初めての魔法が大成功に終わったところで、リアンは次のステップへ進む事にした。
「ともえちゃん、なかなか筋がいいみたいね。そいじゃ、続けて……」
椅子を引いて立ち上がり、リアンが中庭へ続く扉へと歩いていく。わずかに開きかかっていたガラス戸に手を掛けて、一気に開け放つ。
「空、飛んでみましょっか」
「そ、空ですか？！」
よく晴れた青空を指差し、あっけらかんと「空を飛んでみよう」と言ってのけるリアンに、ともえは今日何度目か分からない驚きの声を上げた。唐突に言われてみれば、驚いても無理の無い内容ではあるが。
「気持ちいいわよ～。空高く風を切って、ばびゅんっ、ってね」
「空を飛ぶ……なんだか、楽しそうですっ！」
「その意気その意気っ。じゃあ、こっちまで来てちょうだい」
リアンはともえに手招きし、中庭へ出るよう促した。ともえはリリカルバトンを手にし、リアンのいるところまで歩いていった。
「わ……素敵な中庭ですねっ」
「ふふっ。ガーデニングも、一種の創作と言えるからね」
アトリエの中庭はかなり広く、そこにもう一つアトリエが作れそうなほどの面積があった。中央には小さな噴水が設けられ、澄んだ水を湛えている。周囲には小さな植木鉢やレンガ造りの花壇が設けられ、草花が陽の光を存分に浴びている。片隅に置かれたベンチで、小鳥が一羽、羽を休めているのが見えた。
「空を飛ぶためには、そもそも空を飛ぶ場所が必要だものね」
「そうですね。ここなら、目一杯練習できそうです」
額に手を当てて日差しをかわしながら、ともえが抜けるような青空を見上げる。風は穏やかに吹いていて、視界をさえぎるものは何も無い。アトリエの周囲は人気も無く、空を飛ぶには絶好の環境だった。
「さて……ともえちゃん。空を飛ぶ練習をする前に、一つ言っておく事があるわ」
「なんですか？」
「ともえちゃんは『魔女が空を飛ぶ』ためには『箒』が必要だと思っているかもしれないけど……別に無くても空を飛べちゃうのよ」
「ええぇっ？！ 無くてもいいんですか？！」
「そしてともえちゃんの両親はやせてきたから最寄りの町へ解放しておいたわ。あとはあたしを倒すだけね、くっくっく……」
「いいですね……それならわたしも一つ言っておく事があります。わたしには生き別れた妹がいるような気がしていましたが、別にそんな事はありませんでした！」
「そうなのね」
「よーしっ！ いっくぞーっ！！」
「さぁ来なさいともえちゃんっ！！」
ともえの勇気が世界を救うと信じて……！ ご愛読ありがとうございました！
「……ということで、実は空を飛ぶのにホウキは必須じゃないのよ」
「そうなんですか！ てっきり、ホウキに乗って空を飛ぶものだとばかり思ってました」
「一昔前まではそのスタイルだったんだけどね。自分の力だけで飛ぶ方法は、昔からあったのよ」
魔女が空を飛ぶためには箒が必要だ――そんな固定観念を、リアンは「必須じゃない」との言葉で否定した。リアンのとても魔女らしからぬスタイルとあわせ、ともえは自分の中の「魔女」のイメージが変わっていくのを感じていた。
「具体的にはね……」
そう言うと、リアンは少し屈みこんで――
「それっ！」
「わっ？！」
そのまま、大きく飛び上がった。リアンはアトリエを遥かに超えるほどの高さにまで達して、そのままその高さを維持している。フワフワと浮かびながら、リアンは自慢の長い髪をかきあげた。
「……ま、こんな感じよ」
「すごぉいっ！ リアンさんっ、空飛んでるよっ！」
「まだまだ！ ほれっ！」
リアンは体を軽く傾けると、前方に風を切って推進していった。穏やかに、けれども軽やかに。鳥が翼で風を掴むが如く、ともえの目の前で思う様飛んで見せた。
「飛んでる……空を飛んでるよ……！」
空を飛ぶリアンの様子に、ともえは目も心も完全に奪われているようだった。
「どう？ ともえちゃんもやってみたいと思わない？」
「はいっ！ やってみたいですっ！！」
「よぅし！ ともえちゃんのやる気がさめない内に、しっかり教えちゃうわよ」
「よろしくお願いしますっ！」
すかさず手を上げるともえを見て、リアンがにやりと笑みを浮かべる。ともえのやる気と前向きな姿勢は、リアンにとって兎角快いものだった。彼女はすっ、と音を立てることなく地上へ降り立つと、ともえの元へと歩いていく。
「これにはちょいとコツがいるから、よく聞いててちょうだいね」
「はいっ」
ともえの目の前に立ち、リアンが講義を始める。
「空を飛ぶ、っていうと大層な話に聞こえるけど、実際には心の持ちようによるところが大きいのよ」
「心構え、ってことですか……」
「そうそう。慣れれば、それこそ息をするようにできるようになるわ。ただ、慣れるまで少し時間がかかるのも事実よ」
リアンの話に、ともえは繰り返し頷く。
「魔力っていうのは、この地球……いや、どちらかというと宇宙までひっくるめた『世界』に蓄積されたエネルギーとよく似たものなの。魔力が活性化されたともえちゃんの体は、今までよりも『世界』に近づいた、もっと言うと、仲良くなったといえるわね」
「ともえちゃんは『世界』と仲良くなった……実感は湧かないかもしれないけど、まずそれを意識してみて。ともえちゃんは『世界』、『世界』はともえちゃん。自分が『世界』の一部であるかのように、『世界』が自分の一部であるかのように」
リアンの話を聞きながら、ともえがすっと目を閉じる。リアンに言われた『世界』と自分自身を、一つに重ね合わせようとしていた。
「『世界』の一部として、『世界』の中を自由に飛び回る……海の中の水が寸刻たりとも一所にとどまらずに動き続けているように、大気の中の風がひと時も止まることなく動いているように」
「空を飛ぶという概念を超えて、その向こうにある『風』になるのよ。ともえちゃんは『風』、世界を吹き抜ける、一陣の風になるの」
抽象的な話だったが、リアンの言おうとしている事を、ともえは感覚的に理解していた。空を飛ぶのではなく、自分が空の一部になる。その結果として、空を飛ぶというカタチが成り立つ。空を飛ぶことは目的ではなく、空の一部となった結果としてのものなのだということを。
「心を一つに集めて――吹き抜ける風を感じて――」
「……………………！」
「その体、その心を――空の色に、染め上げて――」
ともえが体をぐっと沈み込ませる。先ほど、リアンがして見せたように。
「さあ、ともえちゃんっ！！」
「……！！」
そして、ともえは――
「……飛べっ！！」
空高く、跳び上がった。
「おおっ、ともえちゃんが飛んだっ！！」
リアンは目を見開き、アトリエを超えて飛び上がったともえに思わず声を上げた。その声に、ともえが反応しようとする。
「……っ！！」
だが途端、強い抵抗がともえを襲った。上から体を押さえつけられるような未知の感触に、ともえは思わず顔をゆがめた。ともえが空の一部になることを、『世界』が阻んでいる、抵抗している――
「う……わっ……！」
空気抵抗に小さな体で必死に抵抗していたともえだったが、一瞬ひるんだところを抵抗に負け、ともえがわずかに姿勢を崩す。
「……あっ……」
その瞬間、ともえは、自分の体が重くなったように感じた。少女の心の中に、自分を吊り下げていた糸から不意に切り離された蜘蛛の絵が思い浮かんだ。
「わ、わ……わぁぁぁぁぁっ！？」
ともえが、落ちてゆく。
「おっと……ほいっと」
自重で墜落していくともえを見たリアンが、慌てず騒がず、指をパチンと鳴らす。
「あっ……あぁ……」
リアンが魔法を掛けた瞬間、ともえは大きなしゃぼん玉に包まれて、緩やかな速度で地上へ降りていった。ともえは呆然とした表情で、自分が落ちる速度が遅くなった事を理解した。
「ふぅ……やっぱり、初めてだものね」
ともえの様子を見ながら、リアンが呟く。そのすぐ隣へ降りてきたしゃぼん玉は地面に接した瞬間、ぱちんと音を立てて割れた。
「わっ？！」
しゃぼん玉が割れて、中に居たともえが外へと解放された。不意に解放された事で、ともえがしりもちをつく。そのともえの隣で、リアンが声を掛けた。
「ともえちゃん、大丈夫？」
「いたたた……あうぅ……な、なんとか大丈夫です……」
何度か頭を振って、ともえが顔を上げる。申し訳なさそうな表情で、リアンを見つめていた。
「リアンさん、ごめんなさい……」
「謝ることじゃないわ。誰だって、最初は上手くいかないもの」
空を飛ぶことに失敗して気落ちするともえに、リアンが穏やかに声を掛ける。ともえはうつむいたまま、小さく声を漏らす。
「空に飛び上がったあと、どうしたらいいのか分からなくなって……戸惑ってたら、意識が切れちゃって……」
「なるほどね……確かに、そこが一番難しいところだわ」
「空、飛べるようになれたらいいのにな……」
落胆するともえの隣へ、リアンが屈みこんだ。柔らかな表情をともえに向けて、静かに語りかける。
「ともえちゃんは、自転車には乗れる？」
「自転車……？ あ、はい。乗れますけど……」
「最初から、補助輪ナシで乗れた？」
「えーっと……最初は、補助輪付きでした」
「今は、補助輪ナシで乗れてる？」
「はい。今は、普通に乗れてます」
リアンはともえの言葉を聞くたびに、繰り返し頷いた。
「ともえちゃん。空を飛ぶのはね、自転車に乗るようなものなのよ」
「空を飛ぶのは……自転車に乗るようなもの？」
「そう。ともえちゃんだって、最初から自転車に乗れたわけじゃないでしょ？」
「……………………」
「補助輪を付けて感覚を掴んで、慣れてきた頃に補助輪を外して……でも、最初は転んだり止まったりして、上手く乗れずに失敗したはず。そうじゃなかった？」
「そういえば……」
ともえがはっとしたような表情を見せて、すっと顔を上げた。
（自転車……）
少女の脳裏に、懐かしい風景が蘇ってくる。転んでも転んでも、練習を続けた自分の姿。
「そうだ……自転車に乗ったときも、最初は上手くいかなくて、何度も転んだりして……」
その苦闘の果てに、今では自由に自転車に乗ることができている。ともえは、何かを掴んだようだ。
「一度自転車に乗れれば、後は体が覚えてくれる。それは、空を飛ぶことも同じよ」
「失敗は成功の母。最後の最後に成功へと結び付けられれば、失敗は昇華されるわ」
リアンが立ち上がるのを見て、ともえも一緒に立ち上がる。
「わたし……間違ってました！ 失敗がダメなんじゃなくて、失敗に負けて諦めちゃう事がダメだったんです！」
「うむ！ ともえちゃんらしいナイス答え！ 諦めるには早すぎる！」
ともえの頭に手を置いて、リアンが朗らかな表情で言う。
「ともえちゃんが体で覚えられるようになるまで、あたしがともえちゃんの補助輪になるわ！ 安心して練習してちょうだい！」
「はいっ！」
明るさを取り戻したともえが、大きく頷いた。
「落ち着いて！ すぐには落ちないわ！」
「はいっ」
「まずはその状態を維持すること！ 風と、空と、大気と、気持ちを一つに！」
「はい！」
「静かに体を傾けて！ 水を泳ぐ魚のように！ 進みたいという心を、強く持って！」
「はいっ！」
「魔力はともえちゃん、ともえちゃんは魔力、魔力は世界、世界は魔力……そう！ ともえちゃんは、世界の一部！」
「はい！！」
「いいわ、その調子！ ともえちゃんなら、きっと上手くできるわ！！」
「はいっ！！」
――それから、およそ二時間後。
「それーっ！」
「おぉ！ ともえちゃん、楽しんでるみたいね！」
「はい！ これ、すっごく楽しいです！」
「ふふっ。慣れてみると、意外とちょろいもんでしょ？」
ともえはアトリエの周囲を自由自在に飛びまわれるほどに上達していた。先程の様子が嘘のような、見事なまでの成長振りであった。
「……よっと！」
しばらく空を舞った後、ともえはリアンのすぐ隣へ静かに着地した。着地もスムーズで、引っかかるところは一つも無い。
「いやー、ともえちゃん、やっぱりすごいわ。ちょっとコツを教えたら、すぐに飲み込んじゃったみたいね」
「えへへ……リアンさんの『自転車』って言葉で、何かしっくり来た気がしたんです」
「なるほどね。かつての失敗体験と成功体験を思い出して、今回の成功につなげたわけね。えらいわ、ともえちゃん」
親しげに肩に手を置くリアンに、ともえは満面の笑みで応えるのであった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。