皆さんも一度は歩道橋を渡ったことがあると思います。主に長い車道を跨ぐ形で、反対側の道へ向かうために架けられたあの橋です。
ほとんどの人は歩道橋をただ目的地へ向かうための通り道としてしか見ていないと思いますし、私自身もそれは基本的に変わりありません。
ただ、過去に一度だけ、得体の知れない謎の歩道橋に出くわしたことがあったんです。忘れてしまう前にここへ記しておこうと思います。
その歩道橋を見たのは今からもう三十年ほど前、銀行勤めだった父親が転勤することになり、家族で四国の地方都市に引っ越した頃のことでした。
転居したての時期は公私ともに忙しくて周りを見る余裕もなかったのですが、一ヶ月もすると落ち着いてきて休日に辺りを散歩するようになりました。
そうして近隣にあるお店や施設の所在を把握していったのですが、その途中で少し奇妙な物を見つけました。
「トマソン」という概念について耳にしたことはありますでしょうか。作家の赤瀬川原平氏が提唱した、ある種の芸術として認識されるものです。
行く先のない階段や途中で切れているように見える梯子のような「無意味・無価値な実用物」が、なぜか芸術のように保存されている光景を指して言ったそうです。
ちなみにこのトマソンという風変わりな名称は、当時四番に据えられながら活躍に乏しかった外国人野球選手「ゲーリー・トマソン」に由来すると知りました。
私が見つけたのは、「反対車線に渡る橋がない歩道橋」でした。単に登って下るだけでどこにも行けない、トマソンの定義を満たす正しく無用の長物です。
ぱっと見は普通の歩道橋に見えるのですが、よく観察してみると車道を跨いでおらず「歩道橋」としての機能がないのです。
ゆえに見かけた時はその奇妙さに目を奪われましたが、歩道橋としてはまったく意味がないのは明らかで、一度として使うことはありませんでした。
転機が訪れたのはそれから数ヶ月後。近くのアパートに住んでいた同級生から、あの歩道橋にまつわる奇妙な話を聞きました。
「夜遅く、具体的には日を跨ぐ頃にひとりで歩道橋を渡ると別の世界へ行ける」――というものです。具体的な出所は不明で、同級生も別の友人から聞いたとのこと、
他愛のないただの噂でしたが、当時その同級生以外にあまり遊び相手もおらず暇を持て余していたこともあり、肝試し感覚で歩道橋へ行ってみることにしました。
夜に両親が寝静まったのを見てからこっそり家を出て、例の歩道橋へ向かいました。家からは歩いて五分ほどですぐにたどり着いた記憶があります。
すぐ近くに24時間営業のコンビニがあり、自動車の往来も多い上に街灯も設置されていましたから、怖いという印象は少しもありませんでした。
腕時計を見ながら11時59分に階段に足を掛け、ちょうど日を跨ぐくらいに渡りきれるようゆっくりと階段を上りました。
階段を上りきった後は歩道橋の橋に相当する部分を歩いて、今度は行きとは逆に階段を下ります。この間、特に何か変わったことはありませんでした。
別の世界云々は所詮子供だましだろうと思いつつ、心の奥底ではもし何かあったら……と期待と不安、そして少なからぬ興奮を覚えていました。
夜遅くで足下は暗く、転ばないように注意しつつ階段を下りて腕時計を見てみると、時刻は0時ちょうど。それを確認してから近くを見てみました。
真っ暗になっていました。コンビニの灯りは消え、街灯は忽然と姿を消し、先ほどまで頻繁に通っていた自動車は影も形もありません。
あまりの変貌ぶりに驚いて目を見開きました。つい先ほどまで辺りを照らしていた光源がすべて消失して、底知れない闇がどこまでも続いていたのです。
よく目を凝らすと、コンビニのシルエットらしきものは見えます。しかし建物は荒廃してガラスも割れていて、とても営業しているようには見えません。
近隣にある他の店舗も同じで、ことごとくが廃墟と化していました。人影はまったくなく、自動車が通りがかる気配も皆無です。
その場に立ち尽くしていると、やがて前方から何か音が聞こえてきます。足音のようでしたが間隔が一定ではなく、二足歩行のそれではなさそうでした。
今になって振り返ってみると不思議なのですが、私はその時とっさに歩道橋の階段を駆け上がりました。他の場所に逃げるのではなく、です。
歩道橋を渡ると別の世界に来るという噂をどこかで覚えていて、来た道を逆走すれば元の場所に戻れるのではと咄嗟に考えたのでしょうか。
がむしゃらに走って階段を下りると、元の場所……と言うか、歩道橋を渡る前と同じ光景が広がっていました。
コンビニも街灯も灯りが点っていますし、車もいつも通り走っています。建物が廃墟になっているようなこともありません。
心から安堵すると共に、あの向こう側へ渡れないはずの歩道橋に言い知れぬ気味の悪さを覚えて、そそくさと家へ帰りました。
それからは例の歩道橋に近付くこともしなかったのですが、あれは一体何だったのでしょうか?
あの時私が見たものは何かの見間違いだったのか、それとも本当にどこか別の場所へ迷い込んでしまったのか。私に近付いてきたのは何だったのか。
そして、もうひとつ気になること。
……そもそもあの歩道橋は何のために設置されて、なぜ撤去されることもなく残り続けていたのでしょうか……?