これは今から十年ほど前、私と両親の三人で伊豆に一泊二日の旅行へ出かけたときの話になります。
泊まった旅館で起きたことなのですが、今も営業している場所でもあり、迷惑をかけるといけないので名前は伏せさせてください。
調べてみたのですが、その旅館に何か曰くがあるわけではなさそうですし、そもそも旅館と自分の身に起きたことの関係があるのかも分かりません。
朝早くから出かけて伊豆に入り、あちこちを見て回りました。両親は還暦を超えてもなお健脚で、私より元気に歩いていたんじゃないかと思います。
観光を終えた夕方には予約を入れておいた旅館へチェックインし、広い座敷の間へ通してもらいました。
この旅館は母が以前から泊まってみたいと言っていたところで、雰囲気も良く大変気に入っていたのを覚えています。
温泉へゆっくり浸かり、部屋へ運んできてもらった食事をおいしくいただき、普段皆あまり飲まないお酒も飲んだりして、とてもいい気分でした。
両親がいつも家にいるときは点けっぱなしにしているというテレビも今日に限っては点けず、三人で静かにのんびりと過ごしました。
朝早くから移動し、昼間に歩き回ったこともあってか全員が疲れて眠気を覚え、普段よりもかなり早く布団を敷いて眠りに就きました。
就寝中、ふと目が覚めて起き上がりました。特にトイレへ行きたかったわけでもなく、本当にただ唐突に目を覚ました感じです。
最初は寝ぼけていて気付かなかったのですが、眠りに就いた時と「何かが違う」という感覚は最初からありました。
何がどう違っているのか、どこがおかしいのか。しばらく辺りを見回してみて、ハッと気がつきました。
そこは、自分の家でした。家にある私のベッドで目が覚めたんです。
目が覚めたら自分の家にいたので、初めのうちは違和感を覚えなかったんですよね。普段から見慣れた光景だったので。
ただ、私は前の日に伊豆の旅館で泊まったはず。それから家に帰ってきて眠るまでの記憶がまったくなく、ここにいることは不自然そのものでした。
近くに置いてあったデジタル時計を手に取り、ライトをオンにして日付を見てみても、大きく日付が変わったようには見えません。
たまにやたらと現実感のある夢を見ることがあり、初めのうちは今回もそれだと思いました。旅館で寝て家で目が覚めるなんてあり得ないので。
しかし、そのまましばらくベッドの縁に座っていると「なんだかいつもと違うな」という違和感がどんどん大きくなってきます。
手や足の感覚ははっきりありますし、夢の中特有の動きづらさや浮揚感がまったくなく、本当に起床中と変わらない動きと思考ができたからです。
立ち上がって歩いてみます。その「違和感のなさ」がさらに違和感を増大させました。あまりにいつも通りだったからです。
部屋にある物品を適当に手に取ってみても普段と何も変わらず、暗い中でかすかに見える本の表紙もよく見知ったものでした。
すべてがいつも通りで、いつも通りであること自体が不気味さをかき立ててくるというか……。
自分が夢を見ているのかそうではないのか不安になり、机の上に置いてあったメモにペンで「これは夢?」と走り書きをしました。
この後もう一度眠ってみて、起きた時に旅館で目が覚めればただの夢。まだ自宅にいれば記憶障害か何かのはず。
後者だったらどうしようか、どこか診てもらえる病院はあるのだろうか。不安を覚えつつ再びベッドへ潜り込みました。
しばらくして再び目が覚めると、今度は本来いるはずの旅館にいることに気付きました。朝日が差し込んできていて夜が明けたのが分かります。
日付も思った通り一日しか進んでおらず、隣では両親も眠っています。昨日寝付く前と矛盾のない光景に、私は思わず胸をなで下ろしました。
両親が起きてから「家に帰る夢を見た」と話すと「これから帰るのに気が早い」と笑われて、私もつられて笑ってしまいました。
旅行二日目の観光もつつがなく終えて、無事に家まで帰ってきました。私も両親も心から楽しめたと感じます。
荷物の整理と遅めになった夕食を終えて自室でひと息ついていると、ふと机の上のメモに目が留まりました。
そう言えば昨日は妙な夢を見て、その時に「これは夢?」と書いたメモを残したことを思い出しました。
昨日の夢は現実感こそ強かったけれど、所詮ただの夢なのだから現実にメモがあるはずがない……そう思っていたのですが。
「これは夢?」
……あの時書いたものと全く同じメモが、机の上に残されていました。