「……ぴこ?」
ぼんやりとした気持ちで目が覚めた。何か夢を見ていたような気がしないでもないけど、それは僕が思い出す間もなく、記憶から跡形もなく消えていく。毎朝感じる、ちょっとだけもどかしい感覚だ。
「……う~ん……」
「ぴこぴこ」
僕の隣では、佳乃ちゃんが寝返りを打っていた。意識はまだ眠りの中にあるみたいで、僕が起き出したことにはまったく気付いていないみたいだ。澄み切った青色――それは僕に、大好きな海や空を思い起こさせた――をした髪の毛が、寝汗に濡れて輝いて見える。
やっぱり、女の子みたいだった。
「……………………」
「……………………」
僕は佳乃ちゃんの隣で丸くなって、佳乃ちゃんが起き出すのを待つことにした。時計を見ると……少なくとも、まだ学校に行く時間じゃない。もう少し寝ていても、大丈夫だろう。僕もまだ、はっきり目が覚めたわけじゃない。隣でごろんとしていた方が、気が楽だ。
「……………………」
そのまましばらく、沈黙が続く……
……僕は、そう思っていたのだけれど。
「……ちよ……やく……」
隣から、絞り出すような声が聞こえた。
「……ちへ……いで……」
「……………………」
声の主は、僕の主だった。
「……さあ……く……い……しゃ…」
「……………………」
眠りの中で絞り出した声は、風邪を引いたときのようにかすれていて、所々息が弱くなって途切れ途切れになっていた。のびのびになったテープを、外に放り出されて泥だらけになったテープレコーダーで無理矢理再生した時のような、言葉にしづらい居心地の悪さを感じさせた。
僕が隣で息を潜めている間にも、佳乃ちゃんの繰り言は続く。
「……うした……ないの……?」
「……………………」
声色に、かすかな疑問と悲しみが加わり始めた。僕は佳乃ちゃんの声を聞きながら、佳乃ちゃんは一体どんな夢を見ているのだろうかと心に思った。少なくとも……それが、楽しい夢ではないことは分かるけれど。
「……なたを……かえに……あ……な……」
佳乃ちゃんの腕が、ゆっくりと……「空」へと伸びた。宙を掴もうと伸ばした、その腕は……
「……………………」
……黄金色のバンダナが巻きついた、右腕だった。
「……う~ん……」
「ぴこぴこ」
寝言は、突如として途切れた。次に聞こえてきたのは、僕の聞きなれた、佳乃ちゃんのちょっと間の抜けた声色だった。
「……うにゅぅ~……あ、ポテトぉ……おはようございますだよぉ……」
「ぴこぴこっ」
佳乃ちゃんは半目を開けて、いつもにも増して間延びした口調で、僕におはようの挨拶をしてくれた。佳乃ちゃんが目をごしごしこすりながら、静かに体を起こした。
「ポテトは早起きさんだねぇ」
「ぴっこり」
「うんうん。ぼくも今度からもうちょっと早く起きるねぇ」
目をこすって意識をはっきりさせた佳乃ちゃんが、声の間延び度合いをいつもと同じぐらいにまで戻して、僕の体を撫でてくれた。起きたてで力の入っていない手の感触が、とっても気持ちよかった。
「やっぱりポテトは気持ちいいよぉ」
「ぴっこぴこ」
「ぼくとずっと一緒にいてねぇ」
「ぴっこり」
僕はできるだけ大きく頷いて、佳乃ちゃんの気持ちに応えた。佳乃ちゃんはうれしそうな笑顔を浮かべて、僕の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
ひとしきり朝のふれ合い(こういうことは毎朝やっているのだ)を終えると、佳乃ちゃんが薄い毛布を払って、ベッドからぴょんと降りた。
「それじゃあポテト、下に行ってお姉ちゃんにおはようを言いに行こうねぇ」
「ぴこっ」
僕は佳乃ちゃんに抱かれて、佳乃ちゃんの部屋を出た。
「おはようございまぁす!」
「おはよう佳乃。昨日はよく眠れたか?」
「ばっちりだよぉ。お星さまを見たおかげかなぁ」
「ふふふ。次は私も参加したいところだな」
下へ降りると、聖さんはもうすでに活動を開始していた。いつもの白衣を着て、朝食の支度を着々と整えていく。
「……………………」
時計を見てみると、まだ六時半にもなっていない。率直に言って、かなり早い時間だ。
「もうすぐ支度ができるから、食器を並べておいてくれ」
「了承ぉ!」
一体この人は何時から活動を開始しているんだろう。六時にはもうこれだけの準備を済ませているのだから、少なくとも、五時ぐらいには目が覚めているはずだ。朝の五時……昨日はそれより少し遅いぐらいに起きたけれど、僕にはまだまだ実感の湧かない時間帯だった。
「ああそうだ佳乃。ついでに、向日葵の水やりもすませて来てくれないか?」
「追加で了承ぉ!」
佳乃ちゃんはぱたぱた走って食卓に行き、瞬く間にすべての食器を並べてしまうと、そのままの勢いで外へと飛び出した。
「水やり部隊、しゅっつどぉ~!」
外から、すさまじく元気な声が聞こえてきた。近所の人が聞いたら、みんなまとめて起きだしてきそうな、でっかい声だった。
「ふふっ。やはり、佳乃はああした元気な姿が一番似合うな」
僕は聖さんの言葉に、心から同意した。
佳乃ちゃんには、いつまでも元気な姿を見せてもらいたかった。
「私にもあんな時代があったものだったな……」
それは、あんまり想像できなかった。
「ごちそうさまでしたぁ!」
「お粗末様。佳乃、今日は飼育当番の日だったな?」
「そうだよぉ。ピョンタもモコモコもお腹を空かせちゃってるから、早く行ってあげないとねぇ」
佳乃ちゃんは朝ごはんを綺麗に平らげると、冷たい麦茶をごくごくと一気に飲み干した。聖さんは新聞を読みながら、ゆっくり朝食を取っている。
「もう行くのか?」
「うん。善は急げだからねぇ」
佳乃ちゃんは空になったコップをことんと置くと、すっくと立ち上がって体を伸ばした。もう出かけるみたいだ。僕も準備をしなきゃね。
「そうか。行く時はくれぐれも気をつけて行くんだぞ。最近、女の子を狙った悪質な犯罪が増えてきているらしいからな」
「むむむーっ! お姉ちゃぁん! ぼくはちゃんとした男の子だよぉ!」
「いや、佳乃はそこいらの女の子よりもずっと可愛らしいぞ。何なら、私のお下がりの服を着てみるといい。絶対に似合うはずだからな。私が保証する」
「えーっ?! そんなの着ちゃったら、ぼく余計に女の子に見えちゃうよぉ……」
佳乃ちゃんは困ったような怒ったような表情を浮かべて、食卓を後にした。聖さんは佳乃ちゃんを見送ってから、再び新聞へと視線を戻した。朝からお互いに冗談を言い合う、楽しい関係なんだなあと、ぼくは思った。
「……しかし」
「ぴこ?」
「ほんの一度で構わないから、実際に女物の服に袖を通した佳乃の姿を見てみたいものだな……」
僕の予想に大幅に反し、聖さんはどうやら本気(マジ)みたいだった。
「それじゃあ、行ってきまぁす!」
「ああ。あまり遅くならないようにな」
佳乃ちゃんは聖さんといつもの挨拶を交わして、元気よく診療所の外へ出た。
「うわぁ、今日もあっついよぉ」
「ぴっこり」
外は相変わらずの暑さで、佳乃ちゃんは思わず目を半分ぐらいつむった。それでも、その表情は明るかった。純粋に、この夏と言う季節を楽しんでいるみたいだった。
「お日さまさんさんだねぇ」
「ぴこぴこっ」
「うんうん。やっぱり、夏はこうじゃなきゃねぇ」
それは僕に、夏の強い日差しを全身に受けてたくましく育つ、大輪の花を咲かせた向日葵を思わせた。そう言えば佳乃ちゃんと聖さんも、診療所の裏手で向日葵を育てていたっけ。
「それじゃあポテト、学校に向かってでっぱつしんこう~」
「ぴこぴこ~」
太陽に向かって腕を大きく振り上げた佳乃ちゃんに合わせて、僕も後ろについて歩き始めた。
「とうつき~」
「ぴっこー」
学校まではあっという間だった。佳乃ちゃんの元気なペースに合わせて歩いていたら、そこはもう学校だった。ひょっとすると、佳乃ちゃんに合わせて早足で歩いているうちに、僕の足も早くなっちゃったのかも知れない。
「それじゃあ早速、任務開始だよぉ。深く静かに潜行するんだよぉ」
「ぴこっ」
僕は佳乃ちゃんと一緒に校門をくぐって、学校の中へ入った。
そのままフェンス沿いに歩いて、二日前にも来た、飼育用の小さな小屋の前までやってきた。グラウンドでは朝から運動部の子達が、暑い中懸命に体を動かしている。
「大丈夫かなぁ?」
佳乃ちゃんが小屋の中を覗き込んで、ピョンタとモコモコの様子を確認する。
「うんうん。みんな元気だねぇ。それじゃあみんな、今からご飯を用意するからねぇ。もうちょっとの辛抱だよぉ」
こくこくと頷いて全員に問題が無いことを確認すると、佳乃ちゃんがいそいそと準備を始めた。僕はその間近くの木陰に入って、佳乃ちゃんがすべての作業を終えるのを待つことにした。
「わっ、モコモコっ、足に触っちゃだめだよぉっ」
「ひぇっ、くすぐったいよぉ」
賑やかに声を上げながら、佳乃ちゃんはお仕事を済ませた。
「ふぅ~。今日は大変だったよぉ。ピョンタもモコモコも元気いっぱいだねぇ。よかったよかった」
「ぴっこり」
汗をびっしょりかいて、佳乃ちゃんが小屋の中から出てきた。お仕事はこれでおしまいみたいだ。
「それじゃあポテト、お家に帰ろうねぇ」
「ぴこぴこっ」
僕は頷いて、佳乃ちゃんの後について歩き出そうとした……
ちょうど、その時だった。
僕を覆うようにして、大きな影が現れた。
……それも、二つほど。
「いぬーいぬー」
「こら名雪っ、どこへ行くんだっ」
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。