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ホームに立つ男性

私は普段、最寄りの駅から電車に乗って会社まで通勤しています。

上りと下りのホームが向かい合う本当によくあるタイプの駅で、強いて言うなら急行も止まることくらいしか特徴がありません。

いつも通るのにまるで名前や風景を覚えられない駅がひとつふたつあると思いますが、そうした駅を思い浮かべていただければ結構です。

 

その日も私は駅で電車を待っていましたが、時間は朝の四時半でした。始発が来る前の時間になります。

仕事で朝早く出社する必要があり、逆算したところ始発に乗らないと間に合わないと分かったので必死で起きたのを覚えています。

年に一度くらいこうして早く出勤する必要があるのですが、何度経験しても辛さは変わりません。

 

電車が来るまでまだ時間があったので近くの自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに座って待つことにします。

プルタブを開けて熱いコーヒーを飲んでいると、向かいのホームに背広を着た男性が立っているのが見えました。

同じように朝早くの出社かな、大変そうだな。その時はさして気にも留めず、男性にもこれと言って変わったところもありませんでした。

 

しばらく待っていると反対側のホームでアナウンスがあり、もうすぐ電車が来る旨が告げられました。

こっちの電車はまだもう少し掛かるな、そんなことを考えながら向かいに目をやると、背広の男性がゆらりと動きました。

どこか不安定な足取りをしていて、左右に揺れながら一歩ずつ前へ歩いていきます。

 

まさか、と私が目を見開いた直後。男性が大きくよろめいて落ちたのと、電車がホームへ滑り込んできたのはほとんど同時でした。

男性は走ってきた電車に巻き込まれて、あっという間にその姿を消してしまいました。本当に、一瞬の出来事でした。

電車に身を投げる人が多いというのはニュースなどで聞いて知っていましたが、実際に見たのは初めてのことで、とてもショックでした。

 

人が死んだわけですから、きっとすぐに駅員さんたちが駆け付けたりして騒ぎになるはず、私は軽く震えながら見守っていました。

ところが、どれだけ待っても誰一人やってくる気配はありません。不気味なほどひっそりと静まり返っています。

電車の運転手からも絶対に見えていたはずなのですが、降りて状況を確認したりするようなことはまったくありませんでした。

 

そうこうしているうちに電車のドアが閉まる音がして、あろうことかそのまま発車し始めました。

本当に何事もなかったかのように走り始めて、あれよあれよと言う間にスピードを上げてホームから離れていきます。

落ちた人はどうなったのか? 人が死んだはずなのでは? 私の混乱をよそに、電車は駅から走り去っていきました。

 

戸惑いながら向かいを見ると、線路には何の痕跡もありません。血の跡や倒れた人など、本来ありそうなものはまったく見当たりません。

理屈の通らないことだらけでどういうことか分からず混乱しながら、恐る恐る目線を上げます。

 

先ほどホームに落ちたはずのサラリーマン風の男性が、虚ろな顔をしてベンチに座っていました。

 

そこから先の記憶はあいまいです。やってきた電車に急ぐ必要もないのに飛び乗って、向かいのホームを見ないようにして席に着きました。

見てはいけないもの、見えるはずのないもの。それを見てしまったという、とても憂鬱な気持ちになったことだけは覚えています。

 

あの後最寄りの駅で過去に自殺した人などがいないか結構時間をかけて調べてみましたが、まったく見つかりませんでした。

私が見たのは間違いなく生きている人間ではないと思うのですが、あの駅にそういう類のものが生まれそうな話はこれといって見当たらないのです。

そうなると、あの男性らしき何かはなぜあの駅に姿を見せたのでしょうか。なぜ電車に飛び込むようなことをしたのでしょうか。

 

何の因縁もない場所に現れて自殺の真似事をしているというだけで、決して関わるべきではないことだけは確かですが……。