「これはこれは……美坂さん、どうかしたのか?」
「えっと、お姉ちゃんが風邪を引いちゃったんです」
僕は床に寝そべったまま、入り口の方から聞こえてくる会話にそっと聞き耳を立てていた。どうも、風邪を引いちゃった人が来たみたいだ。妹さんがお姉さんを連れてきたのかな。
「おや、お姉さんの方が風邪とは……珍しいな。とにかく診察しよう。こちらへいらしてください」
「すみませんです」
聖さんがこちらに向かって歩いてくるのに合わせて、二人の女の子が続けて姿を見せた。
「お姉ちゃん、大丈夫ですか?」
「どうにもね……頭に来たみたいだわ。歩けないほどじゃないけど、あんまりいい気分じゃないわね……」
だんだんと近づいてくる二つの声のうち、片方には聞き覚えがあった。えっと……ああ、そうだ。確か一昨日に学校へ行った時、佳乃ちゃんに話しかけた女の子の声だ。ただ、その声は僕が聞いたときよりも幾分覇気が無くて、心なしか沈んだ調子だった。
僕は二人の後ろにさりげなく付いて、ドアが開きっぱなしの診察室へと入った。
「ふむ。では美坂さん、こちらへ掛けて」
「はい」
診察室に入ると、すでに聖さんが準備を整えて二人を待ち構えていた。こうして仕事をしているときの聖さんは、いつ見ても真面目で、普段佳乃ちゃんの前で見せているちょっとふざけた様子は、少しも見受けられない。
「どこが痛みます?」
「そうね……少し、頭の方が……」
「なるほど……では、腹痛や咳は?」
「そっちはほとんど……いつもに比べて、少し食欲が無い程度かしらね……」
聖さんは話を聞きながら、カルテを軽快な手つきで埋めていく。症状を聞く限りでは、そんなに重い症状じゃなさそうだ。
「軽い夏風邪だろう。水分と栄養を十分取って、二、三日家でゆっくり休めば問題ないはずだ」
「そうですか……はぁ。夏風邪なんて、あたしには縁の無いものだと思ってたんだけどね……」
「最近ちょっと忙しかったから、調子を崩しちゃったんです」
「そうね……今日からは、少し休むことにするわ。心配掛けて悪いわね、栞」
「気にしちゃだめです。お姉ちゃんは一人しかいないんですから、元気でいてくれないと心配なんです」
お姉さんの方……香里さんの隣に、妹さんの方……栞ちゃんが寄り添って、気遣うように声を掛けている。見ていて、なんだかとっても穏やかな気持ちになった。二人はきっと、とても仲のいい姉妹なんだろう。
「ふむ……しかし、お姉さんの方が風邪を引いてしまうとは……正直、少し驚いているぞ」
「ヘンなんですよ。体調を崩す時は、決まって私が体を悪くしてしまうんですけど……」
「今回に限っては、栞は体調万全で、あたしが夏風邪でぐだぐだになっちゃってるのよね……」
聖先生は少し口調を崩して、雑談をする体勢に入った。診察を終えた後の聖さんは、患者さんの状態にもよるけど、雑談ができそうなぐらいの健康状態なら、こうしてとりとめもない雑談をして、患者さんの緊張をほぐすようにしている。地域密着型の、田舎の診療所だからこそできることだ。
「そうか……体調を崩してしまったことで、何か思い当たる節は?」
「それが、全然無いんです。昨日までは本当に何も悪いところが無かったのに、朝起きてみたら頭痛がひどくて……栞にここまで連れて来てもらったの」
「お姉ちゃん、朝はベッドから起き上がれないぐらいで、とても心配だったんです」
香里さんは何の予兆も無く、いきなり風邪を引いてしまったらしい。幸い今は落ち着いているみたいだけれども、朝は今よりもずっとひどい状態だったみたいだ。
「もし次にちょっとでも体が悪いと思ったら、無理せずに言ってほしいです。一緒に病院へ行きましょう」
「栞……ごめんね。あたし、あなたに余計な心配をさせたくなくて……」
「それはお姉ちゃんの悪いところです。私だってお姉ちゃんが心配です。心配する時は、お互い様です」
「……栞……」
「……………………」
香里さんと栞ちゃんの間に、微妙に近づきがたい空気が流れ出した。聖さんはそれを、どこか満足げな面持ちで見ている。
「ふむ……やはり、姉妹や姉弟とはかくあるべきだな。美坂さん、やはり妹というのは良いだろう?」
「ええ、言うまでもない事よ……聖先生も?」
「もちろんだとも。佳乃は私の大切な……大切な弟だ。何物にも代えがたい、な」
「……さすがね。でも、栞を愛する心じゃ、あたしは負ける気がしないわ」
「うむ。それでこそ姉だ。姉の鑑といっても良いぞ」
「ふふふ……」
「ふふふ……」
「えっと、心なしかお姉ちゃんと先生の視線に危険なものを感じてしまうんですけど、どうしてでしょうか……?」
だんだんと危ない方向に傾きだした香里さんと聖さんの視線にちょっと怯えた様子を見せて、栞ちゃんが体を後ろにのけぞらせた……と、その時。
「わ、こんなところにわた飴がありますー」
「ぴこぴこー」
僕と栞ちゃんの目が合った。
「あ、わた飴だと思ってたら声が。えっと、これは先生が飼ってらっしゃるんですか?」
「そうだ。結構前から診療所に住み着いてな。面倒は佳乃が見ているぞ」
「そうなんですかー……ちょっと、抱いてみてもいいですか?」
「ああ。構わないぞ」
聖さんの許可をもらって、栞ちゃんが僕に手を伸ばした。僕はそれに乗っかるようにして、栞ちゃんの腕の中へ収まる。
「ふわふわのもこもこですー」
「ぴこー」
「不思議ね……これ、犬なの?」
「一応は犬らしい。鳴き声からはとても想像できないと思うがな」
「ぴっこり」
僕が一声なくと、栞ちゃんと香里さんの不思議そうな視線が僕に注がれるのが分かった。やっぱり、「ぴこぴこ」なんて鳴く犬は、僕ぐらいしかいないのかなあ。でも少なくとも、僕のお父さんやお母さんもこういう風に鳴かなきゃ、僕だけ「ぴこぴこ」って鳴くのはおかしいと思うんだけど……
「なんだか、いつまでも抱いてたくなるような感触です」
「それは私も分かる。そのもこもこの毛が、なんとも言えず気持ちいいんだ」
「うちは動物が飼えないから実感湧かないけど……もし何か飼うとしたら、こんな犬がいいかもしれないわね」
二人に頭を撫でられながら、僕はしばらく、栞ちゃんの腕の中で収まっていた。
「それじゃ、くれぐれも気をつけて。休養を十分取るように」
「ありがとうございます。栞、行きましょ」
「わ、お姉ちゃん、待ってください」
それからしばらくして、姉妹は家へ帰ることになった。僕は診療所の入り口に立って、二人のお見送りをすることにした。
「お姉ちゃん、家のことは私が全部やりますから、部屋でゆっくり休んでくださいね」
「じゃあ今日はお言葉に甘えて、そうさせてもらうわ」
「はいっ。それじゃ、うちに帰りましょう」
二人は診療所のドアを開けて、夏の陽射しが照りつける外へと一歩を踏み出した。
「それにしても、今年の暑さはちょっと異常ね……」
「まったくです。こんなに暑いと、アイスが溶けちゃいます」
「そう考えると、行きに見かけたあの人って、相当暑い格好をしてたんじゃないかしらね」
何気ない言葉を交わしながら、診療所から去っていく――
――その時だった。
栞ちゃんが、気になる一言を言った。
「そうですよねー。真っ黒い長袖の服なんて、考えただけで汗が出てきちゃいます」
「海辺で潮風に当たれるとは言え、あれは厳しいわね……どうしてあんな格好してたのかしら?」
「むー。それに、あんな男の人見たことないです。ちょっと、かっこよかったですけど」
「ダメよ栞。そんなこと言ってたら、本当に結ばれたい人と結ばれなくなっちゃうわよ」
「えぅーっ……ちょっと言ってみただけです」
僕はそこまで聞くと、閉じかけていた診療所のドアを前足で止めて、わずかに残ったスペースに、小さな体をねじ込んだ。
目的はもちろん、一つしかない。
「……ぴこ」
目指すは、海だ。
(ざざーん)
(ざぁーん)
またしても訪れた海。かもめの鳴く声、砂浜に波が打ち寄せる音、そして……潮風の香り。
「ぴこぉ……」
どこまでも広がる雄大な青空と、その青空に浮かぶ大きな白い雲。そこへ夏の太陽が加わって、見事な風景を描き出している。
「ぴこぴこ……」
けれど、今日の僕は海や空を楽しみに来たわけじゃない。もちろん、こうやって歩きながらそれらを見ているのはとても楽しい事だけど、僕にはそれよりも、ずっとずっと気になることがある。
海岸線沿いを歩いて、僕はその姿を探した。
「ぴこ……」
すぐに見つかると思っていたけれど、案外簡単には見つからなかった。容赦なく照りつける夏の太陽をちょっと恨めしく思いながら、僕は堤防を歩き続けた。
「……………………」
勢い勇んで出てきただけに、姿が簡単に見つからないとなると、どうしても気が逸ってしまう。もしかして、もうどこかへ出かけてしまったのだろうか。今日の分の「仕事」へと、出かけてしまったのだろうか。
「……………………」
今を逃してしまえば、僕はもう二度と、あの人には会えないような気がした。昨日は観鈴ちゃんと長森さんがいたから、どうしても直接何かをすることはできなかった。僕はあの人と直接会って……それから何をするのかは考えていないけど、とにかく、あの人に直接会いたかった。
……できれば、一対一で。
「……………………」
堤防の上を急ぎ足で歩く僕に、こんな声が飛び込んできた。僕の後ろからだ。
「燈弥くんっ! それ、ホントなの?!」
「ホントだって! 弥生と幸也が、武田商店の前にいたって言ってたんだよ!」
「ほらっ、観岬ちゃんっ! 急いで急いで! 人形劇、終わっちゃいますっ」
「わわわっ、汀ちゃん、里美ちゃん、待ってよっ!」
……人形劇。
僕はその言葉を聞いて、体の奥から力が再び沸き起こってくる気がした。
脇を走る子供たちを追いかけて、僕も走り出した。
……そして。
「うわぁー! 逆立ちして歩いてる!」
「こっちに来るぞー!」
「すごいすごーい!」
歓声が、僕の耳へと飛び込んでくる。
「まだだ。ここから……それっ!」
「飛んだーっ!」
「高ぇーっ!」
大空へと舞い上がる、小さな人形。
そして……
「そこの子っ! 今から人形が落ちてくる! 君の手で、人形を救ってやってくれ!」
「わ、私がですか?!」
「弥生ちゃんっ! ふぁいとっ!」
「頑張れーっ! 人形を救ってやれーっ!」
聞こえてくる、あの、心を震わせるようなやり取り――
「……取った!」
「おめでとう! みんな、この子に盛大な拍手を!」
沸き起こる拍手。乱れ飛ぶ歓声。その、中央に――
「……ぴこぉー……」
――僕の探していた、「黒い人」の姿が見えた。
「……………………」
僕は、その場から人がいなくなるまで、じっと物陰に隠れていた。
子供たちが一人、また一人と散っていき……最後まで残っていた女の子も、一言「ありがとう」とお礼を言って、その場を後にした。
「……………………」
そして、その場に残されたのは……
「……さて。こんなところか……」
……「黒い人」、ただ一人。
周りには、もう誰も人はいない。
今僕が出て行けば、間違いなく、あの人の注意は僕へと集中する。
「……………………」
僕が上手くやれば……この人と佳乃ちゃんを、もう一度引き合わせることだってできる。
佳乃ちゃんがもう一度、この人の魔法を見る事だってできるんだ。
……やるしかない。
……やるなら、今しかない。
……今を逃せば……もう、こんな機会はない。
僕は、意を決した。
「ぴこぴこっ」
相手の耳に届くように、いつもよりちょっと大きな声で鳴きながら、僕は「黒い人」の前へと躍り出た。
僕に気付いてくれることに、すべての願いを託して。
「……………………」
……そして。
「……犬、なのか……?」
それが……僕に向けて「黒い人」が発した、記念すべき一番最初の言葉だった。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。