「……えっ?」
佳乃ちゃんは面食らったような面持ちで、遠野さんの目を見つめた。遠野さんの目もそれに呼応するかのように、佳乃ちゃんの目をしっかりと射抜いている。
「……いませんか……?」
「……………………」
あくまでいつもの調子を崩さない遠野さんに、佳乃ちゃんは珍しく押し黙って返した。その表情はどこか固くて、答えるべき事柄を上手く見つけられないでいるような、佳乃ちゃんらしくない表情だった。
「……………………」
「……………………」
けれど沈黙を重ねるうちに、その表情から固さが消えていった。緊張した面持ちから、どこか安心したような面持ちへ。その変遷は、僕にも見て取れるほどはっきりとしていた。その遷移の意味するところは――
「……ぼくの好きな人は……」
「……………………」
――明確な答えを紡ぎだすことができたことの、証に他ならない――
そして……口はゆっくりと開く。
「……みんな、かなぁ」
それが、佳乃ちゃんの答えだった。
「……?」
今度は遠野さんが、珍しい疑問の表情を浮かべることになった。佳乃ちゃんの返してきた答えの意味するところを、正確につかめないでいるようだ。
「ぼくはねぇ、みんなが大好きなんだよぉ」
「……みんな……というと?」
「みんなだよぉ。ぼくの周りにいて、ぼくと同じ時間を過ごしている、みんなだよぉ」
「……………………」
遠野さんは……ふっと表情を緩めて、佳乃ちゃんを見やった。
「お姉ちゃんも、遠野さんも、みちるちゃんも、観鈴ちゃんも、北川君も、岡崎君も……とても、一人には決められないよぉ」
「……………………」
「ぼくはねぇ、みんなが幸せに暮らせたら、それが一番いいんだよぉ」
「……………………」
佳乃ちゃんは星空を見上げて、さらに言葉を紡いだ。
「みんなが幸せだったら、少なくとも、ぼくが誰かを不幸せにしてるわけじゃないって分かるから……」
「……………………」
「みんなが幸せだったら、ぼくはそこにいてもいいって分かることができるから……」
「……………………」
「だからねぇ、みんなが幸せだったら、ぼくはそれでもう十分なんだよぉ」
「……………………」
佳乃ちゃんの言葉には、単に答えを決めかねてはぐらかしたような、そんな後ろめたさは欠片も無かった。
本心から出た言葉。本音の言葉。本当にそう思っているから、それを答えにしただけのことだった。
ただ……
「誰かが悲しい顔をしているのを見るのは、とっても辛い事だからねぇ」
……その表情には、何故か、途方も無い悲しさが込められているように見えた。
それは……何かを恐れているようで、何かを悲しんでいるようで……発した言葉、紡いだ思いの一つ一つに、他人にはうかがい知れない「深さ」があった。
単にのほほんと皆が幸せであることを願っているのでは到底無い、言ってみれば……自分自身がどうであれ、ただ自分の周囲が幸せであるならば、ただそれだけでいい。そこに、自分の幸せは介在しない。
他人の幸せの中にだけ、自分の居場所がある――佳乃ちゃんの言葉は、そう意味しているようにも聞こえた。
「……私も、そう思います……」
「うんうん。やっぱり、みんなが幸せでいてくれなきゃねぇ」
「……はい。私は今……とても幸せです……ぽ」
遠野さんが再び顔を赤らめた。この頃になると、佳乃ちゃんの表情も元通りに戻っていた。
二人の間に流れた微妙な空気は、こうして過ぎ去っていった。
「んにゅー……みなぎぃ……もうあとちょっとだったのにぃ……」
……天体望遠鏡の影から、誰かさんが二人を覗いていた。
僕はまた二人から離れて、他のグループの観察に出かけた。
「あ、神尾さん。今度うちのお母さんが、また新しいパンを作ったんです。今度、味見に来ませんか?」
「ほんまか? また観鈴に言うとくわ。あの子古河さんとこのパン、ごっつう好きやから」
「はい。そう言っていただけると、とてもうれしいです」
「……ということは、神尾はずいぶん奇抜な味覚を持っているんだな……」
「それ、あえて否定はせえへんわ……」
「えと……それ、どういう意味なんでしょう……」
星空を見ながらの雑談は、いつも以上に楽しいものみたいだ。あーあ。僕も、誰かとおしゃべりができたらよかったのに。
「真琴、こんなところで寝ると、風邪を引いてしまいますよ」
「あぅー……でも、なんだか眠くなってきちゃった……」
『でも、まだ十時にもなってないの』
「風子はまだまだ元気です。恐らく、徹夜で星を見続けてもぴんぴんしていられる自信があります」
風子ちゃんのこの言葉を聞いた天野さんが、ふと、風子ちゃんのほうを見つめた。
「そう言えば……伊吹さん、今度、お姉さんが結婚すると聞きましたが、本当ですか?」
「はい。風子のおねぇちゃんは、もうすぐ結婚します。日程もしゃかりき決まっています」
「え? そうなの? それだったら、真琴達も呼んでよぅ」
『澪も見に行きたいの』
一気に話題の中心になって、風子ちゃんがちょっとはにかんで言った。
「えっと……皆さんのご厚意は、とてもうれしいです。風子はたくさんたくさんの人に、おねぇちゃんの門出をお祝いしてもらいたいと思っています」
「そうですよね。やはり、人生でも最大級のイベントですから」
「はい。えっと……それでです」
風子ちゃんは再び手提げ鞄をごそごそやって、例の木彫りのヒトデを取り出した。それも、二つ。
「これは……」
「……あぅ?」
「はい。これは、風子から皆さんへのプレゼントです」
「プレゼント……ですか? それでは、ありがたくいただきます」
「あ、真琴も真琴も」
天野さんと真琴ちゃんはそれぞれ手を伸ばして、風子ちゃんの手から彫り物を受け取った。
「よくできていますね……もしかしてこれは、伊吹さんのお手製ですか?」
「はい。天然の木をこの風子ハンドで華麗に加工した、世界に二つとない逸品です」
「あぅー……よく分かんないけど、すごいものもらっちゃったわよぅ……」
二人はそれぞれ感心しながら、木彫りのヒトデを眺め回した。
「それでです」
「?」
「あぅ?」
「風子からお二人さんに、お願いがあります」
風子ちゃんは珍しくきりっとした表情で、二人にお願いをした。
「風子のおねぇちゃんは、先程も述べたとおりもうすぐ結婚します。そして風子は、そんなおねぇちゃんの幸せを願っています」
「……………………」
「そこで風子は考えました。おねぇちゃんを幸せいっぱいしてあげるために、たくさんの人にお祝いしてもらうのです」
「……………………」
「しかし、そのことがおねぇちゃんに伝わってしまっては元も子もありません。そこでお二人さんには、風子のおねぇちゃんが結婚すると言うことを認識に入れてもらいつつ、それがおねぇちゃんに伝わらないようにしていただきたいのです」
風子ちゃんの言うところの意味は、大体理解できた。風子ちゃんはお姉さんをたくさんの人と一緒にお祝いしたいけれど、そのことがお姉さんに伝わってしまっては意味が無い。風子ちゃんがそう言った計画を進めていることを理解してもらいつつ、その計画が外へと漏れないようにしてもらう……こういったところだ。
天野さんは微笑みを浮かべて頷いて、こう返事をした。
「はい。承知いたしました。伊吹さんの計画がうまく進行することを願っています」
「あぅ……真琴も。風子のお姉ちゃんには、絶対にバレないようにする……」
「真琴、貴方の家族にも、この事を伝えておくといいのではないですか?」
「あ、そうだ。名雪おねーちゃんとか、秋子さんとか、あとついでのおまけに祐一とか……ちゃんと言っておかなきゃ」
『澪も同じようにするの』
「はい。皆さん、よろしくお願いします」
最後に風子ちゃんはにっこり笑って、ちょこんと頭を下げた。
それからまたしばらく時間が経って、そろそろ帰る頃合になった。
「……それでは皆さん、そろそろ帰りましょう。あまり夜を更かすと、何かと危険ですから……ぽ」
とりあえず、自分の言った言葉だけで顔を赤らめるのはどうだろうと思った。
「そうだねぇ。あんまり夜遅くなっちゃうと、みんな心配するからねぇ」
「んに。みちるもそろそろ眠くなってきた……」
「真琴も……あうぅ……」
「ほら、真琴。もう少しすれば、自分の家で眠れますから、辛抱ですよ」
「朋也君、ふぅちゃんを一人にすると心配なので、一緒に家まで送っていただけないでしょうか?」
「全然構わないぞ。家も同じ方向にあるしな」
「風子はむしろ、ヘンな人が風子にヘンな感情を抱かないか心配です」
「安心しろ。それだけは絶対にあり得ない」
『澪も一緒に行くから、安心なの』
「さぁーて。うちも帰ろかー。真琴に誘われて来たけど、なかなかおもろかったで。次は観鈴も呼んだらなな」
「神尾さん、それでは例の件、よろしくお願いします」
「任しときー。ばっちり伝えとくで」
全員帰る準備を済ませたところで、遠野さんが再び手をぱんぱんと叩いた。
「……はい。それでは降りましょう……皆さん、慌てず、騒がず、遅れずに、私の後をついてきてください……」
遠野さんがひらひらと旗を振るようにして……というか、実際に旅行で使うような三角旗をひらひら振って、皆を先導して行った。
「……………………」
ちなみに旗には、「遠野美凪ぷれぜんつ・天文観測大会ご一行様」と、妙に達筆な字で書かれていた。
「……ちなみにこの字は、母が書いてくださいました……」
そういうことらしい。
「……皆さん、お疲れ様でした。お楽しみいただけましたでしょうか……?」
集合した校門前で、遠野さんが最後の挨拶をした。
「はい。とても楽しかったです。しかしそれでもやはり、風子は海のお星さまが好みです」
『とっても楽しかったの。また参加したいの』
「なんだかんだで、俺も楽しませてもらったぞ。いろんな話も聞けたしな」
「ぼくもすっごく楽しかったよぉ。遠野さん、本当にありがとうだよぉ」
「えと……もし次があるなら、是非とも参加したいです。その時は、もっとたくさんの人と星を見たいです」
「とても有意義な時間でした。遠野先輩、このようなはからいをしていただき、誠にありがとうございます」
「ふっふーん。真琴も楽しかったわよぅ。祐一に話したら、来なかったこと、きっとすっごく後悔するわよぅ!」
「にゃはは。みちるも楽しかったぞー。こんなにいっぱいの人と一緒に星を見るのなんか、初めてだもん」
「最初はどうかな思とったけど……なかなかいけるもんやな。次も多分来るでー」
みんな、とても楽しかったみたいだ。遠野さんは珍しく満面の笑みを浮かべて、満足そうに頷いた。
「……ありがとうございます。また、次の機会に会いましょう……それでは皆さん、お気をつけて、お帰りください……」
遠野さんの言葉を合図にして、みんなが家路を行き始めた。
「それじゃあポテトぉ、ぼく達も帰ろうねぇ」
「ぴこっ」
僕も佳乃ちゃんと一緒に、聖さんの待つ診療所へ帰る事にした。
「遠野さぁん! 今日は本当にありがとうだよぉ! また一緒に星を見ようねぇ!」
「……はい。霧島さんも、お気をつけて……」
佳乃ちゃんは遠野さんにそうさよならを言って、夜の道を駆け出した。
「よぉし! ポテトぉ、家まで競争だよぉ!」
「ぴっこり!」
早く帰るために、僕たちは競争して帰る事にした。
「……………………」
校門の近くで立っている遠野さんの姿が、どんどん小さくなっていって……
「……………………」
……しばらくもしないうちに、視界から完全に消えた。
………………
…………
……
「……霧島さん……」
「……『あなた』の幸せは……何処にあるのですか……?」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。