誰もいない会社で仕事をしたことはありますでしょうか。自慢ではないですが、私は何度かその経験があります。
夜遅くまで残って作業をすることになったときや、朝早く出社して資料を作成したときなど、そのほとんどは真っ当な理由で人がいない時間でした。
しかしある時一度だけ、朝から晩まで誰とも一切会わない奇妙な一日を過ごしたことがあります。その時の話をさせてください。
社会人十年目くらいのことでした。この歳になるとひとりでいろいろ仕事ができるようになり、案件もどんどん回ってくるようになります。
当時の私も複数の案件をひとりで掛け持ちしており、それぞれでたくさんの資料を作る必要に迫られていました。
パソコンはありましたがまだAIのえの字も無い時代でしたから、手作業ですべてを作らなければならず大変だったのを覚えています。
私はどちらかというと朝型なので、夜は早めに切り上げて帰る代わりに朝早く出勤して作業をすることが多くありました。
その「朝早く」というのは五時や六時という本当の早朝で、集中したい時は始発電車に乗って会社へ向かうこともしばしばでした。
人にもよると思いますが、私はどちらかというとこちらの方が生産性が上がると感じています。今は早起きが辛くなりつつありますが……
その日も始発で会社に向かいました。正面玄関が開いていないので裏の通用口から進入し、エレベーターを使ってオフィスのあるフロアへ向かいます。
誰もいないオフィスの明かりを点けて自分の席に荷物を置くと、軽く伸びをしてから早速仕事を始めました。
確かこの時は商品のプレゼンを作っていて、細かいところにこだわる上司のために対策を打った資料を準備していた記憶があります。
朝早くから資料の作成に取り掛かって、ようやくひと段落が付きました。タスクバーの時計を見るともうすぐ九時、始業時刻です。
周りがどうなっているかも気にしないくらい集中していたので、少し頭がぼんやりしています。休んだ方がいいと思いました。
椅子から立ち上がって、何気なく周囲を見回した時。私はあることに気が付きました。
自分以外、フロアに誰の姿もありませんでした。オフィスに人がまったくいなかったのです。
思わず「えっ」と声が上がりました。周囲に誰もおらず、仕事をしていたのは私ただ一人だけだったからです。
慌ててパソコンのカレンダーを確認します。今日は土日か祝日だったか、そのことに気付かず出社したのかと考えたのです。
しかし日付はしっかりと平日、7月17日の木曜日でした。創立記念日でもなく、会社に誰もいないことはあり得ません。
念のためスケジューラーでも予定を見てみました。普通に打ち合わせが入っていて、私以外が主催するものも複数あります。
状況的には明らかに休日ではないのですが、もう一度辺りを眺め回してみても人っ子一人見当たりません。
完全に静まり返ったオフィスで、私はしばらくの間ひとりでぼんやりと立ち尽くしていました。
しかし、今思うとかなり変な判断だと言わざるを得ないのですが、私はそのまま仕事に戻って資料作成を再開しました。
人がいないならいないで静かで集中できる、そう判断したのだと思います。当時はあまりに忙しく、仕事が最優先になっていたように思います。
一日中ずっと資料作成に取り組みました。電話やメールが来ることもなく終始独りきりで、定時を一時間ほど回ってから代謝しました。
翌日。前日のことを少し気に掛けつつ通常通りの時間に出社してみると、今度は普段通り大勢の人がオフィスにいました。
昨日は何だったのかと思いつつ席に着き、隣にいた同僚にそれとなく「昨日のレビューはどうだった?」と訊ねてみました。
同僚は特に不審な様子も見せずに「いろいろ指摘を受けちゃったよ」と苦笑いしていて、どうやら普通に仕事をしていたようです。
さらに別の同僚に「昨日の定例会って何か持ち帰りあったっけ」と訊ねました。本来は私も出る予定だった打ち合わせです。
同僚は「昨日は持ち帰りなしで終わったはずだよ」と回答しました。私が欠席していた様子はありません。
他の同僚にも聞いてみましたが、出る予定だった打ち合わせにはすべて私の姿もあったようです。もちろん出た記憶はないのですが……。
それからずっと普通に働いていますが、あの日のようにオフィスに自分一人だけがいる、という状況は再現していません。
なぜあんなことが起きたのかは分かりませんし、同僚たちが見た私が何者だったのかもハッキリしません。
あの日一日、私だけがどこか別の次元にあるオフィスにいたのかも知れない……そんなことを考えてしまいます。
ちなみに――独りきりのオフィスで作成した資料は、翌日見てみるとしっかりとパソコンに保存されていました。