいか。プチプチを適当に引っぺがし、中に入っていたものを見る。

「……モンスターボール?」

箱の中にあったのは、赤と白のコントラストが効いたボール。今日の昼休みにあかりと鈴菜から話を聞いた、あのボールだ。あと、茶色い封筒に入った手紙も見える。

「手紙……誰からだ?」

俺は封筒を表に向けた。

「……『榎本 椿』……おっ、椿からか……!」

差出人の名前は、懐かしい名前だった。

俺は中学三年生のときまで、カナガワってとこに住んでた。ちなみに、今住んでるのはフクオカってとこだ。

椿は、俺がガキの頃からの幼馴染だ。普通、男の子と女の子の幼馴染っていうと、いわゆる「ケンカするほど仲がいい」的な関係が普通だと思うんだが……俺と椿は違った。「ケンカする必要もないほど仲がいい」。うん、これだ。俺達の関係を表すには、この言葉がしっくり来る。

椿は俺のことをすごく慕ってくれて、俺も椿が好きで仕方なかった。幼稚園、小学校、中学校ってずっと同じだったから、余計にそうなったんだろう。

「久しぶりだな……」

俺が言うのも何だが、椿は悪いところを見つけるほうが難しい女の子だった。勉強は俺なんかよりずっとできるし、誰にでも優しいし、おしとやかでいつも小奇麗にしてる。ちょっとおとなしすぎるかな、って思うことはあったが、そんなのは欠点の内に入らない。

「元気にしてりゃあいいんだけどな……」

ただなあ……椿は一つだけ、俺から見ても可哀想なところがあった。生まれつき身体が……正確に言うと心臓がちょっと弱くて、しょっちゅう学校を休んでたんだ。そういう時は、いつも俺が連絡がてらに見舞いに行ってやってた。あいつも俺が来るのを楽しみにしてるみたいで、母親にちゃんとお菓子まで用意させてた。

「中学のときだったな……」

だけど、俺と椿が高校に受験する、って時に俺の親の都合で引越しが決まっちゃって……俺は椿とお別れしないといけなくなったわけ。中学も卒業するって歳だったのに、二人してわんわん泣いたな……でも結局、椿は分かってくれて、「時々でいいから電話して」「また遊びに来てね」のありがたい言葉と精一杯の笑顔で、俺を送り出してくれた。

「引越ししてから……あんまり話せなくなってたしな……」

椿がせっかく言ってくれたのに、俺は忙しさにかまけてすっかり忘れてしまってた。おまけに、せっかくフクオカまで来たってのに、親が仕事の都合で今度はカナダに行くとか言い出す始末。さすがにカナダまで行く気はなかったから、俺は日本に残してもらった。当然独り暮らしだから、身の回りのことは全部自分でしなきゃいけない。忙しさはエスカレートする一方だ。

「さて。手紙の中身は……?」

俺は封筒をカッターナイフで切り、中の手紙を取り出した。

「これを見てるって事は、小包、ちゃんと届いたんだね。よかったー☆

いきなりこんなの送っちゃって、ホントにごめんね。送る前に言えたらよかったんだけど、ちょっと時間がなくて……ごめんね(><)

この子、「マリル」っていうポケモンの、「アクアリル」っていう子なの。ヘンじゃないよね?あなたのお父さんとお母さんが外国へ行って、あなたを一人ぼっちにしちゃってる、って聞いたから……それで、寂しくないようにって思って、この子を送ることにしたの。

きっとあなたに懐いてくれるはずだから、大切にしてあげてね。それじゃ!

P.S 着いたら電話してほしいな。ほら、久しぶりにお話したいし……」

いつどこで知ったのかは分からないが、椿は俺の親が外国に行ってることを知ってたらしい。それで、俺が寂しくないようにと、モンスターボールに入れたポケモンを……なあ椿、俺はお前の子供か何かか。いや、そのかわいい心遣いが、俺にはたまらなく嬉しいわけだが。

「椿らしいな……じゃ早速、そのマリルっていうポケモンの『アクアリル』とやらとのご対面と行きますか」

俺はモンスターボールを手に取ると、昼に鈴菜がやってたみたいに上下を掴み、ぐりっ、と回した。上下が外れた感触がしたので、上の部分を持ってみると……

「リル!」

「わっ?!」

それはいきなり飛び出てきた。青い体に小さな耳。カミナリみたいなギザギザに、ボールがくっついたみたいな尻尾。その尻尾の先っちょには、妙にでかい水玉のリボンが付いている。それから……手と足として使えるのかどうか甚だ疑問な短い手足。そしてつぶらな瞳と小さな口。

これが「マリル」の「アクアリル」らしい。

「お前が……アクアリルか?」

「リル?」

首をかしげるアクアリルに、俺はずっこけそうになった。名前を聞いているはずなのに、こっちが問い返されたからだ。

「いや。『リル?』じゃなくて、どっちかっつーと『リル!』って答えて欲しいんだけど」

「リルル〜♪」

俺が言うのも聞かずに、アクアリルは周りをぴょんぴょんと跳ね回りだした。楽しそうなのはいいが、はっきり言ってちょっとうっとおしい。

「ほらアクアリル、ちょっと落ち着……わっ!」

突然、俺の顔に何かこう冷たくてさらさらしたもの……まあ、水だが、うん。とにかく水が飛んできた。俺が顔をごしごしやってどうにか目を開けてみると、どう考えても犯人としか思えないアクアリルが手を叩いて笑ってやがる。

「リルリルリル〜♪」

「おいっ! いきなり何すんだっ! 冷たいだろっ!」

多分、あの小さな口から飛ばしてきたんだろう。そう考えると、なんだか余計にムカついてくる。というか今思ったんだけど、口から飛んできたってことは、あれは……いや、深く考えないほうがいい。考えたら考えるだけ、ムカつき度とやるせなさが積もるだけだから。

「リルル〜♪」

「こらっ! どこ行くんだっ!」

俺の制止も聞かずに、アクアリルは部屋の中をぴょんぴょん飛び跳ね始めた。正直、かなり手強い相手だ。というか、ムカつく相手だ。

「……とりあえず、あいつに電話するか……」

ポケットに突っ込んであったハンカチで顔を拭うと、俺はテーブルからちょっと離れたところにある電話の子機を取った。

「リル?!」

「……ん?」

俺が電話を取るや否や、リルリル言いながらぴょんぴょん飛び跳ねてたアクアリルの動きが、ピタリと止まった。よく分からないが、電話の子機に何かトラウマ(別にPTSDでもいい)でもあるのだろうか。俺はそんなことを考えながら、引越しのときの別れ際に椿から教えてもらった携帯電話の番号を探す。

俺がどうして携帯に電話をかけるのかというと……あいつのじいちゃん……良樹というじいちゃんなんだが、これが孫娘コンというニューワードを思わず作ってしまうほどの孫娘好きだった。椿のじいちゃんはとにかく椿を溺愛していて、他の男が言い寄ろうものならすげえ剣幕で言い返してるらしい。椿から中二の時に聞かされて、ヒヤッとしたものだった。

ただまあ、俺のことは幼馴染ということもあって、例外的に認めてくれてたようだが。それでも、電話していきなりあのじいちゃんが出てくると思うと、家の電話にはとてもかけられない。

「ええと……番号は……」

「リル……!」

俺がピッ、ピッと味気ない電子音と共に番号を入れていくと、アクアリルはその音にもトラウマがあるのかどうかは知らないが、ダッとここから一番離れた和室までダッシュしてしまった。和室に飛び込むと、あの短い腕でどうやったのかは知らないが、ピシャン、とふすまを閉めて、出てこなくなった。こりゃあいい。あいつが暴れだしたら、これを使おう、と、俺は思った。

俺はちょっとにやけながら(早速あいつの弱点を見つけたからな)、椿が電話口に立つのを待つ。何回かの呼び出し音の後、不意に大きなノイズが混じり、回線がつながった。

「……あ、もしもし椿? 俺俺、大樹だ」

「もしもし? あ、大樹!? 久しぶりじゃない!」

「電話できなくてごめんな。忙しさにかまけてたら、つい……」

「ううん。気にしてないよ! こうやって元気な声を聞けるんだったら、全然大丈夫!」

「それならいいんだが……ところでお前、俺に小包送ったよな?」

「あ、届いたんだ?! もう開けてくれた?」

「開けたも何も、さっきその『中身』に冷や水ぶっかけられて、洗わなくてもいい顔洗ったばっかりだぜ?」

「あっ……ごめんね。あの子、ちょっとやんちゃだから……」

「気にすんなって。俺も独りが長かったし、いい話し相手が出来たとでも思うよ」

「それなら良かったわ! あの子、大事にしてあげてね!」

椿が「大事に」を「だぃ〜じに」と妙なアクセントを付けて読んだので、俺も釣られて、

「ああ。大事にするさ」

同じく「だぃ〜じに」と読んでしまった……読んだ後に、妙に気恥ずかしくなった。

「……えーっと、あ、ところで、あいつ何か電話見たら逃げちゃったんだけど、昔何かあったとか?」

「あ……えーっと……実はね……」

「うん」

「まだ私の家にいたときに、面白半分で電話に近づいちゃって、それで静電気が『ビリッ』って来ちゃったらしいのよ」

ああ、なるほど、と思った。あいつの体は確かに電気を通しやすそうな見た目をしている。水っぽい感じだ。

「ああ、それでか」

「それから……電話を見ると怖がるようになっちゃって」

「よし。分かった。電気のものからはなるべく遠ざけるようにする」

「ありがと。電気にすっごく弱いから、気をつけてあげてね」

「ああ。いらねえコンセントを引っこ抜くことから始めるよ」

それから椿は、アクアリルについていろいろ話してくれた。「ご飯はあげなくてもいいけど、欲しそうにしてたらちょっとあげてほしい」だとか、「水が好きみたいだから、たまに水に入れてあげると喜ぶよ」だとか、「尻尾についてるリボンはお気に入りのものだから、なくさないようにしてあげてね」だとか。

「何か分からないことがあったら、また電話してね」

最後にそう付け加えて、椿は電話を切った。電話が切れるのを確認してから、俺は子機を充電器に戻した。

「リル?」

子機を戻すガチャンという音が聞こえたのか、アクアリルが和室のふすまを開けて、そこからひょっこり出てきた。しばらくはちょっとおとなしくしてたが、俺が子機を持っていないことを確認するや否や、

「リルリルリル〜♪」

「こらっ! 人のかばんの上で跳ねるなっ!」

調子が戻ってしまったようだ。

そこから先が、本当に大変だった。

一日目。俺はアクアリルに留守番を任せて学校に行った。学校では特に書くようなことも無く、俺はまっすぐ家に帰ってきた。学校から家までは結構距離がある。疲れた俺の体を、真っ先に出迎えてくれたのは……

(カン、コン、キン、キン)

ツララか何かを棒で叩くみたいな音だった。嫌な予感がした俺がドアを開けると……大体予想したとおりの光景が、目の前に広がっていた。

「……お前、何やってんだ?」

「リル?」

アクアリルはコップに水を入れて(ご丁寧にそれぞれ高さが違う)、それを箸(もちろん両方違う箸でだ)叩いて遊んでいたのだ。いくつか失敗したのか、粉々になってご臨終になられているコップが二、三個ほど、台所に転がっていた。

もちろん、台所は水でびしょぬれだ。

「……朝からずっとやってたのか?」

「リル!」

俺はそれだけ聞くと、疲れた体に鞭打ち、ご臨終になられているコップと水浸しの台所を、無言で掃除した。掃除し終わる頃になって、アクアリルがぴょんぴょん飛び跳ねながら台所に入ってきた。「反省」のはの字どころか、子音の「h」すら知らねえって感じの表情でこっちを見るから、俺は思わず怒鳴った。

「いいかっ! コップはもうダメだからな!」

「リル?」

「コップはダメだって言ってんの!」

「リルリルリル〜♪」

ダメだこれは。俺はコップの破片を新聞紙でくるみながら、そう痛感した。

二日目。あいつが絶対届かないような場所にコップを一日がかりで移し、俺はまた学校へ行った。学校で適当に過ごして家に帰ってくると、今度は……

(ガン、ガン、ガン、ゴン)

昨日より重たくて変化の無い音が、俺の耳に飛び込んできた。大方の予想を付けながらドアを開けると、目の前の光景があまりにも予想通り過ぎて、逆にがっくりきた。

「バケツに水を入れて叩くなっ! 外まで聞こえてるぞっ!」

「リルリル〜」

俺はアクアリルから箸を取り上げると、ついでにバケツも取り上げた。

「リ〜ル〜……」

アクアリルは怒った表情で、バケツと箸を返せとせがんでくる。

「だーめーだっ! 大体、外に音が出たら迷惑だろうがっ!」

「リルゥ……」

元々丸い体をさらに膨れさせて、プイッとそっぽを向いてしまった。そっぽを向きたいのは、こっちだってのに。

「ったく。どうやってこんなに水を張ったんだか……」

並々と注がれた水を排水溝に流しながら、俺はぶつぶつつぶやいた。

三日目。水を入れられそうなものを頑張って軒並み隠してくると、今度こそ大丈夫という妙な自信と一緒に、俺は学校へ行った。俺がいつものようにくたくたになりながら、どうにか家まで帰ってくると……

(バタバタバタバタ……)

今までに無いタイプの音だった。俺は盛大なため息を一つ吐きながら、次は何やってんだと思いながらドアを開けた。

「……なあ、アクアリル」

「リル?」

「何でよりによってさ、俺のお気に入りのMDばっかり出してドミノするわけ?」

廊下には、俺が気に入って何度も聞いているお気に入りの曲ばかりが入ったMDが20枚ほど、いろんな方向を向いて倒れていた。さっきのバタバタという音は、これが倒れた音だった。

「片付ける方の身にもなれっ! 何でこんなに散らかすんだよっ!」

「リルリルリルリル〜♪」

アクアリルはくすくす笑いながら、ぴょんぴょん飛び跳ねてどこかへ行ってしまった。コップ、バケツ、MD。ここまで毎日のように、アクアリルは俺のものを遊び道具にしている。

「……どうすりゃいいんだよ……」

俺は廊下に散乱したMDを拾い集めながら、途方に暮れた。すべて拾い終わると、部屋にあるケースにまとめて入れるために部屋へ行った。

MDを入れてたケースはあいつに引っ張り出されたまま、俺の部屋の床にぽつんと置いてあった。俺はため息と共に、MDをすべてその中へ戻そうとした……

「ん? これは……」

……が、ケースの中に一枚だけ、MDが取り出されずに残っていることに気付いた。手に持っていたMDの山を床に置き、それを手に取る。

「『Our Favorite Musics Vol.1』……これか。懐かしいな」

懐かしいMDだった。それは俺達……俺と椿が、自分達の気に入った曲を集めて作った、俺達だけのベスト盤だった。表面にマジックでたどたどしく書かれた曲名を見てると、頭の中にその曲が流れてきて、その時の光景も一緒に、カラオケのバックムービーみたいにプレイバックしてきた。

「……『Vol.1』なんて書いたけど、『Vol.2』は結局作らなかったな……」

俺はそうつぶやきながら「Our Favorite Musics Vol.1」をMDの山の一番上に乗せ、山をそのままケースの中に押し込んだ。

四日目。今度は俺の部屋と親父の書斎に鍵をかけ、リビングも出来るだけモノが無い状態にして、「絶対にヘンなことすんなよ!」と激しく念押ししてから学校へ行った。行く前から疲れるなど、久しぶりのことだ。で、いつものように特に何事も無く帰ってくる俺。

(……………………)

しめしめ、今日は静かだ。ようやく家でゆっくり休める日が来た……俺は安堵しながら、鍵を差し込んでドアを開けた。

……俺の安堵は、一瞬で消しゴムのカスみたいに吹っ飛んだ。

「……お前さ、俺の言った事が分かんなかったわけ?」

「リル?」

アクアリルの周りには……開けるときに失敗して大爆発したらしいポテトチップスの袋が二つと、バキボキに折れたアーモンドクラッカー付きのポッキー(棒にチョコがついてるあれ)が、所狭しと散乱していた。

「せめて俺が帰ってくるまで待てよっ! 誰が片付けると思ってんだっ!」

「リル?」

アクアリルは俺の言ってる事が分かってるのか分かってないのか、アーモンドクラッカーのポッキーの袋から新しいのを一つ取り出すと、その小さな口にくわえた。

……で、そのまま食べるのかと思ったら、チョコレートのついてる方を俺の向けたまま、噛もうともしない。俺は最大級の疲れとやるせなさを覚えながら、言ってやった。

「……よし。つまりだ。お前はそっちからで、俺はこっちから……」

「リル!」

「……食えってか?」

「リル!」

「……んなもん誰が食えるかぁぁぁぁぁっ!」

俺がそう絶叫すると、アクアリルはちょっと怒ったように体を大きく膨らませて、ポッキーをぼりぼりやりながら(もちろん破片を廊下にこぼすことも忘れていない)またどこかへぴょんぴょん飛んで行った。

俺の体に、すごい勢いで「疲れ」がのしかかってきた。

「……ごめんね。ホントにごめんね。おとなしくしてるようにって、ちゃんと言ったんだけど……」

椿が電話口で、何度も謝ってきた。そうなると、俺もあまり強くは出られない。もっとも、最初から椿を責めるつもりも無かったわけだが。

アクアリルは俺が電話を構えるのを見た瞬間から、和室に引きこもって出てこなくなった。はっきり言って、久しぶりに気が抜けた。電話は俺からかけた。

「帰ってくるたびになんかやらかしてるから、ちょっと疲れがたまってさ……」

「ホントにごめん! あの子、あなたの気を引きたくていたずらしてるんだと思うの。だから……」

「大丈夫だって。追い出したりはしねえからさ。ところで、一個聞いていいか?」

「うん。どうしたの?」

「……お前、あいつにどういうモノの食わせ方してたんだ?」

「えっ?」

「俺が今日帰ってきたら、何かアーモンドクラッカーのポッキーを口にくわえて、何かこう、ほら、ラブラブのカップルがやるみたいにさ、お互いに反対側からばりぼりばりぼり……って」

俺のこの理解しにくい言葉を聞いた椿が、顔を見なくても分かるぐらい恥ずかしそうな声で言った。

「……ごめん! ほんっとうにごめん! あれ、絶対にやめさせようって思ってたんだけど……」

「……なるほどね」

「ねえ大樹。迷惑なのは分かってるけど……」

「ん? どうした?」

「……もしまたそんなことしてたら……その……付き合ってあげてくれない?」

「……はぁ?」

「あの子、ずっとああして食べてきてたから……あ、あと、あの子は大樹が今日言ってたアーモンドクラッカーのポッキーが好きみたいだから、もし良かったらまた買ってきてあげて欲しいの」

「……まぁ、俺も好きだし、別にいいけど。あ……でもお前、アーモンドクラッカーは嫌いじゃなかったっけ?」

「うーん……そうだけど。私は……いちごの方が好きかな。でもあの子、いちごが嫌いなの。それで、私があの子にあわせてあげてたの」

「……はぁ。いい暮らししてたんだな。アクアリル」

「ごめんね。ホントにごめんね……」

電話越しの声だけでも、椿が何度も頭を下げている様子が目に浮かぶようだった。

「また何かあったら、電話してね」

「何も無くてもするさ。それじゃ」

俺はそう言って、電話を切った。電話が切れる頃になると、アクアリルがひょっこり顔を出す。コイツに全部話を聞かれてると思うと、妙に寒々しい気分になった……っておいこら、干したばっかりの俺の布団の上で飛び跳ねるなっ!

「へぇ〜。この子、アクアリルっていうんだ」

「かわええなぁ〜。大樹君もいい趣味しとるやん」

「大樹には、ちょっとかわいすぎるかな」

「うるせぇ。俺だって好きで一緒にいるんじゃねえよ」

満が俺を冷やかすもんだから、俺はちょっとムッとしながら返した。満はニヤニヤした表情のまま、俺の頭の上を椅子代わりにしているアクアリルを見つめている。

家に置いておくと何をしでかすか分かったものじゃなかったから、俺は結局アクアリルを連れてくることにした。実のところ俺はこの五日間、モンスターボールの存在を完璧に忘れていた。それに入れて家に置いてきても良かったが、俺の中で「あいつなら勝手にこじ開けかねない」という第二の俺からのナイスアドバイスがあり、仕方なく学校まで持ってくることにしたわけだ。

「……ていうか、どけって! なんで俺の頭がお前の椅子になってんだよっ!」

「リルリル〜♪」

「まぁまぁ。そうカッカせんと」

「だってほら、かわいいじゃない。ね?」

「リル〜♪」

鈴菜がアクアリルの頭を撫でながら言う。家であんなに大暴れしてたアクアリルが、学校に来ると途端におとなしくなった。おまけに下手にかわいいもんだから、誰も俺の「アクアリルが家で大暴れして大変だった」って話を信用しようとしない。典型的なヤな構図だ。

「で、大樹。これ、いつ買ったんだい?」

「買ったんじゃねえよ。俺の幼馴染から送られてきたんだ」

「こんなかわええ子を送ってくるってことは、女の子か?」

「大樹君も隅に置けないわね〜」

「……うるせぇ」

答えるのも嫌になったので、俺は目を伏せながらつぶやいた。椿とアクアリルの顔が交互に思い出されて、妙な気分だった。

その日の授業を終えて、俺はまた家に帰ってきた。誰もいない家には慣れていたつもりだが、アクアリルが家にやって来たり、椿と久しぶりに話をしてたりするうち、だんだん人恋しさとかいう俺らしくない感覚が戻ってきた。

(ピッ、ピッ)

というわけで、俺は家に帰ってきたら、まず最初に椿のところへ電話をかけることに決めた。正直、アクアリルなんかと一緒にいるよりよっぽど気が楽だし紛れるし、何より楽しい。今まで電話をかけてやれなかった分の埋め合わせもしてやりたかった。

アクアリルは家に着くなり、自分でボールをこじ開けて外へ出てきやがった。朝俺に忠告してくれた第二の俺に言いたい。俺は今お前にすごく感謝してる。何ならメシおごってやってもいいぐらいだ。

「リ……」

(ピシャン)

俺が電話を持ったのを見ると、アクアリルはまた和室にダッシュして引っ込んで、そのままふすまを閉めた。やれやれ、ようやく落ち着ける。

「……あ、もしもし? 椿?」

「……っはぁ、はぁ……あ、もしもし? 大樹?」

「どうしたんだ? ついさっきまで百メートル走でもしてたみたいだぞ? 大丈夫か?」

電話越しに聞こえる椿の息遣いは、走り込みをした後のように荒れていた。俺ははっとして、椿が病気がちだったことを思い出した。しかも、ただの病気じゃない。人間の一番重要な部分、心臓の病気だ。

「もしかして、また発作が出たのか?!」

「う……ううん。ちょ、ちょっと急いでて……か、帰りの電車に乗ろうとしたら、ちょっと遅れちゃって、それで……」

「……電車の中まで全力疾走、ってわけか。今はどこだ?」

「うん。ごめんね。心配かけて……あ、今はちゃんと家にいるよ」

「そうか。お前が大丈夫なら、それでいいさ」

何も謝ることは無いのに、と思いながら、俺は笑って返した。あいつが大丈夫なら、俺はそれだけでいい。

「……そういえば、最近あの子があなたの頭の上とかに乗っかってきたことって、ない?」

「乗っかるも何も、あいつ、俺の頭を椅子代わりにして来るんだぜ? あ……もしかして、これも……」

「……うん。私の家にいるときに……」

「お前……首、痛くしなかったか?」

「う、うん。大丈夫だよ。ほら、あの子って軽いし……あっ、それで、一つお願いがあるの」

「どうした?」

「あの子ね、高いところが好きなのよ。いつもテレビの上とかに乗ったりしてない?」

椿にそう言われて、普段のアクアリルの様子を思い返す。そう言えば、いつも棚の上とかテレビの上とかたんすの上とか……この間なんかたんすの上に昇りやがって、降りられねえでリルリル言ってたな。降りられないのに昇るなっ。

「ああ。テレビの上棚の上たんすの上……高いところにいる時間のほうが長いぜ」

「やっぱり……」

「それで……お願い、ってのは何だ?」

「えーっと……あのね、フクオカにあるなるべく高いところに、あの子と一緒に行ってあげてほしいの」

「……高いところ? どれぐらい?」

「うーん……なんか、街を見下ろせるぐらいの高さがある……そう、タワーみたいなところがいいと思うの」

「……タワーねぇ……分かった。何かそれっぽい場所また探しとくわ」

「手間ばっかりかけて、本当にごめんね」

「いいっていいって。あ、ところで、そっちの桜は今年も満開か? ほら、あの河川敷の」

「え? あ、うん。すごく綺麗に咲いてるよ。一緒にお花見したいぐらい」

「そうか……まとまった休みがありゃ、そっちに行きたいんだけどな……」

「……………………」

その後、俺と椿はしばらく会話を交わした後、どちらともなく電話を切った。

「……高いところ、ねぇ……」

俺がソファにどっかと腰掛けて、それらしい場所が無いか思い返してみる。しかし、いくら椿の頼みとは言え、どうしてこう俺はあの水玉ねずみにここまで振り回されなきゃいけないんだか。

「リルリルリル〜♪」

アクアリルは俺の気も知らず、ぴょんぴょん飛び跳ねている……だから、俺の頭を椅子代わりにすんなって。

次の土曜日。友達からどこかへ行こうとかそういうお誘いもかからなかったので、俺はアクアリルをボールに入れて(珍しく素直に入った)、フクオカで一番高い展望台「フクオカタワー」(俺が言うのもなんだが、ネーミングがすげえ安直だと思った)へ行った。電車を三本乗り継ぎ、バスで行くという。まあ、ちょうどいい距離だ。

「……はぁ」

俺はこの一週間のドタバタ風景を思い出しながら、ボールの中のアクアリルを見た。昨日は昨日で目覚まし時計を四時にセットしてくれたし(あの手でどうやったんだか)、今日も朝からフライパンとフライ返しをもってガンガンガンガン。この世で最悪の目覚めが二日も続きやがった。

「しっかし、何から何まで正反対だな……」

アクアリルとその親に当たる椿の様子を思い出しながら、俺はぼそっとつぶやいた。椿はおしとやか、こいつは度の過ぎたやんちゃ。椿はいちご味のポッキーが好きで、アクアリルはアーモンドクラッカーが好み。椿はどっちかっていうと高所恐怖症気味で、高いところなんかより「海」が好きだった。もちろん、こいつは正反対だ。まぁ、海は好きかも知れないが。

「あの椿がどーいう育て方したら、お前みたいなのになるんだ?」

俺はボールの中でぐーすか眠ってるアクアリルに、聞こえないと分かっていてもつぶやかざるを得なかった。

しかも……

「……お前さ、高いところ好きなんじゃなかったわけ?」

俺の第一声がこれだった。二時間ほどかけてようやくタワーまで来て、適当に入場料を払って展望台に来て、さぁ外でも見るか、ってなったとき、あいつが急にびくびくがたがたで俺の足につかまってきた。

結論から言うと、こいつは高すぎる場所もダメみたいだった。なんてわがままなヤツなんだっ。お前は一体何様なんだよっ。

「……リ……」

「……なあ、どうなんだよ……」

俺の足にしっかとしがみついて、その場を離れようとしない。一体何のためにここまで来たのか、まったく分からない。ここまで意味が無いことをしたのは、人生でも初めてだ。ああ無意味無意味。無駄無駄無駄無駄。

「……………………」

「ル……」

……ただ、いつもとは打って変わってすごくおとなしくしてるアクアリルの不安げな表情が、俺には珍しく「かわいい」と思えた。おかげで全力で怒る気にもなれず、どーにもできない気分だけが俺の中に残った。

「……ポッキーでも食べるか?」

「リル?」

あんまりがたがた震えるもんから、俺も少しこいつの気を紛らわせてやろうと思って、かばんに詰めてきたアーモンドクラッカーのポッキーを取り出した。

「ほら。口開けて」

「リ……」

俺はポッキーのチョコレートを付いていない方を指で支えると、アクアリルが反対側からいつもよりだいぶ遅いペースで食べ始めた。昨日なんて、五分ぐらいで全部食っちまった(もちろん、俺は一本も食えなかった)ってのに、今日はずいぶんとお上品な食い方をしている。

大体半分ぐらい食べたところで、アクアリルの動きが止まった。

「……なぁ、なんでそこで止まるわけ?」

「……………………」

「……いいかっ。あーいう食いかたしたら、人が見たときにどう思うか考えてみろっ! 頑張って全部自分で食えっ」

「リル……」

アクアリルはちょっと残念そうな顔をしながら、残った部分をぼそぼそぽりぽりと食べ始めた。結局ろくに景色も見ないまま、ポッキーを一本食っただけで、俺とアクアリルはすごすごとタワーから引き上げた。

家に帰ってきてみると、留守電に伝言が入っていた。番号を見ると……おっ、堀内か。堀内は俺がカナガワに居た時の親友で、時々こうして俺に連絡をくれる。今日はあいつも暇だったんだろう。俺は子機を取り、連絡を返してやることにした。

俺が子機を取るのを見るや否や、ぴょんぴょん飛び跳ねていたアクアリルが一際大きく飛び上り、一目散に和室へと飛び込んでいった。もちろん、ふすまはピシャンと閉めている。本当に電話が嫌いみたいだな。

「……あ、もしもし? 松川だけど……」

「もしもし? おおー、大樹か。お前昼間どこ行ってたんだ?」

「ちょっと用事があって、近くの展望台まで」

「なんだそれ? あ、お前まさか……」

堀内がいかにも「お前新しい女作ったんだろ? 椿ちゃんがいながらなんて外道なヤツなんだ。このやろこのやろ」的なノリで話を進めようとしたので、俺はそうなる前にすばやく先手を打った。

「んなわけねえだろ。独りだよ、独り」

「……だろうな。お前と椿だったら、切り離しても勝手にくっつきそうだし。一心同体?」

「そういう言い方、やめろっての」

まあいつものように他愛も無い会話を適当に交わして(たいしたこと無い内容ばっかりだったが、それが逆に落ち着く)、俺がそろそろ電話を切ろうかな、って思ったときに、ふと前に椿が言ってたことを思い出した。

「ところでさ、今四月じゃん」

「まあな。そろそろ中頃だけど」

「そっち桜満開なんだって? あ〜あ。またあの河川敷で花見やりてぇなぁ……」

俺は何とは無しにつぶやいた。河川敷の桜を見ながら、友人とだらだら過ごす……純粋に、いいと思ったからだ。

……ところが、俺のこの言葉に堀内が呆気に取られた様子で、逆にに聞き返してきた。

「……桜? なあお前、その話、誰から聞いたんだ?」

「あ? 誰かって? 誰ってお前……椿だよ」

「……ちょっと待て。あの河川敷の桜、去年の夏にみんな切り倒されちまったんだぜ? なんか工事するとかで……」

「……はぁ?」

俺は堀内の言葉が理解できなかった。椿はついこの間「河川敷の桜が満開に咲いてる」と言っていた筈だ。それなのに堀内は、「桜の木はみんな切り倒された」と言っている。どういうことだ?

「なあ堀内、それ、本当か?」

「本当さ。何なら、写真に撮って送ってやってもいいぞ」

「……いや。いい。じゃあな」

「おう」

俺は複雑な気分になりながら、子機を置いた。

(嘘だったのか?)

椿が俺に嘘をついた? まあ、嘘の一つや二つは、別に構わない。ただ、その嘘の内容が妙だ。桜の木が切り倒されてるなら切り倒されてるで、その通りに言えばいいのに、椿は「満開だ」と言ってきた。どういうことなんだ?

「……わかんねえ……」

ソファに腰掛けて、一言つぶやいた。

アクアリルがここに来て二週間。

「だからさ、時計はルーレットじゃないっての!」

毎日何かやらかすアクアリルに、

「……プレイヤーのフタの上に消しゴム乗せてフタ開けたらどこまで飛ぶかとか、ヘンな実験をするなっ!」

俺は、

「どうやったら手の届かない場所にある鍵をかけられるんだよっ! それで何でかけれて開けられないんだよっ!」

めちゃくちゃ、

「本は足場じゃねぇぇぇぇぇっ! こらっ! 乗るなっ!」

疲れた。

「流し台をプールにすなっ! どーせやるなら風呂でやれ! 風呂で!」

俺がどんなに怒鳴っても、叱っても、あいつはいつも、

「リルリル〜♪」

「こらぁっ! 人の話は最後まで聞けぇっ!」

マイペースだった。ここまでマイペースでやりたい放題でやんちゃなヤツ、見たことが無い。

「毎日毎日迷惑ばっかりかけて、ホントにごめんね……」

「はぁ……その……あれだ。何とかあいつをおとなしくさせる方法はないわけ?」

「う〜ん……」

元々の主がこれなので、俺なんかにどうにかできる訳が無かった。

そんなある日のこと。

「ただいま〜……」

俺が学校から帰ってくると、いつも俺の方向へむかってぴょんぴょん飛び跳ねてくるはずのアクアリルの姿が、今日に限って見えなかった。どこかでまた何かやらかしているのだろうと思ったが、リビングを見ても、書斎を見ても、俺の部屋を見ても、今までで一番何かやらかされる確率の高かった台所さえも、今日は不気味なぐらい、出て行ったときのままだった。

「おかしいな……あいつ、いつもだったら……」

あんだけいたずらをやらかされるのがうっとおしかったはずなのに、いざやられないとなると妙に拍子抜けした気分になった。

「こりゃあ、あいつに報告したほうがいいな。ようやく『落ち着き』ってのを覚えた、ってな……」

俺は拍子抜けしながらも、まあ別に気にするほどのことでもなかったので、素直に喜ぶことにした。かばんをテーブルの上に置くと、電話の子機を取って椿に電話をかけた。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

……が、かれこれ十五回はコールしているというのに、椿が出てくる気配は無い。俺は「おかしいな」と思いながら、とりあえず電話を切った。俺が子機を充電器に戻した、ちょうどその時。

「リル……」

「……どうしたんだ?」

アクアリルが全身を丸め、がっくりした表情で俺の目の前に現れた。左右をきょろきょろと見回したかと思えば、小さくため息を吐いたり、短い手をかざして遠くを見たりしたかと思えば、その場に座り込んで途方に暮れている。

「……リル……」

「……………………」

と、俺はその時、あいつがいつも尻尾に巻いている妙にでかい水玉のリボンがなくなっていることに気付いた。椿は確か「あれはお気に入りのものだから、失くさないようにして欲しい」と言っていた。

「もしかして……あの水玉のリボンか?」

「リル!」

床にへたり込んでいたアクアリルがすっくと立ち上がり、何度も何度も頷いた。今日はいたずらをしていないことに免じて、俺も探してやることにした。

「どこまでは巻いてたんだ?」

「リル……」

アクアリルが必死に記憶を辿っているようなので、俺も思い出してみる。確か……昨日の夜まではちゃんと巻いてあったはず。今日の朝はどうだ……?

(そう言えばあいつ、今日の朝は妙に元気が無かったな……)

俺はそんなことを思いながら、ある程度の目星を付けた。昨日の夜まであって、今日の朝なくなっていた。あいつは夜はきっちり寝るタイプだから、何かしでかしてない限り……

「ベッドの中でくしゃくしゃになってるんじゃないか?」

……俺の予想は見事に的中。俺の枕の下に、それは滑り込んでいた。やれやれ、と思いながら、リボンを拾い上げる。

「……ん? これ、ただのリボンのはずだよな……?」

それは、妙に重たかった。見た目と重さが妙に釣り合ってない。そう言えば、感触も妙に固いような……

「リル!」

「あ、おいっ!」

俺がリボンに気を取られている隙に、あいつが俺の手からリボンをひったくってどこかへ走っていってしまった。

「ちぇっ、なんだよ。せっかく見つけてやったのに……」

そう言いながらも、俺はあのリボンの妙な重みと固い感触の方に、より強く意識を取られていた。

「……ま、いっか。そろそろあいつも帰って来た頃だろ」

俺はベッドの近くにあったもう一つの子機を取り、ベッドにそのまま寝転んだ。寝ながら電話ってのも、まあ悪くない。

「……………………」

そのまま五回ぐらいコールした後、電話がつながった。どこかに出かけでもしてたんだろう。

「あ? もしもし椿? 俺だよ」

「……し……し……いき? ……めん……くきこえな……」

「どうした? 回線状態最悪だぞ?」

つながるにはつながったが、砂嵐のど真ん中にいるみたいなノイズが、すごい勢いで聞こえてきた。さっきのは多分「もしもし? 大樹? ごめん。よく聞こえないよ」だろう。

「……っと……って……」

「もしもし? 椿?」

「……めん。ふぅ……あ、ちゃんと聞こえる?」

「聞こえるよ。どうしたんだ?」

「えっと……あ、ちょっと、電話の調子が悪くて」

「そうか……それならいいんだけど」

椿は携帯電話で電話を受けてるはずだから、まあ時々こんな風にノイズが乗っても仕方ない。今はちゃんとつながってるみたいだし、気にすることでもない。

「それよりさー。聞いてくれよ。今日一日、あのアクアリルが何にもしないでいてくれたんだぜ?」

「え?! ホント?! よかったぁ!」

「ようやく『落ち着き』ってのが身に付いて来たみたいだな」

「迷惑ばっかりかけてたけど、これでちょっとはおとなしくなってくれるね!」

「ああ。毎日毎日帰ってきたら家中めちゃくちゃじゃ、疲れちまうからな」

椿が電話口でくすくす笑うのが聞こえたが、そのときにもちょっとノイズが乗った。今日は電波状態が最悪みたいだな。

「ところでさ、一樹は元気にしてるか?」

「一樹君?」

「ほら、お前と一樹って、一緒の高校に進学したんだろ? あいつも長い間顔見てないから、元気にしてるかなーって」

「う、うん! 元気にしてるよ! いっつも学校で顔あわせるもん」

「そか。またそっちに行けたら行くよ」

「うん……」

俺達はいつも通り他愛も無い話をした後、どちらからともなく電話を切った。しかし、今日は本当に電波の状態が悪い。

「外は晴れだってのにな……」

電話が終わるとひょっこり出てくるアクアリルには特に目もくれず、俺は空のほうを向いてしばらくぼーっとしていた。

青空に夕焼けが混ざって、どこか妙な色だった。

次の日も、アクアリルはとてもおとなしくしていた。ソファにちょこんと座って、そのまま眠ってしまっている。すーすー聞こえる寝息は、とても規則正しい。

あれだけ「やんちゃ」だの「やりたい放題」だの言っておいて説得力もへったくれも無いが、こうやっておとなしくしてるときのアクアリルは、ポケモンが「好きでも嫌いでもない」俺でも、純粋に「かわいい」と思えるものだった。

「……いつもこれだとありがたいんだけどなぁ……」

俺は眠りこけているアクアリルを横目に、電話の子機に手を伸ばそうとした……が。

「……せっかく寝てるんだし。起こすことも無いか」

伸ばしかけた腕を引っ込め、俺は寝室にある方の子機で電話をかけることにした。

(……昨日一樹の話したら、何か急にあいつと話したくなったな……よし。今日はあいつに電話すっか)

本棚にあったボロボロのノート(表紙に「電話帳」とヘタクソな字で殴り書きされている)を手に取ると、一樹の家の電話番号を調べた。俺はそこに書いてある通りに、番号を入力していく。

「……もしもし? あ、一樹?」

「もしもし? あ、大樹?! 久しぶり! 元気にしてた?」

「おかげさまで、まあぼちぼちやってるよ。独り暮らし、だけどな」

「え?! 何かあったの?」

「いんや。親が両方とも海外に赴任しちまっただけ。ネタにもならねえよ」

「そんなネタ、無いほうがいいって」

男の俺から言われても何も嬉しくないだろうが、一樹は本当にいいヤツだ。人のことを自分のことみたいに考えられるし、誰の相談にも乗ってやってくれる。何より俺が一樹を一番信用してるのは、そういうことをひけらかさないところだ。あいつにとってみちゃ、そういうことは「当然」のことなんだろう。堀内も俺も、細かいことでずいぶん世話になった。

俺と一樹はしばらく話をしていたが、不意に椿の顔が思い出され、俺がその話題を振った。

「ところでさ、椿とよく顔合わすんだって?」

「え?」

「あいつ、いっつもどんな風にしてるんだ? 長いこと会ってないからさ、気になっちゃって……」

「……ちょっと待って大樹。それ、誰から聞かされたんだい?」

一樹がすごく戸惑った様子で俺に言うもんだから、俺も少し戸惑ったが、

「誰って……椿からだけど?」

「……僕は嘘を付くのが嫌いだから正直に言うけど……ショックを受けないで欲しいんだ」

「あ、ああ……」

なんだ。なんだこの展開は。

「椿は……」

「椿は……?」

おい、何だって言うんだ。

「椿は……」

「……………………」

なあ……

「椿は……去年の春ぐらいから、ずっと病院に入院してるよ。僕が最後にお見舞いに行ったのは去年の夏だけど、その頃にはもう面会できなくて、聞いてみたら……その……」

……………………

「……意識不明の……昏睡状態だって……」

俺の頭の中が、一瞬で雪のように白く塗りつぶされた。

眠りから起きて、いつものようにぴょんぴょん飛び跳ねるアクアリルの姿を見ながら、俺はいつになく複雑な気持ちでいっぱいになっていた。

俺は一体、誰と会話してたんだ? あの声は間違いない。聞き違いなんかじゃない。椿の声としか思えない。でも大樹、よく考えてみろ。意識不明の昏睡状態のヤツが、お前に小包を送ったりなんかできるか? お前に電話なんかかけられるか?

(そう言えば……電話するときはいつも俺が……)

俺は「お前に電話なんかかけられるか?」と自問自答した瞬間、あることに気が付いた。アクアリルがここに来てからというもの、電話をかけるのは必ず俺からだった。椿から電話がかかってくることは、一度も無かった。

「……確認するっきゃねえな。こりゃ」

腰掛けていたソファから立ち上がり、俺は子機に手を伸ばした。俺のそのアクションを見たアクアリルが、いつものようにだっと駆け出し、和室へと飛び込む。

「……もしもし? 椿か?」

「もしもし? あ! 大樹! 私よ!」

電話から聞こえてくる声は、元気そのもの。昏睡状態のやつの声とは、とても思えない。

その事実が、俺を安心させた。

「一樹から聞いたぞ。お前、入院してたんだってな。いつ退院したんだ?」

「え……えーっと……あ、秋よ! 去年の秋ぐらい!」

「体はもう大丈夫なのか? あんまり無理すんじゃねえぞ。お前体弱いんだから」

「うん……大丈夫。……ありがと」

「気にすんなって。一樹が心配してたからよ、またちゃんと声かけてやれよ」

「分かったわ」

良かった。椿は普通に生きている。一樹は多分、椿が復帰したことを知らなかったんだろう。それで、椿が一方的に一樹のことを見かけてた。うん。これだ。きっとそうだ。

すっかり安心した俺は、いつものように大したことの無い話を二、三して、いつものように電話を切ろうとした。

「それじゃあ切るぞ。また……」

「あ……ちょっと待って」

「ん? どうした?」

「……電話、ありがとう」

それが妙に神妙な声だったので少し胸騒ぎがしたが、俺は構わず、

「あ、ああ……それじゃあな」

「うん。バイバイ」

電話を切った。

その次の日の朝も、アクアリルはおとなしくしていた。

「今日も一日おとなしくしとくんだぞ。いいな?」

「リル……」

おとなしくしているならわざわざ見張る必要はないって事で、俺はまたアクアリルに留守番をさせることにした。アクアリルはおとなしく……というより、少し元気が無い様子で、こくりと頷いた。

「行ってくるぞ」

「リル……」

力なく手をひらひらと振るアクアリルを背に、俺は学校へと出かけていった。

「あいつ……なんでお礼なんか……」

椿は生きている。元気に学校に行っている。俺は昨日その結論を得たはずなのに、なぜか妙な胸騒ぎは抑えられなかった。あの「ありがとう」という言葉は、本当にただのお礼だったのか、何か、こう……

「……やめだやめだ。こんなこと考えてると、学校に遅れちまう」

俺は独りでそうつぶやいて、その考えを振り払った。

「『スピリット・トランスファ』?」

まったく聞き覚えの無い言葉をいきなり浴びせられた俺は、そのままその通りに聞き返した。

「せや。この記事見てみ」

俺はあかりが持ってきた新聞を、覗き込むようにして見た。そこには、こう書かれていた。

「○月×日。カナガワ大学の名誉教授である榎本良樹博士(七一)が、『人間の精神をアルゴリズム化する手法』(The method of making to algorithm of Human Spirit)を発見したという一報が飛び込んできた。ヒト・クローニング技術などにも応用される可能性があるこの手法の発見に、各方面で議論の声が高まっている……」

あかりが新聞記事を広げながら、隣で満が説明をする。

「『スピリット・トランスファ』っていうのは、この博士……榎本博士だっけ? が見つけた『ジ・メソッド・オブ・メイキング・トゥ・アルゴリズム・オブ・ヒューマン・スピリット』……長いからこっからは『メソッド』って言うけど、とにかくその『メソッド』を応用して、擬似生物や生物に、人間の精神を移植する技術なんだ」

「なんだそれ? すごいのか?」

「すごいに決まってるじゃない。私の心を、あなたにまるごと移すようなものなのよ?」

鈴菜に言われてみると、確かにすごい技術だ。見た目が俺で、中身が鈴菜。もしそれがホントだったら、そりゃすごい。

「それにやな、この『メソッド』、まだすごい特徴があるねんで?」

「すごい特徴?」

「そうだね……分かりやすく言うと……」

満が顎に手を当てて、俺の方をじっと見つめてくる。男に見つめられるのは、あんまり気持ちのいいものじゃない。

「分かりやすく言うと……」

俺は満の言葉を待った。

「君の心を、君がこの前連れてきてたマリルに移植することだってできるんだ」

やたらと得意気に、満が言った。

「……つまり、ポケモンにも移植が可能、ってわけか?」

「せや。元々ポケモンの性格はプログラムを変えればどうにでもなるから、そこに人間の心をプログラムにして入れても、何も問題ないんや」

「だから、私の心を持ったこの子っていうのもできる、ってわけ」

鈴菜がチコリータを抱き上げながら、俺に言った。

「人間の心を……ポケモンに……」

(私の心を、あなたにまるごと移すようなものなのよ?)

(君の心を、君がこの前連れてきてたマリルに移植することだってできるんだ)

(元々ポケモンの性格はプログラムを変えればどうにでもなるから、そこに人間の心をプログラムにして入れても、何も問題ないんや)

(だから、私の心を持ったこの子っていうのもできる、ってわけ)

学校帰りの帰り道。俺は頭の中で、三人に言われた言葉を何度も繰り返した。「スピリット・トランスファ」の細かい理屈は分からないが、とにかく俺の中でそれが妙に強いインパクトを残したのは間違いない。

……「人」の「心」を、「他人」や「ポケモンに」「移植」する。だから、「スピリット・トランスファ」。「魂」を「移し変える」から、「スピリット・トランスファ」。

「……スピリット・トランスファ……」

何故だか知らないが、俺の心の中で、椿とアクアリルの姿が急にくっきりと現れてきた。アクアリルが来たことで、椿と連絡を取り合うようになった俺。アクアリルを通して、前以上に椿と話をするようになった俺。アクアリルのことで、椿と励まし合ったり笑いあったりするようになった俺。

アクアリルを通して、椿とつながっている俺。

「……まさか……な」

俺は心の中に起こった他愛も無い疑問を吹き飛ばすと、アクアリルが待つ家へと帰った。

「……どうしたんだよ。珍しいな」

「リル……」

家に帰ってくると、今日もアクアリルはおとなしくしていたらしく、家の中は出て行ったときと何ら変わったところは無かった。

「お前が横になってるなんてよ」

「リル……」

ただ一つ違うのは、いつもなら無駄に元気よくぴょんぴょん飛び跳ねてるアクアリルが、今日に限ってソファの上で横になってたことぐらいだ。表情も、どこか浮かなかった。

「どーせまた昨日夜遅くまで起きてたんだろ」

俺は特に気にしなかった。アクアリルは俺が寝静まってからも、時々ベッドから抜け出て家の中で何かやってたからだ。んなことしてるから、寝不足で元気なくすんだろうがっ。

「今日は早く寝ろよ。俺も明日早いんだからな」

「……リル」

元気なく頷くアクアリルに、俺はため息で返した。

次の日の朝。誰にも目覚めを邪魔されること無く、俺は久しぶりに気持ちよく目覚めることが出来た。朝の目覚めがこんなに気持ちいいなんて、感動的だ。いや、そこまで言うほどのことでもないか。まぁ、朝から機嫌が良かったのは確かだ。

「……ほら。やっぱり寝不足だったんじゃねぇか」

俺の隣で、アクアリルがすやすやとかわいい寝息を立てて眠っている。呼吸の感覚は、かなりゆっくりだ。目を穏やかに閉じて、口もしっかり閉じている。起きているときとは打って変わって、上品な寝相だ。いつもこうなら、一体どれだけかわいがってやれることやら。

(……寝てるときだけ、主人に似るのかね……)

くだらないことを考えながら、俺は朝の支度を始めた。

「リル……」

「おう。起きたのか」

俺が出かける段になったときになって、アクアリルがようやく起きだしてきた。おぼつかない足取りで、あっちへふらふら、こっちへふらふら。顔もなんだか元気が無いが、多分それは起きたてだからだろう。

「今日もおとなしく留守番してるんだぞ。いいな」

「……………………」

聞いているのかいないのか、アクアリルは半分閉じかけた目で俺を見ていた。

「……頼んだぞ」

「……………………」

その目が妙に不安げなのが気にはなったが、あまり時間もないし、うかうかしてると遅刻しかねなかったので、俺は無視して出かけた。

「……熱でもあんのかな?」

いつもにも増して元気が無いアクアリルの姿がしばらく俺の中で残像のように残ったが、歩いているうちに気にならなくなった。

「……すごいなあ。この子。勇気あるわぁ」

「ホントだよね。僕ならこんな実験、絶対怖くて嫌がるよ」

「その子、今どうしてるのかしらね?」

俺が教室に入ると、あかり・満・鈴菜のいつものトリオが、朝から新聞を広げてわいわい言い合っていた。勉強熱心なことで。

「何の話だ?」

「あ、大樹君! ちょうどいいところに来たわね」

「今なあ、昨日言ってた『スピリット・トランスファ』の続きの話をしてたんや」

「スピリット・トランスファ……ああ、あの心を移植するとかいうヤツ」

「そうそう。それでね……」

満があかりから新聞記事を手渡されると、パラパラとそれをめくり、大見出しに「『スピリット・トランスファ』実験成功か」と書かれた記事を指差した。

「……………………?」

「○月×日。カナガワ大学の名誉教授である榎本良樹氏(七一)が、『人間の精神をアルゴリズム化する手法』(The method of making to algorithm of Human Spirit)を確立したという一報が飛び込んできた。ヒト・クローニング技術などにも応用される可能性があるこの手法の発見に、各方面で議論の声が高まっている……」

「読むよ。『昨日午後三時ごろ、カナガワ大学名誉教授である榎本良樹氏(七一)が、先日確立された「人間の精神をアルゴリズムかする手法」(The method of making to algorithm of Human Spirit)はすでに応用化され、その応用例の一つである「スピリット・トランスファ」の実験が成功したと発表した……』この前『メソッド』が見つかったばかりなのに、もう『スピリット・トランスファ』まで行っちゃったんだよ」

「……すげーな。その……博士だか教授だか」

「それでね、もう一個面白い話があるのよ」

「面白い話?」

「面白いっちゅうか……興味深い話やねんけどな。『スピリット・トランスファ』の実験台になったんが、榎本教授の孫娘や言うんや」

「……孫娘?」

「何でも心臓に重い病気を抱えてたらしくて、本人の希望で精神移植の実験台になることが決まったんだって」

「精神移植……」

「それでね。移植先がすごいんだよ。びっくりしちゃダメだよ」

……待て。ちょっと待て。

榎本? 孫娘? 心臓に重い病気?

なあ、嘘だろ? 冗談だろ? みんなで俺を騙そうとしてるんだろ?

「精神の移植先は、ポケモンの……」

やめろ。嘘だ。嘘に決まってる。やめてくれ。

「……『マリル』なんだって」

俺の中で、満とあかりと鈴菜が言った言葉が、何度も何度も、壊れたレコードのように繰り返された。何度も何度も、何度も何度も。何度も何度も何度も……

(『スピリット・トランスファ』の実験台になったんが、榎本教授の孫娘や言うんや)

(『スピリット・トランスファ』の実験台になったんが、榎本教授の孫娘や言うんや)

(『スピリット・トランスファ』の実験台になったんが、榎本教授の孫娘や言うんや)

(何でも心臓に重い病気を抱えてたらしくて、本人の希望で精神移植の実験台になることが決まったんだって)

(何でも心臓に重い病気を抱えてたらしくて、本人の希望で精神移植の実験台になることが決まったんだって)

(何でも心臓に重い病気を抱えてたらしくて、本人の希望で精神移植の実験台になることが決まったんだって)

(それでね。移植先がすごいんだよ。ポケモンの『マリル』なんだって)

(それでね。移植先がすごいんだよ。ポケモンの『マリル』なんだって)

(それでね。移植先がすごいんだよ。ポケモンの『マリル』なんだって)

俺の体が、無意識のうちに震えだした。

まさか……

まさか…………

まさか………………!

(バッ)

俺は震えを押さえきれず、いきなり立ち上がった。何も考えられないまま、そのまま教室を出た。かばんとか教科書のことなんか、俺の意識からは完全に吹っ飛んでた。

「あ、大樹! どないしたんや!」

「もうすぐ先生来るよ!」

「大樹! どうしたんだよ!」

後ろからの三人の声も、もう聞こえてこなかった。そんなものに耳を傾けてる余裕なんて無かった。

「ちくしょう! ちっくしょう!」

どうして俺はもっと早く気付かなかったんだ。俺は世界最低のバカだ。最低だ。最低だ。何でもっと早く気付かなかったんだ。どうしてなんだよっ。どうして気付かなかったんだよっ。バカだよお前は。最低のバカだ。鈍感だっ。

(俺は……せめて……慰めにでも……!)

俺が帰り道に時々寄るコンビニが目に入り、俺はそこへ飛び込んだ。突然駆け込んできた俺にびっくりしてる店員のことなんか無視して、俺は「あれ」を探した。「それ」はすぐに見つかった。

「釣りいらねぇから!」

俺は「それ」をひっつかむと、カウンターにポケットの中にあった五百円玉を叩きつけ、素早く外へと出て行った。

「アクアリル! どこだ! どこにいるんだ!」

俺は家に帰るなり、大声を上げてアクアリルの姿を探した。リビングにはいなかった。俺の部屋にもいない。親父の書斎にも、台所にも。

「……くそっ!」

俺はやけになって、あちこちを探し出した。あいつがいそうな場所は、徹底的に探した。それでも、あいつの姿は見えなかった。

「……後は……ここだけか……」

ふすまで仕切られたその部屋の前に、俺は立った。

今にして思えば、もっと早く気付くべきだった。

「あいつが電話を怖がる理由も、あいつが電話が終わるとすぐに出てくる理由も……」

もっと早く。

「あいつがタワーでがたがた震えてた理由も、あいつが『あの』MDだけはおもちゃにしなかった理由も……」

もっと。

「あいつが息を切らしてた理由も、あいつが『桜が満開だ』って言った理由も、あいつが一樹をいつも見かけるなんて嘘を言った理由も、みんな……!」

(ピシャリ)

俺はふすまを開けた。

「アクアリル!!」

一番予想通りであって欲しくない光景が、目の前に広がっていた。夢であってくれれば、どれだけ良かっただろうと思った。

「リ……」

アクアリルは布団の上で横になり、弱弱しい視線を俺に向けていた。

予感は、的中していた。

アクアリルは……「スピリット・トランスファ」のプログラムの問題か何か、理由は分からないが、何かとても重い問題か何かにやられていたのだ。元気が無かったのは、元気を出していなかったからじゃない。

あれで、精一杯だったんだ。

アクアリルは俺に心配をかけまいと、無理して俺を送り出してくれたんだ。

「お前、何で朝の時に言わなかったんだ! 言えば俺が病院なり何なりに連れて行ってやったのにっ!」

「リル……」

めちゃくちゃだと思った。もしあの時アクアリルが弱ってても、俺は本当にそうしたか分からなかった。いや、俺はしなかっただろう。いつものように「寝とけよ」の一言で片付けてただろう。最低だ。俺は最低の男だ。

目の前で、俺の大切な人が苦しんでるって言うのに。

「リ……ル……」

「どうした?! おい、どうしたんだ?!」

アクアリルは短い手で尻尾を掴むと、尻尾の先っちょにある丸い部分を耳に当てた。

それはまるで……

「……電話……分かった! 電話だな! 待ってろ!」

俺はこれから何をすればいいか、もう何も言われなくても、分かっていた。

リビングにへと走ると、充電器にセットされていた子機を乱暴につかみ取った。震える手を力づくで押さえながら、押しなれているはずの番号がなかなか押せないことに、すさまじい苛立ちを感じた。

「あああっ……くそっ!」

俺はどうにか番号を入力し終え、子機を耳に当てた。

呼び出し音が、俺の心臓の鼓動とシンクロする。

「……あ……大樹?」

「椿! おい、しっかりしろ!」

「……よかったぁ。最後に、大樹の声が聞けて……」

「待て……待ってくれっ! なあ、どういうことなんだ! 頼む、説明してくれ!」

「今まで……ホントにありがとう。ホントにっ……ホントにっ……」

「椿っ……」

「何があったか……説明……するね……」

俺は何も言葉を返せないまま、椿が言葉を紡ぐのを聞き始めた。

「……私のおじいちゃんが……一年前に……『スピリット・トランスファ』の……試作品を……作ったの……」

「お前の……じいちゃんが……?!」

俺は新聞記事を思い出す。あそこに書かれていた名前は……「榎本良樹」。

間違いない。椿の……じいちゃんの名前だ。

「私はその頃……春だったかな……心臓が急に弱くなっちゃって……それで……」

「それで……?」

「……余命は……もってあと三ヶ月……だって……」

「……………………!」

春にはもう、病院に入院していたんだ――前に聞いた一樹の言葉が、俺の中で木霊する。

「私……意識がある間に、おじいちゃんに言ったの。『おじいちゃんの研究に、私の「精神」を使って、って……』」

「……………………」

「おじいちゃんは……それを……許してくれて、それで……私の精神は、移植がいちばんしやすい『ポケットモンスター』っていうプログラムに……移植されることになったの……」

「移植……」

「それで……私が死んじゃう前に精神が取り出されて……確か、去年の夏ぐらいだった……かな……」

「それで……昏睡状態に……!」

一樹が言っていたことと、今椿が言っていることが、ここで一致した。

「『私』の体は……精神が抜けて……秋になる前に死んじゃったけど、死んじゃう前に取り出された私の精神を使った実験は……今年の初めに行われて……成功したの。私は……体は『マリル』、心は『私』になって……『アクアリル』っていう、新しい名前ももらって……」

「……!」

「……でも、発表は遅らせてほしいって言ったの……あなたに……そんなこと……知られたくなかったから……」

「……………………!」

「……それで……おじいちゃんに頼み込んで……どうにかして……大樹のところに行きたい、もう一度大樹に会いたいって……」

「……………………!」

「最初に……実験台になるって言ったのも……死ぬ前にもう一回……大樹と……会いたかったから……」

俺は震えが止まらなかった。俺が勝手に忙しさにかまけてる間に、椿の身には想像を絶する出来事が起こっていたのだ。

どれだけ怖かっただろうか。どれだけ心細かっただろうか。それなのに俺は……椿は……

「それで……おじいちゃんに私の名前であなたのところに……モンスターボールに入って……送ってもらって……」

「……………………」

「……毎日……いたずらしてたのは……私のこと……構ってほしかったから……」

「お前……」

「……よく高いところに登ってたのは……あなたと……同じ目線でいたかったから……」

「……………………」

「……ほら……前に一回……リボンを……なくしちゃって……ずいぶん探してたことが……あった……でしょ?」

「……ああ」

「あのリボンにはね……私の言葉を……私の声にして伝えてくれる変声機と……受信だけできる小型の携帯電話が……おじいちゃんの発明だけど……それが、組み込まれてたの……だから……とても……大事なもの……だったの……」

「……………………」

「それで……あなたと話すときには……それを使って……あなたが電話をかけてくれるのを……待ってたの……」

「……っ!」

「でも……私が話してるのをあなたが見たら……きっと、私のこと嫌いになっちゃうって……それで……いつも……和室に……」

嫌いになんかなるもんか。現に今俺はこうして、お前の話を聞いてやってるじゃないか。そうだろう? そうじゃないか。

椿は椿だ。姿かたちが変わろうとも、お前は椿なんだ。

「……でも……成功したと思った実験……ホントは……うまくいってなかったの……」

「なっ……どういうことだ?!」

「私の『精神』を取り出すときに……『心臓が弱い』っていう情報も……一緒に取り出されちゃって……」

「……だから!」

「体は変わったけど……その心臓も……すぐにダメになりはじめて……」

「……………………」

俺は何も言葉が出なかった。椿は「自分が自分じゃなくなる」っていう恐怖を抱えながら、実験に臨んだはずだ。俺に会いに来る、たったそれだけを支えにして、危険な実験に自分から名乗りを上げたはずだ。

失敗? 失敗だって? そんな言葉で片付くもんかっ。椿はどれだけ強い覚悟で、実験台になったと思ってんだっ。「実験が終われば俺に会える、俺と一緒にいられる」って希望だけが支えだったはずなのに、失敗だなんて。そんなこと、許されるわけないだろっ。

「アーモンドのポッキーを食べたり……高いところに行きたいって言ったのも……」

「……………………」

「……私の好きなことと……反対のことをしたら……きっとあやしまれずに済むって……だから……わざと……」

「……………………!」

「……でも……本当は……」

何だ。どうしたいんだ。頼む。何でもいい。言ってくれ。お願いだ。聞かせてくれ。

「一緒に……いちごのポッキーを食べたり……」

食べよう。食べようじゃないか。俺がいくらでも買ってやる。百本でも、二百本でも。千本だって、構わない。

「一緒に……海に行ったりしたかった……」

行こう。行こうじゃないか。どこにでも連れて行ってやる。いくらでも付き合ってやる。朝焼けから日が沈むまで、ずっと海を見てようじゃないか。

「好きな曲だけを集めた……『Vol.2』、作りたかったね……」

作ろう。作ろうじゃないか。俺とお前が好きな曲だけを集めた、世界で二枚しかないとびっきりの「Vol.2」を。

「……私のこと、『アクアリル』じゃなくて、『椿』って呼んで欲しかった……」

呼んでやる。呼んでやるよ。お前のこと、ちゃんと名前で呼んでやる。だから……だから……

「待て、待ってくれ!」

「最後に……大樹の……」

(ダッ)

俺は子機を握り締めたまま、ふすまが開け放たれたままの和室へと飛び込んだ。

「椿!」

「……………………」

俺はもう半分目を閉じかけているアクアリル――アクアリルじゃない。椿だ!――椿を抱きしめた。

「待ってくれ……いかないでくれ……行かないでくれ……逝かないでくれっ!」

「大樹……」

子機越しに聞こえる声は、俺の腕の中にいるそれより、遥かに弱弱しかった。

「ありがと……」

「待て! 逝くなっ!」

そう言って、椿は……

……閉じかけていた目を、ゆっくりと、ゆっくりと……

閉じた。

「椿!」

俺は子機を投げ捨て、胸の中に椿を抱き込んだ。俺の胸の中は今にも燃え出しそうなぐらい熱く煮えたぎっているはずなのに、胸の中に抱きしめたそれは……

……とても、冷たかった。

「なんでだ……どうしてだ……どうしてなんだ! 椿っ! なあ、起きてくれ! 椿っ……!」

俺は身を引き千切られるような後悔の念に駆られた。何でもっと早く気付いてやれなかったんだ。どうしてこんなことになったんだ。

椿は自分の体を失って、全然勝手の違う体になって、俺と顔つき合わせてしゃべることも出来なくなって……それだけでも辛いだろうに、俺にそれを悟られまいと……

せっかく治ったと思った心臓も、また悪くなって……それでも俺に……心配をかけまいと……

「……お前さ、俺の言った事が分かんなかったわけ?」

「……んなもん誰が食えるかぁぁぁぁぁっ!」

「……お前、あいつにどういうモノの食わせ方してたんだ?」

「……ていうか、どけって! なんで俺の頭がお前の椅子になってんだよっ!」

「乗っかるも何も、あいつ、俺の頭を椅子代わりにして来るんだぜ?」

「……お前さ、高いところ好きなんじゃなかったわけ?」

「……いいかっ。あーいう食いかたしたら、人が見たときにどう思うか考えてみろっ! 頑張って全部自分で食えっ」

「んなわけねえだろ。独りだよ、独り」

俺が今まで「あいつ」に言ってきた言葉が、俺の中で何度も何度も繰り返された。何一つとして、あいつを労わるような言葉は無かった。顔を見れば叱ってばかりで、ひどい物言いばかりだ。

ひどいのは俺だ。あいつはどんな思いで、俺の言葉を聞いただろうか? 俺のところに命がけで会いに来たっていうのに、俺がかけた言葉は……どうだ。みんな自分勝手なエゴの塊だ。最低だ。俺は最低だ。あいつは俺に迷惑をかけまいと必死に「椿」と「アクアリル」を演じていたのに、俺はそれにちっとも気付いてやれなかった。俺に言いたいこともあったろうに、あいつはあくまで「椿」「アクアリル」を演じていた。

俺なんかの……ために……

「……っきしょう! ちっきしょぉぉぉぉぉぉっ!」

もう冷たくなった椿を、俺は一際強く抱きしめた。そんなことをしても、もう遅いんだと言われようとも構わなかった。俺に出来ることは、こんなことしか……

「……かいよ」

……声?

「……たかい」

……どこだ? どこからだ?

「……ったかいよ……」

……俺は声の出所を見つけた。

「……………………」

……俺はそれを拾い上げた。

「あったかいよ……すごく……」

「椿……お前……」

「……私のこと、こんなに心配してくれたんだね……」

「……………………」

「大樹の胸のなか、すごくあったかいよ。大樹の思いが、伝わってくるみたいで……」

「……椿……!」

……俺の目の前が、ぶわっとぼやけた。

「……なぁ椿。俺は今すっごく嬉しいのとすっごい脱力感で、感情どこに置いたらいいか分からねえんだよ。俺のさっきまでのこっぱずかしい大絶叫、なんだったわけよ?」

「ごめんね! 本当にごめんね!」

俺は短い手を合わせてぺこぺこ謝る椿を見ながら、すっかり魂の抜け切った表情をしていた。

俺は子機に、椿は水玉リボンつきの尻尾に耳を当てながら、お互いに顔を向けて話をした。

……もう分かりきってるとは思うが……結論から言うと、あれは全部演技だったらしい。死にそうな顔をしてたのも、布団の上で横になってたのも、かすれた声も、みんなひっくるめて。

ちなみに、「スピリット・トランスファ」のプログラム実験は、ちゃんと成功していた。心臓はきっちり動いてるし、後遺症も無い。前より元気になったぐらいだと、俺に話してくれた。

……ただ、椿が途中で俺にしてくれた話はみんな本当だ。そうじゃないと、辻褄が合わない。実験台になったってのも本当だし、夏にはもう昏睡状態だったってのも本当だ。

「これぐらいしないと……大樹が私のこと、『私』って気付いてくれないと思ったから……」

「……………………」

演技した理由がいじらしすぎて、怒る気にもなれなかった。

「……お前、本当に大丈夫なのか?」

「うん。平気よ。大丈夫」

「……でもお前、体冷たくなってたじゃん」

「あ……うん。ほら、マリルって元々体が冷たいから、それで……」

俺はため息を一つ吐いた。なるほど、その通りだ。その通りすぎて、言葉も返せない。

「……ごめんね。こんなウソ付いちゃって……」

「……いいよ。気付かない俺のほうが悪かったんだ」

「大樹って、優しいね……すっごく嬉しいよ……」

「……………………」

「私が……あなたの気を引きたいからって、ひどいいたずらをしても、あなたは私を追い出したりしなかったもの……」

「……当たり前だろ。お前をかわいがってくれって言う、『お前』からの頼みなんだからよ……」

「大樹……」

電話越しに聞こえた声は、少し上ずっていた。椿の目に、心なしか光るものがあるように見える。

「……なあ椿。いろいろやってさ、腹減ってないか?」

「え?」

「俺さ、家に帰ってくるときに、ちょっと寄り道してさ……」

俺はそう言うと、ぶかぶかのポケットの中から、少し大きめの紙箱を取り出した。俺が立ったりしゃがんだりしたせいで、箱にはちょっと折り目が付いてしまっているが、中身は大丈夫だろう。

その紙箱の表の面には、赤くて甘くてすっぱい、あの果物の写真が貼り付けてある。

「……これ……!」

「俺はどっちかって言うとアーモンドクラッカーの方が好きなんだけどよ……あいにく、今はこっちの気分でね」

「……大樹……」

俺は箱を開け、中から一袋取り出すと、それも破って開けた。

「……ほら。お前はこっちからだ」

「……いいの?」

「ああ。甘い味が長く続いたほうが、いいだろ?」

「……うん!」

俺は茶色っぽい部分から、椿はピンク色の部分から、ぽりぽりぼりぼり、ゆっくりと食べ始めた。ゆっくりと、ゆっくりと。相手のペースに合わせて、ゆっくりと。

それは甘くて、甘くて、甘くて……

甘くて、甘くて、甘くて……

……最後に少し、冷たかった。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586