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第九話「Summer Lights Featuring Summer Puddles」

「……………………?」

気が付いた。

深い深い闇の底にあった僕の感覚が、徐々に本来あるべき場所へ戻ってきた。体の付け根から節々、末端に至るまで、まるで古い機械に電気が通っていくように、少しずつ、温かさが戻ってくる。

「……ぴ……こ……」

僕は両足に力を入れて、どうにか立ち上がった……けれど、すぐに。

「……ぴこっ」

そのまま立っていられなくなって、僕はしりもちをついた。視界はぼんやりとして、頭はガンガンして、今にも胸の中から何かが飛び出てきそうな、嫌な感覚でいっぱいになった。おかげで、真っ直ぐ立つのもおぼつかない。

「……ぴこ……」

僕はそのまま畳の上に座って、気分が良くなるのを待つことにした。

「……………………」

ふと、僕は視線を横に向けてみた。

「……………………」

「……………………」

もう一人、畳の上でお亡くなりになられている人……正確に言うと、カラスがいた。

その表情には、絶望と苦しみが余すところなく刻み込まれている。世にも恐ろしい表情だ。

ああ……そらも、晴子さんの犠牲になったのか……きっと、僕と同じ目に遭ったのだろう。とても不憫だ……僕はしみじみとそう思いながら、今は夢の中(多分悪夢)にいるそらの隣に寄り添って、もう一度丸くなった。

目を閉じていると、少しずつ、体が元に戻っていくような気がした。

 

「あ、ぴことそら。一緒に寝てる」

「ぴこ?」

それから少し経った後、かわいい声が聞こえてきた。観鈴ちゃんだ。多分、今起きたばかりなんだろう。パジャマ姿のままで、髪も少し乱れてる。

「昨日はごめんね。お母さん、酔っちゃうと見境が付かなくなっちゃうから」

「ぴこぴこー」

「そらと一緒にいてくれたの?」

「ぴこっ」

「そうなんだ。ぴこは優しいんだね」

観鈴ちゃんがしゃがみこんで、僕の頭をなでてくれた。くすぐったいその感覚に、僕は思わず体をぶるっと震えさせる。僕の姿を見て、観鈴ちゃんがまた「にはは」と笑った。

「ちょっと着替えてくるから、その後お散歩に行こうね」

「ぴこっ」

僕もずいぶん気分がましになってきたし、お散歩をすればもっと気分が良くなると思ったから、元気良く頷いておいた。

「……………………」

「……………………」

それにしても、そらは本当に大丈夫なのかなぁ……怖い夢、見てなきゃいいんだけど……

 

「ごめんねぴこ。ちょっと、髪の毛がうまくまとまらなかったの」

「ぴこぴこっ」

観鈴ちゃんが階上から降りてきて、玄関にやってきた。僕はもう門の外で待っている。気分は大分良くなった。まだちょっと頭が痛いけど、まっすぐに歩くことはできるようになった。

「お母さん、まだぐっすり寝てるから、朝ごはん用意しなくても大丈夫だよね」

「あっ、鍵かけなきゃ。観鈴ちん、危機一髪っ」

「帰りにジュースも買っておかなきゃね。昨日、全部飲んじゃったし」

玄関前であれこれと言いながら、観鈴ちゃんがいろいろな確認をしている。僕はその間門の陰に入って、観鈴ちゃんが来るのを待つことにした。

「お待たせー。ぴこ、お散歩に行くよ」

「ぴこっ」

夏の朝はどこかひんやりとしていて、日中の暑さを少しだけ忘れさせてくれそうな、気持ちのいい時間だった。

「朝は涼しいね」

「ぴこぴこ」

「そう言えば、今何時だったかなー」

「……………………」

「わ、まだ六時にもなってない。観鈴ちん、ちょっとびっくり」

どうやら僕と観鈴ちゃんは、いつもよりもずっとずっと早い時間に目を覚ましてしまったらしい。確かに、周りに人影はまったくない。道にいるのは、僕と観鈴ちゃんだけだ。

「にははっ。なんだか、ちょっと楽しい」

「ぴこぴこっ」

観鈴ちゃんはにっこりと笑って、ゆっくりと歩き始めた。

 

それからしばらく、僕らは街中を散歩していた。

「早起きは三文の得、だよね」

「ぴこ?」

「知らないの? 有名なことわざ。観鈴ちんもね、最近覚えたんだよ。ぴこも覚えられるかな?」

「ぴこぴこぴこ」

「うーん……ちょっと難しかったかなぁ……」

「……………………」

「じゃあ、犬も歩けば棒にあたる、っていうのは、どうかな? かな?」

「ぴこ?」

「えっとね」

ずずいとしゃがみ込んで僕の目を見つめてから、観鈴ちゃんが小さく口を開いた。

「これはね、昔は悪い意味で使われてたことわざ」

「……………………」

「でしゃばっちゃうと、悪いことが起きちゃうの」

「……………………」

「観鈴ちん、ずっとそんな意味しかないって思ってた」

そのことわざを語る観鈴ちゃんの表情は、何故かどこか儚く見えた。

「でもね、ちょっと前に覚えたことなんだけどね」

「……………………」

「積極的に行動すると、いい事がある、っていう意味もあるんだよ」

「……………………」

「えっと……だからね」

僕はその言葉と同時に、観鈴ちゃんの腕に抱かれた。

「わたし、頑張ってみようって思うの」

「ぴこ?」

「ぴこに会えたから、わたしも頑張ってみようって思うの」

「……………………」

「そうすればいつか、わたしも棒に当たれるよね」

最後にそう言って、観鈴ちゃんは僕をぎゅっと抱きしめた。

 

(ごづんっ)

 

「?!」

「!?」

その時、低くて鈍い音が響き渡った。固いものと硬いものがぶつかり合った時に聞こえる、お腹にずっしりくるあの音だ。

「……なんだろうね?」

「ぴこ……」

観鈴ちゃんは僕を抱いたまま、すっくと立ち上がった。僕は急に視界が上に上がって、くらくらしそうだった。

「行ってみよっか」

「ぴこっ」

短く言葉を交わして、観鈴ちゃんは音のしたほうに歩いていった。多分、向こうの曲がり角だ。

「もしかしたら、誰かが倒れちゃったのかも知れないよ」

「ぴこぴこっ」

「それだったら、一大事」

「ぴっこり」

僕は観鈴ちゃんの腕の中でゆさゆさと揺さぶられながら、目の前に広がる光景に目を凝らした。

「ここだよ」

「ぴこぴっこ」

……そして、曲がり角を抜けた先で、僕と観鈴ちゃんが目にしたものは。

 

「いったぁ~い……星が出ちゃったよぉ……」

「うそ……」

「ぴこ……」

……あまりにも唐突な、佳乃ちゃんの登場だった。前後の脈絡がなさ過ぎて、僕も観鈴ちゃんも硬直しちゃったまま動けない。

佳乃ちゃんが目をゆっくりと開いて、僕らの方を見た。

「……あれれぇ? ぼく、どうしてこんな……って、うわぁっ?!」

「わっ?!」

「ぴこぉっ?!」

僕と観鈴ちゃんの姿を見た佳乃ちゃんが派手に驚いたおかげで、僕と観鈴ちゃんまで驚かされるハメになった。

「びっくりしたぁ~……誰かなぁって思ったら、観鈴ちゃんだったんだねぇ。おはようございますだよぉ」

「え、えっと……お、おはようございます……」

観鈴ちゃんがぎこちなく頭を下げた。多分、まだ驚いているんだろう。

「びっくりさせちゃってごめんねぇ。ぼく、びっくりしちゃうとでっかい声が出ちゃうんだよぉ」

「ううん。気にしてないよ。わたしこそ、びっくりさせちゃってごめんね」

「気にしてないよぉ。じゃあ、これでもう問題解決だねぇ。一件落着っとぉ!」

佳乃ちゃんがからからと笑って、観鈴ちゃんの肩にぽんと優しく手を乗せた。

「わっ……」

観鈴ちゃんが驚いたような表情を浮かべて、自分の肩に乗せられた佳乃ちゃんの手を見つめた。

「……………………」

心なしか、観鈴ちゃんの顔がほんのり紅く染まっているように見えた。思い過ごしかも知れなかったけど、観鈴ちゃんの表情に、何か変化があったことは間違いなかった。

佳乃ちゃんはそれに気付くことなく、肩から手を下ろして話を始めた。

「観鈴ちゃん、早起きなんだねぇ。ぼくとは大違いだよぉ」

「えっ? 霧島くんも、早起きしてお散歩してたんじゃないの?」

「……あっ」

今度は、佳乃ちゃんの表情が変わった。咄嗟に付いた嘘を、見事言い当てられたかのような表情だ。

……いや、どちらかと言うと。

 

つい口が滑っちゃって、言ってはいけない本音を口にしてしまった時のような表情。

 

「嘘嘘ぉ! 今のはぼくのほんのジョークだよぉ! 綺麗さっぱり忘れちゃってねぇ!」

「あ、うん。急に言うから、観鈴ちん、またびっくりしちゃった」

「てへへ。またまたびっくりさせちゃいましたぁ!」

佳乃ちゃんは何事もなかったかのようにからりと笑って、観鈴ちゃんにぺこりと頭を下げた。観鈴ちゃんはそれを見ながら、なんだかとてもうれしそうな表情をしていた。今までに見たことないぐらい、うれしそうな表情だった。

「……あれ? ポテトぉ! こんなところにいたんだぁ!」

「ぴこっ」

この時になって初めて、佳乃ちゃんは僕が観鈴ちゃんの腕の中に抱かれていることに気付いてくれた。

「え? もしかしてこの子、霧島くんが飼ってたの?」

「えっとねぇ、ちょっと違うんだけど、そうだよぉ」

「そうなんだ。それじゃあぴこ、霧島くんのところに帰ろうね?」

「へぇー。ポテト、ぴこっていう名前で呼ばれてたんだねぇ。かわいい名前だよぉ」

「……………………」

佳乃ちゃんがそう言うと、観鈴ちゃんの表情がまた変わった気がした。やっぱり、頬がほんのり赤くなった気がする。

「それじゃぼく、そろそろ家に帰るねぇ」

「うん。気をつけて帰ってね。頭をぶつけちゃだめだよ」

「観鈴ちゃんは優しいんだねぇ。でも、もう大丈夫だよぉ」

「……………………」

「ポテト、うちに帰ろうねぇ」

「ぴこっ」

「観鈴ちゃん、どうもありがとぉ」

「ううん。また、遊びに来てくれるとうれしいな」

「いいよぉ。ポテトも連れて行くからねぇ」

僕は佳乃ちゃんの後ろについて、遅れないようにとことこ歩き始めた。

「……………………」

だんだんと小さくなっていく観鈴ちゃんの姿を、僕は振り返りながら何度も見てみた。

観鈴ちゃんは腕を前にやったまま、僕らのことをじっと見送っている。

「ぴこっ」

僕は最後に一鳴きして、もう振り返ることはしなかった。

………………

…………

……

 

「……にははっ……」

「わたし……」

「……………………」

 

 

「……わたし、棒に当たれたのかな……」

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。