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変わらない公園

たまに里帰りをすると、見知った場所の風景が大きく様変わりしていて、寂しさや侘しさを覚えることがあると思います。

それだけに私は、昔からずっと変わらない場所には多かれ少なかれ愛着や安心感を覚えます。普段あまり行かないような場所にあるものでさえも、です。

ですが最近、変わらないことにも限度があるのだということを実感する出来事がありました。それについて話させていただければと思います。

 

地元はいわゆるベッドタウンで、一戸建ての家やマンション、アパートなどがあちこちに林立しています。私の実家はその中にある一軒家です。

取り立てて外から見に来る価値があるようなものもなく、何か名物になるようなものも見当たらない。都心で仕事をして「寝るため」に存在する。

ベッドタウンという言葉がここまで相応しい場所もそうないのではないかと思います。

 

その地元には、自宅から十分ほど歩いたところにちょっと広めの児童公園があります。遊具がまばらに設置されたありがちな公園です。

敷地内にはベンチとブランコ、今となっては珍しくなったシーソーとジャングルジムがあり、たまに散歩をしに行くとしばしば子供が遊んでいます。

公園に何か曰くがあるとかそういった話はありません。書くにあたって調べてみましたが、心霊スポットサイトなどにも見向きもされていませんでした。

 

私は地元を離れて東京で就職し、地元には年に一度帰るか帰らないか、といった具合の関係をかれこれ二十年ほど続けています。

過去に二年ほどまったく帰らなかったこともあり、しかもこの時に大規模な工事がいくつも行われて、すっかり風景が変わった場所がいくつもありました。

久しぶりに帰省してみたら見慣れた風景がなくなっていた。ありがちですが、どこか寂しさを感じるものです。

 

しかし、その児童公園はいつまでも変わりませんでした。帰省するたびに間違いなくそこにあり、何の変化もありません。

遊具が減ることも増えることもなく、私が子供の時に目にしていた光景がそっくりそのまま保存され続けているのです。

いつの時代もまばらに子供が遊んでいて、まるでそれすらも録画映像を流しているかのように変わりませんでした。

 

その公園は何も変わらない、あまりにも変わらないのです。

 

ベンチのくたびれ具合や遊具の錆びた個所など、私が目にした四十年以上前から一切が変わっていません。

文字通り一切変わっておらず、シーソーは塗装が剥げた部分が狭まるでも広くなるでもなく、ブランコが揺れるキイキイという音もずっと同じです。

児童公園は確かに古びているのに、どこかのある時期からそれ以上古くならなくなってしまったのです。

 

これまでのところ私以外に、あの公園があまりにも変わらないことに違和感を覚えている人はいないように見えます。

両親に訊ねてみても「そういえばそんな場所あったね」くらいの反応で、何も気にしていないようでした。

そうそう訪れる場所でもないですし、変わっていなければ「変わってないね」で済まされてしまう。そういうものだと思います。

 

最近、私はあの公園に言い知れぬ不気味さを覚えるようになってきました。

繰り返しますが何か曰く付きというわけでもなく、地元の人すらただ通り過ぎるだけのことがほとんどの、ただの児童公園です。

しかしその公園はあまりにも「変わらない」のです。ずっと変わらないまま時間の流れから取り残されている、あるいは時間を無視しているように見えます。

 

懐かしいと感じる場所が変わることなく存続しているのは無条件に好ましいことだと、長らく疑うことなく信じてきました。

けれど、あの公園の一切変わらない様子をずっと見続けていると、物事には限度があるのかもしれないと思うようになってきました。

今年も公園の様子を見てきましたが、やはり何も変わりませんでした。私が物心ついた時の風景がまるごと保存されていました。

 

いつか、あの公園が「変わる」時は来るのでしょうか? それとももう二度と変わらないまま、ずっとそこにあり続けるのでしょうか?