日曜日になると、ちょくちょくネネが家に遊びに来る。
「土曜日は何してるんだっけ」
「うーんと、新聞配達して、家のお掃除して、凛さんといっしょにお買い物してる」
「そうだそうだ、土曜日も配達あるんだった。じゃあ、休みって日曜だけ?」
「うん。土曜日はいつもよりちょっとたくさんもらえる」
「休みの日だからね、世間的には」
窓を開け放ったあたしの部屋に、古びた折りたたみ式のテーブルを広げて、ネネと向かい合って座っている。机の上には数学の教科書とノートが二冊ずつ開かれている。あたしがネネに数学を教えているところってわけだ。この間「算数(数学)を教えてほしい」って言ってたから、じゃあ今日やろうかってことでネネに来てもらった。
今日みたく休みの日にネネと過ごすときは、だいたいネネがあたしの家に来るか、そうでなきゃ外でぶらついている。あたしがネネの家に行くことはまず無い。ずっと前、小二の時に一回だけ行ったことがあって、一応どんな感じの家かは知ってる。団地のエレベーターが不便だって思ったのもその時だった。
ネネは「ネネの家、狭いから」って言って、あたしを家に上げたがらない。普通に考えると、ものが多くて足の踏み場が無いってのをイメージすると思う。けど、さっき言った小二の頃に行った時は、特に散らかっていたような印象は無かった。あたしが住んでるマンションより間取りは狭かったけど、それでもどこかがらんとしていて、散らかってると言うよりむしろ「物が少ない」って感じがした。同居してる凛さんは片付け苦手そうな感じでもないし、ネネの言う通り掃除が行き届いてないのかは微妙な所だ。
そう言えば、ネネのお母さんに会ったのも、あたしが遊びに行った時だった。
少なくともあたしがその時見た限りでは、ネネのお母さんはいたって普通の、良くも悪くも特徴の無い女の人で、あたしのお母さんと大差ない感じがした。正直あんまり印象に残ってない。ネネもお母さんのことは少しも話さないから、どんな人だったのかはよく分からない。こういうところは、ネネは口が固い部分がある。
「カッコの前に4が付いてるっしょ? これはカッコの中の全部に掛かって、分母が割り算される」
「じゃあ、18エックスと9ワイ?」
「そうそう。で、エックスとワイ同士で計算するわけ」
「そっか」
あたしも数学は得意ってわけじゃないけど、とりあえずネネよりできるのは確かだ。教科書を見ながら、ネネが詰まってる箇所を一個ずつ潰していく。ネネはこうやって一個ずつ教えていくと、ちゃんと理解してるように見える。まあ、飲み込みが遅い方に入るのは確かだ。勉強はイマイチできないし、しょうがない。
「サチコ、ありがとう」
「いいって、これくらい」
「ネネ勉強にがてだから、サチコに教えてもらえるとうれしい」
ネネは何かにつけて「ありがとう」って言う。それこそ今みたいに。これは、あたしにはちょっと真似できない。なんか、言うのがちょっと恥ずかしいし、言われる方もこそばゆいって思うから。こういうことを気にせずストレートに言ってくる辺りが、なんとなくネネらしいと思う。座り方に気を付けない辺りに通じるというか。
小学校の頃は、ネネが女子とはあんまり思えないことがたびたびあった。男子に混じって遊んでたケイもずいぶん男子っぽかったけど、それとはまた少し意味が違う。ぼさぼさの髪に汚れた服を着て、いつもぼーっとどこか遠くを見ている。ついでに仕草も子供っぽい。男子の服を着てたら、男子だって思われてもおかしくない恰好をしてた。中学に入ってからは、これでもずいぶん分かりやすくというか、マシになったのだ。なんでマシになったのかはちょっと分かんないけど、たぶん凛さんが女の子らしくしたげたんだろう。
「サチコー。昨日ね、凛さんがツタヤでディーブイディーかりてきた」
「ふーん。なんのDVD?」
「うーんと、なんかね、おっきなロボットが出てくるの。エーティーフィールドとか言ってた」
「あー、あれか。それエヴァだ、エヴァンゲリオン。ネネが観たいって言ったの?」
「ううん。凛さんがみたいからって言ってた。おもしろかったけど、よくわかんなかった」
「面白かったけどよく分かんなかったって斬新な感想だけど、なんか言いたいことは分かる気がする」
こんな具合に雑談を挟みながらある程度進んだところで、ネネが鉛筆を置いて顔を上げた。ぷふぅー、と息をついて、ぼうっとした顔を見せている。ずっと集中してたから、疲れたんだろう。ここらであたしも一息入れるか。
「ねーねーサチコー」
「どったの」
「昨日ねー、団地で女の子がケンカしてるのみた」
「ケンカ?」
ネネの発言はしばしば唐突で、前フリも何もなく降りかかってくる。今の今まで数学の勉強をしてたっていうのに、それとはまるで関係のない話をいきなり振ってきた。ネネはトロくて頭の回転も遅いマイペースキャラだけど、マイペースな分、自分の話したいことを深く考えずに話し出すことがある。今回のもそうだろう。
とは言えあたしから話したいこともなかったし、こっちは聞いてるだけだからラクっちゃラクだ。こういうときはだいたいネネの好きに喋らせた方が、お互いに得をする。ネネが自覚してるかは別として、あたしはそう思ってる。
「女の子同士でケンカって、どんな感じだったの?」
「うーんと、ひとりが中学校行くっていってて、もうひとりがトレーナーになるっていってて、約束やぶったとかいってた」
「うへえ、ありそうなやつだ、それ」
「ずっといっしょにいるのにって、中学校行くっていってる子がおこってて、かわいそかった」
「まあ、ネネはそっちに肩入れするよね……」
こういうケンカは珍しいことじゃなくて、紫苑でも玉虫でもどこでも、小五小六になればあちこちで起こることだ。一緒に中学校へ進学するって約束したのに、片方が心変わりしてポケモントレーナーになるって話。中学へ上がればおいそれと学校を休むわけには行かなくなるから、必然的に関係が切れるってわけだ。
ネネが昨日見たっていうのは単純に友達同士のケンカだろうけど、あたしが前に聞いた話だと、もっとドロドロしてる話もある。男子が一人女子が二人って関係で、女子が両方共その男子が好きだったってパターンだ。なんかもうこの時点で予想付く人もいると思う。女子の一人が男子を丸め込んで、一緒にトレーナーになって紫苑を出ていこうって約束した。もう一人の女子には中学へ進学するって嘘を言っておいて、男子にも嘘を付くように言いくるめた。哀れもう一人の女子はまんまと引っ掛かって、一人だけ中学へ行くことになった。残りの二人はさっさと紫苑から出てって、充実したトレーナーライフを満喫してるとかどうとか。いやはや、リア充さまの考えることは一味違う。
「トレーナーになるっていった子、バチがあたるよ」
「そりゃまたどうしてよ。ネネがトレーナー嫌いなのは知ってるけど、さすがにバチは当たらないっしょ」
「うーん。そうじゃない。約束やぶって、嘘ついたから」
「約束……中学一緒に行くっていう?」
「うん。いっしょにいるって約束してたのに、嘘ついたから、バチがあたる。ネネ、約束やぶる人、きらいだから」
「あたしだって、平気で約束破ったり嘘言ったりするような子とは付き合いたくないって。その子にどういう事情があったか知らないけどさ」
「ネネは約束やぶらない。嘘もつかない。サチコは約束やぶらない? 嘘もつかない?」
「そりゃ、よっぽどのことが無けりゃ、んなことしないって」
あたしだって、約束くらい守るし、要らない嘘はついたりしないって。時と場合によっては、破っちゃうこともあるかもしれないけどさ。
休憩がてら雑談をしていると、コンコンとドアをノックする音が。
「サッちゃーん、入っていいかしら?」
「ん、いいよ」
お母さんが部屋に入る。小さなおぼんにカルピスの入ったグラスを二つと、オレオをだいたい一袋分くらいあけたお皿が乗っかっている。テーブルの上には置けなかったから、とりあえず床に置いてもらった。
「ネネちゃん、いらっしゃい」
「おばさん。こんにちは」
「こんにちは、ゆっくりしていってちょうだいね」
ネネと目が合ったお母さんが、慣れた感じで声をかける。ネネはよくうちに遊びに来るからお母さんも顔を覚えてて、どんな子かってことも結構よく知ってる。だからこれは、いつも通りの風景だって言える。
「ネネちゃん最近元気にしてる?」
「うん、元気にしてる」
「よかったわ。新聞配達は今も続けてるの?」
「うん。毎日やってるよ」
「そうなの。朝早くから大変ね」
「凛さんもがんばってるから、ネネもがんばる」
「えらいわねえ。おばさんも応援してるわ。そうそうこれ、凛ちゃんと二人で食べて」
お母さんが袋詰めしたお菓子をネネに手渡す。これもまたいつもの光景だ。お母さんはネネのことを妙に気に入ってるみたいで、うちに来る度にこうしてお菓子なり何なりを持たせて帰っている。お菓子だけじゃなくて、たまに果物なんかを渡すこともある。そうするとネネはいつも喜んで、とても嬉しそうにする。
「おばさん、ありがとう。凛さんにわたすね」
「いいのよネネちゃん。凛ちゃんと二人で大変でしょうけど、頑張ってちょうだいね」
ネネは凛さんと二人で暮らしてるっていうのは、前にもどこかで言った気がする。あたしやケイ、お母さんのようにネネと関わりのある人は、ネネの身寄りが凛さんしかいないこともまた知っている。
凛さんはいかにもネネのお姉さんっぽく見えるけど、実際には伯母さん、つまりお母さんの姉にあたる人になる。肝心のお母さんは結構前にいなくなって、お父さんの方はそもそも一度も見たことがない。凛さんが初めて姿を現したのはあたしが小三の頃で、お母さんと入れ替わる形でネネの家にやってきたっぽく見えた。
その凛さんは、紫苑市の北の方にある管理局で働いている。これはネネから聞いたことだから間違いない。ただ、そこでどんな仕事をしてるのかは、ネネが「言えない」って言うから分からない。あれは「言えない」っていうより、「言いたくない」の方が正しいような気もしたけど。管理局の人がどんな仕事をしてるのかもはっきり分かんないし、変な物をいっぱい扱ってるから、そもそも言ったりしちゃいけないのかも知れない。
何はともあれ、ネネの家にはネネと凛さんの二人しかいないから、いろいろ大変だろうなー、とは思う。ネネは家のことをあれこれ話すようなタイプじゃないから、本当のところはどうなのか分からないし、あたしがあーだこーだ気にしたってしょうがないことだとも思うわけだけど。
「サチコー、サチコー」
「どうしたのよ」
お母さんが部屋から出てった直後、ネネがあたしに呼び掛けてきて。
「問題とけた。答えあわせして」
「しょうがないなー」
そう言いながら、ネネのノートを借りる。
こうやって勉強を教えてあげるのも、まあ、悪くはない。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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