ふっ、と目を開くと、薄汚れたプラスチックの猫が結わえられた蛍光灯の紐が、志郎の前にぶら下がっていた。
ああ、そうか、ぼくは昼寝をしていたんだ――志郎はまどろみながら、大儀そうに体を起こした。畳の上で二つに折った座布団を枕にして眠っていたからだろう、背中から腰にかけて鈍い痛みが伝わってきた。ぐるりと体を捩り、痛みの元である凝りを解す。
志郎は父親の康夫と共に、日和田村に住んでいる祖父・義孝の実家に泊まっていた。平時の二人は日和田村から車で一時間半ほど走った先にある小金市に住居を構えているが、康夫が「おじいちゃんと大事な話をするから」という理由で志郎を連れ出し、ここ日和田村まで連れてきたという経緯がある。
日和田は四方を山と森に囲まれ、これといった産業を持たない典型的な田舎町だった。このような有様であるから、若い衆が根付くことも寄り付くことも無く、過疎と住人の高齢化が止め処なく進んでいた。侘しいことであるが、しかし他を当たれば、このような滅び逝くさだめにある地域は両手に余るほど見つけられよう。日和田は、所詮その中の一つに過ぎなかった。
志郎が体を起こしてぼうっとしていると、すぅ、と襖が開いて、祖父の義孝が顔を見せた。
「志郎、今起きたのかい」
「うん。おじいちゃん、お父さんは?」
「叔父さんと話をしているよ。少し掛かりそうだから、外で遊んでくるといいよ」
義孝の家に厄介になり始めてから間もなくして、志郎の叔父である健治が訪れてくるようになった。健治は康夫と話をするばかりで、志郎の前にはろくに姿も現さなかった。口をきいたことも無い。だから志郎にとっては、叔父であると言われても今一つ実感が湧かなかった。まったくの赤の他人が、父親と話をしている。それくらいの認識だった。
促されるまま、志郎は隣に置いてあった麦藁帽子を被り、縁側から外へと出て行った。玄関へ向かうには茶の間を通る必要があり、そこで康夫と健治が話をするものだから、二人の邪魔にならぬよう、志郎はこうして縁側から外へと出てゆく。義孝に見送られ、志郎は出かけていった。
抜けるような、という些か使い古された言い回しの似合う青空が、果てる事無く延々と広がる。青のカンバスに誘われた白い入道雲が、背丈を競うように伸び伸びと育ってゆく。照り付ける太陽の強い日差しの元で、乾き切った地面が只管に焼かれていた。
群れを成した向日葵が畑を形作り、陽の光を浴びて天に伸びている。向日葵の間に混じって、ばたばたと喧しくはしゃぎ回るキマワリの姿も見える。向日葵の陰からキマワリが顔を覗かせ、キマワリの後ろから向日葵が首を出す。似たもの同士の花とポケモンが交わる様を、志郎は少し笑って眺めていた。
寂れた田舎町。そんな形容が誂えたかのように似合う日和田だったが、村に広がる風景自体は決して悪いものではない。人が寄り付かないということは、即ち人の手が入らないと言い換えることもできる。刈り取られなかった草にハネッコたちが集い、切り倒されなかった木々にポッポやピジョンが巣を作り、七色に染められなかった池沼や河川にニョロモやハスボーが住み着く。ポケモンたちにとって日和田は消えゆく町などではなく、命が芽吹く優しい庭に他ならなかった。
舗装されていない土色の道を忙しなく歩くコラッタ。枝につかまって羽を休めるネイティやマメパト。涼を求め木陰の元で体を伸ばすニャース。仲良くじゃれあう兄弟のオタチ。日光浴に興じるナゾノクサやヒマナッツ。今となっては、ポケモン達の数が人の数を悠々上回っていた。何処を見てもポケモンがいる。野生のポケモンの多さは、その地域がどの程度廃れているかを示す一つの指標と言えた。
志郎は空を眺める。額に浮かんだ珠のような汗をシャツの袖で拭うと、水色の空が視界いっぱいに広がった。夏はもうすぐ半ばを迎えようとしていた。日差しの強さはピークに達し、遠くの道にゆらゆら揺れる陽炎が昇っている様が見える。セミの鳴き声に感化されたと思しきツチニンが、幹にしっかとしがみ付いていた。
行く当てもなく辺りをぶらついていると、どこからともなくさらさらという川のせせらぎの音が聞こえてきた。右に曲がって少し行けば、細い川があったっけ──遠慮のない夏の暑気に些か辟易していた志郎は、きわめて自然な足取りでもって、川に向かって歩き始めた。
段々ハッキリ聞こえてくるせせらぎの音に束の間の涼を見出しつつ、志郎は思考を今自分の置かれている境遇に移した。
(残す、残さないって、何のことだろう)
襖越しに聞こえてくる康夫と健治、そして時折加わる義孝のやりとりは、志郎にとって理解し難い、どちらかと言うと理解できないものだった。健治は「残せ」と繰り返し言い張り、康夫と義孝が「残すことはできない」と突き返している。それは話し合いと言うより口論に近く、特に健治はしばしば声を荒げて二人に言い立てていた。健治が何を残したいのか、志郎には皆目見当もつかなかった。
腰抜け、愚か者、俗物、意気地なし。健治の言葉には、しばしば罵倒が混じっていた。語気を強めて叩きつけるように言うものだから、隣の部屋にいる志郎はその都度身を竦めた。父の康夫は穏やかな性質で、志郎にも──志郎が聞き分けのよい性格だった、ということももちろん加味せねばなるまいが──手を上げたことは一度として無かった。言葉を選ばぬ弟の罵詈雑言にも、康夫は決して色をなして言い返すことなど無く、シェルダーのように押し黙ってただ耳を傾けるのみであった。
大人の考えていることはわからない。今の志郎の偽らざる気持ちだった。健治が義孝の家にいるときの、あの言葉にし難い居心地の悪さが、志郎には苦手だった。こうして外に出られて、本心ではほっとしていた。清流のすぐ側にまで足を運んで、志郎が川縁に立つ。
淡色で統一された夏の田舎町のありふれた風景にそぐわぬ、目に痛いほどの『原色』がずかずかと瞳の中にあがりこんできたのは、まさに、その時だった。
目をまん丸くした志郎が、清流の真ん中に立つ人影に焦点を合わせた。異質なものや初見のものを目にした際に、それが一体何なのか、既存の枠組みで考えようとするのが人という生き物だ。当然、志郎もそれに倣った。結果として分かったのは、川の中に立っているのは、黄色い『雨合羽』らしき外套を羽織っている、己と同い年か或いはそれより一回り年下の子供、だということだった。
雨合羽というのは、その名に「雨」なる字があることを踏まえても踏まえなくとも、雨天の際に用いるものだというのは論を待たない。志郎の頭上には大きく隆起した入道雲が躍動しているが、雨を降らせる気配は微塵もない。そして今まさにこの瞬間、雨が降っているということもない。川の中に立つ子供は、雨でもないのに雨合羽を羽織っている。そういうことだ。
志郎はとかく風景から『浮いた』雨合羽の子供に目を奪われていたが、その子供が何やら大きく腕を振り上げ、川面に叩きつけようとしている様に気が付いたのは、子供が腕を振り下ろし終えた後のことだった。
腕が水面に触れた瞬間――そこから、凄絶な間欠泉が立ち上った。
「……うわぁっ!?」
工事中に誤って温泉を掘り当てたか、はたまた水道管の破裂か。活火山からの溶岩噴出を想起させる高い高い水柱が川面から立ち上り、ぶち上げられた水が一気に周囲に撒き散らされた。川縁に立っていた志郎の元にも当然のように水飛沫が飛び、志郎はびしょ濡れになってしまった。唐突なことに志郎は驚き慌てふためき、その場に尻餅をついてしまった。
志郎が上げた声は、水飛沫を上げた雨合羽の子供にも届いていたようだった。
「なんだぁ? 誰かぁそこにおるんかぁ?」
聞こえてきた声の色、そしてこちらへ振り向いたその姿から、志郎は雨合羽の子供が、雨合羽の少女であることに気がついた。顔に掛かった水飛沫を夢中で払い除けながら、志郎は少女の姿を瞳の中に収めた。
少女は――黒い髪を真一文字の『おかっぱ』に切り揃え、真っ黄色の雨合羽を羽織っていた。川の中に隠れているのでハッキリとは見えないが、裸足のようだ。背丈は十歳の志郎より一回り小さい。当て推量だが、八つか九つだろう。雨合羽に頭巾は付いておらず、少女の髪は外気に晒される形となっていた。
見てくれは、おかっぱ髪の大人しそうな少女だった。だが、彼女の語り口は、外面の印象からは些か乖離したものに思えた。
「そこで何してるだぁ? すっ転んで頭でも打ったのかえ?」
「えっと……水飛沫が上がってきたから、転んじゃったんだけど……」
凡そ少女らしさが感じられない、ごつごつとした少しばかり粗野な物言いだった。声色が見た目相応の朗らかで明瞭なものであったから、その懸隔ぶりがより一層際立ったものに感じられた。声の主が少年で、色ももう少し濁ったものであれば、まだ、多少は違和感を減じられたかも知れないのだが。
ともかく、志郎と雨合羽の少女の顔合わせとなったわけだが、志郎にとってはまず面食らう要素が多すぎて、何から手を着ければよいのか見当も付かなかった。少女は志郎に興味を持ったようで、ざぶざぶと川面を揺らしながら、未だに尻餅をついたままの志郎の元へ歩み寄ってきた。
「濡れたかえ? そのままにしてっと、風邪ひいちまうぞぉ」
「それはそうだけど、ぼくが濡れたの、君が水しぶきを上げたからだよ」
「ありゃ、おらが濡らしちまっただかぁ。堪忍なぁ」
堪忍なぁ、と口では殊勝に謝って見せているものの、目元口元その他諸々、顔はちっとも悪びれる様子を見せていない。少女が川から上がって志郎の隣に立つと、志郎もまたどうにか体を起こしてすっくと立ち上がった。
立ってみると、志郎が予め考えていたのと同じ程度の身長差があった。一回りほど小さい少女は、志郎から見れば下級生か、はたまた妹のような見てくれだった。背丈はともかくとして、とにかくその奇抜な容貌が志郎の目を引き付けて離そうとしなかった。
頭巾の無い黄色い雨合羽と、人形のような真一文字のおかっぱ髪。雨合羽は既製品のよくあるナイロン製のもので、取り立てて変わったところがあるようではない。少女が打ち上げた間欠泉のような水飛沫は、当然と言うかその発生源たる彼女の髪にも大きな雫を幾つも残し、日の光を跳ね返してキラキラと輝いていた。
「濡れとったら風邪ひくぞぉ。おらが乾かしてやらぁ」
「乾かす? でも、どうやって?」
「なぁに、ちょっとお天道様の力を借りるだけだぁ」
少女は左手で志郎の着ていた半袖のシャツの袖をぐいっと掴むと、おもむろに目を閉じ、何やら口元で念仏を誦し始めた。志郎は少女が何と言っているのか聞き取ろうとしたのだが、聞き取ったところでただの鼻歌か繰言にしか聞き取れず、意味の取れるものでない、ということが分かるのみだった。
びしょ濡れになった袖をしっかと掴んだまま、少女が一人詠唱を続ける。内容が込み入ってきたのか記憶があやふやになってきたのか定かでないが、少しばかり顔を顰めているのが見える。
(どうしよう……乾くまで外にいなきゃ駄目なのかな)
服が濡れてしまった上に珍妙な少女に捕まり、何やら怪しい念仏を唱え始めている。涼を求めて川まで足を運んだは良いが、とんだ災難を被ってしまった。水に濡れて涼しくはなったが、それとこれとは、あまり関係ない。乾くまでは帰らないほうがいいか、志郎がそう考え始めたときだった。
ぽたっ、ぽたたっ。乾ききった川縁の石の頭上から、不意に水滴が降り始めた。水が石に当たって砕ける音を耳にした志郎が、はっと視線を少女から外して、音源の方向へと向ける。
「こ、これは……?」
「ちと静かにしとってくれぇ。おら、五月蝿いと集中できねぇだ」
服の繊維を水がなぞって、もぞもぞと中を通り抜け、袖を出口にして外へと生まれ出で、最後に少女の手を伝って、そこから地面へ転がり落ちていく。水は、服に何の痕跡も残すことなく吸い出され、引っ切り無しに少女の手にやってきては零れていく。水が少女によって、ぐいぐい集められているようだった。
絞られているのか、いや、それとは違う。雑巾は、どれだけ力を込めて絞っても、水気が跡形も無く完全になくなるということはない。服もまた、同じことだ。濡れた服を絞れば、確かに水は出てくるが、絞っただけでは服は乾かない。今、少女が志郎の服にしているのは、水を絞り出しているのではない。
あえて言うなら、水気を一所に集めている。その方が、正しい。
目を閉じ顔を顰め、ひとしきり念仏を誦し終えると、少女はようやく瞼を上げた。志郎はただただ驚くばかりで、袖を掴んでこちらにくりくりとした瞳を向けてくる少女に、呆けたように口を開けて応じるしかなかった。
「どうじゃあ、服、乾いたろ?」
「う、うん……本当に乾いてる……」
少女の言葉通り、志郎の服はすっかり乾いていた。あれほど濡れていたはずのシャツには、水気はわずかばかりも残っておらず、志郎が半信半疑のまま指で触れてみると、さらさらと乾いた音と感触がした。洗濯した後、日に当てて干したかと勘違いするほどだった。
服は、少女の言葉通り乾いてしまった。志郎は、目の前の雨合羽の少女がどうやってずぶ濡れの服をあれほど短い時間で乾かすことができたのか、俄かに気になり始めた。
「すごいよ……ねえ、これ、どうやったの?」
「お天道様にお願ぇしただけだぁ。おら、こうやって目ぇ閉じると、いろんなことができるんじゃあ」
自慢げに「目を閉じてお願いすると、いろいろなことができる」と豪語する少女だったが、志郎にしてみれば先程目の前で「服に染み込んだ筈の水が一箇所に集まってきて零れ落ちて、服が乾いてしまう」という現実離れした光景を見せられただけに、動かしようの無い説得力があった。
魔法か、妖術か、超能力か……それがどんな括りであったとしても、少女が「人ならぬ力」を使った、その事実だけ揺るがなかった。
「おらは『チエ』って言うだぁ。お前は誰だぁ?」
「ぼくは、志郎。服部志郎。チエちゃん、って呼んでいい?」
「はっはっはぁ! 好きに呼べばえぇ。じゃぁ、おらは志郎って呼ぶだぁ」
かんらからからと豪快に笑う少女、もとい、チエの姿に、志郎はすっかり圧倒されていた。おかっぱ頭に黄色い雨合羽に男子のような口調と、チエを形作るものはすべてがちぐはぐだったが、そのおかげで、志郎はより強く『チエ』という少女の存在を認識できていた。
チエに興味を持った志郎が、彼女に尋ねた。
「チエちゃん、ここで何してたの?」
「魚獲りの練習さぁ。おらの家の近くに、魚がうんといる川があるんだぁ」
魚獲りの練習をしていた、らしい。チエが言うには、家のすぐ裏手に大きな川があり、そこにたくさんの川魚が住んでいる。淡水に住むポケモンも同様だ。川にいる魚を捕まえるために、チエはこの小さな川――魚が住んでいない訳ではないが、住んでいるのはごく小さな稚魚ばかりだ――で練習を重ねていたという。
「魚獲りは難儀するんだぞぉ。物の怪達に怪我させちゃぁ、おらに罰が当たるからなぁ」
「物の怪?」
「知らんのかぁ? 蓮坊やら銭亀やら尾立やらのことだぞぉ」
「はすぼう、ぜにがめ、おたち……あっ、ポケモンのことだね」
「『ぽけもん』? なんじゃあ、えらく角ばった言いぶりじゃなぁ。おら『はいから』なのは苦手だぁ」
チエが『物の怪<もののけ>』と言ったのは、志郎の知るところのポケモンたちのことだった。ハスボー・ゼニガメ・オタチ。いずれも自然の多い地域、特に美しい清流を湛える地域に生息するポケモンだ。チエはそれらを「物の怪」と呼んでいた。
言われてみると、ポケモンを「物の怪」――つまりは妖怪や化け物と呼ぶのは、あながち間違っているとは言えない、志郎はそう思った。人でなく、さりとて動物でもなく、不思議な生態を持つ彼ら・彼女ら。どっちつかずなポケモンたちを「物の怪」と称するのは、むしろ自然であるとも言えた。
「服、乾かしてくれてありがとう。ちょっと涼しくなったよ」
「気にするなぁ。暑い時は冷や水を被るのが一番じゃからなぁ」
「そうだね。それじゃ、ぼくはこれで……」
麦藁帽子を被り直し、志郎が川から立ち去ろうとする。
「志郎」
「どうしたの、チエちゃん」
「また、遊びに来んかえ?」
そんな志郎に、チエは「また遊びに来てほしい」と口にした。少し物欲しそうな顔を志郎に向け、また志郎に会いたいという意思を見せている。志郎はそんなチエの顔を、またまじまじと見つめながら、落ち着いた調子で、チエに答えを返した。
「いいよ。ぼく、また明日ここに遊びに来るよ」
「本当かえ? おらと遊んでくれるのかえ?」
「嘘じゃないよ、本当だよ。約束破らないように、指きりしよっか」
「分かっただぁ。志郎、小指出してくれぇ」
「うん。いくよ」
志郎とチエが、互いに小指を絡め合う。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
指きりが済むと、チエはにっこり笑い、目の前にいる志郎の顔を見つめた。
「ははっ、うれしいなぁ。おら楽しみにしてるぞぉ」
「ぼくもだよ。じゃあね、チエちゃん」
「うん、うん。また明日なぁ」
嬉しそうに手を振るチエを背にして、志郎は川から離れていった。
気の向くままに辺りを歩き回り、さすがに歩き疲れた志郎が義孝の家へ戻ってきたときには、既に夕刻になろうとしていた。門扉をくぐって敷地の中に入った志郎が、玄関の前に立つ。
開け放たれた玄関には、三足の靴が置かれていた。
「兄さん、兄さんは……この家が、この村が、日和田が無くなって、何とも思わないのかッ」
「何とも思わない訳が無い、辛いのは同じだ、だがな……」
「だが何だって言うんだ。戻る場所を無くしたら……悲しむに決まってるッ」
昼ごろにやってきた健治は、今尚康夫と言い争いを続けているようだった。玄関の硝子戸越しに、語気を強める健治の鋭い声が響き渡った。志郎は肩を竦め、おずおずと縁側へと移動する。
「立て直さなきゃいけないんだ。間違いを認めて、悪い因子を排除しなきゃいけない。そうだろうッ」
「間違っているというのは、分かる」
「あいつがいなければいいッ。あいつのせいで……不仕合わせな目に遭わされた者がどれだけいるか。兄さん、兄さんだって、あいつの肩を持つ気は無いだろうッ」
「……それも、そうだ」
「何もかも無くそうったってそうは行かない。あいつの、あの悪鬼羅刹の、今までしでかしてきた悪行の数々を白日の下に晒して、あいつが死ぬまで業を背負わせなきゃいけない。それが、それが僕の務めだッ」
健治は、これは毎度のことであるが、酷く気を立てていた。喚くような、叫ぶような声色で、何かを訴え続けている。志郎と康夫が義孝の家にやってきてから、毎日この光景が繰り返されている。
縁側から恐る恐る家に上がると、志郎の帰りを待っていた義孝が出迎えた。
「帰ったかい、志郎」
「うん。叔父さん、まだいるの?」
「すまないね、まだ言い足りないみたいで。麦茶を持ってきてあげるから、そこにいなさい」
「分かった。ぼく、ここで待ってるね」
健治が出て行ったのは、それからさらに小一時間ほど経ってからだった。出て行く間際にも言葉を吐いていたから、おそらく、満足などしていないだろう。明日もまたきっと、義孝の家にやってくる。
義孝の作った山菜お強と澄まし汁、そして岩魚の塩焼きを食べた後、志郎は康夫、義孝と共に寝床へもぐった。康夫と義孝は間もなく眠ってしまったようだったが、昼寝をしていた志郎はすぐには寝付けず、思いのほか目が冴えてしまっていた。
渦を巻いた蚊取り線香を焼く紅い火をぼうっと見つめながら、志郎は、昼に出会った少女チエに思いを馳せる。晴れでもお構いなく着ている黄色い雨合羽に、規則正しく切り揃えられたおかっぱ髪、透き通った声色に似つかわしくない粗野な言葉遣い。チエは、志郎が見てきたすべての女子、ひいてはすべての人間の中で、間違いなく、もっともちぐはぐだった。そのちぐはぐさが、志郎の心にかえって強い印象をもたらした。
明日、チエと遊ぶ約束をしている。また家に健治がやってきて、やれ村を残すだの、天罰が下るだの、敵討ちをするだのの、身の縮こまるような話を延々していくに違いない。それを思えば、チエと一緒に遊んでいるほうが幾倍もましだ。
そうだ、明日は早めに家を出て、川でチエを待っていてやろう――志郎はそう心に決めて、ぎゅっと瞼を閉じた。
陽の光を借り受け、静かに夜道を照らし、光を元の持ち主に返しつつ、そっとあるべき処へ帰っていく。月は借り物の衣を纏った、奥ゆかしい乙女……そうとも言えるのではなかろうか。
そうしてまた日が昇る頃に、志郎は目を覚ました。重い瞼に閉ざされそうになる目をこすり、顔を洗おうと洗面所に向かうと、炊事場から音が聞こえてきた。洗面所の冷たい水で顔を洗い、志郎が炊事場へ向かうと、義孝が既に起きて飯の支度をしていた。
「おじいちゃん、おはよう」
「おお、志郎か。おはようさん。早起きだね」
「うん。何か、お手伝いすることある?」
志郎は義孝に言われるまま、朝飯の支度の手伝いをした。炊き上がった米飯を混ぜて蒸らし、食卓を水に濡らした布巾で拭い、焼いた鰆の切り身を小皿に盛り付け――一通りの作業をして、志郎と義孝が朝飯の準備をした。
手際がいいのは、志郎の家の都合があった。志郎と康夫は二人暮らしで、志郎の母、あるいは康夫の妻と呼ぶべき女性は家にいない。家事の類は父である康夫が請け負っていたが、志郎にその手伝いが回ってくることも多々あった。具体的にいつからそうだったのかは判然としないが、少なくとも幼稚園に通う頃から、志郎が家事の一端を担っていたのは事実だ。
時折、康夫に対して母親のことを訊ねることもあった。その都度、康夫は少々答え難そうな顔をして、穏やかに諭すような口ぶりで「お前の母さんは、遠くへ行ってしまったんだ」とはぐらかすばかりだった。今年に入っても、志郎は一度康夫に問うてみたが、答えは一向に変わらなかった。
答え難そうな表情や、濁すような言葉から、志郎は、子供なりに自分の「母親」がどうなったのか、ある程度察するようになっていた。つまるところ、母親は既に手が届くところにはおらず、有体に言えば亡くなったのだろう、父はそれを分かっていて、あえてはっきりとは言わないのだろう。そのように解釈するようになっていた。
「志郎、おばあちゃんのところへ行って、仏飯をお供えしてやっておくれ」
「分かった。ぼくがやっておくね」
疑問に思うところが、まったく無いわけではない。義孝の家には、かつて義孝の連れ合いだった文江の遺影と仏壇が据え付けてあったし、級友の家にも同じように仏壇が置かれているところがあった。だが、志郎の母親には、そのような「生きていたことの証跡」が見当たらない。写真の一枚でもあるものだと思うが、それすら見当たらない。
亡くなったというより、初めからいなかったのではないか。そう考える方が、むしろ、自然ですらあった。
まだ眠っている康夫を尻目に、志郎と義孝は先に朝飯を食べ、一足早く朝の支度を済ませた。義孝が留守番をしてくれると言うので、志郎は待っていたとばかりにその言葉に乗った。麦藁帽子を被り、水筒に冷えた麦茶を詰めた後、志郎は義孝の家から走り去っていった。
川へ続く道の最中、志郎は時折横手に目をやる。枝に片足でしっかりしがみついているホーホー、美しい花々から悠々と蜜を集めて回るバタフリー、キマワリに混じって夏季の晴天に歓喜するチェリム。ポケモン、あるいは物の怪たちは今日もまた日和田という楽園の中で、思い思いに活動しているようだった。
こんな光景もあった。打ち捨てられた自転車に絡み付いて眠っているマダツボミ、錆び付いた鉄骨を骨で軽く叩いて遊んでいるカラカラ、光の届かぬ湿った廃屋で茸を養うパラス。かつて人がその地に残していった『文明』の残滓を、ポケモンたちは無邪気に自然の色に染めていく。
文明あるところに、物の怪は現れぬ。だが、ひとたび文明がその足を止めたとき――帰ってきた物の怪が、文明を自然へと溶かしていくのだろう。
昨日チエが魚獲りを練習していたあの小さな河川までは、志郎の足で歩いて三十分ほどのところにあった。志郎が辺りを見回してみるが、チエはまだ来ていないようだった。さらさらという清流を湛える涼やかな音が耳に届き、身の丈より大きな葱を担いだカモネギが、向こう岸へすいすい渡っていく様が見えるばかりだった。
志郎は川縁に水筒を置くと、サンダルのまま川へと踏み込んだ。冷たい水が足を包み込み、そこから生じた心地よい寒気が背筋を駆け上る。日和田の暑さは相当なもので、何かにつけ涼を得なければ、とてもではないが過ごせたものではない。志郎は束の間の涼を得て、ほう、と息を吐いた。
川から顔を出す小さな砂利場の上で、兄弟と思しきソーナノが二匹、押し競饅頭をして遊んでいる。負ければ川に落ちてずぶ濡れになってしまうから、どちらも必死の形相だ。もっとも、ソーナノがどれだけ必死の形相をしても、結局のところいつもの朗らかな笑顔を崩すことは無かったから、傍から見ると楽しげであるとしか見えなかった。
ぐいぐいと互いを押し合う。兄弟であるからにはどちらかが兄でどちらかが弟だと考えるのが自然だが、ソーナノ二匹の実力は拮抗していた。一方が押されたかと思うと力強く押し返し、あわや、というところで、なにくそとばかりに反撃に打って出る。真面目であり、真剣であり、それでもやはり朗らかさは変わらない。
やがて、押し競饅頭を続けていた二匹が共々疲れてしまったのか、小さく息を吐いて体を弛緩させた。しばらく揃ってぼうっとしていたが、やがて右側にいたソーナノが自ら川へ飛び込んだ。ささやかながら水飛沫が上がり、砂利場に残っていたソーナノに雫が飛ぶ。にこやかに笑う兄弟の姿を見た相方も、負けじと川へ身を投げた。暑い盛りに押し競饅頭などしていたから、ここらで一服涼もうという腹積もりなのだろう。
「あれ、楽しそうだなあ……」
「んだ。おらもそう思うだぁ」
「うわっ!? チエちゃん、いつからいたの?」
「ついさっきからだぁ。押し競饅頭の終いくらいだったかえ」
志郎の横からひょっこり顔を出すチエに、志郎はまたしても驚かされてしまった。チエは昨日と変わらず純朴そうな顔を志郎に向け、時折ぱちぱちと目を瞬かせている。なんとか気を取り直し、志郎がチエから一歩引く。
チエは、昨日と何ら変わらぬ装いで川に現れた。電気鼠のピカチュウを思わせる黄色の雨合羽に、つややかな黒のおかっぱ髪。下履きは無く、昨日と同じく裸足だった。志郎はチエの様子を一通り確認して、目の前にいるのが紛れも無くチエであることを確かめた。
「志郎、よく来てくれたなぁ。おら嬉しいぞぉ」
「うん。ぼく、チエちゃんと遊びたかったから」
「そうかそうかぁ。おらも同じだぁ。今日はうんと遊ぶぞぉ」
「そうだね。じゃあ、何して遊ぶ?」
「おら、さっきの押し競饅頭やってみたいだぁ」
「向こうでソーナノがやってた、あの押し競饅頭?」
押し競饅頭がしたいと要望を出すチエに、志郎は先程までソーナノがいた川の砂利場に目をやる。そこにはもうソーナノはおらず、使おうと思えば使える状態だった。二人が立つには少しばかり手狭だが、いやいやむしろそれくらいの方が押し合い圧し合いも面白かろう。志郎はこくりと頷いた。
はしゃぐチエと共に砂利場へ向かい、志郎が上に立つ。次いでチエが隣に立ち、準備は整った。二人が体をくっ付け合うと、志郎は横目でちらりとチエの様子を窺った。
「チエちゃん、これでいい?」
「おらはこれでいいぞぉ。始めるかえ?」
「うん、わかった。行くよ? せーのっ……!」
掛け声を上げて、志郎とチエが押し競饅頭を始め――
「それぇいっ!!」
「うわっ!?」
――た、直後。チエが志郎にお尻から体当たりを敢行して、隣にいた志郎を一撃で吹き飛ばした。志郎は軽く浮き上がって砂利場から投げ出され、無抵抗のまま川へと飛び込んだ。派手な水飛沫が上がり、志郎が川面に叩きつけられる。それほど深い川でもないから、志郎は川底に遠慮なく腹を打ち付けることになった。
昨日の比ではない程にずぶ濡れになった志郎が、何とか体を半分起こしてみると、チエが得意気に胸を張って志郎を見下ろしていた。呆気に取られた志郎が、ふるふると濡れた顔を震わせ、チエの目をまじまじと見つめた。
「い、今の……何?」
「はっはっはぁ! おら普通に押しただけだぁ。志郎こそどうしたんだぁ?」
「うーん……ぼくも、普通に押しただけなんだけど」
「ありゃ、ちと強かったかえ? おら加減したつもりだったんじゃけどなぁ」
「どう考えても、全力だったとしか思えないよ……」
チエ曰く、志郎を吹き飛ばした体当たりは「加減したつもり」だったらしい。全力でぶつかられたら、志郎は反対側の岸まで吹き飛んでいたかも知れない。チエは見かけによらず、結構な力持ちのようだった。
川の水で顔を洗い、志郎はざぶざぶと音を立てながら立ち上がる。下着も含めて全部が全部びしょ濡れになってしまったが、おかげで涼しくなった。チエの立っている砂利場に戻ると、再び彼女の隣に立った。
「よし、二回目だ。今度は負けないぞ」
「なんのなんのぉ。おらだって負けねぇぞぉ」
「始めるよ。せーのっ……!」
こうして、志郎は再びチエに押し競饅頭の勝負を挑んだわけだが――。
――して、かくも華々しきその結果は、と言うと。
「……チエちゃん、ものすごい力持ちだね。ぼく、全然敵わないや……」
「はっはっはぁ! おらの勝ちだぞぉ!」
最初のものも含めて五回戦ってみて、そのいずれも初めと同じ負け方を繰り返したのだった。全身ずぶ濡れになった志郎がシャツの裾を絞って水を切りながら、チエの力持ちぶりに驚くやら気圧されるやら、とにかく呆気に取られていた。人は見かけによらぬ、と言うが、ここまで如実な例は珍しい。
志郎と押し競饅頭をして大勝ちしたチエは、機嫌よく鼻歌を歌っていた。多聞に漏れず、自分の思うように歌っているために少し調子外れであったが、それがまたとても楽しそうなのだった。志郎はサンダルの中に入り込んだ砂利を川の水で洗い流してから、ご機嫌なチエに話しかけた。
「楽しそうだね、チエちゃん」
「はっはっはぁ! そりゃぁそうだぁ。志郎がおらと遊んでくれるからなぁ」
「ぼくと遊べたから、嬉しいの?」
「そうだぞぉ。おらと同じくらいの童ぇなんて、日和田には誰もいねえからなぁ」
「そっか……そういえば、子供が全然いないね」
日和田は老いた村だ。志郎やチエのような子供は、とんと見かけなくなって久しい。だとすると、チエはこれまで長い間、一人きりで遊んでいたのだろう。一つか二つ年かさであるとはいえ、志郎は誰が見ても子供――チエの言葉を借りるなら『童』――だ。チエがはしゃぐのも、分かることだろう。
前にも触れたが、日和田の過疎と高齢化は止めようが無いほどに進んでいた。一番の若者が、義孝の家にやってくる健治という時点で、その様相が窺い知れるというものである。老いた村は、人と同じ運命を辿る様にゆるやかな衰退に入り、やがては顧みる者もいなくなってしまう。日和田はゆるやかな下り坂を降りている真っ最中だった。
「あーあぁ、志郎、ずぶ濡れになっちまっただぁ。おらが乾かしてやるぞぉ」
「うん。昨日と同じように、お願いするね」
志郎のシャツの裾を掴むと、チエが昨日と同じように、言葉にできない念仏のようなものを誦する。始めは何も変わらぬ様態だったのが、チエが顔を顰めた直後、また水がチエの指先へと導かれ、手の甲を伝って砂利場へ零れ落ちていった。見る見る内に、水浸しだった服が乾いていく。
すっかり水を出し切ってしまうと、チエはほとんど止めていた呼吸を、ぷはぁ、という大きく息を吐く音と共に再開した。何度見ても不思議な業だと、志郎は目を見開かずにはおれなかった。チエは額に汗を浮かべ、志郎に笑顔を向けた後、川の水で顔をごしごしと洗った。
チエの不思議な力、つまりは水を集める力が働くのは――昨日もそうだったが、チエが顔を顰めたすぐ後のことだった。あの力を行使するためには、少しばかり表情を歪めることが欠かせないのだろうか。疑問を抱いた志郎が、すぐさま、チエに声を掛けた。
「チエちゃん、一つ訊いてもいい?」
「なんだぁ、志郎? おらに訊きたいことがあるのかえ?」
「うん。昨日もそうだったけど……ぼくの服を乾かすときに、なんだかちょっと辛そうな顔してたけど、あれ、どうかしたの?」
「それかぁ。大したことないんじゃけどなぁ、おら、お天道様にお願ぇするときに、ちと『頭』がずきずきするんじゃあ」
「頭が痛くなるの?」
「うん、うん。頭が痛くなるのが先かぁ、お天道様がおらの頼みを聞いてくれるのが先かは、おらにも分からんけどなぁ」
チエは言う。あのような力を行使する時、チエは頭がずきずきと痛むのだと。それを合図にして、不可思議な力が顔を出すという仕組みになっているのだと。頭が痛くなるから力が使えるのか、力が使えるから頭が痛むのかは、チエにも分からないらしい。
頭痛が先か力が先か、というのは、鶏が先か卵が先か、その言い合いをするのに等しい。どちらとも取れるから、どちらとも言えなかった。確実に述べられるのは、チエの「お天道様へのお願い」というのは、チエの頭痛と切っても切れない関係にあるということだけ、だった。
「そっか、頭が痛くなるんだね。ごめんね、チエちゃん。無理させちゃって」
「気にするなぁ、おらは平気だぞぉ。でも、志郎は優しいなぁ」
「頭が痛くなるのは、ぼくもなったことがあるから、分かるよ」
一回り上からチエを見下ろす形になっていた志郎が、ほとんど無意識のうちに、チエのおかっぱ頭の上に右手を乗せていた。チエは不思議そうに目をパチパチさせてから、上目遣いでもって、自分の頭の上に乗っかった志郎の手を見つめた。
「痛いの痛いの、飛んでけーっ……なんてね」
「こぉら、志郎。おら、くすぐったいぞぉ」
志郎が優しい手つきでチエのおかっぱを撫でてやると、チエはくすぐったそうにしながら、はにかんで笑顔を見せるのだった。愛嬌のある仕草で、チエが微笑む。
楽しい。久しぶりにそう思った。志郎は日和田に来てからというもの、日々が退屈でならなかった。一週間ほどしか経っていないはずなのに、その何倍も、この何も無い寂れた村に留まっているような錯覚を覚えていた。あまりにも無為で、途方も無く倦怠で、呆れるほど空疎。挙句、泊り込んでいる義孝の家では、父の康夫と叔父の健治が沈鬱な言い合いを延々続けているから、余計に気が重かった。
チエは、鬱屈した夜空の如き志郎の心に流れてきた、箒星のような存在だった。とかくキラキラと輝いて、彼女の一つ一つの仕草に、志郎は強く惹かれていく。昨日会ったばかりだというのに、まるで、昔からツナガリを持っていたような、言い知れぬ親しみを感じる。それはもちろん、チエの屈託の無い性格に起因するものだ。少なくとも、志郎にはそう思えた。
楽しい気持ちに任せて、ただチエと遊ぶ。どうせ、家に帰っても健治が居座っているのだ――このまま、日が暮れるまで遊べばいい。志郎は、そう考えた。
チエの紅葉のような手を取り、強く握り締める。それにしっかり応えてくれるチエの指先が、志郎には快く、心地よく、心強かった。
「チエちゃん、もっと遊ぼうよ」
「当ったり前だぁ。おらまだまだ遊びてぇぞぉ」
二人は手を取り合って川から上がると、川から少し歩いたところにある鎮守の森へと向かう。人の手が入らなくなって久しい神社を守るように取り囲む、ごく、小さな森だ。階段を一段一段上り、志郎とチエの姿が、鎮守の森の中へと消えていく。
喧しいほどに響き渡る、蝉たちの命を賭した吟詠の合間を縫って。
「行くよ。だーるまっかが、こーろんだっ!」
少年と少女が、鎮守の森を遊び場に変えていった。
「あちゃあ……おら、捕まっちまっただ」
「えへへっ。鬼ごっこなら負けないよ。それじゃチエちゃん、今度はぼくを追いかけてね」
「よぉし、おらが鬼だぞぉ。志郎、覚悟せぇよぉ」
「そんな簡単に、つかまらないよっ」
「待て待て志郎ぉ、とっととおらのお縄を頂戴するがええわぁ」
「おーにさーんこーちら、てーのなーるほーうへっ!」
太陽は爛々と輝き、地表をその絢爛たる光で揚々と焼いてゆく。己が存在を十二分に誇示した後は、控える月に光の衣を覆い被せ、自らは冷たい海に沈んでその身を休める。
時に延々とその身を晒して人に手を焼かせ、時に雲を被って人を恋焦がれさせる。太陽以上に気まぐれな者がおろうか。咄嗟には思いつかぬ。
「こぉら、志郎。お稲荷の影に隠れるのは卑怯だぞぉ」
「どうして? だって、ちょうどいい場所だし」
「おらは玖魂って狐の物の怪が大っ嫌ぇなんだぁ。夢にまで出てきて、おらを干からびさせようとするんじゃあ」
「なるほど、チエちゃんはキツネが苦手なんだね。だったら、ぼくはここからてこでも動かないよ」
「なんじゃあ、狐みたいに悪知恵働かせよってからに。もういい、おら知らね」
「ごめんごめん。冗談だよ、チエちゃん」
ああ、太陽のなんと奔放なことか。奥ゆかしい月とは対照的な、かくも壮麗たる有様よ。
陽の色が赤みを増すころに、志郎とチエは別れることになった。
「チエちゃん、ありがとう。すごく楽しかったよ」
「おらも楽しかったぞぉ。明日も、遊べるかえ?」
「大丈夫だよ。今日と同じように、川で待ってるね」
「分かっただぁ。志郎、また明日なぁ」
「うん。さよなら、チエちゃん」
明日もまた、遊ぼう。そのように約束を取り付け、志郎が立ち去ろうとする。
「あ、志郎、待っとくれえ」
「どうしたの? チエちゃん」
「指きり、してくれんかえ」
「えっ? 昨日もしなかったっけ?」
「昨日は昨日、今日は今日じゃぁ」
小指を差し出し指きりをねだるチエの姿を見た志郎は、仕方ないな、と、口では言わなかったけれど明らかにそれと分かる苦笑いを浮かべて、ぴんと伸びたチエの小指に、己の小指を引っ掛けた。
蛇の喧嘩のように絡み合った小指の接点から、志郎はチエの鼓動を微かではあるが、しかし確かに感じ取れた。チエの澄み切った瞳に自分の姿が映し出されていると思うと、志郎は何だか照れ臭くなって、そっと視線を外してしまった。それでも、触れ合った指から伝わる鼓動は、志郎にチエの存在をハッキリと自覚させるのだった。
志郎はわざと二、三度咳払いをしてから、さも何事も無かったかのように、指きりの呪いを口にした。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
絡め合っていた指を解くと、それと同時に志郎はチエの鼓動を感じとることができなくなり、一抹の寂しさが胸に去来する感覚を覚えた。チエは志郎の胸中を知ってか知らずか、無邪気な笑顔を志郎に向けつづけていた。
「うれしいなぁ。これで、明日も志郎と遊べるぞぉ」
「明日も必ず行くよ。一緒に遊ぼうね」
「うん、うん。楽しみにしとるよぉ」
鎮守の森の前で、チエと志郎が二手に別れる。志郎は、当然であるが元来た道を帰っていく。一方のチエはと言うと、鎮守の森の横をすっと通り過ぎて、そのもっと奥に見える、鬱蒼とした大きな大きな森へと吸い込まれてゆく。志郎は足を止めて、去り行くチエの姿を見つめた。
向こうに人家らしいものは見えない。あるいは、森を抜けたもっと向こうに、チエの住処があるのだろうか。日和田は山と森に囲まれた村だ。そのような場所に家があったとて、何らおかしなことはあるまい。何ら、気に掛けることはあるまい。
さて、一刻も早く戻らねば。早く帰れば早く飯の時間になり、早く飯を食い終われば早く眠ることができる。早く眠れれば、早くチエに会うことができる。今歩みを速めることは、遠回しにチエと早く会えるということを意味する。志郎は、ずっと被っていたが故に、少しばかり汗臭くなった麦藁帽子を改めて被り直すと、一目散に義孝の家へと駆けていった。
チエのことばかり考えていた志郎であったが――義孝の家まで戻ってくると、また、玄関に靴が三足並んでいる様が見えた。ふっと我に返る。夕暮れ時になっても、健治はここに居座っているらしい。関わりの薄いあの叔父が何をしているかなど、目で見ずとも易々と想像がつく。
そろりそろりと忍び足で、志郎は縁側へと向かった。開け放たれた窓から、室内で繰り広げられる、胃の痛くなるようなやり取りの一部始終が響いてきた。
「父さん、父さんだって分かっているはずだ。僕がサナトリウムに通い詰めなきゃいけなくなったのは、あいつの、あいつのせいだってッ」
「分かっておる。言いたいことは分かっておる」
「あれからもう三年も経っているんだ。それなのに、何一つ変わらない。窓の外を日がな一日見つめ通しで、たまに雨が降れば涙を流す。何も変わらない。変わらないんだッ」
「変わらない、のか」
「ああなってしまったのは、あいつの、剛三のせいだ。あの、外道の、鬼畜生の、人非人が、何もかも変えてしまったんだッ」
「それと、これとは、関係の無いことだと言っている」
「違うッ。そうじゃない。兄さんも父さんも、嵌められているんだ。これは、あいつの仕掛けた罠なんだ。騙されている、謀られている。正しいのは僕だ、僕の方なんだッ」
「例え山科がいなくとも、皆も賛成している。合意の上だ」
「何の為だ。水溜りなんて、あちこちに莫迦みたいに作っているじゃないか。どうしてここに作る必要がある。さっぱり分からないぞ。理屈が通らない。無理を通そうとしても、道理は引っ込まないぞッ」
健治の剣幕は、日を追うごとに増していっていた。中身が、志郎には分からない単語ばかりであったから、健治が何に憤怒し激昂しているのか、理解しようが無かった。意味も分からぬことを喚き続ける健治は、志郎にとって途轍もなく苦手な存在だった。康夫や義孝が辛抱強く真っ当に相手をしてやっていることが、正直に言って信じられぬほどだった。
理解できないことと言えば、チエが見せる「お天道様の力」だって理解できない。だが、あれは別に不快でも苦痛でもなかったし、チエが「お天道様にお願いすると願いが叶う」と言うのであれば、それは額面通り、チエの言うままなのだろうと思えた。理解できなくとも、何とも思わない。何故なら、チエというあの少女のことは、志郎は理解できるからだ。
縁側から家へ上がり、志郎が麦藁帽子を脱ぎ去る。蒸れて少し痒くなった頭を掻きながら、襖の向こうにいる叔父の気が静まるのを、じっと待ち続けた。
半時ほど経って健治がようやく引き上げたのを確認した志郎が、襖を開いて茶の間に姿を表す。志郎のことを意識の埒外に放り出していたのか、康夫も義孝も志郎の顔へ揃って視線を傾けた。少し居心地の悪い思いをしつつ、志郎は構わず茶の間へと出た。
千切った舞茸、輪切りの蓮根、刻んだ人参に湯掻いた牛蒡、洗った蓬、ざく切りの玉葱、大ぶりの薩摩芋と馬鈴薯、薄く切った南瓜、串に刺した獅子唐やら隠元豆、変り種に蒟蒻に昆布に紅生姜。鮮やかなタネを薄手の衣でからりと揚げた天麩羅を囲み、志郎らは夕飯を取った。昼飯を食うのも忘れてチエと遊んでいた志郎は、義孝の揚げた天麩羅の山を見るや今頃になって腹の虫が疼き、手当たり次第に天麩羅を食っていった。
湯を浴びて汗を流し、程々に涼んだ志郎が、茶の間で昼の続きをしている二人に先んじて布団に入った。目を閉じると、下ろした瞼を上げるのがひどく億劫に思え、そのまま闇に身を任せているうちに、体の末端から徐々に重さを感じ始め、やがて志郎は眠りについた。
暗い池に月が浮かぶ。台座の上に据えられた宝石か、闇にとらわれた姫君か。月はただ在るがままそこに浮かんでいるだけで、月は己の浮かぶ意味を知らない。人や獣、あるいは物の怪たちが、己の生き様に応じた、月の在り方というものを決めるのだ。
長針が九度ほど回った後、志郎がパチリと目を開けた。心地よい目覚めだ、気怠さとか眠気だとかが微塵も感じられない。真正面に見える年季の入った柱時計は、六時を少し回った時刻を指している。起きるのには丁度良い時間だった。気が変わらぬうちに上体を起こし、手を組んでぐっ、と体を起こした。
昨日と同じように、義孝は志郎より遥かに早起きして、朝飯の支度に精を出していた。志郎が、おはよう、と挨拶すると、味噌汁を煮立てていた義孝がクルリと振り返り、おはよう、と応じて見せた。冷蔵庫から麦茶の入った瓶を取り出し、小ぶりな硝子のコップに注ぎ、額にうっすら汗を浮かべた志郎に手渡した。
義孝は気立てのやさしい、穏やかな性格の爺さんだった。一年前に連れ合いの文江に先立たれてからは、一人でこの家を守っている。見た目に似合わぬ料理好きで、志郎は義孝の家に遊びに行く度に、義孝が用意してくれる質素なご馳走にありつけるのを楽しみにしていた。
麦茶を飲み干した志郎が容れ物を置き、厨で用を足して出て来たときのことだった。志郎の斜め手前に、家の上階へ繋がる階段が見えた。いつ見ても薄暗く、奥の様子が一向に知れなかったので、志郎は階段に近づくことさえしなかった。義孝が言うには、二階には康夫と健治が子供の時分に使っていた部屋があるという。興味はあったが、やはり薄暗いのが先に立って、積極的に踏み込もうと気はついぞ起こらなかった。
志郎が律儀に義孝の手伝いをしていると、寝室で眠っていた康夫が起き出してきた。お父さん、おはよう。志郎が呼びかけると、ああ、おはよう、志郎。康夫はそのように応えた。今柳葉魚が焼けたところだと言い、義孝が食卓に皿と茶碗・汁椀を並べていく。こうして、今日も朝の時間が流れ出すのである。
黄金色の卵掛けご飯を掻き込む志郎の隣で、康夫と義孝は時折ぽつぽつと二言三言、断片的な言葉を交わしていた。その内容はと言うと、やれ、健治を拾って行くための道順はどうなのかとか、見舞いの品は要らないのかとか、車の運転は一人で大丈夫なのかとか、例によって志郎の手の届かない、言わば空中戦の様相を呈していた。拾った言葉を繋ぎ合わせると、父と祖父は今日、叔父と一緒にどこかに誰かの見舞いへ行くらしい。そして恐らく、自分は関係ないだろう。志郎はそう考えた。
茄子と玉葱の味噌汁を啜り、箸休めの黒豆をつまんでいると、社会面を広げていた康夫がバサリと新聞紙を閉じ、志郎に向かっておもむろにこう言った。
「志郎。今日、おじいちゃんと一緒に出かけて来る。留守番を頼めるか?」
「留守番? 大丈夫だよ。何時に出て行くの?」
「朝からだ。家の鍵は預けておくから、外で遊びたいなら遊んできてもいいぞ。夕方には帰ってくるからな」
「済まないね、志郎。帰ってきたら、おじいちゃんがまたご馳走を作ってやるから、いい子で待ってておくれ」
「うん、分かった。鍵はぼくが閉めとくね」
何もかも、予想通りだった。康夫と義孝は、朝から――康夫も義孝も口に出しては言わなかったが、間違いなく「お見舞い」に、だろう――出かけるらしい。その間の留守番を、志郎に任せたいと言う。このような事は前々からまま繰り返されていたから、志郎は特に驚くこともなかった。遊びに出ていいと言われているから、家にはきちんと鍵を掛けて、チエのところへ遊びに行けばいい。それくらいの考えだった。
康夫と義孝が身支度を整えて、康夫の運転する車で走り去っていくのを見送ってから、志郎は志郎でいそいそと準備を始めた。よく絞った布巾で麦藁帽子を拭い、水筒によく冷やした麦茶を詰める。昨日は昼飯を食べ損なった――正確に言うのであれば、昼飯を食べるのも忘れるほど、夢中で遊んでいたのけれど――ので、釜に残っていた飯を幾らか失敬し、中に梅干を入れて海苔を巻いた大きな握り飯を二つ作って、ラップで巻いて袋に入れた。腹が減っても、これがあれば問題なかろう。
例によって麦藁帽子を被り、手提げに水筒と握り飯を入れて、志郎は家を出た。チエのところへ早く行きたい余りにうっかり鍵を掛け忘れ、家から五十歩ほどのところで気付いて慌てて引き返したのは、まあご愛嬌。元々泥棒の出るところでもあるまい。泥棒とて、このような人気の少ない田舎に張り付いているほど、暢気な稼業では無い筈である。
昨日より少し出るのが遅くなったものの、それでも、朝の早い時間に外を歩いていると言うことに変わりは無い。志郎が目をやると、またあちらこちらで、ポケモンたちののどかな営みの風景光景を見ることができた。
いつぞやの大樹の下で寝そべっていたニャースが、茶・黒・白の入り混じった三毛猫と、これまた団子になって眠っている。化け猫と猫はいがみ合うかと勝手に思っていたら、そうではないらしい。右手では、小さな雀とそれより二周りほど大きなスバメが、地面に転がる虫を啄ばんでいる。時々取り合いになるが、それも束の間。忽ち別の獲物を見つけて、そちらに向かっていく。何だかんだで、互いに上手くやっているようだ。
小さな蒲公英と戯れるポポッコ、野芥子にくっついて擬態する子供のバチュル、紫陽花の花をちょこちょこと齧っているスボミー、鳳仙花の茎に絡まっているフワンテ。夏に開花する花々は人の目を楽しませるだけでなく、ポケモン達にとっても惹かれる存在なのだろう。紫陽花を朝飯にしていたスボミーが通りがかった志郎に気付き、天辺の角だか手だか分からないものを振ると、志郎も手を振って応じてやった。
川までは難なく辿り着いた。清流から少し離れた場所に手提げ袋を置き、志郎がサンダルのまま水の中へ足を踏み入れる。一番乗りかと思いきや先客がいたようで、対面の岸でマリルとルリリが水面に浮かんで遊んでいる姿が見えた。体よりも大きな尻尾の浮き袋に恐々身を預けているルリリに、見たところ姉に思われるマリルが、自ら泳ぎの手本を見せてやっている。
水鼠、の異名を戴くだけあって、マリルは小柄ながら泳ぎに長けたポケモンだった。立泳ぎに始まり、背泳ぎに平泳ぎ、果ては申し訳程度にくっついている手足を目一杯稼働させて、人並みにクロウルまでやってのける。ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせ、マリルは楽しげに泳いでいた。
快活に泳ぎ回る姉の姿に気持ちを解されたルリリが、恐る恐るしがみ付いていた尻尾の浮き袋から手を離し、清流に華奢な体を預ける。マリルはルリリが溺れぬように躰を抱えてやり、まずはルリリが水と近しくなれるようにしてやる。初めは少々怯えていたルリリも、やがて慣れてきたのだろう、姉に掴んでもらいながらバタ足の練習をし始めた。
ルリリの表情が綻ぶまでは、さして時間は掛からなかった。妹の躰を支えつつ、マリルがゆるゆると後ろへ身を引いてゆく。こうして、姉が妹に泳ぐこつを教えてやるわけだ。おそらくはマリルも、父母か兄か姉かは定かでないが、年長者に同じようにして泳法の手解きを受けたのだろう。
楽しそうにバタ足を続けるルリリを、遠巻きに見物していた志郎だったが──不意に、ふっと、目の前が暗くなった。知らぬ間に瞼が下り、視界が闇に染め上げられる。不思議に思った志郎が顔を左右に振り向けてみるが、どうにも、いつもと勝手が違って思うように動かない。
「あれ……?」
「にっしっしっし。うーしーろーのしょーうめんだーれじゃ?」
そういうことか。待ち人来たりて目を塞ぐ。水鼠の姉妹に見とれている間に、後ろから近づかれていたようであった。志郎は胸いっぱいに息を吸い込んで、はぁー、と一思いに吐き出す。十分に気を落ち着かせ、志郎が平時通りの調子で、後ろの正面に立つ者の名を口にする。
「分かったよ。チエちゃんだね」
「ははっ、当ったりだぞぉ、志郎」
後ろに立つは、おかっぱ髪に雨合羽の少女、お馴染みチエであった。視界の開けた志郎が振り返ると、向日葵か蒲公英かと思うような晴々とした笑みを見せるチエの顔があった。志郎はほっと息を吐いて、自分の顔を少し上目で見つめる形になっているチエに眼差しを向けた。
安心するのである。チエの姿を見ていると。義孝の家では、健治が日がな一日己の主張をのべつ幕無しに口走り続けている。康夫と義孝は、健治の訴えをほとんど黙って聞き入れている。そのやり取りの間に、志郎が入る余地は微塵も無い。分かり良く言うと、居場所が無いのだ。まったくもって、どこにも在りはしない。
チエは、そうではない。自分と会えるのを心待ちにして、真っ直ぐな気持ちを向けてくれる。チエと戯れていると、自分がここにいても良いような気がしてくる。一昨日かそこらに顔を合わせたばかりなのに、不思議とチエは他人の気がしない。馬鹿馬鹿しいことであるが、実はチエが志郎の親戚だった、などと言われても、さして驚き無く受け入れられるような気さえするのである。
「いきなり目隠しされちゃって、ちょっとびっくりしたよ」
「うん、うん。おら、志郎がたまげるのを見たかったからなぁ」
「チエちゃんが、どーん、って水をぶちまけた時が、一番驚いたかな」
「あれかぁあれかぁ。おらはかーるく叩いたつもりだったけどぉ、打ち所が悪くて大水になっちまったからなぁ」
昨日遊んでいるときに、チエは前の日に志郎の前でぶち上げた巨大な水柱も、チエの力によるものだと教えてもらった。あれは「お天道様」にお願いしたのではなく、普通に水面を叩いたらああなったそうな。彼女の見た目に拠らぬとんでもない馬鹿力は、服を一瞬で乾かして見せたあの力と、また別物らしい。
川の中でしばらく話していた志郎とチエだったが、ふと、チエが肩から編んだ藁の紐を提げているのが見えた。すーっと紐に沿ってなぞっていくと、チエの腰辺りに、これまた藁で編んだ小さな鞄が迫り出していた。ちょうど、志郎が持っている水筒のような位置にある。
「チエちゃん。そのかばん、何か入ってるの?」
「入っとるともぉ。見てみるかえ?」
チエが鞄に蓋をしている藁の紐をくるりくるりと巻いて取り外すと、鞄の口を大きく広げて、中に入っているものを志郎に見せた。興味を惹かれた志郎が、中をずずいと覗き込む。チエの鞄の中には、笹の葉で包まれた大きな塊が二つと、露を吹いた水入りの小ぶりな瓶が一つ入っていた。瓶は蓋に布が巻かれていて、口を紐で縛ってある。
笹の葉で包まれているのは、焼いた木の実だとチエは言う。木の実を蒸し焼きにした後、保存のために笹の葉を幾枚も重ね合わせて包んでいる。趣旨としては、概ね、今日志郎が持ってきた昼飯と同じ位置付けだろう。それにつけても、なんとも野趣溢れる弁当ではなかろうか。やはり、チエはちぐはぐだ。そしてそのちぐはぐさが、チエという少女の印象をより鮮烈にするのである。
中身を見せてもらった後、志郎とチエは手を取り合って近くの岸へ上がる。何をしようかと思案していた最中、チエが「もっと大きな川があるところを知っている」と口にし、その「大きな川」とやらへ行きたいと言い出した。日和田の地理にはとんと疎かった志郎は「大きな川」とやらが何処にあるのかさっぱり分からなかったものの、チエがせがむからには面白い場所に相違ないと考え、チエにそこまで案内してもらうことにした。
昨日遊んだ鎮守の森を左手にすり抜け、奥に鎮座する鬱蒼とした森の中へ分け入っていく。時折オニスズメが囀る声が聞こえ、不用意に縄張りへ侵入する不届き者を追い払う姿が見える。短い羽を忙しなく羽ばたかせ、体のなりの割に鋭い目を向けてきたりするものの、志郎の隣を歩くチエの姿を認めるとそれ以上深追いはせず、巣に戻っていく。
「チエちゃん、オニスズメに怖がられないんだね」
「んだ。鬼雀は自分の住処の番をするのが仕事じゃあ。おらが『おめぇたちの所に行く気はねぇぞ』って言うと、それで満足するんじゃよ」
「そうなんだ……オニスズメに話ができるのも、神様のおかげ?」
「いんや。おら、なぁんもせんでも物の怪の言葉が分かるぞぉ。志郎には分からんのかえ?」
「うん。また、ポケモンが話している所を見たら、何を話してるか教えてほしいな」
「構わん構わん。おらに任せとけぇ」
これといって特別何かせずとも、チエにはポケモンの言葉を理解して、さらに自分の意志を伝える能力が備わっているらしい。志郎が読んだことのある児童向け文学にも、獣の言葉を解し繰る少年少女はぽつぽついはしたが、それは志郎にとって、あくまで紙の上でのみ生きる、肉を持たない存在だった。
チエは、どうか。手を伸ばせば、いや今なら伸ばさずとも容易に触れることが出来、自分の隣で息をしている。チエはここにいるのだ。志郎はそれを実感する事ができる。チエは間違いなくここにいて、断じて記憶の断片などではない。実体を伴い、確かに側にいる。人の理にそぐわぬ力を持っていても、チエはここにいるのだから、それを否定することなど、土台無理なことである。
志郎がチエの手を取ると、チエも志郎の手を握り返す。無邪気に笑うチエの姿を見て、志郎は何やら無性に嬉しくなってきた。浮き浮きしたその気持ちに任せるまま、チエと共に森の奥深くへとずんずん踏み込んでいった。
して、その先で二人を待ち受けていたものと言うと。
「うわぁ……! 大きくて綺麗な川だね。ここがチエちゃんの言ってた川?」
「ははっ、たまげたかえ? でっけぇ川だろぉ。おら、こん川で遊ぶのが大好きなんじゃあ」
二人が待ち合わせに使っているあの河川が餓鬼の遊びに見えるほど、連れてこられた先の川は大きいものだった。浅瀬から数歩踏み出せば、志郎ほどの背丈では川底に足が着かずすっぽり水で覆われてしまうだろうと思えるほど深い場所があり、川面にたゆたう落ち葉の流れる様を見ても、流れの方も相応に速かろうことが分かる。
とは言え、踝まで水嵩が届かぬ程度の所で遊ぶのであれば、深さも速さも恐るるに足らず。今日は底意地の悪い雨雲が出張ってくるとの予報もなく、川は終日穏やかに流れるばかりであろう。つまるところ、川で遊ぶには絶好の状況と言えるわけである。
二人は河原の隅に手提げと鞄を寄せ固めて置くと、すぐさま川の畔に向けて駆け出した。ザアザアと止む事無しに水が流れる音を聞かされていると、身が疼くのが子供という生き物である。志郎が澄み切った川の水を手桶で掬ってバシャバシャと顔を洗うと、チエも彼に倣って顔をゴシゴシと洗った。じめじめと顔や額に纏わり付いていた汗を清水で跡形も無く吹き飛ばすと、志郎とチエが顔を見合わせて笑った。
川の周りにも、物の怪、もといポケモンたちの姿があちこちに見られた。畔ではジグザグマやビッパが水浴びに興じていたし、少し奥にまで目をやると、トサキントやコイキングが川面から跳ね上がる姿がしばしば目撃できた。せせらぎの音に心惹かれたか、河原と森の接する辺りで、ピッピとタブンネが揃って座り込んで耳を傾けている。白か灰色かという河原で、これら少々目に眩しい桜色の物の怪たちが寛いでいる光景は、ともすると珍妙なものであった。
「この辺り、タブンネも住んでるんだね」
「んだ。多聞音は怖がりじゃから、人様の住んどるところには寄り付かんのじゃあ」
一時、タブンネがポケモントレーナー達に「狩られ」、その数を大きく減らした時期があった。日和田も例に漏れずタブンネが姿を消した時期があったが、その後それより早く人間の、特に子供・若者の数が減り切ったために、徐々に元の形に戻りつつあるらしい。
タブンネから視線を外して森に目をやると、背の高い草が無数に生えているのが見えた。何やら玩具にできそうな装いである。思い立ったが吉日吉報、志郎はサンダルで石ころを踏みながら走り、適当に一本草を引きちぎって、チエのところへとって返してきた。
何をする気なのかと不思議そうに見つめるチエを横手に、志郎が持ってきた草を捏ね繰り回し始めた。待つこと数分、不意に志郎が顔を上げ、弄くっていた草を――否、草だったものを高々と掲げた。
「志郎、ひょっとしてそれ、草船かえ?」
「そうだよ。よく知ってるね。お父さんに作り方を教えてもらったんだ」
志郎の手のひらに載っているもの、それは、草を折って作った小さな船だった。小さいなりにうまく船の形を成していて、なかなかの出来栄えに思えた。川で遊び道具として使うにはうってつけだろう。向こうには同じような草がぼうぼう生えており、これを流してしまっても新しい船はいくらでも作れそうだった。
いつだったかは忘れたが、志郎は草船の作り方を康夫から教わった。その時に、康夫も義孝から作り方の手解きを受けたと聞いたような気がする。義孝・康夫・志郎と、草船の作り方が連綿と受け継がれているわけだ。自分にも子供ができたら、同じようにして作り方の手本を見せてやろう──志郎は、そのように考えるのだった。
「そうかぁ、志郎も草船作るんじゃなぁ」
「ぼくも、ってことは、チエちゃんも作れるの?」
「おらだって作れるぞぉ。ちと待っとれい」
チエは志郎が草を摘みに行ったところまで駆けていき、同じようにして手近な草を取ってくると、てけてけと志郎の元まで帰ってきた。早速、草船を作る──と、思いきや。チエは草を石畳の上へ置いて、そのまま屈み込んだ。バサア、という雨合羽の擦れる音が聞こえ、チエが草を一心に見つめだした
今度は志郎が不可思議だという顔つきをする番だった。チエは志郎の服の裾を掴んだあの時のように、目を閉じて念仏のようなものを誦じ始めた。そのまま、しばし待ってみる。すると、草が不意にピンと立ち上がったかと思うと、頭の先からクルクルと自分自身を折り畳み始め、形を成し始めた。
手を伸ばして念を草に送ると、草がチエの願いに応えてあれよあれよと言う間に形を変えていく。志郎は草の変貌する様を、目を見開き固唾を呑んで見守る。額に珠のような汗を光らせながら、チエは作業に没入した。そして待つこと凡そ三分。チエが、向けていた手をすっと下ろし、顔を上げて志郎に視線を向けた。
「できたぞぉ、志郎。おらの草船だぁ」
「すごいなあ、チエちゃん。手を触れずに作っちゃうなんて」
「はっはっはぁ! おらの十八番だからなぁ。おっ母に仕込んでもらったんだぞぉ」
「へぇ……お母さんに教えてもらったんだ」
父から草船作りを習った志郎とは対照的に、チエは母親に草船の作り方を仕込まれた、らしい。となると、母親さんのほうもチエのように摩訶不思議な力を使うのであろうか。チエがこのような型破りな娘であるから、母親とて型破りであっても何らおかしなことは無い。志郎はそう考えた。
完成した草船を互いに持ち寄り、即席の品評会を行う。チエの手がけた草船を手に取って見た志郎は、直ちにあることに気が付いた。草船の作りが、志郎とチエのものでピタリと一致していたのだ。折り方から仕上げに至るまで、美に入り細に入り同じである。
志郎がチエにそのことを伝えると、チエは面白がって志郎の草船を取った。自分のものと志郎のものを見比べてみて、確かに同じ作りになっていることを認めた。草船は幾つか作り方があるが、志郎のものはあまり見かけない、やや手の込んだ作りだった。珍しいと言って差し支えないだろう。
「チエちゃん、珍しいなぁ。ぼくと同じ作り方だったなんて」
「珍しいのかえ? おら、この作り方しか知らねぇぞぉ」
「何種類かあるみたいなんだ。ぼくも、これしか知らないけど」
何はともあれ、草船が出来たことに変わりは無い。さて、では次はどうするかと言えば、言うまでも無く進水式である。作ったまま放置されて置かれるのは、草船としても文字通り『浮かばれない』。清流に身を委ねさせ、流れる様を鑑賞するところまで含めて、草船遊びと言えよう。
チエと志郎が仲良く並んで川縁に屈み込む。目を合わせて頷き合った後、草船を川面に漂わせた。船は僅かに揺らぐも直ちに体勢を立て直し、流れに沿って川を悠々と下っていく。二人はすぐに立ち上がると、流れ行く船を視界に捉えつつ追いかけ始める。
徐々に加速し、草船が視界から遠ざかっていく。気ままな川の流れに弄ばれてくるくると回り、迫り出した岩場に船体をぶつけ、時折顔を出すハスボーの水飛沫に揺らされたりしつつ、それでも船は転覆する事無く、一心に川下に向けて航行を続ける。
やがて船の姿を追う事は出来なくなり、志郎もチエもその場に立ち止まった。船が沈没せずに出航したことを受けて、満足そうな顔つきをしている。
「うまくいったね、チエちゃん」
「いい塩梅に流れて面白いなぁ。おらもっと流すぞぉ」
「よし、ぼくだって。チエちゃん、行こっか」
せせらぎと木陰が涼を醸し出す鬱蒼とした森の奥で、二人は気の趣くままに遊び続けた。人の手が入らぬこの場所は、志郎とチエだけの私的な遊び場と化した。時が経つのも忘れて遊ぶ二人を見ては、時渡りの神様とて時間の存在を知らしめることは難しかろう。
それでも――時は流れる。
チエと共に草船流しを飽きもせず五度ほど繰り返した後、志郎は少し腹の虫が疼いてくるのを感じた。時計は持っておらぬが、体感的にはちょうど昼時である。日の高さも昼時の証明となるだろう。川縁で手を洗っているチエに、志郎が後ろから声を掛けた。
「チエちゃん、そろそろお昼にしない?」
「んだ。おらもそう思っとったところじゃあ」
同意が取れた。志郎は立ち上がると、隅に置いてあった自分とチエの鞄を片手ずつに取り、元居た場所までさっと戻った。都合よくチエも戻ってきて、志郎から鞄を受け取る。手近に腰掛けられそうな大きな石が、ちょうど二つごろりと転がっていたので、二人はそれぞれ石の上に腰掛けた。
手提げから大きな握り飯を取り出す志郎に、チエも鞄から笹の葉を巻いた焼き木の実を取り出す。握り飯も木の実も都合よく――いや、最初から図っていたのかも知れないが――二つ在ったから、志郎もチエもどちらともなく、互いに持ち寄った食べ物を相手に手渡す。
「はい、チエちゃん。ラップを外して食べてね」
「ははっ、旨そうだなぁ。おらからも渡すぞぉ」
「ありがとう、チエちゃん。葉っぱで包むって、なんだか面白いね」
受け取った握り飯に、小さな口を目一杯開けてかぶりつくチエを横目で見ながら、志郎はチエが持ってきた笹の葉巻き焼き木の実の葉を一枚一枚丁寧に剥がしていった。葉を一枚取り去るたびに、笹の葉と木の実の芳醇な匂いが広がる。思い切りかぶり付きたい気持ちを無理くり抑え、志郎は落ち着き払って一口齧った。
果実の類は焼くと味が大きく変わると言われているが、志郎が食べたそれは元の味が何なのか考えがまったく及ばなかった。決して不味い訳ではない。火に炙られた果実は確かに柔らかく、口の中でスッと溶けるような感触がする。それでいて、口に入るまでは元の形を保っている。甘味は痺れるほど強く、口内に瞬時に広がるが、それはあくまで一瞬のこと。まるで尾を引かず、しつこさとは無縁であった。そして、甘さが引いた後にほのかに残る林檎のような酸味が、二口目・三口目と果実を食べさせる原動力として働くのである。散々長々書いたが、端的簡潔に言うと、旨いのである。
一心不乱に果実を食べる志郎の様子を見たチエが、口元に米粒をくっ付けたまま無邪気に笑う。目ざとい志郎が自分の口元を指して米粒の存在を教えてやると、チエは照れたように頬を赤くし、米粒を取ってはにかんで見せた。
志郎が持ってきた麦茶を二人で分け合って飲み干し、水筒を川の水で満たした後、志郎とチエは一服入れることにした。四方を木々に囲われた川辺で胸に空気を満たすと、臓腑が浄化されていくような感触が味わえる。志郎が住んでいるところは別段空気が濁っている訳ではないが、ここと比較すれば雲泥の差がある。どちらが雲かは、言うまでも無い。
「気持ちいいね、ここ。ねえ、チエちゃん……あれ?」
空気に身が洗われていくような快さを味わいながら、志郎が隣に居たチエに向き直った。
そこまではよかった。問題は、その後である。
「あたたたた……やめい、やめい、暴れるでねえ、暴れるでねえ」
「チエちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
座っていたチエが頭を抱え、蹲るようにして体を丸めていた。何事かと立ち上がった志郎がチエに寄り添うと、チエが苦しそうに顔を上げた。
「駄目じゃあ、駄目じゃあ。志郎、おらに近寄るでねえ。頭が、頭が割れちまうぞぉ」
「頭が……? チエちゃん、一体何が……」
志郎がチエの体を支えると――不思議なことが起きた。視界が揺らぎ、右の目と左の目で見ているものがずれてくるような感触がしたかと思うと、心の臓が頭に移ったかと錯覚するほど、どくんどくんと脈を打ち始めたのである。
初めは気にならなかったそれが、瞬きもせぬうちに大きくなり、やがてはっきりと伝わる『痛み』の波動として広がり始めた。思わず顔を歪め、志郎が片目を瞑る。あれよあれよと言う間に、志郎は頭痛に見舞われ始めた。
「痛い、痛い、こらぁ、やめろと言うておるんじゃあ」
「ぐっ……! チエちゃん、頭が痛いの……?」
止まない頭痛を抱えながらも、苦しむチエを見た志郎は決然と立ち上がり、チエの体を横たえてやった。頭を痛めているのにごつごつした石の上に頭を置くのは理に敵わぬと判断した志郎は、すぐさまその場へしゃがみこみ、己の膝をチエの枕としてやった。
横になり、志郎に膝枕をしてもらったチエが、少し表情を緩める。きゅっと閉じていた目を薄く開くと、心配そうな視線を志郎に向けた。
「志郎……」
「チエちゃん、しっかりして! 大丈夫? 横になってた方が、楽だと思うけど……」
「堪忍なあ、志郎。おら、時々頭が割れそうになってなぁ、そん時は、おらの周りに居る人も、同じように頭が痛いと言うようになるんじゃあ」
「やっぱり、チエちゃんも頭が痛くなったんだね……」
力なくこくりと頷くチエに、志郎は己の頭の痛みなどとうにどうでもよくなって、一心にチエの目を見つめ続けた。頭が酷く痛むせいか、チエの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。彼女の豪放磊落な面ばかり見ていた志郎は、今にも萎れそうな花を思わせるチエの姿に、ただならぬものを感じ取っていた。
チエは、泣いていた。
ポツリ、ポツリ。志郎の頭に、冷たいものが降ってきた。チエを起こさぬようにそっと顔を上げると、あれほど晴れ渡っていたはずの空に、黒い雨雲が被さっているのが見えた。弱い、ごく弱い雨を降らせ、志郎とチエの頬に雫を垂らす。ぼうっと空を見つめながら、志郎は惚けたように口を開けていた。
短パンのポケットからハンカチを引きずり出して、チエの額にじっとりと浮かんだ汗を拭ってやる。志郎自身も頭の痛みはあったが、今はそれよりチエの具合の方がずっとずっと心配であった。水筒から冷えた水を容れ物に汲んで、口から少し飲ませてやった。こくん、と水が喉を通る音が聞こえた。
幸いにして、チエと志郎の頭の痛みはそれ以上酷くなる事はなく、一度山を越えた後は波が引くようにごく静かに鎮まってゆき、チエは落ち着いた呼吸の律動を取り戻した。志郎が頭を撫でてやると、チエは安堵した表情を見せ、そっと目を閉じる。
「落ち着いた? チエちゃん」
「まだ、ちぃと痛むけど、もう心配せんでも大丈夫じゃあ」
受け答えはハッキリしていた。チエはまだ少し痛むようだったが、先ほどのような激しい痛みとは程遠い、しつこく居残った弱い痛みのようだった。
「よかった……チエちゃんが苦しそうだったから、心配だったんだ」
「堪忍なぁ、志郎。おら、もう大丈夫じゃけど……」
「うん。どうかした?」
「もうちっとばかり、横になっててもええかえ?」
「いいよ。ぼく、チエちゃんが起きるまでこうしてるからね」
志郎の膝の上が気に入ったのか、もう少し横になっていたいと言うチエに、志郎は即座に構わないと答えた。チエは弱々しいながらも笑顔を取り戻すと、しばし目を閉じた。
そうして半時ほど、志郎もチエも互いに何も言わずに過ごしていた。そこから先に沈黙を破ったのは、志郎の膝の上で横になっていたチエのほうだった。
「堪忍なぁ、志郎。頭、痛かったじゃろ?」
「ううん、ぼくは平気だよ。チエちゃんこそ、大丈夫?」
「うん、うん。おらも大丈夫だぁ。志郎、ありがとうなぁ。志郎のおかげで、おら随分楽になっただぁ」
「そっか……よかった。ぼく、チエちゃんが倒れちゃうんじゃないかって、心配で……」
「すまんなぁ、志郎。おら、昔のことを思い出しちまったんだぁ」
「昔のこと?」
昔のことを思い出した、と呟くチエに、志郎は先を聞かせてくれ、という意味をこめて問い返した。チエは志郎の言葉の裏の意味まで読み取って、訥々と続きを話し始めた。
「志郎がくれた握り飯を、志郎と一緒に食ってたら、おっ母がいた頃のことを思い出して、おら悲しくなってきて……そんで、気が付いたら、頭が痛くなっとったんじゃあ」
「チエちゃん、お母さんがいないの?」
「そうじゃあ。おらが五つのときに、おらの病気を治すために出て行ってしまったんだぁ」
「病気?」
「んだ。おらもよく覚えてねえけど、体が燃えとうみたいに熱っこくなって、前も後ろも見えんようになったんじゃあ」
チエはその昔、重い熱病に罹ったという。その病を治すために、母親は出て行ったと言う。
「おっ母がいなくなって、ちっとすると……体が楽になっただぁ」
「お母さんがいなくなって……」
「そうだぁ。それで、おら、おっ母、おっ母って何遍も呼んで、でも、おっ母は帰って来なんだんだぁ」
「チエちゃん……」
「時々思い出すんじゃあ。雨ん中で、ずっとおっ母、おっ母って叫んどったのを」
「そんなことが……じゃあ、チエちゃん。お父さんは?」
「知らねぇだ。おらが生まれたときは、おっ母しかいなかっただぁ」
「そっか……チエちゃんも、一人なんだね」
「『も』? 志郎も、一人ぼっちなのかえ?」
「うん。お母さんがいなくて、お父さんはいるけど、よく家を空けて留守にしちゃうから」
チエの境遇は、志郎にも痛いほど理解できるものだった。父と母が共におらず、一人ぼっちで過ごしているという。この様子では、普段から一人で過ごしているのだろう。志郎には康夫がいたが、康夫もしょっちゅう家を空けて志郎を一人にしてしまう。だから、志郎は一人ぼっちの寂しさがどれほどのものか、その身をもって理解していた。
寂しげな目を向けてくるチエに、志郎は居た堪れなくなって、雨に濡れたおかっぱ頭を撫でてやった。頭が痛いと言っていたのだ、撫でてやってもいいじゃないか。そのように言い訳を作っていたが、本心ではそんな瑣末なことより、チエが不憫でならなかったのである。
生まれつき父親がおらず、慕っていた母親もいなくなってしまった。そのような境遇で、チエは一人暮らしている。 一人きりのチエのために、何かしてやれることはないのか──自問自答した志郎が、無意識のうちに、チエに向かってこんな問いを投げかけていた。
「チエちゃん」
「ん? どうしたぁ、志郎」
「チエちゃんは、ぼくと一緒にいると楽しい?」
チエの、答えは。
「当ったり前だぁ。おら、志郎と顔合わせてから、毎日早起きしてんだぞぉ」
「チエちゃん……それ、ぼくも同じだよ。早く起きれば早くチエちゃんに会える、って思ってさ」
「なんだぁ、志郎も同じだったのかぁ。おらたち、よく似てんなぁ」
膝の上のチエの顔に、いつもの屈託のない笑顔が戻ってきた。雨降りのような雫を零しているより、太陽のように爛々と輝いていてほしい。志郎は、チエがそうあってほしいと願った。
空を見上げる。先ほどまで張り出していた薄汚れた雨雲はとうの昔にどこかへ消え去って、また夏らしい青空が広がっていた。ただの通り雨だったようだ。通り雨にしては勢いも激しさもないしょぼくれたものだったが、まあ、大雨に降られてずぶ濡れになること思えば在り難いものである。
志郎がチエを介抱していると、先程川縁で字面通り『耳を傾けて』いたタブンネが、とことこと二人の元へ歩み寄ってきた。チエが薄目を開けると、タブンネがずずいと彼女の顔を覗き込む。チエが横になっているのを見かけて、何事かと心配したようである。
「多聞音かえ? おらはもう平気だぞぉ。志郎が面倒見てくれたんだぁ」
「心配してくれたんだね。でも、チエちゃんは大丈夫だよ。もうすぐ立ち上がれるようになると思うから」
タブンネは二人の前に立つと、クルリと巻いてある耳元の触角をスルスルと伸ばして、チエと志郎の額にピタリと触覚の先端を当てた。行動の意味合いはよく分からないが、もしかするとあれは医者の持っている聴診器のようなものであろうか。二人共々頭が痛いと言っていたから、タブンネがそれを聞いて頭を調べてくれているのかも知れぬ。志郎はタブンネの触覚を見つめながら、とりあえずそのように考えておくことにした。
ひたひたと何度か当てて外してを繰り返し――調べている間一度だけ驚いたような表情を見せたが、その瞬間川からドジョッチが飛び出したので、水の跳ねる音に驚いたのだろう――、必要なことを調べ終えたようだ。タブンネが触手を元の形に巻き直す。タブンネの表情を見る限り、問題は無さそうである。
「ねえ、タブンネ。ぼくたち、大丈夫だったよね?」
「タブンネー」
「おぉい、多聞音ぇ。『多分』じゃ加減が分からんぞぉ」
チエが起き上がり、タブンネの「多分ね」という曖昧な回答に笑って突っ込みを入れる。無論、タブンネとしては「まず大丈夫」という意味を込めて言ったわけであり、間違っても「多分大丈夫、だけど危ないかも」という意味ではないのだろうが、この答えではまあ致し方ないところである。
手短ながら診察してくれたタブンネを、志郎とチエが揃って撫でてやる。日和田のタブンネは人を怖がるようになったと言うが、このタブンネはチエによくしてもらっているのか、まるで怖がる気配を見せない。目を細めるタブンネの姿が、曇りかけた心を晴らしていくのを感じる。
優しいタブンネから心地よい「癒しの波動」を掛けてもらい、すっかり元気を取り戻した志郎とチエが立ち上がった。いやはやまだまだ日は高い。帰ってしまうには惜しい晴天である。
「よし、チエちゃん。また遊ぼっか」
「賛成だぁ。おらももっと遊びてぇぞぉ」
憂鬱な時間はお終いだ。さあ、もっと遊ぼうではないか――志郎がチエの手を取り、川へと向かう。
「チエちゃん、『水切り』って知ってる?」
「いんや、おら知らねぇだ。手で水をぶった切るのかえ?」
「うーん、ちょっと違うかな。こうやって、石を投げて……それっ!」
「おぉ? 石が水の上を跳ねてってるぞぉ?」
「これが水切りだよ。石を投げて、川の上を跳ねさせる遊びなんだ」
「面白そうだなぁ。おらもやってみるぞぉ」
木漏れ日の差す森の奥、物の怪たちの住む川で、水切りに興じる童たち。地と水の入り混じる狭間に立ち、無邪気に石を投げてゆく。
「ち、ちょっとチエちゃん、そんなに振りかぶらなくても……」
「なぁに、ちぃと加減すれば、おらだってぴょんぴょん跳ねさせられるぞぉ」
「うわっ、この角度っ……!」
「見とれよぉ。えぇいっ!!」
力任せに投げた石は、いつぞやの出来事を想起させる、派手な水柱をぶち上げた。
「ありゃあ、石が跳ねずに水が跳ねちったなぁ」
「けほっ、けほっ……チエちゃん、力任せに投げればいいってもんじゃないよ……」
「そうなのかえ? 志郎、おらに投げ方教えてくれぇ」
「いいよ。ちょっと、顔を拭いてからね」
びしょ濡れになるのも、これでもう三日連続。志郎はそう考えると共に、チエと邂逅してまだ三日しか経っていないということを思い出し、些か驚くのだった。たったの三日で、ここまで仲良くなれるものなのか。前にも思ったが、昔からの知り合いのような気さえする。それが錯覚に過ぎぬということは、志郎自らの記憶が明瞭に物語っていたが。
時は過ぎて陽は沈み――辺りを、寂しげな夕闇が覆う頃。
「暗くなってきちゃったね。チエちゃん、そろそろ帰ろうか」
「んだ。今日も楽しかったぞぉ、志郎」
「ぼくもだよ、チエちゃん。水切り、うまくできるようになったね」
「はっはっはぁ! 志郎のおかげだぞぉ。おらもっと練習して、十回くらい跳ねるようにしてやるぞぉ」
遊びつかれた二人が手を取り合い、家路に着こうとしていた。辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていたのだが、不思議と、志郎とチエの周囲だけはぼんやりと光が灯っていた。そのおかげか、志郎もチエも夕闇に怯える事無く、行きと同じように意気揚々と歩いていた。
光源を辿り、二人を照らす道標となっている存在を追う。すると――火の付いた蝋燭に、蝋が溶けて出来た手足……と呼ぶには些か頼りない突起の付いた、得体の知れぬ生き物が、二人を先導するように歩いていた。それだけでも十分怪事なのだが、灯っているのは赤々とした火ではなく、霊妙な青白い炎だった。
この珍妙な生き物が現れたのは、ごくごくつい先程のことである。
「この子、ヒトモシって言うんだね」
「んだ。火灯はおらの友達だぞぉ。こうやって、暗い道を照らしてくれる物の怪なんじゃあ」
「へぇー。ろうそくみたいな見た目、そのままだね」
「そう思うじゃろ? 実はな……そんだけじゃあないんだぞぉ」
歩いていた蝋燭の物の怪、もといヒトモシをさっと抱えて、何やら口調を改めて話し始めた。
「火灯は、こうやって暗い道を照らしてくれとるけどなぁ……」
「ち、チエちゃん……?」
「実はなぁ……周りの人や獣や、物の怪の命を吸って燃えとるんじゃあ」
「……えぇっ!?」
「そんでなぁ、其の儘、黙って火灯に付いてくと……」
チエが抱いていたヒトモシを顔の下へ持って行くと――
「霊界に引きずり込まれてしまうんじゃぁああぁ〜!」
――陰影が度の過ぎた形で強調されたチエの顔が、志郎の眼前に迫ってきた。
「う、うわぁっ!?」
驚いて思いっきり仰け反った志郎を見たチエが、ヒトモシを地面に置いて、いつものように豪快に笑って見せた。
「はっはっはぁ! 志郎、たまげたかえ?」
「び、びっくりしたというより、ぼく、寿命が縮まったよ……いろいろな意味で」
「にししっ。志郎は面白ぇなぁ」
「もう、ぼくはチエちゃんのおもちゃじゃないんだから」
「堪忍堪忍。火灯の中にはそんな怖いのもおるけど、この火灯はちと違うんだぞぉ」
「違うって、どういうこと?」
「火灯にも好き嫌いがあってなぁ。こいつは、人や物の怪の命なんかより、甘い物に目がないんじゃあ」
「そうなの?」
志郎がヒトモシに問い掛けると、ヒトモシが頭の青白い炎を守りつつ、ちょこんと律儀に頷いた。
「へぇー、珍しいね。あ、そうだ。ぼくの家におじいちゃんの作ったあんみつがあるんだけど、食べに来ない? おいしいよ」
「!」
「ははっ、喜んどるなぁ。いいぞぉ、火灯ぃ。志郎に餡蜜食わしてもらえ」
あんみつ、という言葉に如実に反応して見せたヒトモシに、志郎は愛らしさを覚えた。蓼食う虫も好き好き、十人十色。生命を吸わず甘味に生きがいを見出すヒトモシがいても、またよいではないか。
ヒトモシの灯りを頼りに、二人が森を抜ける。後を付いて行った先は、禍々しい霊界などではもちろんなく、鄙びた日和田の見慣れた風景だった。例によって、ここでお別れとなる。
「チエちゃん、ありがとう。今日も楽しかったよ」
「おらもだぁ。明日もまた遊べるかえ?」
「もちろん。何なら、指きりしたっていいよ」
志郎がチエに先んじて小指を差し出すと、チエは迷わず左手の小指を絡めてきた。
「志郎は分かっとるなぁ。指きり、してほしかったんじゃあ」
「昨日もしたから、今日もしなきゃね。じゃあ、いくよ。せーのっ!」
威勢のいい志郎の掛け声に続いて、二人が声を重ね合わせる。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
一昨日と、そして昨日と同じように、二人は指きりをして、また明日も一緒に遊ぶことを約束し合った。無論、指きりなどせずとも、明日も志郎とチエが一緒に遊ぶことなど分かりきっている。明日が来れば、二人がまた会えることは間違いない。
小指を絡め合わせて、他愛ない呪文を交わすだけのやり取り。けれども、それでも指きりは必要なのだ。約束を守るために、欠かすことができない儀式なのだ。
「よぉし、これで大丈夫だぁ。志郎、明日も来てくれよなぁ」
「もちろん。絶対に遊びに行くよ。ぼく、チエちゃんと遊ぶのすごく楽しいから」
「うん、うん。おらも同じだぁ。またなぁ、志郎」
志郎とチエは、これまでと同じように明日も会う約束をして、二手に別れて家路に着いた。
日もとっぷり暮れて、辺りは夕闇から夜闇へ移り変わろうとしている。そのような中にあっても、志郎の周りのみはぼうっとした鈍い光に包まれ、闇が志郎を抱き込むことを阻んでいた。志郎に餡蜜をごちそうしてもらえると聞いたヒトモシが、意気揚々と炎を上げているためである。
ヒトモシを隣に連れて、志郎は何も恐れること無く義孝の家まで辿り着くことができた。志郎はそっと中の様子を伺うが、どうも父も祖父もまだ帰っておらぬ様相だった。予想はしていたが、多分叔父がまたああだこうだと口数多く喚いて揉め事を起こしているのだろう。あの叔父だけは、いまいち訳が分からぬ。
志郎は、下手をこくと外よりも暗い家の中へと入っていく。本来不気味なはずのヒトモシの青白い光が、ここにおいてはとても頼もしいものに思えてならなかった。青白い炎が灯す光を頼りに進み、廊下の明かりを点灯させる。蛍光灯に通電するピカンピカンという音と共に、パッと周囲が明るくなった。
足元でピョンピョン飛び跳ねているヒトモシの為に、志郎は台所へ向かう。こちらの灯りも点けると、ごごごごごと低い唸り声を絶えず上げ続ける冷蔵庫の前に立ち、真正面の大扉を開けた。カランカランとビール瓶がぶつかり合う音が聞こえ、冷蔵室から氷の匂いがした。
「あったあった。これこれ」
奥に小分けして硝子の器に盛ってあった餡蜜を取り出し、志郎がラップを剥がす。ここまで灯りを点けてくれていたヒトモシに感謝の気持ちを込めて、志郎はいつの間にか隣に座り込んでいたヒトモシに餡蜜をご馳走してやった。硝子の器にでんと盛られた餡を見たヒトモシが目を輝かせ、早速餡蜜を食い始めた。
見た目からは想像も付かぬほどの速さで餡蜜を食べていくヒトモシの姿に、志郎が隣で微笑む。この餡蜜は、料理好きの義孝が志郎のためにこしらえたもので、おやつ代わりにいつでも食べてよいということになっていた。そういうものであるから、ヒトモシに食べさせてやったところで別段何の問題も無いわけである。
あれよあれよと言う間に餡蜜を平らげたヒトモシが、満足そうな表情で志郎に擦り寄る。義孝お手製の餡蜜はとても気に召したようである。じゃれて来るヒトモシの体を撫でてやると、ほのかに暖かい。青白い炎はともすると冷たい印象を与えるが、炎は炎である。小さなヒトモシにも三分の魂。ちゃんと命が通っているのだ。
しばしヒトモシと戯れていた志郎だったが、ふとヒトモシが志郎の元を離れ、灯りの点いていない廊下の奥へとちょこまか駆けていった。灯りを頼りに追うと、ヒトモシは廊下の奥、別の言い方をすると、上階へ繋がる階段の前で志郎を手招きしていた。
そういえば、この家には二階があった。暗さ故に一度も階段を登ったことはないが、今になって何故か急に興味が湧いてきた。上には康夫や健治が使っていたという部屋があるらしい。面白いものを発掘できるかも知れぬ。志郎は、階段の上へ行こうという気になっていた。
「ヒトモシ。ぼくと一緒に、階段を登ってくれる?」
「(こくり)」
お安い御用、とばかりにヒトモシが頷く。頭の炎を一際大きく燃やし、辺りを青白く照らし出した。繰り返すが、本当はこれは実に不気味な光景であるはずなのだが、その光はヒトモシによるもので、ヒトモシが志郎にとても懐いているという前提に立つと、却ってとても頼もしいものに見える。そこいらの半端な幽霊やお化けなど、逆に縮み上がって退散してしまいそうなほどだ。
ヒトモシの灯りを頼りに、志郎が階段を登る。階段はかなりの急勾配になっていて、手摺りを使わねば厳しいほどの高さがあった。一段一段確認するように登り、その都度、階段につかまってよじ登ろうとするヒトモシを助けてやる。志郎でも高いと感じるほどなのだから、ヒトモシが苦労するのは当たり前のことである。
階段を登りきると、暗い廊下の先に扉が二つ並んでいるのが見えた。康夫と健治の部屋だろう。どちらに入ろうか迷う志郎。扉には誰某の部屋などというような親切な注意書きはなく、殺風景そのものだった。どちらがどちらの部屋か、見ただけでは分からなかった。運を天に任せ、と言うほどではないにしろどちらでも構わないという心境で、志郎は向かって手前の部屋の扉を開いた。
この部屋は長らく使われていなかったようで、埃っぽく噎せ返るような湿気がこもっていた。志郎が軽く咳払いをして、飛び交う埃をぱたぱたと手のひらで払う。鼻から息を吸うたびに、湿った木の匂いが入り込んでくる。最後に使われてから一体どれほどの時間が経ったのか、見当も付かなかった。
部屋には学習机が二つ並べて置いてあった。志郎は、この部屋が康夫の(或いは健治の)部屋で、今しがた入らなかったもう一つの部屋が健治の(或いは康夫の)部屋かと思っていたが、実はそうではなく、二人で一部屋を使っていたということのようだった。向こうの部屋は義孝の部屋か、そうでなくても物置が関の山だろう。どちらにしろ、あまり見る必要はあるまい。
暗がりで委細は掴めなかったが、ヒトモシのおかげで中を探索することは出来そうだった。何か面白いものはないかと目を凝らす。まず見えてきたのは――中々珍妙なものだった。壁に貼られた、すっかり色褪せた男性のアイドル・グループのポスターである。ローラー・スケートを履いて舞台を駆け回る演出で、一昔前に一世を風靡したなどと聞いた記憶がある。そう言えば康夫が時折その話をしていたから、これは康夫の趣味であろう。最初は面食らったが、これも十人十色。餡蜜が好きなヒトモシがいれば、男性のアイドル・グループに熱を上げる男がいても別段おかしなことでもあるまい。
次に見えたのは、学習机の片隅にある写真立てに入れられた、若々しい健治と思しき男性と、健治の連れ合いとしか見えぬ女性が写った写真だった。あの様子で、健治も隅に置けぬ性格のようである。もっとも、志郎は健治が真っ当に話をしている姿など一度も拝んだことがなかったから、いまいち想像がつかなかったのだが。
その繋がりだろうか。写真立ての側に、猫のマスコット人形が取り付けられたシャープ・ペンシルが転がっていた。見ると明らかに女物である。健治が件の連れ合いから貰ったか、若しくは借りるかしたに違いない。健治のあの様を思うと、このようなものを持っているとは考えも及ばぬ。ああなるまでには、大人しい時期もあったのだろうか。
暫く辺りを探っていると、ヒトモシの青白い灯りの先に、本棚があるのが見て取れた。志郎が近づく。その本棚には、高等学校のものと思しき教科書や、古びた車雑誌に混じって、一際埃を被った「静都妖怪大全」なる、背表紙に怪奇な字体で馬鹿でかく書かれた分厚い本があった。
妖怪というと、物の怪のことであろうか。となると、今のポケモンに通じるものがあるかも知れない。興味が湧いてきた志郎は、埃塗れの「静都妖怪大全」を本棚から抜き取る。舞った埃を手で振り払いながら、序でにこびり付いた埃も手で払っていく。大分綺麗になった所で、志郎が改めて本を手に取った。
これはじっくり読んでみたい所である。ヒトモシのように見知った顔がいるかも知れぬ。そう考えた志郎は、側にいたヒトモシを伴い、階下へと向かうことにした。例によって急な段差になっている階段を前に、進めずにまごついていたヒトモシを肩に載せてやって一段ずつ下り、志郎が一階まで辿り着く。
「ごめんなさい。志郎くん、いる?」
硝子戸を叩くドンドンという音が聞こえたのは、その直後だった。その声色を聞いた直後、志郎はそれが、すぐ近くに住んでいる親戚の、登紀子であることに気がついた。志郎は肩の上に乗っていたヒトモシに隠れるよう言付けて、直ちに裏口へと走った。
登紀子は義孝の妹で、夫と二人で暮らしている。義孝の家にはこのように頻繁に出入りしており、伴侶に先立たれた義孝に対して甲斐甲斐しく世話を焼いてやっていた。志郎も時折顔を合わせていたから、お互いに顔は知っている。
ガタガタと音のする硝子戸を引き開くと、思ったとおり、紙袋を提げた登紀子が立っていた。
「こんばんは、登紀子おばさん」
「はい、こんばんは。志郎くん」
志郎が後ろへチラリと目を向けると、既にヒトモシの姿はどこにも見当たらなかった。多分、押入れかどこかの影にでも隠れてくれたのだろう。登紀子に見つかるといろいろ厄介であったから、何かと都合がよい。
玄関へ上がった登紀子が、ここへ来た事情を志郎に聞かせた。義孝から登紀子に電話があり、今晩は帰るのが遅くなりそうだ、留守番をしている志郎がお腹を空かせているだろうから、何か作ってやってほしい──そのように言われたという。志郎は、父たちがまず時間通りに帰って来るとは思っていなかったから、これといって驚いたり落胆したりすることもなく、登紀子の言葉を額面通り受け止めた。
台所で登紀子が晩飯の支度をしている間、志郎は縁側で康夫と健治の部屋から持ち出してきた「静都妖怪大全」の埃を丹念に叩いていた。表紙は日に焼けて大分色褪せているが、中の頁は問題なく読み取ることができそうだった。あらかた綺麗にし終わった所で、志郎が適当に頁を開く。そこにつらつらと書かれていたのは……。
「『人の恨みを食って大きくなる照る照る坊主の化け物』」
「『俊足で走る三つ首の翼を持たない怪鳥』」
「『出会った人間を眠らせ悪戯する風船妖怪』」
「『割れた卵の殻を着た赤子の霊』」
志郎の想像していた通りの、いやいや想像以上の面白本のようであった。明らかにポケモンとしか思えぬ自称『妖怪』が、元の形を残しつつ、無闇矢鱈におどろおどろしく描かれているのである。志郎はあまりの内容に冗談でやっているのかとさえ思ったが、「静都妖怪大全」はあくまで真摯に『妖怪』を取り上げている。
それぞれ特徴は上手く捉えているが、何せ『妖怪』としての紹介であるため、根拠不明で荒唐無稽な尾鰭があちらこちらに付いていた。「夜な夜な歩き回る足の生えた草」は「引っこ抜くと恐怖の悲鳴を上げて抜いた者を呪い殺す」となどと書いてあるし、「岩石に顔と両腕の生えたお化け」は「子供が石を投げているときに知らない間に混ざっている」と堂々と述べている。どれもこれも、一見合っているようでその実合っていない。
馬鹿馬鹿しいほどに陰影を強調したソーナンス(「叩くと膨らんで何倍も痛い仕返しをしてくる起き上がり小法師妖怪」と銘打たれている)らしき絵面を見て笑い転げていると、台所から登紀子の呼ぶ声が響いてきた。晩飯の準備ができたようだ。志郎は本を閉じ、登紀子の元へ駆けてゆく。
金糸卵に胡瓜の千切り、水で戻した若布に干瓢、彩りに缶詰の蟹の解し身を添えて、上から半解けの氷が混じった出汁つゆをぶちかける。登紀子が用意したのは、具沢山の素麺であった。大きな容れ物に麦茶を注いでもらい、志郎は冷たい素麺に舌鼓を打った。登紀子も自分の分を用意して食べている様子を見るに、亭主はどこかへ飲みにでも出たようだ。
ひとしきり素麺をすすり、志郎がご馳走様を言うと、登紀子は笑ってそれに応じた。後片付けを手伝い、風呂を沸かす手筈を整えてから、志郎は縁側へと戻る。目的はもちろん、あの面白本の続きを拝むために他ならない。
「面白いなあ。昔の人は、ポケモンを妖怪だって思ってたんだ」
怖がらせようという魂胆を丸出しにした絵の数々を面白おかしく鑑賞しつつも、志郎は同時に、この本の書かれた時分には、ポケモンは妖怪という文脈で定義されていたのだと実感した。現代において、ポケモンは「変わった動物」として受け容れられている節があるが、古来においてはより距離を置いて、神仏に近しいものとして認識されていたようだ。
ふと、志郎はチエがポケモンを『物の怪』と呼んでいることを思い出した。『妖怪』とほぼ同じ意味合いを持って使われるが、それよりもさらに畏れを抱いている様を思わせる言いぶりだ。チエはポケモン、いや物の怪たちと、どのように付き合っているのだろうか。少なくとも、仲良くしてやっているのは分かるが──
「あら、立派な河童だねえ」
「えっ?」
上の空で頁を送っていた志郎は、そこに「河童」と題された妖怪が描かれていることに気が付いた。それまでの、若干子供騙しの匂いを隠し切れていなかった絵とは随分色合いが異なり、筋骨隆々とした、しかしすらりとした見事な体躯の妖怪であった。側にやってきた登紀子が、志郎の隣に付く。
無駄のない線形の躰、両手の指から張り出した立派な水掻き、額に埋め込まれた紅玉を想起させる石。人とも、獣とも、勿論物の怪とも取れる風貌は、不思議と志郎を惹き付けて止まなかった。姿絵は白黒の二色刷りであったが、隣の説明書きには律儀に「本来はコバルトブルーに近い色合いである」と記されていた。
「おばさん。河童って、どんな妖怪なの?」
「そうだねえ。池や、川や、沼に住んで、水を守ってくれるんだよ」
登紀子から河童についての講釈を聞かせてもらう。その名からある程度察しが付くように、水場に住んで水を司る、土着の妖怪として知られているようだ。各地に多様な形で伝説・伝承が残っており、ここ日和田にも河童に纏わる話が幾つか伝えられている。その大部分が、何らかの形で水に関わるものだ。
性格は概ね天真爛漫で、人間の子供に混じって遊ぶのを好む。ただ、何分力が強いものであるから、相撲など取った日には一人で何人も投げ飛ばしてしまい、まるっきり勝負にならぬという。その代わり、時折水の中に入って体を湿らせてやらないと、体力が尽きて弱ってしまうそうな。
河童は生まれ付き、人の理から外れた『神通力』を備えている。小さな力で渦潮を巻き起こしたり、川の流れを一人で付け替えてしまったりするような、人の常識がまるで通用せぬ力だ。河童の神通力が発揮されるとき、周囲の人間は目が眩んだり、頭に痛みが走ったりするという。
「それとね」
「うん」
「河童はね、泣くと雨を降らせられるんだよ」
「雨を降らせられるの?」
「そう。河童の涙は、雨を降らせる力があるんだよ」
不思議な力の一つに、泣くと雨が降り出す、というものがある。河童の鳴き声(泣き声と言うべきか)が実は雨乞いの呪文になっているとか、河童は涙を見られることを好まぬから雨を降らせてごまかすとか、いやいや河童の心は雨雲に通じているとか、ほどほどの説得力を伴う他愛ない与太話は幾つかあるが、何分河童本人が語らぬので、どれが正しいということは無いようである。
ただ、多かれ少なかれ尾鰭が付きつつも、河童が悲しさ故に涙を流すとき、空から雨が降り出す、という言い伝えの骨組みは、河童について語られるどの地域にも在るという。与太話の数々はさておき、河童が泣くと降雨が始まるというのは、どうやら何がしかの根拠があるようだ。
涙雨、という言葉がある。人の涙を降りしきる雨に例えたものだ。河童が泣くと雨が降るというのであれば、それもまた一つのナミダアメと言えよう。
河童は何故泣くのか、何故雨を呼ぶのか――考え事をしつつ頁を捲り、志郎が河童の風貌について気に止まった点を、隣で楽しそうに目を細めている登紀子に問うてみる。
「あれ? 河童って、手の指が三本しかないんだね」
「そう。そこに水掻きが張って、泳ぐときにすいすい水を掻いていくんだよ」
「それって、生まれ付き?」
「いいや。初めのうちは、人様のように五指揃ってるんだけどねえ。大きくなると、小指と親指が落ちるんだよ」
「ふぅーん……小指と親指、なくなっちゃうんだ」
河童は水と縁深い妖怪である。時が経つにつれて、徐々に水と『近しい』存在になっていく。その一つが、成長すると落ちてしまう二つの指だ。手の両端に位置する親指と小指は、河童が成長すると徐々に退化してゆき、最終的に痛みも無く落ちるという。指が落ちる頃には、残りの三指の間に立派な水掻きが張り出し、水を掻くのに都合のよい形となる。
親指と小指の落ちた手は、やがて全体的に細く引き締まり、亀の足のような形に落ち着く。こうなることで、人のように水掻きがなく五指で水を掻いていくよりも、格段に早く泳ぐことが出来るようになる、という寸法だ。
河童の頁が終わり、次に出てきた「絵描きの魂が乗り移った立って歩く犬の怪物」の内容(またどことなく可笑しな絵柄に戻っている)を読み始める前に、志郎が再び登紀子に問うた。
「河童って、『川』の『子供』っていう意味だよね」
「志郎君はお利口さんだねえ。その通りだよ」
「じゃあ、河童が大人になったら、なんて言うようになるの?」
「いい質問だねえ。河童は大人になれるとね、『水神様』って呼ばれるようになるんだよ」
文字の率直な意味を取ると、河童は「川の子供」と言い換えられる。では、大人はどうなるのか、という問いだが、その答えは「水神様」になる、と登紀子は答えた。水の神様であるから、水神様。川の子供であるから、河童。いやはや突っ込みどころの無い潔い名づけである。
河童は大人になることができると、水の神様、即ち水神様として新たな段階を向かえ、水と一つに交わってその水場を守護していくという。描かれていた筋骨隆々とした河童の絵は、大人になり「水神様」と呼ばれるようになった河童の姿である。体色は水を思わせる青になり、流線型の体は水とよく馴染んですいすい泳ぎ回る。水神様と呼ばれるのも納得であろう。
大人になった河童は、水神様と呼ばれる。それが、登紀子の答えであった――というのはよいのだが、よく見ると頁の片隅に、「成人した河童は、水神様と呼ばれる」と堂々と書かれているではないか。ちゃんと読めばよかった、と志郎は少しばかり気恥ずかしい思いをするのだった。
それはともかく、志郎は登紀子から河童に付いて随分込み入った話を聞かせてもらった。どれをとってもまあ実に興味深い話ばかりだ。こうして得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。人として当然の欲求だろう。誰か、誰か……。
……ああ、そうだ。適役がいるではないか。チエだ。チエがいる。明日会ったら、チエにこの河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなろう。
他の妖怪とは少し毛色の異なる、込み入った河童の紹介。志郎は、純粋に「面白いな」と感じた。この本で得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。誰か、誰か……ああ、適役がいるではないか。チエだ。明日会ったら、チエに河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなる。
それにしても、不思議な力があるとか、川に縁が深いとか――河童は、何かチエを思わせる節がある。もちろん、チエが河童などと言う馬鹿げた話をするつもりが在るわけではない。ただ、チエは何の変哲もない「人の子」とも思えなかった。人と物の怪の丁度狭間に居る、そのような雰囲気を感じる。それがまた、チエの面白いところであるのだが。
チエに思いを馳せながら、志郎が何の気なしに、隣で一緒に「静都妖怪大全」を読んでいた登紀子に目を向けた時である。
「あれ? おばさん、これ何?」
「これかい? 結婚指輪だよ」
志郎が指差したのは、登紀子の左手薬指に嵌められた、鈍い輝きを放つ「結婚指輪」だった。志郎は今の今までそのようなものを目にしたことが無かったから、それが何なのか単純に分からなかったというわけである。
「結婚したときに、男の人と女の人が嵌めるものだよ」
「へぇー、そうなんだ」
「そう。それと、結婚の約束をした時には、男の人から女の人へ『婚約指輪』を渡すんだよ」
もう随分前のことだから、よくは憶えてないけどねぇ。笑って言う登紀子に、志郎もつられて笑った。
「さて、ちょっと待っててね。西瓜を切ってくるよ」
「うん。分かった」
冷やした西瓜を切ってくると言い、登紀子が茶の間から台所へと引っ込む。志郎は「絵描き犬」の頁を開いていた「静都妖怪大全」をパタリと閉じ、裏表紙を見る形となった。
志郎は、ここで少々変わった点に気が付いた。
「あっ。この本、日和田東図書館って書いてある……」
裏表紙には、ビニールテープを貼り付けて補強されたシールの上から油性ペンで手書きされた「日和田東図書館」の文言が見て取れた。表紙共々色褪せているが、表記はしっかりと残っている。この書籍は、元々図書館に収蔵されていたものであったようだ。
件の図書館が、今はどうなっているか。志郎は、それを既に康夫から聞かされていた。大分前──康夫が、中学に上がるか上がらないかという時期だ──に、利用者の減少を表向きの、予算の確保が困難になったことを実際の理由として、閉館・取り壊しという憂き目に遭ったのである。
普通であれば、収蔵されている書籍は引き取られ、別の図書館へ引っ越すなどして続けて利用されるべきであるが、日和田東図書館の蔵書たちはそれすら叶わず、最終的に「本を欲しがっている人に無償で提供する」という形で、村民たちに配布された──そのような話を聞いた記憶があった。
であるから、この本は康夫が図書館から借りたまま返さなかったなどというわけではなく、蔵書が放出された際に、康夫が引き取ったものであろう。本の年季の入り具合が結構なものなのも、納得のいくはなしである。
「あ、貸出カードが入ってる。雨宮めぐみ、西尾りょう、南野やすし、雨宮めぐみ……あっ、また雨宮めぐみさんだ」
入ったままの貸出票には、多くの利用者の名前が書かれていたが、その中でも『雨宮めぐみ』なる利用者は、何度もこの本を借りていた形跡があった。名前から推測するに、恐らく女子であろう。妖怪や物の怪の類に興味を示す女子はさして珍しくもないから、気に留める必要もなかろう。
図書カードの末尾も、やはり『雨宮めぐみ』であった。よほどこの本が好きだったのだろう……
(……あれ?)
はて? そう言えば、康夫は図書館からの蔵書放出の際に、最後の貸し出し者の──
――と、そこへ。
「……(そぉーっ)」
「……あっ。ごめんね、ヒトモシ。急に隠れさせちゃって」
押入れの襖をちょこっと開いて、中に隠れていたヒトモシがひょっこり顔を覗かせた。茶の間の押入れの奥で隠れていたようだ。志郎が手招きすると、ヒトモシは志郎の懐へとぴょんと飛び込んだ。体を撫でてやると、ヒトモシは志郎の太ももにすりすりと顔をこすり付ける。何とも愛嬌のある蝋燭である。
恐らくそう間を置かずに戻ってくるであろう登紀子のことを考え、志郎が次の隠れ場所を思案する。しばし辺りを見回し、志郎の面持ちが変わる。顔つきを見ると、良案が浮かんだようだ。志郎はヒトモシを抱えて、縁側へと向かう。どうやら、縁側の下へ隠す心積もりのようだ。ヒトモシを離すと、志郎はなるだけ奥に隠れるよう言付け、さらに。
「そうだ、ヒトモシ」
「?」
ついでに、こう付け加えた。
「ヒトモシは、すいかって食べられる?」
「!」
――その後、ヒトモシは縁側の下で、志郎がちょくちょく持ってくる切った西瓜を、たらふくご馳走になるのだった。ヒトモシにとって文字通り『甘露』な時間であったことは、ここにわざわざ記すまでもあるまい。
結局、登紀子は志郎が先に寝入るまで面倒を見てやり、もうすぐ日が変わろうかと言う頃になってようやく帰ってきた康夫と義孝と入れ替わるように、義孝の家を後にした。
月が輝き星が瞬き、梟とホーホーが織り成す鳴き声の合唱が、帳に降りた夜に響き渡る。延々続くかと思われた合唱がひっそり幕を下ろす頃、陽が再び上り始めた。
志郎は例によって早く目を覚まし、いつものように先に起床して飯の支度をしている義孝の手伝いをする。義孝に早起きを褒められつつ、日の上りきっていないやや薄暗い中で時間を過ごすのは、志郎にとってなかなか気持ちのよいものであった。
刻んだキャベツに焼きあがった目玉焼きを盛り付ける頃に康夫が起き出し、朝食の時間と相成る。湯気を立てる白米と麦の混ぜ飯を右手に、雌株に淡口醤油を入れて掻き混ぜる志郎の横では、昨日も目にしたような、康夫と義孝による志郎不在の空中戦が展開されていた。
「健治をあのまま放っておいたら、山科のところへ怒鳴り込みかねない」
「止めねばならんのは分かっておる。もう、これより拗れるのは望んでおらんはずだ」
「それは俺も同じだ。だが、健治は違う。どうにかして、仮夜の件とか、狐憑きの件を、表沙汰にしようとしている」
「これ以上、恥を晒してどうするつもりなのか。家を取り崩したいなら、そう言えばええと」
「仮夜は、日和田全体の悪習で、狐憑きは誤解だ。それが家を取り崩すことになると、健治は理解していない」
「家は、もうええんじゃ。これも皆、儂が不甲斐ないばかりに」
竹輪と若布の入った澄まし汁を啜りながら、志郎は二人の会話にはこれといって興味を示さず、この後一緒に遊ぶであろうチエのことばかりを考えていた。今日もまたチエは、いつもと同じ黄色い雨合羽で川へやってくるに違いない。自分はチエと待ち合わせて、日が暮れるまで遊べばよい。難しいことは、考えなくてもよいのだ。
朝飯を食べ終えた志郎は、義孝に頼んで昼飯に握り飯を作ってもらい、昨日と同じ按配で手提げに突っ込んだ。出かける準備を整え、志郎が家から出て行く。康夫と義孝は一昨日にも増して深刻顔で話をするばかりで、正味な話、同じ部屋にいるとこちらまで気が滅入ってきそうだった。
縁側の下で眠りこけていたヒトモシを軽くつついてやると、ヒトモシはひょっこり目を覚ました。朝飯代わりに、冷蔵庫から失敬してきたカップ入りの水羊羹を渡してやる。昨日と同じように目を輝かせ、ヒトモシは一思いに水羊羹を平らげた。こやつの甘味好きはまさに筋金入りである。
傍らにヒトモシを連れ、チエと待ち合わせているいつもの川辺へと向かう。相変わらず蝉がみんみんと喧しく鳴き、耳にしているだけでじりじりと暑さが増してくるような感触がする。だが、これもまた夏の風物詩の一つではないか。蝉の鳴かない夏など、実に味気ない。少なくとも、ここ日和田においてはそうだ。
川が見えてきた。麦藁帽子のつばを少し上げ、志郎が遠方に目をやる。川岸で何かが動いているのが目に留まった。黄色い服を着た子供のようだ。間違いない。この時点で志郎は確信した。今日は相手方の方が一足早かったと見える。別に競争しているわけでもないのだが、どちらが早いか云々を意識するのは、子供の時分にはよくあることだ。
チエの姿が明瞭に見えるところまで歩いて、一旦そこで立ち止まった。チエが何をしているのか、声を掛ける前に見極めておこうと考えたためである。チエは、河原に無数に転がる石をあれこれと選別し、これはと思うものを拾い上げ、てけてけと川縁まで歩いていくと、ひょいと反対側に向けて投げる、ということを繰り返していた。そういうことか。志郎は得心し、チエの元へ駆け寄った。
「おはよう、チエちゃん。水切りの練習?」
「来たかぁ、志郎。んだ。昨日志郎に教えてもらったのを、おら特訓してんだぞぉ」
昨日志郎に見せてもらった「水切り」を、チエは熱心に練習していた。石の選び方、投石の構え方、力の入れ方。志郎は細々としたところまで手本を見せてやり、チエは一つ一つ聞き漏らさずに耳に入れていた。それを、今ここで実践しているというわけである。
チエは得意気な面を見せて、河原から平べったい石を一つ取り上げると、ごく軽く振りかぶって向こう岸へと向けて投げた。石は水平に飛び、やがて自重で川面に着水すると、ぱちゃんと小さな波紋を残して再び跳ね上がり、またも着水しては跳ね上がり……を二度三度と繰り返し、五度目の跳ねで勢いが足らずに入水した。
昨日は力任せにぶん投げて盛大な水飛沫を上げていたことを勘案すると、チエの上達ぶりには目を見張るものがあった。一日練習しただけでここまで様になる水切りをやってのけるのは、並大抵のことではない。志郎はチエの水切りの様子を見て、素直に拍手を送りたいという気持ちになった。
「すごいよ、チエちゃん! 一日でこんなに上達するなんて」
「ははっ、おらも嬉しいぞぉ。石が水ん上をぴょんぴょん跳ねてくのって、気持ちいいなぁ」
「さすがだね。よく練習したよ」
志郎が右手を差し出して、チエの平時と変わらぬおかっぱ髪を撫でてやる。くすぐったそうな表情を見せて、チエがやわやわと小さく身を捩った。照れているのである。難しい顔ばかりしている大人たちに比べて、チエの快さといったらなかった。側にいられることの幸せを、噛み締めずにはおれぬ。
暫くそうしてチエの側に立っておると、足元の小さな影が動いた。ヒトモシである。ごつごつした石が所狭しと居並ぶ河原で難儀そうに一つ一つ石を越えながら、ようやくチエの元まで辿り着く。額(ヒトモシは全身が顔のようなものなので、どこからどこまでが額と問われると答えに窮するが、とりあえず人の目から見て「額のような場所」である)に浮かんだ汗を拭い、チエの顔を見上げた。
「おぉ、火灯かぁ。志郎に甘いもんご馳走になったかえ?」
「(こくこく)」
「そうかそうかぁ。よかったなぁ」
「暗い所を照らしてくれて、すごく頼もしかったよ。ありがとう、ヒトモシ」
志郎から礼を言われて、ヒトモシは満更でもない、と言うべき表情を浮かべた。やはり愛嬌のある物の怪である。
「?」
「あれ? ヒトモシ、どうしたの?」
直後であった。不意に顔を上げ、ヒトモシがキョロキョロと周囲を眺め回し始めた。しきりに何かを探っているようである。志郎はヒトモシの意図を計りかね、とりあえず静観しておく、という対応を取らざるを得なかった。
のだが、すぐに対応を変えざるを得なくなった。ヒトモシは何か目星が付いたのか、川の下流に向けて猛然と走り出したのだ。志郎とチエは顔を見合わせ、爆走を始めたヒトモシの後を追って同じく走り始める。一体何がヒトモシを走らせたというのか。いや、あの一風変わったヒトモシであるから、ある程度説得力のある理由は即座に思いつくのであるが。
ヒトモシの後を追ってゆく。猛然と走り出したと言えど、ヒトモシの足は「出っ張り」かと見紛うほどに小さく短く、歩幅も猫の額か雀の涙かと思えるようなものであったため、チエと志郎が追いかけるのは容易いことであった。川縁にヒトモシが立っているのを認めて、二人が傍へと寄る。
「ヒトモシ、一体何があったの? 急に走り出したりなんかして……」
「志郎、あれじゃあ。あれ見てみぃ」
訳が分からぬといった調子で、チエが指差した方面を志郎が見詰める。志郎の目に飛び込んできたのは、水上で佇む一匹のアメタマであった。足の表面張力で軽々浮いて、時折滑るようにして水の上を颯爽と移動していく。アメンボのようなポケモンである。
それはともかく。チエが指差した先にはアメタマがいた。ヒトモシはアメタマを見つめている。これらは事実だ。問題はそこではなくて、何故ヒトモシはアメタマに熱い視線を向けていたのか、ということである。志郎が首を傾げると、隣にいたチエが答えを口にした。
「知らんのかえ? 雨珠は、頭の先っぽから甘い水飴を出すんだぞぉ」
「水飴……ああ、なるほど。だからヒトモシが走っていったんだね」
アメタマは頭に付いた触手のような突起から、水飴に似た甘い匂いを出す粘り気ある液体を分泌させている。これは別に毒があるとか体に悪いとかいう類のものではなく、本当に水飴のようなものであるとされている。これを使って、獲物となる微生物を呼び寄せたりしているそうな。
既にお判りかと思うが、ヒトモシはアメタマの出す水飴の匂いにつられて、ここまで走ってきたというお話である。物欲しそうにアメタマを見つめるヒトモシの思いとは裏腹に、アメタマはこの場に用がなくなったのか、特に気にせずすいーっと水の上を滑っていき、あっという間に姿を消した。
「ヒトモシったら、本当に甘いものが好きなんだね」
「こいつも食い意地が張っとるなぁ。雨珠がいたなんて、おらにも分かんなかったぞぉ」
アメタマがいなくなって残念そうにしているヒトモシを、志郎が慰めてやるのだった。
志郎とチエが川を離れ、昨日と同じように森へと向かう。昨日は大きな川へ出かけたが、今日はさらに奥まで進み、チエの遊び場であるという溜め池まで足を運ぶことと相成った。これが相当に深い池で、辺りには水棲のポケモンが数多く住んでいるという。
「じゃあね、ヒトモシ。また、いつでも遊びに来てね」
「甘いもんばっか食って、虫歯にならねぇようにするんだぞぉ」
森の入り口で、一晩連れ添ったヒトモシと別れた。手を振るヒトモシを背に、チエと志郎が奥へと歩を進める。
今日も日が差して暑い。木々のおかげで彼方此方に影ができ、日に焼ける度合いは幾分ましではあったものの、そこは日本の夏。湿気という忌々しい存在は遺憾ともし難い。噎せ返るような蒸し暑さの中を、二人は切れ切れの木陰を頼りにして歩いてゆく。
「あっついのう。おら暑いのは苦手だぁ」
「それは分かるけど、一つ訊いてもいい?」
「なんじゃあ、志郎。どうしたんかえ?」
額から大粒の汗を零すチエを前にして、志郎がこのような問いかけを行った。
「暑いなら、そのレインコート、着てこないほうがいいと思うけど……」
「『れいんこーと』? まぁた『はいから』なものを言いよってからに。これは『雨合羽』じゃあ」
「雨ガッパなら雨ガッパでいいけど、暑いの、そのせいじゃないかな?」
問い掛けの内容は、まあある意味至極当然のものであった。暑い盛りにも拘らず、チエは黄色いナイロン製のレインコート……チエの言葉を尊重して、雨合羽と言っておこうか。雨合羽を羽織っている。頭巾は付いていないので、おかっぱ頭は風に当たるし、靴を履いておらぬから足も外に出ているが、それら以外の部分は外気に晒されない。
ナイロンは、作りにも拠るが基本的に風を通さぬ。雨合羽のような通気性が求められるものであれば、尚更だ。そのようなものを着ていては、中が蒸して暑くなるのは道理である。それをもって暑い、暑いというチエに、志郎は少なからず疑問を覚えたわけである。
「そりゃあ、そうじゃけど。そうじゃけど、おらはこれを脱ぐわけにはいかんのじゃあ」
「何か、理由があるの?」
「あるともぉ。この雨合羽は、おっ母がおらに着せてくれたんじゃあ」
「お母さんが?」
「んだ。おらが倒れて、おっ母が出て行く段になった時に、おらに『雨に濡れんように』って言い聞かして、これを着させてくれたんだぞぉ」
「昨日の……あの話のときだね」
チエは胸を張って言う。不可思議な力を使ったり、言葉遣いが女子らしくなかったり、その割には綺麗なおかっぱ髪であったり、物の怪と普通に話したりと、いろいろとちぐはぐな所はあるが、チエは基本的に真っ直ぐで無理筋の無い性格である。チエが雨合羽を着ているのには、チエなりにちゃんと理由があった。
この雨合羽は、チエの母親がチエを助ける為に出て行った際に、チエに「雨に濡れないように」と気配って着せてやったものだという。病が進行していたということは、体力も衰えているはずであるから、雨に打たれて風など引くと命に関わりかねない。母親はチエに雨合羽を着せ、雨に打たれても大丈夫なようにしてやった、そういうことである。
病気の最中でも覚えていたのだ。雨合羽を着せてもらったというのは、チエにとってとてつもなく大きな「鍵」となっているに違いない。母親とのツナガリを確認するものと言えば分かりよいだろうか。雨合羽を着るということは、チエが母親の存在を思い返すために欠かせぬことなのだろう。
「そっか。チエちゃんのお母さん、優しい人なんだね」
「おらの自慢のおっ母だぞぉ。志郎にも会わせてやりてぇなぁ」
「ぼくも、一度会ってみたいな。チエちゃんのお母さん」
志郎は母親を知らない。いや、級友たちには普通に母親がいるから、母親というのが如何なるもので、子供たる自分にとってどのような存在であるかは、概念として知っている。だが、志郎には母親と呼べる者はいない。康夫ははぐらかすばかりで答えてくれぬが、多分、既にこの世の人ではないのだろう。
であるから、チエに対して優しかったであろう母親に会ってみたい、そう思った。チエがこれだけ慕っていて、三年も顔を見せぬのに尚もその気持ちが揺るがぬのだから、チエに対しては相当な愛を持って接したはずである。今も帰らぬのには、何がしか理由があるのだろう。そうとしか思えぬ。
「それで、チエちゃんはレイン……じゃなかった。雨合羽を着てるんだね」
「そういうことじゃあ。これ着てっとぉ、おっ母が傍におるような気がするんじゃあ」
「お母さんがくれたものだからね。その気持ち、分かるよ。ぼくの麦藁帽子も、お父さんがくれたものだからね」
「へぇー。その麦わら、志郎のおっ父のものだったんかえ?」
「うん。お父さんが、お母さんからもらったって聞いたよ。お父さんからもらった、大事な宝物なんだ」
「だからかぁ。いっつもその麦わらを被っとるんわ」
「うん。まあ、夏だし単純に外が暑いっていうのもあるけどね」
志郎の麦藁帽子も、チエの雨合羽に劣らず大切なものであったようだ。父から貰ったものであるが、これを選んだのは母であるという。母のいない志郎にとっては、それこそチエの雨合羽のように、母を想起することのできる掛け替えのない代物と言えよう。
とまあ、このような具合で調子よく歩いていたのであるが。
「あっちいなぁ。汗が止まらんぞぉ」
「そういえば……チエちゃん」
「ん? どうしたぁ、志郎」
「そんなに暑いならさ、脱がなくてもいいから、雨合羽の前だけでも開けたらどう?」
という、志郎のごく普通の提案に対して、チエは。
「馬鹿言うでねえ。おらにも『つつしみ』ってもんがあるんだぞぉ」
「……え?」
何やら、想像を絶する回答が帰ってきた。言葉は適当にぼかされているが、チエが何を言いたいのかは、簡単に察しがついた。志郎は若干どぎまぎしつつ、チエに問いかけてみる。
「あ……あのさ、チエちゃん。も、もしかしてその下って、何も着てないの?」
「素っ裸ってわけじゃぁねぇぞぉ。下帯はちゃぁんと締めとるからなぁ。おっ母に習ったんじゃあ」
「いや……いや、ちょっとごめん。とりあえず、脱いだり前開けたりするとよくない、っていうのは分かったよ」
これには聞いていた志郎のほうが赤面してしまった。志郎の言うとおり、雨合羽を取り去るのはいろいろとよろしくなかろう。腰布は巻いているというが、そういう問題ではない。いやはや、やはりチエは破天荒でちぐはぐである。人は見かけによらぬというが、チエはその度合いが凄まじい。いろいろな形で、常識を覆して叩き壊していく。
それでも――それでも、志郎にとってチエは大切な友達であった。チエがちぐはぐであればあるほど、志郎にとってはそれが新鮮な驚きであり、チエという少女をより明瞭に、明確に、明快に形作っていくからだ。ちぐはぐであることは、チエをチエらしくするものである、と言えた。
このようにして、色とりどり種々の言葉を交わしあいつつ、二人はチエの遊び場たる池に向けてずんずん進んでいった。累計して小一時間ほど歩き続け、漸く池に辿り着いた。鬱蒼とした森の小径から一気に視界が開け、眼前に水溜まりのような池が現れる。この池が、チエの言っていた「遊び場」であろう。
「チエちゃん、池ってここ?」
「んだ。ここはおらだけの秘密の遊び場だぞぉ」
清水を湛える大きな池が、志郎とチエの前に広がっていた。四方を木々が囲い、辺りに二人を除いた人影は欠片も見えない。池の周囲には大小多彩な蓮の葉が足場のように浮き、桃や紫に色づいた美しい花を開いていた。まるで人の手が入っていないにも拘らず、池は整然と整えられた庭園のような装いであった。
池には多くのポケモン、いや物の怪が集まっていた。蓮華に混じってハスボーやハスブレロが池に潜り、時折ひょっこり顔を出しては周囲を伺う。ハスブレロの頭上にはナゾノクサが乗り、池の水を吸い取りつつ光合成に興じている。その合間を縫って、コアルヒーがすいすいとすり抜けていく。水中からのっそり顔を出したウパーにも慌てず騒がず、適切に進路を買えて移動する。
志郎が池を覗き込んでみると、水面からマッギョがじっとこちらを見つめていた。無表情ながら剽軽な顔つきに、志郎は思わず噴き出してしまった。マッギョの面構えに笑う志郎の隣では、ヤドンが何食わぬ顔つきでもって、尻尾を池に垂らして釣りを楽しんでいた。本人は単純に暑いが為に、尻尾を水の中に浸けているだけなのかも知れぬが。
マリルとニョロモが水の掛け合いをする様を、其々の姉か兄かと思われるマリルリとニョロゾが見つめていた。木陰から楽しげな水遊びの様子をちらちら伺っていたミジュマルとばったり目が合ったマリルがこちらへ来るよう誘うと、内気なミジュマルはおずおずと姿を現し、水掛け遊びに加わるのだった。
炎を操る物の怪も、熱さではなく『暑さ』にはほとほと参っているようだ。木陰では、ヒノアラシとアチャモが背中を合わせてすやすや眠り、ヒトカゲは炎の燃え盛る尻尾の先のみを日向に出し、自分自身は日陰でぐにょりと伸びている。平時と変わらぬのは、元々全身が燃えているマグカルゴくらいのものである。
無論、元気に遊び回るものもいる。一際目立っていたのは、目隠しをしたピカチュウを手をつないで取り囲む、ピチュー・プラスル・マイナン・パチリス・エモンガという、電気袋を持つ物の怪たちの一団だった。ピカチュウを囲んでぐるぐると周り、後ろの正面だあれと問い掛ける。間違うと、お仕置き代わりに背中から電撃が飛んでくるという寸法だ。
此方では、地味ながら熱い戦いが繰り広げられていた。キャタピーとビードルが口から糸を吐き合って絡ませあい、綱引きならぬ糸引きで競り合っていたのである。ぐいぐい引っ張るキャタピーに、ビードルは劣勢を装いつつ冷静に戦況を読み、引っ繰り返す時を伺っている。音もなく激しさもないが、見れば焼けた鉄を叩くような火花が飛び散っているのは明らかなことだ。
皆、例外なく奔放で束縛なく、各々の望むことを思うようにやっている。池の中、池の周囲、水中で、物の怪たちは自由に夏を謳歌していた。平凡で野暮ったい言葉であるが、物の怪たちの楽園というのが、この場所を表現する上で、もっとも適切且つ素直な言葉に思えた。
「志郎、見てみぃ。大物同士の力比べじゃあ」
「うわぁ……すごい! カイロスとヘラクロスだ!」
「がんばれ、がんばれ、負けるでねぇぞ」
物の怪たちの空間に、志郎とチエは迷わず飛び込んでいった。彼らも二人を快く受け容れて、良き遊び相手として付き合ってくれた。
「ありゃあ、すっ転ばされちまったかぁ。よぉし、ならおらが仇討ちしてやるぞぉ。かかってこぉい!」
「ええっ!? チエちゃん、カイロスと力比べするつもりなの?」
「任せとけぇ。おらこう見えても力は大人にも負けねぇぞぉ。岩だってぐいぐい押すんじゃあ」
「それは知ってるけど、相手が悪いような……」
いやはや、これではどちらが腕白坊主か、分かったものではない。この剛毅さもまた、チエらしいと言ってしまえばまさしくその通りであり、否定する必要などどこにもないのであるが。
「てぇい! おら負けねぇぞぉ! そりゃあっ!」
「カイロスと正面から押し合える女の子なんて、絶対チエちゃんしかいないよ」
「こんのぉ、くうぅ、とりゃっ、せいやっ!」
「いいよ、チエちゃん。その調子その調子!」
鍬形虫を思わせる容貌の怪力自慢の物の怪・カイロスと互角に渡り合うチエ。どこからその馬鹿力が出てくるのかはとんと見当も付かぬが、それがチエであるというだけで、やけに強い説得力を帯びてくるのを感じる。顔を真っ赤にして押し合いを続けるチエを、志郎はそのような感想を抱きながら見詰めつづけていた。
結局三分ほど押し合って、僅差でチエが破れてしまった。尻餅を付いて座り込み、汗をたらたら流して呼吸を整えるチエに、志郎は水筒に池の水を汲んで持ってきてやり、頭の上から流し掛けてやった。チエは子犬のように顔をぷるぷる震わせ、水の清涼感に快い表情を見せた。
物の怪たちと池で戯れ、暫く思う存分遊んだあと、志郎とチエは風のよく通る木陰に腰を下ろし、小休止を入れていた。
「チエちゃん、ここ面白いね。池もそうだし、ポケモンもたくさんいるし」
「そうじゃろ、そうじゃろ。おら志郎を一遍連れてきてやりたかったんじゃあ」
「うん、ありがとう。ぼく、すごく気に入ったよ」
「ははっ、熱軍鶏も志郎のことが気に入りよったみてえだなぁ」
いつの間にやら志郎の隣にやってきて、ちょこちょこと戯れ付いてきたアチャモを軽く撫ぜてやりながら、志郎は顔を綻ばせた。そっと拾い上げて抱いてやると、暑さとは違うほんのりした『熱さ』が、じんと体の芯まで伝わってくるようだった。ヒトモシといいアチャモといい、火に絡む物の怪に懐かれる志郎である。
そうかと思うと、今度は頭上に何かが乗っかる感触がした。頭はそのまま視線だけを上に上げてみると、雲のような綿羽をくっつけた青い小鳥、もといチルットが、志郎の頭に座っていた。アチャモを抱えていた左手をそっと離して、ちょこんと乗っかるチルットを撫でてやると、うれしそうに体を振るわせる。人の頭に乗るのが好きと言うから、このまま放っておいてやるのが一番だろう。
物珍しさに、代わる代わる志郎に近寄ってくる物の怪たちの相手をしてやりながら、志郎はふと、チエに話したいと思っていたことがあったのを思い出した。
「ねえ、チエちゃん」
「ん? どしたぁ、志郎」
「物の怪の話なんだけどさ、チエちゃん、『河童』って知ってる?」
この問いかけを受けた、チエの答えはと言うと。
「かっぱぁ? おら胡瓜は嫌ぇだぞぉ」
「きゅうりって……ああ、『かっぱ巻き』のことだね。うーん、それとは、関係あるような無いような……」
チエは「胡瓜が嫌い」と答えた。志郎も言ったがかっぱ巻きのことだろう。あの「静都妖怪大全」には「河童は胡瓜を好む」と書かれていたし、「かっぱ巻き」の語源は河童にあるとも書かれていたので、まったくの無関係ではないのだが。
ともあれ、チエは河童を知らないようだ。これ幸い、とばかりに、志郎がチエに河童についての講釈を垂れ始めた。水に住んでいるところから始まり、不思議な力を持っていること、大の大人も敵わないような怪力を持っていること、大人になると「水神様」と呼ばれて水の護り神となること。登紀子から聞いた話を、丸々チエに教えてやった。
「へぇ、そんな物の怪がおるんかぁ。会ってみてぇなぁ。おらも水辺に住んどるからなぁ」
「そうなんだ。なんか、不思議な力があったり、水辺に住んでたり……河童って、チエちゃんとよく似てるね」
「そうかぁ? やっぱり面白ぇこと言うなぁ、志郎は」
でも、河童なんて知らないよ――それがチエの答えだった。チエがそう言うのであれば、正しいに違いない。
「この池、端から端までかなりあるね。深さも、結構あるんじゃない?」
「そうじゃと思うけどなぁ、おらも底まで潜ったことはねぇなぁ」
「チエちゃんって、池に潜ったりするの?」
「んだ。おら、一遍も息継ぎせずに十分は潜ってられんだぞぉ。息こらえはおらの得意技じゃあ」
「十分も!? それ、すごすぎるよ……」
池の底についての話を出した途端、チエの目の色が変わった。なにやら興味を示したようである。一体何を企んでおるのだろうか。
「そうじゃ、志郎! いいこと思いついたぞぉ」
「いいこと?」
「おらと一緒に、この池の底まで潜るんじゃあ」
「えぇっ!?」
突拍子もない、いやチエは常に突拍子もないことばかりしているが、それはともかく。志郎の声が素っ頓狂に裏返るほど突飛な提案をしてみせた。今から自分と一緒に、池の底まで潜ってみようなどと言い出したのである。チエの瞳はキラキラ輝いている。冗談では無さそうだ。
チエは問題ない。息継ぎ無しで十分も潜っておれるというのだから、水の中でも自由自在に動けることだろう。問題は、志郎のほうである。志郎はチエのような人並み外れた力を持っているわけではないから、そうそう長々と水中で活動できるものではない。
「チエちゃんは大丈夫だと思うけど、ぼくは無理だよ。そんなに長く潜れないし」
「心配すんなぁ。おらがお天道様にお願いして、志郎を潜れるようにしてやるぞぉ」
「ホントに? でも、どうやって?」
「おらが、志郎と水が『仲良く』なれるようにしてやるだぁ。ちと、服脱いでくれんかえ?」
「ふ、服脱ぐの!? ち、ちょっと待って。ぼく、水着に着替えてくるから……」
一言断り、志郎が手提げを持って木陰へ走る。ちらちらとチエの様子を横目で伺うような伺わないような中途半端な確認を繰り返しつつ、志郎は上下の服と下着を脱ぎ去り、水遊びに備えて持ってきてあった水着に着替えた。
戻ってきた志郎に、チエは「お天道様」にお願いするときに見せる、両手を差し出した体勢をとる。その後、両腕を空中で交差させ、目の前にいる志郎に向けて念を送り始めた。志郎は唾をごくりと飲み込み、これから己の身に何が起きるのかを注視していた。
暫くの間は何の変化もなかった。交差させた腕をピクリとも動かさず、チエが瞼を下ろす。何度か深呼吸をして、体の中と外界の「波」を同期させた後、チエが両手の指先を波のように上下へゆらゆら揺らし始めた。指先の動きを追っていると、志郎はチエが送ろうとしている「波」が、頭での理解よりも先に体に沁み込んでくるのが分かった。自然と目を閉じ、成り行きに任せることにする。
人の体のおよそ七割から八割ほどは、水分で成り立っていると言う。余り語弊のある言い方はすべきで無いが、人体と水が密接な関わりにあるということに間違いは無い。チエがそのことを体系的に知っているとは思えぬが、本能的には深いところまで理解しているようだった。
体が宙に浮いていく、これは正確ではない。水の中へ沈みつつ、浮かんでゆく。どちらだろうか。どちらでもない。水の中へ沈んでいくというよりも、水が中へ入り込んでいく。そちらの方が近い。志郎は夢を見ているかのような掴みどころの無い浮揚感に、その身をたゆたわせていた。
チエから送り込まれてくる念波。これは一体何かと考えたとき、志郎は脳裏に、水面を走る波の映像が浮かび上がった。『水の波動』、その言葉が適切に思えた。チエから送り込まれる『水の波動』に体が同期し、己が「水に近しい」存在となっていくのが分かる。
やがて、冷たく心地よい感触が、足のつま先を基点として徐々に徐々に上までせり上がり、内外共にその感覚で満たされた。ここまで来て、志郎が閉じていた目をすっと開いた。
「……よし。これで大丈夫じゃあ。志郎は今、水と仲良しになっただぁ」
「うん……うまく言葉にできないけど、今なら、水の中にも潜れそうな気がするよ」
地に足は着いている、だが、浮いているような感触がする。水袋にでもなったような心地だ。体の具合が変わり、今一つ歩き慣れない志郎の様子を察したチエがさっと彼の手を取り、共に池へと向かう。足から静かに池へと身を沈め、志郎とチエが、池の中へと沈み込んでいった。
水の中に入った、という感触は伝わってこなかった。自分自身が水のようなものになっているからに他ならない。地上での歩き辛さとは打って変わって、水中では上・下・左・右・前・後、どの方角に向けても自由に進めそうだった。隣にいるチエが、志郎に向けて笑う。
(どんなぁ具合じゃあ? うまく潜れそうかえ?)
心にチエが直接語りかけてくる。念力を使っているのだろう。志郎は口で答えようとしたが、水中ではうまく声が発せない。どうすればよいか思案したが、実はそれが正解だった。
(口に出さんでも大丈夫じゃあ。おらに言いたいことを思うだけでええぞぉ)
(ぼくの言葉、伝わってる?)
(伝わっとるともぉ。ぜぇんぶお見通しじゃあ)
チエが志郎に流した『水の波動』は、志郎の言葉をチエに伝える、音としての『波動』の意味も持っていた。志郎は頷き、チエと手をつないで池の底へと潜っていく。
中では池の周囲や水面付近では見られない物の怪たちが、至るところに姿を見せていた。墨を垂らしたような堂々たる紋様を持つアズマオウが鰭を揺らしながら悠々と泳ぎ、横ではハリーセンが水を多量に取り込み、小さな体躯を何倍にも大きく見せて威嚇している。近くにいたキバニアが、膨れたハリーセンに恐れをなしてそそくさと逃げていった。
(暗いね、ここ)
(そうじゃなあ。そんな深く潜っておらんはずなんじゃけど)
(水が濁ってるわけでもないし、どうしてだろうね)
まだそれほど深くは潜っていないにも拘らず、周囲に光が届かなくなってきた。水が濁っているわけではない。むしろ、ここまで清らかな水は珍しかろうというほどに、この池は澄んでいた。光が届かぬ理由が分からない。志郎は水中で首を傾げた。
一度も呼吸をせずとも悠々と泳ぎ回るチエに、志郎が心配して声を掛ける。
(チエちゃん。息継ぎしなくて、大丈夫なの?)
(全然平気だぁ。おら水の中の方が好きなくれぇだからなぁ)
(無理しちゃだめだよ。苦しくなったら、すぐに上がろうね)
(志郎は心配しいだなぁ。大丈夫じゃよ)
チエがそう言うのであれば――志郎はこれ以上心配するのは却ってよくないと考え、今は気にしないことにした。
二人は深く潜るのを止めない。チエは自分にも『水の波動』を流し、水圧を文字通り「受け流して」いるようだった。
(おぉ、見てみぃ、志郎)
(わ……あの魚、体が光ってる?)
(『蛍光魚』じゃあ。お天道様の光を溜め込んで、水ん中で光るんだぞぉ)
(そうなんだ……ぼく、初めて見たよ。きれいだね)
光の遮断された水底付近では、さらに独特な風貌の物の怪たちが暮らしていた。チエの言う『蛍光魚』、もといケイコウオ、共に発光しながら並んで泳いでいくネオラント、暗い水中で辺りを照らすチョンチーにランターン。そして、ランターンが照らした先に――
(あ、あれって……!)
――大きな横穴にずんと居座る、大きなナマズンの姿があった。
ナマズンを見た志郎は、思わずぎょっとした。物知りの級友から、「ナマズンは縄張り意識が強く、近づく者に攻撃する」という話を聞いた記憶があったためである。触らぬ神に祟りなし。そうとばかりにそそくさと離れようとしたが、直前になってナマズンがのっそりと薄目を開き、志郎と目を合わせた。
見つめられると目が離せぬもので、水底にでんと鎮座するナマズンとばっちり目が合ってしまう。隣にいたチエは、志郎が一点を見つめて動かなくなったことに気付き、その視線の先を追ってナマズンの姿を見つけた。固まっている志郎に対し、チエは平時通り、興味津々といった面持ちでナマズンを凝視している。気付いた志郎が、慌ててチエに呼びかける。
(のんびりした顔つきだなぁ。物の怪かえ?)
(ち、チエちゃん……! 怒らせちゃまずいよ、早く向こうに……)
(気にするでない、小僧。わしは、別に怒ったりはせんよ)
一刻も早くここを立ち去りたい志郎に、チエは相変わらずの調子で応じる……どうも、チエにしては口調が古めかしいし、声色もまるっきり異なっているような気はするのだが。
(もう、チエちゃん! こんな時に、そんなおじいちゃんみたいな口調で話してないでさ!)
(なぁに言ってんだ志郎。おら爺さんの真似なんかしてねぇぞぉ?)
(えっ? でもさっき、『わし』とかどうとか……)
(おおい、小僧。わしじゃよ、わしわし)
(……ナマズン!? ナマズンがしゃべった!?)
志郎に語りかけてきた声。それは、他ならぬナマズンであった。のっそりと這うように横穴から身を乗り出し、口を開けたままぽかんとしている志郎と再び目線を合わせた。ナマズンは、訳が分からぬといった面の志郎を可笑しげに眺め回し、しわがれた声を心へ流し込み始めた。
(驚いているようであるな、小僧。隣の小娘の方が、どっしり落ち着き払っておるではないか。男児たるもの、いつ何時も沈着さを失うてはならぬぞ。この、わしのようにな)
(ナマズンが……ぼくの心に……)
(鯰の爺さん、おらはチエっていうだ。爺さんも物の怪なのかえ?)
(いかにも見立て通り。その様子では、お前さんは普段から物の怪たちと話をしておるようであるな)
ナマズンは、ある意味当然とも言えるが、チエとも心中で会話していた。とりあえず現状を飲み込むことにした志郎が、軽く水中を縫ってチエとナマズンの間に立つ……立つというと語弊があり、実際には浮いておるのだが、ここは委細を問わず「立つ」とさせてもらおう。
(斯様な場所に遊びに来るとは、案外肝の据わった小童もいるものであるな。よい退屈凌ぎじゃ)
(ははっ、おらに怖いもんなんかねぇぞぉ。なぁ、志郎)
(えっと……ぼくには、それなりにあるんだけど……)
(なんじゃ、情けないのう、小僧。この小娘、チエと言うたか。お前さんもチエを見習うがよい。豪放磊落にして天真爛漫、これぞ小童の鑑であるな。初めから小さく纏まるのが粋と思うておるなら、大腑抜けの大間違いであるぞ)
(うぐ、そう言われても……)
いやいや、チエは容易に真似できるものでもないだろう……二人に探られぬ心の片隅で、志郎が小さく思いを零した。
(そういえば、ナマズンさんは、この池の『ぬし』なんですか?)
(いやいや、わしはこの童ヶ淵に住まわせてもらっている、しがない老いぼれに過ぎんよ)
(爺さん、ここの主じゃないのかえ? おらには一番偉く見えるけどなぁ)
(わしもそこそこは年季が入っておるがな、ミズガミには敵わぬよ)
聞きなれぬ名前に、志郎が鸚鵡返しで問い掛けた。
(ミズガミ? 誰ですか? その、ミズガミっていうのは……)
(知らぬのか、小僧。この童ヶ淵を護っておる物の怪じゃよ。わしも力では引けを取らぬが、あやつは不可思議な力を使う。物の怪というより、神様に近い存在であるな)
(うわぁ、なんだかすげぇのがいるみてぇだなぁ。おら、会ってみてぇなぁ)
(悪いことは言わぬ。止めておけ、チエ。ミズガミは人を好まぬ。連れ合いを亡くしてからは、特にな)
(連れ合い……もしかして、好きな人がいたんですか?)
(なんじゃ、意外に知りたがりな小僧であるな。やはり小童はこうでなくては。とは言え、わしもあやつが連れ合いと一緒にいるのを目で見たわけではないがな。わしの周りに、あれこれと噂を持ってくる小間使いがいるんじゃよ)
(そういうことなんですか……)
(噂話でよければ、お主らにも一つ教えてやろう。小間使いが言うには、この池に入水しようとしたところをミズガミが引き止めて、それから二人で連れ合うようになったそうな。羨ましい話であるよ)
話好きのナマズンから、『ミズガミ』についての面白い話を聞くことができた。自害しようとした相手を引きとめ、そのまま結ばれたというのである。真実かどうかは定かではないが、与太話の一つとしては面白かろう。
(ありがとなぁ、鯰の爺さん。また、遊びに来てもええかえ?)
(いつでも構わんよ。わしはこの通り、暇を持て余しておるからな)
(分かったぞぉ。それじゃ、おらたちそろそろ行くだ)
ナマズンにひらひらと手を振り、チエが去っていく。
(ナマズンさん、ありがとうございました。じゃあ、ぼくもこれで……)
(待てい、小僧)
続いてチエを追いかけようとした志郎だったが、後ろからナマズンに呼び止められた。
(えっ? あの、何か……)
(よければ、後でチエとやらに伝えておいてくれぬか。その心意気は大いに気に入った、また遊びに来て欲しい。じゃが――)
口元ににいっと笑みを浮かべて、ナマズンが志郎に言付ける。
(――わしは、こう見えても爺さんではなく婆さんだ、とな)
思わぬ告白をしたナマズンを前にして、志郎はその目を真ん丸くせざるを得ないのだった。
ナマズンの爺さん……ではなく婆さんと別れたチエと志郎は、水中の探索を続ける。潜ってからそろそろ五分が経とうとしているが、チエはまるで変わらず楽しそうに泳ぎ回っている。志郎に流した『水の波動』もまったく揺らぐ事無く、二人は池の中を泳ぎ続けた。
――そうして、暗い水中に時折現れる物の怪たちと戯れながら、志郎とチエが泳ぎ続けていたときのことだった。
(志郎、向こうが光っとるぞぉ)
(本当だ。赤い光だね)
池の底の、さらに窪んだ「奥底」とでも呼ぶべき場所。赤い――いや、紅い光が見えたのは、そこであった。ケイコウオやチョンチーの光にも既に慣れっこになっていた二人は、それまでにない「紅い光」に強く興味を惹かれた。何やら怪しげで、他とは違う匂いを芬々と漂わせている。
好奇心、という名前の紐に引き摺られ、志郎とチエが「奥底」を目指す。紅い光は初めて目にしたときから一瞬たりとも消える事無く、二人の前で煌々と輝き続けている。あれは一体何なのか。見たことの無い物の怪のものではなかろうか。二人は、紅い光の直ぐ近くにまで接近した。
泳ぐのを止め、志郎とチエが紅い光の前で動きを止める。紅い光は池の底、その奥に位置する洞穴から発せられていた。
(なんだろうね、あれ)
志郎がチエに問いかけた。チエにも分からぬと見えたが、見知らぬものを見てあれこれと仮説を立てるのは、往々にして面白いものであると――
(……呼んどる……?)
(……チエちゃん?)
――そのように考えていた最中のことであった。
(おらのこと……呼んどるのかえ……?)
(チエちゃん? どうしたの?)
様子がおかしい。チエの目つきが違う。志郎はチエの側まで寄り、様子を窺う。
(……い、いやじゃあ……おらの、おらの……)
(ち、チエちゃん? 大丈――)
直後。
(おらの……おらの中に入ってくるでねぇ!!)
――チエが、水中でもがき始めた。
(チエちゃん!? チエちゃん!)
(いやじゃあ、いやじゃあ……! やめとくれぇ、やめとくれぇ!)
(一体……一体どうしちゃったの!? チエちゃん!)
じたばたと暴れるチエを抑えようと、志郎がすぐさま近づく。とにかくチエを捕まえねばと、両手を差し出してチエを抱き込もうとする――だが。
(う……わっ!? し、痺れる……!?)
チエの体に触れた途端、毛が逆立つような電流が、志郎の全身を駆け抜けた。思わずチエから手を離す。今のは一体なんだ、静電気か何かか。先の現象は、志郎の理解を超えていた。ともかく言えるのは、チエが尋常ならざる状態に陥っているということだけだ。
もがくチエを横目で見ながら、志郎はあの「紅い光」に目をやった。紅い光は、先程見たときよりも一際輝き、見たことも無いような不気味な波動を発しているように思われた。直感的に、チエを苦しめているのはあの「紅い光」であると、志郎は考えた。あれを覗いて、近くに要因となりそうなものは何一つとして存在しない。
異変はチエだけに留まらなかった。隣にいた志郎も、頭がズキズキと痛み始めるのを感じていた。チエのときと同じ、あの不快で苦痛な、出所の分からぬ頭の痛みだ。あれに輪をかけて強い痛みが、チエのときと同じ間隔で志郎を襲う。苦痛に顔を歪めつつ、志郎はチエの声に心を傾けた。
(離しとくれぇ! おらを縛って、なんになるんじゃあ!)
(おらはおめぇのことなんて知らねぇぞぉ! だから、だからやめとくれぇ!)
縛られている、とチエは言った。縄や綱の類は見えぬから、本来の意味で「縛っている」わけではあるまい。そうなると真っ先に思い当たるのは、所謂「金縛り」の類か。志郎がチエに触れた直後に痺れが走ったのは、チエに掛けられている「金縛り」の霊力が漏出していたから――そのように考えられた。
鼓動が高鳴る。目の前で、チエがもがき苦しんでいる。志郎は何をどうすればよいのか、頭が真っ白になった。
(どうして、どうしてこんなことをするんじゃあ!)
(そんなの……信じねぇぞぉ! おらは……おらのおっ母は……!)
次の瞬間、苦しそうに胸を押さえながら、チエが体を丸め、口から大きなあぶくを吐き出した。恐慌状態に陥って、止めていた呼吸を無理に再開しようとした結果だった。このまま放っておけば、チエがどうなるかは――考えずとも、既に「目に見えて」いる。
真っ白になった志郎の頭に、畳み掛けるように飛び込んできたもの、それは。
(志郎、志郎、志郎……! おら、苦しいだぁ……)
(息が……おら、息できねぇ……!)
チエの悲痛な叫び。前後不覚に陥っているチエが、志郎に伝えようとしたものだ。チエの瞳はぼんやりと濁り、四肢は力なく水中に投げ出され、口から出てゆく泡は、だんだんとその数と分量を減らしてゆく。
志郎はチエの言葉を心に叩きつけられ、他のありとあらゆるすべての考えが粉微塵に消し飛び、ただ、チエのことだけしか考えられなくなった。
ただ――チエのことだけしか。
(だめ、だぁ……おら、もう、力が入らんぞぉ……)
チエ……
(苦しい……もう、息が、止まっちまいそうだぁ……)
チエ、チエ……
(助けてくれぇ、志郎……志郎、志郎……!!)
チエ、チエ、チエ、チエ……
(お願いだぁ……おら、このままだと――)
チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ……
(おら――死んじまうだ……)
チエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエ――!
(――チエっ!!)
猛然と水を蹴飛ばし、志郎がチエに突撃した。「紅い光」からチエを奪い取り、冷たくなり始めたチエの体を抱き抱えた志郎は、直後、寸分の迷いも無く――
(チエ! 目を覚まして!!)
(……!!)
――チエに、口付けた。
青紫色になったチエの唇を舌でこじ開け、志郎が口を覆いかぶせる様な体勢を取った。気を失いかけていたチエが、志郎の口付けで目を覚まし、文字通りの「眼前」にいる志郎を目を見開いて見つめる。志郎は優しい目でチエを見つめ、ゆっくりと、口から呼気を吹き込んだ。
チエの気管に、志郎から送り込まれた空気が流れ込んでいく。呼吸ができなくなっていたことで機能停止寸前にあった器官が、これまた文字通り「息を吹き返し」、徐々に徐々に落ち着きを取り戻していく。乱れていた脈は、やがて安定した律動で血液を送り始め、冷たくなっていた四肢が熱を取り返していった。
自然とチエも息を吐き、志郎に送り返していく。一方が息を吸うともう一方が吐き、一方が吐くともう一方が吸う。二人は一つとなって、三度文字通り「呼吸を合わせ」る。何度か繰り返すと、チエは完全にその意識を取り戻した。濁っていた瞳は輝きを、浮遊していた四肢は力強さを、絶え絶えになっていた呼吸は規則正しさを、それぞれ蘇らせた。
(志郎……志郎……!)
(もう大丈夫だよ、チエ。ぼくが、側にいるから)
(……うん。志郎、ありがとぉなぁ……)
ここは池の中、即ち水中。例え涙を流したとしても、それは直ちに池の水と入り混じり、姿を影も形も留めない。だからこそ……涙を流すには、都合のよい場所とも言えた。
チエを救って見せた志郎の姿を、「紅い光」はじっと見つめ続けていた。
(……触るな。これ以上、チエに触るな)
(触ったら……ぼくが、お前を許さない)
志郎は、横目でギロリと「紅い光」を睨み付けた。平時の温和な姿からは欠片も想像もできぬ、「殺意」に近い強烈な敵愾心を帯びた鋭い瞳だった。
だが、その瞳もひとたびチエを捉えると、今度はまた平時からかけ離れた、途轍もなく優しいものへと変貌する。チエはすっかり安心し、しっかりと呼吸を整えた。
(……志郎、捕まっとってくれんかえ)
(これから、何かするつもり?)
(おらがここから、一気に水面まで上がるんじゃあ。志郎、体を預けてくれえ)
(分かった。チエに、みんな任せるよ。さあ、始めて)
チエに全幅の信頼を寄せる志郎の瞳をじっと見つめた後、チエが志郎との口付けを止め、視線をわずかに光の見える水面へと向けた。目指すは、あの光の向こう側だ。志郎はチエの雨合羽に両腕を回してしっかりとしがみ付き、チエが上へ動き始めるのを待っている。
両目を閉じ両腕を重ね両足を絡めあい、チエが無音で念を唱えた――その直後。
(……!!)
絡めあった両足が水を強かに蹴り、チエと志郎が水面へ向けて一気に上昇していく。ぐるぐると渦を巻き、水をえぐるような動き。それはさながら、地面から大空へと飛び立つ『ジェット』の如く。チエは志郎を抱え、一心に水面を目指す。
(ぐっ……!)
(もう少しじゃあ……堪えてくれ、志郎……!)
チエの掛けた「水の波動」の効力が切れたのか、志郎が顔を歪める。水と近しい存在であった時間は終わり、今の志郎は、最早ただの生身の人間でしかない。チエは志郎が気を失わぬように念力の膜で保護してやりながら、あくまで上へ上へと突っ切っていった。
水底から「離陸」してから、およそ二十秒後――。
『ぷはぁっ!!』
二人が、一思いに水面から顔を出した。止めていた息を一気に吐き出し、自由に息が吸えることを確かめる。
「はぁっ、はぁ、はぁ……」
「はあ〜っ、はっ、はぁっ……」
あの瞬間から二十秒近く息を止めていたものだから、今度は志郎が倒れそうになる有様だった。顔面から少しばかり血の気が引き、いつもにも増して色白になってしまっている。チエはチエで、水底から一気に水面まで上昇する為にかなりの力を使ったようで、こちらも疲労の色が激しい。
水面近くをたゆたい、十二分に呼吸を整えた頃になってようやく、二人が顔を見合わせた。
「チエ、大丈夫?」
「志郎こそ、大丈夫かえ?」
「ちょっと息苦しかったけど、もう大丈夫。チエのおかげだよ」
「おらも……志郎のおかげで助かっただぁ。ありがとなぁ、志郎」
今こうして「口」で会話できる喜びを、二人は揃って噛み締めた。水の中では、こうは行かぬ。
「でも、チエはすごいよ。あんなに深いところから、一気にここまで上がって来れるなんて」
「『水推進』(すいすいしん)の業じゃあ。水ん中で体を捻って、道をこじ開けるって寸法だぞぉ。ちと力がいるけどなぁ、うんと速く進めるようになるんじゃあ」
「ありがとう、チエ。無理させちゃって、ごめんね」
「何の何のぉ。おらにとっちゃあ、こんくらい朝飯前じゃあ」
危機はもう過ぎ去ったのだ――二人は笑いあいながら、岸に向かって泳いでいった。
先程まで休息を取っていた木陰で、濡れたおかっぱ髪を日なたで乾かしたチエと、元の服に着替えた志郎が、大樹に寄り掛かって休んでいた。物の怪たちは皆どこかへ行ってしまったようで、ここにいるのは志郎とチエの二人だけ。夏場にしては涼やかな微風が、池の中の大冒険で疲労した体を、ささやかではあるが癒してゆく。
志郎が時折左手に目をやると、穏やかな面持ちのチエがいた。チエは、いつも志郎が見つめ始めてから一拍遅れて、じっと此方を見つめる志郎に目線を返してやる。このような、傍から見ると何もしていないも同然のようなやり取りを、志郎もチエも飽きもせず繰り返していた。
池から上がった後、チエは志郎に「紅い光に『見つめられた』瞬間に、体が動かなくなった」と答えた。志郎の見立ては、ほとんど間違えようが無かったとは言え、合っていたわけだ。志郎が感情を爆発させてチエに飛び掛っていなければ、今頃どうなっていたことか。想像は簡単に付くが、したくもない。
「あの時、どんな感じだった?」
「おらもよう分からん。ただ、『こっちへ来い、こっちへ来い』って、しつっこく繰り返しとったのは憶えとる」
「そうやって、自分のほうに招き寄せていたんだね……」
「きっと、そうじゃろう。おらのこと取って食おうと考えとったのかも知れん」
恐慌状態に陥っていたせいか、チエは「紅い光」に縛り上げられた時のことを、すべては憶えていなかった。部分的にしか記憶は残っていなかったが、しかし、残っていた滓のような箇所だけでも十二分に恐ろしかった。そうであるから、皆まで覚えていなくて逆によかったのかも知れぬ。
チエが言うには、「紅い光」はチエに「こっちへ来い」と呼びかけていた、という。だが、チエは「紅い光」など知っている筈も無かった。知っていれば、わざわざ近寄るような真似はすまい。ああだこうだと可能性を並べることはできるが、答えは池の底。届くことは無かろう。
「とにかく、無事でよかったよ。ぼくも、チエもね」
「そうだなぁ……志郎が、おらに口付けてくれんかったら、おら沈んじまってただぁ」
「う、うん……ごめんね、あの時は、ああするしかなかったんだ」
「なぁにを謝ることあるんじゃあ。おらは、初めてが志郎で良かったと思っとるんだぞぉ」
「……〜っ!」
平気な顔をして爆弾発言を積み重ねるチエを前に、志郎はまるで形無しであった。火事場の馬鹿力でもって、呼吸困難のチエに口付けた瞬間は随分勇ましかったが、それからはまた元の志郎に巻き戻ってしまったようだ。いつも通り、チエがどんどん押してぐいぐい引っ張る構図である。
「それと、志郎。おらのこと……」
「チエのこと……? どうしたの?」
「『チエ』、って呼んでくれるようになったんじゃなあ」
「……あれ? 言われてみると、確かに……」
「なんじゃあ、気付いとらんかったんかぁ。ははっ、細けぇところで鈍いなぁ、志郎は」
チエは、志郎が自分のことを「チエちゃん」ではなく「チエ」と呼ぶようになっていたことに気付いていた。あの瞬間からだ。呼称から「ちゃん」が外れただけのこと――表向きはそうであるが、実際のところの意味はまるで違う。距離が大きく縮まった証だ。
どぎまぎしていた志郎であったが、ふぅ、と一息入れて呼吸を整え、こくりこくりと二度ほど頷いた。チエの言葉を受け入れ、理解したようだ。
「そうだね。なんか、呼び捨てのほうが……心が通じ合ってる気がするよ」
「おらは、初めっから呼び捨てじゃったけどなぁ」
「チエはそういう性格だから、それでいいよ。ぼく、結構人見知りしちゃうから」
「人見知りはよくねぇぞぉ、志郎」
ごく普通の少年・志郎と、雨合羽の破天荒な少女・チエ。何もかもあべこべで、悉くちぐはぐな二人だったけれど、心が通じ合っているというのは間違いの無い事実だった。最初からこうなる事が決まっていたように、二人はうまく噛み合っていた。
それで、よかったのだ。凸凹で、けれど憎からず想いあっている少年と少女。二人の間柄は、それでよかったのだ。
それで――よかったと言うのに。
夕暮れ時。そのまま、なんとは無しに時間は過ぎて。
「いろいろあったけど、楽しかったよ、チエ」
「おらもだぁ、志郎」
二人は森を抜け、いつもの別れ道まで辿りつく。落ち行く夕陽を眺めながら、チエが志郎に語りかけた。
「志郎」
「分かってるよ、チエ。指きりだよね?」
「ははっ、もう言わんでも分かるかぁ」
いつものように小指を絡め合わせ、志郎とチエが揃って拍子を取る。
「行くよ。せーのっ……!」
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
指きりを終えたチエの表情は、とても満足げなものだった。左手を広げて、指の一本一本をしげしげと眺めながら、しきりにこくこくと頷く。
「ありがとなぁ、志郎。これで、明日も一緒だぁ」
「約束だからね。明日も、必ずチエのところへ行くよ」
「ははっ、おらの親指と小指は宝物だぁ」
「親指と親指?」
唐突に「親指と小指は宝物」と口にしたチエに、志郎が率直な疑問を即座に投げかけた。きょとんとした表情の志郎に、チエが説明を始める。
「んだ。小指は志郎との約束で、親指は――おっ母との約束だからだぁ」
「お母さんとの?」
「そうじゃあ。おっ母が出て行くときに、おらとおっ母で親指を引っ掛けて、親指で指きりをしたんだぞぉ。おっ母が『必ず帰ってくる』って、おらに約束してくれたんじゃあ」
親指は、チエが母と交わした約束の証だった。親指でもって、志郎とチエがいつもしているような「指きり」をして、母が必ずチエの元へ戻ると約束したわけである。小指は志郎との、親指は母との約束。一人ぼっちのチエが「宝物」と言うのには、明確な理由があった。
チエを少し上から見下ろす形の志郎は、チエが三年も戻らぬ母との約束を信じている様を見て、例えチエの母がこのまま永劫帰らなくとも、己が約束を守り続けることで、チエに希望を持たせてやれるのではないか、チエの側にいてやることが、チエにとって救いになるのではないか。志郎はそう思案した。
我ながら、随分とこっ恥ずかしいものだ。志郎はチエに対して一方ならぬ思いを携えつつも、併せてそのような感情に対して、青臭いものだと嗤う己自身も同居していた。感情の板挟みを喰らった志郎は、夕陽が照らすから悪いのだなどと言い訳し、微かに赤面するのだった。
「大丈夫。チエのお母さんは、必ず帰ってくるよ。それまで、ぼくが側にいるから」
「志郎……ありがとなぁ。おら、志郎のこと頼りにしてんぞぉ」
志郎が、思いをそのまま言葉にして伝えた。嗤いたければ嗤え。ぼくは、チエと一緒にいるんだ。本音が体裁を蹴り飛ばし、素直な言葉を口にすることができた。この方がよい、下手に体裁ばかり取り繕った所で、何の益もない。志郎は、照れ臭さをねじ伏せた。
二人が視線を交わし、そろそろ別れの時間――互いに、そう認識し始めていたときだった。
「くわばら、くわばら。危うくあのもの狂いに絡まれるところじゃった」
志郎が使う帰り道のほうから、見ず知らずの壮年の男が、ぶつくさと一人呟きながら、志郎とチエの立っている別れ道のほうへ向かって歩いてきた。二人が声の発せられた側へ向き直り、その姿を確かめる。
男は、義孝と康夫の丁度中程の歳頃に見受けられた。髪の薄くなった禿頭を頻りに撫で回しながら、よたよたとした足取りでもって道を歩いている。腹は大きく出っ張っており、歪んだ面構えも相まって、こう言っては狸に失礼であるが、「狸親爺」という言葉を人の形に置き換えたような男だった。
志郎とチエが、のしのしと少しばかりだらしない足取りで歩いてくる男を眺めておると、進む道の先に二人がいることに気づいた狸親爺が、二人の姿を濁った目に入れた。
「ん? お前は……」
声を上げた男を前に、志郎とチエが思わず身を固くする。男が二人に絡んでくるとは、思いもしていなかったためである。立ち止まった男の姿を凝視しながら、志郎とチエが互いの身を寄せ合った。
「おっ、お前……!」
「なんじゃあ、お前ぇ。おらたちになんか用かあ」
チエが警戒心を露にした声を上げると、狸は額にじっとり冷たい汗を浮かべ、
「し、知らんぞ! お前んことなぞ、知らん知らん! あやつが勝手に決めたことじゃ、わしゃ知らんぞ!」
狼狽え声を裏返しながら、狸親爺は元来た道を引き返し、その場から逃げるようにして……というより、そこから慌てて逃げていった。腰を抜かしそうになりながら逃亡する男に、志郎もチエも揃ってさっぱり分からぬとでも言いたげな面持ちを見せた。
見ず知らずの不審な親爺に絡まれそうな二人であったが、親爺が何か汗を垂らしながら勝手に逃げていったために、結局関わらずに済んだ。二人が顔を合わせてほっと息をつく。
「何だろう? あの人」
「知らねぇ。でも、怪しいのは間違いねぇだ」
「そうだね。絡まれなくてよかったよ」
「ははっ、おらに恐れを成して逃げちまったんだなぁ」
それから、二人はいつものように別れ、各々の道を歩いていった。
義孝の家まで戻ってきた志郎がまず目にしたのは、開け放たれたままの玄関の硝子戸と、乱雑に脱ぎ捨てられた一揃いの靴であった。健治のものだ。志郎は少々うんざりした面持ちで、玄関を避けて縁側の方へと向かう。健治と顔を合わせてはならぬ。関わらぬ方が良い結果を齎すものは多いのだ。
縁側から和室に上がり、麦藁帽子を取って畳に胡座をかく。襖一枚隔てた茶の間の側では、例によってと言うべきか、健治が声を張り上げて康夫と義孝に喚き散らしていた。
「どういう領分だ、あの鬼畜に何故敷居を跨がせたッ」
「話をする必要があったからだ。事務的な話だ」
「僕は理由など訊いていない、あまりにも馬鹿げているッ」
例によって、と記したが、これは撤回させて頂く。健治の剣幕は、平時の比ではなかった。その口振りはさながら凶器の類を縦横無尽に振り回す物狂いの様相で、康夫も義孝も文字通り手がつけられぬといった有様であった。ドンドンと卓袱台を叩く音の出所も、勿論健治であろう。
隣の部屋で息を潜める志郎は、必然的に健治の狂騒じみた言の葉の数々を耳に入れることと成った。
「だいたい、何もかもがおかしい。僕が正義である為に、皆が寄って集って僕を陥れようとしているッ」
「そんな事はない。誰も、お前を嵌めようなどとはしていない」
「『めぐみの雨』などという言いぶりがそもそもおかしな話ではないか。どのように言い繕っても、あれが只の狐憑きだったことはごまかせないのだぞ。分かっているのかッ」
「ごまかそうとか、そういうのとは違う。断じて違う」
「違わないぞ。あのせいで、あの出来事のせいで、獣の真似事をしていたとか、池の周りを徘徊するようになったとか、気が触れたかのように言われている。もううんざりだ。こんな不憫なことが、あってたまるかッ」
「健治。無責任な世間の物言いを、いちいち真に受けるんじゃない」
「僕は戦うぞ。今ではもう、雨を見る度に涙を流すだけの廃人になってしまった。それもこれも、皆あの畜生の、糞ったれの穀潰しの、剛三の責任だ。あいつに責任を取らせるのが、僕の義務だ、使命だ、天命だッ」
「健治、少しは落ち着きなさい」
義孝が諫める声も、頭に血が昇った健治には一向届く気配を見せない。健治は憤怒の炎を燃え滾らせ、矢継ぎ早に康夫と義孝に激しい言葉の釣瓶打ちを浴びせた。
「大体だ。地主如きに何の権限がある。生まれの血だけでのさばっている、役立たずの碌でなしでしかないではないか。そのような屑に、婚前の大事な娘を三夜も委ねるとは、何たる悪習か。これは罪だ、大罪だッ」
「悪い風習だったということは、皆もう分かっている。二度と起こる事はない」
「既に起きたことにはどう落とし前をつけるのだ。まだ清算はされていないぞ。そもそも、男と女の情のことではないか。何故縁もゆかりも滓ほどもない、あの男がしゃしゃり出て来るのだ。合点のいく説明をしてみよ。できぬではないか。こんな茶番で丸め込まれていたような頃は、もうとうに過ぎたのだッ」
「あれは皆が間違っていたのだ。だから……」
「だから何だというのだ。知った風な口を利くな。いいか、今に見ていろ。この日和田の有様を、僕が洗い浚い表沙汰にしてやる。剛三に言い逃れなどさせぬぞ。僕はあの色狂いの獣と刺し違えてでも、正義を貫いてやるッ」
「表沙汰にして、苦しむのは山科だけではないのだぞ」
「道連れだ。道連れにしてやる。物の怪たちのように、死に際に仇敵を道連れにしてやるんだ。剛三の、あの腐れ外道の心の臓を抉り出して磨り潰してやらなければ、魂の行き場所がないッ」
いつに無く気を吐く健治に、志郎は背筋が寒くなる思いがした。健治の言葉が尋常でないものになっているのは、誰が見ても聞いても明らかであった。怒り狂う、という言葉がここまで相応しい様相もあるまい。意味はほとんど分からなかったが、時折飛び出す「道連れ」「死に際」などという言葉からも、健治の精神状態が均衡を欠いているのは嫌というほど判った。
「僕がこうして手を打ったから、剛三は慌てて何もかも『水に流そう』等と浅知恵を働かせている。そうは行くものか、僕があの糞ったれの画餅に墨を塗りたくってやる。絶対にだッ」
「それとこれとは話が違うと、前々から何度も言っているではないか」
「都合が悪くなったから、何処の馬の骨とも知れぬ都会の阿呆共の尻馬に乗って何もかも無かったことにしようなど、馬鹿の極致だ。水溜りなどこんなところに作らずとも幾らでもある。なんとしても阻止してやるんだッ」
「どうして分からぬのだ。そんなことをしても、何もならぬ」
「僕の心は満たされる。一矢報いてやらねばならぬのだ」
「健治、お前はどうして分かってくれぬのだ。必要なのは、もうこれ以上ことを荒立てないことだろう」
「兄さん、兄さんには分かるまい。どれだけ大切であったか、どれほど心を通わせていたか。同じ屋根の下に、ずっと一緒に居たんだ。だから僕は誓った。この身を捧げようと、滅私奉公に努めようと。もう一度笑顔を取り戻せるのは、僕しか、僕しかいないんだッ」
「健治」
「あのような目に遭わされて、平常でおれるか。兄さんは何も分かっていない。馬鹿に平然としている、体面ばかり繕っている。兄さん、あいつは、兄さんの――」
「いい加減にしろ、健治。今日はもう帰れ。これ以上触れてくれるな」
珍しく語気を荒げた康夫に、志郎はまるで己ばかりが取り残されたような心持で、不安ばかりが募るのだった。
(ああ、早く明日にならないかな。そうすれば、チエと一緒に遊べるのに)
思い浮かぶのは、当然と言うかやはりと言うか、チエの姿だった。家にいる時間とチエと共にある時間は、あまりにも対照的で違いがありすぎる。チエと一緒であれば、己の立ち位置に困ることなどない。チエは自分を慕い、そして自分はチエと一緒にいられることを純粋に喜べる。ややこしいことは、皆忘れられる。
明日になれば、またチエと遊べる。この家に居らずに済む。一刻も早く陽が落ち月が昇り、そして次の日が訪れればよいというのに。志郎は和室で息を潜めながら、只々時が過ぎるのを待ち続けた。
暫く間を置いて、健治が漸く出て行ったようだ。志郎がそのまま畳の上で寝転んでいると、すーっ、と襖が開いて、義孝が和室に顔を出した。志郎は起き上がり、軽く身なりを整える。
「お帰り、志郎」
「ううん、大丈夫だよ。叔父さん、もう帰ったの?」
「ああ。待たせてすまないね」
志郎はほっと息を吐くと、転がしていた手提げを手に取り、茶の間へ戻った。
晩飯に出された鯛飯と鯛の活け造り、そして粗汁を掻き込む様に食べ終え、軽く風呂を浴びて汗を流すと、志郎は昼間の出来事の疲れもあって、そのまま倒れこむように布団に入ってしまった。
「このままでは埒が明かない。堂々巡りだ」
「もうここに作るというのは決まっているのに……反対しておるのは、健治だけだ」
「悪い方へ転がらぬようにしなければ……」
未だ深刻顔で話し合う康夫と義孝の声は、夢へと落ちてゆく志郎にはもう届かなかった。
夏の朝の訪れは早い。月が消えるのを待たずして、太陽は燦々と輝く陽光の衣をはためかせ、未だ半覚醒状態の空を力づくで水色に染めてゆく。こうして、また新しい一日が始まるのだ。
志郎はいつもと同じように家の中で二番目に目を覚まし、昨日と変わりなく朝飯の準備をしている義孝におはようと挨拶をした。義孝は振り返っておはようと言い、志郎に顔を洗ってくるよう促す。志郎は義孝の言葉に素直に従い、少々寝ぼけ眼を残した顔つきをして、洗面所へ向かっていった。
顔を洗い用を足して戻ってくると、志郎は義孝に言われる間でもなく、朝飯の配膳を手伝い始めた。法蓮草のお浸しを一つずつ配り、浅蜊の味噌汁を汲んで隣に置き、大根おろしを載せた出汁巻き卵を並べる。炊き上がった豆ご飯を蒸らし終える頃に、平時通り康夫が姿を表した。
朝飯を食べている最中、康夫が志郎に声を掛けた。
「志郎」
「どうしたの? お父さん」
「もう少し、おじいちゃんの家にいることになると思うが、大丈夫か」
何の事はない。義孝の家で滞在する期間が延びるが、支障は無いかということであった。 これはとどのつまり、チエと一緒に居られる時間が増えるということと同義だ。願ってもないことである。志郎は即答した。
「大丈夫だよ」
「そうか、助かるな」
チエの顔が脳裏をよぎる。今日もまた、あの快活な姿を見られるのだ。自然と、志郎の飯を食う手が早くなった。
朝飯を食べ終えて、昨日と同じように義孝に簡素な弁当をこしらえてもらった後、志郎は麦藁帽子を被って外へと飛び出した。相も変わらず合唱を続ける蝉たちの声に耳を傾けつつ、志郎はチエの待つ、あるいはチエを待つための川へと走り出した。
外には、ポケモンたちの世界が広がる。かつては白かったであろう錆付いた軽自動車を寝床にするエネコ、金融会社の色褪せたホーロー看板を画布に見立てて絵画の練習に興じるドーブル、打ち捨てられた耕作地と知ってか知らずかしきりに動き回って畑を耕すディグダ。人の置き土産を、物の怪たちはある意味存分に活用していた。
寝そべったまま石榴の実が生るのを待っているナマケロ、鬼灯をつついて遊んでいるウソハチ、片喰の葉で尻尾を磨き上げるライチュウ。志郎が横を通りがかると、ライチュウが志郎に気付き、ぱたぱたと大きな尻尾を振った。
そのような風景を眺めつつ、定刻通り川へやって来た志郎であるが、そこにチエの姿は見当たらなかった。志郎は額に滲み出た汗を手拭いで拭き取り、チエの姿を探す。昨日と同じ時間帯であるから、先にチエが居てもおかしくないのだが。
斜面になっている河原を下り、志郎が川縁の見える位置までやってきた。
「あれ? チエ、そこにいるの?」
河原を下りた先にある草の生い茂った柔らかい土の集まっている付近で、いつものように黄色い雨合羽を身につけたチエがごろりと横になっていた。志郎は、無防備に寝転がっているチエの元へと恐る恐る抜き足差し足忍び足で近寄る。
チエは、横になってすやすや眠っていた。安らかな寝息を立てて、規則正しく胸を膨らませ萎ませを繰り返している。志郎は、まずチエが具合を悪くして横臥している訳ではないことを確認し、安堵の息をついた。朝早く来たのはよかったが、志郎を待っているうちに寝入ってしまったのだろう。
目を閉じて眠るチエの隣で、志郎がぐっと屈み込む。志郎とチエの顔と顔とが近寄り合い、チエの愛らしい寝顔が志郎の瞳に映し出される。豪胆でがさつな面ばかり目立つチエであるが、寝顔はこの年頃の少女相応のものである。志郎はチエの面持ちに、目も心も奪われたようであった。
「おっ母……おら、泳げるようになったぞぉ……」
「チエ……」
「おらも、おっ母の言ってた、おっ父みたいに、あっちこっち、泳いでやるんじゃあ……」
「お母さんの夢、見てるのかな……」
夢の中で、チエは恋しい母と共に過ごしているようだった。志郎は、チエの幸せそうな表情を微笑ましく思うと共に、今この瞬間、チエの夢の中に己自身が登場していない(ように思われる)ことに、ごくごく可愛らしい、他愛ない嫉妬の念を抱いた。とはいえ、母親相手では仕方あるまい。志郎は己にチエの事情を言い聞かせ、納得させるのだった。
こうして、ずっとチエの幸せな寝顔を見ていたいという強い欲求が湧き起こってきたが、チエのことだ。早く起こしてやらないと、遊ぶ時間が減ったと拗ねてしまうかも知れない。志郎は後ろ髪を力一杯引っ張られて禿げてしまうほどの名残惜しさを噛み殺して、チエにそっと声を掛けた。
「チエ、来たよ。ぼくだよ」
「くぅー……」
「ぼくだよ、チエ。そろそろ起きて」
「おっ母……」
「うーん、これじゃ、起きないか……」
眠るチエに何度か呼びかけた志郎だが、チエが目を覚ます様子はなかった。揺さぶったりして起こすという手も考えたものの、今ひとつ気が向かない。志郎は少々困ったと言いたげな顔つきで、草むらで横になるチエを見つめた。
その時──志郎にしてはなかなか珍しく、まるでエルフーンの如くむくむくと「悪戯心」が湧き起こってくるのを感じた。どんなものかと一瞬思案したが、何、もう既に一度したことの繰り返しである。気にする事はない。チエは未だ眠ったまま。男は度胸という言葉もある。志郎は意志を固めた。
「チエ、起きないの?」
「すー……」
「起きないなら……ぼく、悪戯しちゃうよ」
そう宣言してから、志郎は──
「ん……」
「……?」
──志郎は、チエの唇に、そっと己の唇を重ねた。
柔らかく、暖かく、そして何より、鼓動を感じる。初めて手を繋いだ時に伝わってきたチエの鼓動に、思わず胸の高鳴りを感じたのと同じように、唇から微かに伝わるチエの脈動に、志郎は心を奪われていた。
暫しの間、志郎はチエと口付けていたが、やがてそっと距離を置いた。少しばかり濡れた口元をそっと拭うと、改めてチエの姿を視界に捉えた。すると。
「……ん? 志郎……かえ?」
「起きたみたいだね、チエ」
チエが、ぼんやりとその瞼を上げた。
「志郎かぁ。おらを起こしてくれたんだなぁ」
「眠り姫を起こすのは、男の子の仕事だからね」
「なんじゃあ、志郎も気障なこと言うようになったなぁ」
ぴょんと体を跳ね上げて起こすと、チエがぐーっと大きく伸びをして、志郎にいつもの澄んだ瞳を向けた。何も変わらぬ、いつも通りの風景だ。
「おら、ちとびっくりしたぞぉ」
「やっぱり、チエも気付いてた?」
「途中からじゃけどなぁ。おかげで、いい塩梅に目が覚めたぞぉ。ありがとなぁ、志郎」
「どういたしまして。寝てるチエも、可愛かったよ」
「ははっ、照れるなぁ。褒めてもなぁんも出んぞぉ。朝からええ気分じゃあ」
頬をほんのり桜色に染め、顔を綻ばせるチエに、志郎もまた笑顔を見せるのだった。
二人は手を取り合い、連れ立って歩き始めた。今日は昨日・一昨日とはまた違う目的地があるようだ。チエが志郎を先導する形で、森の奥へ突き進む。
目指したのは、日和田を一望できる高さにあるという「丘」であった。チエは、そこから日和田の風景を見下ろすのが大好きで、志郎を是非連れて行きたいと言う。志郎が断るはずもなく、本日の遊び場は丘にすんなり決定した。道案内は任せろと胸を張り、チエが志郎を引っ張っていく。
目指す丘までの道は、少々険しい山道となっていた。急な段差になっているところを、志郎が先によじ登ってチエを引っ張り上げてやったり、細い吊り橋のみが架かっているような場所はそのままではまともに歩けぬため、チエが「お願い」をして吊り橋の動きを固定したりと、なかなかに骨の折れる道程であった。
道をのそのそと横切るナエトルとゼニガメの列が通り過ぎるまで待ったり、湖で小さなポケモンたちを載せて楽しそうに遊覧するラプラスの姿を目撃したり、日照りの元で益々活力旺盛となり取っ組み合いに興じるエンブオーとブーバーンの戦いの様を見物したりと、しばしば脇道横道にそれて道草を食いながらも、二人は丘の上を目指した。
待ち合わせ場所の川を発ってから、およそ三時間。
「着いたぁ! ここが丘だぞぉ」
「ふぅ、やっと着いたみたいだね……」
二人はようやく、目的地である丘の上に到着した。チエに引っ張り上げられるようにして、志郎が丘の天辺まで登る。刹那、志郎の眼前に広がる光景。
日和田は小さな村だが、それでも徒歩のみですべて回ろうとすれば一日では足らぬ程度の広さはある。つまりは何だかんだでそれなりの広さはあるのだが、丘の上からはその日和田が、端から端まで─日和田は四方を山に囲まれている、と述べたことを思い出していただきたい──一望できた。
豆粒かと見紛うほどに小さいが、チエと遊ぶ川も義孝の家も、前に遊んだ神社もすべて確認できる。これを壮観と言わずして何と呼べば良いのか。志郎は思わず息を飲んだ。日和田のすべてが己の手の中に収まった、そのような誇大な錯覚を抱かせるに、眼前の光景はありすぎるほどの説得力を持っていた。
「いい眺めだね……!」
「すんげぇだろぉ。ここはおらのとっておきの場所だぁ」
「チエがとっておきにしたくなる理由、ぼくにも分かるよ。ありがとう、チエ」
おかっぱ頭を撫でられたチエが、笑窪を作ってはにかんで見せる。志郎の手に一層の力と優しさがこもった。
この辺りまで人の手が及ばぬのはここまでの道程の険しさを思えば自明のことで、多くのポケモン、いや物の怪たちが住み着いていた。彼らは、外から遊びにきた珍しい来訪者に興味を示し、ぞろぞろと志郎とチエの元に集まり始めた。
「ねえ、チエ。この子、熊?」
「姫熊じゃあ。気立ての優しい、おっとりした物の怪だぞぉ」
「へぇー。ヒメグマ、っていうんだ」
「んだ。指先から甘い蜜が滲み出とるから、ひっきりなしに嘗めとるんじゃあ」
志郎の足元に擦り寄ってきたのは、まだ子供の小さなヒメグマだった。チエの口にした「指先をいつも嘗めている」という言葉の通り、しきりに指先を舌で拭っている。いかにも子供っぽい、愛嬌を感じさせる仕草だ。志郎がそっとヒメグマに触れてやると、益々志郎に興味を持ったのか、ヒメグマが小首を傾げて見せた。
「あははっ。この子、可愛いね」
「なんじゃとぉ。おらの方が可愛えぞぉ」
ヒメグマを「可愛い」と誉めそやす志郎の姿を見たチエが、自分の方が可愛い、と突っ張って見せた。ちょっとしたことで焼き餅を焼くチエがこれまた可愛らしく、志郎は笑ってチエを宥めてやった。
初めはこのように焼き餅を焼いていたチエであったが、ヒメグマに愛嬌を感じるのは変わらなかったようで、気がつく頃には結局ヒメグマを含めた三人でがやがやと遊んでいた。チエがヒメグマを抱きしめると、ふわふわした柔毛が頬に触れる。縫いぐるみか人形かと思うほどの肌触りであった。
小一時間ほどヒメグマと共に遊び、少しばかり疲れを覚え始めた頃、見計らったように都合良く昼時と相成った。適当な草むらに腰を下ろし、志郎とチエが昼飯の準備をする。それぞれ食べるものを取り出した二人の顔を、ヒメグマがじーっと覗き込んだ。
「ヒメグマ、どうしたの?」
「お前も腹減ったのかえ?」
ヒメグマが頷く。
「そうかそうかぁ。なら、おらの木の実を一つやるぞぉ」
「それなら、ぼくのおにぎりも少し分けたげるよ」
志郎から半分に割った握り飯を、チエから焼いた木の実をそれぞれ分けてもらい、ヒメグマが腕の中にそれらを抱き込んだ。くんくんと匂いを嗅いだあと、ヒメグマはそれらをぺろりと平らげてしまった。喜びの表情を見せるヒメグマ。お気に召したようだ。
昼食を終え、志郎とチエがヒメグマを交えて遊んでいたときのことだった。不意に、志郎が何者かの視線を感じ、さっと後ろを振り向く。
「誰かいるの?」
振り返った直後は、そこに誰の姿も認めることができなかった。だが、見つめたまま暫く待ち続けていると、不意にその正体が露になった。
ちらり。樹の影から半分ほど顔を出し、こちらを覗き込む小さな物の怪。志郎はその容貌と習性から、それがチラーミィであることをすぐに把握した。志郎と視線が交錯すると、チラーミィは何某か言いたげな目で志郎を凝視し始めた。
志郎は山勘を頼りに、チラーミィに呼び掛けてみた。
「一緒に遊ぶ?」
「!」
顔だけでなく全身を現したチラーミィの様子を見た志郎は、己の勘が間違っていなかったことを悟るのだった。
このような調子で、志郎とチエを囲む山の物の怪たちの数は徐々に数を増してゆき──
「小さい体の割に、すごく重いね」
「権兵衛は大食らいじゃからなぁ。おらでも両手を使わんと持ち上げられんぞぉ」
「それって、チエなら両手で持ち上げられる、ってことだよね……」
食べ物を探していたゴンベに、
「夏の間は、背中が新緑の色になるんだ」
「んだ。だから、おらは『色鹿』って呼んどるんじゃあ」
「季節で変わるから、『四季鹿』とも言えるね」
辺りを散歩していたシキジカ、
「どこからが尻尾なのか分からないって言われてるけど、ぼくは足の下からだと思うよ」
「いんやぁ、この紋様の辺りからに決まっとる。おらはおっ母にそう聞いたぞぉ」
「難しいね。どっちが正しいんだろう?」
ひょろ長い巣穴からひょっこり顔を出したオオタチ、
「どっちも、悪くはないんだけどなぁ……」
「こぉら、おらはそんな間抜け面はしとらんぞぉ。志郎も尻尾なんざ生やしてねぇ」
「メタモンもゾロアも、あと一歩ってとこかな」
変身合戦をしていたメタモンとゾロア──などなど。
代わる代わる訪れる物の怪たちと思う存分戯れ、志郎とチエは心ゆくまで遊んだ。物の怪たちも皆、志郎やチエと遊べたことで満足しているように見受けられた。
やれ遊べ、それ遊べ、陽の元に集う童たちよ。今の時間は今しか得られぬ。悔いを残さず思い出残せ。それがお前たちの成すべきこと也。
嗚呼、仲善きことは美しきこと哉。
時が経つのは早いもので、皆が参加したかくれんぼで最後まで隠れていたカクレオンが見つかる頃には、既に日が傾きかけていた。
「ち、チエ……危なく、ないの……?」
「志郎、怖がらんでも大丈夫じゃあ。姫熊と遊んでやってくれてありがとう、って言っとるからなぁ」
「そ、そうなんだ……ぼく、ちょっとびっくりしたよ」
娘のヒメグマを迎えにきたリングマ母さんが、遊び相手になってくれていた志郎とチエにお礼の言葉を──遺憾ながら、志郎には唸り声にしか聞こえなかったものの──述べた。なりは結構な強面だが、気のいい性格のようだ。
足元に駆け寄ってきたヒメグマを、リングマが大きな大きな手で撫でてやる。ヒメグマは母親の足に頬擦りして、感触をしきりに確かめている。ヒメグマの安心しきった表情が、母親の存在の大きさを物語っている。
手を振って二人の元から去っていくヒメグマを見送ると、丘の上には志郎とチエの二人だけが残された。
「行っちゃったね」
「んだ。姫熊、おっ母のこと好きなんだなぁ」
「お母さんのリングマの方も、ヒメグマを大事に思ってるみたいだしね」
丘の天辺に聳え立つ一本の大樹。その大樹の下で、志郎とチエが共に座り込んだ。日は少しずつ傾き、太陽と月が交代する準備を進めている様子が窺える。
青から赤へ移り変わる夏空を見上げ、チエが、おもむろに呟く。
「志郎」
「どうしたの? チエ」
「志郎も、おらと一緒で、おっ母がいねぇんだよな」
「……うん。ぼくも、チエと同じだよ。お母さんがいないのはね」
ヒメグマとリングマの親子。その風景を見たチエも志郎も、それぞれ胸に去来する思いがあった。どちらも母がおらず、志郎は父と共に、チエは一人で暮らしている。『母』を見て複雑な心持ちになるのは、至極当然のことであった。
チエは雨合羽の佇まいを直し、少し様態を改めてから、志郎に語りかけた。
「おらの名前は、おっ母の名前をとって、おっ母がくれたものじゃあ」
「名付け親、お母さんなんだ」
「んだ。あれこれ考えて、一番いい名前をつけた、って話してくれたぞぉ」
「ぼくも、いい名前だと思う。だって、チエは『チエ』以外考えられないからね」
「ははっ、志郎も言ってくれるなぁ」
なんでもはっきり言うチエのおかげだよ、と付け加える志郎に、チエは口元を綻ばせて応じた。
「おっ母はおらを生んでくれて、チエ、っていう名前までくれた」
「だから、おっ母はおらの大切な人じゃあ」
「もしかしたら、おらと志郎を引き合わせてくれたのも──おっ母かも知れねぇ」
訥々と大切な母への思いを語るチエから、志郎は一時も目線を外すことができなかった。
「けど、そのおっ母は、今はおらの側にはおらん」
「そう思うと、おらは寂しいんじゃあ」
「誰かと一緒に居たいと思っておっても、いつかまた、おらは一人になってしまう……そんな風に考えてしまうんじゃあ」
チエは、物の怪たちが側にいるとはいえ、普段は一人で暮らしている。誰と接するわけでもなく、一人で起床し、飯を食い、体を洗い、そして眠りに着いている。チエが五つの頃に母親がいなくなったというから、チエは少なくとも三年近く、こうやって一人の生活を続けている。
母親がいなくなったのは、チエにとって突然のことだった。一人きりで辛いことも山ほどあったに違いない。一人になってしまうことを恐れるのは、当たり前のことだった。
物憂げな表情を見せたチエに、志郎は。
「チエ」
「志郎……?」
すっくと力強く立ち上がると、チエを上から見下ろす形をとる。チエの志郎を見上げる視線に、志郎は、決然とした調子で続けた。
「ぼくが、チエの側にいるよ」
「お母さんの代わりには、ぼくはなれない。でも、ぼくが『ぼく』としてチエの側にいることはできる」
「ぼくがいれば、チエは一人じゃない。そうだよね」
惚けたように自分を見つめるチエに、大きく深呼吸をしてから、志郎は己の思いのたけをぶつけた。
「チエ──」
「ぼくは、チエのことが好きだ」
「ずっと、チエの側に居たい。ぼくは、そう思ってる」
「もう一度言う。ぼくは……チエのことが、好きだ」
そっとチエの前に手を差し出す。チエは志郎の顔と掌とを交互に代わる代わる見つめ、潤んだ瞳を向けていた。喜びと戸惑いを隠しきれない様子のチエに、志郎は優しい目を向けた。
「だめかな、チエ……」
「志郎……」
チエが志郎の手を恐々取ると、志郎はそっとチエを立ち上がらせた。照れ臭そうに鼻をかく志郎に、チエが静かに告げる。
「違うぞぉ、志郎」
「違うって何が?」
「こういうときは、『いいよね、チエ』って言うもんだぁ」
「ぼくには、もうちょっと押しの強さが要りそうだね」
志郎に導かれるまま、チエが志郎の胸へと引き寄せられる。志郎が雨合羽の上からチエを抱きしめると、チエは志郎の胸の中に華奢な身を委ねた。
「おらもだぞぉ、志郎。おらも、志郎のことが好きじゃあ」
「ハッキリ言われると……やっぱり、ちょっと恥ずかしいね」
二人は、各々の思いを伝え合った。志郎はチエが好き、チエは志郎が好き。他に何を足すわけでも、ここから何かを引くわけでもない。ただ、お互いがお互いを好いている。それだけで十分ではないか。一人だったものが二人になるのだ、何も悪いことはあるまい。
「志郎、知っとるかえ? 小指に絡まる赤い糸の話じゃあ」
「知ってるよ。男の人と女の人の小指には赤い糸が絡まってて、運命の人の小指に繋がってる。そんな話だよね?」
「そうじゃあ。赤い糸を手繰り寄せれば、一生連れ合う人に会える。おっ母に聞いた話だぁ」
「チエの赤い糸は、ぼくの小指に繋がってる?」
「きっと、そうに違いねぇ。おらは、志郎と繋がってるはずじゃあ」
水柱をぶち上げ、不思議な力で服を乾かし、志郎を投げ飛ばし、ヘラクロスと力比べをし、物の怪たちと平然と言葉を交わす──チエはやること成すことすべてが常識を外れていたが、その胸中にあるものは、ごくごくありふれた夢見る少女の願いに他ならなかった。赤い糸の話など、陳腐ここに極まれりといった具合だ。
破天荒で型破りなチエにしてみるとちぐはぐもいいところだが、だからこそチエにはこの上なく合っている。志郎はそのように思った。チエの特徴は何か。それは言うまでもなく、ちぐはぐなことだ。ありきたりな乙女心を宿す、雨合羽の奇天烈な娘。いかにも、チエそのものではないか。
「おらの親指はおっ母と繋がってて、小指は志郎と繋がっとる」
「いつも指切りするのも、小指だからね」
「そっか……分かったぞぉ、志郎。おらはもう、一人じゃないんだなぁ」
「うん。いつだって、側にぼくがいるよ」
「うん、うん……おら、うれしいぞぉ、うれしいぞぉ……」
「チエ……」
「志郎、志郎……!」
自分はもう独りぼっちではない。そのことに気づいたチエが、志郎の胸の中で落涙した。悲しい涙ではなく、嬉しい涙だ。涙を湛え零す瞳は、しかし同時に太陽のごとく輝き、笑っていた。
ぽつり、ぽつり。志郎の頬に、冷たい雫が落ちてくる。空を見上げると、夕陽が空を爛々と赤く染めているにもかかわらず、雨が降り出してきていた。先ほどまで一緒に遊んでいたゾロアではないが、まさしく『狐の嫁入り』と呼ぶべき事象だった。
「髪が雨に濡れちゃだめだね。ほら、チエ。これ、あげるよ」
「麦わら帽子……これ、志郎の大切なもんじゃろ?」
「大切なものだから、チエにあげたいんだ」
志郎は被っていた麦藁帽子を、雨に濡れかかっているチエに被せてやった。チエが麦藁帽子に触れて、その感触を確かめる。志郎の言った「大切なものだから、チエにあげたい」という言葉が、チエの心にじん、と沁み渡っていく。
「今日は、麦わら帽子だけど……」
「うん……」
「ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ」
「志郎……」
顔を上げた先に、志郎の顔が見える。指輪を渡したい……子供のチエとて、何を意味する言葉かは分かっていた。それはつまり、志郎がチエと男女の契りを結びたいと言っているに等しい。
「志郎……おらと、約束、してくれるかえ?」
「いいよ。じゃあ、いつもの、しようか」
「うん……」
チエ曰く、赤い糸が結ばれ合っているという二人の小指が絡み合い、お互いに固く引っ掛けるような形を取る。離すまいと力を込め、相手の存在を確かに認識した後。
「……せーのっ」
どちらともなく声を上げ――
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
徐々に沈み行く陽を背に、二人が、これからも共にあることを誓い合った。
「決めたぞぉ。おらとびっきりのべっぴんさんになって、志郎のお嫁さんになるんじゃあ」
「今だって、チエは可愛いと思うよ」
「いやぁ、可愛いだけじゃ足らん。おらにも『大人の魅力』が要るんじゃあ」
「無理に大人っぽくならなくても、チエは、チエのままでいいよ。ぼくが好きなのは、チエだからね」
二人の絆を断ち切れるものなど、何もありはしない。これからもずっと、二人で一緒にいられる。志郎もチエも、そう信じていた。
そう、信じていた。
義孝の家に戻った志郎は、日が落ちて辺りがすっかり暗くなっているにも関わらず、家から何の物音もしないことに気が付いた。義孝が飯の支度をする音も、康夫が観ているテレビの音も、そして健治の喚き散らす声も聞こえない。
あるのはただ、不気味で寒気がするほどの静寂のみだった。
(お父さんとおじいちゃん、どうしたんだろう)
家全体を包み込む異様な雰囲気に気圧されながら、志郎が家の硝子戸を開けた。
「戻ってきよったか」
「……!」
刹那、灯りも付いていない家の奥、台所の辺りから、低く唸るような声が響いてきた。志郎が身を竦め、その場に立ち止まって動けなくなる。一体誰だ、誰が声を掛けてきた。いや、この声は。この声は聞き覚えがある。聞き覚えはあるが、何故このようなことになっているのかはまったく分からない。
ぎし、ぎしと音を立てながら、闇から這い出てきた声の主。それは……。
「忌々しい餓鬼め。僕が居ないと思って、のこのこ帰ってきたか」
鬼か悪魔かと見紛うほどに目を血走らせ、明らかに正気を失ったとしか思えぬ面構えの――健治であった。歯を食いしばりおぞましい唸り声を上げながら、志郎に向かってひたひたと歩み寄ってくる。
訳が分からなかった。一体何故、健治が殺意をむき出しにして自分に向かってくるのか。そもそも、健治は何に腹を立てているのか。志郎には、一切の心当たりがなかった。だからこそ、余計に健治のことが恐ろしくてならなかった。
「お前の、お前のせいで、お前のせいで」
「何もかも何もかも、お前のせいで」
「お前の、お前の、お前のせいでッ」
がたがたと拳を震わせる健治を視界に捕らえたまま、志郎は一切の身動きが取れなくなった。恐怖の余り体が震えて、歯がかたかた鳴っている。助けを呼ぼうとしても、掠れた声が上がるばかりで、何の言葉にもならなかった。
そして――次の瞬間。
「僕が、僕が成敗してくれるッ。姉さんの敵討ちだッ」
「――!!」
志郎は、健治の持っていた工具のような鈍器で頭を強打され、無抵抗のまま玄関から二メートルも吹き飛ばされた。受身を取ることも叶わず玄関の敷石に背中を強かに打ちつけ、胃の腑から熱い液体がこみ上げてきた。頭からは血がだらだらと流れ落ち、視界を赤く染めてゆく。
朦朧とし失われてゆく意識の中で、志郎は。
「この――」
「この、色狂いの狸の愚息めッ。何故、お前が、のうのうと、生きているッ」
――志郎は、目の前の光景を呆然と眺めていた。
「お前を産んだせいで、姉さんは気が触れて家を出て行って、獣と交わっただの、物の怪の子を産んだだの、ありもしない馬鹿げた下らない誹謗を受けることになったんだッ。お前のせいでッ」
「三年前に僕が姉さんを神社で見つけたときは、どうしようもない狐憑きになっていたッ。日照りを止めるだの、娘を助けるだの、水神の処へ帰るだの、皆目意味の取れぬとち狂ったうわ言たわ言ばかり吐いて、九尾の狐の亡骸の前で倒れていたッ」
「何が『めぐみの雨』だッ。村の連中は皆腐っている。姉さんの名前を、これ以上汚すなッ」
健治が、何かを喚き散らしている。
「挙句ッ……姉さんは、雨が降れば泣くだけの、廃人になったッ。僕の呼びかけにも、もう応えないんだッ」
「剛三が、あの狸が、姉さんにお前を孕ませたせいで、姉さんは狂った、気が触れた、心が壊れてしまったッ」
「兄さんは何故お前を引き取ったんだ。僕には分からないぞ。お前のせいで姉さんがああなってしまったというのに、兄さんはッ」
風景が二重、三重になって見える。健治の言葉をうまく処理できない。何か言っているのだが……その何かが、志郎には分からない。
この人は……何を言っているのだろうか。
「あの鬼畜は、このような醜悪な出来事を全部無かった事にしようとして、ここを水溜りにしようなどとほざいているッ」
「だから、僕が、僕が――あいつを、あいつを地獄に送ってやるんだッ」
「僕の決意は絶対だッ。何にも動かされないぞ、絶対の決意だッ」
口にまで血が流れ、鉄の味が口内に広がりかけた時。
「健治っ! 何をしているんだ! 志郎に何をした!!」
どこからともなく、父が、康夫が走ってくるのが見えた。志郎は声を出そうとしたが、体が受けた衝撃は想像以上に大きく、体をわずかに起こすのが精一杯だった。
「志郎を殴って何になる! 恵は志郎を己の意思で産んだんだぞ! 生まれてくる子に罪は無いと、そう言って!!」
「今更なんだッ。僕の気も知らないで、兄さんはどうしてこいつの肩を持つんだッ」
「志郎は、俺が恵から託された子だからだ! 俺が志郎を守ることは、恵から頼まれたことなんだ!!」
「五月蝿いッ。こいつのせいで、姉さんはおかしくなって出て行ったんだッ。この餓鬼の罪を、僕が裁いてやるッ」
「恵は気が触れたわけじゃない! 身を清めたいと、そう言って静かに出て行った! それだけのことだ!!」
「兄さんに僕の気持ちが分かるかッ。同じ部屋で共に過ごした姉さんが、あのようなおぞましい目に遭わされたという現実を突きつけられた、この僕の気持ちがッ」
朦朧とした目で、志郎が、父と健治の言い争いを濁った瞳に映し出していると。
「志郎くん! しっかりしてぇっ」
「叔母さん、志郎を頼む! すぐに医者に診せてやってくれ!」
「離せッ。僕が、僕があの餓鬼をッ、あの悪魔の子を血祭りに上げるんだぁッ」
登紀子の手が背中に回った感触を最後に――志郎の五感が、その機能を停止させた。
………
……
…
ふっ、と目を開くと、目の前の風景が幾分田舎じみてきたことに気が付いた。どうやら、山道も終わりに差し掛かってきたようだ。ごしごしと顔をこすり、ぼやけた視界を明快にする。幾度か繰り返しているうちに体も温まり、意識をはっきり取り戻した。列車の座席に腰掛け直し、大きく息をつく。
夢を見ていたようだった。懐かしく甘美で、そして切ない夢。夢は記憶をバラバラに切り刻み、無秩序な形で投影して出来上がるものと言われている。だが、先程まで見ていた夢は完璧に秩序だっていて、記憶していた光景がありのままそのまま出てきていた。少なくとも、起きた直後はそう感じていた。
そっと胸に触れると、固い箱の感触がした。
時計を見ると、寝入る直前に見た時刻から三十分ほど進んでいた。随分長い夢かと思ったが、実際に眠っていた時間は思っていたよりもかなり短かった。夢の中では時間の流れが曖昧になると言うが、まさしくその通りである。
車窓には水滴が張り付いていた。予報で崩れる恐れがあるとの情報は仕入れていたが、本当に雨降りになるとやはりいい気持ちはしない。傘を持ってきているから、雨に濡らされる心配はせずともよいが、何にしろ面倒であることには一切の変わりはない。
今も、まだ泣いているのだろうか。
雨が降ると、つい「涙雨」という言葉を思い浮かべる。涙を流していたときは、いつでも雨が降っていた。瞳と空が鎖で繋がれているのか、などと他愛ない空想が働く程度に、涙と雨は互いに連想し合う関係にあった。
それから列車に揺られること、およそ二十分。雨の衣をまとった車両が駅のプラットフォームに滑り込み、定位置より気持ち後ろで停止した。荷棚からリュックを下ろし、人影のまばらな車両から下りる。胸ポケットに入った切符は少し折れていたが、人に手渡すのだから問題はないだろう。
切符を駅員に手渡し、改札をくぐる。ほとんど間を置かずに、呼び掛ける声が飛んできた。
「志郎くん! こっちこっち!」
「大叔母さん、ご無沙汰です」
白いミニバンを駆る登紀子の方へ、志郎が駆けていった。
──墓地。
「康夫ちゃん、兄さん。志郎くんが来てくれたわよ」
二つ並んだ墓石を前にして、志郎が膝を折って屈み込んだ。そのまま目を閉じ、一心に手を合わせる。隣の登紀子が、志郎が雨に濡れないようにと、そっと傘を差してやっていた。
志郎は、今の状況に至るまでの経緯を──そのほとんどは、登紀子から聞かされたものだ──、静かに思い返した。
怒りで我を忘れた健治は、まず自宅に戻ってきた志郎を工具で殴り飛ばして重傷を負わせた。止めにかかった康夫と義隆を振り切り、納屋に置いてあった猟銃を取って返すと、康夫と義隆を銃撃して致命傷を負わせた。そして、その足で地主の山科剛三の家まで出向き、剛三を撃ち殺して本懐を遂げた。
満足したのだろう、健治は最後に己の頭蓋に銃口を押し当て引き金を引き、熟れた柘榴のように血肉を弾け散らせた。惨劇に自ら終止符を打ったのである。この一連の狼藉──いや、復讐劇と言うべきか──の過程で、剛三の妾が下半身を不具にされ、制止しようとした警官が足に銃撃を食らう事となった。
義隆は惨いことに即死であったが、康夫はまだ辛うじて息があり、駆け寄ってきた登紀子に「志郎を頼む」とだけ言い残して息絶えた。登紀子は血まみれの志郎を医者へ担ぎ込み、医者は応急処置を済ませた後、直ちに小金大学病院に志郎を搬送した。
結論を言えば、あの出来事で、志郎は額に一生消せぬ傷跡が残るほどの大怪我を負い、さらに慕っていた父と祖父を一挙に失ってしまった。病院で目覚めた後、志郎は登紀子から事の次第を聞かされ、衝撃のあまり三日ほど口が利けなくなった。志郎が泣いたのは、それより後、ようやく気持ちの整理が付いたあとのことだった。
身寄りをなくした志郎を不憫に思った登紀子が大叔父と共に小金へ引越し、志郎の面倒を見てやった。元々利発な志郎は大叔母・大叔父との生活にも直ちに馴染み、不自由することなく暮らすことができたが、心にできたわずかな闇は埋めようもなく、時折悪夢となって志郎を苛んだ。
志郎は幾度か「日和田へ行きたい」とせがんだ。父と祖父の事もあったが、それ以上に、心を結んだあの少女の姿が、志郎の脳裏に焼き付いて離れなかったのである。だが、登紀子は志郎に色よい返事をせず、その都度その都度有耶無耶になっていた。
そして、中学に上がる頃。志郎は、日和田がどうなってしまったかを、大筋で把握した。それ以降、志郎が日和田へ行かせてくれとせがむことはなくなった。頼んだところでどうにもならぬと悟ったためである。
やがて高校に上がる頃になると、志郎は小金を離れ、一人桔梗市の全寮制の高校へと進学した。それからはほとんど小金に帰ることもなく、一人での生活を続けた。
「大叔母さん、お墓の面倒を見てくれて、ありがとうございます」
「いいのよ。志郎くんは、私がここに入ってから、面倒をみてちょうだい」
「悪い冗談は、よしてくださいよ」
順当に大学の四年に上がった志郎は、関東地方で働き口を見つけ、あと半年もすれば上京するという境遇にあった。当分静都には戻らぬと聞いた登紀子が、志郎に墓参りをするよう勧め、それに応じた志郎が小金まで──正確には、小金と日和田の間にある所まで──帰って来たというところである。
「あれから、もう十年も経つんだねえ」
「時間が経つのは、早いものですね」
「志郎くんも立派になって、康夫ちゃんも喜んでるわ、きっと」
「そうだと、いいんですが……」
志郎は、登紀子から「健治ちゃんは急に気が変になって、あんなことをしでかした」とだけ聞かされ、背景に何があったのかということについて、詳しい話を聞いていない。だが、意識を失う直前、健治が志郎に投げつけていた言葉の数々をつなぎ合わせれば、何が健治をあのような凶行に走らせたのかは、大筋で理解できた。
そうであるから、志郎は健治をそれほど恨んではいなかった。無理もない、同情に値する、とさえ思った。引いては──自分の責任であると、そのように考えてすらいた。
自分がいなければ、健治は狂わずに済んだ。そうとも言えたのではないだろうか。志郎は、そんな思いを抱いた。抜き難い罪悪感が、志郎を度々責め苛んだ。
「……僕は、何故ここにいるんだろう」
石の下で眠る康夫と義隆は、志郎の問いになんと答えただろうか。
それを知る術を、志郎は持たなかった。
墓参りを終えたあとのこと、志郎が登紀子に声を掛けた。
「すみません、大叔母さん。先に帰っていてもらえませんか」
「えっ? 志郎くん、どうしたの?」
「ちょっと、行きたいところがあるんです。夜までには、家に戻りますから」
登紀子に二言三言言付け、一応の了解を取ると、志郎は彼女と別れて一人歩き始める。駅をすり抜け、細い路地へ入る。目指す先は、それほど遠くはないはずだ。小康状態になった雨の様子を見て、志郎が傘を折りたたむ。
道はよく整備されていた。かつてはもっと険しい道だったと思うが、今は歩道がつき、コンクリートで塗り固められ、勾配も緩くなっている。自分自身があれから成長した、という点も加えていいだろう。殺風景な道だ、道草を食うこともない。
あれから随分といろいろなものが変わってしまった。人、環境、住居、精神。何一つとして変わらぬものはない。だから、あの少女もきっと大きく変わってしまっただろう。別の男と共にいたとて不思議でも何でもない。むしろ、そうであってほしかった。そうであれば、あの少女は新しい生き方を見つけたと言える筈だからだ。
日和田へは何度も行こうとした。だが、それが叶うことはなかった。一日たりとて忘れたことなどなかったが、足を運ぶことはできなかった。そうしている間に、こんなにも時間が過ぎてしまった。どう言い訳しても繕えぬほどの、長すぎる時間だ。
もうここには居まい。居たとて、受け入れてくれることなどあるまい。それでも、どれだけ変わってしまおうとも、約束は、約束だけは変わらぬと言い聞かせる。胸の中の箱は、過去の残滓にすがる惨めな自分の投影であると共に、最後の一線だけは絶対に踏みとどまって見せるという不屈の念の現れでもあった。
せめて約束を果たし、けじめをつけたい。志郎は、ただそれだけを胸に秘めて歩き続けた。
無心で歩き続けていたからだろうか、一時間ほどの行程は、ほどなく終わりを告げた。そこからさらに数歩歩み出て、志郎は眼下に広がる風景を、その瞳に映し出した。
「ああ、これが──」
「これが、『日和田ダム』か……」
並々と水を湛え、静都南部、特に小金市の貴重な水源となっているダム、それが日和田ダムであった。
かつてここに小さな村落があったが、高齢化と過疎化が深刻化し、村が消えるのは時間の問題であった。そこで、村の有力者の手によりダム工事が誘致された。新しいダムの建造と引き換えに、多額の立ち退き料を支払ってもらう、という構図を生み出したわけである。
多くの村民は粛々と決定に従い、続々と村を離れていったが、一人だけこの計画に反対する者がいた。家族の者が説得に当たったがどうしても応じず、決して意見を曲げなかった。挙句の果てに、計画を力づくで止めようと家族と村の有力者を殺害、最後は自殺するという最悪の結末を迎えた。
皮肉な事に、これで反対するものが誰一人としていなくなったために、ダムの建造は駆け足で進められた。家が取り壊され、周辺施設が整備され、水源が確保され、そして──
間もなく──日和田村は、地図上から姿を消した。
かつて存在した日和田村はもはやどこにも存在せず、知る者すら少なくなってきているのが実状である。今やその「日和田」という名前は、村を水底に沈めた張本人であるはずのこのダムに冠され、まるで何事もなかったような様子で今日に至っている。
「そうか、もう、日和田はないんだ」
改めて呟くと、空虚さがより一層強く感じられた。
中学の時分には既に工事があらかた終わっており、既に日和田は影も形もなかったという。登紀子が志郎を日和田へ連れて行こうとしなかったのは、そもそも日和田がその形を失っていたためであった。志郎はそのことを知り、登紀子にせがむことを止めた。
志郎の眼下には、ただ水ばかりが広がっていた。ここから見えた家も、神社も、小さな川面、何もかもが水に飲み込まれてしまった。取り返しなど、付きようもない。
呆然と水溜まりを眺める。これは現実の、現世の出来事なのだろうか。自分はまだ電車に乗っていて、長い夢の続きを見ているのではないか。いや、そうではない。義隆の家で、額に汗を浮かべながら畳で横になって、蒸し暑さがもたらす不快な夢を見ているだけではないのか。そうであれば──そうであれば、目覚めれば、またあの日々が戻ってくる。
目覚めたかった。これは夢であり、現実はそれとは程遠いものであると、そう思いたかった。分かっていても、喪失を丸ごと受け容れることなどできなかった。失ったものがあまりに大きすぎる。もう、何も残っていない。
頭が痛くなった。現実と願望と空想と記憶とがぐちゃぐちゃに入り混じり、まともにものを考えられない。頭痛と耳鳴りがしきりに起こる。頭が痛い、頭が痛い、頭が──
──頭が、痛い……?
「……!」
まさか。そんな、まさか。
体を捻る。振り返る。目を向ける。目を見開く。
目の前の光景、それは──
「──チエ……!」
──チエが、すぐ側に立っていた。
「チエ……チエなの!?」
「志郎……かえ?」
チエは、あまりにも、チエのままであった。
黄色い雨合羽に黒いおかっぱ髪。そして、あの日手渡した麦藁帽子を、頭の上に載せている。だが、それらより、それ以上に、チエが、チエであった理由があった。
「チエ……」
チエは……あの日から、まったく成長した跡がなかった。
あの、幼い時分に見たままのチエが、志郎の目の前に立っている。思わず、志郎は自分の姿を確認した。手で触れ目で見て、志郎は自分が成長している事を改めて認識した。その上でチエを見ると、あまりに「変わっていない」チエの様子に、少なからず戸惑いを覚えた。
志郎は十年間で背丈も伸び、体つきもがっしりし、声色も幾分低くなった。だが、チエは何も変わっていない。背丈も体つきも声色も、何一つとして変わったところが見受けられない。チエの姿は、志郎が記憶の中に止めていた「チエ」そのものであったが、だからこそ、志郎は眼前のチエが異様に見えてならなかった。
まるで、チエが時の流れから取り残されてしまったような──そのように感じられた。
「志郎……志郎、なんじゃな……」
「チエ……どうして……」
チエに、変わったところがあるとすれば。身に付けている雨合羽が、酷く痛んでみすぼらしくなっていること。被っている麦藁帽子が、薄汚れて方々に穴が開いていること。この二点だった。つまるところチエ本人ではなく、チエが身に付けているものは、正しく時間が経過していると言えた。
言葉を失う志郎に、チエが語りかける。
「志郎……おら、もう一遍……志郎に会えると思っとらんかった」
「本当に、志郎なのかえ……?」
弱々しい声。志郎は消え入りそうなチエの声を懸命に聞き取りながら、何度も首を縦に振って応じた。
「そうだよ、チエ。僕は、僕は志郎だよ」
「背も伸びて、顔つきも変わって、声も低くなったけど……僕は、志郎だ」
志郎の頬に、冷たい雫が一滴、ぽたりと零れ落ちてきた。落ち着き掛けていた空模様が、再び崩れ出していた。
チエを前にした志郎が、深々と頭を下げる。
「ごめん……チエ、本当にごめん……」
「僕は、チエの側にいるって約束したのに……! 僕は、よりにもよって、その日のうちに、約束を破った!」
「何もかも投げ捨てれば、すぐにでもここに来られたはずなのに! 僕には、それができなかった……!」
「側にいられなくて、ごめん……本当に、ごめん……!」
何度も謝罪する志郎を見つめながら、チエが涙を浮かべて顔を歪めた。泣きたいのを懸命に堪えて、何とか取り繕おうとしているのが分かる顔つきだった。鼻をすすり上げ、チエが涙を拭う。
「謝らんでくれえ、志郎」
「チエっ……!」
「おら、志郎にもう一遍会えただけで、もうええんじゃあ」
胸が熱くなった。これは夢ではないのか。あの日と変わらぬ様子のチエが、今自分の目の前にいる。そしてそのチエは、約束を破った、馬鹿で愚かな自分の言葉を受け容れてくれた。本当に夢ではないのか。これが現実だと言うのか。信じられない。本当に信じられない。
ならば。ならば今こそ、あの時の約束を果たすべきではないか。今ここで動かなくてどうする! これが、自分に与えられた最初で最後の贖罪の機会だ。多くの人を不仕合わせにしてきた自分が、大切な人を、チエを仕合せにしてやれる二度とない機会ではないのか!
……今しか、あるまい。
志郎は、震える手で胸ポケットに手を差し込み──そこから、小さな箱を取り出した。
「チエ、受け取ってほしいものがあるんだ」
一人暮らしの間、自分に使う金を切り詰め切り詰め、やっとの思いで買うことができたもの。随分高くついたが、今となってはその苦労さえも美しい思い出にしか感じられぬ。
志郎が箱の包を解いて、閉じていた蓋を開ける。
「見てよ、ほら」
「志郎……」
箱の中で鎮座していたもの。それは……
「指輪、だよ。婚約指輪……」
「僕が、チエに渡したいって言った……」
「チエに渡すって、約束した……婚約指輪だ」
小さな宝石のついた、婚約指輪だった。
(ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ)
二人の脳裏に、同時に昔の光景が蘇った。幼い日の他愛ない約束、けれども志郎にとっては、それがただ一つの「生きる支え」だった。この約束は、この約束だけは違えてはならぬ。絶対に破りはしない。必ず守って見せる──どんな辛い時もそのように言い聞かせ、歯を食いしばって生きてきた。
チエに今一度合間見えることができた今こそ、この約束を果たすときに他ならないと、志郎は信じて疑わなかった。
「志郎……指輪っ……!」
震える声で、チエが指輪を見つめながら言う。志郎は優しい口調で、チエに促した。
「受け取って、チエ。これが、僕からチエに伝えたい、思いだから」
その言葉を聞き取った、チエは──。
「志郎……」
──チエは。
「……だめじゃあ。おら、受け取れねぇ……」
──志郎の前に両手を差し出しながら、チエは……志郎の申し出に、悲しげに首を横に振って答えた。
「ち、チエ……! その、手……」
チエが志郎の指輪を受け取らなかったのには、理由があった。一目見ただけで、志郎はその理由を把握し、理解し、そして愕然とした。
「手に……水かきが、張ってる……!?」
チエは何も変わっていない、そう考えていた志郎だったが、十年という時間は、やはりチエを変えてしまっていた。チエの指の間には、カエルか亀のような水かきがピンと張っていた。指先を広げると、指と指の間に幕のような水かきができているのが明確に分かった。
「分かるかえ? おらの手では──指輪は、はめられねぇだ……」
その通り、チエの言う通りだ。こんな手では……指輪など、はめられまい。
あまりのことに事態が飲み込めないとばかりに、口元に手を当てる志郎を見やりながら、チエが、何が起きたのかを話し始めた。
「おら、おらのこと、普通の人の子だと思っとった」
「志郎と同じ、人の子だとばかり思っとった」
「でも、違ったんじゃあ。おらは、おらは──」
チエが口にしたのは、俄には信じがたい言葉だった。
「おらは──人と、物の怪の、相の子じゃあ」
人と、物の怪の、相の子。チエは、自分が人間とポケモンの間に生まれた子供だと、そのように言った。普通の人の子ではない、あってはならぬ禁忌の子だと──静かに口にした。
かつてチエが見せた様々な力。それらはすべて、物の怪、つまりポケモンが持つ力を使ったものであったという。説明できぬ超常現象も、人並み外れた馬鹿力も、魚のように水の中を舞う様子も、すべてはそこに行き着く。
チエは、人の子ではなかった。
「志郎がおらんようになったあと、おらの躰が、段々変わってきて……」
「手に、水かきが生えよった」
水かきの生えた手を悲しげに眺めながら、チエが呟く。
「その後、頭が敵わんくらい痛くなって……」
「こんなもんが、額に浮かんできよった」
麦藁帽子をずらし、志郎に額を見せる。チエの額には、紅い宝石のような小さな突起が表れていた。不気味な光を放つそれは、かつてチエと共に水底で見たあの「紅い光」と、寸分違わぬものであった。
あたかも、チエが人ならぬ存在であると、力強く主張するかのごとく。
「それから、最後に」
チエが両手を志郎に見せ、魂の抜けた瞳で言葉を繰る。
「おっ母と約束した、おらの親指と」
「志郎と約束した、おらの小指とが」
力なくつぶやき続ける、チエの手には。
「ぽろりと、零れよった」
薬指・中指・人差し指の、三本の指しか生えていなかった。
母親と約束を交わしたという親指も、志郎と幾度となく約束を交わした小指も、チエの手には残っていなかった。右手左手、その両方から、親指と小指が、抜け落ちていた。
「そんな……指が……」
影も形も、そこにはなかった。
「おら、志郎と赤い糸で結ばれとるって……そう言ったはずじゃあ」
「運命の人、おらの運命の人が、志郎じゃって」
「でも……その、糸が結ばれた小指が、おらから無くなっちまった」
「おらはもう、志郎と一緒にいることはできねぇだ……」
志郎が無意識のうちにチエの手を取る。チエの手の形は、すっかり変わってしまっていた。指切りをした小指は、今はもう痕跡すら残っていない。水かきの生えた武骨な指が三本、そこに残っているだけだった。
赤い糸は、解けて、消えてしまった。
「どうしてだろうなぁ」
「おら、何も嘘もついてないし、悪いこともした覚えがねぇのに」
「『指切り』、されちまった」
指切り・拳万・嘘吐いたら・針千本・飲ます。嘘を吐くと、これだけの罰が待っているということを意味する童歌。その筆頭には「指切り」が来ている。嘘を吐く者の指は、切り落とされてしまうと、この童歌は明示している。
では一体、チエが何の嘘を吐いたというのか。約束を破ったのは、自分ではないか。何故、チエがこんな目に遭わなければならないのか。
どうして、チエが。
「おら、分かったんだ」
「おらは人と物の怪の相の子で……人にも、物の怪にもなれんかった」
「じゃから、おらはずっと子供のままで、大人にも、物の怪にもなれん。今までも、これからも、永劫、ずっと」
人としても物の怪としても中途半端で、そのどちらにもなれなかった。死ぬときが来るまで、この姿のまま変わることなく、人としても物の怪としても生きられぬ、ちぐはぐな存在であり続けなければならない。チエは、自分の運命を誰よりも正しく理解していた。
チエは、永遠にチエのままで、チエ以外にはなれなかった。
「チエ……」
「泣かんどくれぇ、志郎。皆、おらが中途半端じゃったからいかんかったんじゃあ」
「でも……でも、チエは! チエはっ!!」
「志郎、仕方ないんじゃあ。おらみたいな人はいねぇし、おらみたいな物の怪もいねぇ」
人にも、物の怪にもなれない。それが、チエのさだめだった。
「おらはもう、おっ母とも志郎とも、約束を破っちまっただぁ」
「そんなの……そんなの関係ないよ! チエ、僕と一緒に……!」
「だめじゃあ、志郎。おら、もう決めたんだぁ。一人で生きて、一人で土に還る……そう決めたんじゃあ」
「どうしても、一緒にはいられないの……?」
「おらがおったら、志郎が人として生きられんようになる。志郎は人の子じゃあ。人として、生きなきゃいけねぇ」
チエの言葉を、志郎はただ受け容れるしかなかった。チエが、志郎とともに歩むことはできないと……そう言うのであれば、志郎はチエの思いを飲むしか、道は残されていなかった。
「おらは志郎が今来てくれて、良かったと思っとる」
「志郎が……変わっていくおらを見たら、志郎は、きっと悲しむじゃろうから」
「おら、志郎の悲しむ顔は……見たくないんじゃあ」
志郎のいない間、チエはあらゆる悲しみを背負い、それでもなお、「志郎の悲しむ顔を見ずに済んでよかった」と言っている。いなくなった志郎を恨むこともできたろうに、チエは、ただ一心に、志郎の幸せのみを考えていた。
「ありがとなぁ、志郎。おら……志郎に会えてよかった。志郎のおかげで、『人』の気持ちってもんが理解できた」
「チエ……」
「お別れじゃあ、志郎。いつまでもここにいたら、風邪引いちまうぞぉ。早く、『人』のところへ帰ったほうがええ」
目に涙をいっぱいに浮かべながら、チエが、志郎から離れて、森の奥へと歩んでいく。
「志郎……」
最後に一度だけ振り返って、チエが──。
「おらのことは……早く、忘れて……」
「幸せに……なってくれぇ……」
「志郎が、幸せなら……」
「おらは、それでええんじゃあ……」
そう言い残して、森の奥深くへと、消えていった。
──河童の伝承には、続きがあった。
河童は大人になると「水神様」と呼ばれ、池や沼、川を守る守護神となる。大人になった河童は、もはや河童ではなく「水神様」なのである。
だが──「水神様」になれなかった河童は、どうか。「水神様」になれなかった河童は、ずっと「河童」のままで、永遠に子供の姿のまま、朽ち果てる時を待つという。
河童。河の童。河と共にある童。その言葉を当て嵌めるのなら、チエはまさしく河童であった。いつまでも大人になれぬまま、子供の時の姿を留め、童のまま、死んでゆく。
──チエは、河童であった。
「チエ……」
後に残されたのは、ただ、志郎一人だけ。もうどこを見回しても、チエの姿は無い。黄色い雨合羽も、麦藁帽子も、黒いおかっぱ髪も、欠片もその姿を認めることはできなかった。
チエは、志郎の前から、姿を消した。
その手に、渡すことのできなかった指輪が入った箱を握り締めたまま、志郎は両膝と両手を付いて、ただただ涙を流しつづけた。
さめざめと泣く志郎の脳裏には、チエと過ごした掛け替えのない日々と、悲しさを押し殺して一人森へと消えていったチエの姿とが、激しく入り混じって幾度となく蘇り、その度に、志郎は涙をこぼした。
チエは、自分に幸せになってくれと言った。志郎が幸せであれば、自分はそれで良いと。自分のことなど早く忘れて、もっと幸せな時間を過ごして欲しいと。
その幸せな場所に、自分は居なくて構わない──チエは、そう言った。
「僕が、一番幸せだったのは……チエ。君と、君と一緒にいたときだったのに……!」
あの日々は、もう帰ってこない。どれほど願っても、叫んでも、思いが通じることはない。
「チエ……チエっ……チエぇっ!!」
すべては──深い水の底に、沈んでしまった。
──降りしきる雨が、一際、激しくなった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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