「夏の朝 夜の道」

586

時のドーム。わたしの村は、「外」からはそう呼ばれていると、お母さんが言っていた。

「……………………」

空を見上げると、そこに真っ白な雲が「止まって」いる。それはもうずっとずっと長い時間、「止まった」まま。動くこともないし、形を変えることも無い。空を見上げると、いつでも同じ雲を見られる。

「今日も、変わらないね」

 

わたしは「まい」。時のドーム……もとい、「外」から見て軽く「数百年前」のジョウト地方ヒワダタウンに住む、なんの取り得もないちょっと内気な女の子。多分、数えで十一歳ぐらい。

「まいちゃーん! おはよーっ!」

「あっ、さやちゃん。おはよう」

「あっつーい。いつものことだけど、暑いよねー」

「うん」

この子はわたしの親友の「さやか」ちゃん。わたしが幼稚園に行ってたときから、ずっと友達でいてくれてる。わたしと違って、誰とでもすぐ仲良くなっちゃうし、どちらかというと外向きの性格だ。多分、わたしとは正反対。

「明日から夏休みだねっ。まいちゃん、何か予定ある?」

「ううん。何もないよ」

「ふぅーん。みんなそうだよね。つまんなーい」

「休みだからって、何かすることがあるわけじゃないしね」

わたしとさやちゃんはおしゃべりをしながら、村の北にある学校に歩いて行く。周りには、わたしたちと同じように学校に行く子たちがたくさんいる。

「まいちゃん、今日も何も予定無い?」

「うん。大丈夫だよ」

「それじゃあさ、ゆきちゃん達と一緒にさ、仲西屋に行こうよ。みんな、お小遣いもらった頃だと思うし」

「いいよ。待ち合わせ、飛行機の下でいいよね?」

「うん! 分かりやすいしね!」

というわけでお昼からは、さやちゃんたちと一緒に仲西屋(駄菓子とかを売ってる、わたしもよく行く小さなお店)に行くことになった。

「それにしてもさー」

「うん」

さやちゃんは空を見上げながら、足元にあった空き缶を拾い上げた。

「さやがさー、こうして空き缶とかを持ってさー」

「うん」

「こうやって手を離すと……」

かららーん。地面に空き缶が落ちて、乾いた音がした。

「こんな風に『落ち』ちゃうのに」

さやちゃんはまた空を見上げて、

「不思議だよね。あの爆弾はあそこで止まってるなんて」

「うん」

空に「浮いている」爆弾を指さして、そう言った。

 

お母さんのお母さんのお母さん、つまり、わたしのひいおばあちゃんがまだわたしぐらいの歳だった時に、この村を巻き込んだとても大きな「戦争」があった。その「戦争」には、たくさんの人だけじゃなくて、たくさんの車、たくさんの飛行機、それから、たくさんの爆弾が使われた。この村にもたくさんの爆弾が落とされたって、ひいおばあちゃんが言ってた。

何故戦争が起きたのかは、ひいおばあちゃんももう覚えてないって言ってた。何がきっかけだとか、何が理由だとかは、戦争が長引く間にどんどん曖昧になって、そのうちどうでもよくなっちゃったらしい。ただ、この村にも戦争の影が伸びてきて、いろいろ大変なことがあった。それは間違いない、って言ってた。

他の街や村はみんな焼けちゃって、ここも同じように焼けちゃうはずだったんだけど、ここはそうはならなかった。焼け野原になることなく、戦争が始まる前にあった家とかがたくさん残ってる。それは……

 

それはこの村に、「ときわたりの神様」がいたから。

 

その「ときわたりの神様」と言うのは、「神様」って言われてるけど、ちゃんと言うと神様じゃなくて、ポケモンだ。それは「セレビィ」っていう名前のポケモンで、緑色のきれいな体に、女の子みたいな大きくてくりくりした瞳をしてる。わたしも初めて見たとき「かわいい」って思ったから、多分、かわいいポケモンなんだと思う。

セレビィは普段、この村の隣にある「ウバメの森」っていう森の中にある、小さな小さな祠の中にいる。そこにいて、神様らしく村を見守ってくれてればそれでよかったんだけど、セレビィは結構飽きっぽくてやんちゃな神様みたいで、ちょくちょく村に顔を出して、子供と一緒に遊んだりしてたらしい。親しみやすい神様だったみたい。

他にも、年に一回村の子の代表が夜のウバメの森に一人で行って、祠にお参りして帰ってくる古ーいしきたりがあったりだとか、昔はセレビィがもっとたくさんいたんだけど、減って減って減ってついに最後の一匹になっちゃったのがあのセレビィだっていう話だとか、セレビィにまつわる話はちょっとしんどくなるぐらいたくさんあるんだけど、とりあえずこれぐらいにしておこうと思う。わたしもちょっと、全部は思い出せない。ひいおばあちゃんからたくさん聞いたけど、まったく同じ話を五回も六回も聞かされたり、違う話だと思ってたら最後に実は前と同じ話だってことが分かったりして、もう無茶苦茶……って、それは置いといて。

そんなセレビィだけど、心根はすごく優しくて、村で誰かが悲しんでたりすると、その人のそばにそっと近づいて、悲しみが癒えるまでずっと寄り添ってあげたり、怪我をした人を静かに治してあげたりして、村がいつも平和であるようにいろいろなことをしてくれてたって聞いた。

戦争が始まって、この村にもその影が忍び寄ってくると、セレビィは悲しい顔をすることが多くなった。たくさんの人が村を離れて、村が少しずつ寂しくなっていった。入れ代わりに、都会から避難してきた人たちが来て(「疎開」って言うらしい)、セレビィのことを知らない人も増えてきた。村全体が、少しずつ変わり始めた。

そんな時のことだった。

入道雲ができて、青空がそれに負けないぐらい広がっていた、ある夏の日の朝。

……今でも社会の時間に勉強する「ジョウト大空襲」が、まだしっかり目を覚ましていないジョウト地方に襲い掛かった。

たくさんの飛行機がやってきて、これでもかこれでもかと言いたいみたいに、たくさんの爆弾を落とした。ひいおばあちゃんは、これで「存在そのものが歴史の教科書」だったキキョウシティも、「ジョウトの誇る先端都市」だったコガネシティも、みんなみんな焼け野原になっちゃったらしい。

もちろん、ヒワダタウンだって例外じゃない。たくさんの飛行機が飛んできて、それ以上にたくさんの爆弾が落とされた。

でも、その爆弾は爆発しなかった。爆発する前に、「止まった」。入道雲も、太陽も、爆弾も、爆弾を落とした飛行機も、みんなみんな「止まった」。止まらなかったのは、「中」にいた人たちだけだ。

 

すべてを止めたのは、「ときわたりの神様」の、セレビィだった。

 

セレビィはこの村が焼け野原になって、仲良しにしてくれた人をみんな亡くして、ずっと住んでいた森が無くなって、何もかも、何もかもが失われてしまうことに耐えられなくなって……

……その命と身体を引き換えに、この村を「時の壁」で覆って、この村を「時のドーム」にした。村とウバメの森全体を「時の壁」で覆って、「中」と「外」を隔ててしまったのだ。

セレビィが作った「時の壁」は、「中」――つまり、わたし達の村――と、「外」――文字通り、外の世界に――ある決定的な違いを与えた。それは……

……「時の流れる速さが違う」ということ。

わたしたちのいる「中」は、「外」から見るとものすごく時の流れが遅くて、ほとんど止まってるように見えるらしい。だから、「外」の人がわたしたちの村を見たら、何十年前に爆撃があった日の、その瞬間の光景を見ることになる。今はもう立派なおじいちゃんになってるような人が、わたしよりも小さな男の子の姿のまま、なんてことがありえる。

逆にじゃあ「中」から「外」を見るとどうなるの? っていう話だけど、こっちから見ても外はほとんど止まってるように見える。爆撃があったあの日の青空、あの日の入道雲、あの日の太陽が、そのままの形でずっと残っている。

だからこの村には、「夜」という概念が無い。というか、「夜」って何? って人のほうが多い。実を言うと、わたしもだったり。

ちょっとややこしいのは、「中」の時間の速さそのものは、「外」と変わらないってこと。「中」にいる人は普通に歳を取るし、時間が経てばものはどんどん古くなる。「外」から見た「中」と、「中」から見た「中」は、全然違うことになってるってこと。

うーん……もっと簡単に言うと、「中」から見た「外」と、「外」から見た「中」は、どっちも止まっちゃってるみたいに見えて、お互いに「向こう」がどうなってるのかは分からない、ってこと。

ただ、「中」が「あの日」のまま止まっちゃってるのに比べて、「外」は「あの日」からどんどん時間が経ってるから、もし何かの理由でわたし達が「外」に出たら、きっと何もかもが変わっちゃってる、ってのは間違いないと思う。

 

「あっ、ゆきちゃんだ。おはよ〜っ!」

「ゆきちゃん、おはよう」

「二人ともおっはよー。明日から夏休みだねー」

「ま、年中夏だし、休みって言ってもやることはないけどねっ」

今度出会ったのは、ゆきちゃん、もとい「ゆきえ」ちゃんだ。ゆきちゃんはさやちゃんと性格がそっくりで、やっぱり外向きで明るい性格をしてる。わたしもちょっと見習わなきゃいけないかも……そう思っちゃう。

 

そうそう。この村でも一応「一年」っていうのがあって、その中に「春休み」「夏休み」「冬休み」っていうのがある。「お正月」だとか、「お盆」といった行事も、一応ある。

でも、さっきも言ったみたいに、この村だと時間が止まっちゃってるから、年がら年中夏のまま。それでも、昔からの風習で、春・夏・秋・冬っていう「季節」の概念がそのまま使われてるみたい。そもそもわたしからすると、「季節」って何? 「春」って何? 「お正月」って何? みたいな感じだけど。

あと、この村はどんなに時間が経っても「あの日」の「朝」がずっと続いているから、他の人との挨拶はみんな「おはよう」になる。じゃあ、何を「一日」の区切りにしてるの? っていうと、時計が頼りだって言われた。村にある時計が十二時になれば「お昼」に、五時ぐらいになると「夜」っていうことになって、ご飯を食べたりだとかお布団で寝たりだとかする。

でも、外は明るいまま。「夕方」になろうが「夜」になろうが「深夜」になろうが、外は「朝」だから、ずっと明るいまま。

わたしたちは「夕方」を知らないし、「夜」も知らない。「春」も知らないし、「秋」も「冬」も知らない。「お正月」も「冬至」も、何の事だかさっぱり。

わたしたちが知ってるのは、「夏の朝」だけ。ずっと終わらない「夏の朝」の中で、わたしたちは生きている。セレビィが「残したい」と望んだあの「夏の朝」の中で、わたしたちは生きている。

 

「それでさー、昨日は一日それで持ちきりだったんだよー」

「へぇー。珍しいこともあるんだね」

「でしょー? ピカチュウがニャースを追いかけるなんて、見たくても見れたものじゃないよ!」

「あははは! 『げこくじょー』っていうのだね! それ!」

わたしたちはいつものように、なんてことないおしゃべりをしながら、教室にぞろぞろ入っていく。

すると、そこに。

「あ! のろまのまいまい! なんだ、今日はちょっと早く来たのか?」

……わたしが一番会いたくない、ヤな男の子がいた。

「……またそんなこと言う……ちょっと準(じゅん)! まいちゃんの気持ちも考えなさいよ!」

「そうよそうよ! まいちゃんの気持ちになったら、そんなこと言えないじゃないっ!」

「うるせー! お前らにどうこう言われる筋合いはねーよ! のろまにのろまって言って何が悪いんだよ!」

「もーっ! まいちゃん! 黙ってないで言い返さなきゃダメだよ!」

「そーだよ! あーいうのは一回ガツンと言ってやらなきゃ分からないんだから!」

「……い、いいよ。わたし、気にしてないから……いちいち気にしてたら、体が足りないもん」

「……まいちゃん……」

「……元気出して。ああいうのは、気にしちゃ負けだから」

「うん……」

準。わたしが一番会いたくない男の子で、幼稚園の頃からずっとこんな調子。会えば会ったでこんな風にひどいことを言われるし、頭を叩かれたりしたことも少なくない。あと、スカートめくり。これだけはもうホントに恥ずかしいからやめてほしいのに、ちょっとでも気を抜くとやられちゃう。何が面白いのか、ちっともわかんない。

ちなみに、さっきの「のろまのまいまい」っていうのは、カタツムリの別の呼び方の「マイマイ」と、わたしの名前の「まい」をひっかけた、とんでもなくつまらない駄洒落。もう、いろいろな意味で信じらんない。ばかだよ、きっと。

「……………………」

「……………………」

準がわたしに何か言いたげに目線を送ってきたけど、わたしはわざと目線をそらして、関わらないようにした。

 

(退屈だなぁ……)

外をぼーっと眺めながら、先生の話を右から左へ聞き流していく。教室の中にいる子のほとんどが、わたしと同じことを考えてると思う。

「……………………」

何気なく、外の風景を見つめてみる。

どこまで続く青空があって、それをバックにでっかい入道雲があって、少し上を見てみると、大きな太陽がわたしたちを照らしている。これだけを見れば、きっといい風景なんだと思う。

でも、

(……いつ見ても、外は同じ風景なんだよね……)

生まれたときからずっとずっとずーっと、この風景からちっとも変わっていない。わたしたちはそれが当たり前の世界に生きてるから、それで慌てたりすることはないし、おかしいと思ったこともないけど、

(……「外」の人は、これとは違う風景も見たりしてるのかな……)

ふと、そんなことを考えた。空、入道雲、太陽。それから、浮いてる飛行機や爆弾。この「風景」以外の「風景」を、「外」の人は見てるのかな。どうってことない、暇つぶしの考え事。

(でも、わたしは「中」で生まれて、「中」で生きて、「中」で死ぬんだよね)

そう。「中」の人が「外」へ出ることはない。出られないと聞いたわけじゃないけど、少なくとも「外」の人が「中」へ入ることはできないみたい。何度か「外」の人が「中」の人を「外」に出そうとしたってお母さんが言ってたけど、結局それは叶わなかったらしい。今じゃもう、「中」は「中」、「外」は「外」って考え方が、「中」でも「外」でもできてるみたい。

(……「外」かぁ……)

わたしは時々、「外」の世界のことをいろいろと考える。どんな風な世界になってるんだろうとか、「外」から見たヒワダタウンはどんな風になってるんだろうって、そんなことを。

(でもひょっとしたら、こことあんまり違わなかったりして……)

そんなことを考えていると、

(……………………)

(……準?)

わたしの右斜め前の席に座っている準も、わたしと同じように外を眺めていた。

(……………………)

(……………………)

ヤだなぁ。きっと「次は何て言ってやろう」とか、そんなことを考えてるんだ。ヤだなぁ。もう、係わり合いになりたくないよ……毎日毎日、ホントに嫌になっちゃう。明日もまた「のろまのまいまい」って言われるのかなぁ。もう、最低っ。

と、わたしがそんなことを考えている間に、先生は閻魔帳を持って、そそくさと教室から出て行った。

学校は、これでおしまい。

 

「それじゃあ、また後でね〜!」

「うん! じゃあね〜!」

「飛行機の下でねー」

学校が終わった後、さやちゃんやゆきちゃんと別れて、わたしは一度自分の家に帰った。

「ただいまー」

「お帰り。もうすぐご飯にしますから、手を洗ったら、食器を並べておいてくれる?」

「うん。分かった」

ランドセルをお茶の間に置いて、わたしは台所に行った。

食器棚から出した食器を並べながら、わたしは聞いた。

「おーちゃん、元気にしてた?」

「ええ、元気よ。庭で遊んでるわ。そうね。おーちゃんのご飯も用意してあげなきゃいけないわね」

「あ、わたしがやるよ」

わたしは食器をそそくさを並べ終えると、お茶の間を通って、庭へと続く窓を開ける。

「おーちゃーん! ご飯だよーっ!」

「きゅ?」

いつもよりちょっと大きな声でおーちゃんを呼びながら、わたしは庭に出た。

「きゅ〜」

「あははっ。おーちゃん、今日もいい子にしてたみたいだね。えらいえらい」

この子はおーちゃん。オオタチの子供で、これの一つ前のオタチの頃からずっと、わたしと一緒にいてくれてる。さやちゃんやゆきちゃんと同じ、わたしの大切な友達。おーちゃんもわたしによく懐いてくれてるから、きっと、わたしのことを好きでいてくれてるんだと思う。

「さ、おーちゃん。お昼ごはんだよ。向こうで一緒に食べようね」

「きゅー!」

わたしはおーちゃんを抱いて、台所に戻った。

 

「行ってきまーす」

「気を付けてね。六時にならないうちに帰ってくるのよ」

「分かったー」

十二時。わたしはおーちゃんを連れて、家を出た。目的地は飛行機の下。さやちゃんやゆきちゃんと待ち合わせをして、仲西屋に行く。さやちゃんとゆきちゃんは、もう待ってるかな。

(でも、いつもわたしが一番だから、多分きっと、今日もわたしが一番)

なんとなく、そんな気がした。多分だけど、そんな気がする。絶対そうだ、っていう自信はないけど、絶対違う、っていう気はしない。そんな風に思ってた。

……でも、珍しいこともある。

「あっ……」

「おっ……」

わたしの目の前に、わたしが一番見たくない、一番会いたくない、一番一緒になりたくない、ヤな男の子が現れた。

「……な、なんだよお前……どっか行くのか?」

「何よ……か、関係ないじゃない。わ、わたしに関わらないでよ」

「なんだよその言い方。そんなこと言ってると、またぶつぞ」

「やめてよ! もう! どっか行ってよ! 来ないでよ!」

「きゅ〜」

「ちょ……何だよ! オオタチの癖に……生意気だぞ! こいつっ!」

「〜〜〜!」

これ以上関わるのは嫌だったから、

「あ……おい! 待てよ! おいったら!」

「知らない知らない! 大っ嫌い!」

「嫌いって……おい! 待てよ! のろまのまいまい!」

おーちゃんを抱きかかえて、だっと走った。もう、あんなばかなやつと関わるのはたくさん! 一緒にいると、いやな気持ちにしかならない。いつまで経っても子供っぽくて、ちっとも賢くならなくて、おまけにわたしにばっかりちょっかいを出す! もう嫌! 今度からは何があっても、絶対に答えてあげないもん!

「ばかばかばか! 準のばか!」

「きゅ〜……」

わたしは飛行機の下に行くまでずーっと、「ばかばかばか」とつぶやいてたみたい。抱いてたおーちゃんが、ちょっと心配そうな目でわたしを見ていた。

「ばかなやつなんか、大っ嫌い!」

 

「もうね、最悪だったんだよ。うちを出たら、いきなり準君がいて……」

「何それー! 信じらんなーい!」

「やだねー。うちを出たらいきなりあいつがいるなんて」

わたしはさやちゃんとゆきちゃんに、さっきあったヤな出来事について話した。今日もいつもと同じように、日差しが強い。もっとも、今わたしたちが浴びている太陽の光は、「あの日の朝」の太陽が「時の壁」にぺたっと貼り付けられたもの。つまり、「あの日の朝」の太陽になるんだけど。

「それより、この子かわいい〜!」

「きゅ?」

「うわぁ……この子がおーちゃん? かわいいね!」

「そうだよ。小さい時からね、ずっと一緒にいるの」

「きゅー」

おーちゃんはみんなに代わる代わる抱っこされて、とってもうれしそうだった。おーちゃんは人懐っこくて、知らない人でも怖がったりしないから、こんな風に知らない人に抱っこされてもちっとも嫌がらない。

「あ、これあまーい」

「それ、わたしのお気に入りなんだよ。今まで食べたことなかったの?」

「うん。色がものすごかったからねー。オレンジ色だし」

「うー……これ、本当に飲み込めるの〜? なんだかさー、噛んでも噛んでもちっともかさが減らないんだけど……」

「ある意味、ガムみたいなものだね」

仲西屋で買った駄菓子を食べながら、わたしたちは何となく外を歩いた。常夏の日差しが照って、肌が日に焼けていっているような感じがする。

この村は年中夏で日差しが強いから、肌の色が黒い人が多い。わたしやさやちゃんもそうで、図書館で見た大昔の「日に焼けた人」そっくりな肌の色をしてる。でもゆきちゃんは違う。肌の色がびっくりするぐらい真っ白だ。どうしてかなぁ……?

「じゃ、これから川にでも行こっか。暑いし」

「そうだね。おーちゃん、行くよ」

「あ、待って〜! まだ飲み込めてないよ〜!」

わたしたちは仲西屋を離れて、川へ遊びに行った。

 

「わっ!? 冷たいよ〜」

「かなちゃん、はしゃぎすぎ!」

「だってさー! やっぱり暑い時は冷たい方がいいって!」

川に入って、軽い水掛とかをして遊ぶ。暑い時は、こういうのが一番いいと思う。年中暑いから、年中こういうのでもいいのかも知れないけど。

「きゅ〜」

おーちゃんは水が苦手だから、木陰に隠れて丸くなっている。多分、そのまま寝ちゃうのかな。

「すきありっ! えいっ!」

「わあっ?!」

「まいちゃん、目線があさっての方を向いてたよ〜」

「うう〜……びしょびしょ〜……」

……なーんてことを考えてるうちに、さやちゃんに水をひっかけられてびしょびしょになるわたし。こんなことはもうしょっちゅう。あーあ。もうちょっと反射神経が良かったらいいのに。

(それなら、あいつにもばかにされなくて済むのにな……)

不意に、そんなことを考えた。

そんなことを考えていた、ちょうどその時だった。

「大変だーっ! 村の外れに爆弾が落っこちたぞーっ!」

「?!」

「!?」

「……?!」

いきなり、そんな声が飛び込んできた。

 

「何これ……」

「すごいことになってる……」

「ひどい……」

わたしたちが駆けつけてみると、そこには大きな穴が開いていた。もうもうと煙が上がっていて、火の手も少し上がっている。

他の人の話を聞いていると、ここで何が起きたのか、ちょっとずつはっきりしてきた。

空の上で「止まってた」爆弾の一つが、何かの拍子にここに落っこちてきて、地面に大きな穴を開けたみたいだった。こんなことは、わたしが今までこの村にいて一度も無かったし、想像もしたこと無かった。それはみんなも同じみたいで、たくさんのひとが物珍しそうに、地面に開いた穴を見つめている。

「けが人は?」

「幸い無いみたいだ。前々からいつか落ちてくるとは思ってたが、まさかな……」

「確かこれ、『寸止め爆弾』って呼ばれてたやつじゃねぇか?」

「そうだ。時間が止まった時、本当に先の先だけが『壁』に閉じ込められた爆弾だ」

大人の人が話している横で、わたしたちも話をした。

「ちょっとずつ進んできてたのは知ってたけど、まさか落ちてくるなんて……」

「ひょっとしたら、他の爆弾もそうなのかな……」

「それって……想像したら、すっごく怖いような……」

「きゅぅぅ〜」

地面に開いた大きな穴を見つめながら、口々に言った。おーちゃんは穴を見つめて、怖がっている。

セレビィがこの村に張った「時の壁」は、完全に時を止めたわけじゃなかった。

セレビィは「ときわたりの神様」だから、時の流れを操ることはお手の物だった。どんなに時間をいじくり回しても、セレビィならそれが許される。「ときわたり」の「神様」だからだ。

けど、セレビィにもできないことが、一つだけある。それが、「時間を止めてしまう」こと。

時間の流れを遅くすることはどこまででもできたけど、時間の流れそのものを止めることはできない。時間の流れを止めてしまえば、それはもう二度と動き出さないからだ。セレビィは神様だったけど、時間を止めてしまうことはできなかった。それだけは、許されなかったらしい。

セレビィはこの村に「時の壁」を張る時、「壁の中」の時間の流れを、わたし達が想像も付かないぐらい遅くした。詳しくは分からないけど、多分、何十億分の一とか、何兆分の一とか、そういう世界だと思う。だから、ほとんど止まったみたいに見える。実際、止まったようにしか見えないし。

……でも、いくら止まってるように見えても、その中で時間はちゃんと進んでる。「落ちてくる」ような動きを与えられた爆弾は、もんのすごく遅い時間の中でもちゃんと「落ちている」。「時の壁」の中でもそれは変わらないから、長い長い長い長い時間をかけて壁の中を進んで、最後には壁の中から出る。すると、時間の流れが元に戻るから、元々与えられた勢いのまま落ちてくる、ってわけ。

「落っこちてきた爆弾って、もう何十年も前に落とされたんだよね」

「うん。でも、爆弾からしてみたら、ほんの数秒しか経ってないんだよね」

「……あうー……そーいうややこしい話、さや苦手ー」

さやちゃんの言うとおり、ちょっとややこしいと思った。

「きゅ?」

「おーちゃん、危ないから近づいちゃ駄目だよ」

腕の中にいたおーちゃんが動いたから、わたしはおーちゃんを落っことさないように、しっかりと抱きかかえた。

 

「それじゃあ、またねー」

「ば〜いば〜い」

「みんな、気を付けてね」

腕時計が五時を指したから、わたしたちは自分たちの家に帰る事にした。五時にはなったけど、空は朝学校に行ったとき、お昼に外に出たとき、さっき爆弾の落ちてきた場所を見たときと、ちっとも変わってない。青空を背にしたでっかい入道雲が、動くことなくじーっとしている。

(これが当たり前のはずなのに、なんだかヘンな感じ)

最近、そんな風に思うことが増えた。

(「外」は、どんな風景になってるんだろう)

そうやって、見たことも無い「外」に思いを巡らせる。どうしてだろう? わたしは「中」で生まれて、「中」で生きて、「中」のお墓に入るはずなのに。「外」になんて、本当は出ようとも思ってないはずなのに。

「どうしてだろうね? おーちゃん……」

わたしは何となく、腕の中にいたおーちゃんに声をかけた。

「……おーちゃん? おーちゃん?」

……でも、おーちゃんからの返事はない。何度か揺さぶってみたけど、何も反応しない。

「おーちゃん……?」

わたしは恐る恐る、おーちゃんの顔を見てみた。

「おーちゃ……おーちゃん?! おーちゃん?! どうしたの?! おーちゃん!!」

「きゅ……」

おーちゃんは……

「おーちゃんっ!!」

……今にも、死にそうな表情をしてた。何がなんだか、ちっとも分からない。気が付いたら、わたしの腕の中で、おーちゃんが、おーちゃんが……

「おーちゃん!! しっかりして!」

わたしは無意識のうちに、走り出していた。

 

「悪性の五百八十六型のポケルスに感染した可能性があります。容態は……誠に残念ですが、あまり良くないと言わざるを得ません」

「そんな……どうして、急に……!」

近くの病院に駆け込んで、おーちゃんを診察してもらった。その間にお母さんに電話をかけて、病院に来てもらった。寝台の上で、おーちゃんが苦しそうに息をしている。気が気じゃない。どうしちゃったんだろう……

「おーちゃんは……おーちゃんはどうして病気に……」

「この病気は内側から起こるものではなく、外部からの要因によって引き起こされる類のものです。何か、思い当たることはありませんか?」

「そんな……思い当たることなんか何も……あっ!」

わたしはふと、あのことを思い出した。

「何かありましたか? どんな些細なことでも構いません」

「……お昼を少し過ぎたぐらいに、爆弾が落ちましたよね?」

「ええ。私も戸川さんから聞いて知っています」

「……それを、見に行きました……」

「……………………」

お医者さんは少し考え込んだような表情を見せてから、こう言った。

「あくまでも推測に過ぎませんが……ひょっとすると、その爆弾にポケルスが含まれていたのかも知れません」

「爆弾に……ポケルスが?!」

「はい。戦時中は人間のみならず、ポケモンの殺傷も目的とした爆弾が数多く製造・使用されました。あの日の爆撃の中に、そのような爆弾が含まれていたとしてもおかしくはありません」

「……………………」

わたしは魂が体から抜けたような気持ちのまま、寝台の上で横になっているおーちゃんを見た。

「おーちゃん……どうしてこんなことに……」

「……先生。治療する術はあるんでしょうか?」

「……………………」

お医者さんはまた少し考え込んだような表情を見せてから、

「……薬を出しましょう。後は、家で安静にしておいてください」

「えっ……?」

「本来なら、もっと大きな病院への紹介状を書くのが筋なのですが……」

「……………………!」

「……申し訳ありません」

深々と、頭を下げた。

「そんな……おーちゃん……っ……」

それがどういう意味かが分からないほど、わたしは子供じゃなかった。

……でも。

「そんなの……そんなのそんなの……っ!」

言われたことを「はい分かりました」とすぐに受け入れられるほど、大人でもなかった。

 

「……………………」

「……………………」

帰り道、わたしはおーちゃんを抱いて、足に重りを付けられたような気分で、家に帰っていた。

「おーちゃん……」

「……………………」

あまりにも突然、不幸な出来事に出会うと、人は何も考えられなくなるって、ひいおばあちゃんが言ってた気がする。わたしは今、まさにその状態だった。

お昼まであんなに元気だったおーちゃんが、急に苦しそうな表情を浮かべて、慌ててお医者さんに診せたら、新種のポケルスにやられたって言われて、治す方法はないのって聞いたら、お医者さんは……

「……………………」

「……まい。ちょっと、いいかしら?」

「……え……?」

お母さんが急に話しかけてきて、わたしはびっくりして振り向いた。

「まい……辛いのは分かるわ。ついさっきまで、あんなに元気だったんだから」

「……………………」

「……でもねまい。お母さんね、まいにどうしても言わなきゃいけないことがあるの」

「言わなきゃ……いけないこと?」

「……ポケルスの中にはね、他のポケモンに伝染しちゃうものもあるの。他の人のポケモンも、おーちゃんと同じ病気になっちゃうのよ。分かる?」

「え……? え……??」

「まい。おーちゃんのせいで、他の人のポケモンが病気になっちゃ、かわいそうでしょ? おーちゃんも可哀想だけれども、他の人のポケモンも可哀想なの。だから……」

「……………………」

お母さんは、私の目を見て、言った。

「おーちゃんのことは、諦めなさい」

わたしはお母さんの言ったことの意味がよく分からなくて、喉からどうにか声を出して聞き返した。

「あきらめる……?」

「おーちゃんはうちの中に入れて、外に出さないようにしなさい」

「……………………」

「いい? ちゃんと守るのよ。まいは賢い子だから、分かるでしょ?」

「そんな……おーちゃん……」

「聞き分けなさい。可哀想だけど、そうするしかないの」

「……………………」

お母さんはそう強く言って、また歩き出した。

「おー……ちゃんっ……」

目から、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。

「いゃ……だょ……そん……な……の……」

流れた雫が、おーちゃんの苦しそうな顔に落ちた。

 

「……………………」

「きゅ……」

……夜に当たる十時ぐらいに、わたしは隣で苦しそうにしてるおーちゃんの姿を見ながら、いろいろなことを思い出していた。

(おーちゃんと初めて出会ったのは……確か、もう七年ぐらい前だったよね……)

その時のことを、ちょっと思い出してみた。

(村の外れにある草むらで、一人でひょっこり顔を出したんだっけ……)

その時のおーちゃんは、まだオタチだった。しっぽをぴんと立てて、遠くを見ている姿が、すっごく可愛かったんだっけ。後になって、あれは敵を見つけるための「偵察」のポーズだって知って、ちょっとびっくりしたのを覚えてる。

(こんなに小さな体で、自分の身を自分で守らなきゃいけないなんて……)

そう思うと、おーちゃんってすごいと思った。自分を攻撃してくる敵を素早く見つけて、戦ったり逃げたりして、自分の身を自分でしっかり守る。簡単そうに聞こえるけど、そんな訳無い。すっごく難しい。

(わたしは……いつも誰かに守ってもらってばっかりだよね……)

今度は、自分のことを考えてみる。

悪い人がいたらお巡りさんに、病気になったらお医者さんに、分からないことがあったら先生に、家に帰れば、お母さんに。

……いっつもわたしにちょっかいを出していじめてくるあいつは、さやちゃんやゆきちゃんに。

(わたし、自分ひとりで何かしたことなんか、一度もないかも……)

そう言えば、そんな気がした。いつも誰かと一緒にいて、その誰かが決めたことにしたがって、いつでも誰かと一緒に行動している。誰かが決めてくれるまで何も言わなくて、自分じゃ何もしようとしなくて、誰かが決めたことや、「やりなさい」と言われたことしかしない。

いつでも、誰かの後姿を見てる。

(……………………)

苦しんでるおーちゃんの姿を見てるのが辛くて、辛くて、辛くて……

「……っ……!」

枕で目を覆って、声を押し殺して泣いた。

……泣かないと、頭がおかしくなりそうだったから。胸の中にあるものが全部、口から出てきちゃいそうだったから。

その日は、ほとんど眠れなかった。

 

「……………………」

朝。いつもと変わらない朝の風景。青空と入道雲と、太陽。

「……………………」

でも、わたしにはそれが、なんだかとても虚しいものに見えた。

(風景は何も変わらないのに、おーちゃんだけ変わってく)

おーちゃんはどんどん元気をなくしていって、今までのおーちゃんじゃなくなっていく。周りは何も変わらないのに、おーちゃんだけ変わっていく。

(おーちゃんは……もう……)

お医者さんやお母さんの言うことが正しいなら、おーちゃんはもうきっと助からない。このままどんどん弱っていって、何もできないまま、ここで……

……それ以上考えるのは辛くて、胸がめちゃくちゃに引っかかれるような気分になったから、わざと考えなかった。

(わたしが……わたしがあんなとこに行かなきゃ、おーちゃんは……っ!)

自分が代わってあげられて、おーちゃんの代わりに苦しめたら、もっと気持ちが楽になるのかなとか、そんなことを考えた。

考えたってどうしようもないのに、考えたって絶対そうにはならないのに、考えずにはいられなかった。

 

「……行ってきます」

「気を付けてね。寄り道しないで、早く帰ってくるのよ」

「……………………」

お昼。わたしは昨日おーちゃんを診せた病院に言って、お薬をもらいに行った。お薬って言ったって、熱さましと痛み止め。おーちゃんの病気をどうにかするものじゃなくて、おーちゃんの病気が進むのをほんの、ほんの少しだけ遅くするだけ。もう、おーちゃんにしてあげられることは、何もない。

「……………………」

わたしがそうやって、とぼとぼと道を歩いていた時だった。

「え……? それって本当?」

「うん……昨日、帰り際に堀本さんが見たんだって。オオタチがその病気にかかったって」

「聞いたこと無い病気なんだってね」

噂話が聞こえてきた。

(うそ……もう村中に、おーちゃんのことが伝わってるなんて……!)

わたしは背筋が寒くなった。冷たくなった。凍えそうな気持ちだった。狭い村だから、噂話が広がるのは怖いぐらい早い。もうきっと、村中のみんなに知れ渡ってる。

……村中のみんなが、おーちゃんとわたしのことを噂してる……

「あとその病気、他のポケモンにも伝染するんだって」

「やだ! 何それー。怖いねー」

「怖い怖い」

「私のニドぴょんじゃなくて良かったー」

「ほんとほんと」

「……………………」

気が付くと、足を動かす早さが早くなっていた。

「〜〜〜〜〜〜っ……!」

唇をきゅっとかみ締めて、零れる涙も拭かずに歩いた。

 

「ポケモンが病気になったらしい……」

「不治の病だとか……」

道を歩いていると、いろんな所から声が聞こえてくる。

「病気は伝染するらしいぞ」

「怖いな……誰のポケモンだ?」

周りの人が、わたしのことを見ているような気がする。わたしのことを見て、わたしのことを話して、わたしのことを後ろから指差しているような気がする。

「噂によると、どうも新谷さんとこの子だとか……」

「あの子か……おとなしくて目立たない子だと思っていたが」

いやだ。いやだ。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。

「怖いねぇ……そんなポケモン、どっかにやっちゃえばいいのに」

「あれだよ。菌をバラ撒いたりしないうちに、楽にしてあげれば……」

いや……いや……いや……そんなこと……そんなこと言わないで!

「怖いねー」

「怖い怖い」

「怖いったらありゃしない」

「怖いよー」

「怖いもんだな」

「自分の子じゃなくて良かった」

「俺だったら耐えられねーな」

「早く楽にしてあげればいいのに」

「女の子だし、決心付かないんじゃないの?」

「伝染されたらやだなー」

「しばらくは外を出歩かないようにしなきゃ」

「その新谷っていう人、あの子じゃない?」

「えー? やだー」

「うちで面倒見てなきゃいけないのに」

「何してるのかしら……」

「あの子がちゃんと見てたら、オオタチは病気にならずに済んだのに……」

「根暗っぽーい」

「親の顔が見てみたいね」

「きっとろくなものじゃないよ」

……もう……嫌ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

いっそ、耳がなくなっちゃえばいいと思った。周りの人の声を、聞かなくて済むから。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

いっそ、目がなくなっちゃえばいいと思った。周りの人の姿を、見なくて済むから。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

いっそ、心がなくなっちゃえばいいと思った。周りの人の噂に、傷つかずに済むから。

いっそ、わたしがなくなっちゃえばいいと思った。

おーちゃんもわたしも、誰も傷つかずに済むから。

 

「ぐすっ……ひっ……くっ……」

どうしてあんなことを言われなきゃいけないの……? おーちゃんが苦しんでて、それだけでもすごく辛いのに……どうしてあんなことを言われなきゃ……いけないの……?

(わたしだって……つらいのに……)

拭いても拭いても溢れてくる涙をなんとか拭いて、わたしは歩き続けた。

すると、そこに……

(あっ……さやちゃんにゆきちゃん……)

さやちゃんとゆきちゃんが、二人並んで歩いていた。

(さやちゃんとゆきちゃんなら、きっと……)

わたしはそう思って、二人の方に歩いていった。

「あっ……」

「ま、まいちゃん……」

「さやちゃん……ゆきちゃん……」

そのまま近づいて、いつものように三人一緒にお話をしようと思った。

……でも。

「……ご、ごめん。私達、ちょっと用事があるから……」

「え……?」

「い、急いでるから……それじゃ……」

「さ、さやちゃ……」

さやちゃんとゆきちゃんはまるで逃げるようにして、わたしのところから去っていった。

「そ……ん……な……」

わたしは、独りぼっちになった。

もう誰も、わたしのことを心配してくれる人はいない。

「……うっ……はぁっ……」

……何もかもがもう、嫌になった。

こんな世界、なくなっちゃえばいいのにって思った。

もう、誰も信じられない。

もっと違う世界に行って、おーちゃんも元気になって、誰からも後ろ指を指されない……

……そんな世界に、行きたかった。

 

「……おい……」

「ぐすっ……ううっ……」

「なぁ……まい……」

「……えっ……?」

不意に、自分の名前を呼ばれた。驚いて、顔を上にあげる。

そこにいたのは。

「……準……?」

「お……おう。俺だ。まい」

「……………………」

……どうして? どうしてあいつがここにいるの? どうして? ねぇ、どうして?

いっつもわたしをからかって、ちょっかいを出して、いじめてきた記憶しかないあいつが、どうしてわたしの目の前にいるの?

ねぇ、どうして?

「……泣いてるの……か……?」

「…………どうして……」

「……………………」

「……どうしてみんなわたしのこと……あんなに……あんなに……」

「……………………」

「……準も……わたしのこと……あることないこと……言いに来たわけ……?!」

「……………………」

「……そうなんだ……準も……わたしのこと……!」

「……まい……」

準の手が、わたしの肩に触れた。

「触らないで!」

「……っ!」

「もう嫌っ……もうこんなのたくさん……みんなでよってたかって……わたしのこと……!」

「……………………」

「昨日までそんなことなかったのに……昨日みたいな日が……ずっと続くと思ってたのに……!」

「まい……」

「いやいやいや……もう誰も信じられない! もう誰も……」

首をぶんぶん振って、滅茶苦茶に泣いた。どうせ準も、わたしに何か言いたくて近づいてきたんだ。いっつもわたしのことからかって、いじめてきた準の事だ。絶対にそうだと思った。

絶対、間違いないと思った。

……絶対、そうだと思ってた。

「……まい。お前のオオタチに、これ食わせろ」

「……え?」

準はそう言って、わたしに何かを差し出した。

「森の奥になってる木の実だ。ポケルスの進行を抑える効果がある」

「え? え?」

「これを食わせれば、少しはマシになるはずだ。少なくとも、あのヤブが処方する薬よりは、な」

「じ、準……」

「……じゃあな。まい」

わたしに押し付けるように木の実を渡すと、準はどこかへ走っていった。

「……ど、どうして……」

わたしは準のしようとしたことの意味がよく分からず、その場でしばらくぽかんとしていた。手には、準が手渡した真っ赤な木の実。

「……………………」

その場にいても仕方なかったから、わたしは家に帰る事にした。

帰り道は、人のいない道を選んで帰った。

 

「……おーちゃん。少し楽になった?」

「きゅー……」

家に帰って、おーちゃんに準からもらった木の実を砕いて食べさせてあげたら、おーちゃんは少し元気を取り戻した。確かに、薬を飲ませるよりも効果があるみたいだった。

「……どうしてだろう? 準、わたしのこと、ずっとちょっかい出したりしていじめてたのに……」

おーちゃんが少し元気になったのは良かったけど、わたしにはそれ以上に気になることがあった。準の態度だ。

「……他の人が冷たくなったら、今度は準がやさしくなっちゃった……あべこべだよね。ヘンだよね」

他の人……知ってる人、知らない人、話したことのある人、話したことのない人、会ったことのある人、会ったことのない人、仲のいい人、仲の悪い人、お母さん、さやちゃん、ゆきちゃん。みんながわたしとおーちゃんに冷たくなったら、逆に準がやさしくしてくれた。なんだか、ヘンな感じ。

「……でも」

……準以外の人は、もうみんな変わっちゃった。昨日まで仲良くしてくれてた人も、今日からはもう違う。

わたしの居場所はもうない。

わたしはいらないもの扱い。

わたしは……村の厄介者。

「……うっ……」

そんなこと考えてると、また涙が出てきた。今日はもう、どれぐらい泣いたか分かんない。泣いても泣いても泣いても、いくらでも涙が出てくる。自分とおーちゃんが、みんなから見捨てられたみたいで、広い海にあるちっぽけな島に放り出されたような気分だ。

(もう……昨日までの村じゃないんだ……)

昨日までの、みんなが仲良くしてくれて、優しい人ばっかりで、おーちゃんも元気でいてくれる村は、もうなくなった。ここはもう、わたしの知ってる村じゃない。

変わったんだ。何もかも。

(……もう、この村でおーちゃんを助ける方法はないんだ……)

お医者さんもさじを投げて、他の人はもう最初から諦めてる。この村には、もうおーちゃんを助ける術は……

(…………)

……この村には、おーちゃんを助ける術は無いかも知れない。ううん。お医者さんがダメって言ったんだから、きっともうどうすることもできない。

(……でも……)

でも、それはこの「村」の中だけで考えた話。「村」の中の設備とかそういうのはすっごく限られてるし、お医者さんらしいお医者さんもほとんどいない。怪我や病気を治す技術も、「あの日」からずっと止まったままだ。少しも変わってない。外の風景みたいに、ちっとも変わってない。

(それは、この村の時が、「あの日」で止まってるから)

この村は確かに、「あの日」で時が止まってしまった。「あの日」から、村は少しも変わってない。「あの日」の光景をとどめたまま、もう何十年も経っている。「あの日」の人々と技術を閉じ込めて、もう何十年も経っている。

(でも、それはこの村だけの話)

そう。それはこの村だけの話。

 

(……「外」は、時間は止まることなく進んで、わたしたちが考え付かないようなことになってるかも……)

 

わたしはこの時、「外」という言葉を思い出して、体がぞくっと震えるような気がした。

(この感覚は……何……?!)

わたしの中で、何かが起こり始めていた。今までのわたしには無かったような、不思議な感覚。ぞくぞくするけど、寒気じゃない。体の奥底から何かがむくむくと起き上がってくるような、そわそわした感じがする。

(……そうだ! 「外」! 「外」があったよ……!)

そわそわした感じが、一気に体中に広がって、しびれるような感覚に変わった。すごいものを見つけたときみたいに、体がしゃきっとするような感じがした。これしかない、って気がした。

(「外」に出れば、きっとおーちゃんを助けられる……「外」に出れば、またおーちゃんと一緒にいられる……!)

わたしは隣で眠っているおーちゃんの姿を見て、

(今決めなきゃいけないことなんだ……今決めなきゃ、おーちゃんは助からない……!)

胸に手を当てて、自分の気持ちを確かめた。

(もう戻って来れないかも知れない……ううん。きっともう、ここには戻って来れない)

(出られるかどうかも分からない。ひょっとしたら、出る方法なんてないかも知れない)

(そんなに簡単に出たり入ったりできるんだったら、みんな苦労してない)

一度「中」から出ちゃえば、もう二度と「中」には戻れない。お母さんやみんなと、もう一生会えなくなる。

(でも……)

(もうこの村に、わたしの居場所はない)

(おーちゃんもわたしも、居られなくなっちゃった)

でも、もうみんな昨日までのみんなじゃない。わたしの知ってるみんなは、昨日でみんないなくなった。

今日のみんなは、もうわたしの知ってるみんなじゃなかった。

(だったらもう、迷うことなんてない)

(後悔することなんて、何にもない)

(わたしのことは、わたしが決める)

……それから、わたしが出した結論。

(わたしは、おーちゃんを助ける……!)

それが、わたしが出した結論だった。

 

……夜。

「……………………」

家族がみんな寝静まったのを確認してから、

「行くよ。おーちゃん」

「きゅー……」

おーちゃんを腕の中に抱きかかえて、わたしはこっそり家を出た。

背中には、お金とか好きな本とか、着替えとか食べ物とかを詰めたリュックサック。お金が役に立つかは分かんないけど、持ってないよりも持ってたほうがいい。お水を入れた水筒も、二つ入れた。食べ物は缶詰とかチョコレートとかを、とにかく詰められるだけ詰めた。いろいろなものを詰め込みすぎて、ちょっと重たくなってる。わたしにできる準備は、これぐらい。

(もう、この家には帰ってこないんだよね)

家を出る時に、ちょっとだけ胸が痛んだ。お母さんは変わってしまったけど、それでも、わたしが出て行くことは知らないから、後でわたしがいなくなったことに気付いたら、きっと悲しむに違いない。

(……ごめんなさい。でもわたし、おーちゃんを助けたいの……ごめんね。お母さん)

わたしは家に背を向けて、日差しの照りつける夜のヒワダの村を走り始めた。

(……さようなら。今までのこと、ずっと忘れないから)

 

(出られるとしたら、「壁」に直接触れられる場所しかないよね)

わたしは家を出ると、迷わずウバメの森の方に走った。昔図書館で読んだ本の中に、「ウバメの森の中には、少しだけ『時の壁』が弱いところがある」という一文があったことを思い出したから。

(そこに思いっきり体当たりして、時間が遅くなっちゃう前に潜り抜けられれば、「外」に出られるはず……!)

それが正しいのかは分からない。体当たりなんかして、わたしが壁に吸い込まれて、何十年何百年もそのままの姿でそこに居続ける、なんてことだってありえる。そうなったとしても、わたしはそれに気付かないだろう。何十年何百年も経って、ようやく外に出られる。そういうことも、覚悟しなきゃいけない。

(もし「外」から「中」に戻れても、それはもうわたしの知ってる「中」じゃない)

でも、そんなことじゃもう、わたしはひるまない。もう、どうなったっていい。おーちゃんさえ助けることができるなら、わたしはもうどうなってもいい。わたしだけ誰も居ない世界に放り出されたって、永遠に同じ場所で居続けなきゃいけなくなったって、おーちゃんさえ助けられたら絶対後悔しない。

(「外」に出れば、きっとおーちゃんを助けられる……!)

その思いが、わたしの足を速くした。

……ちょうど、その時だった。

 

「まい!!」

「?!」

急に呼び止められて、後ろを振り向いた。

「準……?」

そこにいたのは、準だった。

「まい! お前……どこに行くんだ?!」

「……………………」

「お前……あのオオタチを抱いて……背中にリュック背負って……一体どこに行く気なんだ?! この村ん中に、家出なんてできる場所……」

「家出なんかじゃないよ」

わたしはきっぱりと言った。

「わたし、決めたの」

「決めた……?」

「おーちゃんをこのまま死なせたくない、おーちゃんを助けたいって思ったの」

「……………………」

「でも、この村の中じゃ、おーちゃんを助ける方法は何もないの。お医者さんも、もうさじを投げちゃった」

「……………………」

「おーちゃんはね、わたしが小さい時からずっと一緒にいてくれた、わたしの一番大切な友達なの」

「……………………」

「そんな大切な友達が、苦しむだけ苦しんで死ぬなんて、わたし、見ていられないの!」

「お前……」

「それで、わたしがおーちゃんのためにできることを必死に考えて、考えて、考えて、考えたら、一つだけ、おーちゃんを助ける方法を思いついたの。たったの、一つだけ」

「……………………」

わたしはおーちゃんをぎゅっと抱きしめて、

「わたし、『外』に出る」

「……!!」

「わたし、『外』に出て、もっと進んだ病院とかに行って、おーちゃんを助けてもらう!」

「そんな……お前っ……! 『外』がどんなとこかなんて、少しも……」

「何も分からないのは分かってる! 『外』がどんなとこかなんて、わたし、ちっとも分からない! でも……でも!」

「……………………」

「わたし、おーちゃんにできることだったら、なんでもしてあげたい……できることがあるのにしないなんて、わたし、できないよ……」

腕の中で、おーちゃんが心配そうな表情をしている。

「わたし……決めたの。もう、ここには戻ってこないって」

「……………………」

「おーちゃんを助けられれば、もう、それでいいやって」

「……………………」

わたしの言葉を聞いて、準は……

「……まい」

「……………………」

「今だから、俺、正直に言うな……」

「えっ?」

……準は、大きく息を吸い込んでから、

 

「……俺、お前のこと……ずっと……ずっと好きだったんだ。それこそ……そいつがまだ、オタチだった時ぐらいから」

 

静かに、言った。

「じ、準……」

「俺……意地悪な性格だからさ。お前のこと好きなのに、お前の前だと素直になれなくて、それて……」

「……………………」

「……叩いたりとか、ひどいこと言ったりとかして、お前にちょっかいばっかり出してた……そんなことしたって、お前が俺のこと好きになってくれるわけなんか無いのにさ、どうしても止められなかったんだ……」

「準……」

準は静かに、言葉を続けた。

「でも、今なら俺、本当のことが言えそうな気がする」

「……………………」

「俺、オオタチのために、また木の実を取りに行くつもりだったんだ。明日……お前に渡そうと思って」

「……!」

「お前が独りぼっちになっちまってから、気付いたんだ。俺は本当にお前のことが好きだって、俺はお前を支えてやらなきゃいけないって」

「……………………」

準は青空を見上げて、途切れることなく話し続けた。

「でも……俺は間違ってた。お前のこと、すっごく弱いやつだって思ってた」

「……………………」

「俺が守ってやらなきゃ、大きな力に耐えられずに押しつぶされちまう。そんな……脆い女の子だって思ってた……」

「……………………」

「けど……さっきのお前、すっごくかっこよかった。強そうだった。俺なんかよりもずっとずっと、強そうに見えた」

「えっ……?」

「どうなるかも分からないのに、自分ひとりしか頼れる人間が居ないのに、それでも……それでもそのオオタチのためにさ、無茶しようって思ってるんだろ……? もう……ここに戻ってくることができなくなっても、気にしないって……言ってたよな……」

「……うん」

準は今にも泣きそうな声だった。泣くのを必死にこらえながら、準は言葉を続ける。

「俺……お前のことが本当に好きなんだ。ちょっかいばっかり出してたけど、俺、お前のことが好きで好きで仕方ないんだ」

「……………………」

「だから俺……本当はお前にここに残って欲しいんだ……俺の前から……いなくならないで欲しいんだ……」

「……〜〜っ……!」

「……でもな、それはおかしいんだ……俺の気持ちが本物なら、そんなこと、思っちゃいけないことなんだ……」

「…………?」

「俺は……お前のことが好きだ。お前のこと、世界で一番好きだ。嘘なんかじゃない。本当の事だ。だから、俺は……」

準は真っ直ぐ指を指して、

「……俺はもう、お前が嫌がることはしない。お前のしたいようにして、お前が『一番いい』と思えることをしてくれれば、俺はそれが『一番いい』んだ……!」

「準……っ!」

「俺はお前のことが好きなんだ。だから……お前の悲しむようなことをしちゃ、いけないんだ。俺はお前が好きだから……だから……」

「……………………」

「……だから、俺はお前をここに引き止めない。お前の行こうとしてる道に立ちふさがるようなことは、何があってもしない。俺が今できるたった一つのことは、お前が進みたいと思ってる道を、後ろから押してやることだけなんだ……!」

「……準……っ!」

準は目線を逸らして、

「……このまま真っ直ぐ進めば、ウバメの森の奥に行ける。森の奥には一箇所、立ち入り禁止になってる場所がある」

「……………………」

「立ち入り禁止になってる理由は……そこだけ、『時の壁』が薄いからだ。そこからなら、上手く行けば『外』に出られるかも知れない」

準は、再び顔を上げて、

「……まい。俺は……こんな俺だけど、一つだけお願いがあるんだ」

「……うん。言ってみて……」

「……俺のこと、ずっと忘れないで欲しい。『外』に出て、何年も何十年も経っても、俺のこと、おぼろげでいいから、思い出して欲しい」

「……………………」

「俺は……お前に思い出してもらえて、お前の記憶の中にいられたら……それでもう、十分だから……」

わたしはまた、涙が溢れてきた。それでも、ちゃんと言わなきゃいけないことがあったから、力を振り絞って、声を出した。

「……うん……絶対……忘れないよ。あんなに……たくさん……ひどい目に……遭わされたんだもん……」

「……………………」

「……いっつも『のろまのまいまい』って言われて、いっつも頭をぶたれて、いっつもスカートをめくられて……」

「……………………」

「そんなの……忘れたくても……忘れられないよ……そんな……大切なこと……忘れたくても……」

「まい……!」

「わたしっ……準のこと、一生忘れないから……何百年何千年経って『外』に出ても、わたし何百年何千年の間ずっと、準のこと、忘れないから……っ!」

「……くっ……」

準の目から、光る雫が零れ落ちた。

「……さようなら、準」

「……さようなら、まい」

わたしは準の指差す方向に向かって、全速力で走り出した。

準はいつまでも、いつまでも、森の方角を指差していた。

 

「……………………」

準の言っていた立ち入り禁止の場所は、思っていたよりもずっと近くで見つかった。

「……………………」

立ち入り禁止の看板を潜り抜けて、わたしはついに、「時の壁」の目の前まで来た。

「これが……『時の壁』……」

それは、キラキラと白く光っていて、まるで氷の扉のようだった。でも、準の言っていた通り、その立ち入り禁止区域の場所にある「時の壁」だけは、他よりもかなり柔らかそうに見えた。風に揺られるたびに波打って、小さな波紋が壁一杯に広がる。力いっぱい押せば、中に入り込んじゃいそうな感じがした。

「……おーちゃん、行くよ」

「きゅー……」

わたしは覚悟を決めて、そっと壁に手を近づけた。

(……わたしを、「外」に、連れてって……)

少し力を込めると、思ったとおり、体が少しずつ、壁の中に入り込んでいった。

(このまま……っ!)

ためらうことなく、体を中へと押し込む。押し込んだ部分の感覚と、まだ押し込んでない部分の感覚が違いすぎて、気が遠くなりそうだった。息が苦しくなって、胸が締め付けられるみたいで、腕がどんどん冷たくなっていく。

(……ここで……諦めちゃダメっ……!)

でも、わたしは力を振り絞って……

(おーちゃんを助けるって……わたし、決めたんだから!)

……体を全部、「時の壁」の中に押し込んだ。

(……っ!)

めまぐるしく何かが変わる感じがする。周りがぐるぐる回って、いろんなものがない交ぜになって、一つになって、またバラバラになる。

(壁の……『外』へ……!)

今にも意識がどこかへ行っちゃいそうになりながら、それでも、私は前に前に歩き続けた。歩いているのが前なのか、横なのか、後ろなのか、それももうはっきりしなかったけど、でも……「外」に近づいてる気だけはしてた。

(……!!)

その時突然、目の前が真っ白になった。ううん。目の前だけじゃない。自分の周りがみんな白くなって、真っ白になって、何も見えなくなって、光で……光で埋め尽くされて……

 

「……………………」

気が付くと、わたしは森の中にいた。さっきまでいたウバメの森に、よく似ている。

でも、一つだけ。

一つだけ、違うことがあった。

 

「周りが暗い……これが……これが『夜』……!」

 

周りが、「夜」だったこと。時間で区切られた、名前だけの「夜」じゃない。周りが暗くなって、ひんやりとした空気の流れる、本で読んだ「本物」の「夜」。作り物じゃない、本当の「夜」だった。

(わたし、「外」に出たんだ……「中」から「外」へ、出ることができたんだ!)

そこはもう、わたしの知ってる「中」の森じゃなかった。そこはもう、わたしの知らない「外」の森だった。

腕の中で丸くなっているおーちゃんを、わたしはしっかり抱いた。体の奥から、不思議な力が湧き起こってくるみたいだった。今ならきっと、おーちゃんを助けられる。今ならきっと、またおーちゃんと一緒にいられる。

「……おーちゃん、行くよ! わたし、おーちゃんのこと、絶対助けてあげるから!」

夜の森の道を、わたしは駆けて行った。

暗くて静かな、希望に満ちた「夜」の道を。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586