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第七話「Feel A Fear」

「あっ、お母さん。お帰りー。早かったね」

……外から声が聞こえて来た後、二階から観鈴ちゃんがとたとたと降りてきた。服はもう着替え終わっているみたいだ。そのまま玄関まで歩いて、外から入ってきた人――どうやら、観鈴ちゃんのお母さんみたいだ――を出迎えに行った。

「せやでー。今日は仕事が早うに終わったからなあ。観鈴も今帰って来たとこか?」

「うん。お昼、一緒に食べられるね」

「お、まだ食べてないんかー。ええわええわ。うちが用意するから、茶の間で待っとき」

「ううん。わたしも手伝うよ」

観鈴ちゃんと観鈴ちゃんのお母さんの、楽しそうな話し声。佳乃ちゃんと聖さんが話す時の声と、雰囲気がそっくりだと思った。きっと、二人はすごく仲がいいんだろう。

と、その時。

「……かぁぁぁ……」

「ぴこ?」

僕の隣で、そらが悲しげな声で鳴いた。

「……かー……」

そらは自分の名前にもなっている空を見上げながら、また、悲しげな声を上げた。僕にはその意味が良く分からなくて、ただきょとんとした表情でそらを見つめるほかなかった。

そうしている間にも、観鈴ちゃんとお母さんの話は続く。

「それでね、今日ね、すごいものを見つけてきたんだよ」

「ほー。なんやなんや。聞かしてくれるか?」

「えっとね、ぴこぴこー、って鳴く犬さん」

「……犬? なんやこう……ワンワンじゃなくて、ぴこぴこーって鳴くんか?」

「そうだよ」

ああ、僕の事だ。そう言えば普通の犬は、「ぴこぴこ」なんて鳴かないよね。「ワンワン」とか、「バウバウ」とか、そんな感じの鳴きかたをするはずだ。でも、僕が声を出すと必ず「ぴこぴこ」になる。どうしてだろう。

「今はどないしとるんや?」

「お茶の間でそらと一緒にいるよ」

「そらと? あれ、犬苦手やったんと違うか? この前もほら、でっかい犬に吼えられてやな……」

「あっ……で、でも、ぴこは優しいから、きっとそらをいじめたりなんかしないよ」

観鈴ちゃんの話を聞いて、そらが僕に攻撃してきた理由が分かった。どうやらそらは、僕が嫌いだとかそんなのじゃなくて、犬そのものがダメらしい。それなら、仕方ないことなのかな。

「ほー。ぴこって言うんか。せや。ちょっと顔見に行ってくるわ。茶の間におるんやんなぁ?」

「そうだよ。多分、座布団の上に座ってるよ」

僕は観鈴ちゃんの声を聞いて、慌てて座布団に座りなおした。一応観鈴ちゃんのお母さんと初対面になるんだから、少しは礼儀のいいところを見せておかないとね。もしここでヘマをしちゃったら、観鈴ちゃんの家から叩き出されちゃうかも知れないし。

「……………………」

座布団の上に両足をきちんと置いて、観鈴ちゃんのお母さんが来るのを待った。

「さてさて。どんな子なんかいな……」

声がして、観鈴ちゃんのお母さんが茶の間に入ってき

 

「…………!!!!!」

 

……た瞬間、僕の体におぞましいほどの寒気が走った。今は夏真っ盛りなのに、突然真冬の北極海に素っ裸で放り出されたみたいに、体ががちがちと震えだした。体の自由が、まったく効かない。

「ほーほー。観鈴、このわた飴みたいのんかー?」

「そうだよー。ふわふわのもこもこー」

後から観鈴ちゃんも入ってきたけど、僕はそれにまったく反応することができない。

「なんや、えらい行儀ええなあ。もしかして、飼い犬とちゃうんか?」

「うーん……でも、首輪とかはついてない……」

「せやなぁ。やっぱり、野良犬かいな?」

そもそも僕は今、何を恐れているのかすら良く分からない。ただ、滅茶苦茶に恐ろしいという感情だけが、僕の体いっぱいにすごい勢いで広まっていく。理由も分からない恐怖なんて、想像したこともなかった。ただ、恐かった。

「ぴこ、これがわたしのお母さん。晴子さんって言うんだよ」

「せやでー。うちは晴子や。観鈴のお母さんや」

そして僕はだんだん気付き始めた。

 

……僕がおぞましいほどに感じている、正体不明の得体の知れない恐怖が、観鈴ちゃんのお母さん……晴子さんから発せられていることに。

 

「ぴ、ぴこぴこ……」

僕はかろうじて返事をすることができた。このまま何も言わなかったら、さすがにまずいと思っていたから、ほっとした。

「うわ! ホンマにぴこぴこって鳴きよった!」

「にはは。ホントだよ。ぴこぴこーって鳴くの」

「こら珍しい犬やな……っちゅうか、ホンマに犬なんか?」

「えっ?! う、うーん……」

僕はどうやら今、犬かどうかすら怪しい状態らしい。

「もしかしてアレや。どっかの研究所かなんかから逃げ出してきた実験生物とかとちゃうんか?」

「が、がお……もしそうだったら、ちょっと大変……」

研究所じゃなくて診療所から逃げ出してきたから、実は半分ぐらい正解だ。でも、実験生物じゃない。

「でも、こんなにかわいいんだよ? きっと、ちょっと変わった犬さんだよ」

「ふぅん……ま、そういうことにしとこか。観鈴、お昼にするで」

「うん」

そう言って、二人は台所に引っ込んでいった。

 

「ぴ、ぴこぉ~……」

二人が台所に引っ込むのを確認すると、僕は体からへなへなと力が抜けていくのが分かった。とりあえず、今はもう大丈夫だ。

「……かー」

それは僕だけじゃなくて、そらも同じだったみたいだ。ほっとしたように、低い声で一度鳴いた。

「ぴこぴこ?」

僕は問いかけてみた。「君も晴子さんが恐いの?」

「かー!」

非常に元気のいい返事が戻ってきた。さっきまでのそらからは想像できないぐらいの元気のよさだ。晴子さんのことがよほど恐かったんだろう。

「ぴこぴこぴこ」

「かーかーかー」

「ぴっこり」

「かー」

そらの話によると、晴子さんはああ見えてとても「恐ろしいこと」をそらにしてくるらしい。その「恐ろしいこと」がどんなことかまでは分からなかったけれど、とにかく、恐ろしいらしい。

「ぴこー……」

「かぁー……」

胸のうちに溜まった憂鬱を吐き出すように、僕らはそろってため息をついた。

 

――それから、しばらく経った後のこと。

「そらー、ぴこー」

観鈴ちゃんに呼ばれた。座布団の上で丸くなっていた僕は、すっくと立ち上がった。

「これから二階で勉強するけど、一緒に来るかな?」

「かー」

「ぴっこり」

僕もそらもすぐに返事をして、観鈴ちゃんの後ろについていった。観鈴ちゃんを先頭にして、僕とそらがその後ろに連なる。

「がおがおがおー♪」

「ぴこぴこぴこー♪」

「かーかーかー♪」

三人三様の鳴き声……というか、観鈴ちゃんだけちょっとおかしいような気がするんだけど、とにかく、にぎやかな鳴き声をあげながら、僕たちは階段を昇って、部屋の中に入った。

「ぴこ……」

観鈴ちゃんの部屋の中には、恐竜のぬいぐるみが所狭しと置いてあった。首が長いのもいれば、体が大きいのもいるし、トゲトゲみたいなのを背中から生やしてるのもいる。とにかくいろいろいるけど、その全部に共通してることは、恐竜だけど目がかわいくて、全然「恐」竜っぽくないことだ。

「今日は英語」

「ぴこ」

「単語も覚えないといけないから、ちょっと大変」

観鈴ちゃんは本とノートを机の上に広げて、勉強を始める体勢に入った。佳乃ちゃんも勉強する時、こんな姿勢になってたっけ。

「観鈴ちん、英語はちょっと苦手。この前も、赤点ぎりぎり」

「……………………」

「英語じゃなくて、そらとか、ぴこの言葉を覚えられるんだったら、もっと頑張れたかも」

いろいろとしゃべりながら、観鈴ちゃんがノートと本を交互に見ている。

「うー」

「ぴこ?」

「こんな単語、見たことない……」

「……………………」

「観鈴ちん、ぴんちっ」

どちらかと言うと、手よりも口の方が良く動いている。

「辞書辞書っ」

辞書を取り出して、単語の意味を調べ始める。

「えーっと……わっ、行き過ぎちゃった」

行き過ぎちゃったみたいだ。

「よいしょ」

「あ、あったあった」

「えーっと……」

「あ、こんな意味だったんだ」

「観鈴ちん、びっくり」

………………

…………

……

 

「……………………」

……観鈴ちゃんが勉強を始めて、多分、三時間ぐらい経った後。

「……………………」

観鈴ちゃんはつい一時間ほど前から、顔を伏せたままぴくりとも動かない。どうしちゃったんだろう? 何か、とてつもなく難しい問題にぶち当たってしまったのかな。

「……………………」

そのまま、沈黙が続く。

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

このまま一生こうしてるのかなとか、そんなことを考え出してしまいそうになったとき。

「……はっ! いけないいけない。観鈴ちん、お休みしてたよ」

「……ぴこ」

寝てただけだった。疲れているのかもしれない。

「えっと……今、何時かな」

「わ、もうこんな時間」

「そろそろ、晩ご飯の準備をしないと」

観鈴ちゃんは一人でしゃべって、僕とそらに状況を説明した。外を見てみると、もう夕焼けが始まっていた。

「ぴこ、そら、下に行くよ」

「ぴこっ」

「かー」

僕とそらは立ち上がって、この部屋に入ってきたときと同じようにして、観鈴ちゃんの後ろについて歩き出した。

「……………………」

 

僕はこの時、まだ気付いていなかった。

もっと正確に言うと、「思い出して」いなかった。

観鈴ちゃんの家に来るまでに感じた既視感に、晴子さんを見たときに感じた得体の知れない恐怖の感覚……

 

――その理由が、ここ神尾家の「夕飯」にあることに――

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。