もうそろそろ四十年くらい前になると思います。子供だった頃、私は大きな団地に住んでいました。
団地には外から来た行商らしき人や、そうでなくても「ここに住んでないな」と分かる人が結構出入りしていました。まだおおらかな時代だったと思います。
その中でも、今になって振り返ってみても特に奇妙だった人がひとりいました。その話をさせてください。
確か小学三年生の夏休みだったと思います。四年生の時に引っ越した友達がまだいた時期なので間違いありません。
その友達が私に「団地で変なものを売ってる人がいる」と教えてくれたのがきっかけです。
夏休みで暇を持て余していたこともあり、私は教えてくれた友人と共にその人の元へ向かいました。
その人はちょうど今の私と同じくらい、四十代後半から五十代くらいのおじさんでした。団地にった小さな公園にいたはずです。
周りには団地に住んでいる子供が多く集まり、同級生はもちろん、上級生や下級生、まだ幼稚園に通っていそうな子もいました。
おじさんが集まった子たちを慣れた様子でなだめて整列させて、順番に売り物とお金を交換していきます。
おじさんが売っていたのは、瓶入りの水でした。
色は無色透明、ラベルなどは貼られていませんでした。昔ながらの駄菓子屋さんで売られているラムネを思い浮かべてもらえればほぼイメージ通りです。
よく冷やされていたのか瓶は結露していて、夏の暑い盛りに目にするとそれだけで飲みたくなるような外見でした。
実際、おじさんの持ってきた瓶入りの水は飛ぶように売れてゆき、私が買う前にすべて売り切れてしまいました。
運良く水を買うことのできた友達に味はどんな風だったのか尋ねてみると、「なんだか変わった味がした」と言われました。
その友達によると「ミートソースの風味」で、水を飲んでいるのにスパゲッティを食べているような気持ちになったとのこと。
何の色も付いていない水にそんな味が付いているとは思えず首を傾げましたが、嘘を言うタイプでも無いので自分で飲んで確かめてみようと思いました。
団地内で変わった水を売るおじさんの噂は瞬く間に広がり、程なくして母親の耳にも入ったようです。
「何が入っているのか分からないから飲まないように」と言いつけられましたが、私は飲んでみたくて仕方ありません。
母親はコーラスの稽古でしばしば家を空けていたので、その隙に買いに行けないかとチャンスをうかがいました。
夏休みの終わり頃、チャンスが到来しました。母の外出時におじさんが商売を始めようとしているのを見つけたのです。
私は十円玉を握りしめておじさんの元へ一番乗りで向かい、念願だった瓶入りの水を購入しました。
早速フタを開けて口を付けると、渇いた喉に水を流し込みます。
(これ……カレーの味?)
瓶の中に入った水は、カレーの味がしました。カレーの風味とかではなく、本当にカレーの味がしたんです。
喉を通る感覚は間違いなく冷たい水なのですが、舌が感じたのは家や学校で食べ慣れたカレーの味。言うまでもなく全然かみ合いません。
目を白黒させながら飲むのをやめて瓶を見てみますが、中に入っているのは無色透明の透き通った水だけでした。
友人はスパゲッティミートソースの味がしたと言っていましたが、私の場合はカレーでした。
とはいえ、あの時に見た「?」がいっぱい浮かんでいた顔の意味はよく分かりました。たぶん私も同じ顔をしてたと思います。
食感?は紛れもなく水なのに、舌はカレーの味を感じている。かといって呼吸にカレーの匂いがあるわけでもなく、ただ味がするだけ。
結局よく分からないまま飲み干したのですが、その頃には既におじさんは水を売り終えて立ち去っていました。
そして、どうやらこの日が最後の商いになったようで、以後おじさんが団地に姿を現すことはありませんでした。
どうやってこんな水を作っているのか、他にどんな味があるのか知りたかったのですが、結局訊けずじまいでした。
変なおじさんが変な水を売っていて、飲んでみたらカレーの味がした。言ってみればただそれだけの他愛ない話です。
ただ、今に至るまで似たような水には出会っていないこと、あのおじさんについて何も分からなかったことを考えると少し不気味です。
……あの人は何の目的であの水を作って、私たちの住んでいた団地に売りに来ていたのでしょうか?