(…………?)
僕はその真っ黒なハンカチに目を奪われて、そっちの方に歩き始めた。
まったく見たこともないものだったけれど、何故だか僕はそれに強く引っ張られるような気がして、自然と足をそっちに向けていた。
一方、佳乃ちゃんはというと。
「せかい~じゅうにはど~んな~おも~いも~」
元気良く歌を歌いながら、肩にお米を担いで歩き始めていた。僕が離れていくことにはまったく気付いていない。僕が離れてしまうことで、佳乃ちゃんに心配をかけてしまうことはなさそうだ。
「……ぴこっ」
僕は黒いハンカチ目掛けて走った。近くに人はいない。僕より先に、誰かに拾われてしまうことは無さそうだ。
「……………………」
程なくして、僕は黒いハンカチの前にたどり着いた。それは思っていたよりもふた周りほど大きくて、男の人が使うようなものだということが見て取れた。落ちてからまだそんなに日が経っていないのか、埃とかはついていない。けれども、この強い日ざしに当てられたせいか、かさかさに乾いている。
(ぱくっ)
僕はハンカチの端っこを口にくわえて、二枚に折りたたんだ。ハンカチは乾いていたから、苦もなく二つに折れ曲がった。
「ぴこぴこっ」
ハンカチが手頃なサイズになると、僕はまた端っこを加えて、
(しゅっ)
……と懐にしまった。そんなものを収めるスペースがどこにあるんだとか、物理的にそんなの無理だろって声が聞こえてきそうだけど、本当に「しゅっ」っと懐にしまえちゃうんだからしょうがない。ちなみに、他にも骨の欠片とか、鳥の羽とかが収まっている。自分でも何に使えばいいのか分からないけど、とりあえず収まっている。
「……………………」
ハンカチをしまい終えると、どんどん遠くへ歩いていっちゃう佳乃ちゃんを追いかけるために、僕は走り出した……
……と、ここまで一連の作業を終えて、僕はふと疑問に駆られた。
僕はどうして何の疑問も持たずに、ハンカチを見つけて、それに近づいて、それを折りたたんで、僕の懐にしまったのだろう?
こうしてハンカチを手に入れるまで、僕は一度も疑問を抱かなかった。ハンカチを手にして、佳乃ちゃんのところへ戻ろう、という段になって初めて、僕は僕のしたことに疑問を抱いた。
「……ぴこぴこ」
どうして僕はハンカチに興味を持ったんだろう? どうして僕は何の疑問も持たずに、ハンカチを懐へしまったのだろう?
「……………………」
考えれば考えるほど、不思議な出来事だった。僕がハンカチを見つけてから懐へしまうまで、まるで僕以外の誰かが僕を操って、僕が疑問を持つ間もなく事を済ませてしまったような、そんな感じだった。
「……ぴこぉ……」
僕は懐へとしまったハンカチをもてあそびながら、どうしようかどうしようかとしばらく考えていた。やっぱり、元の場所に返しておくべきだろうか。何もなかったことにして、佳乃ちゃんのところへ帰るべきだろうか。もしかすると、それが一番いいのかも知れない……
……けれども。
「ぴこっ」
拾ったものは拾ったものだし、とりあえず深く考えずに、僕はそれを手元に持っておくことにした。ひょっとすると、何かいいことがあるかも知れない――なんの理由もないけど、そう思ったからだ。
僕は佳乃ちゃんに追いつくために、急いでその場を後にした。
「き~えるひこうきぐもぉ~♪ ぼくたちはみお~くぅ~ったぁ~♪」
お米を肩に載せて上機嫌で歩く佳乃ちゃんの横に、僕はぴったりと寄り添った。
「たっだいまぁ~!」
「お帰り佳乃。ご苦労だったな。重かっただろう?」
「ううん。全然平気だよぉ」
佳乃ちゃんは診療所の中に入ると、そのまま台所まで歩いていって、担いできたお米をどすんと落とした。
「助かったぞ。佳乃は力持ちだな」
「えへへ~。ぼくがいれば百人力だよぉ」
「ああ。本当にそうだ」
聖さんはうれしそうにしながら、冷蔵庫からお茶を取り出した。
「喉が渇いただろう。冷え冷え麦茶はいかがかな?」
「あ、冷え冷え麦茶一つくださーい!」
「かしこまりました、っと」
コップを二つ、戸棚から取り出して、聖さんが冷え冷え麦茶を並々と注いだ。コップの表面にみるみるうちに露が吹いて、見ているだけでひんやりとした感触が伝わってくるようだった。
「ほら、入ったぞ」
「ありがとぉ」
佳乃ちゃんは聖さんからお茶の入ったコップを受け取ると、躊躇うことなく一気に飲み干した。
「んくっ……んくっ……ぷはぁ。おいしいねぇ」
「ああ。私の秘伝の麦茶だからな。おいしくないはずがないだろう?」
「そうだよねぇ。お姉ちゃんの秘伝だもんねぇ。ぼくも作れるようになりたいよぉ」
「ふふふっ。その日が来るのを楽しみにしているぞ」
ゆっくりとお茶を飲みながら、聖さんが微笑んだ。
「ぴこ……」
にこにこ笑顔の佳乃ちゃんと、微笑みを浮かべた聖さん。
「……ぴこぴこ」
どこから見ても、とても仲の良い姉弟だった。
性格は全然違うけど、間違いなく、二人は仲の良い姉弟だった。
「……………………」
……僕にもこんなお姉さんか弟か、あるいはお兄さんか妹がほしかったなぁ。僕は生まれてからずっと一人だったから、佳乃ちゃんにとっての聖さんや、聖さんにとっての佳乃ちゃんみたいな関係は、ちょっと実感が湧かないや。
「それじゃあ、行ってくるよぉ」
「ああ。お昼までには帰って来るんだぞ」
「大丈夫だよぉ」
佳乃ちゃんは診療所でお茶を一杯もらうと、そのまますぐに外へと駆け出た。やっぱり僕も後を追いかけて、一緒に外へ出る。
外はもう日が高々と昇っていて、強くてきびしい日差しが、僕を、佳乃ちゃんを、道路を、家の屋根を、何の分け隔てもなく焼いていく。それでも僕も佳乃ちゃんも、外に出て解放的な気分で身も心も一杯にしながら、診療所を飛び出した勢いのまま走り続けた。
「みちるちゃん、まだ神社にいるかなぁ」
「ぴこ?」
「えっとねぇ、みちるちゃんが虫取りに行く時はねぇ、絶対に神社に行くんだよぉ」
「ぴっこり」
佳乃ちゃんが外へ出たのは、みちるちゃんに会いに行くためみたいだった。そう言えば朝に出会ったとき、虫取りに行くって言ってたっけ。佳乃ちゃん、やっぱり一緒に行きたかったみたいだ。
「早くしないと、みちるちゃん帰ってきちゃうよぉ」
「ぴこぴこっ」
「うんうん。一緒に虫取りしたいよねぇ。こんなこともあろうかと、ちゃーんと網と籠も持ってきたんだよぉ」
外に飛び出すときに、玄関に置いてあった網と籠をちゃんと持ってきていた佳乃ちゃん。なんだかんだで、結構抜け目がない。ついでに、暑さ避けの麦わら帽子もばっちり被っている。準備は万端だ。
「それじゃ、みちるちゃんのいる神社まで、でっぱつしんこう~」
「ぴっこ~」
いつもの「でっぱつしんこう~」の掛け声に合わせて、僕と佳乃ちゃんは神社に向かって走り出した。
神社はこの街からほんの少しだけ離れた、小高い山の上にある。途中の道はほとんど整備されていなくて、普段はあまり人が近寄らない。行くのにも帰るのにも、なかなか骨が折れるからだ。
けれども苦労して神社に登れば、そこから街を一望することができる。その風景といったら、格別だ。この海沿いの町一帯を一度に見回すことができて、気分がいいことこの上ない。だから僕は時々、そのためだけに神社に行くことがある。
普段はひっそりとしたこの神社だけど、一年に一度だけ、この街で一番にぎわう瞬間がある。お祭りの日だ。
お祭りは夏休みの中頃にあって、町中の人々がそれに参加する。出店もたくさん出て、大勢の人々で神社の中が溢れかえる。大きな花火も上がって、静かでのどかなこの街にはちょっと似つかわしくないぐらいの賑やかさになる。僕も毎年、人ごみに流されながら、密かにお祭りを楽しんでいる。
もちろん、今年もお祭りはばっちり行われる。僕が散歩している時に集めた情報によると、もう何人かの人が準備に入っているらしい。お祭りまではまだまだ日があるけど、気合いの入っている人はもう動き出している。そんなことを考えるだけで、僕もなんだかわくわくしてくる。あの賑わいの中にはただいるだけで、他では得がたい興奮がもらえる気がする。
僕が神社について知っているのは、それぐらいだ。全然人がいないときと、所狭しと人で溢れかえる時。この二つの顔しか、僕は見たことがない。後は、神社には妙なものが奉納されているとか、時折神主さんが鍵がかかっているかを確認しに来るとか、そんなちょっとしたことしか、僕は聞いたことがない。
「みちるちゃん、もう虫捕まえちゃったかなぁ?」
「ぴこ……」
僕と佳乃ちゃんは神社へとつながる道をひた走りながら、そんな言葉を交わした。
「ぐぬぬ~。山道を登ってる途中にみちるちゃんと出会ったりなんかしちゃったら、がっくりさんだよねぇ」
「ぴっこり」
確かに、こんなに急いで神社に行ったのに、行ってみたらみちるちゃんと遠野さんがちょうど帰る途中で、「にゃはは。こんなにでっかいカブトムシを捕まえたんだぞー」とか言われたら、ちょっとショックかも知れない。
「みちるちゃんがまだ神社にいてくれますよぉにっ!」
「ぴこぴこっ!」
佳乃ちゃんが右腕のバンダナを左手でひっしと掴んで、目をぎゅっと閉じてお願いした。やっぱり、一緒に虫取りができた方が楽しいもんね。
「急げ急げぇー!」
「ぴこぴこぉー!」
僕と佳乃ちゃんが足を速めて走り出した。周囲に見える景色が、どんどん曖昧になっていく。夏の暑い陽射しも、僕らを焼くには遅すぎる。
(たったかたったか)
「どっせぇーい!」
「ぴっこぉぉー!」
元気な掛け声を上げながら、僕と佳乃ちゃんはひた走り続ける。
(たったかたったか)
(たったかたったか)
「どんどん行くよぉ!」
「ぴこぴこぴこぉ!」
佳乃ちゃんと一緒に走っていると、なんだか僕はどこまでも走っていけそうな、そんな気がした。
(たったかたったか)
(たったかたったか)
「もうすぐ神社だよぉ!」
「ぴっこり!」
眼前に、神社へとつながる山道が見えた。あそこに入れば、神社まではあとほんの少しだ。
(たったかたったか)
(たったかたったか)
「よぉーしラストスパーうわぁっ!?」
「にょはっ!?」
「ぴこ?!」
……「ラストスパート」と言おうとした佳乃ちゃんに、何かが真正面からぶつかった。
「うわぁぁぁぁぁっ?!」
佳乃ちゃんはすごい勢いで走ってきた勢いをそのままもらっちゃって、大きく後ろへ吹き飛んだ。
「いたたたた……うわぁ……服がどろどろになっちゃったよぉ……」
「ぴこ……」
吹き飛ばされた佳乃ちゃんだったけど、怪我とかは全然なくて、むしろ汚れちゃった服の心配をしていた。一杯についた砂埃を手で払いながら、辺りをきょろきょろと見回している。
「むむむー……何にぶつかっちゃったんだろう……」
「ぴこぴこ……」
僕も佳乃ちゃんと一緒に、周りを見回してみる。
……すると。
「あーっ!」
「……んにー……」
そこに、大の字になって伸びちゃってる、小さな女の子の姿があった。
「大変大変!」
佳乃ちゃんはすぐに走って、倒れた女の子のそばへ寄り添った。
「みちるちゃん! 大丈夫?!」
女の子はみちるちゃんだった。佳乃ちゃんに真正面から激突して、草むらの上で伸びちゃっていた。佳乃ちゃんがみちるちゃんを揺さぶって、何とか意識を取り戻させた。
「んにー……あ、かのりん?! かのりんなのかー?!」
「そうだよぉ。どうしたのかなぁ? みちるちゃんもすごく急いでたみたいだけど……」
みちるちゃんは頭をぶんぶんと振って、飛びかけていた意識をかき集めた。
それから勢い込んで、こんなことを話し始めた。
「か、かのりんっ! た、大変なことが起きたぞーっ!」
「大変なことぉ?! みちるちゃん、どういうことかなぁ?!」
「えっと……みちるは難しい話が苦手だから、簡単に言うね」
「うんうん。簡単でいいからねぇ」
みちるちゃんは落ち着くと、こう、一言だけ言った。
「えっとね、知らない人がね、木の上から落ちたみたいなの」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。